Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203



こんにちは。11月24日(日)東京流通センター第一展示場にて開催される第二十九回文学フリマ東京に参加させていただくこれです。全四冊を頒布予定です。入稿を済ませ、現在POPなどを鋭意準備中。オ-36「胡麻ドレッシングは裏切らない」を何卒よろしくお願いします。


そんな最中の今回のブログは映画の感想になります。今回観た映画は『決算!忠臣蔵』。『忠臣蔵』と名のつくものを一個も見たことない私ですが、今回意を決して観に行ってきました。まあ結果は散々たるものでしたけどね。年齢層が高く、若者は私だけというありさまでしたよ。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください。




※ここからの内容は映画のネタバレを少し含みます。ご注意ください。











えー、まず感想を始めるにあたってお知らせがあります。ここまでイマイチ決め手に欠けていた2019年ワースト映画争いが終結しました。2019年の個人的ワースト映画は『決算!忠臣蔵』に決定です。いや、本当に全く期待はしていなかったんですけど、それでももしかしたら、もしかしたら面白いかもしれないという微かな望みをかけて観てきたんですが、予想以上の酷さに映画が終わったときに頭を抱えている私がいました。いや、ここまでとは……。


そもそも、私は『ゾンビランド:ダブルタップ』が観たかったんですよ。明日観ますけど。でも、仕事終わりのちょうどいい時間帯にはやってなくて。で、職場の同僚がこの映画を勧めてきたのを思い出したんですね。その人って『ぐるナイ』とか『チコちゃん』みたいなバラエティ番組の話ばっかりしている人で。クッソ面白くないダジャレとかもよく言うんですけど、映画館には全く行かない、それこそ『天気の子』すら見ないような人なんです。


で、私は雑談が苦手であまり人と喋れないような人間なんですけど、それじゃいかんなとは日々感じていて。その人と共通の話題を持ちたいと思って観たんですが、まあ酷いこと酷いこと。観たことを後悔しました。やっぱり人と話を合わせるために観る映画って、あまり面白いものではないですよね。義務感を感じてしまう。これからは自分が観たいものを最優先にして観よっと。信頼できるのはツイッターの映画ファンだけやで。


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話が逸れてしまいました。ここからは映画の内容の話をしたいと思います。まあ批判ばっかりになるんんですが。あまりネガキャンはしたくないけど、この映画に限ってはせざるを得ません。まず、最初に画面に映った吉本興業のロゴでもう嫌な感じはビンビンにしたんですね。今年色々問題がありましたし、心証はかなり悪くなっていました。そしてその悪い予感は見事的中してしまいました。しなくていいのに。


もう最初に、俳優さんの演技が過剰なんですよ。主演の堤真一さんをはじめ、とにかく厳しい顔で声を張り上げて、迫真の演技に見せかける。分かりやすさを一番に置いているなという感じですが、それがシンプルにうるさいんですよ。休まる時間が全然なくて、観ていて悪い意味で疲れるんです。特に荒川良々さんの過剰さと言ったらなかったです。声の大きさが完全に舞台用なんですよね。もっと映画用の演じ方もできる人のはずなのに……。ここは俳優さんのせいじゃなくて、演出の方向性が悪いですね。


あと、気になったのがモブのガヤです。こちらも音響設計バグってんじゃないの?というくらいにうるさいうるさい。この映画って吉本制作の映画ですし、たぶん売れない芸人も少なからずエキストラとして出ていたと思うんですね。で、それぞれが爪痕を残そうとめいめいに騒ぐ。それがとっても耳障りでした。あと音楽もポップな吹奏楽が全く映画のカラーに合ってませんでしたし、音響は間違いなく今年観た映画でもワーストかなと思います。


あとは芸人さんの多数起用ですかね。吉本ならではのネック。慣れている木村祐一さんや板尾創路さんはまだいいですよ。ただ、上島竜兵さんはそのまま服脱いで熱湯風呂にでも入りそうな感じが拭えませんし、ぎょろ目を瞬かせる西川きよしさんには、思わず失笑してしまうほど。「小さなことからコツコツと」は時代劇なのにそれ言っちゃうんだと辟易してしまいました。あふれ出るバラエティ番組感が抑えきれていません。


その中でも一番きつかったのが、岡村隆史さんですね。とにかく演技の幅が狭い。全体的にバラエティ番組での普段の喋り方のトーンを落としたものでしかない。悪い意味でなにをやらせても岡村隆史になってしまう感はありました。あまりこういうことは言いたくないですが、出演しているシーンの強度は他のシーンのそれと比べて明らかに劣っています。


ただ、これも岡村さんが完全に悪いわけではないんですよ。人には適材適所という言葉があって。岡村さんが最も輝けるのはバラエティ番組で、最もそぐわないのが映画だというだけです。他にも輝けない場所にいさせられた方が多くて(特に芸人の方は)、だから映画としての魅力はそこまでないのかなという印象でした。


さらに、余計性質が悪いのがこの映画って有名な俳優さんも結構出演していることなんですよね。主演の堤真一さんをはじめ、石原さとみさん、濱田岳さん、滝藤賢一さん、阿部サダヲさん、さらに『蜜蜂と遠雷』で鮮烈なデビューを飾った鈴鹿央士さんも実は出演しています。よく引っ張ってこれたなと言う面々です。で、この本職の俳優さんたち、実に真っ当に演技しているんですよね。ちゃんと仕事をしているんですよね。それがなんか凄い申し訳ないなとは正直思います。芸人さんの出演を抑えて、この面々でもっとオーソドックスに作ってたら、それなりに面白い映画になっていたのではないでしょうか。もったいない。


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また、ストーリーも全然面白くない。『忠臣蔵』というのは討ち入りがメインのストーリーですよね。メインの面白さは、討ち入りの様子やそこに至るまでの葛藤や衝突みたいなところにあると、何も見ていない私でさえ思います。でも、この映画は討ち入りを決定するまでの紆余曲折の方をどちらかというと長く取っているんですよね。そこで独自性を出したかったのかなとは推察できますが、その試みは完全に失敗しているように見受けられました。


なぜかというと討ち入りをすることは史実によって決まっているから。それに予告編でも「討ち入りにお金がかかる」ことをメインに打ち出していました。となると、討ち入りを決行するまでの紆余曲折が描かれるのかなと構えていたら全然違う。1時間経っても全然討ち入りが決まらない藩の残務整理とか討ち入りをするまでの二転三転とか、正直どうでもいいからはよ討ち入れやと冷めた目線で見ている自分がいました。正直退屈以外の何物でもなく、早く終わらないかなと願っている自分がいました。遊郭で大石蔵之介が遊んでいるところとか、本当に何を見せられているんだろうと思って帰りたくなりましたよ。こんなこと初めてです。


でも、討ち入りを決意してからはようやくちょっとですが、面白くなってくるんですよね。祭りは始まる前が一番楽しいに通ずる準備の面白さみたいなものがあって。でも、それは『忠臣蔵』というフォーマットの面白さであって、この映画独自の面白さではないと思います。


もうこの際だから言っておきますけど、私が映画を観るときに一番重視しているのってストーリーなので。ストーリーが面白くない映画は、私はあまり好きじゃないです。たとえストーリーがアレでも、俳優さんの魅力で押し切るのも一つの方法だとは思いますが、この映画にはそれもない。過剰な演技に笑っているお客さんも少しはいましたけど、それはその俳優さんが面白いのであって、この映画自体が面白いわけじゃないからなというのは一つ言っておきたいです。


あとは、やっぱり討ち入りのシーンがなかったのが嫌でしたね。そういう映画ではないと分かっていても、『忠臣蔵』の最大の華をカットして一体どうしようというのでしょうか。討ち入るの討ち入らないのグダグダやっている暇があったら、ナレーションカットするんじゃなくて、20分でいいから討ち入りのシーン見せたらんかいと。そのシーンさえあれば、もっと好印象で終わっていた気がします。ダメなのは変わらないですけど。



まだまだ、批判は続きますよ。私がこの映画を受け付けなかった最大の理由。それはこの映画が、映画というよりもバラエティ番組に近かったからです。まず、「この映画は全てを日本円で示しますよー」というナレーションに代表されるように、この映画は分かりやすさが第一。逐次いくらというテロップを出し、いくつかの台詞は文字で強調。後半に至っては、画面の端に常に残高が表示されるという小学生にでも分かる親切設計です。


それに、演出も過剰気味で。いろいろきつかったシーンは枚挙に暇がないんですが、特にきつかったのが笛の音と共に堤真一さんの耳から湯気が吹き出すシーンですね。もう素人のSN〇Wかよ、TikT〇kかよと見てられず、頭を抱えてしまうほどでした。この映画って完全にバラエティ番組の方法論で作られているんですよね。それが嫌で嫌で。


私が思うに、バラエティ番組と映画の違いって強度の種類の違いだと思うんですよね。別にバラエティ番組に強度がないと言っているわけではなくて。世の中緩い映画もいっぱいありますし。でも、バラエティ番組って多くの人が、ご飯を食べながら、会話しながら、スマホを見ながら、いわゆるながら見をしていると思うんですよ。製作側もそれを想定して作っているはずで、だからこそリアクションを過剰にしたり、テロップを逐次出して、見られている時間が少ない中で印象に残るような作りになっている印象があります


でも、映画は違うんですよ。映画館で映画を観るときには、私たちは基本的にずっとスクリーンを見ているわけじゃないですか。ジュースを飲もうとポップコーンを食べていようとメインはスクリーンに映る映像なはずです。そこで、上記のようなバラエティ番組の方法論を使われてしまうと正直クドいんですよ。情報過多なんですよ。疲れるんですよ。私も観ていて疲れましたし。


だから、映画って二時間集中を持たせるために、どっかで情報量を落として、いわば分かりにくいシーンを作る必要があるんですけど、二時間ずっとバラエティ番組のこの映画にはそれがない。緩急が無くてずっと急ばっかり。普段何気なく見ている映画がどれだけ上手く緩急を作れているのかを実感しましたね。あぁ静かな映画観たい。


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以上、ここまでずっと批判ばっかしてきたんですけど、ただ私はこういう映画もあってはいいと思ってはいるんですよね。私と同じ列にいた妙齢の女性は、私が頭を抱える一方で、満足げな表情を見せていましたし、それこそ冒頭の職場の同僚はこの映画を『面白かった』ということでしょう。この映画を面白いと感じる人は確かに存在しているはずで、それを否定することは私にはできないんですよね。


なんか普段からもっといろんな人が映画館に足を運んでほしいなと私は感じていて。だって、新規顧客を開拓できなければ、映画業界はこのまま先細っていく一方でしょう。で、インディーズから徐々に映画は減っていき、その波はメジャーにも訪れるかもしれない。それで困るのは映画ファンでしょう。だから、もう映画館に足を運んでくれればそれでよし、みたいな考えが私にはあるんですね。そう言う意味では、芸人さんを多数起用したこの映画は、普段バラエティ番組しか見ない人にとっても吸引力があるはずで、それをないがしろにするのはあまり良くないなーと思います。ミラクルが起こって、この映画から映画を多く見始める人も一人はいるかもしれないですし。


でも、この映画の面白さってバラエティ番組の面白さであって、映画の面白さではないんですね。
同僚は言うことでしょう。「『決算!忠臣蔵』面白かった」と。
私は思うことでしょう。「その面白さは映画の面白さじゃないんだぞ。勘違いしてもらっちゃ困る」と。
しかし、せっかく映画に興味を持ち始めたこの人に、それを萎ませるようなことは、極力言いたくない。
となると、私も「そうですね、面白かったですね」と答えることでしょう。

何が楽しいんだ、この会話。


周囲に左右されない「確固たる自分」がほしいものです。いくら周りが騒いでようと、悪い予感がする映画をスルーできる自分が。そんなことを『決算!忠臣蔵』を観て思いました。


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以上で感想は終了となります。『決算!忠臣蔵』、こんなこと初めて言いますが、別に観なくてもいい映画です。オススメはしませんし、どうしても観るのなら自己責任でお願いします。いや、本当に。



お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。11月24日(日)東京流通センター第一展示場で開催される第二十九回文学フリマ東京にさんかさせていただくこれです。ただいま3冊入稿完了。もう1冊入稿しようと頑張り中です。いけるところまで行きたい。


でも、そんななかどうしても観たい映画があったので観に行ってきました。それは『殺さない彼と死なない彼女』。世紀末さんの4コマ漫画が原作のこの映画。予告の時点で惹かれるものを感じ、観た結果、大正解でした。泣きました。ありがとうございます...。ありがとうございます…。



では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・はじめに
・青春は死と背中合せ
・アイデンティティの崩壊と与えられる承認
・「未来の話をしようぜ」





―あらすじ―

何にも興味が持てず、退屈な高校生活を送っていた少年・小坂(間宮祥太朗)は、リストカット常習者で”死にたがり”の少女・鹿野(桜井日奈子)に出会う。それまで周囲から孤立していた二人は、《ハチの埋葬》をきっかけに同じ時間をともに過ごすようになる。不器用なやり取りを繰り返しながらも、自分を受け入れ、そばに寄り添ってくれるあたたかな存在――そんな相手との出会いは、互いの心の傷をいやし、二人は前を向いて歩み出していくのだが……。

(映画『殺さない彼と死なない彼女』公式サイトより引用)


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・はじめに


映画を観ていてよく不満に思うことがあるんですよ。「こいつら(登場人物)生きていることに無自覚だな」って。自分が生きていることを、さも当たり前のように享受していて、いつか終わるなんてことは全く考えていない。有り体な言い方をすれば、死の匂いがしないんですよ。そういう暗い側面を持たない映画が俗に薄っぺらいと言われるのではないかなと。まぁこれは作品によりけりなんですけどね。でも、コメディならともかくシリアスな映画で死の匂いがしないと、私には全然響かないんですよね。


なぜかと言うと、私が毎日「もう死んだほうがいいな」と思っているからなんですよね。給料は安いし、交際経験はないし、そしてその責任は全て努力不足の私にある。自分が行動を起こさなければ何も変わらないと分かっているのに、何も行動を起こさない自分が嫌で嫌で。「このまま状況が変わらないのならもういつ死んでも同じだな」ぐらいに思っているんですよね。


でも、どうやら他人はそうではないらしくて。多くの人が他人と喋っていて、笑いあっている。彼ら彼女らは、自分のことを「死んだほうがいい」なんて思っていないように見えるんですよね。そして、それは一部の映画のキャラクターも同じ。正直、もっと悩めよ!って思うんですよね。夢だの理想だの愛だの恋だのそんな高次なことで悩むんじゃなくて、「自分は生きていていいのだろうか」というもっと根本的なことで悩めよ!!とどうしても思ってしまうんです。低次の悩みを抱えていない、死の匂いがしない人との会話にも、映画にも私が心動かされることはあまりありません。


しかし、『殺さない彼と死なない彼女』は違いますそこには常に死の匂いが漂っています。それは、彼ら彼女らが、自己の存在について悩みまくる時期である10代であることもそうですし、また彼ら彼女らにとって死というものが、他の学生よりも間近であることもそうでしょう。さらに、自然光がふんだんに取り込まれる画面は、どこか天に召されることを思い起こさせますし、ぼんやりとした映像は、まるで薄れゆく意識の中で見ているようです。これらが全編を通して、死の匂いをより醸し出しているように感じました。



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・青春は死と背中合せ


彼ら彼女らが過ごす10代は、大人から見れば「青春」と呼ばれるものでしょう。青春に関する有名な言葉として、このような言葉があります。


青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない(坂口安吾)


当たり前ですが、青春とは楽しいことばかりではありません。学校という狭い世界特有の人間関係。理想の自分になれない苦しみ。進路決定を急かされる圧迫感に、ハードな受験勉強。後になって「あの頃はよかった」などと思っていても、当時の自分はそのときの自分や周囲の状況をいいものだとはあまり思わないでしょう。それは陰キャでもリア充でも同じ。陰キャには陰キャの苦労が、リア充にはリア充の苦労が、そしてそのどちらでもない人にもまた違った苦労が、青春にはあると私は考えています。


そして、10代というのは、これも当然ですが、20代30代に比べると人生経験は少ないです。大人ならある問題に直面したとしても、今まで同じ問題を通ってきたと、過去の経験を思い出して対応できるかもしれません。いわば引き出しや選択肢を多く持っています。しかし、10代にはその開けるべき引き出しがまだ少ない。よって、自らが経験したことのない問題に直面したときに、参照すべき経験がないため、悩んでしまいます。


そこで浮上するのが「死」という選択肢です。赤ちゃんのときには、ただ思いのままに泣くことしかできなかったのに、やがて泣いてはいけない場面で泣いてしまえば叱られ、「泣かない」という選択肢ができます。このように、選択肢は経験によって増やされるものだとするならば、経験の少ない10代は選択肢が少なくて当たり前。しかし、「死」という選択肢は生まれたときから存在しており、全体においての割合は大きく、逼迫した存在となって彼ら彼女らの前に現れます。これが「青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない」という言葉に表れているのではないでしょうか。つまり、青春において「死にたい」という感情は何ら特別なものではない。そう私は考えます。


この映画の中で、「死にたい彼女」鹿野ななはリストカットをしていました。彼女の手首の傷を見て「メンヘラ」と片付けることは簡単です。しかし、「死にたい」という感情は、こと10代においては普遍的な感情のように私には思えます。月並みな表現ですが、「死にたい」という言葉の後には「だけど、生きたい」という言葉が隠されています


つまりは、彼女も生きたいんだと思います。あのリストカットは生きるための行為なのです。これはある本に書いてあったことなのですが、「リストカットをする人は、心に得体の知れない痛みを抱えている。痛みの形は分からない。でも、手首を切ると、流れる血を見て『ああ、ここが痛いんだ』と分かって安心する。心の痛みを体の痛みに置き換えている」らしいんですよね。要するに、リストカットは痛みを顕在化させることで、心の痛みに殺されないようにする行為ということです。この映画では、もう一人リストカットをしていましたが、その人もきっと得体の知れない痛みを抱えていたのではないでしょうか。


さらに、彼ら彼女らはかつて葬式を経験しています。しかも、同じ高校の生徒の葬式です。同年代の生徒が死んだということは、自分も死ぬんだという事実を彼ら彼女らに容赦なく突き付けたのではないでしょうか。ただでさえ「死と背中合せ」の時期に、彼ら彼女らはより死を身近に感じていた。そこからくる切迫感のようなものは、メインどころの6人はおろか、モブの生徒まで全員に感じました。あの高校全体に、校舎やら校庭やらに死の匂いが漂っていて、私はそこがたまらなく好きでしたね。




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・アイデンティティの崩壊と与えられる承認


例えば、自らを可愛いと信じて疑わない堀田きゃぴ子。彼女は世界中の誰からも愛されたいと思っています。そのために、誰に対しても思わせぶりな態度を取るので、少しイラつくところもありますが、ただ彼女には彼女なりの思いがある。自分を可愛いと思うことで「誰からも愛される自分」「可愛い自分」というアイデンティティを確立しようとしていたのでしょう。そうすることで自分を他ではない自分だと理解するために。堀田真由さんのぶりっ子演技にも説得力がありました。


例えば、叶わない恋をしていた大和撫子。11回好きと言っても、憧れの男子・宮定八千代は彼女になびくことはありません。しかし、彼女にとってはそれでいいのです。「叶わない恋をする自分」というアイデンティティを確立するためには。また、八千代も「好意を持ってくれる女子になびかない自分」というアイデンティティを保つためには、応じるわけにはいきません。現実ではなかなか聞けないような演劇調のセリフをガンガン繰り出す二人は自分に酔っているようでした。撫子役の箭内夢菜さんの夢見る乙女感も、八千代役のゆうたろうさんの触ったら壊れてしまいそうな儚さもたまりませんでした。


例えば、「死にたい彼女」鹿野なな。彼女もまた「死にたいと思っている自分」を演じていたようです。死ぬ気もないのに「死にたい死にたい」と言い続ける。リストカットの傷も長そでから容易に覗いていますし、周囲に「彼女は死にたいんだ」というイメージを抱かせていました。演じていたはずなのに、いつの間にか自分のアイデンティティ=「死にたい」になってしまって、もう戻れないところまで来ていてしまったように私には思えます。それを裏付けるかのような桜井日奈子さんの不機嫌な目線が良かったですね。イメージとは違うのでびっくりしました。


しかし、そんな彼ら彼女らのアイデンティティは、物語の中で崩されていきます。


例えば、きゃぴ子は付き合っていた大学生に「きゃぴ子は可愛いけど、可愛いだけだよ」という言葉とともに振られてしまいます。撫子と八千代も、まるで青春映画のような胸がうずくようなデートをした後、八千代が逆に撫子のことを「好きだ」と告白します。ここで3人のアイデンティティは崩壊。自己を保てなくなります。


しかし、彼ら彼女らにも差しのべられるものがありました。それは承認です。きゃぴ子の近くには、地味子と呼ばれる宮定澄子がいました。地味子はきゃぴ子に呆れながらも、なんだかんだ仲がいい様子。体育倉庫のシーンはよかったですよね。ラピュタ味があって。地味子を演じた恒松祐里さんは、気持ちを抑えている感じが良かったですし、報知映画賞の新人賞にもノミネートされていよいよブレイクでしょうか。


しかし、きゃぴ子は振られ「誰からも愛される自分」「可愛い自分」というアイデンティティは崩されていきます。それでも、地味子は「きゃぴ子は可愛い」ときゃぴ子のことを承認。きゃぴ子は励まされ、何とか自己を保つことができるようになります。


また、八千代には恋に関して苦い経験があり、誰かを好きになることはしないと考えていました。しかし、八千代は撫子に告白。これは撫子にとっては、「叶わない恋をする自分」、八千代にとっては、「好意を持ってくれる女子になびかない自分」というアイデンティティが崩壊しただけです。しかし、撫子は「未来の話をしたいわ」と、自らと八千代の二人のこれからを口にすることで、二人丸ごと承認します。


この「未来の話がしたい」というのが、この映画ではかなり重要でして。だって、彼ら彼女らは同校生の葬式というショッキングなイベントを体験しているんですよ。死が間近になっていて生きることに必死になっている。地味子、きゃぴ子、撫子、八千代の4人がやや芝居かかったセリフを使ってまで、アイデンティティの確立に躍起になっていたのも、「自分は死ぬ」という自覚があったからではないでしょうか。


自分は死んでいく。でも、一人で死んだら生きていた価値がない。自分の価値を認めてもらうには、他人に承認されることが一番です。でも、それは不特定多数でなくてもいい、誰か一人に承認されたら、誰か一人に存在を認めてもらえたら、自分が死んだ後も、自分との記憶はその人の中に残り続ける。それは自分が生きていたという証に他ならないでしょう。承認されるということは生きているということを認めてもらうこと。死の匂いがする高校に通う彼ら彼女らにとって、それは一種の救いだったのではないでしょうか。この点で、私は4人の誰をも身近に感じ、彼ら彼女らが承認されるシーンは思わず泣きだしそうになってしまいました。




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・「未来の話をしようぜ」


そして、この承認は鹿野ななにも与えられます。「死にたい」が口癖の彼女は、「殺す」が口癖の小坂れいに出会います。たとえ軽い気持ちでも、二人の言葉には無視できない重みがあり、死の匂いは濃厚です。しかし、二人の日々は「バニラとチョコのアイスどちらがいい」と聞かれたり、部屋でぷよぷよをしたりと、言葉とは裏腹に万事平穏。つつがなく過ぎていきます。小坂を演じた間宮祥太朗さんのぶっきらぼうな感じがグッときます。本当にかっこいい。男でも惚れる。


小坂の言う「殺す」。それは相手が生きていることが前提です。「殺す」というのは相手が生きていることを認め、それから「殺す」ということ。つまり、鹿野は小坂に「生きている」ことを承認され、「死にたい自分」というアイデンティティを否定されているのです。鹿野の自己は崩れそうなものでしたが、小坂がいてくれたおかげで何とか形を保て、それどころかより素、本来の自分になっていきました。


そして、その承認の最たるものが「未来の話をしようぜ」という小坂の言葉でしょう。その未来は、小坂と鹿野の二人がいなければ存在しえない未来です。今だけでなく、これからも生きていると認める言葉。「殺す」「死にたい」という未来のない最初の状態から、一転して未来を認めている。これからの生を認めている。その事実は、私に涙を流させるに足るものでした。


結局のところ、私は映画や小説、漫画などといったフィクションによって肯定されたいんだと思います。もう死のうか迷っているところに、「君は生きていていいんだ」と言われたいのだと思います。『殺さない彼と死なない彼女』の登場人物は、常に死の匂いを纏っていました。しかし、彼ら彼女らは、生きていることを承認され、「未来の話」をする。それは、私がフィクションに求めていることそのもので、自分の生も肯定されたようで気づいたら泣いてました。


「未来の話をしようぜ」


本当に最高です。


どうもありがとうございました。




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以上で感想は終了となります。『殺さない彼と死なない彼女』。傑作です。人生どこか上手くいっていないなと思っている人は、騙されたと思って観てみてください。強くオススメします。


おしまい 





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こんにちは。11月24日(日)、東京流通センター第一展示場で開催の第二十九回文学フリマ東京に参加させていただくこれです。現在、4冊中3冊目の推敲が完了。4冊目も一応最後まで書きあがっている状態です。締め切りまであと5日。できるところまで頑張ります。


そんななか、また私は映画を観に行ってきました。今回観た映画は『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』。SNSが日常のティーンの成長を描いた青春映画です。私もSNSを見ている時間はそれなりに長いので、これは観に行かなければと思い、ようやく観てきました。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・ケイラはまわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン
・現実とSNSの単純な二項対立になっていないのが好き
・拍手は一人分でいいのさ





―あらすじ―

中学校生活の最後の一週間を迎えたケイラは、「学年で最も無口な子」に選ばれてしまう。不器用な自分を変えようと、SNSを駆使してクラスメイト達と繋がろうとする彼女だったが、いくつもの壁が立ちはだかる。人気者のケネディは冷たいし、好きな男の子にもどうやってアプローチして良いか分からない。お節介ばかりしてくるパパはウザイし、待ち受ける高校生活も不安でいっぱいだ。中学卒業を前に、憧れの男子や、クラスで人気者の女子たちに近づこうと頑張るが…。

(映画『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』公式サイトより引用)



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・ケイラはまわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン


この映画の肝、それは言うまでもなくSNSです。いきなり個人的な話で恐縮なのですが、私はライブドアブログの他に、ツイッターにも登録しています。ツイッターを開くと、フォロワーの何気ないツイートの他に、何千何万リツイートの、いわゆるバズっているツイートが表示されます。多くのリプライが表示され、ツイートを越えてアカウント自体が多くの人に承認されたような感覚を受ける。それはふつふつとした承認欲求を抱えた私の憧れでもあります。


ただ、私はバズりというものを経験したことがありません。このブログのアクセス数もツイッター経由というよりは検索流入が大半を占めています。公開週での感想ならともかく、これを書いている時点で『エイス・グレード』は公開から2か月近くが経っており、多くのアクセス数は望めないでしょう。20PVも行けばいい方ではないでしょうか。なので、ここでも私の承認欲求は満たされることはありません。


だからこそ、私はこの映画でのケイラの行動をバカにすることはできませんでした。ケイラはYouTubeに「同じような女の子に向けて」というスタンスで、グダグダのアドバイス動画をアップし続けています。しかし、その動画の再生回数は0。多くても一桁が関の山です。これもですね、私みたいなゴミカス弱小ハイパー零細クソブロガーに痛いほど刺さるんですよね。現実にシェアしてくれるような友達もいない一般人の投稿なんて、存在していないのと同義ですから。凄くリアリティのある描写ですよ。


さらに、刺さったのがケイラが満たされていないように見えたことです。何に満たされていなかったかと言われれば、それはおそらく私と同じ承認欲求でしょう。ケイラは「学年で最も無口な子」に選ばれ、気軽に話せる友達もいません。勇気を出して、キラキラ女子に話しかけても明らかに退屈そうに受け流されてしまいます。パーティの際にプールに入ってきても、誰にも気づかれません。言うならば陰キャ。いつも一人。これでは承認欲求など満たされるはずがありません。


このケイラを演じたのは新進の女優エルシー・フィッシャーとにかく彼女の陰キャしぐさがこの映画では素晴らしかったです。話しかけられてもすぐに答えを出すことができず、やっとの思いで行ったパーティも蚊帳の外で、プレゼントも喜んでもらえず、皆が楽しんでいるのに「もう帰りたい」と父親であるマークに電話したのは、まるで私を見ているかのようでした。その後のカラオケで引かれるところまで含めて、パーティでのエルシーの演技はグサグサ刺さりましたね。周りが痩せているのに、お腹が出ていてそれを隠すような水着を着ているのももう見てられないとなりましたし、陰キャかくあるべきといった感じです。


このケイラの様子を見て、私はある歌を思い出しました。それはthe pillowsの『ストレンジカメレオン』です。





君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで
まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン
優しい歌を唄いたい 拍手は一人分でいいのさ
それは君の事だよ


(一部歌詞抜粋)


もう言うまでもなく、この映画のケイラは「まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」であるように私には思えて、同一視せずにはいられませんでした。


そして、そんなケイラはSNSに動画や、華やかな写真を上げることで承認欲求を満たそうとしていたと思われます。アドバイスをして誰かにためになったと思われたら、加工された写真を誰かが羨ましがったら、いいね!が貰えたら、それだけで彼女は自分が承認されたと思うことでしょう。いなければ何のリアクションも貰えませんから。不特定多数の承認を求めて、動画を撮影し、日の当たる場所で笑顔で自撮りをするケイラの姿はとても痛々しいものでもありました。


しかし、前述したようにケイラの投稿は何のリアクションも得られず、彼女の承認欲求が満たされることはSNSでもありません。現実でも束の間、高校の体験入学で先輩と仲良くなり、一時的に承認欲求は満たされますが、話の輪に入ることはできず、一緒にいた男には付け込まれて、深く傷ついてしまいます。そして、ケイラはYouTubeからの引退を宣言。悲痛な面持ちで、自分はアドバイスができるような人間ではないと語りますが、この動画もしょせんは誰にも見られません。ケイラの承認を満たしてくれる場所はどこにも亡くなったかのように見えました。


しかし、この映画では、傷つきに傷ついたケイラを救うような展開が終盤に用意されていました。今までのきつい展開を一気に癒すようなとても優しい展開で、私がこの映画が好きな一番のポイントです。



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・現実とSNSの単純な二項対立になっていないのが好き



傷つき疲れたケイラ。自分の部屋でふと掘り起こしたタイムカプセルを開けます。そこに入っていたのはスポンジボブのUSBメモリー。そこには中学入学前の彼女が、卒業間近の彼女へ向けたメッセージが収められていました。未来への夢や希望を語るかつてのケイラ。しかし、今のケイラはかつてのケイラがなりたかった自分ではありません。ままならない現実にケイラは深く落ち込み、タイムカプセルを焼却することを決意します。


父親であるマークと一緒に揺れる炎を眺めるケイラ。なりたい自分になれなかったことを恥じ、自分と同じような子供が生まれてきたら恥とまで言い張ります。しかし、落ち込むケイラにマークは最大限の愛を持って接するんですよね。「恥じることはない」「お前を見ていて勇気を貰った」など暖かい言葉でケイラの悲しみを包みます。存在を全肯定する非常に優しい態度です。つまり、「優しい歌を唄いたい」。


ここで重要だと感じたのが、ケイラがマークに承認されていることです。SNSで不特定多数から得ることができなかった承認を、マーク一人から受け取っているんですよ。これを先程の『ストレンジカメレオン』に照らし合わせれば、「拍手は一人分でいいのさ」という言葉に置き換えられるでしょう。誰にでも届かなくても、誰か一人に届けば、拍手をしてもらえればいいのかもしれないし、それだけで救われるかもしれません。


21世紀に入り、SNSが隆盛を極めるようになって、もう19年が経過しようとしています。現在の10代はもう物心ついた頃からSNSがあるという状況、SNSネイティブです。SNSは今や社会になくては存在。しかし、大前提として私たちの人生はあくまでSNSではなく、現実にあります。SNSにのめり込むだけで、現実をないがしろにしては疎まれるのも当然です。「もっと社交的になれ」とはごく自然な指摘でしょう。だからこそ、SNSに逃げ込むばかりで、現実ではあまり喋れていない私は、毎日自分をダメな人間だと責めているんですが。


それに、SNSでは何者でもないアカウントの投稿は、ただ単にタイムラインを流れていくだけで、引っかかることは稀です。認識されている実感がありません。その点、現実では1対1の会話であれば、相手が自分のことに興味を示してくれる可能性はSNSよりも遥かに高い。そこでは、承認欲求も少しは満たされることでしょう。なので、SNSを見ているよりも、現実で話せるようになった方がいいなということは私も常々感じています。1対1のオフラインのコミュニケーションの方が、結局有力なんじゃないかなと。だからこそ、来週文学フリマに参加させていただくわけなのですが。売れる気はしていませんけどね。




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話を戻すと、私のように現実を重視するとなれば、SNSは一種の敵として扱われがちです。現実とSNSを単純な二項対立の図式に持ち込んで、現実の方が大事という分かりやすい結論に達することはとても容易なことです。ですが、ケイラのようにSNSが居場所になっている人もこの世界には存在しているんですよね。SNSから出会って、現実の友達になったケースはいくらでもありますし、ストレスを発散して現実を生きやすくするという機能もSNSには確かにあるでしょう。その人たちからSNSを取り上げてしまえば、どうなるかは分かりません。


そういった意味で個人的に好きなのが、この映画が現実対SNSの単純な二項対立の図式になっていないということなんですよね。食事中もイヤホンをしてSNSを見るケイラ。しかし、マークはそんなケイラにもSNSへの没頭にも理解を示していて、再生回数0の動画の撮影を自分にはできないことして認めているんですよね。普通なら「SNSを止めろ」と言うところを。なかなかできることではないですよ。


さらに、良かったのが終盤、ケイラと彼女の憧れの男の子、エイデンとの距離が縮まるシーン。そこで、エイデンはケイラの動画を見て、面白いという感想を述べているんですよ。もしかするとケイラをものにするためのエイデンの嘘だったのかもしれませんが、それでもケイラが自分の動画が承認されたと受け取ったことには変わりないでしょう。


つまり私が言いたいのは、現実でもSNSでも「一人分の拍手」は関係なく贈られるということです。そこには現実とSNSどちらがいいかという優劣はありません。まずマークで、ケイラは現実で承認され、その後、エイデンによってSNSでも承認される。そのどちらもがケイラを満たしたという点で、この映画は現実とSNSを何ら変わりないものとして扱っているんですよ。このSNSをないがしろにしない描写がとても現代的で、好きなポイントの一つでした。SNSもやっていていいんだって励まされた気になりましたね。



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拍手は一人分でいいのさ


最後になりますが、ここではケイラの動画の中身を見ていきます。ケイラの動画は「同じような女の子にアドバイスをする」というもの。自分らしさについては、「人によって変えていたらそれは自分らしさではない」。自信については、「自信は生まれつきあるものではなく、持とうと思えば持てるもの」。他にも様々なアドバイスをしていますが、私にはケイラのこれらの言葉は、全て彼女自身に向けられているように感じられました。


なぜなら、動画の彼女は現実とは打って変わって明るい姿で、それはケイラが理想とする彼女自身であるように感じられたからです。出来損ないのカメレオンたる彼女は、明るく周りと接することを理想としていたのでしょう。それができないことで自分を責めていたように私には思えます。というか私自身がそうやって自分を責めていますから。


だから、彼女が発する「自分らしく」「自信を持って」といったポジティブなメッセージは、彼女自身を励ますものでもあったと思います。理想である動画の中のケイラが語っていた「自分らしさ」。それは、現実の「彼女らしさ」とは違う、願いにも似た飛躍した「自分らしさ」。そう私には感じられました。では、なぜ彼女はこのような動画を撮影したのか。おそらくここでもキーワードになるのは承認欲求ではないでしょうか。それを考えていくには、マズローが提唱したかの有名な欲求5段階説を今一度確認する必要があります。


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ここで重要なのが、承認欲求には「他者から価値を認められたい」と「自分を認めたい」の2種類があるということです。そして、この二つには高低関係があり、前者が低次で後者が高次になっているといいます。つまり、他者から価値を認められて初めて、自分を認めることができるというわけです。前後する場合もあるようですが、基本的に。


わざわざ言及するまでもなく、ケイラも自分を認めていることができていなかったのは明白でしょう。自分を認められなかったからこそ、「理想の自分」に発破をかけさせることで、自らを「理想の自分」に近づけて認めたい。そのような思いがケイラにあったと考えられます。しかし、他者から承認を受けられない状況下では、ケイラの思いが叶うことはなく、一度上げてから落とされたことで、ケイラの動画投稿は頓挫してしまいます。それは、自分を認めることはもう叶わないというケイラの諦めをも意味しているように私には感じられ、胸が締め付けられるようでした。


しかし、現実でマークに、SNSでエイデンに承認され、ケイラの「他者から価値を認められたい」という欲求は満たされていきます。すると、今度は「自分を認めたい」という欲求が顔を出す。映画が始まる頃は、ビビっていたケイラですが、終盤になると「たとえ上手くいなくても、上手くいかなかった自分をもマーク(ともしかしたらエイデン)は承認してくれる」という安心感が彼女の中に芽生えていたように私には見えました。だからこそ、最後にケイラは「自分を認めようとする」ことができたのではないでしょうか。


この映画はケイラが18歳の自分に向けて新しいタイムカプセルを埋め、動画を撮影するところで幕を閉じます。タイムカプセルの表面に書かれていたのは「世界で一番クールな私へ」。さらに、動画では「どんな姿になっていても、どんな高校生活でもきっと大丈夫」「私は早くあなたになりたい」とポジティブなメッセージを未来の自分自身に送っていました。


これは、8回生の彼女が未来の彼女に向けて「理想になれなくても大丈夫」と「優しい歌」を唄っていたように私には思えます。「自分を認めたい」という欲求において、それを満たせるのは自分自身を置いて他にはいません。要するに自分を認めることは自分一人にしかできないのです。最初、ケイラは自分を認めることができませんでした。しかし、最後に彼女は「きっと大丈夫」と言う。それは、不特定多数の誰かに送られるメッセージではなく、彼女が彼女自身のためだけに送ったメッセージであり、承認です。「拍手は一人分でいいのさ」。物語を通して、ケイラの中に小さいですが、確実な変化が生まれた。そのさりげない成長を描いたこの映画が、私はとても好きです。観てよかったです。




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以上で感想は終了となります。『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』。本文には書けませんでしたが、EDMがバリバリに流れて、結構コメディチックなシーンもあったりととても楽しく観られる映画でもあります。ケイラの成長にもグッときますし、良い青春映画でした。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


参考:

映画『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』公式サイト
http://www.transformer.co.jp/m/eighthgrade/

マズローの欲求5段階説をこの上なく丁寧に解説する。あなたの欲求はどのレベル?|八木仁平公式サイト
https://www.jimpei.net/entry/maslow#4


おしまい 


【映画パンフレット】エイス グレード 世界でいちばんクールな私へ
エイス グレード 世界でいちばんクールな私へ



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