Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203



こんにちは。これです。


いよいよ39府県で緊急事態宣言が解除されますね。映画館も徐々に営業を再開しており、良い兆しは見えてきていますが、まだまだ気は抜けません。私が入った劇場も座れる椅子は20%ほどしかありませんでしたし、ウィズコロナの新しい生活様式に慣れるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。引き続き、マスクなどの予防をしっかりとしていきたいと思います。


さて、そんな最中、私は一か月ぶりに営業再開した映画館に、映画を観に行っていました。今回観た映画は『もみの家』。不登校の女子高生が、自立支援施設で生活していくという、日陰者である私のパーソナリティ的にマストな映画です。好きな女優さんである南沙良さんが主演ですしね。


そして観たところ、想像と大きく違う印象を抱いた映画でした。まさかこんなことになるとは思ってもいなかったです。でも、灯りがついた後は映画館で観れてよかったと思いました。見逃さないで良かったです。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・正直怖かった
・田舎はあんなに良いところじゃないよ
・嫌な展開を極力オミットしている
・振り切っていて逆に好き





―あらすじ―

心に不安を抱えた若者を受け入れる〔もみの家〕に、16歳の彩花がやってきた。不登校になって半年、心配する母親に促され俯きながらやってきた彩花を、もみの家を主宰する泰利は笑顔で招き入れる。
「うちの生活の基本は、早寝早起きと農作業。ご心配もあるかと思いますが、まずは腹を括ってじっくり見守って頂ければと」
娘を心配しながらも、母親は東京に戻っていく。

彩花のもみの家での生活が始まった。
朝。寮生たちはそれぞれが担当している当番をこなした後、食卓につく。
寝不足でごはんが喉を通らない彩花に泰利は自分たちで作った野菜を勧め、泰利の妻・恵もきゅうりのぬか漬けの乗った皿を差し出すが、匂いが苦手だと言って手をつけない。

昼。畑での作業中、お調子者の伴昭がふざけて彩花を泥の中に突き飛ばす。伴昭が謝り、他の寮生も声をかけるが泥だらけのままその場を無言であとにする彩花。
その姿を見かけたハナエは驚き、声をかけた。
「つらかったね。偉かったねぇ」
彩花は、堰を切ったように声をあげ泣き始める。

慣れない環境に戸惑いながらも、もみの家での生活に次第に慣れてゆく彩花は、周囲に暮らす人々との出会いや豊かな自然、日々過ごす穏やかな時間の中で少しずつ自分と向き合い始める――。

(映画『もみの家』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












・正直怖かった



白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき


『もみの家』を見ている途中、私の頭の中には、記憶の彼方に埋もれたこの狂歌がずっと浮かんでいました。正直に言います。怖かったです。あんな優しい人、世の中にいないですよ。日常生活を営んでいるはずなのにリアリティがなく、席を立ちたいとさえ思いました。こんな怖い映画だとは予想外でした。作り手が意図したのとは、全く違う感想を抱いてしまいました。本当にすいません。


この映画は105分という限られた時間の中で、一年という長い時間を描いています。なので、とにかく序盤はテンポ重視。もったいぶることもなく、本田彩花が半年以上学校に通えていないことを示し、すぐに舞台となるもみの家へ。とにかく早く主題に入ろうという素晴らしいスピード感です。


今作の主人公である本田彩花を演じたのは南沙良さん。『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』で名演を見せて以降、活躍を続けていますが、今回の役も実にピッタリ。目線や表情で陰の空気を作り出すのが上手いんですよね。それによって心を開いた後の演技が、なんてことないものなのにより輝いて見えたり。いつの間にか、拒絶していた私を映画に引き込んでくれました。降る雪を見つめる横顔が特に良
かったですね。今後も作品を見ていきたい女優さんだと改めて感じました。




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・田舎はあんなに良いところじゃないよ


もみの家は、普通の家に心に不安を抱えた若者が集う、いわゆる自立支援施設です。入居者の誰もが仲良く、初めて来た彩花にも優しく接します。でも、考えてみると、突然親元を離れて、既に出来上がっている集団に放り込まれる。このシチュエーションってけっこう恐怖だと思うんです。少なくとも、私だったら嫌ですね。彩花も帰りたいと一度はこぼしていましたし。


でも、新入りの彩花を入居者たちは拒絶せず、受容するんですよね。それも涙が出るほどの優しさで。自分たちも心に傷を負っているからか、決して否定しません。まぁ、ふざけている人もいましたけど、それはご愛嬌でしょう。ただ、こうもすんなり受容されると、何か裏があるんじゃないかと却って気味が悪いです。


悪意なんてものは全くなく、誰もが完全な善意の塊。でも、その一面しかなかったら、それは人間じゃなくて、人形に近いものでしょう。「ここにいて良いんだよ」と、逆に押し付けられているようで、居心地の悪さのようなものを感じてしまいました。普段優しくされたい、認められたいと思っているのに、いざ優しくされると「なんか違う」と思ってしまう。私は何とも面倒くさい人間です。


もみの家の生活は「早寝早起き、仕事は農業」。自分で作った作物をいただく、東京では為しえないプリミティブな生活です。田んぼを耕すのも、田植えをするのも手作業。機械使えばいいじゃんと思わずにはいられないのですが、そこは近代化にかぶれた人間のエゴでしょう。田舎で土と、作物と接することに意味がある。実際、汗をかいたなら、私だって愛着は湧いてくるでしょうし、悪くないと思うかもしれません。なんら間違ったことは言ってません。


ただ、ちょっと田舎を美化しすぎているように感じてしまったんですよね。田舎には温かい人のつながりがあって(おばあちゃんとの交流みたいな)、都会はそれが希薄だと言わんばかり。富山で実際に一年に渡り撮影したそうですが、ここまで良い面しか描かないのは、却って失礼な気もします


確かに四季折々の自然は綺麗でしたし、山からの眺望はご当地映画あるあるとはいえ、夕日が田んぼに跳ね返って幻想的でした。でも、田舎は理想郷じゃないでしょう。村八分とかありますし。おばあちゃんが亡くなって三日経って発見されたという少し厳しいシーンも織り交ぜていましたが、それは都会でもありますし。清らかすぎて、窮屈に感じてしまいました。捻くれてますね。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・嫌な展開を極力オミットしている


そして、さらに怖いのが、この至れり尽くせりのお城のような空間に、彩花はわりとすぐに順応するところです。入居者と少し対話しただけで、心を開いて、笑顔を見せる。極めて失礼ですが、本当に不登校なの?と邪推してしまうほどです。そりゃ彩花本人にとっては、大きな出来事なんでしょうけど、ちょっと描写不足かなという感じはしました。いつの間に取り込まれてしまっていることに、半ば恐怖を感じてしまいます。


思えば、この映画って嫌な展開を極力オミットしていたように感じるんですよ。もみの家を卒業していった淳平という男性や、萌絵という女性だって、挫折して戻ってくるんだろうなって思っていたけれど、卒業してそのままですからね。キャラが立っている人からいなくなるのはどうなんだろうと少し思いましたけど、自立支援施設の役割を十分すぎるほど果たしていますね。


嫌な展開というのはおばあちゃんが亡くなるくらいで、それも彩花の成長のためには必要なシーンでしたし、本当に優しい世界でした。正直、狂っているほどに。優しい世界というのは私の好みですし、現実も優しい世界であってほしいなと思うのですが、ここまで徹底されると逆に恐ろしいです。ある意味今年最高のサイコホラーだとすら感じてしまいました。


でも、映画が進むにつれて、私もこの優しい世界に慣れてしまったんですよね。それは南さんの演技力や坂本監督の手腕もあるんでしょうけど、やっぱり優しくされたいんだなって。おばあちゃんが亡くなったときには、そうなると思っていたとはいえ、悲しかったですし、出産のシーンは本当にハラハラしました。


たぶん、ぬるいお湯みたいなこの映画の温度に、冷たい水にいた私は、最初は熱っと感じていたんですけど、だんだん気持ちよくなっていったのだと思います。気づけば私も取り込まれてしまっていて、スクリーンが明るくなったときに、我に返ってまた怖くなりましたね。



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・振り切っていて逆に好き


さて、この映画で描かれていることって、世間一般で見れば100%正しいんですよ。否定するのではなく、受容することが福祉の現場で必要とされていることも理解できますし、地域の人々との触れ合いが人間関係が希薄になっている現代に必要とされているのも間違いないでしょう。命は循環している。お母さん産んでくれてありがとう。そして、また学校へ通い出す。ぐうの音も出ないほどの正しさです。


ただ、その正しさに苦しんでいる人もいるんですよね。不登校の子供には、学校に行けという言葉は真綿で首を絞められているように感じるでしょうし、水が清らかすぎると却って魚は棲めないものなんですよ。私も仕事がないときがありましたし、地域のサポートステーションにお世話になった時期もあります。職員の方は、私を受容してくれましたし、そのことに嬉しさを感じたのも事実です。ただ、それも行き過ぎると恐ろしいんだなって。過量の薬は毒になるんだなって感じてしまいました。


と、ここまであまり良いことを書いていませんが、それでも私はこの映画好きですよ。ここまで振り切っていると、怖さを通り越して逆に好感を持ってしまいます。何事も中途半端は良くないですからね。途中で思った「あっ、こういう映画なんだ。このまま突き進んでくれたらいいな」というのをブレずにやってくれましたし、ホラーとして好きです。完全に意図されたのとは違う見方なんでしょうけど、現時点で2020年上半期ベスト10に入ります。


でも、こんなことを思ってしまう私は、きっとあまり良い心根をしていないのでしょう。優しい世界に溶け込んで、ラストシーンに爽やかな感動を覚える人の方が、よっぽど素直で良い人間だと思います。現実の人間はこんな優しいものじゃない。そんなことを思いこんでいる自分が今は怖いです。もっと人を信じられたらいいんでしょうけどね。なかなか難しいです。


それと最後に一言。坊主の人どこ行った?



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以上で感想は終了となります。映画『もみの家』、私のは大分捻くれた感想ですが、素直な優しさが詰まった映画ですので、見る人が見れば感動すると思います。こんな状況下で、安易に勧めづらいのですが、よろしければ映画館でご覧ください。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


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こんにちは。これです。外出自粛が叫ばれたGWももう間もなく終わってしまいますね。私は特に何もせずのんべんだらりと過ごしてしまいました。気持ちは焦るばかりで、あまり楽しくはなかったです。来年は気兼ねなく遊べるGWになっていたらいいですね。


さて、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』。5月1日に配信されたばかりのNetflixオリジナル作品です。少し時間はかかってしまいましたが、見たところ想像以上の良作でした。清々しい気持ちでいっぱいです。


では、そのいい気持ちのまま感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、何卒よろしくお願いします。




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―あらすじ―


内向的で頭脳明せきな女子と心優しき筋肉バカ男子。そんな2人が同じ女の子に恋をして、3人の友情と恋心は複雑に絡み合う―。

(Netflixより引用)





映画はこちらからご覧ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










近年になって急速なインターネットの発達は、私たちの言葉を見えにくくしました。気に入った言葉があればSNSでシェア。自分は口を閉ざし、「そうそうそれが言いたかったんだよ」と自らを納得させる方も少なくないのではないでしょうか。コピー&ペーストも容易です。偉人の名言を引用して、学があるように見せる。そうしているうちに、ますます自分の言葉は失われていきます。


私も自分の言葉がないと日々悩んでいますから。頭が悪くなっていって自分からは何も生み出せないようになってしまうんですよね。でも、この『ハーフ・オブ・イット』という映画は、そんな現代人に「自分の言葉で話そうよ」と呼び掛けているように私には感じられました。


この映画の主人公エリー・チュウは丸眼鏡の中国生まれの女の子。いかにも冴えない感じで好感が持てます。彼女は成績優秀で、他の生徒の課題を代筆することで収入を得ていました。そんなある日、彼女は面識もない男の子、ポールから代筆を頼まれます。その内容とはなんとラブレターの代筆。一度は断るエリーでしたが、生活のためにポールの依頼を受け入れます。


ここからポールの意中の相手、アスターを振り向かせるために、二人の奮闘が始まります。映画を見ながら手紙を書くエリー。文通はまあまあ順調で、アスターも自分の悩みを打ち明けるほど心を許している様子。ただ、その言葉はポールの言葉でもないし、もっと言えばエリーの言葉ですらないんですよね。二人とも他人に頼っている。自分の言葉がないキャラクターなんです。ここは頭が悪くて、言葉が出てこない私もかなり共感しましたね。


ある日、ポールは手紙からメールに切り替えようと、アスターにメッセージを送ります。これをエリーは妹が送ったものと弁解。スミスという別のアカウントを作ってそっちで話そうといいます。アスターはこれをOKしますが、訪れたファストフード店でポールはほとんど何も話せず。エリーもスミスだと自分を偽って、アスターとのやり取りを繰り返します。三人の関係はますます拗れていきます。


ただ、この辺り見ていて不快感は全くないんですよね。むしろアスターを攻略しようと作戦を練る様子はポップで楽しいものでしたし、二度目のファストフード店のシーンはどこかすれ違いコントのような可笑しさがありました。音楽も明るかったですし、一連のシーンでしっかりとエンタメ的な要素は確保できていた印象です。卓球のシーンがお気に入り。




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しかし、誤解が解けてアスターとポールが結ばれてハッピーエンド、なんて簡単な結末で終わるわけもなく。この映画で重要な要素となっていたのはエリーがアスターに想いを寄せていたということ。つまり、エリーはレズビアンだったのです。近年、LGBTQの社会的認知度が高まっていく中で、LGBTQの人々を扱う映画や物語が増えていますが、この映画もそういった要素を持っていました。性的なシーンはありませんでしたけど、苦悩や葛藤は少ないシーンでも見ることができます。


この映画には幾度となく、教会が登場します。エリーも礼拝の時間にパイプオルガンを弾いています。ということはキリスト教がベースにあるのは間違いないでしょう。ご存じの通り、キリスト教では同性愛は伝統的に罪とされています。近年は見直しが進んでいるようですが、エリーは自らの性的嗜好を言い出せずにいます。ただでさえ、中国人だからって軽く馬鹿にされていましたし、これ以上差別を受けたくはないと思ったのでしょう。本当の自分を隠していました。


それでも、この映画は基本的には「偽ることは罪」というスタンスを取っていて、罪には罰が与えられます。だって、エリーとポールは本当のことを告白しないといけない懺悔室で、偽りのラブレターを書いていましたからね。この辺りもキリストの逆鱗に触れたのかもしれません。エリーがレズビアンだと言い出せなかったのは自分のせいではないのに。周りのせいなのに。


何とも理不尽ですが、この映画のルールに則れば、エリーは罰を受けなければいけません。ポールにキスを迫られるところをアスターに見られたり、最後までアスターと結ばれることはなかったり。そもそもエリー自身が冒頭で「望みが叶う話じゃない」と予告していますからね。それでも温泉のシーンで同じところを向いていたり、最後も希望を持たせる終わり方をしていたりと救いは持たせていますが、その後はどうなるかなんて誰にも分かりませんしね。










けれども、この映画のルールは裏返せば「正直は美徳」ということになるんですよね。それは自分の言葉で話すということ。それは、エリーが自分の曲を歌って拍手喝采を受けるシーンや、エリーの父がポールに向かって中国語で話すシーンなど随所に現れていて、それが顕著だったのが、終盤の教会でのシーンでしょう。


ここではまず、クラスの人気者が他者の言葉を引用して、アスターに告白するんですね。で、アスターはこれを受け入れるんですが、エリーがちょっと待った、と。ここでエリーがレズビアンであり、スミスであることがアスターにバレるのですが、ここで重要なのはエリーが自分の言葉で喋ったことなんですよね。自分の言葉で愛について語ったことなんですよね。だから、その後ポールが「愛の形は一つじゃない」って援護してくれたわけですし。


この映画って、LGBTQというモチーフを扱っているので、「愛」がテーマの映画なんですよね。いきなり出てくる言葉が、プラトンの「愛とは完全性に対する欲望と追求である」ですからね。これを説明するには、古代ギリシャ人の昔話を始めなければなりません。


この映画はまず、紙のアニメーションで幕を開けます。古代ギリシャ人が言うには、人間はもともと四つの手足と二つの頭を持っていて完璧な存在でした。神様がそれを恐れて、二つに割った。一緒だった片割れを探して、元の一つに戻ることはこれ以上ない喜びだそうです。完全性に対する欲望と追求。プラトンが愛と呼んだのはそれです。一見すると難しい哲学的な概念ですが、可愛く見せてくれるので、ポップな入りになっていました。




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このプラトンの言葉、実はエリーは冒頭で一回否定しているんですよね。でも、これは心の声に過ぎなくて。思っていても言葉に出さなければ思っていないのと一緒です。しかし、この教会のシーンでは声に出して否定しているんですよ。プラトンの言葉も、誰かが言った愛に対する綺麗事も。そして、こう言うわけですよ。自分の言葉で。


愛は厄介でおぞましくて利己的


この映画では何回か偉人の名言が紹介されました。それらと比べると、このエリーの言葉は不格好なものでしょう。でも、どんなに不格好でも自分で考えて、自分から発した言葉に価値があるのです。それは誰に否定されることはありません。この言葉が画面に映ったときに私は痺れましたね。なんてカッコいい演出なんだろうと。


そして、自分が考えたことには言葉ならず、行動も価値があるんですよね。この映画のラストはエリーとポールの別れのシーンなんですけども、エリーは大学に進学するために地元の町を離れるんですよね。電車に乗って別れを告げるエリー。でも、ポールはその電車を走って追いかけます。何ともクサい演出ですし、実際エリーも陳腐だと唾棄していました。でも、どれだけありふれた行動だろうと、自分で考えて取った行動にはそれだけで価値があるんですよね。そのことがこれ以上なく表れていて、私の心は温かくなり、良い気持ちで映画を見終えることができました。


私は、この映画を見て自分の言葉の大切さに改めて気づかされました。これからもできる限り自分の言葉でブログを続けていきたいと改めて思いましたね。そういう意味でも『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』は、私に大きな気づきをくれました。映画自体も面白いですし、良作だと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』。決してハッピーエンドではありませんが、観終わった後に清々しい気持ちになれるおすすめの一作です。GWはおわってしまいましたが、お時間のある時に見てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


Netflix
Netflix, Inc
2020-05-02




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こんにちは。これです。


今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『惡の華』。押見修造さん原作の同名漫画を映画化したこの作品。公開時には長野市での公開がなかったので観られず、今回自粛自粛で時間の空いたGWにDVDでの鑑賞となりました。旧作の感想を書くのは初めてですかね。今後はちょくちょく旧作の感想も書いていけたらと思っていますので、お付き合いいただけると嬉しいです。


それでは感想を始めます。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・キャストについて
・「特別でありたい」と思うこと自体が普通
・「向こう側」とは
・春日は「普通」の大人になったのだと思う





―あらすじ―

あの夏、僕は仲村さんと出会い、リビドーに目覚めた。

山々に囲まれた閉塞感に満ちた地方都市。中学2年の春日高男は、ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所に、息苦しい毎日をなんとかやり過ごしていた。ある放課後、春日は教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を見つける。衝動のままに春日は体操着を掴み、その場から逃げ出してしまう。その一部始終を目撃したクラスの問題児・仲村佐和は、そのことを秘密にする代わりに、春日にある“契約”を持ちかける。こうして仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった…。
仲村に支配された春日は、仲村からの変態的な要求に翻弄されるうちに、アイデンティティが崩壊し、絶望を知る。
そして、「惡の華」への憧れと同じような魅力を仲村にも感じ始めた頃、2人は夏祭りの夜に大事件を起こしてしまう…

(映画『惡の華』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください。














・キャストについて


この映画の主人公である春日を演じたのは伊藤健太郎さんです。整った顔立ちと鍛えられた体は陰キャ感薄いなと思いましたが、そもそも春日はそんなに陰キャではないのですよね。友達もしっかりいるし。でも、唇の出し方とか、少し抑えめな挙動などで冴えない感じを醸し出していました。高校になって髪が伸びて野暮ったくなったビジュアルは、存在しない普通の枠に収まったようで、とてもよかったと思います。


そんな春日が憧れる佐伯を演じたのは秋田汐梨さん。優等生で誰もが憧れる彼女ですが、笑ったときの裏のある感じが凄い。いい具合に影があって、油断ならない印象を与えてきます。春日に迫るシーンは色気すら感じられましたよね。それでも清楚な印象と両立されていて、これは天性のものだと感じずにはいられません。今回初めて目にしましたが、今後も気にしていきたい女優さんです。


山間の町を離れて、都市部の高校に入学した春日が出会ったは友達も多い常盤。ニュートラルな立ち位置の彼女を演じたのは飯豊まりえさんです。こちらも学校の人気者で求められている役割を果たしている、いい意味でのうすぺっらさを感じる演技でした。春日のこともあくまで一線を引いている感じありましたからね。出番こそあまり多くなかったですが、流石の演技で物語を突飛になりすぎないようにしていました。


それでも、やっぱりこの映画は玉城ティナさん演じる仲村ですよ。公開時は映画ファンの間でクソムシクソムシ話題になっていて、それに乗り遅れた悔しさがちょっとだけあったのですが、沸き立つのも納得のインパクトがありました。先生に向かって最初の台詞が「クソムシが」ですからね。口を開けば出てくる言葉は汚い言葉ばかりですよ。よくそこまで語彙あるなと感心するくらいです。


それに、特徴的だったのが、眼鏡を掛けたときと外した時とで、顔立ちが全然違うんですよ。同一人物とは思えないくらいに雰囲気が変わっていて、切り替えるさまが上手いなと感じました。それにあのドS感ね。春日を見下すような視線がきつくていいわけですよ。暴力的な目つきは玉城ティナさんの新たな一面を見られた気がします。あの感じで迫られたら誰でも言うこと聞くわという感じが出ていましたね。


でも一方で切れてばかりではなく、天真爛漫な一面も垣間見せたり(それがかえって春日を追い詰めるわけですが)、苦しんでいるところも見せたり、と意外と表情豊か。特にクールぶったときの感情を抑えている表情は、特筆すべきもので玉城ティナさんのポテンシャルを思い知らされます。今後活躍するにあたって、その度に見返されるような代表作の一本になっていたのではないでしょうか。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・「特別でありたい」と思うこと自体が普通


春日はどこにでもいるような中学生。友達と何気なく帰っていますが、本人は今の生活に満足していない様子。この映画の舞台は、山に囲まれた地方都市です。どこを見ても見渡す限り山でどこにも行けないという閉塞感が漂っています。山の向こう側に行けば何かが変わるかもしれないという田舎の学生にありがちな思考をしています。


向こう側を無意識に神格化して、街にいる人間はクソだと言わんばかりの態度です。このボードレールの詩を理解することができる人間が何人いるだろうと見下しています。本当にありがちな態度でどこまでも「普通」なキャラクターでした。


思春期には誰もが自分は特別だと思うんですよね。世界が広がって、自分より凄い人間がいくらでもいることに気づき、その事実から心を守ろうとする働き。俺はお前らの理解できないボードレールの詩集を読んでいるんだぞ。凄いだろって周りの人を見下して。自惚れですよ。こんなもの。


でもそれは多くの人がそうなんですよね。自分を特別だと思い込むのは、かえって「普通」なんですよ。たぶん。自分は特別じゃない。でも、特別な人間だと思いたい。そんな鬱屈とした感情がぶちまけられた映画だと感じました。


それが象徴されていたのが夜の教室に忍び込むシーンでしょう。憧れの佐伯の体操着を盗んだ春日。しかし、仲村にその秘密を知られてしまいます。紆余曲折あり、仲村を通して佐伯に真実を伝えてもらうよう頼みますが、仲村は「虫が良すぎるんだよ」と拒否。春日に全てをぶちまけるよう要求します。


そこから先の二人はチョークをひっくり返すは、墨汁をぶちまけるわでもうやりたい放題。カットを細かく割る演出も合わさって、魂の解放と言った風情を見せてきます。リーガルリリーの挿入歌も静かな入りはここで入れるんだと思ってしまうほど合っていないものでしたが、サビに入ってからは細く切ないボーカルが胸に迫ります。「魔女」という曲名なのも心憎いですね。


全てが終わって、教室はもうぐっちゃぐちゃ。まるで二人の心の中を投影しているかのようです。ここで注目したいのが二人が寝そべるシーン。ここでボードレールの詩集『惡の華』の表紙に描かれていた目玉が墨汁で床に描かれ、二人はその中にいます。これを私は、円は「普通」を表していて、二人はその「普通」の檻の中に閉じ込められていたと考えます。結果は多少オーバーなものになってしまったかもしれませんが、抱いている「特別な人間だと思いたい」という感情は「普通」の域を出ていないのだと、このシーンは表しているように思えました。



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・「向こう側」とは


この映画で何度も印象的に登場した言葉があります。それは「向こう側」というものです。仲村のいう向こう側とは、おそらく「そこに行けば全てが変わる理想郷」を指しているのではないでしょうか。この町の人間がクソムシなのは、理想郷に行くこともなく留まっているからだ、と。何だか『空の青さを知る人よ』を思い出させる話ですが、これも東京コンプレックスをこじらせた地方の学生にはありがちです。私も高校時代はそう思ってましたからね。


でも、東京に行けば全てが変わるなんてことは全くなくて、そんな理想郷は世界のどこを探してもないわけですよ。教室での事件の後、二人が山の向こう側に行こうとしたけど、終ぞ行けないままでしたよね。向こう側もない、こっち側もないという仲村の言葉は、もしかしたら向こう側に行っても何も変わらないことを、間近になって悟ってしまったからなのかもしれません。簡単に言うと、逃げたと思うんです。変わらない現実から。


しかし、ここから春日と仲村の二人の関係は変わります。それは端的に言うと、主従関係から対等な関係へと変化していきます。自分は背伸びしてボードレールを読んでた。自分は空っぽの人間だと認めた春日。秘密基地のような段ボールハウスを作って、「ここに向こう側を作ろう」と言います。


仲村の「また向こう側に行けなかった」という文字を読んだからでしょうか。理想郷なんてない。自分を変えるのは自分しかいない。矢印は自分の中に向いていきます。世界は変えられなくても、自分は変えられる。その考えに同調する仲村。堕ちていく二人を見ていると、私の中の何かが壊れそうで恐怖心すら感じましたね。対等な関係となった二人はとある計画を企てます。


その計画が表出するのは中学生編のラストの展開。二人は夏祭りの櫓を占拠し、自らもガソリンを被って火をつけようとします。二人がライターを握って演説するシーンは、どうしても『ラピュタ』を思い出さずにはいられないのですが、それも気にならないくらいの迫力がありましたね。見入ってしまいました。


きっと二人は、自分を変えることの限界にすぐ気づいたのではないでしょうか。自分を変えても、周囲が変わらないと意味がない。そうやって周囲のせいにして、自分を変えることから逃げていたんだと思います。それが二人を自爆テロにも似た極端な行動に走らせたのだと感じます。しかし、二人の計画は未遂に終わり、中学生編はこれで終了します。周囲を変えるという二人の暴動は、道半ばで途絶えました。



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・春日は「普通」の大人になったと思う


言い忘れていましたが、この映画は中学生編での出来事を高校生になった春日が振り返るという構成を取っています。自己変革は中学生時点で止まったままの春日。しかし、同級生の常盤と出会ううちに変化が訪れます。常盤の書こうとしている小説は、春日にとって自分事。さらに、佐伯と再会し、自分のことを打ち明け「がっかりした」と突き付けられてしまいます。


そんな春日に元に残されたのは一冊のノート。それは、仲村が春日に「変態としての自分の作文を書け」と課題として出したものでした。当時の春日はボードレールの『惡の華』を差し出して、「これがぼくの作文だ」とほざいて、仲村の怒りを買っていました。これも春日が自分と向き合うことから、逃げていたことを表していると思います。そして、今もまだ仲村といた過去から逃げたままです。


しかし、春日は自分と向き合い、作文を書きあげます。そして、佐伯から仲村の住所を知らされ、過去との決別をつけるために、会いに行くことに。全く無関係な常盤も「合わないと小説が書けない気がする」とついて行きます。


春日と仲村は、常盤も交えて三年ぶりの再会。仲村は海辺の町にいました。山の閉塞感からは解放されていますが、今度は海という障害があります。向こう側へたどり着くことは、自力では極めて困難なように思えます。


二人は二、三言葉を交わした後、常盤も交えて海辺ではしゃぎます。教室のシーンとは違って、周囲に迷惑をかけることもありません。それは、まるで健全な海での遊び方のよう。さらに、常盤がいることが、このシーンでは重要で。常盤という客観視できる目があり、言い方は悪いですが、二人の感情の捌け口があったことは、中学生時代と全く違います。「変態」だった二人は、自らを理解してくれる第三者を求めていたのかもしれません。それがいなかったからあそこまで拗れたと。そして、常盤がこのシーンではその役割を果たしていたように私には思えましたね。夕陽が照らすこの映画でも一番爽やかなシーンでした。


そして、三人は砂浜に寝そべるわけですが、ここでは教室のシーンで二人を取り囲んでいた円は消失しているんですよね。そして、最後に仲村が春日にかけた言葉は「二度と来んなよ。普通人間」。自分をさらけ出して、作文に何もかもぶちまけたことで、春日は「自分が特別な人間ではない」ということを自覚したのだと思います。


それは思春期を過ぎた大人の世界では「普通」なことですが、思春期の「普通」からは外れてしまっています。いわば、春日は「普通」の思春期を卒業して、「普通」の大人になり始めたのだと。私はそう考えました。この映画の最後で見下してくるような『惡の華』の目は消失していきます。きっとそれは、周囲を人間を見下す春日の自意識の表れでもあったのでしょう。


それが消失したということは、春日が少なくとも周囲の人間を見下すことはなくなったということ。なかなか強烈な展開の映画でしたが、最後には普遍的な人間の成長が描かれていて、この点で好感度が高いですね。春日たちの成長が一般的なものであることは、エンドロールが終わってのシーンにも表れていますし、誰にでも当てはまりそうな思春期のコンプレックスとそこからの成長を描いたこの映画、私はけっこう好きです。


『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』もそうでしたけど、押見修造さんはこういったさりげない成長を描くのが上手いと感じましたし、それを余すことなく映画にした井口昇監督はやり手の監督さんですね。もちろん脚本の岡田磨里さんもいい仕事してますし、公開当時映画館で観られなかったことを軽く後悔する鑑賞となりました。観て一緒にクソムシクソムシって騒ぎたかったなぁ。



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以上で感想は終了となります。映画『惡の華』、少しアクが強いところはありますが、内容は真っ当な成長ストーリーだと思います。個人的にはおすすめしたい映画ですね。機会があればどうぞ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


惡の華
飯豊まりえ
2020-02-04



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