こんばんは。これです。


昨日8月1日は映画の日で、全国の劇場で映画が1100円で公開されていました。それにあわせて「インクレディブル・ファミリー」や「センセイ君主」など多くの映画が公開されるなか、私が観に行ったのは「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています」です。先日完結したチャットモンチーが主題歌を歌っているとことで選びました。


今回のブログはその感想になります。拙い文章ですが何卒よろしくお願いいたします。










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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。
















~あらすじ~

サラリーマンのじゅんが仕事を終えて帰宅すると、玄関で妻のちえが口から血を流して倒れていた!
動転するじゅんだが、「ククク……」と笑うちえの傍らにはケチャップ。
ちえは死んだふりをしていたのだ。

それからというもの、家に帰るとちえは必ず死んだふりをするようになった。
ある時はワニに喰われ、ある時は銃で撃たれ、またある時は頭を矢で射抜かれ…
次第にエスカレートしてゆく“死んだふり”。

最初は呆れるだけのじゅんだったが、
何を聞いても「月が綺麗ですね」と笑うだけのちえにだんだん不安を覚え始める。
寂しいだけなのか、何かのSOSのサインなのか―。
ちえの謎の行動には、“秘密”があった。
(映画「妻ふり」公式HPより引用)



















今回「妻ふり」を観て、まず榮倉奈々さんと安田顕さん演じる夫婦がいいなと感じました。



加賀美ちえを演じる榮倉さんはとても無邪気でキュート。血を吐いていても可愛いってどういうこっちゃ。でも、どこかミステリアスな雰囲気があり、ただ明るいだけでない陰の部分があったのが素敵でした。



加賀美じゅんを演じる安田さんはどこまでも頼りない。無邪気な妻に振り回される困惑っぷりがとても可笑しかったです。ただ、締めるところはちゃんと締めて、終盤ではとても頼りがいのある夫になっていたのがかっこよかったです。



あとはこの映画、おじさんおじいさんの存在感がいい。ちえの父親を演じた蛍雪次郎さんは軽くするところと重くするところの使い分けが絶妙で、じゅんの上司を演じた浅野和之さんは本当にどこにでもいそうなくたびれたおじさんで、そのなりきりっぷりが見事でしたし、クリーニング店の店主を演じた品川徹さんは親しみやすいなかにも哀愁が感じられてグッときました。こういう年配の方々の存在がこの映画をより柔らかなものにしていたと思います。
 

そして、なんといってもちえのする死んだふりが面白かった。バリエーションに飛んでいてどのシーンでも笑わせてくれました。それに付き合うじゅんもまた可笑しい。いろいろな死んだふりがありましたけど、私が一番好きなのはキャトルミュレーションされたやつですね。あのサイケな感じ最高でした。










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さて、この映画のなかで重要な働きをしていた動物がいます。それがポスターにも写っていた「ワニ」です。



加賀美じゅんの同僚・佐野の妻曰く、ワニに出会った時の対処法は「ゴムバンド」だそうです。ワニは口を閉める力は強いのですが、口を開ける力はあまり強くないらしく、閉めた状態のワニの口をゴムバンドで縛ってしまえば、口が開かず襲われる事はないといいます。どうやってワニの口を縛るんだよって話ですが。



ここで私は

口を閉じる→上あごと下あごがくっつく→くっつく→結婚
口を開ける→上あごと下あごが離れる→離れる→離婚

と考えました。



ワニに限らず、私たち人間をはじめとした動物は、口を開けたままでは口内が渇いてしまうので口を閉じ、口を閉じたままでは物が食べられないので口を開けます。口を開けることと閉じることは、上り坂と下り坂の関係と同じく1対1の関係になっています。



しかし、結婚と離婚はそうではありません。2017年の推計値では、婚姻件数は60万7000組、離婚件数は21万2000組となっています。単純な比較はできませんが、結婚と離婚の割合はおよそ3対1となっていますね。そりゃ結婚と離婚が1対1だったら、どんなディストピア社会だよ、人類滅亡ましっぐらだわ、って感じですよね。口を閉じる力(結婚)よりも、口を開ける力(離婚)が弱いので、増えてきてはいますが、この数字はまだ妥当性のあるものだといえます。



では、この本来1対1であるものを3対1にとどめているものは何か。ワニの口を縛って開けさせないようにしているものは何かということになりますけど、たぶんそれが、この映画のテーマの一つである「愛」ってものなんだろうと思います。



これについては、じゅんの上司である課長がもう直接的に言ってました。この課長、哀愁漂うおっさんで、妻からは避けられ、息子からは嫌われっていういかにもなキャラクターだったんですけど、それでも仕事を頑張る理由として「妻を愛しているから」と、恥ずかしげもなく答えます。「それしかないだろ」とまで言っています。



じゅんとちえは映画のなかで、まったくの相思相愛でした。じゅんはちえに「俺はちえのそばにずっといたい」と言うと、ちえは「月が綺麗ですね」と婉曲的に答えます。これは夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した逸話から来ています(実際は漱石はそんなこと言ってなかったらしいけど)。二人は「愛」というゴムバンドで結ばれていました。



ただ、その「愛」というゴムバンドも万能ではありません。ワニの口を開ける力が弱いとはいえ、力はかかっているわけですし、ゴムバンドも劣化しいつかはちぎれます。そして、映画のなかでゴムバンドがちぎれてしまっていたのが、じゅんの同僚の佐野夫妻でした。



話は変わりますが、ワニの口に頭を突っ込んだ状態で、ワニが口を閉じたらその人はどうなるでしょうか。首を食いちぎられて死にますよね。頭を突っ込んだ状態で口を閉じたら(結婚したら)死ぬぞ、と。これがよくいう「結婚は人生の墓場である」と繋がってるんだと思います。今まで自分の自由にできていたお金や時間が自分の思い通りにできなくなった。自由がなくなった状態を「死」に例えて、「結婚は人生の墓場」などというわけですね。そして、佐野はまさに結婚を「人生の墓場」と捉えていました。



佐野は映画のなかで「結婚は機会損失ですよね」と語っていました。一枚の紙だけで、その人以外の人と関係を持ってはいけないとされることを指して、こう言っていたのですが、これは自由がなくなるという意味での「結婚は人生の墓場である」と似た立場に立っています。諦めにも似た境地ですね。ただ、佐野はまだ諦めていませんでした。まだ自分に男としての価値があると感じていました。浮気を狙っていた感すらあります。そして、いざしたときに妻に浮気がばれないように、普段から妻の期限を保つため、「こまめにプレゼントをあげてればいいだろう」と、どこか下に見ているようなところがありました。少なくとも私はそう感じました。これに佐野の妻はわかだまりを感じ離婚に至ったわけですね。そして、佐野夫妻が離婚したことは加賀美夫妻にも知らされました。



この映画の終盤で、じゅんはちえが死んだふりをしていた理由を「たぶん、結婚っていうのは…」と話しだしますが、その後の音声はカットされています。つまりなんといったかは分からず、見る人の想像に委ねられました。唇を読めばなんとなく言っていることは分かりそうですが、私には読唇術の心得がないのでなんといったかはまるで分かりません。これは完全なる想像なのですが、じゅんは「たぶん、結婚っていうのは、人生の墓場じゃないんじゃないかな」みたいなことを言ったと思うんですよね。あくまで私は。



その理由として、この映画の最大のテーマである「生と死」が関わっていると私は思います。








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まず映画の冒頭で、ちえはじゅんに「一つ約束があります。私より先に死なないでください」と告げます。また、ちえは小さいころに母親を亡くしています。ちえがバイトをするクリーニング店の店主も奥さんに先立たれ、飼われていた番いの鳥も片方が死んで一匹になってしまいます。「妻ふり」は物語の中で直接誰かが死ぬシーンというのは鳥のシーン以外はなく、何気ない日常の風景が描かれていましたが、死の影というのはそこに常に付きまとっていました。そもそもタイトルが「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています」で、「死」が入ってますからね。



タイトル通り劇中では多くの「死んだふり」が繰り返されます。ちえはあるときは血を吐いて倒れ、あるときは抗争に巻き込まれ、あるときは名誉の戦死を遂げ、またあるときは宇宙人にキャトルミュレーションされます。そのバラエティー豊かな死んだふりっぷりと、時折それに応えるじゅんとの小芝居は、とてもユーモラスなものでした。しかし、「死んだふり」というのは「死」をネタにしたブラックユーモアです。死んでいないとはいえ、ふりをしている以上、そこには「死」のイメージがついて離れません。そして、ごくごく当たり前のことですが、「死んだふり」というのは生きているときにしかできません。



劇中でちえも、ちえの父親も言っていましたが、人生には三つの坂があります。上り坂、下り坂、そして「まさか」です(余談ですが、ここで私は「カルテット」を思い出しました)。人間いつ死ぬかは誰にも分かりません。明日車に轢かれて死ぬかもしれないですし、今日このまま眠って目を覚まさない可能性だってゼロとは言い切れませんし、もしかしたら次の瞬間、隕石が落ちてくるかもしれません。自分が明日も、次の瞬間も生きてるなんて「絶対」は誰にもないわけです。



「死」というのは永遠の別れです。もう二度と会うことはありません。そしてその永遠の別れをちえは幼いころに、母親の死を持って体験してしまいました。このことはちえの心に大きな影を落としたと考えられます。その時の辛い思いを二度したくないと考えて「私より先に死なないでください」と言ったのかもしれませんね。



先ほど、結婚・離婚をワニの口に例えて書きましたが、夫婦の別れというのは離婚だけではありません。死別だってそうです。ワニの口を塞ぐゴムバンドは「愛」だけではありません。「生」だってそうです。というか「生」の方が先に来てるまであります。愛し合うことは生きてる人間同士でしかできないわけですから。



映画では「ちえとじゅんが結婚してから3年が経った後に、その後も結婚生活を続けるかどうか決める」とあります。ここで、ちえは契約更新がなされない、「愛」というゴムバンドがちぎれてしまい、離れ離れになることを恐れたんですね。「愛」のゴムバンドも「生」のゴムバンドもちぎれるという点では同じですし、ここでちえはこの二つを同一視してしまったのかもしれません。これによってちえの怖れは高まり、なんとかしてじゅんが自分を愛していることを確かめたいという強い思いが、彼女にとって一番の怖れの対象である「死」に結び付く「死んだふり」を選ばせたのかもしれません。



さらに、ちえは劇中で鳥の死を目にしてしまいます。昨日までピンピンしていたのに、朝起きたら死んでしまっていた。その唐突な「死」に、ちえは「絶対はない」という思いをさらに強くしたのではないでしょうか。その後家に帰ってきたじゅんにちえは再び「月が綺麗ですね」と伝えています。これも「絶対はない」という切迫した思いからですね。



そして、二人は死を身近に感じる出来事のあとに、かつて二人で行った場所に再び出かけます。ここで、ちえはじゅんに自分が死んだふりをした理由が分かったか尋ねます。それに対するじゅんの答えは上記の通り謎ですが、たぶん上の言葉に加えて「死んでもいいからって本当に死んでもいいわけじゃない」とか「これからもずっとそばにいる」とか、ちえの「愛」と「生」のゴムバンドがちぎれるんじゃないかっていう不安を解消させるような言葉を言ったと思うんですよ。最後のちえの笑顔は、別にじゅんが面白いことを言ったからじゃなくて、心から安堵したことによる笑顔なんじゃないかと感じたのは私だけでしょうか。













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今回、「妻ふり」を観て、なんというか明るくてポップなんですけど、それとは反対に観ていて深いことを考えさせられるようなどこか影のある映画だと私は感じました。ちょっと説明しすぎかなって思うところもありましたけど、基本的には面白く楽しめた映画だったので、興味のある方はぜひとも観てみてはいかがでしょうか。


おしまい