試合終了間際にAC長橋パートナーズはコーナーキックを獲得した。それは長橋の応援席のすぐ前でのことだった。伊藤聡美は胸の前で手を組み、必死に祈る。11番の畠山がボールを入れると、オレンジと薄青のユニフォームが一斉に動き出した。合わせたのは長橋の選手だったが、頭に当たったボールは無情にもクロスバーの上を越えていった。そして吹かれる試合終了を告げる笛が鳴って、聡美は手を解いた。視線を落とすと、試合前に降った雨がまだコンクリートの上に残っていた。長橋は讃岐ヌードルスとの二部三部入れ替え戦を0-1で落とし、来年も三部リーグで戦うこととなった。


 聡美の家はもともと長橋のサポーター一家だった。まだ長橋が地域リーグにいたころ、父親が選手と同じ会社で働いているとかで、よく話をしていたのを覚えている。木橋というその選手は中盤の底で待ち構えて、得意のスライディングやインターセプトでボールを奪う、チームの中では目立たないタイプの選手だった。しかし、聡美はそんな木橋の武骨なところが好きで、家族で観戦に行っても木橋のことばかりを見ていたし、グッズも木橋の背番号である5がプリントされているものを欲しがった。聡美にとって木橋は、長橋を見る理由の大きな部分を占めていた。


 長橋は入れ替え戦に敗れた後、何人かの選手を放出して、何人かの選手を獲得した。しかし、その年は三位に終わり、またしても二部昇格を果たすことは出来なかった。そして長橋はまた、何人かの選手を放出して、何人かの選手を獲得した。そのなかには木橋も含まれていた。加齢により思うようなプレーができないことが原因で、木橋は現役を退いたのだった。木橋の引退は聡美にとって、これから自分は何をするにもうまくいかないのではないかと思うくらいには悲しかった。もうスタジアムに行くことはないかもしれないと思った。しかし、翌年も聡美は長橋の試合を見に行くことを続けた。それは、シーズン最後の練習で木橋に会った時に、「来年もチームを応援してくださいね」と言われたからだった。


 新しいシーズンが始まって、長橋は最初はまあまあ勝ってはいたものの、夏場になると調子を落としていき、順位が下の相手とも引き分けたり、負けたりしていた。スタジアムには重い空気が立ち込め、野次も増えていった。聡美はそんなスタジアムの様子をどこか他人事で見ていた。しゃんとしない選手たちには思わず文句を言いたくなったし、今まで食べていたスタジアムグルメも美味しく感じなくなっていた。そこで初めて聡美は、自分の気持ちが長橋から離れてしまっていることに気づいた。聡美と長橋を繫いでいた木橋はもういないのだ。そのころ仕事が忙しくなりだしたのもあって、聡美がスタジアムに行く回数は減っていき、ついには、その年の最終節を最後に、全く行かなくなってしまった。





 それからというもの、仕事は競合他社に押され、少しずつ減ってきて、社内はジリジリとした危機感に覆われてた。聡美の気持ちも焦りだし、それが原因で、彼氏である俊之と喧嘩をすることも多くなっていた。味付けの好みの違いだの、見たいテレビの違いだの、それらは一つ一つは取るに足らない些細なものだったが、積もり重なって気づいた時には、もう修復不能なものとなっていた。ある年の12月の暮れに聡美は3年付き合った俊之と別れた。浮かれて手を繋ぐ恋人たちを見ていると、聡美はどうしようもなく情けなくなって、買ってきたビールと一緒に飲み込もうとしたが、いくら飲んでも涙は溢れてくるばかりだった。


 聡美はうまくいかない人生の救いを本に求めるようになった。もともと本は読んでいたのだが、俊之と別れるようになってから、より読むようになった。活字の海に潜っている間は、現実という大気から逃れることができ、それは聡美に心の安定をもたらした。誰にも触れられない一人だけの世界に、聡美は徐々に閉じこもるようになっていった。


 ある日、何気なく買った週刊誌の、ある本の広告に聡美は目を留めた。その本は「ディス・イズ・ザ・デイ」というタイトルで、


22チームの22人のファンたちは、それぞれの思いを抱いて2部リーグ最後の試合の「その日」に向かう。職場の人間関係に悩む会社員、別々のチームを応援することになった家族、憧れの先輩に近づきたい男子高生、十数年ぶりに再会した祖母と孫など、ごく普通の人たちのかけがえのない喜びを、サッカーを通してエモーショナルに描き出す連作短編集。


という謳い文句が書かれていた。スタジアムには行かなくなったとはいえ、長橋の試合は時折テレビで見ていた聡美は直感的に「これ面白いかも」と思った。仕事中もその本のことが頭から離れず、それは「買え」というサインなので、仕事終わりに駅前の書店に立ち寄った。ユニークだけど味のあるイラストが表紙を飾る本をレジに持っていく。そのワクワク感が今の聡美を支えているといってもよかった。






 読み始めて第1話「三鷹を取り戻す」は、試合を観に行かなくなった男性が、再び試合を見に行くまでの話だった。いきなり自分のことが書かれているので、聡美は後ろからナイフでグサッと刺されたような感覚を味わった。


自分は二部にやってきた最初の一年で三鷹を捨てた人間のはずだ。
(第1話 p21)


主人公である貴志は、好きな選手が監督に就任したことを知り、再びスタジアムに訪れるようになる。そこで、バイト仲間の松下と会うのだが、松下はリーグのことをあまりよく知らなかった。


「降格?やばかったってこと?」
「そうだよ。よそのチームの結果にもよるけど、負けたら21位で入れ替え戦に回るか、22位で自動降格のどっちかだった」
 そんなことも知らないでこいつは試合を見ていたのか、と貴志は少しあきれるのだが、それ以上に驚く。そんなことを知らなくても、好きなチームの応援は出来るのだということに。

(第1話 p32)


 思えば、自分も木橋目当てで観に行っていたころは、長橋の順位なんてよく知らなかったなあ、ということを聡美は思い出す。最初は貴志の方に感情移入していたはずが、気づいたら松下にも感情移入しているのは自分でも不思議だった。そんな無知な松下やかつての私をも受け入れるスタジアムという場所は、なんて懐が広いところなのだろう。






読み進めているうちに聡美は、スタジアムに訪れる人の多様性が幾度も書かれていることに気づいた。


タオルマフラーを首から掛けて、ビールを片手に談笑している三十代半ばくらいに見える男性たち、壁際でひたすらスマホを操作しているユニフォーム姿の女の子、からあげを食べたいのか食べたくないのか子どもたちにたずねている若い父親、せんべいを食べながら帰りの食事場所について話し合っているヨシミの母親ぐらいの年の女性の三人組など、スタジアムにはいろいろな人がいる。映画館やライブ会場など、ヨシミが出かけたことのある様々な人が集まる場所のなかでも、サッカーのスタジアムは最も誰がいてもおかしくない空間であるように思える。
(第3話 p85)



荘介はそれまで、スポーツを現地観戦するという経験をしたことがなかったのだが、こんなふうに老人から子供まで、そして男も女も、どういう人たちが多い、と一見では判断できないぐらい、いろんな人間が集まってくるものだとは想像したこともなかった。
(第7話 p192)


何より、芝生の歌いまくる人々の大声を聞きながら試合を見ていると、一種のトランス状態というか、サッカーと歌とコールだけがそこにあって、ほとんど別のことが考えられなくなって、それはそれで心地よかった。ライブやクラブでの状態に似ているかもしれないけれども、そこにいる人たちの年齢や性別にほとんど偏りがないため、周りを気にせずにいられた。

(第10話 p304)


 たとえ、「自分はスタジアムに行ってはいけない」と思っている人や「自分が行くと負ける」と考えている人でも、スタジアムはありとあらゆる人を受け入れる。年齢も性別も本当にさまざまだ。聡美はそんなスタジアムの様子を思い出さずにはいられなかった。待機列で今か今かと会場を待つ人の会話、同じユニフォームを着たたくさんの人が行き交うコンコース、そして、青々とした芝生に吹き抜けの空。それは何かのお祭りのようで、私もその空気に当てられて、隣になった人と話したりしたなあという記憶が呼び起こされる。その人は「勝つといいね」と笑っていた。それに笑顔で返して、二言三言言葉を交わすあの時間はかけがえのないものだったと今になって聡美は気づいた。


 この他にも、スタジアムグルメ、略してスタグルを買う様子や、マスコットと触れ合う様子、買うつもりのなかったグッズを買ってしまう様子など、「ディス・イズ・ザ・デイ」にはスタジアムのさまざまな様子が克明に書かれていた。自分がまるでスタジアムの中にいるような錯覚に聡美は囚われた。文字からスタジアムがせり出してきて、自分はそれに飲み込まれたようだった。楽しそうに談笑している人、一人でスマホを操作している人、初めて来たスタジアムに戸惑っている人まで、一人一人の息遣いまでが聞こえてくるような気がした。それは自分が物語の中の登場人物に感情移入して一体となったことで、登場人物が見ている景色が見えてくることによるものだった。聡美はもうすっかりこの本の虜となっていたのだった。







 また、「ディス・イズ・ザ・デイ」には一つ大きな特徴があった。それは、試合の日の描写よりも、日常の描写が多いということだった。「ディス・イズ・ザ・デイ」に出てくる人たちに特別な人など一人もいなかった。聡美と同じように、いいことがあって喜んだり、落ち込むことがあって悩んだりする至って普通の人がどの話も登場していた。きっとこの人たちも私と同じように、寝坊して朝食を食べ忘れたり、傘を持たないときに限って突然の雨に降られたり、信号機に引っかからずスイスイ行ける日があったりするのだろう。そう考えると、登場人物たちがグッと身近なものに感じられた。それは聡美が、彼ら彼女らに感情移入するのに大きな助けとなった。



つまんないのが普通で、でもたまにいいこともあって、それにつかまってなんとかやっていく感じ。富士山の試合があってくれるっていうことはさ、そういうとこに飛び石を置いてもらう感じなのね。とりあえず、スケジュール帳に書き込むことをくれるっていうか。
(第3話 p80)


 「ディス・イズ・ザ・デイ」は試合がメインではない。それは現実でもそうで、サッカーの試合は長くても2時間ほどしかない。1週間のうちのたかだか2時間が、それ以外の時間が日常の多数を占めている。その人その人に異なった日常、人生があって、スタジアムはそんなそれぞれの人生が交差する場所なんだ。人が集まることによって生まれるエネルギーがスタジアムには確かにあって、人々はそこから元気をもらって、またそれぞれの山あり谷ありの日常に戻っていくのだろう。聡美はぼんやりとそんなことを考えていた。


 読んでいて、これはと思うことがあった。それは第4話「眼鏡の町の漂着」に登場するヴィオラ西部東京というチームのことだった。ヴィオラは経営難が原因で消滅してしまったチームで、その姿はかつての横浜フリューゲルスを思い出さずにはいられなかった。聡美はその当時のことはよく知らないが、かつてスタジアムにカップ戦を観に行ったときに、大型ビジョンで流れていた映像の中の「私たちは忘れないでしょう。横浜フリューゲルスという、非常に強いチームがあったことを」というアナウンスはなぜか強く印象に残っていた。

 
第4話の主人公の一人である誠一は、かつてはヴィオラ西部東京のファンで解散から17年経った今でもヴィオラのことを好きでいて、かつてヴィオラに所属していた野上というディフェンダーを追っているというキャラクターだった。誠一は自分の心境を、

あまりにも長く、もうなくなってしまった一つのものを好きでいると、自分自身の時間も止まってしまったような気分になるからだろうか 
(第4話 p111-112)


 と述べていた。木橋がいたころはよくスタジアムに行っていたけれど、木橋がいなくなってからはだんだん行かなくなってしまった自分と、程度の差はあれど似ていると感じた。私は今でも長橋の試合はたまにテレビで見たりはするけれど、スタジアムでの私の時間は木橋が引退したときから止まったままだった。そう考えるとなんだか胸が痛むような気がして、読むのが少しずつ辛くなっていった。


 それでも聡美は読み続けた。辛いのを我慢して読み続けた。すると最後には救いのある結末がそこには用意されていた。気づいたら温かいものが頬を伝っていた。誠一だけでなく自分さえも救われたような気がした。自分も止まっている時間を動かしていいのだ。長らく離れていたとしても、スタジアムに行って長橋を応援していいのだ。聡美は久しぶりにスタジアムに行ってみようと決めた。それは誰に言われるでもなく、自分の意志で決めたことだった。その日はもうそれ以上読めずに聡美は本を閉じた。丸く膨らんだ月が綺麗な夜だった。







 その日は8月の終わりとはいえ、まだまだ夏は帰る気配を見せず、三十度を超える気温とジメジメした湿度が肌にまとわりつく日だった。大した用もないのに早く来てしまった。キックオフまでまだ1時間以上もあるではないか。引っ張り出した昔の木橋のユニフォームを着ていた聡美は、この暇な時間をどう過ごそうか考えて、とりあえずは売店で売られていたフライドポテトをつまんでいた。正直パサパサしていてあまりおいしくはなかったが、腹は満たされたので良しとした。


 聡美がフライドポテトを食べながらぼんやりと緑の芝生を眺めていると、何やら賑やかなアナウンスが聞こえてきた。ピッチには3人が立っていて、一人は自らをスタジアムDJと名乗り、一人はその女性アシスタントで、もう一人はなんと木橋その人だった。驚き、隣の人に聞いてみると、木橋はチームを引退した次の年に営業担当としてチームに戻ってきていた、とのことだった。木橋は体格の良さは変わらなかったが、肌は室内にいることが多いからか少し白くなっていて、今日新発売だというグッズを持たされていた。聡美は自分の中で何かが許されるのを感じていた。木橋が引退したときは悲しかったが、当の木橋は選手から営業担当へと姿を変え、ピッチの上で笑っている。その様子がどうにも微笑ましくて、気づいたら自分も顔を綻ばせていた。止まっていた時計の針が再び動き出したような気がした。







 木橋らが帰ると選手たちが試合の準備を始めた。今ピッチでボールを呼んでいるあの選手にも、何人かにボールを回されているこの選手にも引退というのはあり、いつまでも選手でいてくれるわけではない。それにサッカー選手というものは他のスポーツ選手に比べて移籍が多く、よく「選手はチームを通り過ぎるもの」などと言われる。


 思えば、「ディス・イズ・ザ・デイ」の第5話「篠村兄弟の恩寵」は選手の移籍がテーマで、第9話の「おばあちゃんの好きな選手」では国内外6つのチームを渡り歩いた選手が登場していた。どちらも選手の移籍を通した出会いと別れが書かれていた。


 思えば木橋も移籍して入ってきた選手だった。木橋を応援しているときはそんなこと思いもしなかったが、木橋が引退したときに、選手でいる時間は限られているのだと聡美は思い知らされた。その限られた時間をチームのために費やしてくれる選手に、出会えたことの素晴らしさを当時の聡美は知らなかったのだが、今ではそれが身にしみて分かる。「通り過ぎていくもの」である選手が、今このチームにいるということは奇跡的なことであり、その奇跡がとてつもなく愛おしいものに感じられる。


 それは試合を見に来る人だってそうだ。今は長橋というチームを選んで見に来ているが、何の気なしに見に行くチームを変えたり、飽きたからといってこなくなってもいいのだ。一人とも違わず全く同じ人が入る試合など二度はない。たとえその試合が13位と14位の対戦という意味の薄いものであっても、それは、後にも先にもない一度きりの試合だ。

 
 選手が選手でいる時間は限られていると同時に、私たちが私たちでいられる時間も限られている。その限られた時間をサッカー観戦に消費する。他にも娯楽というものは数多あるのに、わざわざサッカー観戦を選んで見に行く。スタジアムにはそんな人たちが集まっており、そこには小さい子供やお年寄りもいる。違う日常を歩む人たちが、サッカー観戦という同じ時間を共有する。それはものすごい偶然が集まってできた事で、聡美にはそれがとても素敵なもののように感じられた。スタジアムに来たからといってどうということはない。仕事は増えないし、家に帰ってもだれも待っていてくれない。でも、老若男女問わず大勢の人が集まるスタジアムには万能感みたいなものがあって、もしかしたら何かが変わるかもしれないという感覚がした。







 選手たちが入場して、円陣を組んでから、ピッチに散らばる。試合開始を告げる笛が鳴る。ゴールの後ろにいる人たちが大きな声を出して応援している。周りの人たちは、静かにピッチ内で起こることを見守ったり、隣の人と話しながら見ていたり、携帯で他の会場の途中経過を見ながら「うっわ、マジかよ」なんて言ってたりする。聡美はじっと選手たちを見つめていた。今ピッチの上で起こっている奇跡を見逃したくはなかった。



おしまい
 

ディス・イズ・ザ・デイ
津村記久子
朝日新聞出版
2018-06-07