こんにちは。これです。もうすぐ3月も終わり。明後日にはもう新元号が発表されると考えると思うと早いですね。平成の次の元号は何になるのでしょうか。


それはともかく、今回のブログも映画の感想になります。 今回観た映画は『THE GUILTY/ギルティ』。口コミでじわじわと人気を集めているデンマーク映画です。長野ではやってないので、松本までわざわざ松本まで観に行きました。そして今このブログは駅前のマックで書いてます。まあそんな感じです。

 
それでは感想を始めたいと思います。今回も何卒よろしくお願いいたします。







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ー目次ー

・制限された情報が想像を掻き立てる 
・疑心暗鬼になった
・ SNSから考えるこの映画が描いた「罪」とは




 

ーあらすじー

緊急通報指令室のオペレーターであるアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、ある事件をきっかけに警察官としての一線を退き、交通事故による緊急搬送を遠隔手配するなど、些細な事件に応対する日々が続いていた。そんなある日、一本の通報を受ける。それは今まさに誘拐されているという女性自身からの通報だった。彼に与えられた事件解決の手段は”電話”だけ。車の発車音、女性の怯える声、犯人の息遣い・・・。微かに聞こえる音だけを手がかりに、“見えない”事件を解決することはできるのか―。

(映画『THE GUILTY/ギルティ』公式サイトより引用)




映画情報はこちらからどうぞ

 








※ここからの内容は映画のネタバレを多少含みます。ご注意ください。











・制限された情報が想像を掻き立てる 


この映画の最大の特徴でありセールスポイント。それは言わずもがな「ほとんど電話の会話のみでストーリーが展開される」という点にあります。あらすじにもあるように、主人公アスガーは緊急通報指令室のオペレーター。日々緊急の電話の相手をしています。スクリーンに映し出されるのは電話を受けているアスガーだけ。事件の風景は自分で想像するしかありません。


薬中からの電話や「自転車で転んで膝を怪我した」などの自分でなんとかしろと言いたくなる電話(これ日本でもよくあるヤツや)に日々追われるアスガー。オペレーター勤務の最終日、ある女性からの通報が入ります。その女性は男に車で誘拐されていて助けてほしいと泣きながらに懇願します。


繰り返しになりますけど、ここで事件(と言っておく)の映像は一切示されないんですよね。観ている人のイメージに委ねられる。なので人それぞれによってイメージしている映像は千差万別で異なるんです。


ちなみに私がイメージしたのは、イーベンは『クワイエット・プレイス』のときのエミリー・ブラント。夫のミケルは短髪でうっすらと髭が生えていて、例えるならデビッド・ベッカム。俳優じゃないけど。そして娘のマチルデは『アイ・アム・サム』のときのダコタ・ファニング。マチルデを保護した警官は黒人で、電話相手のボスは太っている感じ。北デンマーク州の司令官は短い金髪に黒縁のメガネをかけていて、アスガーの相棒(名前忘れた)はたぶんアスガーよりも背が低い。といったような容貌をイメージしながら観ていました。


事件の様子は想像するしかないんですが、それを掻き立ててくれるのがです。車の走る音やイーベンがもがく音、周囲の話し声に風の吹く音まで、この映画は様々な音が電話越しに聞こえてきました。雑音といってもいいこれらの音ですが、数少ない手がかりとなって、状況をよりリアルに伝えてくれるんですよね。


ほら、日常で無音ってないじゃないですか。映画の演出で無音にすることで、物語中の世界であることを際立たせるっていう手法があるんですが、この映画はあえてノイズをカットしないことで、これはフィクションではなく現実の話だと突きつけてくるんですよ。リアリティがすごい。


さらに、この映画で音の演出の他に際立っていたのが画面作りです。この映画ってイーベンの事件の内容が明らかになっていくにつれて、どんどんと画面の情報が減っていくんですよ。淡い水色のオペレータールームから、電気のついていない暗い部屋へと。そしてシャッターを降ろして外界からの光を遮断するなど、物語が進むのに、聴覚からの情報が増えていくのに合わせて視覚からの情報は減らされていくんです。これによって事件の内容により集中することができるようになって上手い演出だなと感じました。


さらに、場所の移動だけでなくカメラワークもわざとアスガーにピントを合わせて、周囲の光景をぼやかせたり、アスガーの顔のアップを多用するなど、情報量の削減が徹底されています。アスガーの顔のアップでは、彼の焦燥や不安、怒りが手に取るように伝わってきて、彼を演じたヤコブ・セーダーグレンの演技は迫真のものでしたね。彼も多くを語らないんですけど、それがまたよかったです。事件の様子を見せない、視覚からの情報量を減らすといった『THE GUILTY/ギルティ』は引き算がバチっとはまった映画ですね。



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・疑心暗鬼になった


ほとんど電話の会話のみで構成されたこの映画。余白が多く、観ている人のイメージに委ねられる部分が大きかったのですが、私が何を考えながら観ていたかというと「こいつら嘘ついてんじゃねーか?」ってことなんですよね。


観ている私たちには事件の光景というのは想像できませんし、言ってしまえば本当に事件が起きてるかどうかだって定かではないんですよ。もしかしたらテープでノイズを流しているだけで、家から一歩も出ていない可能性。ミケルとイーベンの家に来た警官が本当は真犯人で、マチルデを攫っていくという展開。「実は全てドッキリでしたー」みたいなオチさえ想像したほどです。


映像によって確認することができないから、誰が本当の事を言っていて、嘘をついているかどうかなんて知る術がないんですよね。誰もが嘘をついているように思えてしまって。いや、最後もう一回どんでん返しあるんじゃないかって疑心暗鬼になりながら観てました。正解を示さない事でいろいろの考えが頭の中をぐるぐると回って、推理する楽しさがあって面白かったですね。


さて、当然のことながら考えを巡らせているだけでは物語は進みません。ならアスガーはどうしたかっていうと決めつけたんですよね。事件の構造をこうだと決めつけて、それを元に聞き取りを進めていく。観ている私もヤコブの決めつけに従っていって、ヤコブと一心同体になったようでした。


でも、決めつけって怖いんですよ。だってその決めつけが100%正しいとは限らないじゃないですか。昔は天動説だって決めつけられてましたけど、今では地動説が主流でしょう。決めつけが正しくないことなんていくらでもあるんです。勝手にレッテルを貼って、個人を見ようとせず、レッテルばっかり見て。それでその人を理解したようになって。映画の中でこの決めつけは覆されますし、想像力を基にした決めつけは万能ではないとこの映画は主張していたように私には思えます。


そして、これってとても現代的なテーマだと思うんですよね。つまりはSNSです。



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・SNSから考えるこの映画が描いた「罪」とは


現代はSNSによってより遠くの人とも簡単に繋がれるようになっていますよね。利用者も爆発的に増えて。2010年代は「SNSの時代」と言ってもいいくらいです。確かにSNSは便利ですが、その一方で使い方を間違えればとても危険なツールでもあります。


私はツイッターとたまにLINEしかやっていませんが、SNSというのは情報量があまり多くないじゃないですか。ツイッターは140字しかないし、画像を4枚載せても限りがあります。動画を載せることも可能ですが、最後まで見てくれる人はあまり多くない。つまりは限られた文字数、情報量で伝えなければならないんです。これは電話での会話で情報量を制限していたこの映画と同じだと私は考えます。


そして、SNSでも想像力は必要になります。この投稿でこの人は何を言いたかったんだろうという想像力。でも、やっている人の表情は分からないし、明るい顔文字をたくさん使っていても泣きながら投稿しているかもしれないですよね。嘘をつくのだって容易なわけです。何が本当かなんて本人にしか、本人にすら分からないことだってある


それでも私たちは「こうだ」って決めつけながら、SNSを使っていますよね。本人の意図する方向とは逆に解釈してしまうこともある。気にいらない人の投稿を自らの都合のいいように決めつけて攻撃する。それってとても怖いことだなって思います。


また、映画の中でアスガーは善意正義感をモチベーションにして動いています。これは人間として正の感情であり、否定されるいわれはありません。ただ、この映画の中ではこの善意や正義感が仇になっているんですよね。アスガーは自らの業務の範疇を超えて、イーベンを助けようとしました。しかし、映画ではそれがさらに深刻な事態を招いてしまっています。いきすぎた善意、正義感の暴走とも言えるでしょう。


でもって、これもSNSに適用できるんですよね。ほら炎上ってあるじゃないですか。個人の発言だけで、その人の性格を決めつけ、攻撃するっていうヤツ。あれもいきすぎた善意、正義感の暴走だと思うんですよね。


「こいつは悪だ」って決めつけて、「悪だから排除してもいい」という正義を振りかざし、力づくで排除する。歴史を振り返ってもナチスのユダヤ人虐殺や、日本での関東大震災後に朝鮮人が殺されるといった事件など枚挙に暇がありません。そしてこれは現代でも炎上という形で引き継がれているんですよね。『THE GUILTY/ギルティ』はそういった人間の過去から現代まで続く愚かな営みを小さい単位で可視化していたというのが私の印象です。


これってつまりは映画の中でも言われてたんですけど「自業自得」なんですよ。だっててめぇが首を突っ込んだんですもん。無視することもできたのに。でも、炎上に加担したからにはてめぇにも跳ね返ってくるぞと。実際アスガーは始まるときよりも不利な状況になって映画は終わっていますし。勝手な決めつけといきすぎた善意、正義感の暴走こそが「罪」であるというのがこの映画の主張だと私は思います。まあこれも決めつけなんですけどね。





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以上で感想は終了となります。『THE GUILTY/ギルティ』の持つ静かな迫力は映画館の音響でこそ映えるというもの。興味があるならば観てみることをオススメします。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい



 

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