こんばんは。これです。今朝に引き続き、今回も映画の感想です。


今回観たのは『メアリーの総て』。私が海外の女優で一番好きなエル・ファニング主演で、かの傑作『フランケンシュタイン』を弱冠18歳で書いたメアリー・シェリーを主人公に据えた映画です。去年公開時からずっと観たいと思っていたのですが、長野では公開が遅れまくり、平成も終わるこのタイミングでの公開となりました。もう三館ぐらいしかやってねぇよ。


ただ、個人的には今年観た映画の中でもかなり上位に食い込んでくるぐらい大好きな映画だったので、ここに感想を書いていきたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いいたします。




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―目次―

・ストーリーについて
・「こうあるべき」への抵抗
・なぜ書くのか





―あらすじ―

19世紀、イギリス。作家を夢見るメアリーは、折り合いの悪い継母と離れ、父の友人のもとで暮らし始める。ある夜、屋敷で読書会が開かれ、メアリーは"異端の天才詩人"と噂されるパーシー・シェリーと出会う。互いの才能に強く惹かれ合う二人だったが、パーシーには妻子がいた。情熱に身を任せた二人は駆け落ちし、やがてメアリーは女の子を産むが、借金の取り立てから逃げる途中で娘は呆気なく命を落とす。失意のメアリーはある日、夫とともに滞在していた、悪名高い詩人・バイロン卿の別荘で「皆で一つずつ怪奇談を書いて披露しよう」と持ちかけられる。深い哀しみと喪失に打ちひしがれる彼女の中で、何かが生まれようとしていた――。
 
(映画『メアリーの総て』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・ストーリーについて


さて、感想を始めるにあたって、『フランケンシュタイン』のあらすじは今更説明する必要もありませんが、いま一度確認です。『メアリーの総て』公式サイトには、


天才科学者フランケンシュタインは研究の末、死体の材料を繋ぎ合わせて人造人間を生み出すことに成功する。しかし、創り上げられたその"怪物"はあまりの醜悪さから、フランケンシュタインに見捨てられてしまう。怪物は人間の理解と愛を求めるが、拒絶され疎外され、やがて恐ろしい復讐へ――。孤独な怪物の愛と哀しみを描いた、不朽の名作。



とあります。この映画最大の見どころは、メアリーと『フランケンシュタイン』の「怪物」とが重なり合っていくという点にあるのですが、そこに関係しているのはやはり「」という実体のないものかと思われます。


「怪物」は創造主であるフランケンシュタインの愛情を受けられませんでしたが、メアリーもまた母親からの愛情を受けられていませんでした。それもそのはず、メアリーの母親はメアリーを産んで亡くなってしまったからです。自らを産んでくれた母親からの愛情が精神の発達に大きく寄与するのはご存知の通りですが、メアリーは父親からの愛情を受けられず、継母からは疎外されてしまっていました。


このメアリーを演じたのが『マレフィセント』などでお馴染みのエル・ファニング。昨年、『パーティーで女の子に話しかけるには』を観て彼女の虜になり、今作も「エル・ファニングが出ているから」という一点のみで観に行ったのですが、まあ今作も素晴らしかった。キレイ。可愛い。美しい。かっこいい。全ての要素を兼ね備えていて、一挙手一投足が魅力的で目が離せませんでした。特に墓場でのシーンなにあれ。蠱惑的すぎるでしょう。


さて、メアリーは強制的に送られたスコットランドで、詩人のパーシーと出会います。演じたダグラス・ブースの色気のあるダメ男っぷりよかったなぁ。メアリーは母親からの愛情を受けられず、家族からも疎外されてしまっていたので、愛情を注いでくれる相手を望んでいたのは想像に難くありません。二人は付き合い始め、パーシーには性に奔放で、妻子がいるにもかかわらず、メアリーと駆け落ちをしてしまいます。自由恋愛という都合のいい甘言を振りかざして。そこにはなぜか義妹のクレアもついて来ます。クレアを演じたベル・パウリーの現代にも通じる嫌な女感よ。




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三人は共同生活を始めます。この一連のシーンのエル・ファニングはまさしく恋する乙女という感じで笑顔がキュートでした。ただ、クレアがパーシーと関係を持ったり、メアリーがパーシーの友人のホッグに言い寄られたりで、二人は言い争いをすることが多くなります。ここで、自由恋愛を標榜しているにもかかわらず、パーシーはメアリーには自分のものでいてくれるよう迫り、自分が浮気した時には自由恋愛を持ち出して、メアリーを説き伏せにかかります。うん、クズ男ですね。もちろんメアリーもパーシーに幻滅していきます。


ただ、メアリーは妊娠していて、二人の間にはクララという赤ちゃんが産まれます。クララはメアリーにとって、初めて掛け値なしの愛情を注げる存在であり、彼女の心は満たされていきます。しかし、クララは簡単に死んでしまいます。クララを失ったメアリーは愛の行先を失い彷徨います。生き返ったクララを夢に見るほどに。劇中で死人を生き返らせることに興味を示していたのも、母親とクララを生き返らせて自分を満たしてほしいという思いからですね。


物語は進み、クレアの策略により、三人は著名な詩人であるバイロン卿の家に泊まることになります。トム・スターリッジ演じるバイロン卿は見た目もキマってましたし、キスもドラッグもキメていてインパクトのあるキャラクターでした。バイロン卿とパーシーはポエムの応酬を繰り広げながら、日々は過ぎていき、ある雷雨の夜、メアリーたちはバイロン卿の提案で怪奇話を創作することになります。しかし、ここでクレアが家出。クレアとバイロン卿の関係は壊れ(バイロン卿は「別に愛してなかった」とか言ってた)、さらにパーシーの妻が自殺したのを受けて、三人は再び家に戻ります。この辺りの展開は程よく胸糞が悪くて好きです。


そして、メアリーは『フランケンシュタイン』を書き始めます。「怪物」に自分を投影するかのように筆を進めるメアリー。その筆致は鳥肌ものです。愛を求めて、手に入れて、失って。愛に振り回されたメアリーは自らの孤独と向き合って、自分の言葉を記せるようになります。彼女を「怪物」に変えたのは、自分は愛されない、満たされないという絶望でした。最後の「The End」が書かれた時。彼女の胸の奥からの叫びがダイレクトに届いてきて、胸が締め付けられましたね。ただ、メアリーの本当の戦いはここからでした




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・「こうあるべき」への抵抗


このメアリーが『フランケンシュタイン』を書き終えてからの展開が、個人的には超絶に大好きなものでして。まず、メアリーは『フランケンシュタイン』を最初にパーシーに見せるんですよ。読み終えたパーシーの感想が「面白いけど、もっと希望や理想があった方がいい」というもの。物語にプラスの感情を求める、実に大衆的な意見です。「物語とはこうあるべき」という押しつけがましさですね。そんなものないのに。


さらに、持ち込んだ出版社には、本当にメアリーが書いたのかと疑われてしまいます。パーシーが書いたのではないかと。さらに、「10代の女の子が描く物語にはふさわしくない」などと言われて跳ね返されまくり、唯一受け入れてくれた出版社にも、匿名での出版とパーシーの序文を加えるという条件を出されます。


これって、こうあるべきという定められた役割の押し付けじゃないですか。「女の子は暗いこと、難しいことは考えず、明るく振舞っていればいい」みたいな。ジェンダーロールの強制ですよ。そして、この極端に言えば性差別的な振る舞いはパーシーとバイロン卿に多く見られます。パーシーはメアリーに自身の所有物でいることを迫ってますし、パイロン卿は「女は賢くないから自分の詩が理解できない」という直接的な物言いをしています。これを受けてメアリーは「男が血に飢えた怪物に見える」と言ってますしね。


ただ、メアリーはこれに反抗して『フランケンシュタイン』を書いたんですよ。「怪物」を被差別対象に描くことで自らとリンクさせ、そして物語の中で復讐をしていく。これは、男に差別され抑圧されてきたメアリーの復讐でもあるじゃないですか。差別への抵抗を『フランケンシュタイン』に委ねたものの、支配的な男からは認められない。そんな孤独の最中でも戦うメアリーの姿がとても勇ましく見えます。エル・ファニングの見た目のかっこよさと合わさって、感情移入は今年一番ぐらいにしたかもしれないです。もう大好きですね。




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・なぜ書くのか


この映画を観て感じたのが、「私は満たされない人間が好き」だということです。正直、私って満たされている(ように見える)人間って好きじゃないんですよ。この世の春を謳歌しているような人間よりも、日陰者の方が好きで。これは物質的にではなく、精神的にという意味です。心のパーツがどこかかけている人間の方が、個人的に身近に感じるんですよね。そして、この映画には精神的に満たされない人間ばかり出てきました


ビッチでリアルな嫌味のあるクレアも、自分の性欲に従順なパーシーも、いろいろキマっているバイロン卿も、みんな駄目なところがあって、心に孤独を抱えていました。孤独だからこそ繋がりたいと思って愛情を求めるんですよね。それが見えたので、私は彼ら彼女らをどうしても嫌いになれません。フランケンシュタインから見捨てられた「怪物」と根っこの部分では変わっていない。


そして、クレアが「『怪物』を自分のことだと思う人間は、あなた(メアリー)が想像するよりずっと多い」と言っていたように、満たされない人間って案外多いんですよ。いや、心から満たされている人間なんてこの世に一人もいないかもしれない。満たされたいから、物を求め、友人を求め、愛情を求める。これら人間の営みを『フランケンシュタイン』は描いているから、200年もの時を超え、未だに読まれているのではないでしょうか。


私が思うに、人間が文章を書いたり、絵を描いたりして創作するのって「満たされたい」からなのではないかと。充足を求めて、満たされたくて、それでも満たされない思いを作品にぶつける。「満たされなさ」は最強のエネルギーで、創作にはなくてはならないものです。もし完全に満たされてしまった時、人は創作することを辞めてしまうのではないかと思えます。


それに多分、物語って満たされない人間の願いであり、祈りなんですよ。ままならない現実を克明に書きつけ、主人公を満たされない存在に設定し、最後には満たされていくように物語を進める。このタイプの物語は満たされない自分への赦しであり、救いですよ。自らを充足させて、辛い現実に立ち向かうエネルギーを得る。物語が生きる糧となっているのです。




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また、創作の大きなメリットとして、作品は残るというのがあります。「自分」をどう残すのかは、人類にとって永遠の課題。きっと、自分が生きた証を書くことでしか残せない人種がこの世にはいて、そういう人たちが、文を書いているのではないでしょうか。そして、愛されたいという欲求を満たせなかったメアリーもこの人種でした。


でも、メアリーには『フランケンシュタイン』を匿名で出すことしかできなかったんですよね。自分を世の中に認めてもらえないという絶望。バイロン卿と一緒にいたDr.ポリドリの書いた『吸血鬼』が、バイロン卿本人も自分で書いていないと言っているにもかかわらず、世間にはバイロン卿が書いたことにされているという現実が、自分を残せないという残酷さをより突きつけてきます。


それでも、この映画の最後から二番目のシーンは『フランケンシュタイン』の作者がメアリーと記されているというシーンでした。暗く胸糞も悪い物語ですが、最後に自分の名を残せた、自分の存在を確認することができたという希望のあるラストを迎えていて、メアリーの苦労が少しでも報われたようで感動しましたね。




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多分、このブログも読まれないでしょう。今公開しているのが三館のみということで、まあ10PVもいかないんじゃないかな。それに、私が5月1日~3日にかけてnoteで出そうとしている小説(?)も、読まれることはないと思います。あの、凄惨な事件で死んだ人の葬式に多くの人が押し掛けるという話で、善意や正義の暴走を書こうと思ってるんですけど、こんなの誰も興味ないですよね。認められたい、満たされたいですけど、誰も満たしてくれないのは目に見えていて。


でも『メアリーの総て』を観て、「創作には満たされないことが大事」と再確認することができましたし、これで読んでもらえれば嬉しいですけど、読んでもらえなくても「満たしてくれなくてありがとう。これで次も書けます」って受け入れられるような気がします。メアリーが『フランケンシュタイン』を書くシーンを観て、創作意欲が湧いてきましたし、趣味で創作をしている人は、ぜひ観ておくことをオススメします。心に火をつけてくれますよ。劇場公開はもうほとんどないですが、DVD/Blu-rayは6月4日発売ですので、機会があればどうぞ。




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以上で感想は終了となります。『メアリーの総て』、もう上映館もないので、観てくださいとは気軽に言えませんが、いい映画なので6月4日発売のDVD/Blu-rayをレンタルして観てみてください。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


メアリーの総て [Blu-ray]
エル・ファニング
ギャガ
2019-06-04



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