こんにちは。これです。もうそろそろ2019上半期映画ベスト10を決める時期ですね。私も今ちょっとずつ考えています。月末にはこのブログで発表したいと思いますので、その時はまたよろしくお願いしますね。


さて、今回観た映画は『ウィーアーリトルゾンビーズ』。長久允監督の長編デビュー作です。が、興行収入はあまり芳しくないらしく、今週の公開なのに、もう今日で終了してしまう映画館もあるとか。私の近所の映画館も今週限りで終了とのことなので、終わる前に急いで観に行きました(というか初週で1日2回だけはないやろ)。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたしします。




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―目次―

・キャストについて
・音楽や演出、美術について
・可哀想を逆手に取った映画
・親を亡くした4人の成長物語でもあった





―あらすじ―


両親が死んだ。悲しいはずなのに泣けなかった、4人の13歳。
彼らはとびきりのバンドを組むと決めた。こころを取り戻すために―

出会いは偶然だった。よく晴れたある日、火葬場で出会った4人。ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコ。
みんな、両親を亡くしたばかりだった。
ヒカリの両親はバス事故で事故死、イシの親はガス爆発で焼死、
タケムラの親は借金苦で自殺、イクコの親は変質者に殺された。
なのにこれっぽっちも泣けなかった。まるで感情がないゾンビみたいに。

「つーか私たちゾンビだし、何やったっていいんだよね」
夢も未来もある気力もなくなった小さなゾンビたちはゴミ捨て場の片隅に集まって、バンドを結成する。
その名も、"LITTLE ZOMBIES"。
やがて社会現象になったバンドは、予想もしない運命に翻弄されていく。

嵐のような日々を超えて、旅のエンディングで4人が見つけたものとは―

(映画『ウィーアーリトルゾンビーズ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。ゲームのようなグラフィックで楽しいです。
















・キャストについて


では、まずキャストについて語るところから感想を進めていきたいと思います。『ウィーアーリトルゾンビーズ』で、主人公ヒカリを演じたのは二宮慶多さん。『そして父になる』で福山雅治さんの子供を演じた俳優さんですね。あれから成長した今作でも、孤独がデフォルトの少年ヒカリを好演していました。眼鏡をかけて大人しい雰囲気が、子供!って感じで好きですし、感情を押しとどめている様子も上手かったです。平坦な歌い方もツボでしたね。


また、イシを演じた水野哲志さんは、弱弱しい空手に愛嬌がありましたし、数多くの作品を経験しているだけあって安定感はピカイチ。反対に、タケムラを演じた奥村門土さんは、これが映画初出演ということで初々しさが感じられて、等身大って感じでした。ベースの位置が低いのには笑った。でも、やっぱりイクコを演じた中島セナさんですよね。一番存在感を放っていたのは。


まず、シンプルに背が高い。スタイルもよくて、最初のシーンで引きの画になったときから凛々しくて存在感が抜群でした。で、その高打点から繰り出される冷たい目つきですよ。見下されている感がたまんなかったです。真っすぐ前を見るときの目力もかなり強くて。予告編でもあると思うんですけど、中盤のカメラ目線で命令口調になるシーン。あれはマゾヒストには最高のご褒美ですよ。ゾクッとしましたもん。


それに、抑揚のない棒読み風のセリフもいいんですよね。突き放している感じで。ライブが始まる前のMCの感情がこもっていない感じもよかったですし、終盤のゴミ収集車の中での、短いセリフの応酬。あのシーンは目力も合わさって最の高ですよ。でも、棒読み風ではあるんですけど、決して棒読みではなくて。感情の抑制がバリバリに効いていて、でも抑えきれずに滲み出る様子とか恐ろしい子…!ってなります。


あとは、バッティングでスマホを真っ二つにするシーンとか、ピアノを弾いているときの色気とか、ヒカリの手を取って逃げ出したときのかっこよさとか、キスシーンの破壊力とかもう上げだしたらキリがないくらい。とにかく一挙手一投足が魅力的。映画の中でイクコは「無差別恋愛」と言われてましたけど、この映画の中島さんにピッタリなキャッチフレーズですね。あれで恋に落ちない男は少ない。それくらいの傑出した存在感でした。これでまだ13歳って嘘だろ…。人生何周目だよ…。クソピアノ講師a.k.a.清塚信也さんが言い寄るのも分かるなぁ。


たぶん、この映画がきっかけで中島さんは知名度も上がり、出演作品も増えるでしょう。おそらく世間にもどんどんと認知されていくと思われます。でも、13歳の中島さんが観られるのはこの作品だけ。いわば一瞬の煌きです。これを見逃してはいけません。いや本当今知っておいた方がいいですよ、中島セナさん。これから来るでしょうし。早めに知って、後で話題になったときに周りに自慢しましょう。その流れでこの映画も再評価されたらいいな。


(映画とは特に関係ありませんが中島さん出演のMVもご覧ください)






あ、言い忘れてました。『ウィーアーリトルゾンビーズ』は脇を固める俳優陣が、佐々木蔵之介さん、池松壮亮さん、佐野史郎さん、菊地凛子さんなど実は豪華なことを。大人の俳優さんが流石の演技で子供たちを支えているので、奇抜な演出下でも腰を落ち着けて観ることができます。個人的には工藤夕貴さんのヒステリックおばさんが好きですね。




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・音楽や演出、美術について


『ウィーアーリトルゾンビーズ』の最大の特徴は音楽や演出、美術をはじめとしたアートワークにあるのは誰もが認めるところでしょう。実際にこれらのアートワークはこの映画を唯一無二のものにしていました。


まずは音楽。『ウィーアーリトルゾンビーズ』では、かなりの時間で8bitのゲーム音楽が流れています。これが胸の奥にあるノスタルジーを喚起させて、耳に残るんですよね。『ウィーアーリトルゾンビーズ』はかなり重たい話だと思うんですが、この音楽のおかげで妙に楽しく観ることができました。


さらに、劇中歌も秀逸。リトルゾンビーズの平坦な歌は、謎の中毒性があります。今も頭の中で「ウィーアー、ウィーアー、リトルゾンビーズ」が流れていますもん。歌詞も書き下ろしとあってバッチリ映画の内容を補完していますしね。それにリトルゾンビーズ以外にも「タコの知能は3歳児」や、ホームレスの大合唱シーンなど盛りだくさん。特にホームレスのシーンはミュージカル的な趣もあってよかったですね。松浦祐也さんはホームレス系の役ばっかだ。





また、演出も冴えに冴えているわけですよ。今回目立ったのがゲーム的な演出。ホームページもそうですけど、オープニングムービーもファミコンチックなゲーム調のものになってました。他にもセリフがピコピコ音とともに表示されたり、シーンをSTAGE〇〇と分かりやすく区切ってくれていたりと魅力的な演出が満載です。


さらにはカメラワークもやりたい放題。上から映してみたり、顔が画面に収まらないほどドアップにしてみたり、ドキュメンタリーチックに画素数を落としてみたり。もうやりすぎだろってぐらいに変幻自在。でも、そこまでストレスにはならなかったので、多分緻密な計算によるものなんでしょうね。とても印象的で、こういう撮り方をする長久監督の作品をまた観たいなと感じました。


加えて、美術もいいわけですよ。まず、衣装やヘアメイク。リトルゾンビーズとしての4人の衣装はポップでサイケで不思議な可愛さがあります。ホームレスのシーンではその汚さと人懐っこさがシーンにパワーを与えます。それに、セットもよくて。ゴミ捨て場は本物のゴミを使っているとのことで、リアル感がありましたし、音楽番組のキ〇ガイなCGには脳みそをかき回されそう。小道具も中華鍋やキーボードなど印象的なものが数多くあり、観る者を飽きさせません。これらのアートワークが重なり、『ウィーアーリトルゾンビーズ』は重いんだけど楽しいというよく分からない(褒めてる)映画となっていました。斬新な表現の数々は一見の価値ありです。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・可哀想を逆手に取った映画


ただ、『ウィーアーリトルゾンビーズ』は、音楽や演出はポップでエッジが利いているんですけど、その実はかなり重たい話なんですよね。ヒカリ、イシ、タケムラ、イクコは全員両親を失っていますし、心に傷を負っています。自分なんて死んだほうがいいって思ってますしね。そんな彼らを見て、私たちがどう思うかというと可哀想なんですよ。私も可哀想と思って胸が締め付けられそうになりましたし。でも、この映画はそんな可哀想と思う気持ちを逆手に取った映画なんですよね。


まず、私たち大衆って可哀想が大好きなんですよ。人の不幸は蜜の味とまでは言いませんが、人間には不幸が必須で。でも、自分は不幸になりたくないから、他人の不幸を摂取してお腹を満たしているんですよね。


で、私たち大衆って感動もしたいんですよ。可哀想な人間が周囲の助けに支えられて、様々な苦難を乗り越えて生きていく。お涙頂戴のTVショーを欲しているわけですよ。だとすれば、両親を失った子供たちにはできるだけ悲痛な面持ちをしていてもらいたい。そこからの再起への振れ幅が大きければ大きいほど、悪い言い方をすれば映える。そして、エモい


映画の中で、リトルゾンビーズの演奏を見たマネージャー望月が、バズる要素が揃ってるみたいなこと言ってましたけど、それも彼らが可哀想だからですよね。親を亡くした少年少女の魂の叫び的な?バズるのってたぶん現象だけじゃなくて、背景にあるストーリーが必要なんですよ。例えば、その辺の人が普通に募金お願いしますって言っても大して集まらないですよね。でも、これが難病の女の子に手術を受けさせるために募金をお願いしますと言ったらどうでしょう。笑われるだけだった行為も、写真を撮られて拡散されてバズって。おそらく募金は比べ物にならないくらい集まるんじゃないでしょうか。これも女の子を可哀想だと思う心情からです。


これも映画の中で、作品と作り手のバックボーンは切り離すことができないみたいな話がありましたけど、これもその通りだなと。あるアーティストの作品が不祥事を起こした瞬間に、売れなくなったりとかあるじゃないですか。全てはイメージなんですよ。クオリティが下がらなくてもイメージがダウンすれば、売れないし見放される。大人ないし大衆は、リトルゾンビーズに可哀想というイメージを持っていて、実際にそうであってほしいと願います。いわば、これは悲劇を売り物にしているんですよね。だってその方が何もないより売れるもん。


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でも、リトルゾンビーズはその大衆の可哀想に反抗します。大人は彼らを可哀想なモノとして売り出そうとしているんですけど、でもそれはリトルゾンビーズの意思ではない。リトルゾンビーズ結成前の彼らの独白の時のバックには色彩がありましたけど、リトルゾンビーズとして取材を受けていた時にはグレーで色彩がないんですよ。これは結成前の彼らはまだ感情を持っていて、それが大人に使われる、消費されるうちに失せていったと私は思っているんですけど。で、また最後には色彩が戻って。感情が戻っていった感じがして、爽やかで好きですね。


それと彼らはエモいも古いって切り捨てているんですよね。大衆は彼らが再起していく姿を見てエモさを感じたいんでしょうけど、それはステレオタイプな考え方だと。だって終盤の彼らはどうですか。当たり屋して、清掃員を刺して、ゴミ収集車を奪って、そのゴミ収集車を乗り捨てて、最後はどこへ向かうでもなく歩いていく。事態は好転するどころか悪化しているんですよ。こんなもの大衆が望む再起の物語とは真逆じゃないですか。彼らは「これから平凡な人生を送る」みたいなことを言ってましたけど、まあ間違いなくこの後は逮捕されますよね。あ、でも彼らはまだ13歳だから、少年法が守ってくれるのかな?


まぁそれはさておき、『ウィーアーリトルゾンビーズ』は反骨精神が元にあると考えられます。勝手に可哀想だねって決めつけるなよみたいな。その意味では観客(私しかいなかったけど)に強烈なカウンターパンチをお見舞いしてきたとも言えますね。(視覚的にも)目の覚めるような攻撃を食らって、確かな印象が残りました。




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・親を亡くした4人の成長物語でもあった


さて、『ウィーアーリトルゾンビーズ』は反抗的な部分も多くあるんですが、根底に流れているのは「生」の肯定です。この映画は生きることを放棄しかかっていた子供たちが、生きていると実感する物語なんですよ。


両親を失った4人は、自分のことを感情のないゾンビみたいだと考えています。生きているか死んでいるのかも分からない。つまり死んでいても何の問題もないと。自分の存在を肯定できないんです。


ただ、同じようにゾンビのような彼らと出会い、過去を明かしあって、4人で過ごすようになります。そして、ヒカリがおばさんに連れられて福島に行くところを、イクコが中心となって他の3人が止めて、別の新幹線に乗る。


この新幹線のシーンが個人的には重要だと考えていて。イクコはたまに写真を撮っていたんですけど、現像はしないんですよね。それは現像したら思い出になってしまうから。イクコが取りつかれたように今今言っていたように、彼らには「今」しかないわけですよ。両親のいた過去は失われて、かといって未来も見えず、今この瞬間しかないんです。


4人は新幹線に揺られて、ゴミ収集車を奪って、ヒカリの両親が死んだ事故現場に向かいます。まあこれは映画を観てほしいのですが、ヒカリは夢の中ですけど死を選ぶんですよね。でも、他の3人に引き戻されて、生きることを選ぶ。それは事故現場で止まらずに通り過ぎたことにも表れていると感じます。


そして、映画はエンドロール前のラストシーン。ここで交わされる会話がよくて。「もうすぐ終わりだけど何も感じないね」「だって人生はまだ続くんだもの」って会話だったんですけど。ここで彼らは「未来」を見ているんですよね。そして、これからも人生が続くことを認める。生きているか死んでいるか分からないゾンビからは脱したわけですよ。いつの間にか喪失を乗り越える成長物語に着地していて、広大な草原の風景と相まって妙な爽やかさがありました。


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ただ、ゴールはよかったんですけど、そこに至るまでの過程がちょっと物足りないかなというのは感じました。4人のバックボーンはわりと丁寧にやっているんですけど、リトルゾンビーズを結成してからの展開がちょっと唐突に感じてしまって。もう少し結成してからのシーンが欲しかったかなと。本当に若干なんですけど、置いてけぼりを食らってしまう時間帯もあって。個人的には好きなんですけど、手放しで絶賛は少しできないかなと感じました。


いや、音楽や演出は相当に面白いことをやっているんですけどね。あと今見ておけば「俺はこの時から中島セナさんを知ってたんだぜー」となること請け合いなので、観て損はないかと思われます。というか観て。全然観られていないみたいだから。興行収入が長久監督らスタッフにそのまま入るわけじゃないんですけど、でもある程度の数字を残せなければ、長久監督に撮らせても売れないから止めとこうみたいになるじゃないですか。まあインディーズでも撮り続けるとは思うんですけど、それじゃあ長野のような地方には届かないわけですよ。個人的にはまた長久監督の映画が観たいなーと思うので、どうか皆さん観てください。埋もれさせるなゾンビーズ




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以上で感想は終了になります。『ウィーアーリトルゾンビーズ』、物足りない部分もありますが、それ以上に音楽や演出に魅力がある映画なので、気になっている方は観てみてはいかがでしょうか。長久監督のクリエイティブを持続させるためにもね。よろしくお願いします。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


ウィーアーリトルゾンビーズ
長久 允
キノブックス
2019-06-06



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