こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『ロケットマン』。エルトン・ジョンの半生を描いた音楽映画です。私はエルトン・ジョンをあまり知らないんですが、去年の『ボヘミアン・ラプソディ』が良かったので、今回も観に行ってみることにしました。で、結論から申し上げますとエルトン・ジョンを知らなくても十分に楽しめる映画である一方、少し違うんじゃないかと思うところもありました


では、それをこれから書いていきたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・基本的には楽しめた
・「本当の自分」って何なのさ






―あらすじ―

両親から愛情を与えられず、不遇の少年時代を過ごしたエルトン・ジョン。天才的な音楽センスを持つ彼はロックに目覚め、運命的な出会いをきっかけにスターダムを駆け上がる。だが、全世界で成功を収めるほど孤独になっていき…。




映画情報は公式サイトをご覧ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・基本的には楽しめた


私がエルトン・ジョンを知らなくてもこの映画を楽しむことが出来た理由。それはひとえに、エルトン・ジョンを演じたタロン・エガートンの素晴らしい演技のおかげです。『キングスマン』などで知られるタロン・エガートンは、まず外見からエルトン・ジョンに寄せていきました。体重も映画が進むにつれて増やしていき、奇抜な衣装も着こなしています。エンドロールで両者の比較がなされるのですが、そのシンクロ率にびっくりするほどです。


さらに、演技自体も素晴らしく、いきなり売れてしまったエルトン・ジョンの苦悩を十分に表現しています。パーティーのシーンでの孤独感や、鏡を見て笑うシーンが印象的ですね。酒や薬で自暴自棄になっているシーンも良かったです。でも、ステージとなると切り替えて、一気に明るい表情になるんですよね。人が変わったようなその変貌ぶりがとても怖かったです。痛みを隠して、プロとしてエンタメに徹している姿に、心がキリキリと痛みました。


それに、タロン・エガートンは劇中歌も吹替なしで歌い上げているそうで。エルトン・ジョンの名曲群をときに繊細に、ときにパワフルに歌い上げていて、演じる以上に歌でエルトン・ジョンの心情を雄弁に物語ります。特に大人になって第一声の『土曜の夜は僕の生きがい』は、インパクトがあってよかったですね。ここ大人になって一発目で大事なところだったんですけど、掴みに十分成功していました。夜の遊園地の灯りをバックに大人数が揃ったダンスを披露するのも気持ちよかったですしね。




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この映画を観て思い出すのは、去年ヒットした『ボヘミアン・ラプソディ』かもしれません。実在の人物を描いた音楽映画という大きな共通点が両者にはありますが、その中身は全くの別物。『ボヘミアン・ラプソディ』は主にステージやレコーディングでのみ歌っていたのに対し、『ロケットマン』は会話シーンや食事シーンで普通に歌っています。それはもはやフィクションのようであり(『ボヘミアン・ラプソディ』もだいぶ脚色しているとはいえ)、ミュージカル映画そのものでした。むしろ『グレイテスト・ショーマン』や『ラ・ラ・ランド』の方が近いですね。


なので、『ロケットマン』は、『ボヘミアン・ラプソディ』とは似て異なる映画です。そもそも二匹目のどじょう狙いと言ったって、製作期間けっこう被っているでしょうし。二匹目のどじょう狙いというのは2年か3年後に出てくるものを言うのでは。そんなに早く映画作れるわけないでしょうに。


それは置いといて、このミュージカル的演出が『ロケットマン』の最大の魅力であることは間違いありません。まず最初に『あばずれさんのお帰り』(なんつータイトルだと思うけど公式サイトにそう書いてあるので仕方ない)で、少しモノクロ気味の人間を踊らせて観客の興味を引き、『アイ・ウォント・ラヴ』で、この作品のテーマである「愛」を誰もが求めていることを示します。この曲歌い手がコロコロ変わるのが新鮮でしたね。お前も歌うんかい!みたいな。


そこからは息つく暇もなく音楽を連打。公式サイトによると全22曲あるそうなので、1曲あたり1分30秒だとしても実に33分、映画の4分の1は何かしら歌っていることになります。もちろん長い間効き続けられている曲なのでキャッチ―な名曲揃いですし、一糸乱れぬダンスも綺麗で、思わず楽しい気分になってしまいました。特にレストランでの『ホンキー・キャット』が好きですね。テンポよく酒を飲むところとか。あ、これ余談なんですけど、デザート頼むところあったじゃないですか。あそこで「アイス全種類」って言ってますけど、あれ覚醒剤のことですからね。隠語。


それに演出も奇抜なものが多くて。スローで浮かんでみたり、ステージをぐるぐる回してみたり、何か曲と同時に思い出をオーバーラップさせてみたり。それはそれで楽しかったんですけど、一番はステージで物理的に飛ぶシーンですね。足にロケットエンジンが点火して実際に飛んで行ってしまうんですよ。夢の中ですけど。ここはギャグだと私は受け取って、一人笑っていてしまっていました。


こういうミュージカル形式の映画だと、歌ってばかりで物語が進まないという課題が出てきますけど、『ロケットマン』はその課題をある程度クリアしていたと思います。もちろん冗長なところはありましたよ。でも、それ以上に歌で物語を進めたり、心情を語っているシーンが多くて。『ユア・ソング』では、バーニーとの関係を歌って彼を励ましていますし、『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』では、エルトンとバーニーがそれぞれ同じ歌を歌うことで、失ったものの大きさを強く印象付けています。


極めつけは表題曲の『ロケットマン』ですね。酒と薬の依存からくる性格の変化。それによって周囲の人間が離れていき、孤独になるエルトン。その孤独を宇宙飛行士に例えるのは感動しますし、普通の暮らしを望むエルトンの切望が伝わってきます。エルトン・ジョン本人が製作総指揮を務めているだけあってよくできた展開ですね。この孤独なエルトンという展開は好みです。救急車からステージに直行する流れも含めて。




このように、『ロケットマン』はタロン・エガートンの白眉の演技を見ることができ、ミュージカル的演出も多く、エルトン・ジョンを知らなくても楽しめる映画だと言えると思います。実際、私も大いに楽しんだのですが、終わってみると腑に落ちない箇所も何か所かありました。




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・「本当の自分」って何なのさ


この映画のテーマは「エルトンが『愛』を手に入れる」ことです。エルトンは父親から冷たくされ、愛情を受けていると感じられていませんでした。また、同性愛者であることから、世間一般の異性間の愛も受けることはできません(このへん「おっさんずラブ」と被ってるかも。見てないけど)。しかし、エルトンは最後になって「愛」を手に入れることができるんですよね。家族から、バーニーから向けられた愛は「恋愛」ではなく「親愛」で。愛されていると自覚したエルトンは、また衣装を纏って外に飛び出していきました。おしまい。


でも、ちょっと待ってください。この映画にはもう一つテーマがあります。それは「彼が『本当の自分』を手に入れる」ということであり、この映画の終わり方はどうもそれをおざなりにしているように私には思えました。


バックバンドをしていたレジ―は、黒人のミュージシャンから改名の話を聞きます。「『なりたい自分』になるために改名する」と聞き、改名を決意するレジ―。エルトン・ジョンと自ら名乗ります。ここでの「エルトン・ジョン」は、まだ憧れの対象であって、レジ―と同一ではありません


そして、成功を収めるエルトン。しかし、『ロケットマン』にもあった通り、普通の暮らしを、「レジー」でいることを望みます。なりたい自分になった結果、元の自分が恋しくなった。ここでもやはり「エルトン・ジョン」とレジーは同一ではありません。


それでも、最後には愛されていることを自覚するエルトン。家族の親愛の対象は「レジー」で、バーニーの親愛の対象は「エルトン」。両者が愛されていると知った彼。ここで「レジー」と「エルトン」が同一のものになったと私は考えます。そこまではよかったのですが、疑問なのは最後の選択。彼は衣装を着て「エルトン」でいることを選びます。ここで私は「レジー」を「エルトン」が駆逐してしまったように思えてしまったんですよね。




話は変わりますが、この改名という行為は日本でも見られた時期がありました。それは武士の時代における元服です。幼名から成人名へと名を改める重要な儀式です。『ロケットマン』での、改名も違う自分になるということで、元服と同じとも取れますが、両者には改名前の名前が残るか残らないかという相違点があります。元服とは違い、芸名では本名は残ります。


確かに、名前などというものは所詮は他人と区別するための記号なのかもしれません。『ロケットマン』の結論は、名前に左右されない自己を獲得したと言えるかもしれません。でも、名前が自己を決定するとも言えます。自分の名前がないと、私たちは自分を何と呼んでいいのかわからず、自己の輪郭を保つことはできなくなるでしょう。その点で名前とは単なる記号ではなく、アイデンティティの最たるものだと言えると私は考えます。


『ロケットマン』では、最後に彼は「エルトン・ジョン」を選択します。ここで、どちらか一つしか選べないと分かっていても、選ばれなかった「レジー」の立場は?とどうしても思ってしまうのです。家族にとっては「本当の自分」は「レジー」なのだから、「レジー」を選ばなかったということは家族の愛より大衆からの愛を選んだということなのでは?普通の「レジー」としての暮らしを欲していたはずでは?そのゴールは映画のテーマと少し違うのでは?と思わずにはいられません。映画が進むにつれて、ゴールが変わっていったのかもしれませんが、少なくとも私は「レジー」になることがゴールだと思っていたので面喰ってしまいました。




あと、名前で言うと最初のシーン。あれはおそらくアルコール依存者の自助グループ・アルコホーリクス・アノニマス(以下AA)だと思います。このAAは匿名性が特徴のグループで、自分の名前を明かすことはなく、ニックネームで呼び合うのが習わしとなっているそうです。とはいえ、彼普通に「エルトン・ジョン」って言っちゃってるんですよね。間に良く分からないミドルネームをつけていて、これがニックネームなのかなとも思いますけども。


でも、この本当の名前を隠すというのが、「本当の自分」を手に入れるというこの映画のテーマに沿っているのかもしれませんね。ニックネームも本当の自分の一部になっていて、名前に依らない根源的な自分を発見できると言いますか。彼も本名の「レジー」は言ってないですし。そう考えると、彼が過去を語る場所にAAが選ばれたのは必然だったのかもしれません。


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映画の撮影じゃなかったらただの変質者だよこれ。




さらに、ハマらなかったところは他にもいくつかあります。まずはその曲の多さ。歌っている時間がさすがに多すぎて、少し疲れてしまいました。それに以前ならそんなことなかったんですけど、『ダンスウィズミー』で、「今まで普通に喋っていた人がいきなり歌って踊り出すなんておかしくない?」という疑問を植え付けられたため、いきなり歌い出すシーンに何回か疑問を感じてしまったのも否めません。歌うシーンと普通のシーンがはっきりしている『ボヘミアン・ラプソディ』の方が個人的には好みですね。


それに、やはりライヴ・エイド的なブチあがるシーンがなかったのも痛い。『ボヘミアン・ラプソディ』は、最後の盛り上がりに向けて少しずつ上っていき、大きなピークに繋げるという印象でしたが、『ロケットマン』では、そのピークが分散してしまっています。さあ、エルトンが「愛」を手に入れた後のステージはどうだ?と思っていたら、そのまま謎のMV調の歌で終わってしまうではありませんか。その後を見て盛り上がりたかったのに、肩透かしに終わってしまった印象はどうしても拭えません。『ボヘミアン・ラプソディ』の後という状況は不利ですが、それを覆すだけのパワーはどうしても感じられませんでした。なので楽しめたんですけど、評価自体は絶賛というほどではないです。もうちょっと盛り上がりたかったです。




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以上で感想は終了となります。『ロケットマン』、気になる箇所はありますが、全体としては楽しめる映画です。エルトン・ジョンの曲とダンスに彩られた映画ですので、興味があれば観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

映画『ロケットマン』公式サイト
https://rocketman.jp/

アルコホーリクス・アノニマス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アルコホーリクス・アノニマス

名前とアイデンティティ|高田夏子
https://www.jrc.sophia.ac.jp/pdf/research/bulletin/ki21/takn.pdf




おしまい





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