こんにちは。これです。


今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『蜜蜂と遠雷』。2017年の直木賞・本屋大賞をダブル受賞した恩田陸さんの同名小説を映画化した一作です。今回珍しく原作を読んでから観に行ったんですけど、まあ原作自体が面白い面白い。流れるような文章でスラスラ読めちゃう。とても好きな小説だったので否応なしに期待は高まります。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・想像以上にがっつり削られて残念
・浜崎奏は必要だったのではないか
・映画のテーマと描写が矛盾している気がする
・ちゃんと良いところもあるよ





―あらすじ―

3年に一度開催され、若手ピアニストの登竜門として注目される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
かつて天才少女と言われ、その将来を嘱望されるも、7年前、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた栄伝亜夜は、再起をかけ、自分の音を探しに、コンクールに挑む。
そしてそこで、3人のコンテスタントと出会う。岩手の楽器店で働くかたわら、夢を諦めず、“生活者の音楽”を掲げ、年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑むサラリーマン奏者、高島明石。幼少の頃、亜夜と共にピアノを学び、いまは名門ジュリアード音楽院に在学し、人気実力を兼ね備えた優勝大本命のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
そして、今は亡き“ピアノの神様”の推薦状を持ち、突如として現れた謎の少年、風間塵。国際コンクールの熾烈な戦いを通し、ライバルたちと互いに刺激し合う中で、亜夜は、かつての自分の音楽と向き合うことになる。果たして亜夜は、まだ音楽の神様に愛されているのか。そして、最後に勝つのは誰か?


(映画『蜜蜂と遠雷』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・想像以上にがっつり削られていて残念


まず、映画『蜜蜂と遠雷』の感想を一言で言うなら「前後編で観たかった」。これに尽きます。そもそも原作者の恩田陸さんからして「映画化は無謀、そう思っていました。」というコメントを寄せています。ここで言う「無謀」とは、音楽を題材にした物語である以上、映画化するにあたっては音楽面で高いハードルが設けられる。それを越えるのは難しいと言った意味が、まず一つあったかもしれません。でも、映画では音楽面ではこのハードルを越えることはできていると感じます。しかし、問題はもう一つの「無謀」の方です。それはその文量です。


『蜜蜂と遠雷』の原作は500ページにも渡る大長編。さらに、ピアノコンクールという場の特殊性もあります。コンクールではコンテスタントに与えられる時間は数十分。映画で描かれなかった第三次予選に至っては一時間の長丁場です。さらに、演奏される曲も数分では収まらない長さ。それが数十曲。これらを逐一描こうとすれば、どれだけの時間が必要になるかなんて想像もつきません。なので、2時間で収まりきるかどうかは、私も見る前から不安でした。そして、観たところ想像以上にがっつり削られていましたね。


まず、亜夜と母親のシーンから始まり、その直後には、いきなり第一次予選というテロップが出るではありませんか。原作では第一次予選に至るまでに「エントリー」という90ページほどの章があったのですが、後々に示される数シーン以外はばっさりカットです。さらに、第一次予選もまさかの演奏なし。記者たちに説明セリフを喋らせ、設定の提示はしていますが、原作の90ページをわずか10分ほどに圧縮。計180ページが10分という超絶スピードです。


ここキャラクターを理解させるシーンも多く、必要だとは思ったのですが、せめて前編があれば…。いきなり「アーちゃん」「マーくん」言われても唐突すぎて…。この辺りで映画にうまく入り込むことができず、ずっとそのまま最後まで行ってしまった感じですね。


さて、第二次予選はしっかり描いたものの、映画では第二次予選からいきなり本選となってしまっています。実は、この間に原作では「第三次予選」という120ページにわたる章があったのですが、ここも映画ではまるまるカット。マサルのリストとか、塵の「アフリカ幻想曲」とか、ここで聴いてみたい曲けっこうあったんだけどなぁ...。私が原作で一番好きなシーンもカットされてるし...。そのぶん、本選で原作にはなかった亜夜の演奏をしっかりと聴かせてくれたのは、最高だったんですけど…。やっぱり前後編に分かれていれば、第三次予選もあったのかなと思わずにはいられません。


というか、この第三次予選がなかったせいで、いろいろ変なことが起こっていまして。まず、原作では、亜夜と明石はこの第三次予選で初めて言葉を交わしますからね。二人が泣くシーンは映画では、本選、しかもマサルの演奏中に挿入されていて。ぶっちゃけ印象がマサルの演奏と、二人の涙でばらけてしまうわけですよ。


映画では亜夜の最後の演奏が最大の見せ場となっていて、まあここは掛け値なしに感動するんですが、でも原作を読んでない人は最後の結果を見て、こう思うんじゃないでしょうか。「え!?亜夜が優勝じゃないの!?」と。もう完全に亜夜が優勝みたいな描かれ方をしていたので、原作通りにするなら、マサルの最後の演奏をもう少し集中してみせてほしかったなというのはあります。


それに、亜夜と明石が変に出会ってしまったおかげで、亜夜と塵がピアノを弾くのが音大から、よく分からない工房に変更になっていたのも大きい。まあここは二人の連弾で弾かれる「イッツ・ア・オンリー・ペーパー・ムーン」に大いに悶えたからいいんですけど。でも、原作では亜夜は学長に拾われて、音大生やってるという描写があるんですよね。でも、この映画ではそういうことは特に語られず。


この映画では亜夜が主人公的な立ち位置になっている(原作では群像劇だけれど、中心は塵だと私は思う)というのが、原作からの一番大きな改変なんですが、この亜夜の状況が描かれなかったのってけっこう致命的だなーと感じました。




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・浜崎奏は必要だったのではないか



原作から映画化するにあたっての改変は、『蜜蜂と遠雷』ではかなり多くて。展開的な改変以外にも、三枝子が審査委員長になっている(原作ではオリガという女性の審査委員長がいる)。塵が普通のホテルに泊まっている(原作では塵は花屋に泊まっている。好きな生け花のシーンがないのはショックだった)。塵と亜夜の順番が前の方になっている(原作では二人は終盤の登場だった。本選で展開の犠牲になった韓国のコンテスタントかわいそう)などなど他にも細かい改変を上げれば、もう枚挙に暇がありません。その中でも、私がここは変えちゃダメだろ...と感じたのが、亜夜の親友である浜崎奏の存在です。


原作には音大の学長の娘で、コンクールに参加する亜夜の世話をする奏というキャラクターがいたんですよね。かなり亜夜のメンタルケアをしていて、亜夜の復活には彼女の貢献が大きいんですが、いざいないとなると、その存在の大きさを感じました。彼女の何が特徴かというと、コンクールに参加していないことなんですよね。彼女は音楽をやっているけど、コンクールは外から見ている。いわば私たちの視点となるキャラクターなんですが、その外からの視点がないと、まあ取っ掛かり辛いこと取っ掛かり辛いこと


私達と一緒にコンクールを見てくれるネームドキャラがおらず、コンクールの渦中に視点が集中してしまったのは、この映画における一つの短所だと感じます。だって私たち、コンクール出てないし、天才でもないし。耳はいいけど、天才じゃない奏がいた原作の方が、より体験している感があって個人的には好きです。奏から見た亜夜の変化も面白かったのになぁ。


亜夜を主人公にするならば、ここは削ってはいけない部分だと感じました。誰が演じるのかワクワクしてたのに...。個人的には『ちはやふる』のまんま上白石萌音さんをイメージしてたよ…。ワクワク返して…。


もうですね、本当500ページを2時間に圧縮してるから、この映画っていろいろと描写不足が目立つんですよ。たとえば、ジェニファ・チャンですね。「あのジェニファ・チャンが落ちた!」っていっても、いや私たち彼女の演奏聴いてないし、知らないし。それに、塵の第一次予選の評価が賛否両論割れていましたよね。これ、原作では「エントリー」で彼の演奏が扇情的過ぎて、否が多かったんですけど、コンクールが進むにつれてだんだん賛が多くなっていくという展開があったんですよ。原作では、ここも見どころだったのになぁ。亜夜を主人公にした煽りを受けてしまった…。せめて、せめて前後編だったら…。




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・映画のテーマと描写が矛盾している気がする



その一方で、この映画では原作にないシーンもいくつか追加されています。片桐はいりさん感が強すぎる受付係は原作にはいませんし、鹿賀丈史さん演じる指揮者もあんなに出番多くなかった。マサルとのシーンなんて、原作ではほんの数行で済まされてますからね。さらには、本選前のオーケストラの演奏なんて原作には一文字もありません。ここから浮かび上がってくるのは、この映画は原作と同じく、ピアノコンクールだけではない、もっと大きな「音楽」というものを描こうとしていたのではないかという推測です。


映画では、片桐はいりさんが音楽を聴くシーンが何度か挿入されました。オーケストラの出番も増えています。また、「世界が鳴ってる」「世界は音で溢れている」というセリフ(ここは原作通り)もありました。ここで示されていたのは、音楽は何も楽器から出るものだけではなく、身の周りに溢れている。音楽はコンテスタントだけのものではなく、全ての人のためのものであるというテーマのように私は感じます。その象徴となっていたのが、本編に幾度となく挿入されたやたらと立派な「」です。


きっと、原作を読んでいない人には脈絡のない馬の登場に戸惑ったことでしょう。原作を読んだ私ですらそうでしたのだから。はて?こんなシーンあったっけなと思い、帰って原作を少し見返してみました。ありました。それは、亜夜が初登場するシーンでの描写です


雨の音がひときわ強くなって、栄伝亜夜は、無意識に本から顔を上げていた。
(中略)
やっぱり聞こえる。雨の馬たち。
それは、子供の頃から何度も聴いてきたリズムで、かつて亜夜が「雨の馬が走ってる」と言っても大人たちはきょとんとするばかりだった。
(中略)
恐らくは、雨の勢いが強くて、母屋の屋根からトタン屋根の上に雨水が飛んでくるのだろう。そうすると、トタン屋根の上で、雨は独特のリズムを刻む。
ギャロップのリズムだ。


(恩田陸『蜜蜂と遠雷』p38-39より引用)


はい。というわけで、この描写を映画では再現したわけですね。きちんとした馬術指導の方まで雇って。亜夜の「雨の馬」は、この物語で初めて描かれた、いわば彼女の原体験の一つです。その「雨の馬」を塵の演奏の際にだぶらせることで、昔を思い出して、吹っ切れたと。塵の演奏が彼女を勇気づけたと。風間塵はコンテスタントの才能を弾けさせる「ギフト」なんだと。私はこのように感じました。って、原作を読んでない人にはこんなの分かるか!って感じですよね。天才の感覚を説明もなく出されて、分かってたまるかい!って感じですよね。もっともだと思います。


それに、原作を読んでいない人は最後の「菱沼章・高島明石」の意味もきっと分からないですよね。「日本人作曲家演奏賞」ってなんじゃらほいですよね。これも説明しますと、菱沼賞というのは「作曲者の菱沼忠明先生が、今大会で『春と修羅』を演奏したコンテスタントの中から、いちばんよい演奏だったということで選ばれた賞です」(原文ママ)というもの。


これを明石が受賞したということは「生活者の音楽」が認められた一つの証左なんですよ。第二次予選で落ちてしまった明石にも救いがある、原作で一番好きなシーンなんですが、このシーンが映画版ではなかったんですよね。これはいかんだろうと。


この映画の「音楽は、楽器から出される音だけでは、コンテスタントだけのものではない。もっと世界に満ちている」というテーマからすると、子供を持ち働きながら音楽に打ち込む明石というのはその象徴で、物語でもキーパーソンと言って差し支えないキャラクターなんですよ。それは、映画に登場しなかった奏にしてもそうです。二人はコンクール外の音楽の象徴。この二人の描写をおざなりにしてしまうことは、上記のテーマと大いに矛盾してしまっていると私は考えます。


「天才」に重心が偏っているのが良くも悪くも映画版の特徴なんですけど、私は少し悪く受け取ってしまいました。もうしつこいようですけど、前後編...。前後編でもっとじっくり描いてくれたら、傑作になってた気がする...。




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・ちゃんと良いところもあるよ


ここまでつらつらと不満ばかり語ってきましたが、映画『蜜蜂と遠雷』には、良いところも決してなかったわけではありません。それは、俳優さんと音楽の二点が大きく上げられるかと私は思います。


まずは俳優さんについて。この映画の主人公となる栄伝亜夜を演じたのは、松岡茉優さん。松岡さんは個人的に今一番好きな女優さんで、私がこの映画を観に行ったのも松岡さんが主演だからというのは多分にあります。で、実際に観たところもう言わずもがなの熱演。最初の鏡のシーンで一気に心を掴まれ、そこからは亜夜の彷徨っている様を全身で表現しています。特に細い声がよかったですね。


注目していただきたいのが、散々迷っておいての最後の凛々しさ。最高。ダイナミックにピアノを弾き、プロコフィエフの三番とともに映画を最高潮に盛り上げます。この演奏だけで、この映画を観た価値が十分にあると確信できるほどです。ぜひ観ていただきたい。


続いて、働きながらコンクールに出場する高島明石を演じたのは、松坂桃李さん。眼鏡を掛けて穏やかな佇まいは、明石そのもの。子供と遊ぶシーンはいいパパを絵に描いたよう。ブラックな演技じゃなく、こういった優しい演技も出来て、本当に幅が広いんだなと再認識しました。個人的な見どころはインタビューで言葉を詰まらせるシーンです。あの喋り出すまでの前に、言いしれない悔しさがひしひしと表れていて好きですね。


また、優勝候補であるマサル・C・L・アナトールを演じたのは、『レディ・プレイヤー1』での活躍が記憶に新しい森崎ウィンさん。正直、身長は少し足りない気もしましたが、それを補って有り余る貴公子ぶりを披露。感じもよく爽やかで「ポピュラリティ」を兼ね備えていました。ピアノを弾く際に見せる笑顔がキュートです。


さらに、音楽の神様に愛された謎の少年・風間塵を演じたのは、これが映画初出演となる鈴鹿央士さん。フレッシュな雰囲気はもちろん、猫のようなとっつきやすさと、宇宙のような得体の知れなさを両方持っていて、まさに風間塵にぴったりだったと思います。ピアノの演奏も板についていましたし、今後の活躍を期待したい俳優さんですね。


他にも、斉藤由貴さんの英語や、ブルゾンちえみさんなどところどころ引っかかるところはありつつも、俳優さんたちはおおむね好演していたと思います。いや、鹿賀丈史さんの迫力凄かったですね。睨まれたら動けなくなりそうです。誇張じゃなくて。





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そして、この映画の最大のセールスポイントである音楽ですよ。亜夜担当の河村尚子さん、明石担当の福間洸太郎さん、マサル担当の金子三勇士さん、塵担当の藤田真央さん。私はクラシック方面には全く疎いので、正直全員存じ上げませんでしたが、素人ながらに誰もが素晴らしい演奏をされていたと思います。


代表的なのは第二次予選で、課題曲の「春と修羅」を弾くシーン。ここはこの映画の最初の演奏シーンで、キャラクターを音楽だけで伝えなくてはいけないという、映画を左右する非常に重要なシーンです。この音楽だけで伝えるという判断は、演奏者の方々を相当に信頼していなければできないもので、ハードルは相当に高かったと思いますが、4人ともがそれぞれ抜群の回答を披露


金子さんは超絶技巧でマサルの貴公子ぶりをアピールし、福間さんは柔らかな演奏で明石の積み重ねてきた時間を思わせます。藤田さんが激しい演奏で塵の天衣無縫ぶりを表現したかと思いきや、河村さんは軽やかな演奏で、亜夜の才能を見せつける。観ている人の感受性に委ねる部分は大きいですが、私は素人ながらに音楽だけでキャラクターを伝えるという試みは成功していると感じました。


さらに、オーケストラの演奏も迫力があり壮大。とても満足しましたが、やはり特筆したいのが、ピアノとオーケストラが合わさった亜夜のプロコフィエフの三番です。これは映画のクライマックスで、それまでの印象をひっくり返してしまうようなパワーがありました。優雅で、大胆で、身を乗り出して聴きたくなります。亜夜が「プロコフィエフは踊りたくなる」と言っていましたが、その言葉通りの弾けた演奏でした。ずるいですよ。あんなの聴かされたら感動するしかないじゃないですか。


あ、ちなみにここ原作では、亜夜がプロコフィエフの二番、マサルがプロコフィエフの三番と二人の演奏曲が逆になっていたんですよね。この改変は、単に最後に三番を持ってきた方が盛り上がるだろうという映画的な改変だと思いますけど、他の改変と違って、この改変はバッチリハマってました。超ファインプレーだと思います。




それだけに、俳優さんと音楽は良かっただけに話を削りすぎたのが痛い...。どうしても前後編でやることはできなかったんでしょうか。いや、きっと初期の企画段階では前後編の構想だったんだ。それが様々な事情が絡み、紆余曲折を経て、二時間一本になったんだ。うん、きっとそうに違いない。音楽がプラスされるだけで、映画化した意味がありますしね。その試み自体は私には否定できません。でも、やっぱりもっとじっくりやってほしかったというのが偽らざる本音です。惜しい…。




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以上で感想は終了となります。『蜜蜂と遠雷』、個人的には期待していった分、がっくりと来た気持ちが強いです。正直、今年観た邦画でも半分よりは下かな...。でも、悪い映画では全然ないので、興味があれば観てみるのもいいかと思います。プロコフィエフの三番、感動しますよ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


蜜蜂と遠雷
恩田 陸
幻冬舎
2016-09-23



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