こんにちは。これです。長野はまた雨でもういい加減にしろよと思う今日この頃です。これ以上被害をもたらさないでほしい。


でも、なぜか今日も映画を観に行っていました。今回観た映画は『楽園』。『64―ロクヨン―』の瀬々敬久監督の最新作です。ほとんどを長野で撮影したとのことで、これは観に行かなければと思い観に行ってきました。そうしたらメンタルをガンガン削られました。結構辛い映画でしたね。『ジョーカー』みたいに。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・中村豪士と集合感情の侵害
・田中善次郎と限界集落の諦観
・湯川紡と私がこの映画に感じたメッセージ





―あらすじ―

青田が広がるとある地方都市―。
屋台や骨董市で賑わう夏祭りの日、一人の青年・中村豪士(綾野 剛)が慌てふためきながら助けを求めてきた。
偽ブランド品を売る母親が男に恫喝されていたのだ。

仲裁をした藤木五郎(柄本 明)は、友人もおらずに母の手伝いをする豪士に同情し、職を紹介する約束を交わすが、
青田から山間部へと別れるY字路で五郎の孫娘・愛華が忽然と姿を消し、その約束は果たされることは無かった。
必死の捜索空しく、愛華の行方は知れぬまま。

愛華の親友で、Y字路で別れる直前まで一緒にいた紡(杉咲 花)は罪悪感を抱えながら成長する。
12年後―、ある夜、紡は後方から迫る車に動揺して転倒、慌てて運転席から飛び出してきた豪士に助けられた。
豪士は、笛が破損したお詫びにと、新しい笛を弁償する。
彼の優しさに触れた紡は心を開き、二人は互いの不遇に共感しあっていくが、心を乱すものもいた。

一人は紡に想いを寄せる幼馴染の野上広呂(村上虹郎)、もう一人は愛華の祖父・五郎だった。そして夏祭りの日、再び事件が起きる。
12年前と同じようにY字路で少女が消息を絶ったのだ。
住民の疑念は一気に豪士に浴びせられ、追い詰められた豪士は街へと逃れるが……。

その惨事を目撃していた田中善次郎(佐藤浩市)は、Y字路に続く集落で、亡き妻を想いながら、愛犬レオと穏やかに暮らしていた。
しかし、養蜂での村おこしの計画がこじれ、村人から拒絶され孤立を深めていく。
次第に正気は失われ、想像もつかなかった事件が起こる。

Y字路から起こった二つの事件、容疑者の青年、傷ついた少女、追い込まれる男…
三人の運命の結末は―

(映画『楽園』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












・中村豪士と集合感情の侵害


青田が並ぶ地方の町。事件はあるY字路で起きます。少女が失踪し、地域住民の捜索も虚しく見つからないまま、12年の時が流れました。ある日、同じY字路で再び少女が失踪。しかし、今度は必死の捜索のかいあって少女は無事発見・保護されました。


まずこの映画について重要なことといえば、それは少女失踪事件の真犯人を捜すことがメインではないということでしょう。この映画での事件はあくまできっかけに過ぎず、事件が及ぼした影響がこの映画ではメインとして描かれています。


二度目の少女失踪事件の際、とある住民が声高に犯人かもしれないという情報を語ります。そして、犯人に仕立て上げられたのは中村豪士。幼いころ母親とともにタイから日本にやってきた青年でした。彼は地方によくありがちな平屋のアパートに一人で暮らしています。彼の暮らしぶりはとても慎ましいもので、演じた綾野剛さんは、日本語があまり上手くないという設定ながらも、片言や表情で感情をダイレクトに表現していました。追い詰められて定食屋に逃げ込むシーンの迫力は凄かったですね。


この映画は彼の母親が男に暴行を受けるシーンから始まります。また、彼自身も同級生に家のガラスを割られるなどのいじめを受けていた描写もあります。ここで重要なのが「逸脱」という概念。伊藤(2014)によると逸脱とは規範や標準、平均から外れているという意味です。おそらく日本人だらけの社会の中で、外国人である中村親子は標準から逸脱していたと考えられます。


そして、この逸脱は社会の「集合感情」を侵害(伊藤,2014)します。この「集合感情」はフランスの社会学者、エミール・デュルケームによって提唱された概念です。


デュルケームが社会学独自の対象とした「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、「集合表象」(直訳だと集合意識)とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである。
(エミール・デュルケーム - Wikipediaより引用)


これは少し言葉は違いますがほぼ同義と考えていいでしょう。町の日本人の中に二人逸脱した中村親子の存在によって、町の一部の人たちの「ここには日本人しかいない」という集合感情が侵害されたことは想像に難くありません。これは、都会から地方にやってきた人が、なかなかその地域社会に馴染めないことに似ていますが、その根底には「町の人しかいない」という集合感情がマイナスに働いたものだと私は考えています。




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そして、この集合感情の侵害として最たるものが犯罪となります。人を殺してはいけない、物を盗んではいけない。これらはまさしく規定された社会のしきたりであり、秩序であり、集合感情です。そこには失踪も含まれます。社会からいなくなるという逸脱。さらにインパクトを与えるのが、少女であったということ。大人から未来があるとみなされた子供が突然いなくなった時、与える衝撃は多大なものとなります。


侵害された集合感情は回復されなければなりません。それは刑法的な償いではなく、伊藤(2014)によれば、「応報」的な刑罰を科すことで集合感情の回復が図られ、罪を犯した者を「懲らしめ」たり「報いを与える」ことで、私たちはとりあえず納得したり気がすんだりします。なお、この集合感情の回復のために社会が逸脱者に対して行う処置を総称して「サンクション」と言うそうです。


しかし、失踪は逸脱者自身が見かけ上はいません。それに、少女は逸脱したものの罪を犯したわけではありません。よって、逸脱者である少女にサンクションを科すことはできないのです。では、その代わりにどうするか。それは失踪の原因を作った者にサンクションを科すということです。つまり犯人を作り上げてサンクションを科すということになります。


また、このサンクションのターゲットは特定の人物にすることで、より明確になるので、しばしば「犯人探し」が始まってしまいます。この映画で犯人として槍玉に挙がったのは、豪士です。声高に告げられて「かもしれない」という情報だけで、犯人だと決めつけられた豪士。そこには彼自身の(町人から見れば)逸脱者というパーソナリティが付加されていたとするのは私の考えすぎでしょうか。


そして、ここから町人は容赦なく豪士の家に押し掛け、ドアを蹴破ります。「犯人」のプライバシーなど知ったことかという暴走っぷり。一度豪士を見つければ、全員で追いかけます。そりゃ悪いことしてなくてもあんな大人数に追いかけられたら逃げるに決まっているでしょう。集合感情を必死で回復しようとするその姿は、まるでネットでの「炎上」に加担する私たちを見ているように感じられました。端的に言えば、とても恐ろしかったのです。


追い詰められた豪士は最後には文字通り炎上して死んでしまいました。彼が犯人なのかどうかも分からないのに。そこまでして追い詰めた地域住民たちが、彼を殺したかのように私の目には映りました。応報的な刑罰、いわば私刑でも人を殺すことができるのだと、我が身を顧みさせられます。


加えて、この映画にはもう一つの軸があります。それは村八分にされた田中善次郎の話です。こちらも諦観や仲間外しなど地方の嫌な部分が凝縮されていました。なので、続いてはこちらについて見ていきたいと思います。




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・田中善次郎と限界集落の諦観



この善次郎の話は、原作では少女失踪事件とは別の話になります。私は原作未読なので、良く分かりませんが、それでも何か微妙につながっていない感じはしました。でも、根底にある集合感情の侵害、及びその回復は両者とも共通していると思います。


善次郎は同じ村で養蜂業と便利屋サービスを営んでいました。妻を早くに亡くし、犬のレオと暮らしています。ある日、地域の寄合に参加した善次郎。衰退していく限界集落のことを思い、養蜂で村おこしをしようと老人たちに提案します。しかし、老人たちの反応は芳しくありませんでした。


というのも老人たちには、ある老人が「あと10年もすればみんな死んでこの集落もなくなる」と言っていたように、諦観が集合感情として存在していたからです。このまま自分たちの代で終わることを共通認識としていた老人たち。そこに、次の代まで考えた善次郎の提案は、その諦めという集合感情を侵害するものだったことでしょう。多くの人は善次郎の提案を善しとするでしょうが、この限界集落では悪とされてしまうほど、諦めの力は大きかったと思います。本当に嫌ですね、これ。


ここで、少女失踪事件と違うのが、逸脱者が善次郎であることが明確だということ。サンクションの対象が即座に見つかれば、後は簡単。村八分のスタートです。あらぬ噂を流され、少女失踪事件の情報をリークされ、孤立を深めていく善次郎。棒で思いっきりぶたれ、腰をいわしてしまいます。善次郎が耐えきれずに、便利屋の客の女性にキスを迫ると(ここなぜか温泉だった。温泉である必要性は全く感じなかったけど瀬々監督の作家性か何かなのかしら)、その噂は小集落特有のスピードで拡散していき、妻の墓に落書きまでされる始末。


小学生が行うようないじめを人生経験のある老人たちが行っている様は人間の本質っていくつになっても変わらないんだなと思わされます。ここ、善次郎を演じた佐藤浩市さんの卓越した演技力によって、孤立が痛いほど伝わってきて、もう途中で見ていられないってなりました。




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一つ余談をさせてもらうと、この映画って90%を長野県でロケしているんですけど、これ見て長野、及び地方に住みたい人がいるんでしょうかね。特に主な舞台となった飯山市には完全なディスプロモーションとなっているように感じられるんですが。でも、必ずどこかがやらなければいけないわけで、それを引き受けた飯山市の懐の深さは凄いなと思います。


村八分にされた善次郎ですが、植樹をすることで何とか精神を保っていました。もう人間が信用できなくなって、こんな土地は人間のいない森に返ってしまえという思想ですね。亡くなった妻の骨を埋めているのが切なかった。しかし、この植樹も村人により、掘り返されてしまいます。何もかも失った善次郎はある事件を起こし、彼もまた重篤な状態に陥ってしまいます。松明を持つその姿は、詳しくは知りませんが「つけびの村」事件を思い起こさせるものでした。集合感情の回復がまた人を窮地に追いやったのです。


このように、この映画を観ていると人間の嫌な部分、集合感情の回復のためには平気で人を傷つける、を痛感して、私はもう人が信じられなくなりました。地方だけではなく、都会でも、どこの国でも人々がいて集合感情が存在している限り、同じようなことが起こっているのだと暗澹たる気持ちです。この映画と同じく、ネットで日々起こる「炎上」に嫌気が差します。もう「楽園」なんてどこにもないんだなと、あるとすれば、数多の犬が闊歩する森の中にしかないんだなと、そんな気分です。


そう、犬です。もう犬しか信じられません。本能のままに動くイノセントな存在。善次郎をかばおうとするレオ、レオを拾って喜ぶ善次郎。犬は人類の最高の友なのです。そして、その犬をほしがる石橋静河さんもまたかわいかった。この映画、想像以上に犬映画でしたね。今度犬を見つけたら優しいまなざしで見守りたいと思います。世界に犬がいてくれてよかった。犬を崇めよ奉れよ。犬、最高。



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・湯川紡と私がこの映画に感じたメッセージ



よく分からない話になってすみません。でも、この映画って犬の他に、ちゃんと人間の方にも救いを残しているんですよね。それが12年前、失踪した少女の親友・湯川紡です。彼女はあの時一緒にいれば少女を救えたと悔いているキャラクターでした。さらに、親交のあった豪士も失い、心の傷はより深くなってしまっています。この点で、彼女は集合感情の回復の犠牲者ともいえる存在だと私は考えます。演じた杉咲花さんの抑え目な演技も光ってましたね。


ただ、責めるだけ自分を責めていた彼女にも最後には救いが用意されていまして。豪士の書いた「君は悪くない」(意訳)というメモを受け取るんですよね、豪士の母親から、終盤に。それで、まず積年の悩みに一つの着地点を見つけられたというのが大きくて。


で、東京に出ていた彼女は夏祭りのために、また地方に戻るんですけど、そこであのY字路で失踪した少女の祖父と話すシーンがあるんですよ。そこで、彼女が「全部抱えて生きていく」って言うんですよ。何人も死んだ後で、彼女も「なんで自分だけ生き残ったんだろう」と悩みに悩んだうえでのそのセリフの価値は計り知れません。絶望の渦中から少し希望が見えた瞬間で、この映画で一番好きなシーンです。


さらに思い返されるのが、紡の幼馴染の「新しい『楽園』を作ってよ」という言葉。これは私は、「もうどうせ終わる」と諦めムードが漂っていた町に風穴を開ける言葉だと感じました。諦観という集合感情を塗り替えてほしい。それができるのは紡のような若者であるみたいな願いにも似たメッセージを、私は感じましたね。観ていて精神をガリガリ削られる映画だったんですけど、最後は前向きに終わったと個人的には解釈しています。


でもですね、終わり方は好きだったんですけど、そこに至るまでの雰囲気が私にはちょっとハマらなかったかなと。これを言ったらサスペンス全否定になってしまうんですけど、重苦しい間が少し苦痛に感じてしまいました。それに、二つの話もちょっと独立している印象がありましたし、全体的には好きなんですけど、評価はそこまで高くないかもしれないです。でも、嫌な気分になりたい方にはうってつけの映画だと思うので、よろしければ映画館でご覧ください。



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以上で感想は終了となります。瀬々監督の最新作『楽園』は『ジョーカー』とはまた違ったベクトルでメンタルをやられる映画でしたね。でも、観て損はないと思うので興味のある方はぜひ。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

伊藤茂樹(2014)「こどもの自殺」の社会学―「いじめ自殺」はどう語られてきたのか―

エミール・デュルケム - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/エミール・デュルケーム


おしまい 

犯罪小説集 (角川文庫)
吉田 修一
KADOKAWA
2018-11-22



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