Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2019年07月



こんにちは。これです。もうすぐ7月も終わりですね。ようやく夏本番という陽気になってきて参りますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。


さて、今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『アメリカン・アニマルズ』。実際にあった事件を描いた異色のクライムムービーです。公開は5月だったんですけど、長野では2か月以上遅れてこのタイミングでの公開となりました。まあ地方ではよくあることです。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・序盤~痛いほど分かる「特別な人間になりたい」という気持ち~
・中盤~彼らは映画の中の登場人物のようだった~
・終盤~怒涛の展開にごめんなさい~
・自分にとっては「普通」でも、誰かにとっては「特別」
・一段一段上っていかなきゃな





~あらすじ~

オレたちは待っていた、
"何か"が起こる日を。


「I’m Alive!!」とジョニー・サンダーを歌いながら車で飛ばしていく青年、ウォーレン(エヴァン・ピーターズ)とスペンサー(バリー・コーガン)。廃棄された食べ物を盗むことで最小限のリスクを楽しむ、そんなどうしようもない毎日だ。

くだらない日常に風穴を開けたい、特別な人間になりたいと焦がれる2人は、大学図書館に貯蔵される貴重な本を盗み出す計画を思いつく。手に入れれば1200万ドル、誰よりも自由を求めるウォーレンと、スペシャルなことを経験したいと願うスペンサーは仲間集めを始めることに。目をつけたのは、FBIを目指す秀才エリック(ジャレッド・アブラハムソン)と、当時既に実業家として成功を収めていたチャズ(ブレイク・ジェナー)。彼らは互いを『レザボア・ドッグス』に習い「ミスター・ピンク」「ミスター・ブラック」などと呼び合うのだった。強盗作戦決行日、特殊メイクをして老人の姿に扮した4人は遂に図書館へと足を踏み入れる――。

そこで彼らを待ち受ける運命とは?これは、刺激を求めて道に迷ったアメリカン・アニマルズ達の物語。


(映画『アメリカン・アニマルズ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・序盤~痛いほど分かる「特別な人間になりたい」という気持ち~



アメリカ・ケンタッキー州に住むスペンサーは、しがない一大学生でした。絵を描いてはいるものの「君は芸術で何をしたい?」(意訳)と問われると答えに困窮してしまいます。そして、彼の友達ウォーレン。彼もまたよくあるアメリカの大学生です。彼ら二人は普通に暮らして、普通に生きています。そんな普通が嫌で、スーパーの廃棄を漁るという行為に出ているわけですが。


「何かが起こるのを待っている」

「それが起これば特別な人間になれる」


スペンサーはウォーレンにこう語りかけます。彼が憧れていたのは「特別」と呼ばれる芸術家。ゴッホは自殺し、モネは失明した。まるで悲劇が「特別」な人間の条件であるかのようにスペンサーは語ります(この映画では実際の犯人が出演していますが、スペンサーはベネディクト・カンバーバッチかよっていうぐらいカッコよかった)。まあ、このスペンサーの憧れは皮肉にも達成されてしまうんですけど。


そんな「特別」に憧れ燻る二人が考えついたのが、オーデュボンの『アメリカの鳥類』を盗み出すという計画。大学の図書館の特別所蔵室に保管されているこの本は、なんと時価1,200万ドル。売れば一生を遊んで暮らせること間違いなしです。でも、彼らの目的というのは大金を得ることではなくて、希少な『アメリカの鳥類』を盗み出すということにあると思うんですよね。実際、ウォーレンはスペンサーに「大金を得たらどうする?」と聞いていますが、スペンサーは明確な答えを返せていませんですし。普通ではない盗むという行為を達成することで、自らを普通じゃないと特別視したかったのではないでしょうか。


この、「普通じゃない行為によって特別な人間になる」という思考、分かりたくないんですけど、すごく良く分かっちゃうんですよね。私は自分のことを「特別」ダメな人間だと思い込んでますけど、まあ普っ通の人間なわけですよ。本当にどこにでもいる没個性な人間だなと思って過ごしてますから。そりゃ自分とはかけ離れた「特別」に憧れます。今このブログを書いているのだって、読まれてシェアされてチヤホヤされたいという思いがゼロじゃないですからね。映画の感想を何千字も書くのって「特別」な行為なわけですから、自分やるじゃんと思いたくもあります。まぁ全く読まれないんでしょうけど。10PVいけばいい方かなぁ。


それに、「特別な人間になりたい」っていう思いはネットやSNSに渦巻いてますよね。以前、コンビニのバイトがアイスの冷蔵庫に入る、いわゆる「バカッター」や、渋谷のスクランブル交差点でベッドを敷いたYoutuber(とされる人)が炎上しました。彼らって、冷蔵庫で涼を取りたかったり、交差点で寝たかったり轢かれたかったりしてこれらの行為をやっているわけじゃないですよね。「『普通』の人なら良心や常識がストッパーになってできない行為をできる俺凄いっしょ?特別っしょ?」がやりたいわけですよね。『アメリカン・アニマルズ』もこの思考の延長線上にあります。しかも、今から15年ほど前の話ですからね。バカッター以前にもこういった思いは存在していたんですね。




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・中盤~彼らは映画の中の登場人物のようだった~


話を映画に戻しましょう。『アメリカの鳥類』を盗むという「特別」な行為に魅せられた2人。ネットで完璧な銀行強盗の方法を調べ、映画で盗みの手口を学びます。挙句の果てには盗品を売買する故買屋に会いに来るまで12時間かかるニューヨークにまで行く始末。彼らはまるで映画の中の登場人物になったかのように劇的に振舞います。ほとんど陶酔といってもいいぐらいです。ウォーレンはオランダまで行って、そこで映画のような強面の男二人に睨まれていますし。


ただ、彼ら2人だけでは犯行に無理があるとして、仲間を増やします。新たに仲間入りしたのはFBIを目指す秀才のエリック。喧嘩したウォーレンと仲直りをしたいという理由で参加します。まあ秀才といっても平均よりいくばくか上な程度なんですけど。そして、彼ら3人で架空の強盗計画を立案。流れるような動きで『アメリカの鳥類』を盗むウォーレンのイメージが流れます。ここで流れたのがエルヴィス・プレスリーの『A Little Less conversation』。これは『オーシャンズ11』でも使われていたようで、彼ら3人の劇的な幻想が読み取れます。


しかし、3人でも無理があるとエリックは判断し、筋肉男のチャズをさらに増員して4人に。作戦会議で、ウォーレンはメンバーに色の名前を付けて、コードネームで呼び合うようにします。これは映画『レザボア・ドッグス』から来てますね。ああ中二病。観ていて恥ずかしいです。でも、この犯行の計画を立てているシーンは、音楽も明るめで心なしか楽しく観れるんですよね。老人に変装して潜入するというのも中二心をくすぐられてワクワクしましたし。


しかし、最初の計画は司書が4人いるという想定外の事態により頓挫。「何もしないで出ると清々しく感じた」というスペンサーの独白に心から安堵し、このまま終わってくれと願いますが、まあ当然これで終わるわけもなく。ウォーレンは翌日にもう一回立て直すことを独断で決めます。ここでスペンサーは、我に返り辞めようとしますが、ウォーレンは「ここでやらないと後悔する」と間違った覚悟を決めてしまい、スペンサーはこれに圧されてしまう。ここスペンサーが夜の街を走るシーンがあったんですけど、邦画ではよく見るけど洋画では、なんか珍しいなと感じました。





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・終盤~怒涛の展開にごめんなさい~



そして、二度目の決行の日。ウォーレンとエリックが特別所蔵室に向かいます。ここで計画通りにスマートに『アメリカの鳥類』を盗み出す、なんてことはできるはずもなくグッダグダ。まず司書を気絶させることに、ウォーレンは良心の呵責が働いてためらってしまい、結果的に司書を大きく傷つけてしまいます。さらに、自らの行為の怖さに気づいたのか、ウォーレンとエリックの手はガッタガタ。そして、地下一階から脱出するという計画もガッタガタ。最終的に、『アメリカの鳥類』を階段に落としたまま、二人は逃げ出してしまいます。まあ彼らはカメラをハッキングできたり、並外れた身体能力を持ったりという「特別」な人ではないですからね。あくまで「普通」の人で、「普通」の人が『オーシャンズ11』的なことをすると、こんなにもグッダグダになるんだぞと。とてもリアルで、それが却って手に汗握り、この決行のシーンの没入感を増していました。


そのあとは、車にぶちまけられたリアルゲロに(私が)吐きそうになりながらも、4人はニューヨークへ。ここでスペンサーがドジって自分の携帯電話の番号をバラしてしまいます。そして内紛に至り、チャズがスペンサーに銃を突きつける。「お前たちが俺の人生を殺したんだ!」という言葉が非常に重かったです。


そこから4人はケンタッキーに帰って、また元通りの生活を過ごすわけですが、ここからは後悔、後悔、後悔の嵐。「人を傷つけてしまった」「なんであんなことしてしまったんだ」。4人の表情が沈んでいく様を、重たい電子音に合わせてこれでもかと見せてきます。ここで、この映画の実際の犯人たちを起用したという特徴が最大限に生かされていまして彼らが押し黙るシーンがあるんですよ。そのシーンの重みといったら。実際に経験している人間にしか出せない重みで、フィクションでは演出できない空気が流れていました。今年観た映画の中でもかなり上位の胸を抉られる体験です。


そして、その後の言葉の一言一言も重たい。スペンサーが「俺とウォーレン、どちらか片方の視点から思いだした方が楽だから」と述べれば、最後には被害に遭った司書本人も登場し、「どうして特別になるために人を傷つけてしまうのか」と強烈な問いかけを放ちます。極めつけはウォーレンが「俺は特別な人間じゃない」と言うという...。これはキツイ。「特別」を目指して、フィクションに耽溺する中二病のような精神状態から虚脱して、抜け殻のようになって、自らは「特別」な人間じゃないと自覚する。もうね、ごめんなさいですよ。「自らを特別ダメな人間だと思ってごめんなさい」ですよ。自分の虚栄心がボコボコに殴られて、観た後は思わず椅子にへたり込んでしまうくらい撃沈しました。私は普通の人間です...。何も特別じゃありません...。はい...。また、精神的に辛い映画観ちゃったな...。でもオススメなんですけどね。




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・自分にとっては「普通」でも、誰かにとっては「特別」


『アメリカン・アニマルズ』で、スペンサーは、ウォーレンは、エリックは、チャズは変化を望んでいました。「今の偽者の自分から脱して、本当の自分になりたい」と。この厄介な自己実現欲求は実は達成されているんですよね。事実彼らは変わったんです。悪い方向に


彼ら4人は、刑務所に7年間ぶち込まれました。「特別」とは「他と特に区別されているさま」を指すといいます。刑務所は一般社会とは区別された場。当然、収容される方が稀です。しかも彼ら4人はそこに7年もいた。これは私たちシャバで暮らす人間から見れば、紛れもなく「特別」な人間だと言えます「何かが起これば特別な人間になれる」「普通じゃない行為によって特別な人間」となるという彼らの目的は従前に達成されてしまっていると私は考えます。


ただ、前の文では「私たちシャバで暮らす人間から見れば」という注釈がついています。この注釈を入れたのは、「普通」が当事者によって異なる概念であるからです。例えば、刑務所で何年も暮らしていれば、刑務所にいる状態が「普通」になってしまいますよね。よく映画で脱獄するのも「普通」である刑務所を抜け出して、「特別」なシャバに行きたいからだと私は考えているんですけどどうでしょう。


その視点で言えば、ただの大学生であった彼らだって「特別」な存在なわけですよ。だってまともな教育を受けられないスラム街の子供たちの「普通」という視点から見れば、大学まで進学できている彼らは十分「特別」なわけですから。その意味では、いくら「普通」に思える人間でも、誰かにとっての「特別」なんですよね。私いま駅から徒歩2分の所に住んでいるんですけど、これだって駅から車で一時間かかる人からすれば「特別」なわけですし、その逆もまた然り。


でも、人間っていうのは自分の「普通」に慣れてしまう生き物でもあると思うんですよね。自らの「普通」が固定化されていくと言いますか。でも、その固定化はマンネリ化をも意味していて。同じことをずっと続けて「普通」になっていくと、これでいいのだろうかという危機感が出てきてしまう。「普通」であることが確証された未来を変えたくなってしまう。「特別」になろうとする。既に自分が「特別」であるにも関わらず。自分の持っていない「特別」を欲しがる。無いものねだりで、隣の芝生は青く見えるですね。人間は自分に持っていないモノを強く欲する生き物であると『アメリカン・アニマルズ』は強く訴えかけてきたように私は感じます


『アメリカン・アニマルズ』で、スペンサーら彼らはどこまでも「普通」の人間でした。「普通」の大学生。「普通」の受刑者。そして、最後にはそれぞれの「普通」の生活を手に入れています。これらはどうしても「普通」からは逃れられないという絶望のようにも映りますが、つまるところ皆「普通」なんだと思います。「普通」が当事者によってその形を変えるものならば、70億通りの「普通」がある。そして、70億通りの「特別」がある。皆自分にとっては「普通」で、誰かにとっては「特別」なんだと。私は『アメリカン・アニマルズ』を観てそう感じましたね。はい。




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・一段一段上っていかなきゃな



あとは、いきなり変化することのリスク、反動ですかね。人間って小さな変革を積み重ねていって、少しずつ変わっていくのが常道だと思うんですよ。そうすることで、自分の中に経験が蓄積されて中身の詰まった人間になれるというか。あ、これ自分に言い聞かせてます。私は幼いころから何も変わっておらず、何も経験しておらず、中身のない人間なので。それに、大きな変化に伴う耐えられないようなリスク、反動も少しずつ分散していけば、耐えることができますし、一段一段階段を上っていくということがやはり重要になると思うんです。あ、これも自分に言い聞かせてます。


で、一気に変わると中身のない人間になるどころか、そのリスク、反動がまとめて来るよと。バカッターで簡単に注目を集めて炎上した人が、のちの就職に苦労して社会的弱者に追い込まれていますし、宝くじで高額当選を果たした人が、後に自己破産することがあるということはよく知られた事実です。


そして、『アメリカン・アニマルズ』でも、一気に変わろうとした彼らには、反動が大波のように押し寄せてきています。人を傷つけてしまったという後悔。何も変わらなかったという落胆。そして懲役7年の実刑。階段を一気にすっ飛ばそうとした彼らに対しての罰としてこれらは与えられています。子の罰に苦しむ彼らの様子は非常に苦しいものでした。とても胸が痛んだので、やはり一段一段上っていかないとなというのも『アメリカン・アニマルズ』を観て得た感想です




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以上で感想は終了となります。『アメリカン・アニマルズ』、観ていて辛くなる映画でしたけど、でも面白かったので、個人的にはオススメしたいと思います。ぜひ映画館でご覧ください。DVDは10/25にTSUTAYA先行レンタル開始です。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


アメリカン・アニマルズ [Blu-ray]
エヴァン・ピーターズ
Happinet
2019-10-25



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こんにちは。これです。今日はフジロックでしたね。私も行きたかったんですけど、病院の予約を入れてしまっていて、行けませんでした。あとお金もそんなにないですし、明日も行けないかなと。ツイッターを見ていて、やっぱり行けばよかったと後悔しているこの頃です。


さて、その病院での診察を終えた後に、私はまた映画を観に行ってきました。今回観た映画は『旅のおわり世界のはじまり』。略して『旅セカ』です。今年6月に公開された黒沢清監督の新作です。SNSでの評判もけっこうよかったので、長野でも公開されたこのタイミングでの鑑賞となりました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・前田敦子さんの存在感が抜群!
・ウズベキスタンの異国感よ
・前半~観ている人のアバターとして機能する葉子~
・後半~アバターから脱出して一人の人間となる葉子~
・「not for me」案件だった





―あらすじ―


「みなさん、こんにちは――!
 今、私はユーラシア大陸のど真ん中、
 ウズベキスタン共和国に来ています」


カメラが回り、だだっ広い湖畔に明るい声が響く。ジャージにペンギン(防水ズボン)をはき下半身まで水に浸かっているのは、葉子(前田敦子)。バラエティ番組のリポーターを務める彼女は巨大な湖に棲むという“幻の怪魚”を探すため、かつてシルクロードの中心地だったこの国を訪れていた。だが、精いっぱい取り繕った笑顔とは裏腹に、お目当ての獲物は網にかかってくれない。ベテランのカメラマン岩尾(加瀬亮)は淡々と仕事をこなすが、“撮れ高”が気になるディレクターの吉岡(染谷将太)の苛立ちは募るばかりだ。ときに板挟みになりながらも、吉岡の要求を丁寧に通訳するコーディネーターのテムル(アディズ・ラジャボフ )。その間を気のいいADの佐々木(柄本時生)が忙しく走り回っている。

 

万事おっとりした現地の人たちと取材クルーの悶着が続くなか、与えられた仕事を懸命にこなす葉子。チャイハナ(食堂)では撮影の都合で仕方なく、ほとんど火が通っていない名物料理のプロフを美味しそうに食べるしかなかった。もともと用心深い性格の彼女には、見知らぬ異郷の文化を受け入れ、楽しむ余裕がない。美しい風景も目に入らない。素の自分に戻れるのは唯一、ホテルに戻り、日本にいる恋人とスマホでやりとりする時間だけだ。

 

収録後、葉子は夕食を求め、バザールへと出かけた。言葉が通じないなか、地図を片手に一人でバスに乗り込む。見知らぬ街をさまよい歩き、日暮れとともに不安がピークに達した頃。迷い込んだ旧市街の路地裏で、葉子は家の裏庭につながれた一匹のヤギと出会う。柵に囲われたヤギの姿に、彼女は不思議な感情を抱く。

 

相変わらずハードな撮影は続いていた。首都タシケントに着いた葉子は、恋人に絵葉書を出すため一人で郵便局へと出かける。広い車道を渡り、ガードレールを乗り越え、薄暗い地下道を通り抜け…あてどなく街を歩くうち、噴水の向こうに壮麗な建物が見えた。かすかに聞こえた歌声に誘われ、葉子が建物に足を踏み入れると、そこには細かな装飾を施された部屋がいくつも連なっていた。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ…。まるで白日夢のようにそれらを巡り、最後の部屋の扉をあけると、目の前には大きな劇場が広がっていた—


(映画『旅のおわり世界のはじまり』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください












・前田敦子さんの存在感が抜群!



この映画のコンセプトは「TVレポーターとなった前田敦子さんがウズベキスタンを旅する」というもの。この映画で描かれたのはそれ以上でもそれ以下でもありません。とにかく前田さんとウズベキスタン。この映画はその2点に集約されるといってもいいでしょう。


前田さんといえば言わずと知れた元AKBのセンター。しかし、2012年に卒業してからは徐々に女優業にシフト。最近では『町田くんの世界』での栄りらの姉御感が記憶に新しいところですね。『町田くんの世界』で、私は前田さんはもう元AKBという色眼鏡で見られることのない一人の女優さんになっていると感じたんですけど、『旅セカ』を観てその思いを強くしました。


まず、その佇まいがいいんですよね。清純派女優みたいな澄み切った感じが少ないのが特徴的で、瞳の奥には黒々としたものを感じさせますし、全身から油断できないオーラを放っています。簡単に紐解くことのできない複雑さがあります。その存在感は抜群で、ウズベキスタンの街並みに埋没していません。リポーターの時のやらされてる感が個人的に好きです。


また、演技もよくて。この映画って台詞が少ないんですよね。それに前田さんを映している時間がとても長く、ほぼ出ずっぱりな状況です。前田さんの演技がこの映画の出来の大部分を担っているんですけど、その重責を見事に果たしていたと感じました。異国に一人放り出された困惑が表情に表れていましたし、疎んでいる感じも理想と現実のギャップで苦しむ様子も挙動だけで十二分に伝わってきます。また、2回ほど突然歌いだすんですが、その歌はアイドルとしての経験がプラスに働いていてこちらもよかったですね。


それに、『旅セカ』の黒沢清監督は、かつて『Seventh Code』や『散歩する侵略者』で、前田さんを撮っていたので、前田さんのことはかなり分かっていたことでしょう。どうやって撮れば最も魅力的に撮れるかを熟知していたのではないかと。で、黒沢監督は前田さんに全幅の信頼を置いて、前田さんも見事それに応えてみせたと。監督と俳優が互いを信頼している映画なんだなというのは、観ていてもヒシヒシと伝わってきて、そちらも好みでした。




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・ウズベキスタンの異国感よ


ただ私は好きだったんですけど、『旅セカ』ってかなりの時間で前田さんを映しているのが特徴で、テレビクルーや通訳の描写って意図的に削られているんですよね。なので、前田さんを魅力的に感じることができないと、この映画はかなりキツイものになってしまうと思います。なので、前田さんを自分ごととして捉えさせようと、この映画ではいくつかの工夫がなされていました。


まず、最初にウズベキスタンという場所の設定。この映画ってウズベキスタン人の親子の会話で始まるんですけど、訳が出ないので何を言っているか全く分からない。というか最初のシークエンスでは日本語が一切出てこず、それが異国感をバリバリに演出しています。また、基本的にこの映画でのウズベキスタン語は通訳を介してのみ日本語に翻訳され、一般人が何を言っているかは分からないようにできています。バスに一人乗り込む前田さん演じる葉子。言語の通じない心細さは、あたかも私たちまでウズベキスタンに来てしまったかのような感覚を与えます。強い主観性ですね。言語を超えた相互理解なんてものはこの映画にはなく、それがリアルでした。


それに、ウズベキスタンの異国感も凄くて。あの日差しが照り付けてカラッとした感じ。湿度が高く、じめじめとした日本とは違って、乾燥しているんですよね。地面もアスファルトでなくタイルで砂埃舞う様子でしたし、建物も大胆な塗装がなされていません。日本とは完全に違う情景が、映画の中には広がっていました。さすがオールウズベキスタンロケなだけあります。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・前半~観ている人のアバターとして機能する葉子~


次に、前田さんの撮り方。この映画って前田さんを客観的に撮っているんですよね。カメラを通していると言いますか。あれだけ前田さんを撮っているというのに、前田さんの主観的な目線というのはあまり存在していないんですよ。劇場でのバックショットと手持ちカメラの一部ぐらいですかね。とにかく撮られるということが徹底されています。


このあたり事実を記録するドキュメンタリーみたいだなと感じます。主観を入れずに出来事を淡々とカメラに収めていく感じが『旅セカ』にはしたんですよね。TVクルーとウズベキスタン人は対立していますけど、そこにどちらがいいとか悪いとか主観的な要素はなくて、ただ出来事を映しているのみ。善悪のない客観性がこの映画の最大の特徴でした


で、この映画が客観的であるということは、観ている人の主観でどうにでも解釈ができるということなんですよ。この映画って想像の余地が大きくて、葉子が何を見ているか、感じているかっていうのは観ている人によって感じ方が全然異なると思うんですよね。葉子を自らのアバターとして認識し、観ている人自身が葉子の目となってウズベキスタンを覗くという構造になっていたと感じます。


この映画の葉子ってけっこう言われるがままなんですよね。主体性がなく、テレビクルーの指示には従順。まあそれが仕事って言ったらそれまでなんですけど、自らの意志は介在していません。ヤギを解放したぐらいですかね。ウズベキスタン人との交流も自発的にはしないですしね。まるで、プレイヤーの意のままに動かされるゲームの主人公のようで、観ている人はRPGをプレイしているようです。




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・後半~アバターから脱出して一人の人間となる葉子~


でも、映画が進むにつれて、葉子は自らの意志を獲得していくんですよね。映画中盤の劇場のシーンで、自らが歌いたいという理想を見せ、その後、理想と現実のギャップに悩む一人の人間であることが明かされます。テレビクルーも葉子に手渡しカメラを渡し、自ら撮影するよう促し、実際に撮ってみるなど、徐々に葉子は私たちのアバターから脱していきます。


そして、葉子は騒動を起こし、警察のお世話に。ここで会話することの大切さを説かれます。言葉を発しないゲームの主人公ではいけないのです。葉子の主体性が芽生え始めてきたところで、唐突に東京湾岸の工場で火事が起こったというニュースが。葉子の彼氏は消防士で、東京湾岸で勤務をしていました。葉子はウズベキスタンでの意に沿わない仕事の中で、東京に住む彼氏だけを頼りにしていました。彼氏の身を案じる葉子。電話をかけても彼氏が出ることはありません。でも、結局彼氏は無事で葉子は安堵します


ここで、映画は局の人手が足りず、テレビクルーが一部帰国するという展開を迎えます。葉子も帰国するように言われますが、葉子は自分の意志でウズベキスタンに残るんですよね。彼氏にべっとりで、今まで言われるがままにしてきた葉子のキャラクターを考えると、ここは帰国するのが自然。プレイヤーも帰るを選択するでしょう。


でも、葉子はこれに抗って帰国しないんですよね。それは、警察官に諭され、理想と現実で揺れる中で、自らの意志で選び取ることの重要性を痛感したからだと私は考えています。ラストシーンの山で自発的に、ロケ地を見てくると言って歩き出し、山頂に着く葉子。ここで「愛の讃歌」を歌います。実は葉子が「愛の讃歌」を歌うシーンは劇場にもあったんですが、これは妄想に過ぎず、でもラストでは現実のものになっています。


このラストはプレイヤーの意図からは外れたもので、アバターとしては暴走と呼べるものでしょう。でも、葉子は私たちのアバターではなく、一人の人間なんです。この映画は葉子がアバターから脱し、主体性を獲得する物語と私は捉えました。映画の冒頭で出てきた湖は濁っていて、山に草木はあまり栄えておらず乾燥していました。しかし、ラストシーンで湖は目の覚めるような水色で、山は青々として壮大な印象を与えます。この風景の変化には葉子の心情の変化が表れていると私は感じ、人間としての葉子の門出を祝福しているようにさえ感じます。『旅セカ』で葉子はアバターとしての旅を終え、人間としての世界を始めたのかもしれませんね。最初はドキュメンタリーだったはずが、気づけばちゃんと劇映画になっていて好感度高いです。




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・「not for me」案件だった


とここまで書いてきたんですが、私はこの映画があまりハマったわけではなくて。それは台詞が少なく、ゆったりとしたテンポの物語であったことが一つ。頭がけっこう重たい状態で観たので、正直何回かウトウトしかけてしまいました。眠い時に観る映画ではありませんね。まあ眠い時に観る映画ってそんなにないんですけど。


それに、この映画がドキュメンタリー的な撮り方をしていたのも、個人的にはハマらなくて。物語の目標や、ゴールが全く提示されないんですよね。この映画はどこに向かっているんだろうと考えてしまって、少し退屈に感じてしまったことは否定できません。どうやら私にはゴールのないドキュメンタリーよりも、ゴールが提示されているフィクションの方が向いているようです。なので、『旅セカ』は悪くはないんだけど、私向けではない「not for me」案件でした。でも、良質な映画であることは間違いありませんし、興味があれば観てみてはいかがでしょうか。




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以上で感想は終了となります。『旅のおわり世界のはじまり』、前田敦子さんを存分に堪能できる映画ですし、人間としての自立を描いている映画なので、機会があればどうぞ。私はハマらなかったんですけど、いい映画です。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい





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今作の原典である『チャイルド・プレイ』が製作されたのは1988年のことである。可愛らしい人形が残酷な表情を浮かべ、惨たらしい殺人を犯す。そのギャップは今見返してみても色褪せることはなく、チャッキーという殺人人形は映画愛好家に歓迎された。シリーズは累計7作が製作され、チャッキーは30年もの長きに渡って愛情を注がれてきた。


そして2019年、令和の時代に入り『チャイルド・プレイ』はリメイクされた。筆者は正直、今リメイクする意味があるのかと懐疑的な気分を抱いた。近年は多くのリメイクホラーが製作されている。『IT』『サスペリア』『ハロウィン』。リメイク作品にはオリジナル版のファンがついており、一定の興行収入を見込むことができる。そういった商業的な思惑がどうしてもリメイクホラーには付き物だ。だが、今作『チャイルド・プレイ』は違った。明らかに2019年の今だからこそ作られるべき映画だったのだ






なるほど、確かに視覚的な怖さは増している。オリジナル版『チャイルド・プレイ』では、チャッキーの殺し方は包丁で刺すのほぼ一択だったのに対し、リメイク版では芝刈り機、電動ノコギリ、自動運転車の暴走など実に多彩な殺し方をしている。指を向けるだけで機器を操り人を殺めるのは、ハイテクに生まれ変わったチャッキーだからこそなせる業といえよう。特に終盤で登場したドローンは強烈な印象を与える。鑑賞後ではきっとドローンを見ると身の毛がよだつ身体になっているはずだ。製作陣はドローンに何の恨みがあるのだろうか。


さらに、リメイク版『チャイルド・プレイ』は、少年アンディの成長物語としても優秀だ。今作でのアンディには友達がおらず、環境を変えて心機一転やり直そうとしている。だが、アンディは勇気が出ず、友達を作ると言っては廊下でゲームをする。親は不倫をしていて、鬱憤は溜まる一方だ。そして、「誰も構わないでくれ」と言い放つ。「みんな消えてしまえばいいのに」という鬱屈した感情が芽生える。筆者も友達が多いわけではないので、この描写には非常に胸を痛めた。


だが、アンディには劇中でファリンとパグという悪友が出来る。次々と殺人を繰り返すチャッキー。ファリンとパグはチャッキーの仕業というアンディの言葉を信じないが、証拠映像を見て次第に考えを改めていく。トイショップに閉じ込められ、危機に瀕したアンディをファリンとパグは済んでのところで助けるのだ。


そして、アンディはチャッキーとの戦いに勝利する。その後、劇中で新たにチャッキーの持ち主となったオマールを含めた4人でチャッキーを叩き壊すシーンは、かの名作『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる名シーンだ。最後にアンディは看板の前に座り、彼ら彼女らと共にハンバーガーを食べている。アンディには友達ができ、「みんな消えてしまえばいいのに」という感情は霧散しているのだ。鑑賞者はホラーを見ていたつもりが、気づけばアンディの成長物語に魅せられていることだろう。清々しい気分すら味わうことだって可能なのだ。


しかし、筆者が考える今作の本質は以上の点にはない。リメイク版『チャイルド・プレイ』は娯楽映画として受け取ることも容易で、実際にエンターテイメントとして高い完成度を誇っている。しかし、その裏に隠されたテーマというのはとても重大なものだ。そしてそれは、海の向こうで起こっている問題ではない。我々が住んでいる日本で実際に発生している問題である




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2019年5月28日。神奈川県川崎市登戸の公園で、20名の死者負傷者を出した無差別殺傷事件が発生したことは記憶に新しい。加害者の男性も自死した、非常に悲惨な事件だ。そして、同種の無差別殺傷事件は各地で発生している。代表的なものは2008年の東京都千代田区秋葉原での事件だろう。直近では京都アニメーションへの放火も同系統のものとされている。さらに、同じ類型の事件は海外でも銃乱射事件としてたびたび報道される。洋の東西を問わず、加害者とは無関係の人間が襲われる事件が日々発生しているのだ


そんな彼らを総括する言葉がある。「無敵の人」という言葉だ。明確な定義はないが、「無敵の人」とは失うものが何もない人間を指すことが多い。職が無く、収入も無く、社会的地位も無い。事件を起こして逮捕されるうことは社会的地位の剥奪であるが、彼らには剥奪されるものがないので、何の影響も及ぼさない。社会的地位で抑制できる犯罪への欲求は、そのまま表出してしまう。


そして、私たち多くの失うもののある人間は、彼ら彼女に「無敵の人」というレッテルを貼り、自分とは違う動物なのだと自らを説得することを試みる。誰にだってある日全てを失う可能性はあるのに、偶々失ってしまった彼ら彼女らを、自分とは違う動物であると認識し、何の価値もない安堵を得る。その冷酷な態度、違う動物だから関係ないといったものが、彼ら彼女らをさらに苦境に追い込む。社会は断絶され、「無敵の人」のレッテルを貼られた彼ら彼女らは、援助もなく孤立を深めてしまう。そこに回復や救済はない。






では、今作『チャイルド・プレイ』ではどうだろうか。まず、オリジナル版とリメイク版で大きく違うのはチャッキーに人格が宿った経緯だ。オリジナル版の『チャイルド・プレイ』では、チャッキーに宿った人格は連続殺人鬼のものだった。警官に追われ、死の間際に呪術でチャッキーに魂を委譲する。このチャッキーの行動原理は純粋な殺人欲求、または警官や呪術師など特定の人間に向けた憎悪であり、極めて限定されている。アンディを襲う理由も自分が生き続けるためで、どこまでも独善的だ。


一方のリメイク版『チャイルド・プレイ』。こちらのチャッキーに宿った人格は、ベトナムのしがない一工場員のものに過ぎない。上司の台詞から彼は元々路上で暮らしていたことが示唆される。彼にとって唯一あったものは工場員としての社会的地位だけである。しかし、彼は上司から能率の上がらない仕事ぶりをパワハラと共に叱咤され、「この人形を作ったら辞めろ」と吐き捨てられてしまう。ここで、彼は社会的地位を失い、失うものが何もなくなってしまう。彼はチャッキーに備えられていた制限を解除し、暴走の元となるパーツを埋め込む。そして、高層から車に叩きつけられて死に至るのだ。


筆者は、彼の死を自殺と考える。自分にはもう何もないという絶望が、彼を自殺に駆り立てたのではないだろうか。彼はこう思ったはずだ。「誰も助けてくれない」と。その怨嗟が角度を変え、「みんな消えてしまえばいいのに」という憎悪に変化したのではないだろうか。しかし、彼は自殺を選んだ。人を巻き込まずに一人で死ぬという僅かな理性が働いた結果だ。ただ、彼の周囲への、世界への憎悪は消えることはなかった。そして、その悲愴な感情はチャッキーに託されてしまう。もう失うもののないチャッキー。リメイク版のチャッキーは「無敵の人形」として生まれ出でてしまったのだ






社会的地位のない社会的弱者は、現代社会ではあたかも存在していないような扱いを受けることが多い。社会的信用がなければ預金口座もクレジットカードも作ることが出来ず、周囲とのかかわりも極めて限定的なものになってしまう。収入も無く、ただ死んでいくのを待っているだけの日々。きっと彼らは渇望しているのだ。自分が社会に所属し、他人に承認されることを。社会で生きているという実感を得て、「人間」の形を保持していたいのだ。これは強烈な社会的欲求や承認欲求であり、私たちと同質の欲求である(もっとも社会的欲求や承認欲求の土台に、生理的欲求や安全欲求があることは留意しなければならないが)。


映画冒頭でチャッキーは返品される不良品として扱われていた。持ち主に受け入れられなかったことで、チャッキーの承認欲求は満たされなかったことは言うまでもない。しかし、チャッキーはアンディの母・カレンに引き取られ、アンディに手渡される。チャッキーはアンディに言う。「僕たち親友だよね?」と。アンディに承認されたいというチャッキーの思いは、一人でに歌を歌ったり、夜中に起きて執拗に確認するなど痛切なほどに表現される。それほどチャッキーの承認欲求は満たされていなかったということだ。バディ型人形は近々新しいバージョンが発売されるということで、乗り換えられてしまう恐怖もあったのかもしれない。


そして、映画が進むにつれチャッキーは残酷な行為に手を染めていく。その奥底にあったのは「アンディのために」という思いだけだ。アンディがスプラッター映画を観て喜んでいるから、自分も包丁を振り回す。アンディが猫に吠えられて気分を害したから、猫を殺す。アンディがいなくなればいいといったから、カレンの不倫相手を殺す。全てアンディのためであり、そこに独善的な思惑は一切存在しない。矢印が自分に向いているか他者に向いているかが、オリジナル版とリメイク版における最大の相違点であるとも言っていい


では、チャッキーがどうしてここまで執拗にアンディにこだわったのか。それは、唯一承認してくれたアンディに見放されることが死に直結するほどの恐怖だったからだろう。アンディにまで嫌われてしまったら、自分の承認欲求を満たしてくれる相手はもう存在しない。たった一本の蜘蛛の糸に縋りつく思いで、チャッキーは殺人を繰り返していたと筆者は考える。新たに生まれ変わったチャッキーは承認を求めて彷徨う、非常に悲しい存在なのだ。


チャッキーの殺戮はエスカレートしていく。自分だけがアンディに気に入られればいいと考え、アンディにかかわるすべての人間を排除しようと動く。アンディが他者を承認し、自分を承認してくれなくなることが我慢ならなかったのだ。重度の依存である。トイショップでの「皆が逃げていくけど、僕だけがアンディの傍にいる」という台詞はそのことを如実に表している。


この殺戮の過程で着目すべきは、チャッキーが自らの手で人を殺めていないという点だ。今作のチャッキーは機器を操り、殺人を犯すシーンが多い。電動ノコギリだって、自動運転車だって、フォークリフトだってそうだ。指先一つで殺人を犯してしまう。


これは、筆者にはインターネット及びSNSの暗喩であるように思える。現代ではインターネット・SNSが発達し、他人と繋がりやすくなった分、相手への思慮を欠いた対応が増加しているように感じる。顔の見えない相手にだったら何を言ってもいいという空気が蔓延しているかのようだ。言葉は優しい毛布にもなれば鋭利な刃物にもなる。軽はずみな罵詈雑言で相手を刺し殺すことだって可能なのだ。映画でのチャッキーの指先は、私達のキーボードを、スマートフォンの画面をタップする指先と重複して見えるのは、果たして筆者だけであろうか。




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物語は最終章に入る。バディ(チャッキーの正式名称)2の発売日。日付が変わり発売される瞬間を大勢の親子が今か今かと待ちわびている。カウントダウンが終わったと瞬間に現れた、被り物を被った男性。彼はチャッキーに首を切られ、首から血を吹き出して倒れてしまう。それを合図に開始されるのは殺戮。剃刀を羽根にまとったドローンが上空から、意志を持ったバディ2が地上から集まった人々を殺めていく。彼らの共通項は、同じ瞬間にトイショップに居合わせたことのみだ。関係性のない人々が無差別に殺されていく様相は、無差別殺傷事件、銃乱射事件を激しく想起させる


チャッキーはカレンを人質に取り、アンディをおびき出す。バックヤードに入っていったアンディが発見したのは、フォークリフトに縄で首をくくりつけられたカレン。フォークリフトは上昇し、カレンは縊死へと一直線だ。棚をよじ登りチェーンソーで縄を断ち切ろうとするアンディ。チャッキーの妨害を受けつつも、縄を断つことに成功する。地面に叩きつけられ、胸部を包丁で刺されたチャッキーは当然カレンを襲おうとするわけだが、マイク刑事に狙撃され、再び倒れる。そして、カレンがチャッキーの首を引きちぎり、チャッキーの挙動は静止する。アンディとカレンは助かり、物語はハッピーエンドを迎えるというのが、この映画の結末だ。


ここでオリジナル版を見たことがある方は、疑問に思うことだろう。「チャッキー呆気なさすぎないか」と。オリジナル版、特に『1』でのチャッキーは頭部を捥がれても、皮膚素材を溶かされ黒焦げになっても、アンディらを殺そうと躍起になっていたはずではなかったか。そのことと比較すると、リメイク版のチャッキーは頭部を捥がれただけで静止してしまうので、やや拍子抜けな印象を与えてしまうことは否めない。ただ、筆者はこのことにも理由があると考えている。ここで提示したいのは、以下2つの説だ。


①殺傷という行為そのものがチャッキーの目的であるという説
②アンディの承認は自分に向けられないことを自覚したという説



まず、一つ目の説。社会的地位のない人間が、自分が生きているという他者からの承認を得ることは容易いことではない。交差点で大声を出したところで、振り向いてくれる人間は1割もおらず、瞬時に忘れ去られてしまう。ともなれば、極大の衝撃を与えなければ、誰も気づいてくれないだろう。線路に飛び込むよりも、より衝撃度のある手段。突出した能力を持たない多くの人間にとって、それは殺人である。


殺人を犯せば全国とはいかずとも、当該地域の報道番組には高い可能性で露出できる。自らの存在に目を向けてもらえる絶好の機会だ。多くの人間を殺せば殺すほど話題性も大きくなり、無視できない存在となるだろう。殺人が被承認の手段となってしまっているのが、無差別殺傷事件の特徴の一つであると筆者は考える。もちろん動機はそれだけではないであろうことは重々承知の上である。


今作でのチャッキーもそうだ。多くの人に自らの存在に気付いてほしい。それはベトナムの工場員が胸に抱いていた思いと類似しているとは考えられないだろうか。トイショップでの事件でチャッキーという殺人人形は多くの人間に認知されたことだろう。承認欲求が大きく間違った方法であったとしても、ある程度満たされたことで、チャッキーに宿った渇望は消えたのではないかと筆者は考えている。


次に、二つ目の説である。チャッキーは自分を承認してくれるのはアンディしかいないと思い込んでいる。アンディの承認を独り占めしたいと考えている。しかし、アンディの承認は彼のみに与えられるものではない。確かに、映画の始めにはアンディの承認はチャッキーにしか向けられていなかった。だが、アンディは物語の中で多くの人間と繋がっていっている。ファリン、パグ、オマール、マイク刑事。そして、母親であるカレン。


承認とは鏡のようなものである。自らが相手を承認すると、相手も承認してくれる。相手が自らを承認してくれると、自らも相手を承認したくなる。しかし、これは人間対人間に限定された話である。物をいくら承認しても、物から承認は返ってこない。虚しさが増していくだけだ。その方式が覆されたことが、今回の事件の発端となっているのだが。


おそらくチャッキーは自らが人形であることを自覚していたのではないだろうか。本来、人形が人間に承認を向けることはできないが、チャッキーは全身全霊をもってそのことに反抗している。だが、アンディを承認してくれるのはチャッキーではなく、人間である。アンディが複数の人間に承認されていることに気づき、自分の間違った認識を認める。これは諦めであり、悲劇である。絶望に包まれたチャッキーが自ら命を絶つ。リメイク版『チャイルド・プレイ』は、承認を得たいチャッキーの足掻きの映画でもあるのだ




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さて、このチャッキーの悲劇を目の当たりにした私たちはどうすればいいのだろうか。チャッキーを「無敵の人形」であると断じることは容易である。私たちと違う「人形」の話であると決めつけてしまうのは簡単だ。「みんな消えてしまえばいいのに」は、思春期で克服できていなければならない課題で、大人になっても抱えているなんてみっともない。恥ずべき感情で人間として持ち合わせるべきものではないと規範を振りかざし、一掃する。


だが、それでは現状は何も変わらない。むしろ悪化していく一方だ。断絶を深め、孤立を強化し、行き着く先は無差別殺傷事件の増加。憐憫は無効化され、隣人にさえ最大限の警戒をしなければならないディストピアの到来だ。もう「無敵の人」というレッテルを貼られた彼ら彼女らを無視することはできないのである。彼らの行為を「子供の遊び」と片付けることは誰にもできないのである。


私達ができること。それはこの映画の中で提示されている。「無敵の人」というレッテルを貼らずに、人間対人間で接すること。言葉にすれば陳腐だが、個人単位でできることなどそのくらいだ。アンディは友達のいない孤独な少年であった。だが、人間として接してくれるファリンやパグらの存在によって承認され、救済されたのである。


アンディの境遇は、チャッキーと、ベトナムの工場員と、承認を得られていないという点で類似している。アンディは彼らのこうなっていたかもしれないというIFの姿でもあるのだ。裏を返せばアンディが彼らのようになっても何ら不思議ではない。違いは他者からの承認、救済があったかどうかだけなのである。


改めて問う。私たちはどうすべきか。リメイク版『チャイルド・プレイ』を観て、この感想をご覧になったあなたならば、もう取るべき選択肢は承知しているはずだ。リメイク版『チャイルド・プレイ』は、「無敵の人」問題に真っ向から挑んだ社会的意義の大きい作品なのだ


チャッキーたちは、私たちが暮らす日本にも多数存在している。日に日に生まれていっている。最後のチャッキーが再起動するシーンがそのことを十分すぎるほど示唆している。残忍な行為からは目を背けたくもなるだろう。だが、目を背けてはならない。これは現代の日本で、世界で確かに起こっていることなのだから。




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映画『チャイルド・プレイ』公式サイト
https://childsplay.jp/




こんにちは。これです。


一部の地域では梅雨も明け夏本番の到来。映画も夏休みシーズンに入り、大作が続々と公開されています。その中でもひときわ注目を集めるのが、映画『天気の子』。3年前『君の名は。』で、超特大ホームランをかました新海誠監督の最新作です。


私はまず公開当日の金曜に観て、昨日もう一回観に行ってきました。どちらもかなりお客さん入っていましたね。女性や若年層も多く、『君の名は。』の影響を存分に感じました。


正直、一回目では感想があまりまとまらなかったんですけど、二回目でだいぶまとまってきたので、それをいつもの通り思うがまま書いていきたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・ざっと作画、声優、音楽について
・重要な「糸」と「ネット」
・帆高が線路を走った意味
・賛否両論のラストについて
・「セカイ系」としての『天気の子』
・純粋で絵になる映画






―あらすじ―

「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、
怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。
彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。
ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。


(映画『天気の子』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。











・ざっと作画、声優、音楽について


まず、予告を見て分かっていたことなんですが、作画が『君の名は。』に続いて抜群に良い。新宿の街のリアリティと、雲の上の世界のファンタジックさ。対極に位置する両方に力を惜しみなく注いだからこそ、どちらも遜色なく主張し、お互いを引き立てる絶妙なバランスになっていたと思います。花火のシーンが一番のお気に入りですね。公開10日ぐらいまで粘っていたみたいですけど、その成果は存分すぎるほど現れていました。


声優さんもよかったです。特に、新人の醍醐虎太郎さんと森七菜さんを起用したのは、初々しさや擦れてなさがマッチしていて名采配でした。誰でもない感じがよかったですね。その反対に、大人のゲスト声優さん、小栗旬さんや本田翼さん、平泉成さんなどは、まあぶっちゃけ顔は見えます。でも、それが悪いというわけでは全然なくて、キャラクターにあっているかどうかの方が重要ですし、そういった意味じゃ圭介のぶっきらぼうさや、安井刑事のベテラン刑事感、夏美のさっぱりした感じが存分に出ていて、こちらもあっていたと思います。特に夏美ね。ああいうあっさりとしたお姉さんいいですよね。本田翼さんの魅力が弾けてましたよ。


さらに、RADWIMPSが手がけた音楽も引き続き至高。インストの曲は夏美が帆高を乗せてバイクで駆け出すシーンをはじめ、どのシーンにもあってましたし、歌詞ありの曲をインストで流すのも心憎い。一方、歌詞のある曲も『君の名は。』より多く、さらに今回特徴的なのが女性ボーカルも入っていることなんですよね。ボーカルの三浦透子さんは『21世紀の女の子』にも出演していたんですけど、出ていた話があまり台詞のない話だったので、今回初めて声を聞いたんですが、名前の通り透き通るような声をしていました。単純に聞いていて楽しくなりましたし、映画の最適なアクセントになっていた印象です。こちらも名采配。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・重要な「糸」と「ネット」


では、作画や声優さん、音楽についてざっと触れたところで映画の内容について書いていきます。話は映画の中盤まで飛びます。神社を訪れる圭介と夏美。その本殿の天井には龍が描かれていて、神主の老人が「晴れ女伝説」を語ります。「天気とは天の気分」「人間は住まわせてもらっている」など。そして、神主は「晴れ女」を「天気の治療をする巫女」と語り、「空と人間を結ぶ糸」だとしています。はい、出ました。『天気の子』の個人的キーワード。「」です。


どうして重要かというと、『天気の子』が繋がりの映画だと私は考えているからなんですね。帆高は一人で家出をしてきて、寄る辺もなく東京の縁にいました。でも、圭介や夏美、陽菜と繋がっていく。また、陽菜は母親が入院中に日差しが一筋差すビルの屋上へ向かいます。ここで鳥居をくぐりながら祈ることで、空と繋がります。そして、「繋」という漢字には「糸」が含まれています。やっぱり糸じゃないか。




そして、「糸」の対比になっていたものが『天気の子』にはありまして。それがネット(インターネット)です。映画の冒頭で帆高はYahoo!知恵袋で職探しのアドバイスを貰おうとしますが、ろくな返答を得られていません。また、100%の晴れ女の噂もネットで広まっていますが、そこに陽菜という答えはありません。さらに、映画の中では2021年のツイッターの画面が何度か登場しますが、いずれもストーリーに影響を与えることはない。このように『天気の子』にはネットが多く登場しますが、重要なのは帆高たちの役にはそこまで立っていないということなんですよね。


そりゃあ、お天気ガールのおかげで帆高と陽菜が食いつないでいっているし、一定の役には立っています。しかし、決定打にはなっていない。ネット、網とは「糸などを粗く結んで作った道具」。広範囲を覆うことができますが、反面その粗さゆえに取り逃してしまうものもあります。『天気の子』で主に降っていた雨は糸雨(しう)。読んで字のごとく糸のように細い雨です。家出した帆高や、親を失い弟と二人で暮らす陽菜。社会的に弱い立場にある二人のことを表しているかのようです。


安井刑事(cv.平泉成)が言っていました。「最近の若い子は何でもネットに書くからな」と。その次のシーンでは帆高がYahoo!知恵袋に、陽菜への誕生日プレゼントは何がいいか聞いています。しかし、まともな答えは返ってこず、何も解決しません。この時、帆高のバックに網が張ってあったのはとても象徴的でした。そして、帆高は陽菜の弟である凪から「指輪一択でしょ」とアドバイスを貰い、問題は解決します。このシーンが指し示す通り、『天気の子』ではネットというバーチャルではなく、現実で帆高が繋がった人たちからのみ、援助や解決策、救済がもたらされています


それはなぜでしょうか。現代はSNS隆盛の時代です。ネットでしか知らない、顔も分からない友達というのも少なくありません。人間関係が希薄になってきているというのは、ここ五十年くらいの常套句です。これは後でも書きますが、新海監督は『天気の子』では『君の名は。』と比べてより現実を描こうとしていたように思われます。


ネットはネットで素晴らしいですが、私たちが生きているのは現実。ネットの中に入って生きることはできず、所詮は現実にのみ実在しています。まあ私は現実逃避でSNSを見がちなんですが、『天気の子』では、アナログな繋がりが全てを左右する様を描くことで、そんなSNSにのめり込む人に、ネットには本当の援助や救済といった類のものはなく、現実にこそ本当の援助や救済が用意されている。だからもっと現実を生きようみたいなことを伝えたかったのかなと感じました。こう書くとよくあることですけど、まあ事実なので。




それに、この辺り『君の名は。』との類似点を感じるんですよ。『君の名は。』でも、糸守町や組紐など「糸」を想起させるものが登場しましたよね。それに、瀧はネットの情報で近くまで来れましたけど、糸守町がもう無くなっていることを知ったのって、定食屋のおじさんからじゃないですか。糸守町の情報も図書館で集めてましたし、アナログな情報が主流だったように思えます。『君の名は。』でもネットはそこまで役に立っていませんでしたし、この二作を見る限り、新海監督はやっていることはフィクションでも、ベースはあくまで私たちが生きている現実に設定した作品を作る人なのかなと感じます。正しいのかどうかは知りませんけど。




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・帆高が線路を走った意味


また、『天気の子』を語る上で「生」と「死」に触れないわけにはいきません。『天気の子』では、意図的なくらい「死」が多く登場しています。陽菜の母と圭介の奥さんは亡くなっていますし、立花家ではお盆の迎え火を焚いています。それに、陽菜が最初にくぐった鳥居のそばにも精霊馬が置かれていて、あの鳥居はこの世とあの世の境目で、陽菜は臨死体験をして晴れ女の力を得たのかと考えてしまうほどです。積乱雲の上は水草が繁っていて、天国のようでした。


よく亡くなることを「昇天する」「天に召される」などと言いますよね。この言葉、キリスト教からきているみたいなんですけど、そんなこと知らないくらいに日本に馴染んでます。これを基にするとこの映画では、地上が生の象徴で、空は死の象徴になっていると私は考えます。となると、「空と繋がってしまった」という陽菜の言葉は「死と繋がってしまった」とも取れますし、「人柱になる」とはそのまま「死」です。映画の中でも陽菜が風に飛ばされて昇天しかけたシーンありましたよね。あのシーンで陽菜の体に水たまりができかけたのも死が近づいているという分かりやすい証拠でしょう。


そして、いよいよ陽菜は昇天、死んでしまいます。陽菜が昇天したことで東京の空には晴れ間が戻りました。ただ、このシーンとても悲しい。晴れるということはモノトーンの空に色が戻ったということ。糸へんに色で「絶」。絶縁、絶交、絶望。いずれにしてもあまりいい言葉ではありませんね。


陽菜を失った帆高はもう一度会いたい一心で、陽菜が初めて晴れにしているところを見た廃ビルの屋上へと向かいます。その途中に脱走、逃走、発砲などの様々な違法行為を起こしますが、注目したいのは帆高が線路の上を走って廃ビルに向かったということ。はい、線路の「線」にも「糸」が含まれていますね。「線」は「糸のように細長く連続するもの」という意味で、3つも「糸」が含まれています。


でも、ここで重要なのは「」の方です。というのも「泉」には「あの世、冥土」という意味があるからです。「黄泉」という言葉は皆さん聞いたことがあるでしょうし、死ぬことを「泉下の人となる」とも言うそうです。このことからも陽菜が行ったのは死後の世界で、線路はその死後の世界へと通ずる路であると考えられますね。


帆高は陽菜へと、死後の世界へと通ずる線路を縦断します。横断じゃなくて縦断。ここにも糸。で、この「縦」という漢字には「ほしいまま。きままにする」という意味もあります。縦(ほしいまま)に操ると書いて「操縦」ですからね。これも陽菜にもう一度会いたい、天気なんて世界なんてどうでもいいという帆高の強い思いを表しているかのようでした。




雲の上という死後の世界で再会し、現世に黄泉がえった帆高と陽菜。ここで、「晴れ女には悲しい結末が待っている」という定めを破ってしまいます。糸へんに「定」と書いて「綻」、ほころびる。この上に「破」をつけると「破綻」。この通りに東京は、世界は破綻してしまいます。





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※ここからの内容は映画のラストに言及した内容となっております。激しくネタバレをしていますので、どうか十分にご注意ください。










・賛否両論のラストについて


『天気の子』はここからラストを迎えます。そのラストとはずばり世界が救われないラスト。首都圏では3年間雨が降り続き、かなりの部分が水没してしまっています。これはとてもショッキングな絵面でした。当然批判する人もいるでしょう。何人死んでるんだ。首都機能は壊滅してしまっているじゃないかと。フィクションと現実の区別もつけられずに。


新海監督の前作『君の名は。』は映像の綺麗さと謎解き要素のあるストーリーやRADWIMPSの音楽が、それまで新海監督の映画を観てこなかった人にも大受けした作品でしたが、ヒットした最大の要因というのはハッピーエンドで終わったことでしょう。


糸守町が救われ、もう会うことはないと思っていた瀧と三葉が再会を果たす。希望しかないラストが大勢の人の心を掴んだと思われ、興収250億円もの大ヒット及び、新語・流行語大賞30語にノミネートされるほどの社会現象を巻き起こしました(なお、2016年の新語・流行語大賞トップ10には『聖地巡礼』がランクインしていますが、これも『君の名は。』の影響が大きかったと考えられます)。


そして、3年が経った今作。当然のことながら新海監督にかかるプレッシャーは相当なものだったでしょう。そして、考え抜かれた末に選ばれたラストが、東京水没エンド。これは『君の名は。』で描かれたハッピーエンドとは真逆。そして、『君の名は。』が好きな人の多くが望むエンドとも真逆です。


今、Google様で『天気の子』の感想を検索したんですけど、「最後は陽菜の不思議な力で世界を救う」みたいな記事が出てきまして。もう腹を抱えて笑ってしまいます。ああやっぱりハッピーエンドを求めているんだなって。で、それに新海監督自らがNOを叩きつけていて、凄い挑戦的だなぁ、めっちゃ思い切ったなぁと感じます。


そりゃあ世界が救われて、陽菜にももう一度会えてみたいなハッピーエンドにすることだって容易いですよ。でも、それって『君の名は。』と全く同じで、同じことを繰り返していたら作家としての成長はあまりありませんからね。なので、このラストは物語上では必然ですが、メタ的な意味でも必然だったのではないかと思います。


ラストの東京が沈没した画に、私は東日本大震災を思い出しました
。家屋を避難車を根こそぎさらっていく映像がリフレインしたんですね。『君の名は。』は歴史を改変して災害を無かったことにしたフィクションの世界でしたが、『天気の子』では世界は救われません。これは東日本大震災のあった現実と同じです。


変えられない悲惨な現実でも、狂っていても破綻していても、残された私たちは現実を生きるしかない。親が亡くなって行く当てがなくても、どこかで生きるしかない。最後に帆高の言った「大丈夫」はそんな私たちを勇気づける言葉だと感じました。絶望の中の希望を描いていて、私は肯定したいなと思います。



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・「セカイ系」としての『天気の子』


それに、人類滅亡なんてフィクションの世界じゃ、ザラじゃないですか。東京が水没したのも南極の氷が溶けて人類の半分が滅亡したことに比べたら大したことないですよ。あれ、なんでエヴァ...?始まる前に予告見たからかな...。


私が『天気の子』を観て思った最初の感想が『めっちゃセカイ系じゃん!』ってものだったんですよね。『君の名は。』と同じで。というか私がセカイ系という言葉を知ったのも『君の名は。』の感想をネットで読んでからですしね。


とりあえず、セカイ系を知らない方に説明しておくと、


セカイ系とは―
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界危機」「この世の終わり」などといった抽的な大問題に直結する作品群のこと
セカイ系-Wikipedia


だそうです。ここでの中間項というのは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々」とのこと。うーん、でも『天気の子』では、国家機関としての警察やお天気ガールに依頼する人がいたり、わりと中間項あったような気が...。でも、予告の「あの日、私たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ」とセリフからもセカイ系な気がビンビンしてますよね。セカイ系で間違いないでしょう。で、そのセカイ系はエヴァに端を発しているらしいので、セカイ系である『天気の子』もエヴァの影響を受けているのは自然なことです


では、ここからセカイ系としての『天気の子』及びエヴァとの関連性について書いていきます!としたいのはやまやまなんですが、ここで問題が一つ。私ってエヴァ見たことないんですよね。いつか見なきゃとは思ってるんですけど…はい...。そもそも南極の氷がどうっていうのも空想科学読本で知ったことですからね。めっちゃ真剣に墓場が足りなくなるんじゃないかって心配してた記憶。



なのであまり詳しいことは書けないのですが、それでも少し書いてみたいと思います。セカイ系の世界とは紛れもなく「世界」のことです。実は糸へんに「世」という字は存在していまして、「紲」と書いて「きずな」と読むそうです。聞こえはいいですが、その意味は「①きずな。イヌ・ウシ・ウマ・などをつなぐなわ。罪人をしばるなわ。②つなぐ。しばる」とあまりいいものではありません。「束縛」といった方が正しいでしょうか。


『天気の子』で帆高は離島での代わり映えしない生活に縛られていました。そこから抜け出したくて、東京にやってきたわけですが、住むところも雇ってくれるところもなく、孤独な日々を送っています。しかし、圭介や夏美、陽菜と出会って繋がる。結びつく。居場所を得た帆高ですが、いいことばかりではなく、今度は「天気を晴れにするためには、陽菜を失わなければならない」という定め、運命に縛られてしまいます


陽菜を一度は失い、憔悴する帆高。世界か陽菜かというセカイ系特有の二択を迫られます。世界の平穏のためには陽菜を諦めなければなりませんが、帆高はそれに抗い、世界の平穏よりも陽菜といることを選択します。先ほどの定めとは真逆を行っていますが、これって束縛からの「解放」なんですよ。「俺は陽菜といたい!天気なんてどうだっていい!」という「世界の運命なんか知るか!」的な態度ですね。


で、ここで流れた曲が「グランドエスケープ」というのも重要で。帆高と陽菜は自らが背負ってしまった運命から脱出しようとしているんですよ。それは自分勝手かもしれないですけど、実に堂々としていて、高潮する曲調や絵的な爽快感とも合わせて、『天気の子』で一番の盛り上がりどころでした。「紲」という縛りからの解放。『天気の子』は「セカイ系」であり、「世界系」であり、「紲解系」であるのかもしれないですね。


まあ定めを破ったので、世界は破綻するという結末を迎えるんですけど、帆高はそんな「セカイ」でも「大丈夫」だと言うんですよね。ずっと不安でしょうがなかった帆高が終わりになって、狂って奇妙になった「セカイ」も含めてあるがまま受け入れて。とても綺麗な終わり方で、個人的には好きです。



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・純粋で絵になる映画


『天気の子』は『君の名は。』と、かなり異なったアプローチをしています。でも、ボーイミーツガールという基本は同じなんですよね。主人公がヒロインに出会い、紆余曲折を経て別れて、再会するという。このあたりは『君の名は。』が好きな人にも受け入れられそうだなと思います。


それに、ボーイミーツガールを描くと、やっぱり絵になるんですよね。人と人が会うというのは物語の基本みたいなところありますし、出会いからスタートするのは定番ですよね。糸へんに「会」と書いて「絵」と読みますし、絵巻はアニメーションの端緒ですし。ここがストーリーの始まりなんだぞっていうのが分かりやすい。『君の名は。』と同様、多くの人に届くことは間違いないでしょう。


それに、もう会えないと思っていた二人が再会を果たすというのはベタな感動シーンでもありますし、RADWIMPSの『愛にできることはまだあるかい』によってよりドラマチックに彩られます。実際、満員の映画館でもすすり泣く声が複数聞こえましたし、隣の女子高生は終わった後に「めっちゃ泣いたー」って言ってました。なので、賛否両論あるとは思いますけど、まあ大丈夫でしょう。二度目を観たくなる仕掛けも施されていますし、興収100億円はいくんじゃないでしょうか。


さらに、その女子高生は「応援上映行きたい」って言ってましたし、どうやら心はがっつり掴まれたそうです。周囲への口コミも期待できますね。でも、一体何を応援するんでしょうか。撃て―撃てーとでも言うんでしょうか。謎です。




あと思ったんですけど、『天気の子』って『君の名は。』に負けず劣らず、フェティシズムを追求してますよね。夏美の谷間だったり、陽菜の脇だったり。特にメインヒロインの陽菜がよかったですよね。明るくて闊達で、男性警官をタックルで押しやるぐらいにはパワフルで。帆高の2歳上だからっていって、帆高のこと呼び捨てにしちゃったりして。でも、実は帆高よりも年下だったことが、劇中では明かされて。年下であんなフラットな言い方してたんだって、悶えますよ。『天気の子』は、年下のお姉さんが最高な映画でした。


で、なんでこんなに魅力的に見えたかって言うと、帆高の視線を通して見ていたからなんですよね。帆高ってとってもピュアな少年で純粋なんですよ。その慣れなさといいますか、覚束なさといいますか、それが魅力を跳ね上げているんですよね。たまらない。あぁたまらない。


このままだと性癖垂れ流したまま終わるので、少し真面目な話でもしましょうか。『天気の子』って帆高が純粋でなければ成立しなかった話だと思うんですよね。帆高は純粋ゆえに、離島の閉鎖的な雰囲気や親からの束縛をより鋭く感じていたと。実は「純」の右側の「」には、「なやむ。苦しむ。」という意味もあります。つまり帆高は純粋ゆえに屯(なや)んでいたと。というか帆高が屯んでなかったら、この映画始まってないですし。


そして、帆高が陽菜と出会ってからの接し方もピュアそのものです。「俺は陽菜といたい!天気なんてどうだっていい!」というのも帆高の純然たる気持ちでしょう。最後の「大丈夫」も純粋な帆高だからこそ出た言葉。雨が降り続いているという暗めな世界観でも、この映画が暗くならなかったのは帆高が純粋だったおかげです。というか帆高が係わったキャラクターは大体純粋でしたね。陽菜も凪も圭介も夏美も。不純もあるにはあるんですけど、ジメジメした空気を感じさせない純情な映画で、後味も良好です。これから夏休みですし、ぜひとも多くの方に観ていただきたいなと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『天気の子』。個人的には『君の名は。』に負けず劣らずの名作だと思います。観てのお楽しみなサプライズもあるので、よろしければ映画館へと足を運んでみてはいかがでしょうか。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

映画『天気の子』公式サイト
https://tenkinoko.com/

いと いとへん|六画|部首索引|漢字ペディア
https://www.kanjipedia.jp/sakuin/bushu/detail/6/120


おしまい


天気の子
RADWIMPS
Universal Music =music=
2019-07-19



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こんにちは。これです。7月も中盤になってようやく暑さを感じられる天気になってきましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。私は相変わらずモチベーションもあまり上がらない怠惰な日々を過ごしております。


でも、そんな体を叩き起こして観に行ってきました。『トイ・ストーリー4』。やっぱり話題作は見ておかないとですしね。『アベンジャーズ:エンドゲーム』も『アラジン』も観に行かなかった身で何言ってんだって感じですが、まあそこはご容赦を。


それとこれは最初に言っておきたいのですが、『トイ・ストーリー4』の感想を書いている人って、『トイ・ストーリー』と共に育ってきたという人が多いと思うんですが、私は全然そんなことありません。『4』が公開されてから、初めてちゃんとシリーズを見た程度の人間です。それも踏まえてお読みいただけると幸いです。


なお、いきなりラストのネタバレから始まるので、映画を観ていない方はUターンを推奨いたします。そこは本当によろしくお願いします。いや、本当に。本当の本当に。


では、始めます。拙い文章ですがお付き合いいただけると嬉しいです。






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―目次―

・ラストは賛否両論あるけど、私は肯定したい
・ウッディに訪れる中年の危機
・ボーやギャビーによって揺らぐアイデンティティ
・子離れの話でもある
・これ、親御さん狙ってるでしょ

・ちょっとだけ不満も




―あらすじ―

“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”―― 新たな持ち主ボニーを見守るウッディ、バズら仲間たちの前に現れたのは、彼女の一番のお気に入りで手作りおもちゃのフォーキー。しかし、彼は自分をゴミだと思い込み逃げ出してしまう。ボニーのためにフォーキーを探す冒険に出たウッディは、一度も愛されたことのないおもちゃや、かつての仲間ボーとの運命的な出会いを果たす。そしてたどり着いたのは見たことのない新しい世界だった。最後にウッディが選んだ“驚くべき決断”とは…?


(映画『トイ・ストーリー4』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。















・ラストは賛否両論あるけど、私は肯定したい


さて、『トイ・ストーリー4』は、アメリカでの評価は高かったものの、日本での評価は賛否両論。『3』ではあまり見られなかった批判が方々で見受けられます。その理由として最大のものがそのラスト。『4』では最後、ウッディはバズたちと別れ、子供に所有されないおもちゃとして生きていく道を選びます。


このラストに『トイ・ストーリー』を愛するファンからは批判が噴出
。予告で「一人も見捨てないぞ!」とか言っておいてバズたちを見捨てているじゃないか。仲間よりも女を選ぶのか。子供のためのおもちゃであるという自らの存在意義に反しているじゃないか。今までの物語全否定かよ。等々思い入れのある人には辛い展開となっています。


ただ、私はこのラストを肯定したいんですよね。それはウッディが自分の人生を選んだから。物言わないおもちゃではなく、意志と感情を持った「人間」としての、「ストーリー」としての選択を私は尊重したいなと感じます。




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・ウッディに訪れる中年の危機


ここからその理由を書いていくのですが、前提として押さえておきたいことが二つ。それは『トイ・ストーリー4』は中年になったウッディの物語であるということ。そして、『トイ・ストーリー4』がそんなウッディの「中年の危機」を描いた作品であるということです。


まず、中年の危機とは何か。このページによると中年の危機は、


私たちは誰しも、人生の中で様々な選択をして生きています。
しかし…
「自分の人生、これで良かったのだろうか…?」
「もし、あのとき、違う選択肢を選んでいたとしたら…?」
こんなことを考えたことは、ないでしょうか。

このような思いを抱くのは、人間が成熟していく時に起こる自然なことです。しかし、この時、充分に向き合えずにいると、とても辛い状況になってしまいます。何年も深く悩み、うつ病のような状態になってしまうこともあります。



と説明されています。加齢による身体的変化、家族ライフサイクルの変化、職場での変化などの要因が引き金になり、青年期に獲得したはずの「自分は何者か」というアイデンティティが揺らぐ。それに伴う心理的不安感のことを指すそうです。そして、日本では「第二の思春期」「思秋期」などと呼ばれることもあるそうですね。











また、『トイ・ストーリー4』のテーマ。これは実は『1』と同じであると私は考えます。それは「自分とは何者か」ということ。自己の存在意義に向き合うという点で『1』と『4』はとても類似しています。


『1』では、バズは最初、自分をスペースレンジャーと信じて疑いませんでした。ウッディは何度もバズに自分がおもちゃであることを言い聞かせます。偶然テレビを見てしまって、自分がおもちゃであることを知るバズ。悩むバズを通して、自己の存在意義にウッディもまた向き合う。『1』はそのような話だったと私は記憶しています。


そして、これは『4』におけるフォーキーが置かれた状況と酷似していますフォーキーも最初は自らをゴミと信じて疑わず、すぐにゴミ箱に入ろうとします(ここコミカルで面白かった)。そのフォーキーに「お前はおもちゃなんだ」と何度も言い聞かせるウッディ。この構図は『1』におけるウッディとバズの構図そのもの。意図的なリプレイです。


劇中でウッディはフォーキーに異常とも見れる執着を見せていましたが、それはボニーの一番お気に入りのフォーキーの近くにいることで、自らもボニーに選ばれたいという理由だけではありません。自己の存在意義が揺らいでいて、フォーキーを説得させること、「お前はおもちゃだ」と繰り返し言うことを通して、自分をも納得させたいという思惑もあったと私は考えます。ボーに「自分のためでしょ」と指摘されていたのも、これが原因でしょう。おそらく。そして、再び自らの存在意義に向かい直す。 これは「第二の思春期」と呼ばれる中年の危機そのものでしょう。




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では、なぜウッディは、自己の存在意義が揺らぐ中年の危機に陥ったのか。『トイ・ストーリー』におけるおもちゃには寿命がありません。が、パーツが摩耗したり、錆びたり、解けたりという身体的変化はある。また、家族ライフサイクルの変化実はフォーキーを子供と捉えるとこれもあります(これについては後述)。そして、一番大きいのが職場での変化でしょう。


個人的に『トイ・ストーリー』は、子供を会社、おもちゃを社員に例えられると思います。子供はいくらでもいるように、会社もいくらでもある。ウッディはおもちゃとしてのキャリアも長いベテラン社員会社に対する「忠誠心」が強く、会社に所属している自分に誇りを感じている。名刺の上にある〇〇社△△部課長という肩書まで含めて自分であるかのように信じている。「社員である自分」が彼のアイデンティティになっていると考えられます。


しかし、現実はボニーに選んでもらえない日々。仕事が貰えず、やりがいが感じられていません。かつてはボニーにも大切にされていたのに。職場での立ち位置は窓際に追いやられるばかり。職場での致命的な変化から脱したいと考えています。そして、そんなウッディにボニーを追って訪れた移動遊園地で転機がもたらされます。












・ボーやギャビーによって揺らぐアイデンティティ



移動遊園地でウッディはかつての仲間、ボーと再会します。ポーは9年間持ち主がいないフリーランスなおもちゃ。でも、ボーはそんなことを全く気にすることもなく、元気に暮らしてフリーの仲間もできています。さらに、フォーキー奪還作戦の先頭に立つ姿は勇ましいの一言。持ち主がいなくても、臆することなく堂々としたボーの姿を見て、ウッディの「社員である自分」というアイデンティティは揺らぎます


さらに、アンティークショップで出会ったギャビーとの攻防も、ウッディのアイデンティティをより揺らがせます。ギャビーはボイス機能に欠陥がある生まれついての不良品で、アンティークショップの娘であるハーモニーに手に取ってもらえることはありませんでした。紆余曲折を経てウッディはギャビーに協力することを選び(というか選ばされ)、ギャビーのボイス機能は正常に動くようになります。


これでハーモニーに手に取ってもらえると意気揚々のギャビー。しかし、ハーモニーはギャビーを一度手に取っただけで捨ててしまいます。落ち込むギャビーでしたが、迷子を見かけると、ウッディたちの協力もあり、その子の側へ。その子はギャビーのおかげで両親に会うことができました。誰かが自分を必要としてくれているというメッセージの込められていると思われるハートウォーミングな展開です。


ここで大事なのが、ギャビーの夢が叶っているということ。公式HPには「ギャビー・ギャビーのたったひとつの願いは子供のそばにいて愛されること」と書かれており、これは見事現実のものになっています。ここで「自己の内面的欲求を社会生活において実現すること」という自己実現がされている。自己実現をしたギャビーの姿を見て、ウッディは自己の内面的欲求は何であるかを自分に問います。この自己の内面的欲求は、劇中では「心の声」に言い換えられていましたね。




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・子離れの話でもある


そして、ウッディはボニーの元を「退職」して、ポーたちの元に留まり、フリーランスになることを選択します。つまり「会社員」ではなく、「自分自身」としての人生を選択したということ。「他人」の「人生」だから、もちろん反発も出るでしょう。一定の給料が保証されている安定的な生活を捨てるのかとか。でも、ウッディの人生はアンディやボニー、そして私たち観客のものではなく、アンディ自身のものですし、私は「自分の人生」を生きることを決意したアンディの選択を素直に応援したいなと思います。


それに、ウッディが「自分の人生」を選択することができたのは、実はフォーキーのおかげでもあるんです。フォーキーはウッディが拾い上げたゴミから作られた、いわばウッディからしてみれば子供当然なんですよ。ウッディはフォーキーに「自分はおもちゃである」と教育します。でも、ウッディの教育も叶わず、ここではまだフォーキーは自分をゴミであると思い込んでいます。


しかし、フォーキーはウッディの元からギャビーの手によって引き離されます。これは幼稚園や学校等のメタファーであると私は考えていて、フォーキーはアンティークショップでギャビーらと交流していくうちに少しずつ打ち解け、心境にも変化が生まれてきます。


そして、映画の最後の最後。フォーキーは自分のことをおもちゃであると認めるんですよね。これは「自分はおもちゃである」というアイデンティティーを確立したと考えられます。いわば思春期の課題をクリアしたも同然。大人になったフォーキーを見て、もう自分が世話をしなくても大丈夫だとウッディは感じたのだと推測します。それもウッディの選択を後押ししたのではないかと。『4』はウッディの子離れの話でもあると言えそうですね。














・これ、親御さん狙ってるでしょ



とここまで書いて思ったんですけど、これ子供には分からないですよね。『1』から見ているような親御さん狙ってるでしょ。例えば『1』を観たときに5歳だった子供は、24年経った今じゃ29歳なわけですよ。三十路を手前にして大いに悩む時期ですよね。それに、子供と一緒に来ている人もいるでしょうし、そういった親御さんは自分の子供の遠い将来に思いを馳せたりするんだろうなぁ。


また、『1』を観たときにリアル思春期だった18歳の少年は、24年経った今じゃ42歳の立派な中年。男性なら本厄ではないですか。とすると、『4』で描かれた中年の危機は今まさに自分が直面している課題で、他人事とは思えないでしょう。これらを考えると『4』は対象年齢は、今までで一番高いと感じますね。子供向けのアニメ映画でそれがいいのかどうかはともかく。


それで、上記のことからも分かるように、『トイ・ストーリー』の特徴って、物語と観客の人生がリンクしているところにあると思うんですよ。これはもう確信犯ですね。で、最初に述べたように、このラストに怒っているのは『3』を見て、押し入れの奥から古いおもちゃを引っ張り出したような熱烈なファンだと思うんですよね。だって、彼らの人生って『トイ・ストーリー』とともにあったわけですし。


それに、彼らはウッディらおもちゃの「社長」でもあるんですよね。小会社で家族同然に付き合っていて、働きぶりもいいベテラン社員が、ある日突然退職すると言う。これは納得いかないのも当然ですよ。『4』は観客の私有化からの解放の物語なので拒否反応が出るのも正しいことだと思います。でも、ウッディら社員は、社長の所有物ではないですし、彼らには彼らの人生がある。決断を尊重したいとか、セカンドライフを応援したいとかはどうしても思えませんかね…。思えませんか…。はい...。私は応援しますよ。ええ。




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・ちょっとだけ不満も


と以上が、私が『4』のラスト及び物語を肯定する理由なんですけど、ぶっちゃけ不満もないことはありません。


その一つが、おもちゃたちのアクション。『4』では、今まで以上にアクションがもりもりで、絵的に派手で子供が喜びそうだなと思うのですが、正直やりすぎではないですか。いや、喋るのは別にいいんですよ。『1』という前例がありますし。でも、車を運転するシーン。あれは死人が出てもおかしくないでしょう。そこはどうにかならなかったのかと感じます。


もう一つが、脚本上の問題。今までの3作は「家に帰ること」が唯一の目的で、ウッディたちの行動原理はそれだけでした。でも、『4』ではここに「ギャビーの自己実現」というもう一本の柱が立っているんですよね。柱が2本あることで少し物語がとっ散らかってしまったかなという印象は受けました。「ギャビーの自己実現」はこの映画になくてはならない要素には違いないんですが、もう少しバランスを考慮してほしかったなぁというのは正直ありました。


でも、不満はそのくらいですね。今まで通り面白く、テーマは分からなくてもお子さんも十分楽しめますし、大人にはよりダイレクトにテーマが入ってくる。万人にお勧めできる映画とはこのことかと思います。ぜひ、映画館でご覧ください。




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以上で感想は終了となります。『トイ・ストーリー4』。家族で楽しめる夏休み映画の決定版になっています。否定的感想もありますけど、私はオススメしたいですね。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

『トイ・ストーリー4』公式サイト
https://www.disney.co.jp/movie/toy4.html

中年の危機 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/中年の危機

ミッドライフ・クライシス(中年の危機)の葛藤と対処法|カウンセラーライフ
https://co-life.jp/ミッドライフクライシス/

自己実現(じこじつげん)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/自己実現-73074




おしまい





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