Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2019年09月





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the pillows(以下、ピロウズ)を聴く人とは、どんな人なのだろう。街を見渡しても、どの店に入ってもピロウズが流れているのを聴いたことがない。周囲に聞いても多くの人がピロウズの名前なんて知らないし、知っていたとしても数曲聴いたことがあるというくらいだ。もしかしたら、ピロウズを聴いているのは自分だけではないか。理解者はなかなか見当たらず、世界に一人だけ生きている、そんなペナルティの最中にいるような気さえしてくるのだ。


ただ、一度ライブに行けば、そこにはピロウズのTシャツを着た大勢のバスターズ(ピロウズファンの別称)がいる。あちこちにまだ隠れてる私と同じような人間がいる。多くが手を掲げ、バスター君のリストバンドもよく見られる。手拍子はリズムのない旋律で、演奏は姿を変えて、ここではないどこかに連れ出しにくるモンスターとなる。多幸感に包まれ、この世の果てまでさえいけると本気で思う。


ピロウズは今年、30周年を迎える。バンドが30年続くことの価値は、カーニバルの光よりもまばゆい。私は7年ほどしか知らないが、本人たちからしてみれば紆余曲折がありながらも、体感的にはあっという間で、目が覚めたら30年が経っていたという心地なのだろうか。いずれにせよ、とてもめでたいことだ。そして、同じ時代を生き、節目を感じることが出来て、本当に幸せである。月並みな言葉だが出会えてよかったなと思う。


30周年ということで、ピロウズでは様々なアニバーサリーイベントが企画されていた。その中の一つがオリジナルの劇映画の制作だ。タイトルは『王様になれ』。ミュージシャンが、ドキュメンタリー映画を作ることはままあるが、バンドの歴史をなぞらないオリジナルストーリーというのはあまりないように思える。近年は『小さな恋のうた』や『雪の華』など曲をモチーフにした映画は制作されているものの、バンド自体をモチーフにした劇映画は記憶にない。バスターズとして、これは見逃すことが出来ないだろう。前人未到の宝島へのチケットを握りしめ、公開初日に映画館へと向かった。




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映画が始まると、最初のモノローグでいきなり心を掴まれた。『王様になれ』はピロウズを見なくても、ままならない現実に対抗する青年の物語として、十分に楽しめるが、ピロウズを知っていると知っていないとでは味わいが段違いだ。アルバムを全部聴けとは言わないが、サウンドトラックに収録されている曲は抑えておいたほうがいいだろう。自分以外の足跡のない無人島に漂着しないためにも。


主人公の神津祐介は叔父のラーメン屋でアルバイトをしている。ただ、本業はカメラマンのサブアシスタントだ。スタジオでカメラに触らせてもらえることはない。雑誌の表紙を撮るような同期の西小路にはえげつない差をつけられている。ラーメン屋は自分にはそぐわないが、スタジオには自分の居場所がない。まさに、どこにいてもミスキャストだ。この祐介の姿が評価されなかった(と聞いている)第一期、第二期ピロウズと重なるのは意図的なことだろう。


そんな祐介を演じたのは、岡山天音さん。適度に垂れ下がった眉と、自信のなさそうな挙動が燻っている感をダイレクトに表現している。言うならばローファイボーイといった風体だろうか。プライドを隠し持ってはいるけれど、臆病に支配されてしまって、見せびらかすことが出来ていない。その様子がプラスチックの涙を砕くアイスピックのように胸に刺さった。


祐介はラーメン屋で藤沢ユカリを見つける。まさに一目ぼれといった感じで、祐介はコップから水がこぼれているのに気づかない。彼女を演じたのは後東ようこさん。まっすぐな瞳と飾らない明るさは、ファイターガールを思わせる。しかし、彼女も傷になったトラブルを抱えていて、気丈に振る舞っていたのだと気づかされる。そうなってからの青い芥子の花びらのような儚さも、また素晴らしいものだったように思う。


祐介はユカリのバスター君Tシャツで、ピロウズを知り、すぐさまライブに行っている。ユカリが一緒とはいえ特筆すべき行動力だ。そのライブで演奏されたのは「LITTLE BUSTERS」。いきなりライブの定番であるこの曲を投下され、私の涙腺はいきなり壊れた。予告でも感じたが、「色褪せないキッドナップミュージック」がエグい。辛くはないが、靄のように頭の中を埋め尽くす現実から、何度も連れ出されたときのことを思うと、涙が伝って頬を濡らすのだ。普段はロボットのように冷たいのに。


そこから祐介はピロウズにどんどんはまっていく。ユカリが貸した数枚のアルバムからのめりこみ始め、冷蔵庫にはステッカーを貼り、壁はポスターで埋め尽くされる。真鍋さんのことをpeeちゃんと呼んだり、さわおさんのギターについてもにょもにょ言ったり、さわおさんの別バンドであるCasablancaまで見に行くという3倍速のはまりっぷりだ。ユカリもピロウズの話しできる人を見つけることができ嬉しそうで、「祐介くんの第二期がここから始まるんだね」というエモいセリフも言ってのける。ピロウズを語れる人間が周囲にはいない私にとっては羨ましい限りだ。


しかし、祐介は粗相をしたことでスタジオをクビになってしまう。頼み込んでライブカメラマンの虻川に弟子入りするが、ここでもやはり評価されない。輝いている同期にも嫉妬を募らせ、上手くいかないことが続いて気が狂いそうになっている。というか狂って叫んでいる。そんな物語を彩るのはやはりピロウズの音楽だ。













祐介がピロウズにはまっていくシーンで、名曲たちをつるべ打ちにするのはテンションが上がり、挿入歌としての使い方も抜群だ。特に祐介の歌いだしから始まる××は、それまでの過程もあって大粒の涙を流した。また、物語と歌詞のリンクもしっかりしていて、終盤のカタルシスは半端ではない。映画のキャラクターだけではなく、映画を見ている私たちをも肯定するかのような歌詞に、強く胸を打たれた。


さらに、バンド発の映画とだけあって曲が流れている時間が長い。1番だけかと思いきや平気で2番、なんなら最後まで演奏する。曲が演奏されている間は物語が止まる。そのような心配もなく、虻川の顔見せをしたり、祐介の失敗を描いたりと描写がしっかり重ねられているので退屈なく見ることが出来る。それに、これはバスターズへのご褒美だと考えるほうが妥当だろう。


それは、さまざまなミュージシャンが出演したり、ピロウズの曲をカバーしていることにも表れている。ストレイテナーのホリエさんが「ストレンジ カメレオン」を歌い、GLAYのTERUさんとJIROさんが「スケアクロウ」を披露する。どちらもこの映画のテーマに合っていて、言うに及ばず素晴らしいが、輪をかけて感動したのは、シュリスペイロフの宮本さんが歌う××だ。宮本さんの気怠さがあり、諦めを纏った歌声が××によく合うのだ。さらに、歌詞もこの上なく映画にはまっている。これはサウンドトラックには収録されていないので、映画館でしか聴くことが出来ない。ぜひ聴いてほしい。


大勢のミュージシャンが出演するこの映画は、観るトリビュートといっても過言ではない。20名以上のミュージシャンたちが集まったというその事実だけで、暖かい愛を感じるのだ。そして、その主役たるピロウズはどうだろう。真鍋さんとシンイチロウさんはそれほどセリフがなかったが、さわおさんだ。率直に言って怖い。お決りのネタでクレームをつけたり、声を荒げたりする様子は、赤いコウモリのようだ。もちろん自分の信念に基づいてのものなのだが、怒髪天の増子さんによると、あれが普段のさわおさんそのままらしい。確かにユカリのように拒絶反応を示したくもなる。ああいう人周りにいなくてよかった。憧れは憧れのままでいい。




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映画が終わった。ボロボロ泣いて喉仏にまで、乾いた涙が筋になっている。とてもいい映画だった。観てよかった。また観たい。


ところで、ピロウズを聴く人とは、どんな人なのだろう。


それは、この映画の言葉を借りれば「不完全」な人になるだろうか。何かが欠けたかけらだ。あるはずのない出口を探す毎日を生きる人たち。それがピロウズを聴く人たちなのだろう。それは、まるで周りの色に馴染まない出来損ないのカメレオンそのものではないか。


昔も今も、私は「ストレンジカメレオン」だ。人と喋ることが出来ない。話すことも聞くことも、私の頭では処理が追い付かず、真っ白になってしまうのだ。なんて頭が悪いのだろう。その頭の悪さゆえに、周囲にうまく合わせることが出来ずに浮いてしまう。ハゲタカにでも目をつけられて連れ去られ、鋭い嘴で柔らかい皮膚から内臓を抉り出されてしまいそうだ。


ただ、「ストレンジカメレオン」では、こうも歌われている。「拍手は一人分でいいのさ」と。ピロウズの音楽は大勢には届かないかもしれない。拍手をするのは私一人かもしれない。でも、一人じゃない。一人じゃないのだ。一人分の拍手がいくつも積み重なった結果が、ライブハウスでの多幸感であり、ピロウズの30年でもあると私は信じたい。神様よりも。












そして、タイトルの『王様になれ』。現実は厳しく、ままならない。崖っぷちを踏み外しそうになるし、風の強さに吹き飛ばされそうにもなる。自分の本心を変えなければならないことだってしばしばだ。自分のやりたかったことなんて、胸の奥に封印されてしまう。


でも、深層心理は何を願うだろう。


心の声は無口にならないし、耳を塞ぐことなんてできない。私たちは心の声を封殺してまで、誰かになりたいのだろうか。それよりもか弱い自分を今より信じたいのではないか。自由自在で気分次第な自分の心の声に従って、道なき道を、踵を鳴らして進むことはできないだろうか。自分を信じること、それが「王様になる」ということではないかと、私はこの映画を観て感じた。全くもって普遍的なメッセージである。


何も自分を抑圧しているのはバスターズだけではない。他の多くの人たちも顔色を窺って、自分を隠して生きているように私は思える。そもそも完全な人間なんていないし、誰しもが不完全なのだから、皆ピロウズを聴いてこの映画を観るべきなのだ


『王様になれ』で、印象に残ったセリフがある。虻川の「アイツ(祐介)を雑に扱えない」というセリフだ。私はここにオクイ監督の計り知れない優しさを感じた。不完全な祐介を無下にしないということは、不完全な私たちをも無下にしないということでもある。観る人、バスターズ、いや世の中すべての人間を肯定する。なんとも優しい態度ではないだろうか。その優しさに気づいたとき、私は何度目かもわからない涙を流した。


私たちの人生もいつかは終わってしまう。映画みたいに。100通り、いやそれ以上のターミナルまでドライブの途中だ。誰もを肯定するというオクイ監督の取り組みは、そのまま人生を、生を肯定するものでもあるのだ。


だから、生き延びよう。


辛くても、悲しくても。


悪夢を蹴散らす歌を歌いながら。


きっと先入観でくすんだ未来図も塗り替わる。


王様になれ。




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おしまい





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こんにちは。これです。今回のブログは2日続けての映画感想になります。


今回観た映画は『いなくなれ、群青』。あまり話題となっている映画ではありませんが、キービジュアルを見た時からビビッと来ていたので、観に行ってきました。その結果、かなり好きな映画であると感じましたね。観てよかったです。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・若手俳優さんたちが魅力的!
・悪い部分があってこそ人間だと思う
・まとめ





―あらすじ―

 ある日突然、僕は〈階段島〉にやって来た。ここは捨てられた人たちの島で、どうして僕たちがこの島に来たのか知る人はいない。この島を出るには、失くしたものを見つけなければいけない。だが、疑問さえ抱かなければ、島の日常は安定していた。幼馴染の彼女に再会するまでは──真辺由宇。この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる。「納得できない」と憤慨する真辺は、島から出るために、僕と周囲を巻き込みながら島にまつわる謎を解き明かそうとするのだが──。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。

(映画『いなくなれ、群青』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












・若手俳優さんたちが魅力的!



『いなくなれ、群青』では、青春ファンタジーと銘打たれている通り、主演キャストの多くが若手の俳優さんで固められています。この映画で初めて見る方も何人かいましたが、結論から申し上げますと、私は映画が終わった後に、全員を好きになってしまっていました。本当に全員売れてほしいと心から思います。


主演は、『はじめて恋をした日に読む話』や『チア男子!!』などで知られる横浜流星さん。悲観主義者の七草を演じています。今をときめく人気若手俳優さんですが、この映画でも横浜さんの魅力は爆発。移り気な瞳に、低いテンション。淡々とセリフを述べるその様子は、吹いたら飛んで行ってしまいそうな儚さがありました。憧れというよりは「守ってあげたい」みたいな感じですかね。映画館に来ていた多くの女性(男性は私を入れて二人だけだった)も満足したのではないでしょうか。


今作のヒロイン・真辺を演じたのは飯豊まりえさん。個人的には『名探偵ピカチュウ』以来だったので、動いているところを観るのは初めてでしたが、キャラクターに合致した真っすぐな眼差しが印象的でした。真辺は階段島から出るという自分の意志を貫くキャラクターだったんですけど、その行動力の高さもよかったですね。周囲を顧みないという点も含めて。海辺の堤防に佇む姿は、とても感傷的でした。


さて、ここからは恥ずかしながら、多くが初めましての俳優さんになります。まずは、会話が苦手な女子・を演じた矢作穂香さん。特筆したいのは、そのミステリアスな雰囲気。立っているだけで、底知れないオーラを放っていますし、目元の黒子がセクシーでした。多くを語るわけではないんですけども、海辺での真辺と話すシーンなど随所に存在感を発揮していました。


続いては、ゲーム好きな男子・佐々岡を演じた松岡広大さん。こちらは軽薄気味なキャラクターを好演していて、空気が重くなりすぎないように努力しようとする姿が愛おしかった。でも、彼もまた、委員長の水谷には「ヒーロー気取り」と言われ、自分のことを好きになれず、ゲーム音楽に逃げ込むキャラクターなので、共感する部分は大いにありました。キメるときにはちゃんとキメてくれましたしね。


また、彼らは高校生でしたが、この映画には中学生も登場しています。バイオリンを弾く豊川がそうです。豊川はかつてコンクールで失敗したことをトラウマに持っており、人前で演奏することができないというキャラクターでした。そんな彼女を演じたのが、中村里帆さん。豊川の苦悩を、少ない言葉で表現していて、演技力の高さを感じます。豊川もまたこの映画では重要なキャラクターでしたが、その重責を十分に果たせたと言っていいかと思います。


さらに、授業に出ず、屋上で本ばかり読んでいるというナドというキャラクターもいました。演じたのは黒羽麻璃央さん。達観した様子の彼に、黒羽さんの危うげな雰囲気がベストマッチしていたと思います。横浜さんとは正反対で、会話シーンはお互いがお互いを際立てていてよかったですね。登場すると雰囲気が若干ポエトリーになります。


しかし、彼ら彼女らを差し置いて、私がこの映画で一番魅力的に感じたキャラクター。それは学級委員長の水谷です。とにかく正しいことを主張するというキャラクターでしたが、気はあまり強くなくタジタジとしているところもあって、そこが魅力的に映りました。佐々岡からは「自分がいい人だと思われたいだけだろ」と言われていて、私もいい人だと思われたい、誰にも嫌われたくないので、分かると共感しきりでした。演じた松本妃代さんは眼鏡も似合っていて、分けられた髪型とともに、真面目を押し付けられている感じが出ていて、凄く良かったと思います。これからに注目していきたい俳優さんがまた一人増えました。




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そして、『いなくなれ、群青』では、若手俳優さんたちのポテンシャルに、映画の魅力のかなりの部分を依存しています。顔のアップがめちゃくちゃ多かったですが、横浜さんをはじめとして、だれ一人そのプレッシャーに負けておらず、青春の危うさを切り取ると言った意味でも、この演出は大成功を収めていると感じました。


さらに、若手俳優さんたちの熱がそれぞれに伝播し、互いを高めあっていく様子がスクリーンからも感じ取れます。映画が進むにつれて、彼ら彼女らは加速度的に魅力を増しています。群像劇チックなテイストもあるこの映画では、誰もがいい演技をしていて、若手俳優さんたちを売り出すという意味でも、価値のある一本になっていると思います。出演した俳優さんたちが、これから飛躍していくにつれて、じわじわと観られていき評価が高まっていく作品に、彼ら彼女らのマイルストーンになるのではないでしょうか。今観ておいて損はない映画です。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・悪い部分があってこそ人間だと思う


この映画を一言で表すならば、「人間の悪い部分が沈殿したかのような映画」だと思います。この映画で描かれる「青春」というのは、あまりいいものではなく、艱難辛苦に満ちています。キャラクターたちも、どこか歪んでいて、全員が全員、何かを失くしています。映画の空気も決して軽くはありません。


しかし、彼ら彼女らが集まる階段島はいいところとして描かれています。学生寮に住まわせてもらえて食事も出るし、傷つくことも少ない。自覚しなければ、生活は安寧そのもの。この階段島の舞台になったのは伊豆ですが(階段が多いから長崎の五島列島だと思ってた)、まずこのロケーションが最高でした。森の緑に、クリアな海。清々しい雰囲気で、重たい物語との対比になっていて映えます。その一方で、海はどこか不気味でもあり、家々の塗装は潮風で剥げ、灯台は錆びていて古めかしい。映画で描かれている重さをよりリアルなものとして、突き付けてきてもいました。




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プロローグを経て、七草たちが通う学校に真辺が転校してきます。階段島にやってくる人間は記憶を一部分消されていて、多くの人はそれに納得していますが、真辺は納得していない様子。島を支配する魔女を探し出して、島から脱出しようとします。彼女は理想主義者であり、そのやり方はやや強引なもので、周囲の人間を否応なしに巻き込んでいきます。


積極的で理想的な真辺の登場は、平穏だった階段島をかき乱していきます。そして暴露されるのは、それぞれの人間の嫌な部分。七草は悲観し、矢作は周囲の輪に入ることができず、佐々岡はお調子者。水谷は自分のことを偽善者だと責め、豊川はトラウマに囚われ、ナドは授業をさぼって読書に耽ります。人間には様々な側面があり、嫌な部分があってこその人間だと私は思っているので、この描き方は大歓迎でした。


それに、行動的で積極的で人間の良いとされる部分が形を持ったような真辺は、もう一人の彼ら彼女らでもあります。自分とは正反対の存在。それはまるで光に照らされる影のように、自分の嫌な部分を浮き彫りにしていきます。そして、生み出された自己葛藤に彼ら彼女らが苦闘するというのが、『いなくなれ、青春』の大筋でした。これは、まるで学生時代の葛藤を表しているようです。


学生時代、大人たちは彼ら彼女らに規範的な意識を押し付けてきます。やれ勉強しなさいだの、友達と仲良くしなさいだの、明るくポジティブに振舞いなさいだの。本当の自分はもっと暗くてどうしようもない人間なのに、笑顔の仮面を被って明るい人間を演じなければいけないというフレームワークにあてはめられる。その枠組みから外れたネガティブな自分、嫌な自分は切り捨てられ、心の中を延々と彷徨う。SOSは受信されない。


でも、『いなくなれ、群青』は、こういった嫌な自分に焦点を当てた映画です。人間の悪い部分をこれでもかと見せられる。それは、まるで鏡に映った自分を見ているようで、ダイレクトに心に届きました。「自分を受け入れる」なんて、言葉にすれば簡単です。でも、それができている人が一体どれだけいるのでしょうか。時おり顔を出す悪い部分に気づき、自己嫌悪に陥る。現在進行形で私を感じているようです。私も階段島にいます。この映画は紛れもなく「私」の映画です。今年観た映画の中で、一番そう感じました。




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(堀を演じた矢作穂香さん。良い。)















・まとめ


しかし、私は「嫌な自分も悪いことばかりではない」と『いなくなれ、群青』は伝えていると感じました。確かに悲観的な性質はなかなか変えられないですが、それは言い方を変えれば、「よく考えて慎重に行動する」という一見プラスの意味にも受け取ることができます。長所は短所で、短所は長所。実際理想的だとされていた真辺も、水谷に「周囲を顧みない」と指摘されていますしね。


そして、この映画では、この嫌な自分が反転して人を助けるという描写がいくつもなされているんですよ。佐々岡の軽はずみな行動が、バイオリンの絃の入手につながって豊川を助けていますし、水谷の相手を思いやるという心が、真辺にも伝わって、それが豊川をトラウマから解放しています。私はここに、人間の悪い部分、嫌な自分でも人の助けになることができるかもしれないという強烈な希望を感じました。嫌な自分も存在していていいと言われた気がします。


ただ、映画としては群像劇チックなだけに焦点がぼやけてしまったり、ポエムが過ぎたりするところも正直あります。「第〇話 〇〇」といった演出も余計だと思いますし、大人に「青春だなぁ」と言わせるのもちょっと気に入りません。手放しで称賛はできませんが、しかし、私はこの映画が好きなのです。人間の嫌な部分が存分に出たこの映画が愛おしいのです。


自分を受け入れるのは簡単ではありません。本来なら学生のうちに完了しておくべきものですが、大人になってもそれができない人が大勢いるということは、階段島にいた大人たちが示しています。でも、だからといって、嫌な自分を封殺するのではなく、存在を認めていくこと。それが、自分を受け入れる第一歩になるのだと、私は『いなくなれ、群青』を観て感じました。完璧な聖人君子なんてこの世にいないですし、誰もが自分の嫌なところを持っているので、ぜひとも多くの方に観てほしい映画です。何か感じることがあるのではないでしょうか。




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以上で感想は終了となります。『いなくなれ、群青』。とても身につまされる映画だと思います。ぜひとも映画館でご覧ください。オススメですよ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


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こんにちは。これです。公開初日に映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形』を観てきました。京アニも含めて普段アニメはそんなに見ないのですが、この作品は見ておかないとと強く感じたんですよね。なので、珍しくNetflixでアニメを全部見てから映画館へと向かいました。原作にまでは手が回りませんでしたが、喪失からの再生を描いていていい作品だと感じました。少しだけ泣きました。


そして、今回のブログはその『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の外伝の感想です。拙い文章ですが、よろしくお願いします。


まず、公開されたことに最大限の感謝を込めて。ありがとうございます。




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―あらすじ―

……大切なものを守るのと引き換えに僕は、僕の未来を売り払ったんだ。

良家の子女のみが通うことを許される女学校。
父親と「契約」を交わしたイザベラ・ヨークにとって、
白椿が咲き誇る美しいこの場所は牢獄そのもので……。

未来への希望や期待を失っていたイザベラの前に現れたのは、
教育係として雇われたヴァイオレット・エヴァーガーデンだった。

(映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。













金曜日のレイトショー。普段なら観客はまばらで、10人を切ることも少なくない時間帯です。しかし、この日は200席のスクリーンに、ほとんど満員の観客が押しかけていました。隣も、そのまた隣も、人。19:40からの開始で、仕事終わりに来やすい時間帯ということもありますが、それだけではないでしょう。ワイワイ話し声が聞こえていましたが、多くの人が渇望していたのは間違いありません。


劇場内が暗くなって、やっぱり劇場アニメの予告編が流れた後に、スクリーンに映し出されたのは京都アニメーションのロゴ。その瞬間、劇場の空気が一気に引き締まったような感じがしました。誰もが固唾を飲んで見守っているような。佇まいを正したような。隣の人の鼻息も聞こえてきそうなくらいの静寂でした。


ぱっと画面に映ったのは、青い空を飛ぶ鳥。空に伸びる薄橙の手。水面は光を反射しながら揺れている。本編でも輝きを放っていた繊細な作画は映画でも健在で、日光が入り込む校舎や、花々の艶、透き通った青い空が、私を包みました。それは現実離れしているようで、でもどこかで見た景色のようで。映画館の大スクリーンに、しっかりと映えています。私は後ろから3列目にいたので、スクリーンが遠かったのですが、前で見ている人は、目の前で起こっていることを受け止められないほど味わえているのだと、羨ましくなりました。




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イザベラはお嬢様学校に通う女学生。大富豪であるヨーク家の一員でしたが、どこにも行けないと現況を嘆いています。そこにやってきたのがヴァイオレット。3か月後の舞踏会に向けて、イザベラの教育係を務めます。完全にドールとしての役割を超越していますが、王家からの依頼なので仕方ない。ヴァイオレットに最初はキツイ態度を取りますが、この後デレるであろうことが分かっていると、微笑ましく観られます。


ヴァイオレットはイザベラの侍女として学校にも通います。ただ、イザベラを超えてヴァイオレットは大人気。「騎士姫」なんて呼ばれて羨望の的になっていました。このイザベラ視点からのヴァイオレットはとにかく完璧な存在で、「あなたを見ていると自分が惨めになる」と言うほど何でもこなします。このお嬢様学校には、白い椿が咲いていました。白い椿には「完全なる美しさ」や「申し分のない魅力」といったかなりオーバーな花言葉があるそうですが、これはお嬢様学校に通う生徒に求められるものであり、イザベラから見たヴァイオレットの印象でもあるのかなと感じました。


また、この二人は対照的な存在でもあると思います。イザベラには何もなく、ヴァイオレットには全てがある(とイザベラは見ている)。イザベラの「あなた今とても恵まれてる」という言葉は、本編を見た後だととても残酷な言葉に思えました。最たるものは、イザベラが捨てられていたテイラーを拾って親代わりになったのに対し、ヴァイオレットには親がいないことでしょう。イザベラとテイラーが、二人で貧しいながらも健気に暮らす。肩を寄せ合った雪だるまが二人のようで印象的でした。


しかし、物語が進むにつれ、イザベラはヴァイオレットにテイラーのことも含めて心情を吐露し、ヴァイオレットも自分が孤児であることを明かします。イザベラはヴァイオレットとの距離を縮めていき、友達であると認識。一緒にお風呂に入ったり、添い寝をしたりと強い百合を感じ、胸が躍りました。思えば本編では、同年代の女性からの依頼はルクリアぐらいしかなかったので、この展開は今までにないものですね。


特に素晴らしかったのが舞踏会でのダンスシーンでしたね。タキシードにも似た白い衣装を着たヴァイオレットは本当に端正で麗しかった。ダンスも手を取り合って、優雅に回る姿にときめきます。本当にいいものをどうも有難うございました。


舞踏会も終わり、ヴァイオレットの任期も終了。CH郵便社に戻る夜が訪れます。ヴァイオレットの本業がドールであることを思い出したイザベラは、ヴァイオレットに代筆を頼みます。宛先はテイラー。差出人は元の名前であるエイミー・バートレット。手紙の内容は一応伏せておきますが、ここでもイザベラとヴァイオレットが対になっていますね。元の名前と新たに与えられた名前という側面で。あらゆる面で対になるイザベラの視点から描くことで、成長したヴァイオレットを見せるという意図が、この第1話にはあったように感じます。その対照的な二人の交流がまたいいんですよね。着地点も胸に沁みるもので、鼻をすする音がいくつか聞こえました。


そして、タイトルが出て第1話は終了。え、終わっちゃったよ、どうすんの?とも思いましたが、そのあとすぐに第2話が開始されました。




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第2話の舞台は、戦争が終結してから4年が経ったライデン。ガス灯は電気灯に変わりつつあり、電波塔の工事も始まっています。思えば、第1話から大鉄橋を電車が走ったり、ヴァイオレットが今までの代筆を語るなど、本編終了後を思わせる描写はいくつかありましたが、明確に時間が経ったことが決定づけられましたね。となると、CH郵便社の面々も少しずつ変わっているわけで。ホッジンズは少し老けて、エリカは髪が少し伸び。でも、一番変わったのはアイリスでしたよね。髪を下ろしたその見慣れない姿に一瞬、誰この人?と戸惑いました。


そして、時代が進むにつれて価値観も変化してきているわけで。その象徴がルクリアでしたよね。結婚相手を連れていて。でも、結婚をしてからもドールの仕事は続ける。それは、かつての結婚して退職するというドールの花道からは外れています。時代の波がにわかに押し寄せてきていますね。ここで、ヴァイオレットは自分の花道を答えられずじまい。まあこの問題は次の映画に持ち越しになるのでしょうね。


それはそれとして、第2話はライデンを訪れたテイラーの視点から始まります。テイラーはなにかあったら自分を訪ねなさいというヴァイオレットの手紙を基に、CH郵便社を単身訪れます。エイミーからの手紙を自分に届けてくれたベネディクトに憧れて、配達員になることを希望するテイラー。ベネディクトのもとで働き始めます。


この第2話の特徴はベネディクトにスポットライトが当たっていることですよね。本編ではあまり描かれなかった配達員の仕事の様子が描かれています。テイラーが郵便を届ける様子は『魔女の宅急便』を彷彿とさせますし、ベネディクトを師匠と呼んで尊敬する姿がとても可愛らしい。大人の男と少女の組み合わせの妙はここでも発揮されていました。


それに、ベネディクトは第2話の最初で、配達員の仕事を「毎日同じでつまらない仕事」と語っていましたが、そんな仕事の中でも誰かを救っていたというのがまたいいんですよね。いくらドールが丁寧な手紙を書いても、届かなかったら意味がないですからね。「届かなくていい手紙なんてない」という言葉が、より重要性を帯びてきますし。新鮮さを持たせる意味でも、この違った視点からの物語は奏功していたと感じました。


また、ヴァイオレットもテイラーと一緒に配達をしたり、テイラーに文字を教えます。この映画全編でヴァイオレットは見守る立場にいて、そちらも新鮮でした。エレベーターにテイラーと一緒に戸惑うシーンは可愛かったですけど。


それに、仕事をしたいと頼むテイラーに、本編1話のヴァイオレットが重ねられていることからして、イザベラとは違い、テイラーがかつてのヴァイオレットと同質の存在であることは明白でしょう。テイラーもヴァイオレットと同様に捨てられて、親しい人との別離を経験していますからね。でも、ヴァイオレットは本編+4年の経験を経て成長したわけで。テイラーに向ける母親のような視線はとても暖かなものでした。第1話とは違った視点ですが、こちらも同じくヴァイオレットの成長を描いていますね。


ですが、この映画はあくまでイザベラとテイラー二人の物語です。抗えない事情から離れ離れになってしまった二人。お互いを思う健気な感情がスッとしみこみます。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の多くのキャラクターは花の名前を冠していますが、それは二人も同様です。


二人のファミリーネームはバートレット。これは洋梨のことです。梨の花言葉はズバリ「愛情」。この物語の大きな一つのテーマそのものですね。それと、梨を使った言葉には「梨の礫」というものがあります。これは「返事がないこと。便りがないこと」という意味で、まさにイザベラとテイラーの関係そのものではないでしょうか。便りもなく断絶された二人を繋いだものが愛情である。言葉にすればクサいですが、実に感動的な物語だったと思います。悲しい話ですが、希望が持てるラストも良かったですね。青空が映えてました。




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スクリーンにはエンドロールが流れています。黒い画面に白抜きの一文字一文字が、彼ら彼女らの生きた証であり、作品が命の結晶であることを思い知らされました。エンドロール中に席を立つ人は皆無。きっと誰もが目に焼き付けようとしていたのでしょうね。


そして、エンドロールが終わると、完結編であろう映画の予告が流れました。「世の中変わっていく、でも変わらないものもある」というホッジンズのナレーション。変化に抗う昔ながらの者たちというのは私の大好物なので、期待は否が応にも高まります。最後にはデカデカと「鋭意制作中」の文字が。本来だったらここに1.10公開と入っていたことを思うと、悲しいやら、でも作られているんだという安堵やら、様々な感情が混ざって複雑な気分でした。


さらに、その下にはキャラクターの2番目にギルベルト・ブーゲンビリアと記されています。正直、この外伝に関して不満がないわけではなかったんですよ。ヴァイオレットの心理描写が少なすぎるって。本編や番外編と同じぐらいの描写を期待して向かったのに、あまりなくて肩透かしを喰らい、え?これで終わり?という思いもしました。でも、いつかやる次の映画では、今回あえて描かなかった分たっぷり描いてくれそうで楽しみです。


そう考えると、この外伝自体が次の映画の溜めであり、フリなのかもしれないですね。外伝は本編と次の映画の橋渡しという位置づけで、ヴァイオレットの成長を描いたことで、次の映画であるであろうかつてのヴァイオレットととの対比が鮮明になるかもしれない。なので、面白かったしよかったんですけど、次の映画を観るまでは完全な評価は、私にはできないですね。今は次作が無事に制作され、公開されることを祈っています。そうしたらまた観に行くので。それまでこのブログが続いているかどうかは分かりませんが、待ち続けたいと思います。




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以上で感想は終了となります。映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形』。クオリティの高さは文句のつけようがない作品なので、ぜひとも映画館でご覧ください。リアルな話、映画を観てお金を落とすことが京アニの再建につながるのでそういった意味でもお願いします。私も公開期間中にもう一回ぐらいは観に行きたいと思います。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 永遠と自動手記人形』公式サイト
http://www.violet-evergarden.jp/sidestory/

花言葉-由来
https://hananokotoba.com/




おしまい





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こんにちは。これです。


唐突ですが、あなたは男女間で友情は成立すると思いますか?これは、恋愛トークでよく話題に上がるテーマです。甘酸っぱくもあり、生々しくもあるこの問題について友達とだべったことがある人も多いのではないでしょうか。恋愛感情が入ってしまったら、それは友情じゃなくない?いや、恋愛感情と友情は別だから成立するでしょ。未だ答えが出ておらず、これから先も出ることはないであろうテーマです。


まず、最初に私の考えを述べておくと、私は男女間の友情は多くの場合成立しないと考えています。私は、両者が異性愛者である場合、その間には必ず恋愛感情が介在し、恋愛感情とは友情を飲み込んでしまうほど大きい感情だと考えています。私は友情とは一方向ではなく、双方向の矢印だと考えているので、どちらか一方の矢印がなくなってしまった場合、それはもう友情ではなくなるのではないかと思っています。


しかし、この度そんな「男女間の友情」をテーマにした映画が公開されました。それが穐山茉由監督の『月極オトコトモダチ』です。公開は6月でしたが、長野では3か月遅れのこのタイミングでの公開となりました。相変わらず遅いけど後悔してくれるだけ感謝しなければ。


で、観たところさっぱりとしていて面白い映画でした。個人的にはかなり好きな部類に入りますね。では、その感想をこれから書いていきたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・前半~いい意味で「軽く」観られる~
・後半~「言葉」と「記号」と「音楽」~





―あらすじ―

「男女の間に友情は本当に存在する?」

アラサー女性編集者の望月那沙は、ひょんなことから、「男女関係にならないスイッチ」を持つと語るレンタル"オトコトモダチ"の柳瀬草太に出会う。
一方、那沙のリアル"オンナトモダチ"である珠希は音楽を通じて柳瀬と距離を縮めていき…。
仲良くなっても、「契約関係」の壁はなかなか越えられない。
恋愛と友情、夢と現実のはざまで悩む男女が織りなす、不思議な関係の行きつく先は……?

(映画『月極オトコトモダチ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・前半~いい意味で「軽く」観られる~


『月極オトコトモダチ』の主人公は、ウェブ編集者として働く望月那沙。29才ともうすぐ三十路に差し掛かる彼女を演じたのは、徳永えりさん。半分の月にも似た目元が印象的で、揺れ動きながら根底では媚びていない力強さがありました。友達の珠希にキスする寸前のシーンは怖かったですね。演技も友情と恋愛の間で苦悩する那沙を、オーバーなことはせず等身大に演じていて好印象でした。個人的には髪を下ろしていた方が好みです。


那沙は同僚と訪れたバーの合コンで、柳瀬草太と出会います。柳瀬は姑息な手品を使う男性に雇われた「レンタル友達」でした。「男女関係にならないスイッチ」を持つ柳瀬に、那沙は興味津々。連絡先を渡します。この柳瀬を演じたのは橋本淳さん。表情豊かで、いかにも仕事!プロフェッショナル!というやり取りが主だったのですが、徐々に本来の自分を曝け出していくうちに表情に乏しくなっていくのが印象的でした。さっぱりとした顔つきで爽やかな色気を放っていましたね。


5月。同僚から柳瀬が「レンタル友達」だと聞かされた那沙は、ウェブメディアに彼の記事を書こうと思い立ちます。レンタル会社に連絡し、柳瀬と再会する那沙。小説の取材と偽り、「レンタル友達」サービスを利用します。配水塔を写真に撮って喜ぶ那沙に、柳瀬は「レンタル友達」の二つのプランを提案。一つは単発プラン。もう一つが月5万円で、一日15時間まで使い放題の「月極」プランです。15時間てかなりブラックだなあ。私だったら、一日15時間も赤の他人といるのは絶対に嫌ですからね。柳瀬は凄いですよ。


さて、そこからは那沙と柳瀬のレンタルライフが幕を開けます。といっても気分良く付き合ってくれる柳瀬に那沙はすっかり上機嫌。行った先々の写真をボードに飾るなど、浮かれ気分です。さらに、那沙と柳瀬は20㎝以上も身長差があるので、そのギャップに胸がキュンとしました。特に二人でサッカーをしているシーンと、柳瀬が那沙のパーカーのジッパーを上げるシーンがヤバかったですね。ラブコメディのラブの波動を感じました。




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一方、那沙には小野珠希という同居人がいます。歌が得意な彼女を演じたのは芦那すみれさん。サバサバしたキャラクターの奥底に、燻った黒々とした感情を感じられて、好きなキャラクターでした。基本明るいだけに、終盤の締まった演技が際立っていましたね。




ある日、那沙は風邪をひいてしまい、合理的使用法と称して柳瀬を呼び、看病させます。部屋にあるキーボードに気付いた柳瀬。実は柳瀬は作曲ができる人間でした。キーボードを弾き始める柳瀬。そこに珠希が帰ってきます。珠希が歌うのに合わせてキーボードを弾く柳瀬。二人が音楽という共通項で繋がったシーンです。伸びのある軽やかな歌声が響くポップなシーンなのですが、柳瀬と何ら共通項を持たない那沙にとっては残酷なシーンでした。ベッドに包まる徳永さんの痛々しい表情がジーンときます。


ここからは、この三角関係を基にストーリーが進んでいきます。30手前の三角関係ということで、どうしてもドロドロしてしまいがちなのですが、この映画に関してはそういった重さはあまり感じられません。というのも、主な感情は恋愛ではなく友情ですし、那沙は30手前で独身ということに、さほど危機感を抱いている様子もないので、いい意味での「軽さ」がありました。セリフも飾ることなく、本当に彼ら彼女らから出た言葉って感じでしたしね。


さらに、音楽もこの映画では多く使用されていていました。軽快なオープニングで気分を盛り立てますし、ところどころに珠希と柳瀬が歌ったり、作曲をするシーンがあり、集中を切れさせない試みがなされています。最後の歌も映画の内容に即していて深みを与えるものでしたし、とにかく音楽の使い方が抜群でした。音楽×映画の祭典「MOOSIC LAB 2018」で高評価を受けたのもうなずける楽しさです。




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・後半~「言葉」と「記号」と「音楽」~



しかし、那沙が「レンタル君」の記事を書いていることが柳瀬にばれ、そこから物語は一気に不穏な展開に。那沙は柳瀬と会わなくなり、反対に珠希は音楽を通じて、柳瀬との距離をどんどん詰めていきます。しまいには、那沙と珠希の間で、好きだ好きじゃないの言い争いにまで発展。女性って怖いと思わざるをえないほど、二人は声を上げて喧嘩します。ここから、物語はある二つのキーワードによって動かされていきます。それは「言葉」と「記号」です。




言葉は記号のようで記号じゃない。受け手によって解釈が変わる
(劇中より抜粋)




そもそも、言葉とは、記号とは一体何なのでしょうか。言葉は実体のないものに形を与える手段、もしくはある程度の共通認識を持たせる方法だと私は考えています。雨が降っておらず、雲一つない空。私たちはこの状況に「晴れ」という言葉をつけて、理解することを試みます。赤く丸い果実を「リンゴ」という言葉で表すことで、私たちの頭には共通のイメージが浮かびます。


また、記号とは手元にある電子辞書によると「一定の事象や内容を代理・代行して指し示す働きを持つ知覚可能な対象」とあります。赤い丸に白い太線が入ったものが「車両進入禁止」を表すといった感じですね。記号には広い意味では言葉も含まれるそうですが(そりゃそうだ)、この映画では印や標識といった狭い意味で使われていると思われます。そして、その意味は常に一定です。


そして、この二つの違いは使用する感覚の違いだと私は思います。言葉は何かに書かれていない限り、音声的なもので、使用する感覚は聴覚です。一方、狭い意味での記号は目に見えるもので、使用する感覚は視覚。この映画では「言葉と音楽は似ている」と言われていましたが、これも音楽が自然の音に音符という言葉を与えて、誰でも分かるようにしているからでしょう。音楽も使用する感覚は聴覚ですしね。


ただ、言葉と音楽にも違いがあります。音楽では「ド」と言ったら「ド」の音のみを指します。意味は一つに限定されてしまいます。柳瀬と珠希は音楽を通して繋がっていましたが、それは一面的な繋がりとしか言えないと私は考えます。柳瀬は「いつも誰かを演じている気がしていた。それが必要とされるのが『レンタル友達』だった」と劇中で言っていましたが、その「いつも演じている誰か」という一面しか珠希は見ることができなかったのではないでしょうか。


しかし、人間とはもっと多面的なものです。ここで、「言葉」で繋がっていた那沙と柳瀬の関係性が生きてきます。言葉は、例えば一口に「晴れ」と言っても受け手の印象は様々。春のうららかな晴れを思い浮かべる人も、夏の照り付けるような晴れを思い浮かべる人もいるでしょう。言葉は多面的で、人間も多面的。那沙は「言葉」を通して、柳瀬の多面性を垣間見たのだと思います。現に那沙は好きな人の前じゃ絶対に言えないことも、柳瀬には吐露していますし、柳瀬も「レンタル友達」ではない柳瀬自身の話を那沙にはしているわけですしね。二人とも違う一面を見せているというのは、この映画の大きなポイントだと感じました。




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ただ、解釈が無限大だと収拾がつかないので、一応言葉は辞書によって定義されています。たとえば、「友情」を手元の電子辞書で引くと、

友達の間の親愛の情。友人の間の情け。友達のよしみ。


とあります。じゃあ「友達」ってなんやねんと。これも電子辞書では

一緒に勉強したり仕事をしたり遊んだりして親しく関わる人。

とあります。まあどの程度からが「親しく」といえるラインなのかは分かりませんが、一応はこのように説明されています。


でも、やはり言葉は受け手によって解釈が変わるもの。よく話す人のことを「友達」という人もいれば、一緒に遊ぶ人のことを「友達」という人もいるでしょう。互いの家に行く間柄でないと「友達」とは言えないという人もいるかもしれません。つまりは、関係性は一定でも人によって「友達」であるか「友達」でないかは異なるということです。先にあるのは関係性で、後から言葉がついてくるだけなのです。


よって、人と人との関係性は容易く言語化できるものではありません。それこそ言葉にできない「ナニカ」なのです。この映画の最後に那沙と柳瀬はキスをしています。が、付き合うかと言われたら「絶対付き合わない」。友達でも恋人でもない関係は、「ナニカ」そのものです。恋愛感情を飛び越えた「ナニカ」に二人は向かおうとしています


ただ、私たちはそんな二人の関係性に、言葉でもって形を与えることができます。「恋人」と言ってしまえば恋人ですし、「友達」と言ってしまえば友達です。ある男女の関係性に「友達」という言葉をあてはめれば、そこには友達の間の親愛の情である「友情」が存在し、成立していることになります。


よって、「男女間での友情は成立するのか?」。この問いに、『月極オトコトモダチ』は明確に「YES」という答えを出したと私は考えました。さっぱりとした気持ちいい終わり方ですね。後味も爽やかでとても面白い映画でした。穐山監督の次回作が楽しみです。




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以上で感想は終了となります。『月極オトコトモダチ』、ぜひ観てほしいください!と言いたいところなんですが、もう2館でしかやってないんですよね…。円盤化の予定も配信の予定もないみたいですし...。とりあえずは穐山監督の次回作待ちですかね。どんどん名を上げていって、いつかより多くの人に観てもらえたら嬉しいですね。陰ながら応援しています。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい





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こんにちは。これです。9月ですね。個人的には9月は観たい映画がかなり多く、楽しみな月です。


そのなかでも先陣を切るのが『ハッピー・デス・デイ』(公開は6月末)。公開されるやいなや一部の映画ファンの間で、話題沸騰のホラー映画です。やたら評判がいいので気にはなっていたんですけど、長野では夏も終わるこのタイミングでの公開。まあもっと早くやってほしい気もしましたが、特撮やワンピースもあったから仕方ないですね。


そして、観に行ったところ評判通り笑って怖がれる面白い映画でした。では、その感想をこれから書いていきたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―


・ホラー×ループものの相性が想像以上に良かったという話
・『2U』の予想





―あらすじ―

「ハッピー・デス・デイ」
ツリーは自己チューで、世界は自分ひとりのために回っていると思っているビッチなタイプの女子大生。彼女は誕生日の朝、たぶん泥酔した勢いでワンナイト・ラブしてしまったと思われるカーターの男子寮のベッドでぼんやりと目を覚ます。だが彼女はすぐに今日は何かがいつもと違うことに気付く。
何もかもすでに経験しているような気がするのだった…。




情報があまり多くない公式サイトはこちら










※ここからの内容は映画のネタバレを多少含みます。ご注意ください。







・ホラー×ループものの相性が想像以上に良かったという話



この映画が始まる前、まず最初にユニバーサルのロゴが出るのですが、1回目と2回目は出る直前に止まり、3回目でようやく現れます。普段とは違うこの演出におっとなり一気に引き込まれましたね。


鐘の音が鳴り、目覚めるツリー。名前も知らない男の部屋で寝ており、別の男にはメス犬と呼ばれるほどのビッチっぷり。とにかく傍若無人で、アンケートには答えないわ、大学教授とは不倫するわ、手を振ってくれたハウスメイトに振り返すこともせず、しまいにはルームメイトであるロリーから貰った手作りのケーキを捨てるなど、自分の心の赴くままにやりたい放題です。


このツリー役を演じたジェシカ・ローテがまたいいんですよね。ブロンドの髪の毛に見下す視線で、高慢ぶりを表現。言い争いにも一歩も引くことなく応戦していて、気の強さを感じます。大学構内を歩く時の胸元を露出させた服にもビッチっぷりを感じました。で、余裕綽々の彼女だからこそ、怯えて追い詰められていく様子が映えるんですよね。終盤の意外なアクションもかっこよかったです。


父親との約束をすっぽかして夜道を歩くツリー。途中のトンネルでハッピー・バース・デイの流れるおもちゃを見かけます。そして、後ろには彼女の通う大学のマスコットのお面を被った人間が。このお面下がった頬が妙に不気味でしたね。ツリーがトンネルを抜けると奴が上からドーン。ツリーはグサリと刺されてしまいます。


と、ここでツリーは目を覚まします。携帯電話が誕生日を告げ、見知らぬ男が同じセリフを喋ります。彼女は同じ一日をループしてしまっていました。そして、ここから彼女の悪戦苦闘が始まります。その姿はキャッチコピーにもある「時を駆けるビッチ」そのもの。


起きては殺され、殺されては起きを繰り返すツリー。ループを繰り返すたびに視野が狭まっていくカメラワークは彼女の恐怖をダイレクトに伝えてきます。また、焦らして恐怖をあおるというホラー的な演出もバッチリ。殺されるかと思いきやセーフ。しかし、結局は殺される。同じ大学の男の部屋や病院の駐車場での追いかけっこは、緊張感が高まり、思わず手を握ってしまいます。特に2周目の演出が好きですね。爆音に人を襲うのを隠すのは上手いなーと思いながら観ていました。


しかし、このループが次第に笑いへと変わっていくのが、この映画の面白いところで。何度も同じシーンが繰り返されて、お笑いでいう天丼みたいな効果を生んでいるんですよね。同じところを何度もくすぐられているような感覚です。4回目あたりから温暖化の署名だけで既に、笑ってしまっている自分がいました。その後のループシーンに至っては、陽気な音楽も流れて、テンポも良くて完全にコメディな演出ですからね。中だるみを防ぐ楽しいシーンです。


そして、天丼がしつこくなってきたところで、この映画は今度は、殺しているのは誰だ?というミステリー色の強い展開になっていきます。起きたらいる男=カーターのアドバイスに従って犯人探しをするツリー。繰り返される日は彼女と母親の誕生日である9月18日。犯人はそれを知っており、ツリーに恨みのある人物ではないかと推理するカーター。といっても彼女はビッチなので恨みを持つ人間など山ほどいるわけですが。この時のツリーの目の隈、悪魔メイクかよって思うくらい濃かったですね。




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しかし、犯人はなかなか見つからず、ツリーはループを繰り返し、次第に弱っていきます。そして、16回目のループでとうとう倒れてしまいます。不倫相手のグレゴリーに病院だから安全だと諭されるツリー。しかし、彼女はその言葉を信用できず、ベッドから抜け出します。グレゴリーの部屋で車の鍵を探す彼女ですが、机の引き出しの中にあの忌々しいお面を見つけてしまい…


と、ここから映画は急展開を迎えるわけですが、この先も面白い要素がてんこ盛りでした。ループを逆手に取った作戦あり、武器を構えるクールなツリーに惚れ、捻りも利いています。ループから抜け出そうと必死なツリーは、ジェシカ・ローテの熱のこもった演技もあり、次第に頑張れと応援する気持ちが湧いてくるのは自分でも不思議でした。同じく「やった!」ってなりましたしね。


あとは終盤思ったんですけど、あの世界の人間、デフォルトで身体能力高くないですか。ツリーが窓に叩きつけられたり、電気にぶら下がって飛び蹴りかましたり。ギャグなのかどうか迷うレベルのアクションに緊張している中、表情が緩みました。ホラーあり、笑いあり、ミステリーありで満足度はわりと高めです。


この映画はホラーエンタメであり、もしかしたら深く考える必要なんてないのかもしれません。でも、カーターの部屋のドアに貼ってあった「今日が残りの人生で最初の日」というステッカーに、私はこの映画に込められたメッセージを感じました。


映画のなかでツリーは、何度も残りの人生で最初の日である9月18日を繰り返します。でも、思えば私たちも毎日が残りの人生で最初の日であるわけで、私たちも残りの人生で最初の日を繰り返しているとは言えないでしょうか。だとしたら、ツリーと私たちは何も変わらないのかもしれません。


そして、ツリーは自らの手で(足だけど)、ループを断ち切りました(断ち切れてないけど)。私たちも同じような毎日を繰り返しているとすれば、ツリーと同じようにループを断ち切るのは自分の手でなくてはいけない。他人の援助を得ることはできるけど、結局最後は自分の決断なんだとあのステッカーに私は言われたような気がします。『ハッピー・デス・デイ』はホラーでありながらこういった普遍的なメッセージを伝えていると感じたのは私だけでしょうか。




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・『2U』の予想


そう、この『ハッピー・デス・デイ』、実はこれで終わりではありません。続編である『2U』があります。予告を見た限り、ヘリコプターから飛び降りたり、車をクラッシュさせたりと『2U』では、スケールも大きくなっているようなので、楽しみなのですが、最後を見るとなんとなく『2U』の展開が読めてしまうんですよね。まあ彼が黒幕だろうと。


でも、『ハッピー・デス・デイ』からして、これはたぶんミスリードなんでしょうね。そんな単純にいくわけがないですもの。なんで誕生日なのかという理由も明かされてないですし、チラシには「パラレルワールドでまさかの泣けるホラー降臨!』と書かれていることから、亡くなったツリーの母親が絡んでくる可能性は高いのかなとも思います。


それに、まだまだループはできそうですしね。映画の中で、26時間立っている連中がなんか回数を叫んでいたんですけど、あれループするごとに減っていっていますからね。最初が65回で、4周目が61回だと考えると、おそらく20周目で終わったはずなので、推定してあと45回はループできる計算になります。倍以上じゃないか。がんばれツリー。




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それで、続編の展開を予想するためになんかヒントはないかなと考えていたんですけど、ツリーという主人公の名前に思い当たりました。主にアメリカで「tree」は、人を追い詰める、窮地に陥れるという意味があるみたいで。これに「death」や「day」の「d」をつければ、過去分詞で受動態であるtreedになり、追い詰められるみたいな意味になります。これはツリーの置かれた状況にぴったりではないですか。で、これを並び替えると「deter」で、「阻止する」という意味になりますしね。


それに、「tree」を見ていて思ったのが「happy」の「h」を入れると「three」になるということです。思えば9月18日は、9も、18も、918も3の倍数ですし、オカルト的には「18」は「6+6+6」で「666」というめっちゃ不吉な数列を表すそうです(私は『魔人探偵脳噛ネウロ』で知った)。これもツリーが陥った殺される誕生日をループしているという地獄を示しているのかなと。あ、そういえば最初のユニバーサルのロゴも3周してたなぁ。


じゃあ、繰り返す誕生日は3月18日や6月18日、12月18日でもいいじゃないかと言われると、それはアレですよ…。残暑でまだ暑い季節の方が、薄着でツリーのビッチ感を演出しやすかったとかそんな感じじゃないですか…?


あと、そもそも最初のシーンが1周目だとは誰も言っていないわけで。もしかしたら2周目かもしれないじゃん…!そしたら最初は66回になるじゃん…!3の倍数じゃん…!そういうどんでん返しありじゃない…?あらすじもなんか臭いし...!だったら面白いよね…!


まあいずれにせよ私の予想では、たぶん『2U』も「3」がキーワードになってくるんだろうなぁと思います。あと母親の名前も「h」か「d」が入ると、また別の意味になるんだろうなぁ。まあたぶん外れると思いますけど、楽しみにしながら『2U』を待ちたいと思います。長野では2週間後に公開されるので、答え合わせも含めて、また感想を書けたらいいですね。




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以上で感想は終了となります。『ハッピー・デス・デイ』。ハラハラした怖さもありますが、それ以上に笑って観ることができるホラーエンタメですので、機会があれば観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。

おしまい






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