こんにちは。これです。クリスマスですね。私は相も変わらず一人です。でも、昨日はサイゼリヤでチキンステーキを食べました。寂しくなんてないですよ。


それはさておき、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『ガリーボーイ』。スラム街からラップでのし上がる青年を描いたインド映画です。最近新たな謳い文句になりつつある「ロッテントマト100%フレッシュ」に釣られて観に行ってきました。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―あらすじ―

ムラド(ランヴィール・シン)は、雇われ運転手の父を持ち、スラムに暮らす青年。両親はムラドが今の生活から抜け出し成功できるよう、彼を大学に通わせるために一生懸命働いていた。しかしムラドは、生まれで人を判断するインド社会に憤りを感じ、地元の悪友とつるみ、内緒で身分の違う裕福な家庭の恋人と交際していた。ある日大学構内でラップをする学生MCシェール(シッダーント・チャトゥルヴェーディー)と出会い、言葉とリズムで気持ちを自由に表現するラップの世界にのめりこんでいく。そして“ガリーボーイ”(路地裏の少年)と名乗り、現実を変えるためラップバトルで優勝を目指す事を決意する。

(映画『ガリーボーイ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。










この映画の一番の注目ポイントは、実は字幕です。この映画はインド映画で、しかもラップを題材にしたとあって歌のシーンが多い。普通だとニュアンスを汲み取って、それなりの翻訳になりそうなものですが、この映画は違います。字幕でもしっかり韻を踏んでラップの快感を再現しているのです。


耳ではなんとなく韻を踏んでいることが分かりますが、所詮それは外国語。しかし、字幕でも韻を踏むことで、視覚的に私たちに訴えかけています。頭の中でトラックを流すことで、韻を踏む心地よさが味わえるという設計になっており、まさに観るヒップホップ。さすがは日本語ラップの第一人者であるいとうせいこうさん監修です。そのオーダーに答えた日本語字幕の藤井美佳さんも見事な仕事ぶりでした。字幕だけでこんなに楽しかったのは初めてで、これだけで観てよかったと思えました。後半のバトルの応酬なんて圧倒的でしたからね。










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








さて、肝心の映画の内容はというと、全ての創作者への応援歌。これに尽きるでしょう。自分の言葉で語らないと何も動かすことはできないんだと。自分の言葉で語ろうとする創作者の背中を、ムラドの快進撃を持って、強く押すようなそんな映画でした。


この映画の主人公・ムラド(ランヴィール・シン)はスラム街で暮らしています。そこは生きていくためになんでもしなければならない場所。お金を得るために車を盗んだり、子供の生活を守るために、子供が麻薬の売買に参加したりと、キツイ描写も少なくありませんでした。特にキツかったのが、ムラドの家が観光ルートの一つとして組み込まれていたことですね。ショーアップされた貧困を演じなければいけないムラドの辛さ。貧困がビジネスとして消費される様は、富裕層との分断をより印象付けていました。


しかし、スラム街といえば学校にも通えず、文字も読めない子供たちを想像しがちですが、ムラドはどうもそうではない様子。大学にも通うことができて、スマートフォンも持っています。想像以上に私たちに近い暮らしをしていて、まずそのことにビックリしました。まあ親の尽力あってのことなんですけどね。


また、ムラドは親に隠れて裕福な家庭の娘・サフィナ(アーリア・バット)と交際していました。このサフィナは自分をしっかりと持っている強いヒロインだったのですが、少しそれが行き過ぎているかなという感じはしました。ムラドに近づいた女性を突き飛ばしたり、瓶で頭を殴ったりするなど、今時珍しいくらいの暴力系ヒロインだったんですよね。口も悪いですし、若干引いてしまいました。ムラドが彼女を好きでいることに疑問符がついてしまったんですよね。そこが、この映画であまりハマらない部分ではありました。



ある日、ムラドは大学で学生のライブが行われているところに通りかかります。女性歌手にヤジを飛ばす不埒な観客。女性歌手は耐えきれず、ステージから下がってしまいます。しかし、次に登場したMCシェール(シッダーント・チャトゥルヴェーディー)がラップを用いて、その観客を追い返します。これがムラドとラップの出会いでした。


(余談ですけど、この映画、ランヴィールもシッダーントも筋骨隆々でめちゃくちゃごついんですよね。インド映画の主演ってそういうごつい方が多いように見受けられますし、インド人の好みなんでしょうか)


一方、ムラドの父親はある日怪我をしてしまいます。これでは運転手の仕事は務まりません。代わりにムラドが運転手の仕事をするようになります。裕福な家庭の送り迎え。周りがパーティを開く中で、一人車の中で待つムラドの姿は、計り知れない哀愁がありました。ムラドはその悔しさを、詞にしてノートに綴ります。思えば、ここがラッパー・ガリーボーイのスタートでもありました。


また、ある日。ムラドは、シェールが廃屋でフリースタイルバトルを開くことを知ります。ムラドは自分の詞をシェールに歌ってもらうよう頼みますが、シェールの答えは「自分で歌え」。大事なのは自分でやること。やはり自分の言葉で語らないと、何も始まらないということでしょう。どんなに下手な創作でも、自分で考えて、自分で発表したものにはそれだけで価値があるということですね。たとえ認められなかったとしても。




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ムラドは勇気を出して自分で歌った結果、シェールに認められます。ラップのレコーディングもさせてもらえて、MVまで作ってもらえます。社会への不満を歌い、カット割りにも凝ったMVは見られるのも納得の出来でした。そして、そのMVにスカイというユーザーが食いつく。スカイはアメリカの音大に通っていて、ムラドのプロデューサーに名乗り出ます。


MVは多くの人に見られ、プロデューサーを得たムラドは、自分が育ったスラム街で第二弾のMVを撮影することになります。このMVはダンスシーンも盛り込んでおり、インド映画はこうでなくっちゃというMVでしたね。こちらのMVもバズり、40万再生を記録。ムラドはガリーボーイとしてちょっとした有名人になりました


まあぶっちゃけこんなものはフィクションですよ。現実はこんなに上手くいかない。確かにMVは素人レベルを超えていましたが、それでも全く無名の人間の動画が、いきなりこんなに見られるなんてあり得ないですよ。


私もブログを2年くらいやっているんですけど、アクセス数あまり伸びていませんからね。この記事も全く読まれない自信があります。10PVも読まれればいい方でしょう。それにnoteで小説(のようなもの)を少し書いているんですけど、それも大体1話あたり30ビューがいいとこ。スキがついてもそれは読んでもらった上でのスキじゃない。それに、先月文学フリマにも初めて出展させていただいたんですけど、合計で50冊くらい刷って、たったの2冊しか売れなかったですからね。知られていないことに深く絶望しましたよ。まあ私の創作物のクオリティが低いということもあるんですが、知られることはとても大変だということです。


それでも、ムラドのラップが聴かれた理由は、弱者の歌だったからに他ならないでしょう。現代は、貧困層と富裕層の格差がますます広がりを見せています。そして、多数を占めるのはもちろん貧困層です。だからこそ、『ジョーカー』はあれだけのヒットを見せたのでしょうし、『パラサイト 半地下の家族』や『家族を想うとき』(どちらもまだ観てない)など貧困層を描いた映画が多く登場しているのでしょう。そして、その貧困層は満たされていないんですよね。物理的にも精神的にも。


ムラドも先程の仕事で、パーティに興じる人々との差を痛感させられていますし、満たされていなかったのは確かだと思います。ムラドの創作の原動力となっていたのは、満たされていないことによる悔しさです。その悔しさを感じている人が多かったからこそ、MVはバズり、「私のことを歌ってくれた」みたいなコメントがついたのだと思います。やはり創作においてマイナスの感情というのはとても大切なものですね。


また、私の話になるんですけど、私が今noteで書いている小説(のようなもの)って、覚醒剤にハマっていく男の話なんですよね。彼が、まあこの話の主人公は私自身なんですが、覚醒剤を使い始めたのも、今の生活に満たされていなかったからです。というか私の書く話って、大体満たされていない人間が主人公なんですよ。どこかの感想にも書きましたけど、満たされていない人間を救う話を書くことで、私自身も救われたいなというのが、私が小説(のようなもの)を書く一番の理由なんですよ。その思いが間違っていないんだなというのは、この映画を観て思いましたね。










映画に話を戻します。ラップで名を上げていくムラド。ムラドの世界は徐々に変わっていきます。そして、交友関係も変わる。ムラドはスカイと一夜を共にします。それを知ったサフィナにブチギレられ、二人の仲は疎遠になってしまう。何かを手に入れるということは、何かを失うということでもあるという展開が映画の中盤は続きました。


その中で、ムラドに訪れた最大の危機は一家の離散でしょう。ムラドがラップをしていると知った父親はブチギレ。自分のようにはならないために、苦労して大学まで行かせているのに、ラップに現を抜かすとは何事だと、ムラドを何度も殴打します。果てには、母親や弟と一緒に家から出て行けという始末。ムラドは家からの退出を余儀なくされました。


この父親の考えの根底にあったのは、身分は変えられないという思い込みでした。「使用人の子は使用人」だと、かつてのカースト制度が今も深く根付いていることを思い起こさせます。日本でもかつて存在した身分制度。ムラドの父親はその見えない鎖に縛られていました。


でも、音楽は本来、そういった身分に関係のないものではないかと思います。誰だって歌を口ずさむことはできますし、今日の様々な音楽の基礎となったブラックミュージックは、アメリカの黒人奴隷から生まれました。音楽は、身分を飛び越えることができるもの。そのことがこの映画では描かれていたように思えます。


まあ言ってしまえば、これもめちゃくちゃ理想的なことではあるんですけどね。いくら実話に基づいているとはいえ、現実はコネ、圧力、保守的思想が渦巻く世界。この映画のように上手くいくとはあまり思えません。でも、理想でいいんですよ。


確かに「音楽で世界を変えるというのは理想でしょう。与えられただけの音楽じゃ、世界も現実も変わりません。格差も差別もなくなりません。でも、聴いた誰かの慰めにはなります。何も変わらないやるせない世界に悲しんでいても、それを慰めてくれる存在がいたとしたら。慰められて、もう少し生きてみようと思えたら。それだけで十分じゃないですか。だから、あのラストは私は好きですし、あそこだけでこの映画を高く評価することができます。


そして、音楽は、創作物は世界全体を変えることはできないけれど、一人の世界を変えることはできます。ラップバトルに果敢に挑んだムラドが現実を変えることができたように、自分の言葉で創作をしていれば、いつか自分の世界を変えることができるかもしれない。この映画は全ての創作者にとってエールであり、希望ですよ。私も励まされました。もうちょっとだけ、ブログや小説(のようなもの)を頑張ってみたいと思います。




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以上で感想は終了となります。映画『ガリーボーイ』。ラップやヒップホップ好きの人にはもちろん、何か創作をしている人にとっては励みとなるような良い映画でした。何も作ってなくても、何かしてみたいと思うかもしれない。少し長いですが、よろしければ映画館でご覧ください。


お読みいただきありがとうございました。

おしまい 

ガリーボーイ [Blu-ray]
ランヴィール・シン
株式会社ツイン
2020-02-19



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