こんにちは。これです。いよいよ年の瀬が迫ってきました。映画ファンにとって、この時期の楽しみといえば年間ベスト10の選定ですよね。私も今、少しづつ書いているところです。30日に出せればと思っていますので、そのときはまたよろしくお願いしますね。


さて、おそらく通常の映画の感想も、今年は今回が最後。今回観た映画は『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。こうの史代さんの原作『この世界の片隅に』を2016年に映画化した一作が、250以上もの新規カットを加えて装いも新たに再登場です。私はリアルタイムでは見ていないのですが、NHKで放送されていたのは観たことがあります。高い評判も頷ける映画でした。


では、その『この世界の片隅に』からこの映画はどう変わったのか。感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。


なお、この感想では2016年に公開された『この世界の片隅に』を便宜上、オリジナル版と表記します。また、原作やドラマ版は未見ですので、ご承知おきを。




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―目次―


・すずさんの「戦い」は居場所を守るための戦い
・戦争も居場所を守るための戦い
・居場所を守るための戦いは現代も続いている





―あらすじ―

誰もが誰かを想いひみつを胸に 優しく寄り添う

広島県呉に嫁いだすずは、夫・周作とその家族に囲まれて、新たな生活を始める。昭和19年、日本が戦争のただ中にあった頃だ。戦況が悪化し、生活は困難を極めるが、すずは工夫を重ね日々の暮らしを紡いでいく。
ある日、迷い込んだ遊郭でリンと出会う。境遇は異なるが呉で初めて出会った同世代の女性に心通わせていくすず。しかしその中で、夫・周作とリンとのつながりに気づいてしまう。だがすずは、それをそっと胸にしまい込む……。
昭和20年3月、軍港のあった呉は大規模な空襲に見舞われる。その日から空襲はたび重なり、すずも大切なものを失ってしまう。 そして、昭和20年の夏がやってくる――。

(映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・すずさんの「戦い」は居場所を守るための戦い


この映画はオリジナル版と同じ昭和8年から始まります。学校でのすずさんと哲の追加シーンを挟みつつ、物語の前半は基本的にオリジナル版と同じシーンが続きます。この映画独自の展開を見せるのは映画も中盤に差し掛ってから。すずさんと、遊郭で働くリンが再会するシーンからいよいよ追加シーンが多くなっていました。


基本的にこの映画の追加シーンというのはリンさんとのシーンが中心なのですが、他にもオリジナル版を補完するシーン(例:台風で土砂崩れが起きたシーン)も多数あり、この映画の魅力をより深化させていましたね。主演ののんさんも心なしか、オリジナル版よりも落ち着いた演技をしていた印象を受けました。


さて、この映画とオリジナル版の大きな分岐点である、すずさんとリンの再会シーン。ここで、リンはすずさんに、家庭におけるすずさんの役割を尋ねます。すずさんの答えは「出来の良い跡取りを産む」こと。それが戦いに出ることのできない女性の戦いだというんですね。今は違いますけども、戦時中はこのような意識がまだ残っていたという。


まあリンに追及されて、すずさんは答えることができなくなってしまうんですけども、この映画はすずさんの「戦い」というものが、オリジナル版よりもフィーチャーされていると感じました。その戦いとは「生活を守る」戦いです。この映画でのすずさんは戦地に赴くことはありません。やっていることといえば炊事や洗濯など一般的な家事ばかり。でも、それは戦争という脅威から自らの生活を守るための必死の戦いだったんですよね。すずさんも「暮らし続けるのが私たちの戦い」と言っていましたしね。戦地に赴いて戦うということが、戦争における戦いではないということです。


そして、どうして生活を守るのかと言うと、夫や父親が帰ってくる場所を守るためが一つ。自らが生活する場所を守るためというのが二つです。どちらも共通しているのが生活する場所、すなわち居場所です。この映画では「居場所」という言葉がキーワードの一つになっているように私には感じられました。


オリジナル版では、すずさんが北條家に嫁がされた理由は明かされないままでしたが、この映画では追加シーンによって、それが明らかになります。すずさんの夫・周作とリンは以前にも会っていました。周作は身寄りのないリンを、遊郭から連れ出そうとします。しかし、それを青い考えだと叔父と叔母はみなし、すずさんをあてがうことで身を落ち着けさせ、リンを諦めるように仕向けた。これがすずさんが北條家に嫁がされた真相でした。


きっと、すずさんは北條家に嫁いできたときに、自分が歓迎されていないような雰囲気を感じ、一人だと思ったのでしょう。実際、すずさんも後にそう言っていますし。つまり、北條家にすずさんの居場所はなかったのです。となると、すずさんは北條家に居場所を作る戦いをしなければいけません。


ただ、すずさんと北條家の人々は対立することはなく、変わっていったのはすずさんの認識だというのが、私がこの映画の好きなところ。すずさんは北條家のために倹約しながらも、一生懸命炊事などの家事を行い、一緒に食卓を囲むことで認められているという感覚を持てるようになっていて。劇的な出来事があるんじゃなく、徐々に徐々にというのは個人的には好みでした。



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北條家に居場所を得たすずさん。しかし、戦争の波は呉にも迫ってきていて、配給は減らされ、生活は苦しくなっていきます。すずさんは今度は生活を、居場所を守るために戦わなくてはならなくなりました。野草を取ったり、米をかさ増ししたり、ときには防空壕を掘ったりと、なんとかして生活を続けていきます。


ここで大切なのが、すずさんが他の人と助け合っていたことですよね。暮らしは皆苦しいのに、お互いに助け合うことで生活を守ろう、居場所を守ろうと。すずさんだけじゃなく、さらにいくつもの「戦い」が呉で、いや映画では描かれなかった日本中で行われていたんですよね。


オリジナル版でもあった哲の「すずは普通じゃのう」というセリフ。これも追加シーンを踏まえるとまた響きが変わってきます。私が思うに、すずさんが普通なのは戦っていたからだと思うんですよね。みんなと同じように戦争から居場所を守るための戦いをしていた。だから、「普通」なんだと。


さらに、哲がすずさんに一緒に行こうと誘い、すずさんが断るシーン。これもまた見方が違ってきますね。すずさんが周作を好きだったこともありますけど、今の居場所を失うことが怖かったという気持ちも、すずさんにはあったのではないかと私は感じました。至極「普通」の考え方ですね。


それに、この映画の追加シーンで、すずさんが子供ができないことに悩むというシーンがあります。すずさんには、子供を作らなけらばならないという無言のプレッシャーがあったと考えられます。子供を作れず、役割を果たせない自分は北條家に居場所がないという思考に、すずさんはなっていたのではないかと。これも現代からすれば非難ものでしょうが、当時の考え方からすると「普通」のことのように思えてきますね。




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・戦争も居場所を守るための戦い


これまで見てきたようにどこをとっても、すずさんはあくまで「普通」。それがオリジナル版から変わらないこの映画の最大の特徴なんだと思います。でも、戦争はこの時代に「普通」に暮らしていた人々の居場所を容赦なく奪っていくんですよね。空襲や原爆で街は焼け野原。家も壊され、人も死んでいきます。


それは、すずさんの身の回りも例外ではなく、径子は夫を亡くし、すずさん自身も父親や兄を亡くします。リンも、この映画に新たに登場したテルも、戦争により居場所を失って、遊郭で働かざるを得なくなっています。そして、やはり一番辛いのが晴美ですよね。すずさんの心の拠り所の一つになっていた晴美のシーンは、居場所というものを繰り返し描いてきたこの映画では、より重く受け止められました。そのシーンが来るの本当に嫌でしたからね。オリジナル版以上に辛かったですよ。


もちろん、戦争はダメですし、絶対になくなった方がいいに決まっています。でも、この映画は単なる反戦映画じゃないと思うんですよね。もし、反戦映画にしたいんだったら、もっと悲惨な描き方だって可能だったでしょうし。


この映画の優れているところというのは、生活も戦争も同じ線上にあることを示したことだと私は思います。戦争には相手が必要で、周作の父親の円太郎が言っていたように、相手には相手の生活があるわけですよ。「生活・居場所を守るための戦い」の延長線上に戦争があるとこの映画は描いていると感じます。


例えば、望まざる状況に身を投じられたすずさんの状況は、戦争によって苦しい生活を強いられる「普通」の状況のミニチュア版でしょう。望んで戦争に巻き込まれているわけじゃないでしょうし。「自分の居場所を守るため」という動機は同じで、それが大きいか小さいかの違いしかない。人と人とが暮らすうえで衝突は不可避なものですし、もしかしたら戦争というのは生活と同じくらいの人間の営みなのかもしれません。


でも、この映画で描かれた戦争の現実というのは、とても堪えるものでして。焼け野原になった呉や広島の街は当然のことながら、それに伴う遺児の問題。配球の停止によって苦しくなる生活。さらに追加シーンによって、リンは義務教育を満足に受けていないことが示されますし、新たに登場したテルに至っては博多弁で、生きるために遠くから連れてこられた背景が透けて見えて悲しい。


でも、戦争は人間の営みで止むことはないのだとすれば、文字通り「とてもやりきれない」ですよ。単に戦争はダメだというんじゃなく、戦争はあるものとして考えなければいけないという現実を突きつけられて、何が正しいのか分からなくなり、とても複雑な気分にさせられました。考えさせられる映画というのはまさにこの映画のことを言うんだと思います。本当に、定期的に見返されるべき映画ですね。せめて、年に一度、8月にでも。




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・現代も居場所を守るための戦いは続いている


ここまで見てきたのは、家や生活といういわば物理的な居場所です。これはオリジナル版でも描かれていたことですが、この映画ではさらに精神的な居場所というテーマが付与されているように感じました。


それを最も感じたのが、空襲の途中に追加された花見のシーンです。先の再会の後、離ればなれになっていたすずさんとリンですが、ここで三度、再会。リンは戦艦大和になぞらえて「人間死ぬときは一人かもしれない」と語ります。


確かに人間は死ぬときは一人でしょう。ただ、関わってくれた人たちに自分の思い出を残すことができます。葬式に来てくれた人の人数がその人の人生を表しているとはよく言われることです(私は決してそうは思いませんが。大事なのは人数じゃない)。人に思い出を残すということは、その人の心に自分の居場所を作ることでもあるんですね。そして、それは物理的に生活や居場所が奪われたからといって、決してなくなるものではないと。


追加されたシーンでは、すずさんにリンから口紅が手渡されます。オリジナル版では、周作が海軍に向かうシーンで、すずさんが口紅をつけているという謎の描写がありましたが、この追加シーンによって、その理由が明らかになっていました。そして、口紅が撃たれて壊れるというシーンは、オリジナルでは何ともなかったのに、この映画ではとても悲しく映りました。リンの物理的な存在証明が壊されてしまったのですから。


でも、すずさんはリンのことを忘れずに、焼け野原になった遊郭を訪ねるんですよね。すずさんの中にリンとの思い出が残っていたことの証明で、死んでもなお居場所は残るという描写に泣きそうになりました。焼け野原になった広島では誰もが誰かを探しているのも、故人の精神的な居場所がその人に残っていたからですよね。


この映画は新たに精神的な居場所もテーマにしている。そう思うと、リンの「この世界にそうそう居場所はなくなりゃせんよ」という言葉は、すずさんを励ましているようで、その実自らも勇気づけている。強い決意と希望の言葉だと感じました。




この「居場所」というテーマは現代にも通じるものだと私は思います。居場所を求めていて、彷徨う人たち。手にした居場所を守ろうと、日々の生活を送る人たち。誰かに自分の精神的な居場所を見出したいと、かかわりを求める人たち。現代も「居場所を守るための戦い」は続いているんですよね。個人レベルでも国家レベルでも。この映画は戦時中の話にもかかわらず、現代にも通じる普遍性を持っているのかなと感じます。


そのことを踏まえると、この映画の「それでも生活は続いていく」という終わり方は最高ですよね。だって、すずさんたちは戦争から生活を、居場所を守ることに成功したのですから。勝ってはいないけど、負けてもいない。負けなかっただけで十分ですよ。強く生き抜いたすずさんたちを見て、私たちも頑張ろうという気にさせてくれます。


そして、居場所のない子供にそのすずさんたちが、新たに居場所を与えるというのも実に良い。これもすずさんたちが負けなかったからこそできたことで、あの子も大きくなってまた別の子に居場所を与えるんでしょうね。物理的にも精神的にも。そうして人間の営みは続いていく。もちろん戦争は起こりますけど、そこから自分たちの居場所を守るための戦いの大切さや愛おしさを、この映画は教えてくれました。私たちの何気ない生活にも価値があるように思えて、励まされますね。オリジナル版でも感じましたけど、やはり私はこの映画が好きなようです。




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以上で感想は終了となります。映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。少し長いですが、新規カットの数々によって、前作よりも深化した味わいが得られるので、オリジナル版を観ている方にもお勧めしたいですね。もちろん、まだ観たことないという方にも。ねんまつねんし、ぜひ観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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