こんにちは。これです。


いきなりですが、私は発達障害の当事者です自閉症スペクトラム症(ASD)の診断を受けていて、精神障害者保健福祉手帳も交付されています。さらに今の仕事は障害者雇用枠で採用されていて、障害年金も受給しています。見た目では分かりませんが、私は障害者であるという認識を持って日々を過ごしています。


そんな私が普段何を思っているかというと、「生きていてごめんなさい」です。言うまでもありませんが、自分は生きていて良いと前向きに生きている障害者の方ももちろんいらっしゃいますし、そちらの方が多数派だとも思います。ただ、私は常に申し訳なさを感じているんですよね。


もっと重度の障害を持っていても、障害者手帳や障害年金を申請せずに頑張っている障害者の方はいくらでもいらっしゃいますし、ASDごときで障害者手帳や障害年金をもらっていてごめんなさいというのがまず一つ。それに、私が死ねば私にかかっているお金をもっと困っている方に回すことができると思うと、障害年金を受給していることに罪悪感をひしひしと感じています。


さらに悪いのが、障害年金を受けながら映画やサッカーなどに行っているということです。障害年金は皆さんの保険料や税金から出ているのにも関わらず、そのお金を何の役にも立たない趣味ごときに使って申し訳ない思いをしながら、割引料金で映画を観ています。どうですか?腹が立ちません?汗水たらして働いて納めた保険料や税金が浪費されているんですよ?生活保護でパチンコに行っている人が叩かれるのと同じように、私も叩かれるべきだと思うんですけど?パチンコと映画やサッカーは何が違うんですか?


とまあこのように、私が生きていて良いことなんて社会的に見れば一個もないわけですよ。だから早いとこ死ななきゃなぁと思いながら日々を送っています。「死にたい」ではなく、「死ななきゃ」です。ただ死ぬ勇気がなくて、もしかしたら人生で良いことがあるんじゃないかという誤った期待をしながら、生き延びています。本当に情けないことです。


でも、そんな私の鬱々とした思いを和らげてくれそうな映画が、2月7日の今日公開されました。『37Seconds』(37セカンズ)です。障害を持つ女性の性の目覚めと自立を、実際に脳性麻痺を持つ女性が演じたこの映画。映画の存在を知ってから、これは私のパーソナリティ的にマストの映画だと感じ、公開初日に早速観てきました。地元じゃやっていないのでわざわざ東京まで行って。有給も取って。


そして観たところ、期待していた以上の超絶大傑作でした。HIKARI監督の「社会はこうあってほしい」という思いを感じて、終盤はずっと泣きそうになりながら観ていました。現時点で今年のナンバーワンです。本当にありがとうございます。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・障害に真摯に向き合っている誠実な映画
・受容と自立の物語




―あらすじ―

ユマ23歳。
職業「ゴーストライター」。

生まれた時に、たった37秒息をしていなかったことで、身体に障害を抱えてしまった主人公・貴田ユマ。親友の漫画家のゴーストライターとして、ひっそりと社会に存在している。そんな彼女と共に暮らす過保護な母は、ユマの世話をすることが唯一の生きがい。
毎日が息苦しく感じ始めたある日。独り立ちをしたいと思う一心で、自作の漫画を出版社に持ち込むが、女性編集長に「人生経験が少ない作家に、いい作品は描けない」と一蹴されてしまう。その瞬間、ユマの中で秘めていた何かが動き始める。これまでの自分の世界から脱するため、夢と直感だけを信じて、道を切り開いていくユマ。その先で彼女を待ち受けていたものとは…

(映画『37Seconds』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・障害に真摯に向き合っている誠実な映画


まずこの映画を観て感じたことは、障害と真摯に向き合っているということです。それは「障害者を見た目では障害者として描く」という当たり前のことができていたからだと思います。


この映画では主人公の貴田ユマは下半身不随となり車椅子生活を送っています。母親の助けがなければ服を脱ぐことも、お風呂に入ることもできません。電車から降りるのも駅員の助けが必要。この映画では、そんなユマの現状を一番最初に見せ、理解を促していて、とても誠実だと感じました。


そして、ユマを実際に脳性麻痺を持つ佳山明さんが演じたことが、この映画における最大の成功だと思います。床を這って進むあのシーンはどんな名俳優でも決してできないものでしょう。その後のお風呂に入るシーンは迫力に圧倒されてしまいました。小さい声も自信のなさを印象付けていて、観客に可哀想だなという傲慢なイメージを植えつけます。


個人的に障害者が障害者を演じるってかなり難しいと思うんですよ。私だって普段の様子そのままだったらあまり障害者に見えないと思いますし、かといってオーバーに演じたら嘘になってしまいますし。だから、そのリアリティは障害を扱う映画では一番大事なものになるんですけど、この映画はそれが完璧で。佳山さん自身の努力と、HIKARI監督の慧眼が合わさって、まるでドキュメンタリーを見ているように自然で、血の通った貴田ユマになっていました



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ユマは親友の漫画家のゴーストライターをしています。しかし、そのことは公にはされていない様子。まあ障害関係なくゴーストライターって発表したらダメですからね。ここでリアルだなと思ったポイントが一つありまして。編集者が「アシスタントがいるって発表したらどうですか。障害者を雇っているとなるとイメージ上がりますよ」と言うんですよ。ここ障害を持っていない方でも不快に感じると思うんですけど、この不快なセリフを入れてきたことが、逆にとても真摯だなって思うんですよね。障害者に対する一般のイメージを表していて。


ご存知かとは思いますが、障害者雇用制度というものがあります。今、法定雇用率が民間企業で2.2%だったかな。45.5人以上の会社はその割合で障害者を雇いましょうという制度です。この制度自体は良いとは思いますし、私も恩恵に預かってはいるんですが、個人的にちょっと疑問があるんですよね。


黙ってやるならまだしも、「ウチはこれだけ障害者を雇用しています。社会に貢献しています」って公表する企業も中にはあるんですけど、障害者雇用ってアピールするものではないでしょう。特別だという意識が表れちゃってますけど、もっと一般的なものだと思うんです。そして、その企業のイメージは上がるって何だそれ。障害者をアピールの材料に使わないでほしいです。絶滅寸前の動物を保護してますとか、地球環境のために植樹してますとかそのくらいにしか考えてないんじゃないですか。こちとら一人の人間じゃい。


つまりは、まだまだその程度の理解だということですよ。健常者から見た障害者というのは。そのことを上記のセリフは端的に表していて、この映画は信頼できるとなりましたね、私は。悪い側面もそれとなく描いていて、とても誠実だなと感じました。




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ゴーストライターとしていることに少しずつ鬱憤がたまっていくユマ。ふと見つけたエロ漫画雑誌に自作のエロ漫画を持ち込みます。このエロ漫画、導入はSFチックなもので、映画では漫画がアニメーションのようにCHAIのポップな音楽に合わせて動くんですよね。虚実織り交ぜたフィクションの楽しさが出ていて、ここはぜひとも観ていただきたいところです。HIKARI監督のセンスよ。


それでも、ユマの描いた漫画は「人生経験がない」、言い換えれば「セックスをしたことがないから描写にリアリティが感じられない」と却下されてしまいます。この言葉にショックを受けたユマは出会い系サイトに登録して、男性と会ったり(ここで登場した最後の男性が健常者の障害者に対する認識を如実に表していて良かったなぁ。「意識しない」と言っている時点で意識している)、風俗を求めて街をさ迷ったりします。さらには、漫画というよりも自身のためにアダルトグッズを買いに行きもします。透明の男性器は思わず笑ってしまうほどでした。


こういった性的要素を描いているのもこの映画の真摯なポイントでして。障害者の性愛ってタブー視されがちですよね。去年も24時間テレビの裏でNHKが「2.4時間テレビ 愛の不自由、」という番組をしていたぐらいですし、ここも健常者が障害者をどこか違う存在としてみているのが現れているのかなと思います。ただでさえ大変なのに性に意識を向けるなんて、それはいけないことだという意識の表れでしょうか。正直、私にもその意識がないとは言えません。


ただ、障害者も当然性欲はあるわけですよ。だって人間だから。子孫を残すようにプログラムされているから。この映画にはセックスワーカー(障害者に対して性的サービスを行う)の女性が登場しました。彼女は自らの仕事に誇りを持ち、とても明るく、ユマの性の先導役となっています。風俗でのセックス前の描写などは力が入っていましたし、ナイーブな部分でも包み隠す必要はないとこの映画は描いているようでした。人間だから性欲もあって当然というこの映画の姿勢は、障害に左右されない人間のリアルな部分を描いていて、とても好感が持てました



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・受容と自立の物語


この映画は障害を持ったユマの自立と受容の物語なのだと思います。なにを当たり前のことをと思うかもしれませんが、これは障害のあるなしに関わらず、思春期の人間にとって訪れる大きな試練ではないでしょうか。


よく障害に対する態度で大切なのは受容であると言われます。障害の受容というのは、自分自身の障害を受け入れて、できることとできないことがあることを認めること。障害から目を逸らさず、それでも前向きに生きることです。この障害を受容することは、誰にとってもなかなか難しく、かくいう私もまったくできていません。


近年では、障害をその人間の個性だとする向きもあります。発達障害は発達凸凹と言い換えられることもあります。でも、ここで健常者の方々に聞きたいのは、あなたは障害という"個性"を持って生きたいですか?脳性麻痺で下半身不随となってもいいのですか?ということです。障害者の方々に失礼なのは重々承知です。ただ、自らの胸に問いかけてみてください。答えは聞きませんが。


私は、生まれ変わったら健常者として生きたいと思っています。ASDがあることで人とのコミュニケーションが上手く取れないこんな人生は嫌です。そう思う私はやはりASDを受容することができていないのでしょう。ASDや脳性麻痺といった生まれ持った障害だからといって、本人が受容できていると思ったらそれは大間違いです


ここで誤解されやすいのが、障害があるから何もできないという諦めと受容が同じだということ。この二つは違いますできることもあると認識するのが受容なのです。障害があるから何もできないという言い訳じみた諦めとは全くの別物です。つまり、障害を言い訳にしていないかということです。私はしまくっています。コミュニケーションが上手く取れなかったときなどASDだからなと落ち込み、ASDだから自分には何もできないと思い込んでしまっています。


そして、私個人はこの諦めをユマにも見ました。これは私の勝手な想像ですが、ユマは母親の過保護にも思える援助により、人にしてもらわなければ何もできないというマインドセットになりかけていたのだと思います。息苦しさを感じていたものの、でも私には障害があるから…と映画が始まる前のユマは感じていたのだと思います。




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しかし、編集長に漫画を却下されたことで、現状への不安が出てくるユマ。セックスワーカーの女性と出会い、母親や親友とは離れて遊ぶようになります。自分の意思を強めていきます。少しずつ自分は自分であることを認めていくユマの目は、シーンを追うごとに輝きを増していったようでした。これは一見母親や親友からの自立にも見えます。


よく、自立は何にも頼らず一人で生きることと誤解されがちです。でも、考えてみてください。私たちは誰にも頼らず生きているでしょうか。誰かが作った食べ物をいただいて、誰かが稼動させている電気や水道を使い、誰かからお金をもらって、誰かにお金を払って。現代社会で誰にも頼らず生きていく、完全な自立をすることは不可能です。それは物理的にも精神的にもそうです。


以前読んだ本に「自立とは、依存先を増やすこと」と書いてありました。依存先とは安心して身を委ねることができる場所と言い換えてもいいかもしれません。自らの人生を求めて、自発的に動くようになったユマは多くの人と出会うことになります。セックスワーカーの女性に、その同僚の男性。いなくなった父親に生き別れた姉など、ユマの世界は大きく広がっていきます。ここで印象的なのは、この誰もがユマのことを拒絶せず、受容していたことでしょう。


彼ら彼女らは障害を持つユマのことを特別視せず、障害も含めた一人の人間として扱っています。その受容は単なる表面的な受容ではありません。同じ本に、「希望は、絶望を分かち合うこと」とも書いてありました。ユマの脳性麻痺は治ることのない障害です。しかし、ユマを取り巻く人々はその治ることのない絶望まで含めて、ユマを受容していたように私には思えました。人間としてこうありたいという理想ですね。たびたび言ってますけど、フィクションは理想を描くべきだと思っている私にとっては、この展開は泣きそうになるほど胸に響きました。


そして、いくつもの受容をされたユマは最後に「私は私でよかった」と、自らの障害を受容します。周囲の人に受け入れられている感覚があると人間は自分のことを大切に思えるようになるものです。周囲の人がしてくれたように、自分の障害を受容することができたユマ。言い訳をしない強い決意。「私は私でよかった」と依然思えない私は、ユマの放った大いなる希望に、思わず心を動かされてしまいました。こうありたいなと強く願いました。


さらに、極めつけはユマと母親の和解。ユマは母親の援助を過保護と言っていましたが、それも母親のユマに対する強い愛情があったからなんですよね。じゃなきゃ警察に捜索届けまで出さないですよ。そのことを旅の過程で知っていくユマ。最後にはユマは母親の元に戻ってきます。しっかりと戻ることのできる巣、安心して身を委ねられる場所があっての自立。ラストシーンのユマの表情はとても晴れやかで、この映画を観てよかったと幸福感に浸らずにはいられないほどでした。




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健常者は障害者に対して「助ける」や「雇う」といった言葉を使います。しかし、それは「助けてやろう」や「雇ってやろう」といった健常者の上から目線の傲慢であるように私には感じられます。もちろんその傲慢で助かっている障害者の方も多くいるのですが、それだと障害者を本当の意味で受容したことにはならず、両者の溝は埋まりません。


そうではなく、上下ではなくまず一緒の場所に立つこと。そして、差し出された手をお互い取り合って生きていく。手を繋いでお互い安心して身を委ねられる、依存できるようにすることが自立につながる。自身の受容は障害に関係なく全ての人間にあるのだから、そのことを理解して、心の壁を取り払う。いわば「心のバリアフリー」が実現できる社会であってほしい。そのことをHIKARI監督はこの映画で描いたと私は受け取りました。本当に良い映画です。


なので、障害のあるなしに関わらず『37Seconds』は、一人でも多くの方に観ていただきたいですね。どんな感想を持ってもいいので、まず観てみてください。今年屈指の映画です。強くお勧めします。


お読みいただきありがとうございました。


参考:

障害受容
http://www.arsvi.com/d/aod.htm


おしまい






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