こんにちは。これです。コロナウィルス、ますます深刻化していますね。首都圏は外出自粛ムードで、私が参加しようと思っていた5月の文学フリマ東京も中止になってしまいました。本当に先の見えない戦いを続けている気がします。早く収まってほしいです。


ただ、そんななか、不用意かもしれませんが、私は今日も映画館に行ってきました。今回観た映画は『さよならテレビ』。愛知は東海テレビのオリジナルドキュメンタリーとして、年初に映画ファンの中で話題になっていた作品です。私も見たいと思っていたのですが、長野ではこのタイミングでようやく公開となりました。


そして、観たところ頭を殴られるような衝撃を受けましたね。想像以上でした。観終わった後に暫定今年ナンバーワンとすぐに確信したほどです。


それでは、感想を始めます。長いわりに拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・視聴率至上主義に慄いた
・報道の三つの役割
・中心となったのは三人のストーリー
・事実を「物語化」することの功罪





ーあらすじ―

今は昔。テレビは街頭の、お茶の間の、ダントツの人気者だった。豊かな広告収入を背景に、情報や娯楽を提供する民間放送は、資本主義社会で最も成功したビジネスモデルの一つだった。しかし、その勢いはもうない。「テレビは観ない」と公言することがクールだった時代を通り越し、今はテレビを持たない若者も珍しくない。マスメディアの頂点でジャーナリズムの一翼を担ってきたテレビが、「マスゴミ」と揶揄されるようになって久しい。これは市民社会の成熟か、あるいはメディア自身の凋落か…。今、テレビで、何が起きているのか? 『ホームレス理事長』『ヤクザと憲法』のクルーが、自社の報道部にカメラを入れた。

本作は東海テレビ開局60周年記念番組「さよならテレビ」(77分)に新たなシーンを加えた待望の映画化である。自らを裸にしていくかのような企画は、取材当初からハレーションを引き起こした。そして、東海地方限定で放送されるやいなや、テーマだけでなく、その挑発的な演出が、異例の大反響を呼んだ。番組を録画したDVDが、まるで密造酒のように全国の映像制作者に出回った。テレビの現場は日々、何に苦悩し、何を恐れ、どんな決断を迫られているのか。果たして、今のテレビにレゾンデートルはあるのか?

(映画『さよならテレビ』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・視聴率至上主義に慄いた



この映画はまず、東海テレビの報道部にカメラが入るところから始まります。自社の報道局を取材したドキュメンタリーで仮タイトルは『テレビの今』。テレビ離れ、マスゴミと呼ばれて久しいテレビ局は今どうなっているのかというあやふやな趣旨の密着ですが、一部のテレビマンは反発を覚えている様子。特に、半円型の机に座ったデスクと思しき人が「撮るの止めろよ」と語気を荒げ、カメラは地面に置かれてしまう始末。いきなりのハレーションに、ここはシンプルに怖いなと感じます。


ただ、それから二ヶ月経って、妥協点も見つかりドキュメンタリーは本格的にスタート。テレビ報道の"今"が映し出されます。最初に私が印象に残ったのが、視聴率にこだわるテレビマンです。それはさながら絶対的正義のようで、この映画時点(2017~18年)では、まだ視聴率至上主義が色濃く残っている様子でした。どの時間帯に視聴率が上がったかが逐一分析され、キー局中何位かが張り出されていきます。


ただ、これはテレビが広告収入に大きく頼っている以上、仕方がないのかもしれません。スポンサーにとっては視聴率が低いと、自社の広告が目に触れる機会も少なくなり、広告効果は低くなってしまいます。そうなると撤退も視野に入ってくる。実際、劇中でもお天気コーナーのスポンサーが一社降りたという出来事がありましたし、テレビからすれば収入が減ってしまうので、死活問題です。こういったビジネスモデルを続けているうちは、視聴率至上主義は変わらないのかもしれないですね。


となると、テレビは視聴率を上げるためにはどうしたらいいか。一例では、グルメコーナーは視聴率が上がって、ニュースコーナーは下がってしまう。それならグルメばかりにすればいいのではないか。でも、そうしたらニュースじゃなくなってしまうという現実がありました。これもニュースにはさして興味がない(私も含めて)今の多くの日本人の国民性を表しているのかもしれないと、ちょっと情けなくなりましたね。自省するばかりです。


でも、やはりニュースというからには報道で勝負したい。となるとどうするかというと、独自のニュースを放送することです。その重要度が大きければ大きいほど、注目され視聴率は上がります。劇中で何度も「独自」という文字が抜き出されたのは印象的でした。


この映画でも「日本の報道はスクープを抜くことにばかり目がいっている」みたいな問題提起がありましたけれど、独自ニュースに価値がある以上、これも変わらないのかもしれないですね。ちょっと時間が経てば、すぐ分かるようなことを大げさに取り上げて。そのために作戦を練るテレビマンたちの必死さが静かながら、この映画を観て伝わってきました。


そして、その独自ニュースを得るために犠牲になるのが、テレビマンたちの時間です。この映画では、働き方改革や電通の事件など、記者の働き方についても多少言及がなされていました。月100時間を超える残業なんてザラで。そうしなければ視聴率を保つことができないという真っ黒な闇を感じました。絶対にテレビ業界では働きたくないなと思ってしまうほどです。まさに、身を粉にする働き方。


そして、それを言ってくるのが上層部というね。残業減らせ、でも視聴率は上げろなんて無茶ぶりに文句を言っている人もいましたけど、いつだって犠牲になるのは現場なんですよね。『Fukushima 50』を観ていても思いましたけど、分かっていない上層部対振り回される現場という図式はどこの業界でも変わらないんだなと思ってしまいます。



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・報道の三つの役割


話は変わりますけど、私がこの映画を観て視聴率至上主義と同じくらい印象に残ったのが、報道の役割についてですね。序盤で小学生が東海テレビに社会科見学に来るシーンがありましたけど、そこで報道の役割については、以下の三点が説明されていました。


①事件・事故・政治・報道を伝える
②困っている人(弱者)を助ける
③権力の監視



この映画は、以上の三点を踏まえて作られていたように感じます。①と②については次からの項で書きますが、ここで触れたいのは③権力の監視です。


メディアは第4の権力と呼ばれることがあります。権力の暴走を報道することで防ぐという大きな使命を持っています。ただ、政権に迎合してしまっているメディアも存在してしまっているんですね。それが現れていたのが、共謀罪についての報道でした。


共謀罪についての報道はメディアによってさまざまで「共謀罪」というところもあれば、「テロ等準備罪」というところもあるそうなんですね。で、「テロ等準備罪」といっているところは、政権を批判する気がないと。別にメディアにだって右寄りとか左寄りとかは全然あっていいんですけど、そういう使う言葉一つで、そのメディアの姿勢が分かるんだなと勉強になりました。


でも、それで権力の監視ができているのかは疑問ですよね。先の戦争においては、新聞が政権に迎合して、戦争を煽るような記事を書いて、人々を焚きつけていたようですし、そこに対する責任が全くないとは言えません。今は難しいかもしれませんが、世論の操作ですよ、これは。


ただ、これは国民性も関係しているみたいで。戦争ムード一色の中、戦争批判、政権批判をした新聞は部数が落ちてしまい、存続のために戦争支持に回らざるを得なくなったみたいな話は、本で読んだことがありますし、そういう意味ではメディアは国民性を映す鏡みたいなものなのかもしれませんね。他局がニュースを映す中、グルメ情報が映されるシーンは、ちょっとしたシーンですけど、思わず恐怖を感じてしまいました。


では、ここまでで③の役割について軽く触れたところで(これ以上は私の頭では無理)、ここからは①と②の役割について見ていきたいと思います。この映画はテレビ報道の裏側を多くの登場人物を用いて描いていましたが、その中でも中心になった人物が三人いました。福島智之さん、澤村慎太郎さん、渡邊雅之さんの三人です。(以下、敬称略で進めさせていただきます)




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・中心となったのは三人のストーリー


福島は、夕方のニュース「ONE」のメインキャスター。きっちりとした風貌で見るからに、誠実な印象を与えます。東海テレビは4月の番組改編では、この福島を前面に押し出し「行け、福島」などというキャッチコピーをつけて、玄関脇に堂々と張り出し、電車に広告を打ち出したりします。あまりのアピールぶりに少し引いてしまうぐらいです。


ただ、福島は「伝える」ことがなんなのか、自分がちゃんと伝えられているのか悩んでいる様子です。番宣?で「ニュースを読むのではなく、伝えたい」と言っておいて、その後に「それがなかなかできないんだよな」とこぼしていましたし、祭りの取材でも、公共の電波を使って宣伝にしかならないニュースを流していていいのかという趣旨のことを言っていました。極めつけはある日の道端での「誰も傷つけない報道」についての話題です。


そもそも、福島が悩むようになったきっかけというのは、2011年の岩手県産の米を「セシウムさん」「怪しいお米」と謝ったテロップを出してしまった事件からなんですね。岩手や被災地に風評被害を植え付けてしまって、番組は打ち切りとなりました。そのことがトラウマとなって、言いたいことよりも、当たり障りのないことしか言えなくなってしまったと。報道の怖さを感じるシーンでした。


それもあってか、「ONE」も視聴率は上がることなく、キャスターもテレビを見ている高齢層に合わせたより年上のキャスターに変えられてしまいます。いくらメインキャスターだからと言って、雇われの一サラリーマンに過ぎないという現実。番組降板を告げられた時の、そして再び中途半端な編集で、放送事故が起こってしまったときのショックな真顔は目に焼き付くものでした。その表情によってテレビ報道の厳しい現実を突きつけられます。




続いて、渡邊。彼は映画途中から東海テレビに中途入社してきた記者です。元々そういう顔なのかは分かりませんが、いつもニコニコ笑顔を絶やさず、周りからも可愛がられるキャラクター。事件現場に赴くことはあまりありませんが、日夜取材に出かけています。桜のシーンで、インタビューを持ちかけようとしますが誰も答えてくれず、最終的に自分に付きまとう子供にマイクを向けていたのには、客席から笑いが漏れていましたね。押しつぶされそうな空気の中で一種の清涼剤となっていました。


ただ、彼は彼でまた悩んでいて。原稿のルビを間違って送ってしまったり、顔出しNGの確認が取れておらず、取材したVTRがお蔵入りになってしまったりと、失敗を繰り返して、その度に上司から叱責を受けています。さらに、食レポでは何度も撮り直しを要求されるなど、端的に言って仕事はあまり上手くいっていません。アイドルに慰められながら、なんとかやっている状態です。


さらに、彼は派遣社員で一年契約。これは澤村もそうですが、テレビ局は新聞社と違い、正社員ばかりではなく、派遣社員も多いといいます。なので、成果を出し続けなければ、そうでないにしても一年前より成長しているところを見せなければ、すぐに契約は打ち切られてしまいます。彼は彼で焦っていたんですよね。表情には出しませんが。最近になって自己啓発本がよく売れたり、「成長」という言葉が呪いのように社会に憑りついているのも、この派遣が多い雇用問題が関係しているのかなと感じます。


そして、一年間で成果を出せなかった渡邊は、契約を打ち切られてしまいます。一人廊下に去っていく彼を小さく映したショットはとても寂しかったですし、その後の真顔の渡邊はこの映画一番の衝撃でした。あそこは観ていてきつかった。卒業という名のクビ。これからの見通しも立っていません。何もテレビ局に限定されたことではなく、これが今、日本のあちこちで起こっているのだと思うと、頭を抱えたくなります。私も契約社員の身なので、他人事には思えませんでしたね。震えを覚えました。




最後に、澤村です。彼は元々経済紙出身。自宅にはメディアやジャーナリズムについての本がたくさんあり、それら全てに目を通すなど、報道に強い関心を持っています。酒の場では、「ギリギリまで考えて、ギリギリまで取材して作られた物にこそ価値がある」というような青臭い理想論を熱弁するようなキャラクターでした。


しかし、彼もまた理想と現実のギャップに悩んでいるんですね。ジャーナリズムを追求したいはずが、作っているニュースはスポンサーを立てる「ぜひ記事」(Z記事)と呼ばれるものばかり。これもスポンサーからの広告収入ありきというテレビの特性に起因しているのですが、企業の提灯持ち、広告塔にしかなっていません。


経済紙で同じような仕事をしていたから慣れていると、自嘲気味に笑う彼の姿はどこか悲しく映ります。また、澤村も派遣社員であり、来年の生活も知れない身。生活のために仕方なくやっていることが余計悲しさを増幅させます。


ただ、彼も報道に携わっている身として、ちゃんとぜひ記事以外の取材もしています。彼が取材したのは、マンションの反対運動に勤しむ老人。現場監督ともめ事を起こし、今は裁判にかけられているこの老人に、共謀罪について聞きに行きます。そこで老人から出た言葉は「テレビの力に期待している」といった趣旨のもの。報道の役割のうち、③についてずっしりとくる言葉ですが、その後も澤村は仕事に忙殺されて、③の役割を果たすことはできない状況でした。原稿に書かれた「」の文字が、その事を十全に物語ります。




この三人に共通しているのが、三人とも悩んでいることです。悩みのない人間なんていませんし、三人が悩むことで人間味が増し、身近に感じられる効果を生んでいると感じます。また、三人のバックボーンもそれぞれ語られるので(渡邊と澤村は部屋にまでカメラを入れている)、彼らの人間性は深く掘られていき、観る人にどういう人間なのかを分かりやすく伝えていました。


また、三人は苦境に置かれているのも一緒。そして、最後に三人には少しの救済が与えられます。福島は「弱くてもいい」ということを知り、街ブラロケでビールを飲みますし、渡邊はどこかのテレビ局に再就職。食レポでもOKをもらいます。澤村が取材した老人は無罪を勝ち取り、そこには東海テレビの報道の影響も少なからずあったのでしょう。苦境に陥ってからの救済という、実に分かりやすい物語が三人には与えられていました。


ただ、これで「はい、よかったね」で終わると、なんかモヤモヤするな、現実ってそんなに単純なものじゃなくない?と思っていたところで、この映画はラスト、衝撃の展開を迎えます。今までの描写がひっくり返されるとともに、この映画の誠実な姿勢を感じて、個人的な評価がグンと上がりました。



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・事実を「物語化」することの功罪



映画の最後の(と見せかけた)シーンで、澤村はカメラに疑問を呈します。「本当にこれでいいの?」「これでテレビの今を映せたといえるの?」(意訳)。怒りにも似た澤村の疑問。それは私が抱いていた疑問そのもので、よく言ってくれたと心の中で拍手をしたのですが、それも次のシーンでひっくり返されました。


なんと、澤村はスタッフから最後に怒るように指示を受けていたのです。さらに、渡邊も演出を受けていて、途中のお金を借りたシーンは作られた完全に嘘のシーンでした。また、冒頭の上層部の怒りも演出。上層部が悪で現場が善という構図が、意図的に作られています。それはまさに印象操作と言っても過言ではないレベル。「みんな役者だな」という言葉が、訳も分からず刺さります。「時系列をいじくろう」という案がなされなかったのは、最後の良心だったのでしょうか。今まで没頭していた映画の中から、急に放り出されて茫然自失とエンドロールを眺めている自分がいました。


このとき、私の頭に去来していたのは『i ―新聞記者ドキュメント―』(未見)など、多くのドキュメンタリー作品を手掛ける森達也監督の著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』(こちらも未読)。勉強不足ですが、その存在だけは知っていたこの本。そのタイトルの意味が今になってようやくわかりました。ドキュメンタリーは、いやテレビ報道は嘘をつくのです。


例えば「AがBを殴った」というニュースがあるとしましょう。それを知った人はAが悪いと思うはずです。しかし、「最初にBがAを殴った」という部分が伏せられていたとしたらどうでしょう。Aは殴り返しただけで、最初に悪いのはBじゃないかということになりますよね。事実は切り取り方によって、いかにでも加工できるのです。そして、それはドキュメンタリーやテレビ報道でもそうです。


そもそも、この二つは非常に長大な素材というものを持っています。それを編集して短縮したものを私たちは見ているのです。そこには恣意的な態度は入り放題。誘導尋問によって自分が望む、あるいはテレビ映えする言葉を引き出すことだってできますし、同じシーンによってもつける音楽によって受け取る印象は変わります


というか、澤村が言っていたように、まず根本からしてドキュメンタリーは現実とは少し違います。だって、現実ではカメラを向けられることはないですし、人はそうそう独白したりはしないでしょう。ドキュメンタリーもテレビ報道も現実を切り取って、並び替えて、繋げて、味付けをしたものなんですよね。


で、どうやって味付けをするかというと、それは「物語化」です。それは何も、映画や小説などのフィクションに限ったものではありません。そういったフィクションを必要としない人も確かにいるでしょう。ただ、「物語」は誰もが必要としているんだなというのは、私はこの映画を観て感じました。




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「物語化」の一番の特徴は、善悪の二項対立で物事を論じることにあると思います。この映画では上層部が悪、現場が善といったように善悪がきっちりと分けられていました。意図的な演出によって。でも、現実はそんなに単純に善悪で分けられませんよね。ドラクエみたいにはっきりとした魔王なんてどこにもいないですし、一つの物事にもいくつもの要因が絡み合って、それぞれ良いところと悪いところがある。そんなことは誰でも知っています。もし知らなかったら、それは子供か阿呆です。


でも、それだと複雑すぎて理解することができないから、善悪論という「物語」の枠にドキュメンタリーやテレビ報道は落とし込むわけですよ。そして、その「物語」の中では、主人公は善で、しかも弱者に設定されていなければいけません。そうした方が視聴者の共感を得やすいからです。


思えば、この映画の主要な三人は、いずれも厳しい現実に虐げられる弱者でした。困っていました。ここで思い出していただきたいのが、報道の役割②「困っている人(弱者)を助ける」です。この映画は①の「伝える」ために、彼らを弱者に設定して、「物語」的な困っている人を作り出しているんですよ。


そして、最後に救済を与える。視聴者にもカタルシスが与えられ、「はい、よかったね」で済まされる。私たちは「物語」という枠にあてはめないと、現実を解することができないんだなと思い知らされます。そして、私たちが「物語」を必要としている以上、いくら危機的状況が叫ばれ、マスゴミと叩かれようともメディアは消えない。形を変えてでも生き続けるんだなと感じました。まだ、情報の正確性においてはネットよりもオールドメディアの方が優位性がありますしね。


でも、この映画は最後に、ドキュメンタリーは、テレビ報道は欺瞞が含まれていると暴くんですよね。お前たちが受け取っているのは加工された二次情報であって、一次情報じゃないぞと釘を刺すんですよね。この演出が私は今までのテレビ報道の反省に立っているような気がして、とても好きですね。最後ちょっと長いかなと思っていたんですけど、この終わり方で評価は跳ね上がりました。今年観た映画の中でも暫定ナンバーワンです。


コロナウィルスによる情報が錯綜する現在。どの報道を信じていいのか分からなくなることもあるでしょう。ただ、この映画を観ればメディアリテラシーやネットリテラシーが高まることは間違いありません。首都圏に外出自粛が要請され、またこの映画自体上映している映画館がほとんどなく、観ることは大変難しいのですが、それでも機会があれば、ぜひ観たいただきたい映画です。




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以上で感想は終了となります。映画『さよならテレビ』、今観てよかったと思える傑作でした。いアマまであまり観てきませんでしたが、ドキュメンタリーもいいものですね。これからも機会があれば観てみたいと思います。皆さんも『さよならテレビ』、よろしければご覧ください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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