こんにちは。これです。とうとう首都圏を始めとした1都6府県に緊急事態宣言が出てしまいましたね。外出自粛により、映画を始めとする娯楽もかなり制限されるみたいで。感染の拡大もそうですけど、このパンデミックが終わった後に、映画館が果たしてどれだけ残るのか、とても心配です。


なので、私は今日も映画館に行ってきました。こっちの方はまだ開いているので、対策をしながらもう行けるだけ行こうと。批判されるのも承知の上です。


そして、今回観た映画は、去年Netflixで配信されたフランス製アニメーション『失くした体』です。実はこの映画、私(と顔も知らない複数人)が映画館にリクエストしたものであり、念願かなってようやく映画館で観ることができたんですよね。Netflixじゃいつでも見れますけど、怠惰な私はいつまでも観ませんから。そういう意味じゃ時間を決めて上映してくれるのはありがたいです。


そして観たところ、観終わった後には体がじんわりと汗をかく、そんな緊迫感あるアニメ映画になっていました。さらに、時間が経った今はこの映画のラストに深く胸を打たれています。81分という濃密な鑑賞体験をすることができました。やっぱり映画館で観る映画はいいですね。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・右手のパートとナウフェルのパートの対比が見事
・この映画におけるハエの意味についての簡単な考察
・サルトルの実存主義の影響を受けていると思う






・右手のパートとナウフェルのパートの対比が見事


この映画はハエの羽音で幕を開けます。ハエが飛び回るグレーの世界。主人公・ナウフェルの右手が切断されています。ハエは窓から出ることができず、羽音をブンブン言わせるのみ。描き込まれた右手とその断面がグロテスクで、なかなかショッキングな始まり方です。でも、ここで私は一気にこの映画に引き込まれましたね。


映画は過去回想へ。ナウフェルは家族と暮らしています。チェロを弾いたり、ピアノを弾いたり、マイクでラジカセに様々な音を録音したりと、特に右手でありふれているけど、幸せそうな生活を送っています。この右手が切断されるんですから、より辛いものがありますね。幸せだった彼の思い出も、失くなってしまったようで。モノクロの映像なのがより心に迫ります。


そして、この過去回想でもハエが登場。ハエを捕まえるにはどうしたらいいか、父親に聞くラウフェル(私だったらそんなこと絶対にしたくないな)。ハエはすばしっこくて手を被せても、なかなか捕まえられません。父親のアドバイスは「ハエがどう行動するか先を読むこと」。といっても昆虫の思考回路をラウフェルが持っているわけもなく、ハエは捕まえられません。


この映画には、他にも様々な局面でハエが登場しました。羽の模様や複眼まで精緻に描き込まれたハエは、見る度に気持ちが悪く、それでいて引き込まれていったのですが、まあこれだけ登場するんだから絶対に意味があるだろうと。映画を観ているときも、ずっとそのことばっかり考えていました。そして、私が思うこの映画でのハエの意味は、また後で述べたいと思います。




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さて、切断されたナウフェルの右手は冷蔵庫に保管されています。しかし、独りでに開く冷蔵庫。目玉がグロテスクに転がります。そして冷蔵庫から右手が勝手に動き出しました。理由は分かりません。この時点では。そして、部屋の外に出ようとするも、外は人の往来があります。しかし、部屋の窓から出ようとすることを右手は思いつき(という表現も変ですが)、職員の目を免れて、脱出に成功します。ここ、飛び出す目玉の中身がこれまたグロテスクでした。
 

この映画は、この右手のパートと、右手が切断されるまでのナウフェルのパートを交互に挟んでいくという構成になっています。まずは右手のパートについて書いていきましょう。何かを求めてさまよう右手。この右手のパートは、台詞は全くありません。映像と音楽のみで状況を伝えています。しかし、右手のパートはこの映画の動の部分、ダイナミズムを一手に担っていて、そのあまりの緊迫した展開にじっと見入っている自分がいました。


この右手の不思議な冒険は、ハラハラする展開の連続。鳩に突き落とされそうになり、ゴミ収集車に巻き込まれかけ、缶を被って人目を忍んで移動。線路とホームの間でネズミに襲われ、やってきた列車になんとかしがみついて難を逃れます。挙句の果てには上昇気流に乗って、傘で空まで飛んでしまう始末。絵もカメラも良く動き、スピード感と臨場感に溢れる展開が続きます。今こうして書いていても、手に汗が滲んできそうなほどです。


バレるかバレないか、無事目的を果たせるかという緊迫感があり、アニメーションの快楽みたいなものがありました。たぶん頭の中でドーパミンでも出ていたんだと思います。さらに、重厚な音楽も乗っかり嫌でも記憶に残ってしまう。この右手のパートだけでも十分にお釣りが来るほどで、アヌシーの長編映画賞を受賞したのも納得がいきました。


また、印象に残ったのが色彩。この右手のパートではグレーが多く使われているんですよ。雨樋、地下鉄の駅、水中。右手そのものや、周囲の物体にもどこかグレーが混じっていたような気さえします。さらに、ハトやネズミ、アリにハエなどグレーの生物を多く絡ませることで、切断された右手の悲しさを強調。ナウフェルの元に戻れたとしても、もう元には戻らないという事実を否応なしに突きつけてきました。



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一方の、ナウフェルパート。こちらも展開的には、あまり見ていられるものではありません。両親を事故で亡くし、孤児となったナウフェルは縁もゆかりもない他人の家に引き取られますが、そこでもあまり構ってはもらえていない様子。仕事も全く向いていないピザの配達をしており、時間に間に合わずに店長に怒られる有様です。彼が置かれた状況は良いとは言えません。


そうした迎えたとある日も、ナウフェルはスクーターで事故ってしまい、宅配の時間に遅れてしまいます。それでも、なんとか配達先であるマンションに到着。マルティネズという女性にピザを届けようとしますが、結局届けることができません。一人ぐちゃぐちゃになったピザを食べるナウフェル(マルティネズとインターホンで話しながらですが)。そこに、住人の老婆がやってきて、マルティネズの本名がガブリエルであることと、図書館に勤めていることが判明します。このガブリエル、昔のクレヨンしんちゃんみ、それこそ『オトナ帝国』の辺りの、があって私はけっこう好きでしたね。


そこからのナウフェルは、陰キャしぐさが全開。ガブリエルに会いたいと電話帳を調べ、勤務先の図書館に着いたはいいものの、声をかけられずに後をストーキングしてしまいます。木工職人の弟子になって、彼女の住むアパートに住めたのはいいのですが、密かに彼女との話に出てきたイグール(イヌイットの移動式の家)を作り、届けられなかったピザを用意します。もう本人はロマンティックだと思っているだろうけど、そういうとこだぞと、私は心の中で叫んでしまいました。案の定振られてしまいますし、陰キャしぐさは、どこの国でもいつの時代でも(1994年設定だったと思う)共通なんだなと思ってしまいました。


このナウフェルパートで印象的だったのも色彩ですね。特にガブリエルと出会ってからの、ナウフェルパートは比較的色鮮やかになっているんですよね。個人的には黄色が混ざって、少し派手になった感じがしました。スクーター、ピザ、そして血の赤も印象的でしたし、右手パートとの対比が視覚的に感じられました。ストーリーもですけど、映像に長けていた印象です。




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・この映画におけるハエの意味についての簡単な考察


さて、気になるこの映画におけるハエの意味ですが、私は大きく分けて3つの意味・モチーフがあると思います。まず一つ目は、ハエは死の象徴であるという考えです。


言うまでもなく、ハエは死を想起させる昆虫です。死体が放つ腐臭にハエが集まってくるのは、定番の演出と言っていいでしょう。この映画でも、ハエが死を感じさせるシーンで多く登場しています。家族との想い出はナウフェルにとっては、もう二度と手に入れることができない失われてしまったもの。また、父親が避けようとして事故になってしまったヤギの角にもハエがついていました。さらに、終盤右手が動かなくなったシーンでもハエが登場しています。このことからもハエが死の象徴や予兆であったというのは明白なように思えます。


また、これに関連して語りたいのが、この映画の色彩ですね。この映画では右手パートや過去回想にグレーが用いられていたりと、死を想起させる場面でグレーが多く用いられていました。灰色の動物が多く登場したのも、もう戻ることはないナウフェルの右手を表すのにうってつけです。さらに、ラファエルの右手を切断した刃も灰色でした。


色彩についてお決まりのイメージとしては、黒=死白=生というものがありますが、この映画におけるグレーは、どちらかというと死の意味合いが強かったのではないかと私は感じます。ずっとグレーで通してきたからこそ、最後に雪景色=白=生という映像が、映えるんですよね。赤ちゃんの手とか。この映画って、ずっと悲しみを背負っているように見せかけて、最後は生を肯定するようになっていたと思います。このことは、また次の項で書きますね。



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次に、私が考えるこの映画のハエの意味二つ目。それは「ハエ=運命そのもの」ではないかということです。


なんでこのように思ったかというと、それはナウフェルがガブリエルに、運命について話していたからなんですね。ナウフェルが言うには「運命は変えられない」と。過去の悲しい経験からそう悟ってしまっているんですね。無力感が切ないです。でも、こんなもの運命論ですよね。


運命論―

一切の出来事は運命によってあらかじめ決定されており、人間の意志や選択は無力であるとする考え方
(三省堂スーパー大辞林3.0より引用)



ここで言う運命は、ずばり死ぬことです。それは上で書いたとおり、死の予兆としてハエが登場したことにも表れていると思います。人間は死という運命からは逃れられません。では、人間の意志や選択は必ずしも無力なのでしょうか。


実は、ナウフェルは明確にこのことに対して、NOと言っています。「想定外の行動をすれば、運命は変えられる。奇跡は起こせる」と。お前、どっちやねんと言いたくなりますが、それはナウフェルの意地であり、宿願であったのでしょう。実は、このナウフェルの台詞がこの映画のテーマを表していると私は思うんですよね。それは、人間が現実に存在しているということ。略して、実存です。



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・サルトルの実存主義の影響を受けていると思う


この映画のメインビジュアルにある赤い手形。砂に、雪に刻まれた手の形。それは、いずれ消え去ってしまうものであるとしても、その時には確かに存在していた。生きていなきゃ手形は残せないんだなと、私はこの映画を観終わって真っ先に感じました。


さらに、この映画でもとりわけ強烈な印象を残したのが、白いスプレーで書かれた「我ここにあり」という落書き。全く脈絡のない言葉でしたが、それでもこのメッセージ性の強さには、何か考えざるを得ません。


そして、手元の電子辞書でちょっとハエについて調べていたところ、この二つを結びつけるワードに出会いました。『失くした体』はフランスの映画ですよね。実は、1943年にパリで初演を迎えた戯曲があるんです。タイトルもずばり『』。フランスの哲学者、文学者であるサルトルの作品です。調べていくうちに、この映画ってサルトルの影響を受けているんじゃないかなって思ったんです。


サルトルの思想として代表的なものとして挙げられるのは、何といっても実存主義でしょう。


実存主義―

世界における人間の実存(現実存在)を説明しようとする哲学の一派。

直接の先駆者であるキルケゴールは人間の自由選択の意義を強調し、未来の一部分はこの選択にかかっており、閉鎖的な合理的体系によって予知しうるものではないとし、このような人間存在を実存と呼んだ。

特殊な意味で人間が存在するということは、みずからの選択と行動で決めた未来が開かれていることを意味する。

(ブリタニカ国際大百科事典より引用)



というわけで、本当はもっと長ったらしい説明を、無理やり以上の三点にまとめましたけども、これを読むだけでも、実存主義は運命論と対立する思想だということが分かってもらえると思います。「みずからの選択と行動で決められた未来が開かれている」ですからね。ナウフェルの「想定外の行動を起こせば、運命は変えられる」と同じことだと思います。何でも運命で決められているという運命論とは本当に真逆ですよ。



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映画に沿ってみていきましょう。さまざまなピンチがありながらも、ナウフェルのもとに辿り着いた右手。このままくっつかないにしても、触れ合うのかなと思いきや、ナウフェルはそうしません。家族との幸せな想い出が詰まった右手。しかし、それはもう元に戻ることはないのです。眠っているという無意識下の行動は、ナウフェルがそのことを深層心理で分かっていたように私には思えます


そして、行方をくらますナウフェル。時間が経って、ガブリエルが部屋を訪ねると、棚には角砂糖で作られた白いイグール。屋上に出ると、雪が積もり灰色のイグールにも、雪が降りかかっています。そして、木材の下には再生機に入ったカセットテープが。ナウフェルの幸せな想い出が詰まったカセットテープ。しかし、ナウフェルはその想い出を上書きして、自分の行動を録音します。


そのナウフェルの行動とは自殺、かと思いきや向かいの建造物(名前は失念)に飛び乗るという、見ている私にとっては想定外のものでした。そして、歓喜の声を上げ、笑うナウフェル。ここで映画は幕を閉じます。最初に観たときには「これで終わり?」と思ったものですが、今考えるとこれが最良の終わり方だったと思います。なぜなら、ナウフェルが運命を変えたからと思うからです。


最後に雪が降っているということは、季節は冬でしょう。言わずもがな変温動物であるハエはいないはずです(冗談めいてナウフェルが挙げた北極にも)。そして、傘もない右手がナウフェルのもとに行く手段はもうありません。カセットテープを上書きし、右手と決別したナウフェル。幸せな想い出を過去のものと認識し、そこから離れることで、ナウフェルは運命を変えることが、少しでもできたのだと思います。


正直言えば、右手を失ったナウフェルはあそこから降りられないと思いますし、ゆっくり死んでいくだけだとは思います。なんでナウフェルが飛び乗ったのかは、私には分かりません。でも、それでいいんだと思います。電子辞書によると「実存主義者は人間の選択には合理的な理由がないとしている」とありますから。最後のナウフェルの笑み。そして、その決断を祝福するかのように降る雪。最後の白い空間は生へのエネルギーで溢れていたように、私には見えました。ポスターにもある「映像が織りなす人生讃歌」とはよく言ったものですね。




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というわけで、終盤の展開について考えてきましたが、実はこれ、サルトルの『蠅』と似ているんですよね。電子辞書にも


『蠅』―

アイスキュロスの『オレステイア』を粉本に、(中略)原作の運命悲劇を自由と行為の選択の劇に変えている。
(ブリタニカ国際大百科事典より引用)



とありますし、実存主義の影響を受けてかつてフランスで盛んになった実存主義演劇も、


実存主義演劇―


登場人物の性格や心理に劇的契機を求めず、神をも含め確固とした価値観が否定された絶望的な状況のなかで、自由意思によって自らの価値観を選択する主体的な存在としての人間の姿を表現する。
(ブリタニカ国際大百科事典より引用)



ものらしく、これも『失くした体』にぴったり合致するのではないかと思います。また、サルトルの戯曲には『汚れた手』というタイトルのものもあり、これはもはや偶然とは思えません。やっぱり結論としてはフランスですし、サルトルの影響を色濃く受けてそうですね。この映画におけるハエの意味三つ目、というかモチーフはサルトルの『蠅』だと私は考えます。


運命がなんじゃ、未来は俺の手で切り開いたるんじゃというこの姿勢には、個人的には好感と憧れしかありません。アニメーションの躍動も合わさって、傑作となっていると思います。またNetflixで見返してみようかな。そう思うくらいには、私はこの映画好きですね。



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以上で感想は終了となります。映画『失くした体』。決して明るい!楽しい!となる映画ではないですが、緊張感と感慨が味わえる映画ですので、外出自粛の今、Netflixで観てみてはいかがでしょうか。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


失くした体
ダン・レヴィ
Rambling RECORDS
2020-02-26



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