こんにちは。これです。


今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『惡の華』。押見修造さん原作の同名漫画を映画化したこの作品。公開時には長野市での公開がなかったので観られず、今回自粛自粛で時間の空いたGWにDVDでの鑑賞となりました。旧作の感想を書くのは初めてですかね。今後はちょくちょく旧作の感想も書いていけたらと思っていますので、お付き合いいただけると嬉しいです。


それでは感想を始めます。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・キャストについて
・「特別でありたい」と思うこと自体が普通
・「向こう側」とは
・春日は「普通」の大人になったのだと思う





―あらすじ―

あの夏、僕は仲村さんと出会い、リビドーに目覚めた。

山々に囲まれた閉塞感に満ちた地方都市。中学2年の春日高男は、ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所に、息苦しい毎日をなんとかやり過ごしていた。ある放課後、春日は教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を見つける。衝動のままに春日は体操着を掴み、その場から逃げ出してしまう。その一部始終を目撃したクラスの問題児・仲村佐和は、そのことを秘密にする代わりに、春日にある“契約”を持ちかける。こうして仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった…。
仲村に支配された春日は、仲村からの変態的な要求に翻弄されるうちに、アイデンティティが崩壊し、絶望を知る。
そして、「惡の華」への憧れと同じような魅力を仲村にも感じ始めた頃、2人は夏祭りの夜に大事件を起こしてしまう…

(映画『惡の華』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください。














・キャストについて


この映画の主人公である春日を演じたのは伊藤健太郎さんです。整った顔立ちと鍛えられた体は陰キャ感薄いなと思いましたが、そもそも春日はそんなに陰キャではないのですよね。友達もしっかりいるし。でも、唇の出し方とか、少し抑えめな挙動などで冴えない感じを醸し出していました。高校になって髪が伸びて野暮ったくなったビジュアルは、存在しない普通の枠に収まったようで、とてもよかったと思います。


そんな春日が憧れる佐伯を演じたのは秋田汐梨さん。優等生で誰もが憧れる彼女ですが、笑ったときの裏のある感じが凄い。いい具合に影があって、油断ならない印象を与えてきます。春日に迫るシーンは色気すら感じられましたよね。それでも清楚な印象と両立されていて、これは天性のものだと感じずにはいられません。今回初めて目にしましたが、今後も気にしていきたい女優さんです。


山間の町を離れて、都市部の高校に入学した春日が出会ったは友達も多い常盤。ニュートラルな立ち位置の彼女を演じたのは飯豊まりえさんです。こちらも学校の人気者で求められている役割を果たしている、いい意味でのうすぺっらさを感じる演技でした。春日のこともあくまで一線を引いている感じありましたからね。出番こそあまり多くなかったですが、流石の演技で物語を突飛になりすぎないようにしていました。


それでも、やっぱりこの映画は玉城ティナさん演じる仲村ですよ。公開時は映画ファンの間でクソムシクソムシ話題になっていて、それに乗り遅れた悔しさがちょっとだけあったのですが、沸き立つのも納得のインパクトがありました。先生に向かって最初の台詞が「クソムシが」ですからね。口を開けば出てくる言葉は汚い言葉ばかりですよ。よくそこまで語彙あるなと感心するくらいです。


それに、特徴的だったのが、眼鏡を掛けたときと外した時とで、顔立ちが全然違うんですよ。同一人物とは思えないくらいに雰囲気が変わっていて、切り替えるさまが上手いなと感じました。それにあのドS感ね。春日を見下すような視線がきつくていいわけですよ。暴力的な目つきは玉城ティナさんの新たな一面を見られた気がします。あの感じで迫られたら誰でも言うこと聞くわという感じが出ていましたね。


でも一方で切れてばかりではなく、天真爛漫な一面も垣間見せたり(それがかえって春日を追い詰めるわけですが)、苦しんでいるところも見せたり、と意外と表情豊か。特にクールぶったときの感情を抑えている表情は、特筆すべきもので玉城ティナさんのポテンシャルを思い知らされます。今後活躍するにあたって、その度に見返されるような代表作の一本になっていたのではないでしょうか。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・「特別でありたい」と思うこと自体が普通


春日はどこにでもいるような中学生。友達と何気なく帰っていますが、本人は今の生活に満足していない様子。この映画の舞台は、山に囲まれた地方都市です。どこを見ても見渡す限り山でどこにも行けないという閉塞感が漂っています。山の向こう側に行けば何かが変わるかもしれないという田舎の学生にありがちな思考をしています。


向こう側を無意識に神格化して、街にいる人間はクソだと言わんばかりの態度です。このボードレールの詩を理解することができる人間が何人いるだろうと見下しています。本当にありがちな態度でどこまでも「普通」なキャラクターでした。


思春期には誰もが自分は特別だと思うんですよね。世界が広がって、自分より凄い人間がいくらでもいることに気づき、その事実から心を守ろうとする働き。俺はお前らの理解できないボードレールの詩集を読んでいるんだぞ。凄いだろって周りの人を見下して。自惚れですよ。こんなもの。


でもそれは多くの人がそうなんですよね。自分を特別だと思い込むのは、かえって「普通」なんですよ。たぶん。自分は特別じゃない。でも、特別な人間だと思いたい。そんな鬱屈とした感情がぶちまけられた映画だと感じました。


それが象徴されていたのが夜の教室に忍び込むシーンでしょう。憧れの佐伯の体操着を盗んだ春日。しかし、仲村にその秘密を知られてしまいます。紆余曲折あり、仲村を通して佐伯に真実を伝えてもらうよう頼みますが、仲村は「虫が良すぎるんだよ」と拒否。春日に全てをぶちまけるよう要求します。


そこから先の二人はチョークをひっくり返すは、墨汁をぶちまけるわでもうやりたい放題。カットを細かく割る演出も合わさって、魂の解放と言った風情を見せてきます。リーガルリリーの挿入歌も静かな入りはここで入れるんだと思ってしまうほど合っていないものでしたが、サビに入ってからは細く切ないボーカルが胸に迫ります。「魔女」という曲名なのも心憎いですね。


全てが終わって、教室はもうぐっちゃぐちゃ。まるで二人の心の中を投影しているかのようです。ここで注目したいのが二人が寝そべるシーン。ここでボードレールの詩集『惡の華』の表紙に描かれていた目玉が墨汁で床に描かれ、二人はその中にいます。これを私は、円は「普通」を表していて、二人はその「普通」の檻の中に閉じ込められていたと考えます。結果は多少オーバーなものになってしまったかもしれませんが、抱いている「特別な人間だと思いたい」という感情は「普通」の域を出ていないのだと、このシーンは表しているように思えました。



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・「向こう側」とは


この映画で何度も印象的に登場した言葉があります。それは「向こう側」というものです。仲村のいう向こう側とは、おそらく「そこに行けば全てが変わる理想郷」を指しているのではないでしょうか。この町の人間がクソムシなのは、理想郷に行くこともなく留まっているからだ、と。何だか『空の青さを知る人よ』を思い出させる話ですが、これも東京コンプレックスをこじらせた地方の学生にはありがちです。私も高校時代はそう思ってましたからね。


でも、東京に行けば全てが変わるなんてことは全くなくて、そんな理想郷は世界のどこを探してもないわけですよ。教室での事件の後、二人が山の向こう側に行こうとしたけど、終ぞ行けないままでしたよね。向こう側もない、こっち側もないという仲村の言葉は、もしかしたら向こう側に行っても何も変わらないことを、間近になって悟ってしまったからなのかもしれません。簡単に言うと、逃げたと思うんです。変わらない現実から。


しかし、ここから春日と仲村の二人の関係は変わります。それは端的に言うと、主従関係から対等な関係へと変化していきます。自分は背伸びしてボードレールを読んでた。自分は空っぽの人間だと認めた春日。秘密基地のような段ボールハウスを作って、「ここに向こう側を作ろう」と言います。


仲村の「また向こう側に行けなかった」という文字を読んだからでしょうか。理想郷なんてない。自分を変えるのは自分しかいない。矢印は自分の中に向いていきます。世界は変えられなくても、自分は変えられる。その考えに同調する仲村。堕ちていく二人を見ていると、私の中の何かが壊れそうで恐怖心すら感じましたね。対等な関係となった二人はとある計画を企てます。


その計画が表出するのは中学生編のラストの展開。二人は夏祭りの櫓を占拠し、自らもガソリンを被って火をつけようとします。二人がライターを握って演説するシーンは、どうしても『ラピュタ』を思い出さずにはいられないのですが、それも気にならないくらいの迫力がありましたね。見入ってしまいました。


きっと二人は、自分を変えることの限界にすぐ気づいたのではないでしょうか。自分を変えても、周囲が変わらないと意味がない。そうやって周囲のせいにして、自分を変えることから逃げていたんだと思います。それが二人を自爆テロにも似た極端な行動に走らせたのだと感じます。しかし、二人の計画は未遂に終わり、中学生編はこれで終了します。周囲を変えるという二人の暴動は、道半ばで途絶えました。



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・春日は「普通」の大人になったと思う


言い忘れていましたが、この映画は中学生編での出来事を高校生になった春日が振り返るという構成を取っています。自己変革は中学生時点で止まったままの春日。しかし、同級生の常盤と出会ううちに変化が訪れます。常盤の書こうとしている小説は、春日にとって自分事。さらに、佐伯と再会し、自分のことを打ち明け「がっかりした」と突き付けられてしまいます。


そんな春日に元に残されたのは一冊のノート。それは、仲村が春日に「変態としての自分の作文を書け」と課題として出したものでした。当時の春日はボードレールの『惡の華』を差し出して、「これがぼくの作文だ」とほざいて、仲村の怒りを買っていました。これも春日が自分と向き合うことから、逃げていたことを表していると思います。そして、今もまだ仲村といた過去から逃げたままです。


しかし、春日は自分と向き合い、作文を書きあげます。そして、佐伯から仲村の住所を知らされ、過去との決別をつけるために、会いに行くことに。全く無関係な常盤も「合わないと小説が書けない気がする」とついて行きます。


春日と仲村は、常盤も交えて三年ぶりの再会。仲村は海辺の町にいました。山の閉塞感からは解放されていますが、今度は海という障害があります。向こう側へたどり着くことは、自力では極めて困難なように思えます。


二人は二、三言葉を交わした後、常盤も交えて海辺ではしゃぎます。教室のシーンとは違って、周囲に迷惑をかけることもありません。それは、まるで健全な海での遊び方のよう。さらに、常盤がいることが、このシーンでは重要で。常盤という客観視できる目があり、言い方は悪いですが、二人の感情の捌け口があったことは、中学生時代と全く違います。「変態」だった二人は、自らを理解してくれる第三者を求めていたのかもしれません。それがいなかったからあそこまで拗れたと。そして、常盤がこのシーンではその役割を果たしていたように私には思えましたね。夕陽が照らすこの映画でも一番爽やかなシーンでした。


そして、三人は砂浜に寝そべるわけですが、ここでは教室のシーンで二人を取り囲んでいた円は消失しているんですよね。そして、最後に仲村が春日にかけた言葉は「二度と来んなよ。普通人間」。自分をさらけ出して、作文に何もかもぶちまけたことで、春日は「自分が特別な人間ではない」ということを自覚したのだと思います。


それは思春期を過ぎた大人の世界では「普通」なことですが、思春期の「普通」からは外れてしまっています。いわば、春日は「普通」の思春期を卒業して、「普通」の大人になり始めたのだと。私はそう考えました。この映画の最後で見下してくるような『惡の華』の目は消失していきます。きっとそれは、周囲を人間を見下す春日の自意識の表れでもあったのでしょう。


それが消失したということは、春日が少なくとも周囲の人間を見下すことはなくなったということ。なかなか強烈な展開の映画でしたが、最後には普遍的な人間の成長が描かれていて、この点で好感度が高いですね。春日たちの成長が一般的なものであることは、エンドロールが終わってのシーンにも表れていますし、誰にでも当てはまりそうな思春期のコンプレックスとそこからの成長を描いたこの映画、私はけっこう好きです。


『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』もそうでしたけど、押見修造さんはこういったさりげない成長を描くのが上手いと感じましたし、それを余すことなく映画にした井口昇監督はやり手の監督さんですね。もちろん脚本の岡田磨里さんもいい仕事してますし、公開当時映画館で観られなかったことを軽く後悔する鑑賞となりました。観て一緒にクソムシクソムシって騒ぎたかったなぁ。



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以上で感想は終了となります。映画『惡の華』、少しアクが強いところはありますが、内容は真っ当な成長ストーリーだと思います。個人的にはおすすめしたい映画ですね。機会があればどうぞ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


惡の華
飯豊まりえ
2020-02-04



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