こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『青くて痛くて脆い』。『君の膵臓をたべたい』の住野よるさん原作の映画です。キャストが好きな人しか出ていないので、元々8月に公開される映画の中でもかなり注目していました。珍しく原作も読んでの鑑賞です。嘘の正体を知るのは気が引けましたが、それ以上に興味が勝ってしまったので。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

人付き合いが苦手で、常に人と距離をとろうとする大学生・田端楓と
空気の読めない発言ばかりで周囲から浮きまくっている秋好寿乃。
ひとりぼっち同士の2人は磁石のように惹かれ合い秘密結社サークル【モアイ】を作る。
モアイは「世界を変える」という大それた目標を掲げボランティアやフリースクールなどの慈善活動をしていた。
周りからは理想論と馬鹿にされながらも、モアイは楓と秋好にとっての“大切な居場所”となっていた。
しかし、秋好は“この世界”から、いなくなってしまった…。
秋好の存在亡き後、モアイは社会人とのコネ作りや企業への媚売りを目的とした意識高い系の就活サークルに成り下がってしまう。
変わり果てた世界。
取り残されてしまった楓の怒り、憎しみ、すべての歪んだ感情が暴走していく……。
アイツらをぶっ潰す。秋好を奪ったモアイをぶっ壊す。どんな手を使ってでも……。
楓は、秋好が叶えたかった夢を取り戻すために親友や後輩と手を組み【モアイ奪還計画】を企む。
青春最後の革命が、いま始まる―。

(映画『青くて痛くて脆い』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。










『青くて痛くて脆い』、一本の映画としてはまとまっていたと思います。前向きなメッセージを分かりやすく伝えてきていて、爽やかな主題歌も相まって観終わった後、前向きな気持ちで映画館を後にできること間違いなしです。正直、私は原作を読んだときに、「個人的には住野よるさんはあまり得意じゃないかなぁ」と思っていたのですが、「この住野よるさんなら得意だ」と映画を観て感じました。





この映画はパラパラ漫画から始まります。初見では「どこかの配給会社のロゴかな?」と思いましたが、普通に映画が始まったので驚きました。最初のモノローグも原作と全く一緒です。


田端楓は人に不用意に近づかず、人の意見を否定しないことをテーマにしている大学一年生。目立たず事を荒立てずの、地味で平穏なキャンパスライフを送ろうとしていました。この田端を演じたのは吉沢亮さん。一年生のときの大人しい感じから、四年生の腐りかけた感じはまるで別人のようです。舞台挨拶でもあった通り、何かを訴えかけてくる目力が印象的でしたね。流石の演技でした。


目立たないキャンパスライフを送りたいという田端の目論見は、開始2分で打ち砕かれます。授業中に手を挙げて、大っぴらに理想論を語る一人の女性がいたからです。彼女の名前は秋好寿乃。世界から戦争をなくすことが本当にできると思っている、自信過剰で愚かで鈍い人間です(田端談)。彼女に間に合わせに使われたことで、田端が描いていた理想は早くも粉微塵になります。


この秋好を演じたのは杉咲花さん。理想を高らかに語る笑顔と声が良かったですよね。特に声が少しアニメチックだったのが、この映画ではプラスに働いていて。こんなやつ現実にはいない感を印象づけていました。そこからの真顔のギャップも良くて。吉沢さんと二人での講堂のシーンは息が詰まりそうな緊迫感がありましたね。「気持ち悪っ」を二回言ってくれたのも最高でした(原作では実は一回だけなんだぜ)。


行く先々の講義で理想を語り、悪目立ちした秋好は早くも大学で浮いてしまい、どのサークルにも入れてもらえません。「自分でサークルを作れば?」と提案してしまう田端。その提案に秋好はまんまと乗っかり、二人は「なりたい自分になって、世界を変える」秘密結社モアイを結成します。空から横断ほどを見上げるカメラワークが印象的でした。




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それから三年。就職も決まった田端は、数少ない友達である菫介と居酒屋で呑んでいます。そこにやってきた、やたらと騒ぎ立てる集団。彼ら彼女らは三年の時を経て、意識高い系就活サークルに成り下がったモアイでした。モアイを目の敵にする菫介。この菫介を演じたのは、私の好きな岡山天音さん(『王様になれ』の主演やってくれたから)。今回もいい感じに意識が低く、主人公と馴れ合う友人キャラで力を発揮していました。


そして、変わり果てたモアイに嫌気が差していた田端はモアイを潰すことを宣言します。一緒にモアイを作った秋好は「死んだんだ」とも。このあたり原作では少しずつ変わったモアイの存在をちらつかせつつ、60ページくらいかけていたので、スピーディだなと妙な感心をしてしまいました。


モアイ攻略の糸口を見つけるため、モアイ主催の就活イベントに潜入する菫介&報告を待つ田端(モアイの上の人間には顔が割れているかもしれないので)。水先案内人でモアイの幽霊部員であるポンちゃんと一緒に潜入します。このポンちゃんを演じたのは松本穂香さんです。今までいくつかの映画で拝見してきましたが、あまり喋らない役柄が多かったので、今回のあけすけに喋るポンちゃんは新鮮に感じました。これがまた絶妙に緩くて良くて。住野よるさんが絶賛したのも分かります。


就活イベントに潜入して、バレそうになりながらも田端と菫介は参加企業のリストをゲット。原作ではこの後ちょっと回想を挟んで、即バーベキューになるのですが、映画はここからが長かった











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












映画では秋好と田端がフリースクールに行く回想が入ります。そこには学校に馴染めない瑞希がいました。彼女を演じた森七菜さんがベースを弾くところ(あんまガチじゃないけど)が観られるのは映画版ならではの長所ですね。先生に連れ戻されそうになって、嫌々逃げ出したり、嗚咽を漏らしたりするのも良かった。ここで「このままでいいのか」という先生のセリフが、あからさまに田端に重ねられていて、この映画のテーマを浮き彫りにしていっていましたね。


さて、回想も終わりバーベキューのシーンです。田端と菫介はテン(モアイの幹部ね。演じた清水尋也さんのSっ気よ)が遊び人だという噂を聞きつけ、そのスキャンダルをネタにモアイを内側から崩そうとしていました。まあその企みは上手くはいかないんですが、ここでこの映画の肝である「大きな嘘」が発覚します。


秋好は生きていて、未だにモアイの代表を勤めていたのです


田端が言った秋好が死んだというのは、かつての理想に生きていた秋好は死んだという意味だったのです。田端は今の腐ったモアイを潰して、もう一度かつてのちゃんとしたモアイを取り戻そうとしていました。


そのために田端が取った方法と言うのがSNSでの炎上。モアイが企業に学生の情報を横流ししていたことを知った田端は、捨てアカでその事実をSNSに流します。フォロワーの数も知れている捨てアカで投稿したからって、あんなにいきなり火がつくかというツッコミは置いといて(暇な人間は大勢いる)、ネットニュースにまで取り上げられてモアイは炎上。炎を実際にバックに映す演出はちょっとどうかとは思いましたが、田端の目論見通りモアイは窮地に追い込まれます。




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と、ここからの展開は映画を観てほしいのですが、私はこの映画の大きなテーマとしては「なりたい自分になる」というものがあるように感じられました。それは瑞希が高卒認定試験を受けることや、パラパラ漫画、そして田端の存在しないIFの記憶に表れています。


私は本当は田端は人と関わりたかったのだと思います。田端のテーマは自分も相手も傷つけないようにするためでした。しかし、そのテーマを遵守するあまり、言いたいことを言えずに、結果的には自分も相手も傷ついてしまっています。「なりたい自分になる」ためには傷つく痛みも必要。ラストシーンの原作通りのあの最後のセリフは、田端がそれを受け入れた何よりの証拠だと私は思います。


なりたい自分になるために、一歩踏み出した田端の姿にきっと多くの人が勇気づけられることでしょう。自分を否定せず、なりたい自分になっていいんだという気づき。それを私はこの映画から受け取りました。観終わった後には実に清々しい気持ちになりましたね。


半分は。





















さて、この映画を観て私が感じたもう半分は驚きでした。というのもこの映画は原作とは全く異なっているからです。細かな相違点だけではありません。もはやベクトルが真逆になっているとも言っていいほどの変化でした。脚本を書いた方と同じ小説を読んだとは思えないほどです。


小説と映画の相違点は、それこそ枚挙に暇がありませんが、大きなポイントとしては以下の3つが挙げられると思います。


①秋好の生存をばらすタイミング
②フリースクールの描写の追加
③川原さん関連の描写の激減



まずは①からです。映画ではバーベキューのシーンで秋好の生存が明らかになっていますが、原作では違います。モアイのリーダーは小説の中ではしばらくはヒロというあだ名で呼ばれていて、その正体が秋好であると明らかになるのは、菫介が降りるシーンとなっています。随分早くばらすんだな、このまま興味惹き続けられるのかなと感じましたが、案の定それは上手くいっていないように感じました。映画から見る人への配慮なのでしょうが、もう少し引っ張れたんじゃないかとも感じてしまいます。


続いて②です。フリースクールや瑞希の描写は映画オリジナルのもので、原作では実は一文字もありません。別に小説をそのまま映画化しろと言っているわけではなく、改変も受け入れようとはしたのですが、わりと時間を使っているのに、このシーンでは話が一ミリも進まないんですよね。「このままでいいのか」という問いが示されはしますけど、それくらいですし。森七菜さんや光石研さんは良かったんですけど、もう少し短くても良かったんじゃないかなとは思いました。


そして、私が最大の問題だと感じているのが③です。このフリースクールの描写の増加のあおりを食らう形で、川原さんの出番が激減。いてもいなくてもいい存在になっていて、ここが個人的には一番しっくりこないポイントでした。というのも、『青くて痛くて脆い』において、川原さんはけっこうなキーパーソンなんですよ。




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それを語る前に、まずは川原さんの設定を確認しなければなりません。川原さんは田端と同じドラッグストアでバイトをしている大学一年生。モアイのわりと熱心な方の部員であり、ヤンキー女子大生(田端談)。小説では、主にモアイの内情を田端に知らせるという役割を担っています。映画では省かれましたけど、小説では、ドラッグストアでの描写もわりと多いです。この微妙な距離感好きだったんだけどな......。


いわばパイプ役の川原さんですが、彼女自身もなかなか刺さる言葉や芯を食ったセリフを連発。「距離感」「自分に酔える人間」「安全圏で笑える人間なんてゴミ」「空っぽ」などなど。特に終盤、田端と秋好が同じ「空っぽ」だと漏らしたのは痺れました。秋好と田端の共通性をこれ以上なく言い当てた言葉で、田端の行動にも大きな影響を与えていたので、映画にないのは少し勿体ない気もしました。


それに、川原さんの最大のポイントがモアイに居場所を見つけた人間であるということ。この事実が田端に自分の奪ったものを鋭利な痛さとともに突き付け、掻きむしるような恥と後悔をもたらしているわけですが、映画ではいかんせんこれが弱い。川原さんの立ち位置は瑞希に移管されていますが、瑞希はそんなに話に絡んでくるわけではないので......。


ラストの田端の衝動もちょっと薄くて、川原さん関連を大きくカットした弊害を感じます。川原さんのシーン、原作では映画の10倍くらいありますからね。夜送るシーン以外も入れてほしかったです。











この感想の最初に「私は住野よるさんが得意ではない」と書きました。それは住野さんが過剰なほどのモノローグと鋭いセリフで痛覚を刺激してくる作家さんだからです。私は住野さんの作品は『青くて痛くて脆い』と『よるのばけもの』くらいしか読んでいませんが、その2作を読んだ印象で言えば、住野さんは私たちを傷つけない作家さんだと感じています。その代わりに、元々あった癒えていない傷口に塩を塗りこんでくるような読み味があって。そっちの方が余計痛いなって感じてしまっています。


映画も私たちを傷つけることはありません。ただ、傷口には絆創膏を貼ってくれます。優しく処置をしてくれて、痛みを引かせる方へと向かわせます。それは、まるで痛みなんてなくてもいいというように。この映画には痛みがかなり減じられてしまっていて、そこには私の得意じゃない住野さんはいませんでした。何が「キミスイ」をぶっ壊すですか。この住野さんなら私は大いに得意ですよ。とても寂しく切ないことですけど。


この映画には痛みが原作ほど感じられず、「なりたい自分になる」といういわば自己啓発ムービーとなっていると私は感じました。まるでモアイがPRのために作った作中作のようです。まあ「なりたい自分になっていい」というのは優しいようでその実、無責任で、争いの原因を作る残酷さも持っているのですが。そう考えると、原作とはまた違った悪意と残酷さが透けて見えます。もしかしたら、優しい笑顔の裏の顔みたいなことがこの映画の狙いだったのかもしれないですね。




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以上で感想は終了となります。映画『青くて痛くて脆い』。原作を読んだ人と読んでいない人では、良くも悪くも印象が大きく異なる映画だと思います。個人的にはこれほどの改変は今まで観たことがなかったのでびっくりしました。ただ、全然悪い映画ではないので、興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


青くて痛くて脆い (角川文庫)
住野 よる
KADOKAWA
2020-06-12



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