Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

カテゴリ: その他



こんにちは。これです。

この度私は、11月22日(日)、東京流通センター第一展示場にて開催される第三十一回文学フリマ東京に参加いたします。

既刊4冊と新刊2冊の計6冊を頒布予定です。

よろしくお願いします!!




とはいっても、内容が分からないとなかなか足を運びづらいですよね。

そこで、今回は計50ページ、30000字以上の試し読みをご用意しました

4冊の冒頭を無料公開しています。

ぜひ気になる作品のページをクリックしてお読みください。








・とある作家と編集者の物語

【試し読み】柘榴と二本の電波塔



・どこにでもいるような兄弟の悲劇

【試し読み】なれるよ 




・一人の中学生の男の子の一年間

【試し読み】あの広い屋上に花束を




・冴えない男に訪れた転機

【試し読み】アディクト・イン・ザ・ダーク









いかがでしたでしょうか。なにか気になる作品はありましたでしょうか。

一つでも興味を持った作品があれば、ぜひ当日、ウー38『胡麻ドレッシングは裏切らない』へお越しください。私一人ですが、あなたのお越しをお待ちしております。

では、11月22日(日)に元気でお会いしましょう。

何卒よろしくお願いします。


Webカタログはこちら

ご来場の際は公式サイトの注意事項を読んでのご対応をお願いします。




この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。

こちらのページは11月22日(日)、第三十一回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『アディクト・イン・ザ・ダーク』の試し読みサイトとなっております。

日々を惰性的に過ごしていた冴えない男にとある転機が訪れるお話です。

今回は19p、およそ10000字分を無料公開いたします。

では、どうぞ。






~~~~~~~~~~~~~~~~~








 プロローグ、たった一人で夜にいる


 迷っていた。何がしたいのか。自分には何があるのか。ずっと不安だった。目に見えない恐怖がのしかかり、押し潰されそうだった。
 求めていた。不安から解放してくれる優しさを。心配のない世界に連れて行ってくれるヒーローを。何もかも忘れられて、新しく生まれ変わることのできる瞬間を。
 だから、今日も俺はクスリに手を伸ばす。アルミホイルにクスリを開けて、下からライターで炙る。プラスチックのストローを通って、煙が俺の体を満たす。口の中が生暖かい。煙は細胞に浸透していき、意識に棘が生えた。脳のひだが、意志を持って動き出すかのようだ。
 八時間の仕事を終えた体に、活力が蘇ってくる。疲労は彼方に吹き飛んでいく。思考はどろどろとした蛹だ。だが、クスリによって固められ、やがて蛹を抜け出し、蝶になり羽ばたいていく。俺は、空を自由に飛んでいる。くるりと宙返りをしてみせる。誰も称賛する者はいないから、自分で自分を褒め称えよう。俺は窓に映った自分に向けて、手を開いておどけてみせた。鏡の中の俺は、口を開けて笑っている。
 解放は続く。ベッドに上り、ジャンプをした。布団は何も跳ね返さず、また受け入れることもしない。しかし、俺にはそれで十分だった。俺には手の届かない、一般的な幸福を掴めるという確信が湧いてくる。俺は飛び続けた。木製のベッドは、五五キログラムの妄動にも耐えられるくらい頑丈だった。
 キッチンで鼻歌交じりに皿を洗う。水道水の冷たさも、俺の目を覚ますまでには至らない。踵でリズムを刻みながら、立つ泡にほだされていく。頭では一種のショーが開演していた。宙を舞う空中ブランコ。玉乗りに興じるクラウン。特等席に座る俺は、テント中に聞こえるような大きな拍手を送っている。腰を捻りながら皿を拭くと、湿った布巾の感触が、羊毛のように心地よかった。
 することもなくなり、俺はベッドに入り、目を瞑った。だが、脳が興奮して眠ることはできないし、そもそも眠る気もなかった。俺はクスリがしたくて生きている。この高揚感を味わえるなら、本当に誰にでもできるつまらない仕事の日々も耐えられる。クスリは、まったく俺を解放してくれるパートナーで、人生の指針でもあった。
 冴えた頭で俺は思う。明後日もまたクスリをやろうと。このまま眠って起きたら日付が飛んで、明後日にワープしていればいい。クスリを使っている時間だけが、俺が俺でいられるかけがえのない時間だった。他人が俺を慰めることはない。俺を慰めてくれるのはクスリと、それに伴う自慰行為だけだ。
 そういえば、今日はまだ抜いていなかった。俺は起き上がり、枕元のティッシュ箱から、ティッシュペーパーを五枚抜き取る。ふと目をやると、灰色のジャージに、ありきたりな突起が芽生えていた。欲求が放たれる瞬間を、待望する俺がいた。



 神様、私にお与えください。
 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
 変えられるものは変えてゆく勇気を、
 そして二つのものを見分ける賢さを。





 一、くだらない存在


 視界の端を景色が滑っていく。灰色の住宅街。空気は一か月前までの暑さを失っていて、手に当たる風が薄気味悪いくらい涼しい。ペダルを漕がなくても自転車は下り坂を進む。途中にある病院では紅葉が色づき、煉瓦の床をより赤く染めていた。心動かされることはない。どうせ掃いて捨てられるだけの存在だ。スニーカーが、ローファーが、革靴が葉を踏みつけていく。一枚の葉が擦られて、二つに割れている。
 渡ろうとしたところで、踏切が鳴り、黄色と黒のバーが下りた。警告音が鳴っているのに電車はなかなか到着しない。待ちかねた俺は自転車から降りて、スマートフォンを手に取る。開いたSNSでは殺人未遂事件のニュースが、トレンドに上っていた。まるで毎朝浴びるシャワーのように、もう何も感じなくなってしまっている。一瞬恐怖するが、それだけだ。
 俺に殺そうとまで執着を抱く人間なんているはずもない。俺は殺されない。喜ばしいことのはずなのに、胸の奥で何かが落ちる音がした。見上げた空には雲一つなく、気象予報士が言っていた「爽やかな秋晴れ」という言葉がそのまま当てはまっていた。
 踏切が上がり、車や歩行者が動き出す。ペダルは漕ぎだしの一歩目が一番重い。それに精神的な負担ものしかかる。会社の人間が全員俺より給料が低かったならば、まだ仕事へのやる気も出るというのに。言葉に出せない絵空事を浮かべながら、俺は右足に力を入れる。自転車は鈍重に動き出した。

 タイムカードを切って席に着く。机の上のクリアファイルには、今日も何も入っていない。ミスを指摘しても無駄、気に掛ける価値もないと思われているのだろうか。隣席の上野秀嗣(うえのひでつぐ)が「昨日の欠勤、ありがとうございました」と話しかけてくる。何がありがたいのかも分からず、ただ、プログラムされた愛想笑いを作って返す。脳裏には朝の踏切の音が流れている。
 仕事はデータの入力。適当に入力して問題になると面倒なので、一応は正確に入力することを心掛ける。心掛けるふりをする。頭の中では、好きな曲をプレイリスト化してずっと流している。休憩もこまめに取る。
 本音では、一人で仕事をしたいのだが、今以上にだらけるのは目に見えている。職場という場は侮れない。右隣にも左隣にも人がいる。人間は、「人の間」と書く。人と人との間でスーツを着ている俺は、辛うじて人間でいられている。
 うだつの上がらない働きぶりのまま、一二時になった。一時間の昼休憩。昼食は奥の休憩スペースで取りたい人はそこで、自席で取りたい人は自席で取る決まりになっている。休憩スペースに来る面々は決まっていて、席も目に見えないテープで固定されていた。
 俺は今日も休憩スペースに向かう。人類最大の発明である言語を介して、コミュニケーションを取るのが人間だ。人間でいたいという切実なプライドが、俺にはまだ残っていた。
 椅子に座ったはいいが、自分から話しかけることはしない。何を話しかけていいか判然としない。俺が興味あるのはサッカーと映画ぐらいで、話をしても特に反応はなく、すぐに別の話に置き換えられてしまう。それに、他人の怒りのツボなんてどこにあるか知れたものではない。俺が発した一言が相手の逆鱗に触れ、次の瞬間には拳が飛んできている可能性だってあるのだ。
 他人は、いつ噛みついてくるかも分からない野犬に似ている。
 ただ、テーブルの住民はそんなことを気にも掛けない様子で、世間話に花を咲かせていた。他人への無意識の信頼に、羨ましくて反吐が出る。俺も話に入ろうとはする。しかし、その言葉は適切かということを考え続けているうちに、話題はあっという間にすり替わっている。
 毎日、自分はどうしようもなく頭が悪いのだと思い知らされる。話している人たちは火花が伝播するように次々と言葉が浮かんでくるのだろう。健全な人間のあり方だ。俺とは違って。
 俺は会話に参加できず、ただただスマートフォンでSNSを見ている。お前らうるせえんだよと心の中で毒づきながら。喋らない俺の方が優れている人間だと、二束三文の言い訳で自分を慰める。それでも、喋れないことを恥じる自分が勝つ。
 人の話し声が嫌いで、心臓に負担がかかるから喋らないって、なんだそれ。今までの人生で苦労も我慢も努力もしたことがないから、お前は子供のままなんだよ。我慢する努力をしろ。社会性を培え。他人も自分も否定し、口にしている菓子パンの味だけが、唯一肯定できるものだった。
 何も喋ることができず、俺は休憩スペースを後にする。自席に戻ってイヤフォンをつけて、机に突っ伏す。声が聞こえないためには、それなりのボリュームで音楽を流すしかなく、眠ることができない。曲が終わってから次の曲が流れるまでの、空白の時間に耳から脳を刺すようなノイズに何度も苛立つ。中途半端に眠い頭で、イヤフォンを外すとき、心の底から黙れと嘆願する。俺が我慢すればいいだけだから、口にすることはないが。

 部屋に帰ると、床に散乱した服が俺を迎えた。縮んだジーンズに、チェックのシャツに、穴の開いた靴下。拾い集めることもなく、炬燵机に向かう。腰を下ろすと、斜めになったテレビに自分の顔が映って、「死ねばいいのに」と呟いた。
 帰りに寄ったコンビニエンスストアの袋から、三五〇ミリリットルのビール缶と、柿の種を取り出す。テレビをつけて、自分の姿を消去し、代わりに昨日録画したバラエティ番組を再生する。落とし穴に落ちる芸人を見て、俺は声高に笑う。会社では表出しないような声と笑顔で、手を叩いて笑う。
 ビールを体に流し込む。喉が冷たくなった後に、頭が温かくなってきて、安堵を得る。今日の失敗も、髪の毛の先から溶け出していくようだ。落下する柿の種を口で受け止めると、口の中は塩気と少しの辛味で埋め尽くされ、ビールがまた欲しくなる。ビールの刺すような苦みが、日に日に心地よくなっていくのを感じる。
 バラエティ番組の大げさな演出に、俺はヤラセだと責める。誰にも届かないのに責め続ける。
 番組が終わると、テレビのスイッチは勝手に切れ、また醜い自分の顔が現れた。俺はその肖像に向かって中指を立てる。親指を下にして、首の前で横断させたりもする。テレビの中の俺はキョトンとしていて、殴りたくなる。
 逃げるようにテレビから顔を背け、スマートフォンでSNSを開く。フォローしている言語学者が、外交問題について鋭い私見を述べていた。俺はそれをシェアし、しばらくタイムラインを眺める。宙ぶらりんになった自己顕示欲たちが、タイムラインの海を渡っていた。
 見上げると白熱灯が、ジーッという音を立てながら瞬いている。電球の中で羽虫が死んでいて、いくつか黒点が見受けられた。柔らかな意志を持った光に照らされると、自分の馬鹿らしさが浮き彫りになる。
 毎日会社と部屋の往復。仕事ができるわけでもなく、同僚と良好な関係を築けているわけでもない。帰ってからすることといえば、酒を飲んでテレビを見て、SNSを眺め、コンビニ弁当を食べて、寝る前に自慰をするだけ。幼稚園児のままごとにも劣る生活。無用。無価値。無目的。無いものは有るけれど、有るものは無い。ああくだらない。ひっくり返るほどの低次元だ。俺は、安易に失望する。
 コンビニで買った新発売の豚丼は、あまり美味しくなかった。弁当箱と箸を分別することなく、一緒に燃えるゴミの袋に入れる。目につかないように押し入れの中にしまい、ビールの最後の一口を飲み干す。今までは欠けたパーツを埋めてくれていたのに、最後の一口を飲み終えるとまた別のパーツが欠けてしまう。きっと明日も飲んで、生産性のない搾りかすみたいな日々を繰り返していくのだろう。
 解放されたくて、俺は窓を開けてベランダに出る。空には灰色の雲がまき散らされていて、星も月も姿を見せない。下を見ると、枝だけになった枯れ木がしゃがれていた。この三階のベランダから飛び降りたら、どうなるだろうかと考える。上手くいって死ぬことができればいいが、失敗したら残るのは苦痛と後遺症だけだ。現状を変える勇気もなければ、死ぬ勇気もない。自分のあまりの臆病さに嫌気が差す。
 結局傷つくのが嫌なだけなのだ。傷つくことを避けてきた結果が、この有様だというのに。
 黒と灰色の境目が曖昧になった空を見上げる。理由もなく肯定してくれる星の光も月の光もなくて、自分はこの世に不要な存在だと思い知る。無愛想で、特別頭が冴えるわけでも、特殊な才能があるわけでもない俺を誰が必要とするのだろうか。今の俺は、ただの五五キログラムの肉塊だ。
 暗澹とした夜は不適切な妄想を駆り立てる。このままでは本当に息絶えてしまう。生きるためには何か別のことを考えなければいけない。少し考えて、コンビニで弁当と一緒に卑猥な漫画雑誌を買ったことを思い出す。今夜はそれで一発抜こう。生きるために命の源泉を無駄にするなんて最低の皮肉だなと、俺は一人でにやつく。窓を閉めた途端に小雨が降りだしてきたのが、ベランダのコンクリートに小さな斑点が現れたことで分かった。
 雨音を背に、俺は冷蔵庫の横にある棚へと向かい、二段目の引き出しを開けた。自慰では得られない、生きているという実感のために。

「弓木(ゆみき)君って、いつもコンビニのパンを食べてるよね。飽きないの?」
 今まで話しかけられたことのない相手に、名前を呼びかけられたことに驚き、顔を上げた。横に立っていたのは、南渕(なぶち)先輩だった。六つ上で、短く切り揃えられた髪に、端正に整えられた眉毛が引き締まった印象を与える。
「そうですね。でも安いですし、おにぎりよりはパンの方が腹持ちもいい気がして、毎日食べてます」
 声が上ずる。南渕先輩は仕事もでき、愛想もよく、同僚との会話も何の苦労もなしにこなせてしまう。竹を割ったような性格で、俺とは正反対のような人間だ。世の中に必要とされる人間とは、きっと南渕先輩のような人を指すのだろう。
「そっか、でもちゃんと栄養は取らないと駄目だよ。最近、弓木君調子良くなさそうに見えるけど」
 南渕先輩がパイプ椅子を引いて座る。机の上に水玉のクロスに包まれた長方形の物体が置かれた。左手の薬指にはシルバーの指輪が、ぴったりと収まっている。
「そう見えます?」
「見えるよ。だって最近の弓木君って、いつも欠伸ばっかりしているでしょ。それに朝の挨拶もなんだか元気ないし。背筋も去年はそんなに曲がってなかったよね。ちゃんと夜眠れてる?」
「あの、最近は一時ぐらいに寝て、八時ぐらいに起きてるんですけど、四時とか五時くらいにはいったん目が覚めますね。寝つきもそんなに良くないかもしれないです」
「やっぱりね。もっと寝なきゃ。弓木君、丁寧に仕事するのはいいと思うけど、最近はペースがあからさまに落ちているから大丈夫かなと思って。体調管理も仕事のうちだから、そこだけは気をつけないとね」
 ありきたりなアドバイスが嬉しかった。社内でも一二を争うほどに仕事のできる南渕先輩は、特に仕事ができるわけでもない俺のことなんてどうでもよく、むしろ目障りだろうと感じていた。しかし、それは違った。南渕先輩の「仕事ができる」には、周囲への気配りも含まれているのだと、改めて気づかされる。
 南渕先輩は結ばれた水玉のクロスを解く。白い二層の弁当箱が現れた。蓋を開けると、弁当箱の中にはバランスよく食材が配置されていた。唐揚げ、ポテトサラダ、きんぴらごぼう、卵焼き。幸福な日常が思い浮かぶようだ。彩りが目に眩しい。
「南渕先輩、それって」
「ああ、これ。弓木君が思っている通り、ウチの奥さんの手作りだよ」
 南渕先輩が弁当箱の二段目の蓋を開ける。胡麻塩が振りかけられたご飯の中央に、梅干しが載っていた。
「美味しそうですね」
「ありがとう。せっかくだから弓木君も一つ食べてみる? 卵焼きあげる」
 そう言うと、南渕先輩は弁当箱の蓋に、淡い黄色の卵焼きを置いた。箸も爪楊枝もないので、親指と人差し指で、卵焼きを挟んで持ち上げる。口に入れると、包み込むようなほのかな甘さがあった。広い草原のような、しばらく味わったことのなかった感触だった。
 昼食を摂っている途中、摂り終わった後も昼休憩が終わるまで、南渕先輩と二人で話した。休日の過ごし方だったり、南渕先輩が飼っているシーズーの話だったり、本当に他愛のない話をした。普段だったら三分も持たずに、席を離れたくなるのだけれど、南渕先輩の声はテノール歌手のように低く、簡単に離れることのできない魅力があった。
 休憩が終わる五分前になって、南渕先輩が席に戻る。その後に続いて俺も席に戻った。ふわふわとした夢心地が、自席についてもまだ覚めずに、頭の中を漂流していた。

 仕事が終わって会社の外に出てみると、雨が降っていた。雲は墨を溶かしたように灰色で、糸のような細い雨が次第に強さを増す。すぐに大雨になり、向かいの家のトタン屋根に打ち付けられる雨音がやかましい。にわかに風も吹き始めている。乗ってきた自転車の籠に雨合羽はなく、鞄に常備している折り畳みの傘では、横から打ち付ける雨を防ぐことはできないだろう。
 途方に暮れて立ち尽くす。時間が経てば少しは雨も弱まるだろうと踵を返して社内に戻ろうとすると、南渕先輩が近づいてくるのが見えた。南渕先輩は車のキーチェンを人差し指に差して、軽快に回している。
「降ってるな。今日は午後の降水確率二〇パーセントだって言ってたのにな。それがこんな豪雨だよ。やっぱり天気予報は信じるもんじゃないな」
「南渕先輩は傘持ってきてますか」
「俺? 持ってきてないよ。俺って傘と日焼け止めは持たない主義だから」
 南渕先輩が右手で顔を掻く。日焼けした手の下に、真新しい肌の手首が覗いた。
「弓木君は会社までどうやって来てるんだっけ」
「自転車ですね。片道一〇分くらいです」
「そっか。じゃあこの雨の中はきついね」
 雨は止むことなくさらに勢いを増す。目の前が一瞬光り、十秒後に背後から雷鳴が聞こえた。南渕先輩は尻尾を踏まれた猫みたいに一瞬驚いた表情を見せる。そして、俺の方を見て笑う。俺も釣られて笑う。
「弓木君、家まで送っていってあげるよ」
「え、でも……」
「でも、じゃない。ほら、ついてきて」
 そう言うと、南渕先輩は雨に向かって勢いよく走りだした。困惑する暇もなく、俺も南渕先輩の後を追うようにして走り出した。十月の雨は、体温を奪うのに十分な冷たさだ。それでも、それに抗うようにメタリックシルバーの南渕先輩の車へと向かって走った。

 南渕先輩に部屋の住所を教えて、車は県道を走っていく。途中で国道にぶつかり、赤信号に止まる。スクランブル交差点を、我が物顔で行き交う人々。一人一人の顔が、わりによく見える。
「弓木君ってさ、いつも家に帰った後、何してんの?」
 エンジンの音だけが響く車内。南渕先輩の唐突な質問が刺さる。
「そうですね……。コンビニでご飯買って食べたり、テレビ見たり動画見たりしてます」
「また、コンビニなんだ」
「また」という言葉が、責めるように聞こえる。また、コンビニ。また、テレビ。また、自慰。また、生きているか死んでいるかも分からない時間を過ごすだろう。このまま家に帰ったならば。
「これから家に来られる?」
 南渕先輩のその言葉は突拍子もなく、全く予想していなかったので、俺はしどろもどろになった。歩行者信号は点滅を始めて、中年が駆け足で車の前を横切っていく。
「は、はい……。時間的には大丈夫だと思います」
 口から出た言葉に南渕先輩は素早く反応した。振り向いて、ニコッと笑ってみせる。その笑顔は和やかだったけれど、既製品のようでもあった。冬に向かっている今の季節よりも温度のないその表情に、心臓が縮こまり血の気が引くような思いが、ほんの一瞬した。
 車が左折する。俺の部屋に行くには右折しなければならないので、どうやら本当に南渕先輩の家に向かっているらしい。俺なんかよりもずっと価値のある家に向かって、車は雨の中を走っていく。コンソールに置かれたコーヒー缶の飲み口に、煙草の灰が付着していた。





 二、さよなら空白地帯


 オレンジ色の照明がテーブルを照らす。ダイニングはさっぱりしていて、余計なものがない。フラットな椅子に座る俺の前には、ペペロンチーノが置かれていた。南渕先輩の妻の小絵(さえ)さんは「急に言われても、簡単なものしか作れないよ」と言っていたが、その言葉通りのシンプルな夕食だった。
  南渕先輩と小絵さんは、駅前にできたカフェの話題で談笑している。小絵さんの薬指に銀色の指輪が光る。小絵さんは背がスラリと伸びていて姿勢もよく、顔立ちも雑誌のモデルのように端麗だ。まさに完璧な美男美女といった組み合わせ。人間はやはり収まるところに収まるのだ。
「弓木さん、どうしたんですか。どうぞ召しあがってください」
 呆然としているところに、視線に気づいた小絵さんが声をかけてきて、現実に引き戻される。「あっ、はい、いただきます」と言って口に運んだペペロンチーノは、絶妙な塩加減で、パスタも柔らかすぎず、鷹の爪の辛さがいいアクセントになっていた。すぐに二口目、三口目と食べ進める。
「とても美味しいです。レストランで出されていてもおかしくないくらいです」
「そうだろ。小絵ちゃんの作る料理はプロにも負けてないからな。俺はこれを毎日食えるんだぜ。どうだ。羨ましいだろ」
 小絵さんは「ちょっと、トモくん言いすぎだってば」と、南渕先輩の肩を軽く叩いていた。満更でもない様子だ。俺は、そんな二人を見て「羨ましいです」とだけ返す。自分とは違う別世界の住人のように感じられて、嫉妬も敗北感も一切出てこなかった。
「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」
「はい、そうします」

 小絵さんが洗い物を終え、「じゃあ私お風呂入ってくる」と言って、バスルームに向かっていったのは、二十一時を過ぎてのことだった。一人になった部屋で俺はスマホを見ながら、妄想を働かせる。小絵さんがシャワーを浴びるところや、湯船に浸かるところを想像すると、気分が高揚した。
「弓木君、今エロいこと考えてたでしょ」
 気づいたら横に立っていた南渕先輩が茶化す。「そ、そんなことないですよ」と慌てて誤魔化すが、南渕先輩は笑って看過し、「まぁ小絵ちゃん可愛いからな」と咎める様子もなく流してくれた。
「そうだ、ちょっと来てくれない?」
 緩まりかけた心が一気にまた引き締められ、警戒を取り戻す。何か良からぬことをされるのではないか。そう直感したが、断るに足る理由が見つからなかったので、言われた通りにソファから立ち上がり、南渕先輩についていった。
 リビングから出て、玄関へ向かう廊下の途中、左側にあった部屋に、南渕先輩は入る。きちんと整頓されていたリビングとは違い、脱ぎ捨てられたジャージが床に転がっている。点けられた照明も部屋中に行き渡ることはない。
 南渕先輩は、正面にある棚の一段目を開けて、細長いガラスケースを手に取った。筒状になっていて、銀色の蓋が目を引くそれは、俺が初めて見る物体だった。南渕先輩曰くアトマイザーといって、香水を入れるために使うらしい。俺には、縁のない代物である。
 さらに、南渕先輩は同じ段からストローを二本取り出した。そのうち一本を俺に向けて、投げかける。慌ててキャッチすると、ストローはプラスチック製ではなく、しっかりとした質感を持ったガラスのストローだった。ひんやりと冷たい。
 次に南渕先輩が開けた二段目の引き出しには、クリップやシールなどがごちゃ混ぜになっていた。その中から南渕先輩が取り出したのはライターだった。コンビニで買うような百円ライターだ。ポケットにしまう仕草を含めて、この日、俺は一番南渕先輩を身近に感じた。
 最後に取り出されたのは、小さな閉じ口付きのポリ袋。中には真白の粉末が入っている。
「南渕先輩。それって……」
「ああこれ。憂さ晴らしだよ」
 そう言うと、南渕先輩は粉末をアトマイザーに注いだ。粉末はきめ細かく、まるで白い砂浜のようだった。ポケットから百円ライターを取り出し、点火スイッチに親指が当たる。カチッという音とともに、オレンジの火が灯る。南渕先輩はそれをアトマイザーの下に持っていった。アトマイザーの底で粉末がじっと溶け始めていた。
 南渕先輩はガラスのストローを口にくわえ、頬と喉を動かす。気化された煙は透明だったが、ストローの先端に集まっていくことが、俺には何となくだが分かった。ガラスのストローを高揚が上っていく度に、南渕先輩の顔面は喜色が強まっていく。誘拐犯が人質に銃を突きつけるような、実に不敵な笑みだった。
「南渕先輩、何やってるんですか」
「だから、憂さ晴らしだって。気晴らし、皴伸ばし、レクリエーション。エブリシンガナビーオーライだよ」
「なんで英語なんですか。それに、こんなことやってたらダメなんじゃ」
「じゃあ、弓木君は会社でストレス感じないの? この仕事上手くいかねぇなーとか、あいつうぜぇなーとか。これやれば、そんなこと忘れられるよ。フィールズライクヘブンだから、これ」
「でも、奥さんにバレたら……」
「大丈夫大丈夫。小絵もやってるから。あいつも風呂から上がった後、いつもやってるから。でも、今日は小絵に先んじて、弓木君にこうやって勧めてるわけじゃない。ね、やるよね?」
 俺は、ガラスのストローを握り締める。いくら力を込めても割れないくらいには頑丈だ。
「で、でも……」
「やるよね? なぁ弓木?」
 先程まで笑っていた南渕先輩の顔が急に強張り、眉間に皴が寄る。俺たちの距離はそれほど近くなかったが、南渕先輩が眼前にいるように感じられた。
 「はい、やります」と伝える。南渕先輩は一転して上機嫌に戻り、机に向かっていて、また新しいアトマイザーとポリ袋を取り出した。アトマイザーは三つあり、一つには「サエ」と書かれた白いシールが貼られていた。
 新たに粉末がアトマイザーに開けられる。南渕先輩が下からライターを当てると、粉末は再び泡立っていく。南渕先輩の真似をして、俺もガラスのストローを内容物に向けた。恍惚する南渕先輩の横で、俺は始めの方は息を止めて、煙を吸わないようにしていた。だが、頭の片隅から好奇心は広がりを見せていく。その快感を知りたいという欲求は、とめどなく溢れてくる。気づけば口を開けて、煙を吸い込んでしまっていた。
 学生のときの薬物防止教育で聞いたことがある。薬物を使用すると脳がパッと晴れて、自分には何でもできると、万能感が湧いてくると。俺は吸うときに、明日の仕事のことも、やかましい同僚のことも忘れることを期待した。
 だが、現実は期待を越えてはくれなかった。頭の奥が少しツンとする感覚はしたが、全く大したことはない。気分も少しは高揚したが、罪悪感の方がまだ勝っている。正直こんなものかという感じだ。何が、エブリシングガナビーオーライだ。
「どう、弓木君? 気持ちいい?」
 そう聞いてくる南渕先輩の声は弾んでいる。軽妙な声色はシャボン玉のように脆い。だから、壊さないようにするためには、「はい、最高です」と言う他ない。
 本意に反していたとしても、すぐに見透かされるようなぎこちない笑顔でも、しゃにむに演じるしかない。今の俺はちゃんと笑えているのだろうか。それでも、南渕先輩は満足気に頷いたので、何とかこの場はやり過ごせたらしかった。
「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」
 あやふやに頷く。何もなくなったアトマイザーの底が、一瞬照明を反射して光り、今日は浴びることができなかった日光を思い起こさせた。 






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以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。

もし気になったのであれば、ウー38『胡麻ドレッシングは裏切らない』までお越しいただけると嬉しいです。

A5判、196p。頒布価格は800円となっております。

何卒よろしくお願いします。



この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。

こちらのページは11月22日(日)、第三十一回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『あの広い屋上に花束を』の試し読みサイトとなっております。

一人の中学生の男の子の一年間のお話です。今回は12p、およそ6500字分を無料公開いたします。

では、どうぞ。






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 今日、僕は飛び降りる。

 
 世界は朝の空気をまとって、僕のことなんか知らない顔をして、また変わり映えのしない一日を始めている。鍵を回してドアを開ける。東からの太陽が眩しい。頬を撫でる風は、気持ちが悪いくらいに暖かくて、ひりひりする。辺りにはこの学校よりも大きな建物はない。遠くに見えるのは海岸線。波は穏やかに砂浜を濡らす。
 ああ、僕は世界で一番高いところにいるのだ。手を伸ばせば、空の果てまで届いてしまいそうだ。
 ふらふらとフェンスに近づいて、菱形の内部を見下ろす。黒の制服に紺の通学カバンをぶら下げた人形たち。石を持ち上げたらいる性質の悪い虫のように、うねうね歩いている。たまたま同じ年に近くの場所で生まれたからといって、どうして一つの場所に閉じ込められて、一緒の時間を過ごさなければならないのか、彼らは疑問には思わないのだろうか。
 ちょうど真ん中あたりで女子の三人組が騒いでいる。どうやら昨日のドラマに出ていた俳優がかっこよかったという話をしているようだ。手を叩いて笑っている。悩みがなさそうでとても羨ましい。
 その横では男子が一人で歩いている。耳につけたイヤホンが結界となって、彼に近づく者はいない。好きな音楽でも聴いているのだろうか。手に持っている音楽プレイヤーは、二世代前のものだ。僕は最新型を持っているから分かる。昨日、捨てたけれど。
 僕は通りがかる人形たちを、何も言わずに眺めている。僕に気づく生徒は現れない。
 上から見ても分かる長身の生徒が、校門に近づいてくるのを、僕は見つけた。ヘアーワックスで固められた髪型も、ここから見ると、とてもチンケなものに映る。
 いた。アイツだ。僕がこれからすることなんて、アイツが僕にしてきたことに比べたら、ほんのちっぽけなものだ。この一年と少しが僕にとってどれだけ長かったのかをアイツは知らない。だから思い知らせるのだ。アイツが僕から奪ったもの、その大きさを。
 小さな僕のささいな抵抗。
 最後に残った選択肢。


      

 
 あの日も今日みたいに、気持ちよく晴れた日だった。木々はピンクの花を、けたたましいほどに咲かせていて、散った花びらが、無個性な校庭に彩りを加える。白い猫が陽だまりで毛並みを整える。僕たちの入学式の日だった。
 ピンと糊の張られた初々しい制服たちが、体育館に集められた。校長先生が何を話していたのかは覚えていない。覚えていることと言えば、ぼうぼうと音を立てるストーブが、小学校で使っていたものと同じであることに、親しみを持ったことぐらいだ。
 廊下に張られたクラス分けの紙を、黒色たちを必死にかき分けて確認し、ドアを開けて教室に入る。初めて開ける中学校のドアは、心なしか重かったけれど、振り返れば、このときのドアが一番軽かったような気がする。
 一瞬、僕に視線が集まった。教室には僕の知り合いはいなかった。二人いた小学校からの友達とは、別々のクラスになってしまったらしい。既にクラスには複数のグループができていた。言葉の知らない国に、一人で迷い込んでしまったような心細さを感じた。
 席に座って、カバンを置く。喋る生徒たちを見ていると、自分が価値のないもののように思えてくるので、下を向いて過ごした。おしゃべりは壊れたラジオみたいに止まない。
 先生が入ってきて一声かけると、教室は一気に静まり返った。初めて見る中学校の先生は、僕が想像していたよりもずっと若かった。スーツ姿はくたびれていなかったし、靴のかかとも擦り減ってはい。それは威厳がないとも言えるが、親しみやすいとも言え、僕には好ましかった。生徒が静まったのを確認すると、先生は「入学おめでとう」と言い、黒板に名前を書いた。「高橋」というごくありふれた名前を。
 高橋先生がぎこちない挨拶をした後には、こういう場では必ずと言っていいほど起こる恐怖のイベントが始まった。自己紹介だ。僕は自己紹介にあまりいい思い出がない。一人の人間に集められる何十人もの視線。たった三十秒に満たない時間での振る舞いで、この先の学校生活が決められてしまう。三年間の中で一番重要な三十秒だ。そう考えると失敗はできない。
 最初の生徒が大きな声で「イェーイ!」と叫んだ。そのままテレビでよく見る芸人の物真似をし、勢いだけで自己紹介を続けている。ウケなければ三年間を棒に振る可能性だってあるのに、大した度胸だ。
 そして、彼はウケた。教室の中の緊張の糸が、彼の勢いというハサミで断ち切られたようた。先生も、僕の斜め前の生徒も笑っている。教室全体が和やかなムードに包まれる中で、僕だけが拳をぎゅっと握りしめていた。
 和気あいあいとした雰囲気で続けられる自己紹介。だけれど、自分を良く見せることは誰も忘れていない。どれだけ自分を愛想よく見せられるか、ゲームをしているみたいだ。一人、また一人と立って、話しては座っていく。
 自分の番が迫ってくるなかで、心臓が激しく脈打つのを僕は感じた。それは期待ではなく焦燥だった。ここが勝負どころだ。何か面白いことを言わなければ。失敗したらどうしよう。様々な思いが頭の中を駆け巡る。かりそめのクラスメイトが話していることなんて、まるで聞こえてこない。
 目の前が滲んできて、そのことを悟られないように、僕はうつむく。震える。小刻みに。
 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
  僕の前に座る前の生徒の自己紹介が終わった。拍手は形式的なもので、乾ききっている。拍手が止む。僕は組んだ手をもう一度ぎゅっと握り、立ち上がった。僕に視線が集まっている。それは疑念ではなく、確信だった。
「第一小学校から来ました××××です。よろしくお願いします」
 口から出たのはそれだけだった。精一杯大きい声を出したつもりだったけれど、震えていた声はミシン糸のように、か細かった。皆入りたい部活とか、呼んでほしいあだ名などをアピールしていたけれど、僕にそんな余裕はなかった。どこからか、「え、それだけ?」という声が聞こえる。とびきり軽い笑い声も。
  自分が失敗したと、一息で分かった。何の印象も残せていない。きっとこれから僕は、いるかいないか分からないような、あいまいな存在として一年を過ごすのだろう。他の人が誰もやりたがらない係を押し付けられるかもしれない。誰にも感謝されることなく、淡々と係の仕事をこなす姿は、想像しただけで嫌気が差す。
 妄想は止まらない。修学旅行のグループ分けで、余り者になったらどうしよう。給食も一人で食べることになりそうだ。授業中に回ってくるメモも、僕は人から人に回すだけで、何か書くことを許されることはないだろう。
 そう考えることができたのは、僕の後ろの生徒がなかなか立ち上がらないからだった。振り返ると、眼鏡を掛けたその子は、机の木目を見つめていた。唇が微かに揺れている。
「野本、おい野本」
 中学一年生にはなかなか出せないであろう低い声が、教室に響く。僕を含めたいくつもの視線が彼に刺さるのを感じた。彼は慌てて立ち上がった。勢いで、椅子が後ろに倒れた。
「あ……あああああ……野本優弥です。だ、だだ第三小学校から来ました。よろしくお願いしま……」
 声が震えていてみっともなかった。触れたらすぐに壊れてしまいそうな、脆い声だった。小さすぎて反対側の人には、聞こえてすらいなかったかもしれない。椅子を直して慌てて座る彼の姿に、あわれみを感じた生徒も多いだろう。
 表情、声の大きさ、内容、どれをとってもまさしく失敗だった。野本君は目から溢れてくるものを、必死で堪えていた。ここで泣いてしまったら、もう取り返しがつかなくなることが、彼にも分かっていたのだろう。
 彼を見て、僕が感じたのは安心だった。なんだ、僕よりみっともない子がいるじゃないか。僕の悪印象は、野本君の悪印象に上書きされた。これで、僕を気にとめる子はいないだろう。寂しい気もしたが、からかわれるよりはよっぽどマシだ。彼がいてよかったと、心の底から安堵した。
 自己紹介は続く。さすがに二〇人を過ぎた頃には、ぼくはすっかり飽きてしまっていた。聞くふりをして、窓の外を眺める。窓から眺める木々の花々は、僕を嘲笑うみたいに、鮮明に咲いていた。底抜けの無神経さで。
 結局、その日は僕に話しかけてくる子は、いなかった。もちろん野本君にも。校則で禁止されているスマートフォンを何人もが持ってきていて、楽しそうに画面を見せあっている。「何してるの?」なんて聞く勇気なんて、あんなつまらない自己紹介をした人間にあるはずもない。僕はあまりに腰抜けだ。
 高橋先生の話が終わって、生徒たちが礼をすると、野本君は誰よりも早く教室を後にした。あまりの早さに、教室が一時騒然としたほどだ。彼は良からぬ形で注目を浴びてしまったのだ。少し待って、他の生徒に紛れながら帰っていればよかったものを。
 事実、僕はそうした。一〇人ほど教室から出たところで、さりげなく帰る。存在を消したかった。靴をさっさと履き替えて、家路を急ぐ。
 校舎からすぐ出たところに人だかりができていた。隙間から、白い猫が地面に寝転んでいるのが見えた。ここで、猫を見ていくのが、自然な反応だったと思ったけれど、僕は脇目も振らず真っすぐ歩き出した。猫が好きだと思われたくはなかった。
 落とした肩に、薄いピンク色の欠片が優しく乗ってきたが、僕はそれを右手で振り払う。欠片は力なく地面に落ちていった。


 
 ニュース番組が流れるテレビ。六時半を過ぎて、各地で始業式が行われたという、清涼剤のようなニュースが紹介されている。取材を受けていたのは、僕が去年まで通っていた小学校だった。見飽きた体育館で、見慣れない校長先生が話している。取材を受けた小学一年生の女の子は「これから学校が楽しみ?」という質問に「うん!」と、満面の笑みで答えていた。乳歯が光って、眩しい。
「ただいまー」
「お帰りなさい。お父さん、今日は早いじゃない」
「あれ、言ってなかったっけ。今日ノー残業デーだって。なんか働き方改革?で、急きょなったみたいだよ」
「そうなの。もう少ししたらご飯作り始めるから、ちょっと待っててね」
 いつも夜中の十時くらいまで残業をしているお父さんが、珍しく早く帰ってきた。右手には、缶ビールとおつまみが入ったレジ袋をぶら下げている。灰色のジャージに着替えて、テレビを見る僕の横に座った。
「柿ピー少し食べるか?」
「うん、ちょうだい」
 僕が両手を差し出すと、お父さんは、袋を振って中身を取り出した。ピーナッツがあまり入っていなかったので、少し文句を言ったら、お父さんは袋の中からピーナッツを三つつまんで、僕の手に置いてくれた。柿ピーは辛いというよりもしょっぱくて、心が少し柔らかくなるような気がした。
「で、どうだった。学校は。馴染めそうか」
「まあなんとかやっていけそうかな」
「自己紹介大変だったろ」
「名前と、どの学校から来たとしか言えなかった」
「そうか。まあお前はあまり喋るのが、得意じゃないからな。でも、他にいいところいっぱいあるから、クラスメイトもおいおいそれは分かってくれるはずだ。あまり頑張りすぎるなよ」
「分かった。できる範囲でやってみる。ところで、柿ピーもう少しちょうだい」
「しょうがないなあ」
 お父さんからもらった柿ピーは、今度はピーナッツが多めだった。微笑むお父さんは、仕事が早く終わって上機嫌そうだ。僕は、それを猫のような目で見て、また視線をテレビに戻す。天気予報士が、今年の花粉は例年の三倍だと言っていた。


「でさ、小杉が『それは、僕のせいじゃありません』って言うの。『じゃあ、誰のせいなんだ』って聞いたら、『気のせいです』って」
「なにそれ、面白いね」
 テーブルにはコロッケが山のように盛られている。僕の好きな食べ物ランキング第四位だ。食べてみると、ジャガイモがとても甘くてソースとよく合って美味しかった。
「で、お父さんどうなの、仕事のほうは」
「最近ようやく大きな案件が、一つ片付いたところだ。今は少しゆっくりできてるけど、また来月には重要な案件が二つあるからな。家に帰る時間も遅くなるかもしれない」
「じゃあ、束の間の休息ってことになるわね」
「そうだな。で、お母さんのほうはどうなんだ」
「私は決算も終わって、少し落ち着いてるかな。でも、異動で入ってきた子がなかなか強烈で。耳にピアス四個もつけてるの。それも両耳」
「じゃあ合わせて八つか。耳だけに小泉八雲の『耳なし芳一』みたいだよな」
「なに言ってんのー。全然違うわよー」
 二人は笑いあう。僕の家の食卓は、いつも笑い声が絶えない。仲がいいのは結構だけれど、僕にはそれが少し不自然に映る。なにかをうまく演じているような気がするのだ。そう思ってしまうのは、僕には面白い話ができないからだろうか。ひょっとすると、二人をひがんでいるのかもしれない。
「××、コロッケ美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「ありがとう。今日から学校だったけど、大丈夫そう?」
「何とかやっていけると思う」
「そう、よかった。でも、辛いときは無理しないでいいからね。お母さんたちに相談してね」
「分かってるよ」
 僕の口調はぶっきらぼうになったが、お母さんの口元は変わらずに緩んでいた。ふんわりとした声で、「デザートにプリンあるわよ。食べる?」と言う。プリンは七位だ。僕は「うん、食べる」と答えた。暖房が効いた暖かいダイニングで。



 玄関から出るときに靴がなかなか履けなかった。革靴はまだ慣れず、大きめのブレザーの裾が邪魔だった。空は灰色を重く垂れ流していて、頭が重たい。雨の気配が近づいているというのに、いつも使っているチェックの柄の傘を、忘れてしまった。それでも、スマートフォンは持っていく。皆が持っているので、仲間外れにはなりたくない。
 二日目の朝。何をためらうことがあるのだろう。僕に話しかける人間などいないというのに。ただ椅子に座って何となく授業を聞いていればいいだけなのに。足取りは思い。それでも足を前に運ぶ。こんなところで挫けてはいられない。
 校門をくぐるころにはポツポツと雨が降り始めて、僕は走って校舎へと入った。
 教室のドアは、前の生徒が入ったまま開いていた。何者をも受け入れるあけすけさがそこにはあったが、それがかえって僕には辛かった。
 なんとか振り切って席に着く。案の定、誰も話しかけてこなかった。周囲をきょろきょろするしかやることがない。自分のペースを、僕は誰かに乱してほしかった。
 後ろを振り向くと、開いたドアから野本君が入ってくるのが見えた。女子みたいなきめ細かい白い肌にはっとする。野本君が席に着くと、レーダーで察知したかのように、一人の生徒が近づいてきた。クラスで一番身長が低い彼よりも二回り大きくて、袖からは日焼けの境目がくっきりと見えている。黙っていても人を引き付ける雰囲気があるのに、自分から積極的に他の生徒に近づいていく。僕や野本君とは違って、クラスの中心になるべき人物。
 振り返ると、池田君は昨日もいくつかできていたグループの、既に中心にいた。それも一番大きなグループだ。動くと自然にクラスメイト二人がついてくるのも、すでにクラスの中で、一定の地位を築いている証拠だろう。
 自信に満ち溢れた薄い唇が、半笑いを浮かべている。
「野本君だったっけ?俺、池田。ねぇ、昨日のアレもう一回やってよ。あの自己紹介のヤツ。あれ、超ウケたんだよね。ほら『あ……あああああ、ああっあっあっあっノモトユウヤですぅ。だっだっだだだっ第一中学校から来ましたぁ。よろしくお願いしまぁぁぁすぅぅぅ』。ほら、やれよ」
 池田君は野本君の昨日の失態を、面白おかしく誇張してやってみせた。勝手に付け加えられた大袈裟な手の動きに、取り巻きの二人がお腹を押さえて笑っている。
 彼に対する悪意を隠そうともしていない。完全に下に見ているのだ。自分より弱い人間をバカにして、上に立とうとする。恥ずべき行為を何食わぬ顔でできるのが、人気者という人種なのか。
 野本君が「それはちょっと……。ごめんね……」と半径五〇センチメートルくらいにしか届かないであろう小声で答えると、彼は舌打ちをして「なんだよ。ノリ悪りーな」とだけ言って、自分の席に戻っていった。
 僕はそれを背中で感じていた。自分は関係ないですよと、周囲にアピールしたかったのかもしれない。無機質なチャイムが僕らを隔てる。取り巻きのうちの一人がこちらを見てブツブツ言っていた。
 野本君がそれを気にしていたかどうかは、僕には分からない。 






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では、どうぞ。





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覚えていない。
失言で辞職した大臣。震度三の小さな地震。いじめられていた同級生の名前。
忘れていく。
テレビの中のテロリズム。かつて観た映画の主人公。三日前の晩御飯。
消えない。
あの凄惨な事件。白昼夢のような一瞬の出来事。奪われた未来。
ずっと。                                                              




 
 春の足音が近づく四月の朝。鳥のさえずりが、近くの高架を通過する電車に、かき消されている。暖かくなってきたとはいえ、朝晩は暖房がないとまだ寒い。大人しい日光を正面に受け、仲島洋一は照明もつけずに、キッチンに一人立っていた。
 卵を割って溶かし、玉子焼き機に垂らす。熱されたステンレスに触れた卵は、パチパチと泡を立て、黄色を薄めていく。洋一は実に慣れた様子でフライパンを振った。皿に盛られた玉子焼きからは、柔らかな湯気が立ち上る。キャベツを千切りにして、銀色のボウルに入れる。輪切りにしたキュウリに、半分に切ったミニトマト。それに薄く切ったハムを少し。ただ具材を切って乗せただけの簡易的なサラダが、洋一と同居人の朝の定番メニューだった。
 しばらくして、炊飯器が鳴った。少し混ぜて冷ました後に、艶が誇らしげな白米を茶碗によそう。洋一は同居人の分を自分よりも、少し多く盛った。冷蔵庫から納豆を取り出す。昨日、スーパーマーケットのセールでまとめ買いしたものだ。手に取ると、パックの底から、細やかな冷たさが伝わってきた。テーブルに置き、朝食の準備を終える。
 あとは、気持ちよく熟睡しているであろう同居人を起こすだけだ。
「祐二ー、起きろー。飯できたぞー」 
 洋一は、向かいのドアに話しかける。子供にボールを投げるように優しく。しかし、反応はない。仕方なくドアを開けると、部屋の中では仲島祐二が、布団の中ですやすやと寝息を立てていた。枕元の目覚まし時計は、十時に設定されている。布団の側には、空の缶ビールが横たわっていた。
 洋一が、白い布団に手をかけて勢いよく剥がす。外気に晒された祐二はすぐに目を開け、そして屈んだ。ミノムシのようだ。誰だって、熱を逃がしたくはない。特にまだ寒さが残る朝には。
「うーん……。うわっ。寒っ」
 それまで、右向きで寝ていた祐二は、一つ寝返りを打った。洋一の姿を視界に捉えたようで、目を何度も擦っている。ようやく起き出すと、パジャマの襟がまたよれていることに気づく。
「さっさと起きてこいよ。早くしないと飯冷めちまうぞ」
「はーい」
 洋一がリビングに向かって歩く後を、祐二が重たい足取りでついていく。祐二は席に座る前に、壁のスイッチを押して、照明を点けた。無理強いをしない光が、朝の盛り上がらない心にはありがたい。
 祐二は、椅子に座る前に言う前に、テレビのリモコンに手を伸ばし、赤い電源ボタンを押した。取られると期待された箸が、放っておかれたまま虚しい。
『おはようございます。時刻は八時になりました。『あさテレ』のお時間です。最近は寒さも和らいで、コートもいらないくらいの陽気。桜の木にも小さな蕾が見られます。お花見が楽しみですね。さて、今日のラインナップはこちらです。東京では……』
 明朗なアナウンサーの声が、二人の輪郭を浮かび上がらせる。目の前の朝食は、早くも冷め始めていた。洋一はテーブルに手をかけて、煉瓦色の椅子に座った。反対に、祐二は椅子に座る前に、テーブルの上を軽く見回して、「兄ちゃん、マヨネーズどこ?」と何の憂いもなく言う。洋一からすれば、その言葉はあまりにも投げやりで、思わず呆れてしまうものだった。
「冷蔵庫にあんだろ」
「えー、出すの面倒くさい。兄ちゃん最初から出してくれればよかったのに」
 同居人に兄としてのプライドを突きつけられ、祐二はしぶしぶといった様子で、冷蔵庫へと歩いていった。まだ買って日もない冷蔵庫は、二メートルというその高さ以上に圧迫感を与えてくる。冷蔵庫が開くと、オレンジ色の光が祐二を照らした。まだ眠いのに。こんなに眩しくなくてもいいのに。探しても目当てのボトルは見つからない。
「マヨネーズないよ」 
 豆腐に向かって、祐二は言う。冷蔵庫の管理は、いつも兄の洋一がしていた。 
「いやあるだろ。三段目の右の奥。ジャムの後ろにない?」
 管理人である洋一の言葉が、後方から投げられる。祐二がトーストを食べたいと言って買ってきたはいいものの、二回使っただけで飽きてしまった、イチゴとブルーベリーのジャム。その二つを除けると、楕円形のボトルが姿を現した。いつも使うのは分かっているのに、どうしてこんな面倒くさいところに隠しておくのだろう。だが、こいつがあるのとないとでは大違いだからあってよかった。黄色がかった白を手に取り、祐二は冷蔵室の扉を閉める。ジャムの二缶を戻しもせず。 
 そのまま先程よりも大きな歩幅で、テーブルに戻ると、祐二は赤いキャップを捻った。やがて、キャベツもトマトもキュウリも白に覆いつくされていく。マヨネーズは不思議だ。これさえかけておけば何でも美味しくなる。この世にこれ以上の調味料はないと、祐二は本気で信じていた。さらに、祐二は玉子焼きにも絞り口を向けるので、洋一は危惧を覚え、玉子焼きの皿をそっとどけた。
「おい、玉子焼きにかけるなら、小皿に自分の分をよそってそれからかけろよ。お前だけの玉子焼きじゃないんだぞ」
 まるで、年端もいかない子供に言うかのように洋一は注意をした。マヨネーズは確かに美味しいが、朝には少しくどすぎるだろう。そう目線で訴えかける。祐二は、今日は大人しくそのアドバイスに従ってくれるようで、キッチンから真っ白で底の浅い小皿を取り出した。玉子焼きを小皿に取り分け、出しすぎなくらいのマヨネーズをかける。最近、かける量がますます増えてきたようだ。
 極めつけに、祐二は納豆のパックを勢いよく開けて、そこにもマヨネーズをかけ始めた。茶色い粒々が、マヨネーズの黄色がかった白でコーティングされていき、光沢を放っていく様は、洋一には異様と呼べるものだった。毎回の光景だが、その度にゾッとした寒気を覚える。粘り気のあるものに粘り気のあるものをかけ合わせるなんて。弟とはいえ、自分とは違う人間だ。
「なぁ、お前マヨネーズ摂り過ぎじゃないか。今にブクブク太っちまうぞ。油を摂り過ぎると血管が詰まって危険だし、塩分も高いから、高血圧になるんじゃないか。健康のためにも、少しは控えたらどうだ」
 一応はそう注意するが、祐二はその度に、 
「いいのいいの。これカロリーハーフだから。塩分もカットされてるし、ちょっとぐらいかけすぎても大丈夫だよ。それにマヨネーズっていうのは、植物由来だからヘルシーだし、なにより食べたいものを食べないで、我慢する方が体に毒じゃん。というか兄ちゃんもマヨネーズかけなよ。納豆マヨネーズ美味しいよ。これを知らないの、人生半分くらい損してるわー」
 などと言って気にもかえさない。流石に閉口する。最近では気遣うのも無駄な気がして、まあ自己責任だしと放っておこうかと、洋一はひそかに思っているくらいだ。医療費はきっと親が出してくれるだろうし、一度痛い目を見なければ、祐二は分からないに違いない。そんな洋一の心配などどこ吹く風というように、幸せそうに納豆マヨネーズご飯を頬張る祐二。頬を落とす弟を見ながら、洋一は玉子焼きを口に運んだ。砂糖の甘さの中に、どこか酸っぱさが紛れ込んでいる気がした。

『さて、ここからは仕事に輝く人々を紹介する『シゴトビト』のコーナーです。本日のゲストは、俳優の神戸昴さんです。よろしくお願いします』
『よろしくお願いします』
 テレビではまだあどけなさの残る俳優が、出演する映画の見どころを語っている。男二人の女一人の、三角関係のストーリーらしい。いかにも少女漫画原作といった様子だ。十代向けのその映画は、自分たちに向けられていないことは、洋一には分かっていた。映画館で男二人は、きっと浮いてしまうであろうことも。それでも、祐二は無邪気に身を乗り出している。声に張りが戻ってきつつある。
「うっわ、この人最近ポカリのCMに出てる人じゃん。兄ちゃん知ってる?女の子に『一緒に飲もう』ってポカリ渡してる人だよ」
「CMは知ってるよ。名前は今日初めて知ったけど」
 祐二の調子に押されて、ぎこちない笑いが、洋一から漏れた。テレビの中の俳優から目を逸らすように、白米をかき込んだら、少しむせた。
「でも、この人CMでは茶髪だったんだよねー。黒にしたのかな。でも、やっぱかっこいいわ。なんだろう、もう骨格からして違うよね。神様が隅の隅まで注意して組み上げた感じ。生まれながらにして選ばれた人間みたいな?ずるいなあ」 
 そう羨む祐二だったが、その声色には嫉妬があまり含まれていないように、洋一には感じられた。弟には、昔から人と自分を比較するようなところがない。それは、自己を持っていて望ましいともいえる。だが、洋一からすれば、少しは他人を見て焦ってほしいというのは、偽らざる本音だった。
「そうだな。俺たちとは大違いだ。で、お前この映画観に行くの?」
「うーん、どうしようかな。やっぱ男だと少女漫画原作っていうのは、なかなかハードルが高いものがあるし。難しいよね。でも、ヒロインの女の子も、結構可愛いっぽいんだよね。等身大っていうの。クラスにいそうな範囲に収まってる。ぶっちゃけタイプ。まあ暇があったら、観に行くよ」
 祐二がはにかむころには、洋一は自分の食事を終えていた。空になった食器を、キッチンの流し台に持っていき、水に浸した。蛇口を捻ったら、勢いよく溢れ出た水が陶器の表面に跳ね返って、水を少し被ってしまった。水道水は、夏も冬も普遍的に冷たい。幸い、弟はテレビに夢中なようで助かったが、見られていたらまた茶化されるところだった。洋一はほっと息をつく。そうしている間にも、壁掛け時計は着々と進み、洋一の出勤を急かしている。

『では、神戸さんが『シゴトビト』として、やりがいを感じる瞬間というのはどのようなときでしょうか』
『来ましたね、その質問。いつも『あさテレ』見てますから来ると思ってましたよ。そうですね……。朝からこんな話していいか分からないんですけど、僕たちって、死んだら無くなってしまうじゃないですか。記憶もいつかは、薄れてしまいますし。でも、作品というのは、僕が死んだ後も残ってくれるんですよ。自分が生きた証を残せるというか。なので、カメラが回っているときでも、そうでないときでも、仕事をしているときは『ああ自分は今生きている証を残してるんだ。生きているんだ』って感じるんですよね。それがこの仕事のやりがいであり、幸せな部分でもありますね』

 七時四十五分。洋一が家を出る時間だ。革靴を履いて玄関に立つ。爪先の革が少しずつ剥がれてきていて、そろそろ買い替え時だろうか。挨拶をしようと振り向くと、祐二は神妙な面持ちでテレビを眺めていた。口が少し開いていて、微かに震えている。一口が小さくなっていた。
「じゃあ、行ってくるわ。洗い物頼むな。あと、洗濯もん取り込んどいて。隅のバケットに入れてくれればいいから」
 祐二はこちらを見ず、うん、とだけ言った。癪に障るというわけではない。しかし、いつもよりそっけない態度に、洋一は、他人行儀のような距離を感じた。それでも、帰ったらいつものように、テレビから顔をそらして、笑顔で迎えてくれるのだろう。信頼しているわけではないが、安心感があった。
 ドアを開けると、空は視界に収まりきらないほどの水色で、心地よい陽気が全身を包んだ。雨の心配はなさそうだが、もう十日も降っていないので、寂しい感じもする。最寄り駅に向かって歩き出すと、楽しそうに笑いあう大学生たちとすれ違った。まさにこの世を謳歌している。しかし、洋一にとっては名も知らない大学生の下卑た笑顔よりも、帰宅したときの祐二の穏やかな笑顔の方が、何倍も価値のあるものに感じられるのだった。

 テレビの中の俳優が、したり顔で人生論を語っているのを、祐二は片耳で聞いていた。年は下だけれど、顔はいくらか精悍だ。きっとたいへんな努力をしているのだろう。朝食を食べ終え、キッチンに食器を持っていった。水に浸すだけで洗いはしない。外から聞こえてくる大学生の笑い声が、窓を通り抜けて部屋に響く。かつては自分もあのように、楽しい大学生活を送っていたと祐二は思いを馳せる。一緒に徹夜で麻雀をしていた友達は、涼しい顔をして内定を獲得していた。もう連絡はさほど取っていなかった。
 リモコンを手に取って、再び赤いボタンを押す。物言わなくなったテレビ画面には、灰色のスウェットが映っていた。何も音がしない空間は、全てのものが鏡となって自分の姿を映し出す。祐二は、突き動かされるように、黒いカーボンのケースに入ったスマートフォンを持って、再び自分の部屋に戻っていった。
 誰もいなくなったリビングで、蛍光灯だけが瞬きを続けている。


     


 窓の外はすっかり明るくなってきたようだ。車の往来も増えてきている。だが、俺の下に日光が差し込むことはない。カーテンは閉め切っているし、そもそも俺の部屋は北向きだった。案内されたときに、他の部屋よりも家賃が二千円ほど安かったので、つい食いついてしまったが、実際、暮らしてみると、想像以上に気分が滅入る。日光を浴びないということが、人体にこれほどの悪影響を及ぼすなんて。まったく新たな発見だった。二本の足で立っていても、人間はやはり動物なのだ。
 起きてすぐに、歯を磨くよりも煙草を探す。床も机も物が散乱していて、フローリングが見える箇所の方が少ないくらいだ。雑誌が、丸められたティッシュが、転がっている。レジ袋が、検針票が、伏せっている。それでも、煙草とライターは机の一番上に置いてあったので、簡単に見つけられることができた。煙草に陰毛が一本かかっていて、自分のものながら汚いと、手で振り払う。陰毛はどこにでも現れる。まるで天井から降り注ぐかのように。イメージすると吐き気がした。
 ベランダに出て、煙草を口にくわえる。火をつけると、口元が潤い、やがて全身が蕩けるような煙で満たされていく。吐き出した煙は、まだ寒いことも相まって白い。起き抜けに吸う一本は、一日の中でも一番美味い一本だと、父親は言っていた。あのときの言葉の意味が今は分かる。この煙草は俺にとって、朝の日差しの代わりだ。胸がすくほど爽快で、これほど気持ちいものは無いと断言できる。見上げると空は雲一つない快晴で、憎たらしく感じるところだが、今はそんな気分にはならなかった。これも朝の一服がなせる業だろう。
 二本吸ったところで、煙草はもうなくなってしまった。まだ吸いたい気分だったので、外に買いに出かける。サンダルは季節外れだが、少しの外出なら問題ない。コンビニや煙草屋はダメだ。人と話す必要がある。しかも、そいつらは店員という仕事をしている。うっかり会ってしまうと、解れ始めたスウェットを着た俺が、惨めたらしく感じてしまう。その点、自動販売機はいい。金を入れれば、何も言わずに煙草を出してくれるからだ。ゴトンと煙草が落ちる音が、俺には祝福の鐘の音のように聞こえる。
 煙草を手にしながら、上機嫌でアパートに戻り、郵便受けを確認した。しばらく放っておかれている年金通知書や、再配達の申し込みに交じって、区から一通の郵便が届いていた。そろそろ来る頃だと思っていたそれを、俺は気まぐれに家に持ち帰った。無造作に封筒を破くと、書類には「雇用保険給付のお知らせ」と書いてあった。支給額は十万円。家賃に多くを取られてしまうが、寝て食べて起きているだけで、金が貰えるのだから楽なものだ。あと二ヶ月で切れると分かっていても、ハローワークに行く気にはなれなかった。貯金もまだ三十万円ほどある。今年中はこのままの生活を続けられそうだった。
 封筒を机に置き、適当に解凍した冷凍食品と、パックの白米で簡単な朝食を済ませる。皿を置くためのスペースを確保しようと、机の上の書類をどけると、床に落ちて、部屋はまた汚くなった。テレビはない。先月売り払ってしまったけれど、二万円にしかならなかった。静かな部屋は、今の俺にうってつけだ。そう強がることで、平静を保とうとしていたのは、既に自分でも深く理解していた。







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以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。

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とある作家と編集者のお話です。今回は13p、およそ7000字分を無料公開いたします。

では、どうぞ。






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 西から吹く微風が、若葉をさざめかせている。無情から切り離された暖かな情動が、頬に触れる。世界が一瞬で切り替わる心地がした。チャコールグレーのアスファルトも、黄緑がくすんだ雑草も、底の見通せない濁った川も、目に飛び込んでくる全ての事象が、今は愛おしい。
 心の奥から爪の先まで、想像もできないほど充足していき、自立することができなくなる。日盛りの惜しみない太陽光に、溶かされていくアイスクリームみたいだ。静かに、着実に崩れ、原形を留めなくなっていく。蜃気楼に隠されていく。崩壊を食い止めるかのように、ヒロトは私の背中に大きな両手を回して、強く抱き寄せてくれた。
 ヒロトのにべもない優しさに包まれると、呼吸をするという当たり前が、当たり前ではなくなる。頼りがいがあるとは言えない細やかな腕と、華奢な胸板が波打つのに呼応して、私の心臓も弛緩して、鼓動を緩める。粒子のようにひらりとした髪が、顔に当たってくすぐったい。吸い上げるように私の形は元に戻り、感情の結束はより確固たるものになった。
 私は生まれ変わる。きっとこの先、ヒロトが抱擁してくれる度に。何度でも。


 私たちは、唇を重ね合わせた。

      *


 天井にキーボードの音が、シャボン玉のように弾けて消える。入り口の隣にある本棚には、水色の背表紙が凸凹に浮き出ている。広い窓からは、プリズムに濾過された日光が、ふんだんに取り入れられていて、室内には空気清浄機が慎ましく稼働する。スーツはクリーニングから帰ってきたばかり。飄々とした開放感があり、私は自分の職場を、入社したときから、密かに気に入っていた。
 タイムカードは、今日も一日を起動する。青い背もたれの椅子に座り、コンピューターを立ち上げる。メールソフトを起動すると、深夜三時に一件のメールが届いていた。添付されたファイルを開くと、画面に映し出されたのは、産声を上げたばかりの文字の羅列。作家が苦心して、眠気に負けそうになりながらも、何とか書き上げであろう原稿。目が潤う。一文字一文字に乗り移った作家の魂を、最良の状態で感じられるこの時間のために、会社に来ているようなものだ。
 画面からいったん目を離して、紙パックのミルクティーを一口飲み、体に活力を巡らせる。一息つくと、図ったかのように低い声が、意識に割り込んできた。
 顔を上げると、立っていたのは、一八〇センチはある長身に、たっぷりと蓄えられた口髭が威圧的な男。文芸雑誌『柘榴』の編集長、道岡大剛だ。その眼光の鋭さに、自分が何かしでかしてしまったのかと慄いてしまう。
「関、今話できるか」
「は、はい。大丈夫です」
 編集長の畏怖的な雰囲気に圧されて、どうということはない口調も、怖く感じられてしまう。思わず立ち上がる。手を軽く机にぶつけてしまった。
「来月、中美が『ヤングペンギン』編集部に異動することになったのは知ってるな」
「もちろん、知っています。ムードメーカーの中美先輩がいなくなると、編集部も寂しくなっちゃいますよね」
 せめてもの抵抗で、無理やりにでも笑顔を作ろうとする。しかし、表情筋が上手く動いてくれず、彫刻の失敗作のような顔になってしまう。編集長は当然のことながら笑っていない。緊張で私を支配しようとしている。
「それで、中美の担当の引き継ぎをしなければならないんだが、お前には三澤諒先生を担当してほしいんだ」
「三澤先生、ですか」
 一瞬、信じることができなかった。三澤諒といえば、瑞々しい文体と感傷的なストーリーで、幅広い世代から人気を博している若手作家だ。年齢も私と一歳ぐらいしか、変わらないはず。同年代の人物の中で、最も尊敬している存在と言ってもいい。そんな三澤先生と一緒に仕事ができるなんて。
 心の中で密かにガッツポーズを作った。だが、そのガッツポーズも、すぐに言いしれない不安に消されてしまう。私に三澤先生の担当が務まるのだろうか。しばし、視線が定まらなかった。少し落ち着いてから視線を戻すと、編集長は毅然とした態度で、腕を組んで立っていた。
「編集長……。ありがとうございます……」
 意図しているわけではないだろうが、編集長の眼差しは、私を睨んでいるように感じられた。この緊張感では、浮いた言葉は許されないだろう。脳裏に浮かんだ言葉を、かき消し続ける。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だと思います。多分……」
 流石の編集長もこれにはやや戸惑った様子で、私には見えない言葉を、一つ二つ吐き出していた。もしかしたら、なかったことにされるかもしれない。それはあまりに嫌なので、強圧な意思に逆らうように顔を上げて、編集長を見つめる。三秒も目を合わせることができない。
 編集長は一つ頷いた。どうやら納得してくれたらしい。
「ただ、三澤先生はちょっと特殊でな。他の先生方とは、少し事情が異なっているんだ。初対面だとおそらく驚くと思うが、それでも大丈夫か」
「それは、会ってみないと、分からないです」
「それもそうだな。まあお前なら何とかなるだろ。期待してるぞ」
 私にさりげなくプレッシャーをかけ、編集長は向こうへと声を飛ばした。低い声は墜落することなく、壁まで届いていく。
「おい、中美。三澤先生と連絡取れてるか」
「取れてますよー。ていうか先月伝えたじゃないですか。明後日の十四時だって」
 ひどく軽薄な声だ。紙を捲る音の方が、まだ質量が感じられる。だけれど、中身先輩の竹を割ったような性格に、部内の危機が何度救われたか分からない。編集長の口角が、この日初めて緩んだのを、私は見逃さなかった。
「そういうことだから、よろしく頼むな」
「はい……頑張りたいと思います……」
 絞り出した声のあまりの頼りなさに、不安が活発になる。覚悟を決めなければならない。今度の仕事は、私にとって大きなターニングポイントになる。なぜだか確信めいた予感がしていた。
 窓枠の間に掲げられている時計を眺める。秒針の動きが、いつもより綽然と感じられた。


 三澤先生の待つ部屋へは、エレベーターを二つ乗り継いで行かなければならなかった。エレベータから初めて目にした内廊下は、亜麻色のカーペットが敷かれていて、そこらのビジネスホテルよりも上等だった。不思議な浮遊感に戸惑いながらも、内廊下を奥に向かって歩いていく。照明もどことなく抑えられている気がする。中美先輩は地に足をつけて、ズンズン進んでいく。私があのように我が物顔で歩けるようになるには、きっと一年や二年では足りない。
 ロビーで三澤先生の了承は得ていたので、中美先輩が木目調のドアの前に立つと、すぐにドアは開いた。横にスライドする自動ドアが、私たちに世界を広げる。こんなところにまでお金をかけるなんて、新築は違う。知らないうちに羨望の眼差しを向けていて、中美先輩にやんわりと注意される。
 ドアが開くと、玄関には三澤先生が立っていた。
「こんにちは。中美さん。いつもご足労ありがとうございます」
「ういーす。三澤先生。今日もよろしくっす」
 雑誌のインタビューでも、写真がページの四分の三ほどを占める三澤先生は、雑誌やテレビで見る以上に格好よかった。背は高いが優しい雰囲気を醸し出していて、圧迫感は感じない。足も長く、黄金比という言葉が脳裏に浮かぶ。スタイルがいいばかりか、鼻筋は高く通っているし、大きな目の主張は凄まじく、薄い唇の下にある泣き黒子がセクシーだ。爛々とした目で見つめる私にふっと笑いかける。笑顔も爽やかで、ファッション雑誌に写っていても、他のモデルと遜色はないだろう。
 それを、この先輩は。百回頭を下げたい気分になる。
「よろしくおねがいします。あ、中美さん、もしかしてそちらの方が、先月おっしゃっていた新しい担当さんですか」
「そうそう、コイツがウチの関。まだ、三年目なんで色々教えてやってくださいや」
「よ、よろしくお願いしまっ」
 緊張で語尾を言い終わる前に、舌を噛んでしまった。一瞬感じた羞恥を、床に押し付けるかのように頭を下げる。ファーストコンタクトに失敗し、心は喚きだしそうだった。
 しかし、顔を上げると、三澤先生はもう一度、微笑んでくれていた。許されたという気持ちになったのと同時に、何かをそっと隠されたような感じもした。
「関さん、こちらこそよろしくお願いしますね。さあ、詳しい話は中でしましょう。どうぞ上がってください」
 よかった。三澤先生は私の失態を、心配していないようだ。気を取り直して、よろしくお願いしますと言おうとしたが、今度は「が」のところで噛んでしまう。「さっきより早いとこで噛んでんじゃねーか」と、中美先輩が乾いた笑いを漏らしていた。

 一歩部屋の中に入ると、まるで台本もなく舞台に放り出されてしまったみたいに、自分がひどく場違いに感じられた。どこもかしこも洒脱で、高級感が私の胸をチクチク刺す。リビングに置いてあるソファはシックなブラウンで、いかにも座り心地がよさそうだ。私はまだソファに選ばれていない。中美先輩は当然のように、三澤先生に案内される前に腰かけて、両手を組んでいたけれど。
「関さんも、どうぞおかけになってください」
 包み込むような笑顔が、私の壁を取り払う。三澤先生に促されるがままゆっくりと座ってみると、ソファは私の体重の分だけ凹み、私の存在を許してくれた。少しごわごわとした布地が気持ちいい。
「今、お飲み物を用意しますね。中美さんはいつもの通りコーヒーでいいですか。関さんは……」
「あ、こいつはカレーでいいっすよ。この前も五日連続で食べたって言ってましたし」
「み、三澤先生、そんなわけないじゃないですか。あの、私もコーヒーでお願いします」
 中美先輩の笑えない冗談に、体温が一度上がる。背中に汗が滲みだすように感じた。

 三澤先生が大仰なコーヒーメーカーで淹れてくれたコーヒーは、苦すぎず、酸味がいいアクセントになっていて、美味しかった。喉から少しずつ緊張が和らいでいく。三人とも全く同じタイミングで、コーヒーカップから口を離したのが、妙に可笑しかった。
 だけれど、三澤先生が持ってきてくれたトレーの上には、コーヒーカップが四つあった。そのうち一つはミルクを入れたのか、色が少し薄い。三澤先生は甘党なのかなと思ったけれど、三澤先生が飲んだのは、何も入れていない方のコーヒーだった。では、もう一杯のコーヒーは誰に?
 そんな私の疑念をよそに、中美先輩は、自らが『ヤングペンギン』編集部に異動になることを、改めて三澤先生に伝える。三澤先生は気丈に振る舞っていたが、抑えきれない不安が、黒髪の上で渦を巻いていた。どうやら三澤先生にとっては、初めての担当交代らしい。私も心許ないし、三澤先生も心許ない。二人の心許なさが両輪となって、混乱の底なし沼に沈んでいかないように、気合いを入れ直さなければ。
 三澤先生には他にも三社の担当がついていること、打ち合わせは、角を曲がったところにある喫茶店で行うことが多いこと、連絡は午後の方が繋がりやすいこと。一つの連絡事項も聞き逃すまいと、私は逐一メモを取った。三澤先生にも読めるように最低限の綺麗さで、けれど、なるべく素早く。
 メモ帳の三ページ目を捲ろうとしたとき、背後からドアが開く音がした。裸足なのか張り付くような足音がする。
「おー、三澤おはよう」
「やっと起きたんですか、木立さん。今日の二時に中美さんが来るから、それまでには起きていてって言ったじゃないですか」
 振り返って、声の主の全容を視野に入れる。木立と呼ばれたその人物は、鈍色のジャージを着ていて、背丈は三澤先生よりも一〇センチメートルほど低かった。目も鼻も口も、道行く百人の顔をコンピューターソフトで合成したら、こうなるのではないかというくらい平凡だ。それなのに、体つきは三澤先生よりもガッチリしていて、幾分横に長いので、その個性は埋没してはいなかった。アッシュブラウンに染められた髪の毛が、盛大に跳ねている。
「ああ、わりぃわりぃ。すっかり忘れてたわ。ごめんな。で、この中美さんの横に座ってるのが、新しい担当さん?女なんだ」
「そうですよ、こちらの関さんが新しい担当さんです」
 〝木立さん〟なる人が何者なのか。三澤先生とはどういった関係なのか。事情が何一つ呑み込めなかったが、整頓されたリビングは、私に挨拶を強要している。慌ててバックから名刺ケースを取り出し、一枚抜き取った。
「はじめまして。陽燦社の関と申します。よろしくお願いいたします」
 〝木立さん〟は、右手で私が差し出した名刺を、ポイントカードみたいにつまんだ。一見して名前を確認すると、名刺をズボンのポケットにしまい、私を観察する。黒猫のような鋭い眼で、顕微鏡でも覗くように。心の最深部まで見透かされていると、確かに感じた。
「ねぇ、アヤカちゃん。年いくつ?」
 いきなり諸々を飛ばした「アヤカちゃん」呼びに、心身が動揺する。コーヒーを少し飲んでから答える。カップを持つ手はかすかに震えていた。
「二十五です」
「へぇ、二十五。若いね。リョウと一つしか違わない」
「ちょっと、木立さん。いきなり『アヤカちゃん』呼びは失礼じゃないんですか。関さん、驚いてるじゃないですか」
「いいじゃん別に。減るもんじゃあるまいし。文句あんの?」
「いや、特にないですけど……」
「まあまあ、皆一回座ろう。ほら、木立くんも。引き継ぎの続き、続き」
 中美先輩が、そう場を宥めると〝木立さん〟は、三澤先生の横に座った。足を大っぴらに開けて座っているので、三澤先生が使えるスペースは狭くなり、窮屈そうだった。〝木立さん〟は、温くなったミルクコーヒーを口に運んで、満足そうな顔で小さく頷いた。私という人間の品定めはもう終わったのだろうか。
「関、改めて紹介するな。こちらが木立巧実くんだ」
「うっす。よろしく」
 その挨拶に遠慮は感じられない。こちらに向けてはにかんできたけれど、平平凡凡たる笑顔だった。私の疑念はより密度を増し、胸の中で膨らんだ疑問が、吐き出される。
「あの、木立さんは三澤先生とどういった関係なんでしょうか。もしかしてお付き合いされてるんですか?」
「アヤカちゃん、何言ってんの。俺と三澤はそういう関係じゃないよ。大学からの友達」
 〝木立さん〟が三澤先生に「な?」と同意を求める。三澤先生は糸で引っ張られたかのように頷き、切なく笑った。私はそれを、私だけに送られたメッセージとして受信する。
「木立さんは、僕の二つ上の先輩なんです。大学の頃から木立さんにはよくしてもらっていて」
 三澤先生は、笑顔の仮面を崩さない。目の前の三澤先生と〝木立さん〟の関係は、単なる先輩後輩の関係ではないように感じた。主人と使用人に近いだろうか。三澤先生の命の綱は〝木立さん〟が握っている。直感よりも深い部分が、そう私に教えてくるのだ。
 中美先輩が何の気なしに話を続ける。
「関、木立くんも小説を書いてるんだ。彼、結構上手いよ。大衆的なセンスがあって、それを過不足なく言葉にできる。『売れる』小説を書かせたら、彼に並ぶ人はあまりいないんじゃないかな」
「アヤカちゃんも、きっと俺の書いた小説、読んだことあると思うよ。だって、俺の書いた小説が好きそうな顔してるもん」
 どんな顔だと感じながらも、思索を巡らせる。〝木立巧実〟という作家は、見たことも聞いたこともない。もしかしてペンネームを使っているのかもしれない。そうだとしたらお手上げだ。しかし、ふとジグザグした視線が、私に向けられていることに気づく。視線の発信源は他ならぬ三澤先生。
 目が合う。縋るような瞳が寂しい。まさか。
「三澤先生は、書いていないんですか」
 言葉が宙に浮く。誰かが強い力で、かき消してくれることを願う。
「そうだよ。〝三澤諒〟の正体は木立くんだ。木立くんが、三澤くん名義で小説を書いているんだ」
 叶わなかった。
「三澤先生、本当なんですか。三澤先生が書いていない、なんてことないですよね」
「いや、関さん。申し訳ないけど本当です。〝三澤諒〟は僕じゃない。木立さんなんです」
 三本の矢に、私の心臓は貫かれた。積み上げてきた虚像というレンガが、重機で容赦なく壊されていく。コーヒーの水面に、波紋が広がる。
「それって、つまりはゴーストライターってことですか」
「やだなー、アヤカちゃん、その言い方。『共著』って言ってくれよ。一応、リョウもアイデア出してくれるんだからさ。まあ、あんま参考にならないけど」
「今の僕があるのは、木立さんのお陰なんです。関さん、裏切ってすいません。でも、分かってください。これは、僕と木立さんに与えられた役目なんです。僕が望んでしていることなんです」
「いいか、関。編集を続けていれば、これからもこういった場面にぶち当たる。編集長はお前のことを見込んで、早いうちに慣れておいた方がいいと考えて、この二人の担当につかせたんだ。これはお前の将来のためなんだぞ」
 そんなこと言われても、だ。世界が一瞬にして転覆し、本当は嘘で塗り替えられる。三人の言葉は耳朶を滑っていき、バクテリアに間もなく分解されてしまう。私が今まで読んできた言葉。何度も脳内で繰り返した表現。励まし。救い。そんなものは所詮、まやかしに過ぎなかった。感覚は夜に支配されていく。目の前のコーヒーを一気に飲み干す。神経は鈍麻していて、コーヒーの味は、殴りたくなるくらい透明だった。
 窓の向こうにはタワーが二つ、背中を向けるように直立している。視界はぼやけ、景色はあやふやにしか見えない。だけれど、片方の電波塔だけははっきりと見えた。太陽の光を吸収して、自分より低いもの全てを優しく撫でる。
 それは、相手が何を望んでも、決して有無を言わせない、不遜な姿だった。






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