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ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

カテゴリ: 映画



こんにちは。これです。コロナウィルス、ますます深刻化していますね。首都圏は外出自粛ムードで、私が参加しようと思っていた5月の文学フリマ東京も中止になってしまいました。本当に先の見えない戦いを続けている気がします。早く収まってほしいです。


ただ、そんななか、不用意かもしれませんが、私は今日も映画館に行ってきました。今回観た映画は『さよならテレビ』。愛知は東海テレビのオリジナルドキュメンタリーとして、年初に映画ファンの中で話題になっていた作品です。私も見たいと思っていたのですが、長野ではこのタイミングでようやく公開となりました。


そして、観たところ頭を殴られるような衝撃を受けましたね。想像以上でした。観終わった後に暫定今年ナンバーワンとすぐに確信したほどです。


それでは、感想を始めます。長いわりに拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・視聴率至上主義に慄いた
・報道の三つの役割
・中心となったのは三人のストーリー
・事実を「物語化」することの功罪





ーあらすじ―

今は昔。テレビは街頭の、お茶の間の、ダントツの人気者だった。豊かな広告収入を背景に、情報や娯楽を提供する民間放送は、資本主義社会で最も成功したビジネスモデルの一つだった。しかし、その勢いはもうない。「テレビは観ない」と公言することがクールだった時代を通り越し、今はテレビを持たない若者も珍しくない。マスメディアの頂点でジャーナリズムの一翼を担ってきたテレビが、「マスゴミ」と揶揄されるようになって久しい。これは市民社会の成熟か、あるいはメディア自身の凋落か…。今、テレビで、何が起きているのか? 『ホームレス理事長』『ヤクザと憲法』のクルーが、自社の報道部にカメラを入れた。

本作は東海テレビ開局60周年記念番組「さよならテレビ」(77分)に新たなシーンを加えた待望の映画化である。自らを裸にしていくかのような企画は、取材当初からハレーションを引き起こした。そして、東海地方限定で放送されるやいなや、テーマだけでなく、その挑発的な演出が、異例の大反響を呼んだ。番組を録画したDVDが、まるで密造酒のように全国の映像制作者に出回った。テレビの現場は日々、何に苦悩し、何を恐れ、どんな決断を迫られているのか。果たして、今のテレビにレゾンデートルはあるのか?

(映画『さよならテレビ』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・視聴率至上主義に慄いた



この映画はまず、東海テレビの報道部にカメラが入るところから始まります。自社の報道局を取材したドキュメンタリーで仮タイトルは『テレビの今』。テレビ離れ、マスゴミと呼ばれて久しいテレビ局は今どうなっているのかというあやふやな趣旨の密着ですが、一部のテレビマンは反発を覚えている様子。特に、半円型の机に座ったデスクと思しき人が「撮るの止めろよ」と語気を荒げ、カメラは地面に置かれてしまう始末。いきなりのハレーションに、ここはシンプルに怖いなと感じます。


ただ、それから二ヶ月経って、妥協点も見つかりドキュメンタリーは本格的にスタート。テレビ報道の"今"が映し出されます。最初に私が印象に残ったのが、視聴率にこだわるテレビマンです。それはさながら絶対的正義のようで、この映画時点(2017~18年)では、まだ視聴率至上主義が色濃く残っている様子でした。どの時間帯に視聴率が上がったかが逐一分析され、キー局中何位かが張り出されていきます。


ただ、これはテレビが広告収入に大きく頼っている以上、仕方がないのかもしれません。スポンサーにとっては視聴率が低いと、自社の広告が目に触れる機会も少なくなり、広告効果は低くなってしまいます。そうなると撤退も視野に入ってくる。実際、劇中でもお天気コーナーのスポンサーが一社降りたという出来事がありましたし、テレビからすれば収入が減ってしまうので、死活問題です。こういったビジネスモデルを続けているうちは、視聴率至上主義は変わらないのかもしれないですね。


となると、テレビは視聴率を上げるためにはどうしたらいいか。一例では、グルメコーナーは視聴率が上がって、ニュースコーナーは下がってしまう。それならグルメばかりにすればいいのではないか。でも、そうしたらニュースじゃなくなってしまうという現実がありました。これもニュースにはさして興味がない(私も含めて)今の多くの日本人の国民性を表しているのかもしれないと、ちょっと情けなくなりましたね。自省するばかりです。


でも、やはりニュースというからには報道で勝負したい。となるとどうするかというと、独自のニュースを放送することです。その重要度が大きければ大きいほど、注目され視聴率は上がります。劇中で何度も「独自」という文字が抜き出されたのは印象的でした。


この映画でも「日本の報道はスクープを抜くことにばかり目がいっている」みたいな問題提起がありましたけれど、独自ニュースに価値がある以上、これも変わらないのかもしれないですね。ちょっと時間が経てば、すぐ分かるようなことを大げさに取り上げて。そのために作戦を練るテレビマンたちの必死さが静かながら、この映画を観て伝わってきました。


そして、その独自ニュースを得るために犠牲になるのが、テレビマンたちの時間です。この映画では、働き方改革や電通の事件など、記者の働き方についても多少言及がなされていました。月100時間を超える残業なんてザラで。そうしなければ視聴率を保つことができないという真っ黒な闇を感じました。絶対にテレビ業界では働きたくないなと思ってしまうほどです。まさに、身を粉にする働き方。


そして、それを言ってくるのが上層部というね。残業減らせ、でも視聴率は上げろなんて無茶ぶりに文句を言っている人もいましたけど、いつだって犠牲になるのは現場なんですよね。『Fukushima 50』を観ていても思いましたけど、分かっていない上層部対振り回される現場という図式はどこの業界でも変わらないんだなと思ってしまいます。



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・報道の三つの役割


話は変わりますけど、私がこの映画を観て視聴率至上主義と同じくらい印象に残ったのが、報道の役割についてですね。序盤で小学生が東海テレビに社会科見学に来るシーンがありましたけど、そこで報道の役割については、以下の三点が説明されていました。


①事件・事故・政治・報道を伝える
②困っている人(弱者)を助ける
③権力の監視



この映画は、以上の三点を踏まえて作られていたように感じます。①と②については次からの項で書きますが、ここで触れたいのは③権力の監視です。


メディアは第4の権力と呼ばれることがあります。権力の暴走を報道することで防ぐという大きな使命を持っています。ただ、政権に迎合してしまっているメディアも存在してしまっているんですね。それが現れていたのが、共謀罪についての報道でした。


共謀罪についての報道はメディアによってさまざまで「共謀罪」というところもあれば、「テロ等準備罪」というところもあるそうなんですね。で、「テロ等準備罪」といっているところは、政権を批判する気がないと。別にメディアにだって右寄りとか左寄りとかは全然あっていいんですけど、そういう使う言葉一つで、そのメディアの姿勢が分かるんだなと勉強になりました。


でも、それで権力の監視ができているのかは疑問ですよね。先の戦争においては、新聞が政権に迎合して、戦争を煽るような記事を書いて、人々を焚きつけていたようですし、そこに対する責任が全くないとは言えません。今は難しいかもしれませんが、世論の操作ですよ、これは。


ただ、これは国民性も関係しているみたいで。戦争ムード一色の中、戦争批判、政権批判をした新聞は部数が落ちてしまい、存続のために戦争支持に回らざるを得なくなったみたいな話は、本で読んだことがありますし、そういう意味ではメディアは国民性を映す鏡みたいなものなのかもしれませんね。他局がニュースを映す中、グルメ情報が映されるシーンは、ちょっとしたシーンですけど、思わず恐怖を感じてしまいました。


では、ここまでで③の役割について軽く触れたところで(これ以上は私の頭では無理)、ここからは①と②の役割について見ていきたいと思います。この映画はテレビ報道の裏側を多くの登場人物を用いて描いていましたが、その中でも中心になった人物が三人いました。福島智之さん、澤村慎太郎さん、渡邊雅之さんの三人です。(以下、敬称略で進めさせていただきます)




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・中心となったのは三人のストーリー


福島は、夕方のニュース「ONE」のメインキャスター。きっちりとした風貌で見るからに、誠実な印象を与えます。東海テレビは4月の番組改編では、この福島を前面に押し出し「行け、福島」などというキャッチコピーをつけて、玄関脇に堂々と張り出し、電車に広告を打ち出したりします。あまりのアピールぶりに少し引いてしまうぐらいです。


ただ、福島は「伝える」ことがなんなのか、自分がちゃんと伝えられているのか悩んでいる様子です。番宣?で「ニュースを読むのではなく、伝えたい」と言っておいて、その後に「それがなかなかできないんだよな」とこぼしていましたし、祭りの取材でも、公共の電波を使って宣伝にしかならないニュースを流していていいのかという趣旨のことを言っていました。極めつけはある日の道端での「誰も傷つけない報道」についての話題です。


そもそも、福島が悩むようになったきっかけというのは、2011年の岩手県産の米を「セシウムさん」「怪しいお米」と謝ったテロップを出してしまった事件からなんですね。岩手や被災地に風評被害を植え付けてしまって、番組は打ち切りとなりました。そのことがトラウマとなって、言いたいことよりも、当たり障りのないことしか言えなくなってしまったと。報道の怖さを感じるシーンでした。


それもあってか、「ONE」も視聴率は上がることなく、キャスターもテレビを見ている高齢層に合わせたより年上のキャスターに変えられてしまいます。いくらメインキャスターだからと言って、雇われの一サラリーマンに過ぎないという現実。番組降板を告げられた時の、そして再び中途半端な編集で、放送事故が起こってしまったときのショックな真顔は目に焼き付くものでした。その表情によってテレビ報道の厳しい現実を突きつけられます。




続いて、渡邊。彼は映画途中から東海テレビに中途入社してきた記者です。元々そういう顔なのかは分かりませんが、いつもニコニコ笑顔を絶やさず、周りからも可愛がられるキャラクター。事件現場に赴くことはあまりありませんが、日夜取材に出かけています。桜のシーンで、インタビューを持ちかけようとしますが誰も答えてくれず、最終的に自分に付きまとう子供にマイクを向けていたのには、客席から笑いが漏れていましたね。押しつぶされそうな空気の中で一種の清涼剤となっていました。


ただ、彼は彼でまた悩んでいて。原稿のルビを間違って送ってしまったり、顔出しNGの確認が取れておらず、取材したVTRがお蔵入りになってしまったりと、失敗を繰り返して、その度に上司から叱責を受けています。さらに、食レポでは何度も撮り直しを要求されるなど、端的に言って仕事はあまり上手くいっていません。アイドルに慰められながら、なんとかやっている状態です。


さらに、彼は派遣社員で一年契約。これは澤村もそうですが、テレビ局は新聞社と違い、正社員ばかりではなく、派遣社員も多いといいます。なので、成果を出し続けなければ、そうでないにしても一年前より成長しているところを見せなければ、すぐに契約は打ち切られてしまいます。彼は彼で焦っていたんですよね。表情には出しませんが。最近になって自己啓発本がよく売れたり、「成長」という言葉が呪いのように社会に憑りついているのも、この派遣が多い雇用問題が関係しているのかなと感じます。


そして、一年間で成果を出せなかった渡邊は、契約を打ち切られてしまいます。一人廊下に去っていく彼を小さく映したショットはとても寂しかったですし、その後の真顔の渡邊はこの映画一番の衝撃でした。あそこは観ていてきつかった。卒業という名のクビ。これからの見通しも立っていません。何もテレビ局に限定されたことではなく、これが今、日本のあちこちで起こっているのだと思うと、頭を抱えたくなります。私も契約社員の身なので、他人事には思えませんでしたね。震えを覚えました。




最後に、澤村です。彼は元々経済紙出身。自宅にはメディアやジャーナリズムについての本がたくさんあり、それら全てに目を通すなど、報道に強い関心を持っています。酒の場では、「ギリギリまで考えて、ギリギリまで取材して作られた物にこそ価値がある」というような青臭い理想論を熱弁するようなキャラクターでした。


しかし、彼もまた理想と現実のギャップに悩んでいるんですね。ジャーナリズムを追求したいはずが、作っているニュースはスポンサーを立てる「ぜひ記事」(Z記事)と呼ばれるものばかり。これもスポンサーからの広告収入ありきというテレビの特性に起因しているのですが、企業の提灯持ち、広告塔にしかなっていません。


経済紙で同じような仕事をしていたから慣れていると、自嘲気味に笑う彼の姿はどこか悲しく映ります。また、澤村も派遣社員であり、来年の生活も知れない身。生活のために仕方なくやっていることが余計悲しさを増幅させます。


ただ、彼も報道に携わっている身として、ちゃんとぜひ記事以外の取材もしています。彼が取材したのは、マンションの反対運動に勤しむ老人。現場監督ともめ事を起こし、今は裁判にかけられているこの老人に、共謀罪について聞きに行きます。そこで老人から出た言葉は「テレビの力に期待している」といった趣旨のもの。報道の役割のうち、③についてずっしりとくる言葉ですが、その後も澤村は仕事に忙殺されて、③の役割を果たすことはできない状況でした。原稿に書かれた「」の文字が、その事を十全に物語ります。




この三人に共通しているのが、三人とも悩んでいることです。悩みのない人間なんていませんし、三人が悩むことで人間味が増し、身近に感じられる効果を生んでいると感じます。また、三人のバックボーンもそれぞれ語られるので(渡邊と澤村は部屋にまでカメラを入れている)、彼らの人間性は深く掘られていき、観る人にどういう人間なのかを分かりやすく伝えていました。


また、三人は苦境に置かれているのも一緒。そして、最後に三人には少しの救済が与えられます。福島は「弱くてもいい」ということを知り、街ブラロケでビールを飲みますし、渡邊はどこかのテレビ局に再就職。食レポでもOKをもらいます。澤村が取材した老人は無罪を勝ち取り、そこには東海テレビの報道の影響も少なからずあったのでしょう。苦境に陥ってからの救済という、実に分かりやすい物語が三人には与えられていました。


ただ、これで「はい、よかったね」で終わると、なんかモヤモヤするな、現実ってそんなに単純なものじゃなくない?と思っていたところで、この映画はラスト、衝撃の展開を迎えます。今までの描写がひっくり返されるとともに、この映画の誠実な姿勢を感じて、個人的な評価がグンと上がりました。



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・事実を「物語化」することの功罪



映画の最後の(と見せかけた)シーンで、澤村はカメラに疑問を呈します。「本当にこれでいいの?」「これでテレビの今を映せたといえるの?」(意訳)。怒りにも似た澤村の疑問。それは私が抱いていた疑問そのもので、よく言ってくれたと心の中で拍手をしたのですが、それも次のシーンでひっくり返されました。


なんと、澤村はスタッフから最後に怒るように指示を受けていたのです。さらに、渡邊も演出を受けていて、途中のお金を借りたシーンは作られた完全に嘘のシーンでした。また、冒頭の上層部の怒りも演出。上層部が悪で現場が善という構図が、意図的に作られています。それはまさに印象操作と言っても過言ではないレベル。「みんな役者だな」という言葉が、訳も分からず刺さります。「時系列をいじくろう」という案がなされなかったのは、最後の良心だったのでしょうか。今まで没頭していた映画の中から、急に放り出されて茫然自失とエンドロールを眺めている自分がいました。


このとき、私の頭に去来していたのは『i ―新聞記者ドキュメント―』(未見)など、多くのドキュメンタリー作品を手掛ける森達也監督の著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』(こちらも未読)。勉強不足ですが、その存在だけは知っていたこの本。そのタイトルの意味が今になってようやくわかりました。ドキュメンタリーは、いやテレビ報道は嘘をつくのです。


例えば「AがBを殴った」というニュースがあるとしましょう。それを知った人はAが悪いと思うはずです。しかし、「最初にBがAを殴った」という部分が伏せられていたとしたらどうでしょう。Aは殴り返しただけで、最初に悪いのはBじゃないかということになりますよね。事実は切り取り方によって、いかにでも加工できるのです。そして、それはドキュメンタリーやテレビ報道でもそうです。


そもそも、この二つは非常に長大な素材というものを持っています。それを編集して短縮したものを私たちは見ているのです。そこには恣意的な態度は入り放題。誘導尋問によって自分が望む、あるいはテレビ映えする言葉を引き出すことだってできますし、同じシーンによってもつける音楽によって受け取る印象は変わります


というか、澤村が言っていたように、まず根本からしてドキュメンタリーは現実とは少し違います。だって、現実ではカメラを向けられることはないですし、人はそうそう独白したりはしないでしょう。ドキュメンタリーもテレビ報道も現実を切り取って、並び替えて、繋げて、味付けをしたものなんですよね。


で、どうやって味付けをするかというと、それは「物語化」です。それは何も、映画や小説などのフィクションに限ったものではありません。そういったフィクションを必要としない人も確かにいるでしょう。ただ、「物語」は誰もが必要としているんだなというのは、私はこの映画を観て感じました。




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「物語化」の一番の特徴は、善悪の二項対立で物事を論じることにあると思います。この映画では上層部が悪、現場が善といったように善悪がきっちりと分けられていました。意図的な演出によって。でも、現実はそんなに単純に善悪で分けられませんよね。ドラクエみたいにはっきりとした魔王なんてどこにもいないですし、一つの物事にもいくつもの要因が絡み合って、それぞれ良いところと悪いところがある。そんなことは誰でも知っています。もし知らなかったら、それは子供か阿呆です。


でも、それだと複雑すぎて理解することができないから、善悪論という「物語」の枠にドキュメンタリーやテレビ報道は落とし込むわけですよ。そして、その「物語」の中では、主人公は善で、しかも弱者に設定されていなければいけません。そうした方が視聴者の共感を得やすいからです。


思えば、この映画の主要な三人は、いずれも厳しい現実に虐げられる弱者でした。困っていました。ここで思い出していただきたいのが、報道の役割②「困っている人(弱者)を助ける」です。この映画は①の「伝える」ために、彼らを弱者に設定して、「物語」的な困っている人を作り出しているんですよ。


そして、最後に救済を与える。視聴者にもカタルシスが与えられ、「はい、よかったね」で済まされる。私たちは「物語」という枠にあてはめないと、現実を解することができないんだなと思い知らされます。そして、私たちが「物語」を必要としている以上、いくら危機的状況が叫ばれ、マスゴミと叩かれようともメディアは消えない。形を変えてでも生き続けるんだなと感じました。まだ、情報の正確性においてはネットよりもオールドメディアの方が優位性がありますしね。


でも、この映画は最後に、ドキュメンタリーは、テレビ報道は欺瞞が含まれていると暴くんですよね。お前たちが受け取っているのは加工された二次情報であって、一次情報じゃないぞと釘を刺すんですよね。この演出が私は今までのテレビ報道の反省に立っているような気がして、とても好きですね。最後ちょっと長いかなと思っていたんですけど、この終わり方で評価は跳ね上がりました。今年観た映画の中でも暫定ナンバーワンです。


コロナウィルスによる情報が錯綜する現在。どの報道を信じていいのか分からなくなることもあるでしょう。ただ、この映画を観ればメディアリテラシーやネットリテラシーが高まることは間違いありません。首都圏に外出自粛が要請され、またこの映画自体上映している映画館がほとんどなく、観ることは大変難しいのですが、それでも機会があれば、ぜひ観たいただきたい映画です。




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以上で感想は終了となります。映画『さよならテレビ』、今観てよかったと思える傑作でした。いアマまであまり観てきませんでしたが、ドキュメンタリーもいいものですね。これからも機会があれば観てみたいと思います。皆さんも『さよならテレビ』、よろしければご覧ください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。前回に引き続いて、今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』。タイトル通り、1969年5月13日の三島由紀夫対東大全共闘の討論会を題材にしたドキュメンタリー映画です。私は三島由紀夫の小説は読んだことがなく、全共闘にも詳しくなく、左翼右翼ってなんですかという、単なる浅薄な阿呆なのですが、何となく関心が向いたという理由だけで、観に行ってきました。


そして、観たところ想像以上に面白い映画になっていましたね。正直、討論の内容はなんのこっちゃなのですが、それでも今観る意味がある映画だと言えます。もはや必見レベルで。


では、感想を始めたいと思います。まず、断っておきますが、この感想は三島由紀夫や東大全共闘の政治思想を論ずる感想ではありません。映画に関する感想としては間違いなく最も程度が低く、また拙い文章ですが、何卒よろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください







1968-69年は「政治の季節」と呼ばれた時代。五月革命やプラハの春などの政治革命が世界中で起こり、その波は日本にも押し寄せていました。まず、組織や党派に属さない一般学生が結集し、大学改革を主張する全学共闘会議(全共闘)が発足。そこに左派の学生も合流し、大学問題の範疇を越えた政治的なスローガンを掲げ、安田講堂立てこもり事件など過激化していきました。火炎瓶が投げ込まれ、火がぼうぼうと燃える様子は、戦争がまだ身近だった頃の様子を存分に物語っていますね。


一方の三島由紀夫。こちらも遍歴が紹介され、日本を代表する作家であることが改めて伝えられます。意外だったのは、自分の体も鍛えていたことですね。それもゴリゴリに。東大全共闘から「近代ゴリラ」と揶揄されるくらい。また、自らいざというときに天皇を守る「楯の会」を結成するなど、かなりの天皇論者であり、左派学生とは異なる右翼思想の持ち主でもありました。この辺りはしっかりと説明してくれるので、分かりやすいですね。


そんな三島が東大全共闘に招かれて、東大駒場900番教室を訪れたのが1969年5月13日。当時の東大全共闘は安田講堂の事件で失敗し、次の一手として、当時のスター作家だった三島由紀夫を招いて討論するという手を打ちました。900番教室に集まった学生は約1000人。その中に三島は単身赴いていきます。そして、午後二時。後に伝説と呼ばれる討論会が開始されました。


ここで、その討論の内容をお伝えできればいいのですが、いかんせん私は頭が悪いので、討論の内容をいまいち覚えていないんですよね......。最初のスピーチに始まり、他者とは何か。自然とは。実在とは。天皇論は今も議論されているので、多少はわかりやすかったのですが、それ以外は政治に疎い私にはちんぷんかんぷん。デカルトの分厚い難解な哲学書を読んでいるようで、全く頭に入ってきませんでした。こういう本、私10ページも読まないで投げてしまいますからね。


いや、ちゃんとわかりやすく伝えてくれようとはしてくれるんですよ。大事なところは文字に起こしてくれていますし、ニュース映像や当事者の証言で内容を補完してくれます(芥正彦さんだけ明らかに雰囲気違い過ぎる)。さらには、平野啓一郎さんや内田樹さんなどが噛み砕いて解説してくれるのですが、頭がお粗末な私にはそれすら......。


「三島は持続に重きを置いていた」とか「戦後に適応するために涙ぐましい努力をしていた」とか言われても、分かるようで分からなくて......。まあ、この方々が解説してくれなかったら、本当に置いてけぼりを食らっていたと思うので、ありがたかったんですけどね。


でも、議論の内容は間違いなく面白いんですよ。異なる思想の応酬は、観ているだけで白熱しているのが分かりますし。もっと張りつめているのかと思いきや、適度に笑いもあって。ただ、話している内容が雲を掴むようで、私には理解できませんでした。もっと政治とかこの国の行く末について、議論するのかなと思いきや、名前がどうだとか関係づけがどうだとか、これって本題と関係あるのかな?という話もけっこうしていて。


で、これまた芥さんが、わざわざ難しい言葉を選んで喋るんですよね。何ですか、事物って。別に物事でいいじゃないですか。抽象的な言葉も多く、理解するスピードが追いつきません。「観念的なこじつけじゃないか」という野次には、本当にそれなと思ってしまうくらいです。頭良い人は本当に頭良いんだなというバカみたいな感想を抱きました。


あとは、楯の会や当時の担当編集等の証言で、三島由紀夫の人間性に迫ろうとしていたのもポイントですね。お寿司屋さんに連れて行ってくれた話だったり、自決した人の原因を神経衰弱だと決めつけることに怒ったり。映画では三島のベースにあるのは、10代を戦争末期という時期で過ごしたことみたいな話されていましたね。当時は戦争をして天皇のために死ぬことが当たり前で、自分の運命と国の運命が同一化していた。けど、戦争に負けてその二つが別れてしまって、さてどうしようかという。残された者の苦悩みたいなものは、この映画を観ていて印象に残ったシーンの一つでした。




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といったように、ところどころ分かりそうなところはあるんですが、全体的にはやっぱりよく分からないというのが正直なところです。自分の頭の悪さを実感させられます。ただ、そんな中でも印象に残っているのが、討論会の空気ですね。熱情は迸っているんですけど、意外に楽しそうなんですよ。議論にはユーモアもあって良く笑いも起こっていて。


まるで、彼らは本気で議論していることを楽しんでいる様子でした。相手から言葉を引き出すことを楽しんでいるといいますか。芥が三島の煙草に火を貸したシーンはそれを象徴するものでしょう。本当にいがみ合っていて険悪な雰囲気だったら、あんなことできないですよ。


そのベースにあったのが、お互いを認めることなんですよね。三島は東大全共闘の主張に反論するときも、否定から入らずに「諸君らの言うことは分かるけども~」みたいに、一定の理解を示してから入るんですよ。開口一番「それは違う」みたいなことは言わないんですよね。論理的矛盾を指摘したり、揚げ足を取ることもせず、言葉遣いも丁寧。相手である東大全共闘にしっかりと敬意を払っているんです。


「諸君らの熱情は認めるけども、それ以外は認めない」というのも、東大全共闘に参加する学生をしっかりと人間として見ているからですし、それは東大全共闘もそう。東大全共闘の学生は一度も三島を呼び捨てにしないんですよ。理解を示しているんですよ。全く反対の思想を持つ相手にも、敬意を払うことが議論の基本なんだと感じずにはいられません。


これって本当に今の時代、特にSNSでのやり取りとは真逆だなって思います。元来、SNSは文字数が制限されていて、議論にはあまり向かないツールではあるんですが、それにしたってここ最近は酷い。スマートフォンの向こうにも人間がいることを考慮せずに、匿名だから特定されないだろうと、思慮分別のない暴言のオンパレード。相手にも人生があることを考えれば、もう少し慎重にもなると思うのですが、画面の向こうを想像できないのでしょうか。俗にいう「炎上」は目をつむりたくなるほどです。そこに敬意は全くありません


いや、分かるんですよ。現実では気を遣ってばかりだから、SNSぐらい自由にやらせてくれというのは。ただ、それにしたって気軽に「死ね」とか「消えろ」なんて言っていいわけがないじゃないですか。思ったとしても言うべきではないです。言葉は、人を殺せるんですよ。物理的に。自分が吐く言葉が凶器となって人に刺さっているなんて、きっと思いもしないのでしょう。


そんな人たちには、劇中の三島のこの言葉を聞いてほしい。


非合法で人を殺したんなら、お巡りさんに捕まる前に、自決でも何でもすればいい


つまり、言葉で人を殺したのなら、その責任を取れますか?自分も死ねますか?ってことなんですよ。言葉って怖いんです。今でも大きな力を持っているんです。その自覚が匿名性が発達した現代では、希薄になっているのかなと感じました。言葉ってもっと慎重に扱うべきものだと思うんです。相手のことを考えて、責任を持って発しなければいけないということを、私はこの映画から感じ取りました。


なので、私はこの映画を一人でも多くの人に見てほしいです。特に、この映画のナレーターである東出昌大さんの不倫騒動を過剰に叩いていたツイッタラーたち。自分とは関係もないのに、よくそこまで躍起になれるなと感心してしまうほどなのですが、そういう人たちにこそ、この映画を観てもらって自省してほしいなと思います。自分の行為がどれほど恐ろしいことなのか分かってほしいです。


ただ、そういう人たちはこの映画、絶対観ないんだろうなと。本当に届くべき人には、届かないんだろうなと口惜しく思います。観て自分の行動を顧みてほしいんですけど、SNSで炎上への加担を続けるんだろうなと思うと、残念でたまりません。この映画を観ようかどうか迷っている方がいたら、ぜひ観ることを強く勧めます。内容は分からなくてもいいので、この映画のメッセージをぜひ感じ取ってください。



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以上で感想は終了となります。映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』。一人でも多くの人が見るべき映画です。三島由紀夫や東大全共闘について知らなくても大丈夫。ちゃんと説明してくれますから。どうぞ安心して、コロナウィルス対策を万全にしつつ、映画館に足を運んでくれると幸いです。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。コロナウィルスなかなか収まりませんね。映画の公開延期も増え続け、Jリーグの再会もまた延期になってしまいました。ただ、そんななかでも公開してくれる映画は何本かあるわけで。そのありがたさを噛みしめながら、今日も映画館に行ってきました。


今回観た映画は『一度死んでみた』。広瀬すずさん主演のコメディ映画です。最初に言っておきますけど、私はこの映画好きじゃないです。ここまでアレな出来になっているとは思いませんでした。今は怒りを通り越して呆れてさえいます。


では、感想を始めます。あまりいいことは言っていませんし、拙い文章ですが、それでもよろしければどうぞよろしくお願いします。




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―目次―

・掴みからして上手くいってない
・観客を信頼していないのかな
・何年前の演出ですか
・完全に作劇を失敗している





―あらすじ―

父親のことが大嫌い、いまだ反抗期を引きずっている女子大生の七瀬(広瀬すず)。売れないデスメタルバンドのボーカルをしている彼女は、ライブで「一度死んでくれ!」と父・計(堤真一)への不満をシャウトするのが日常だった。そんなある日、計が本当に死んでしまったとの知らせが。実は計が経営する製薬会社で発明された「2日間だけ死んじゃう薬」を飲んだためで、計は仮死状態にあるのだった。ところが、計を亡き者にしようとするライバル会社の陰謀で、計は本当に火葬されてしまいそうに…!大嫌いだったはずの父の、絶体絶命のピンチに直面した七瀬は、存在感が無さすぎてゴーストと呼ばれている計の秘書・松岡(吉沢亮)とともに、父を救うため立ち上がることに!火葬までのタイムリミットは2日間。はたして七瀬は無事、父を生き返らせることができるのか!?

(映画『一度死んでみた』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・掴みからして上手くいってない


『一度死んでみた』、正直に言って、全く合いませんでした。予告編の印象からして、合わないだろうなとは思っていましたが、一縷の望みをかけて観に行ったところ、想像通り上手くいかなかったですね。ただ、他の合わなかった映画は、合わないなりに良いところもあるんですが、この映画には良いところが全然なくて。はっきり言って映画の出来自体が悪いと思います。チープでインスタントな演出に、カタルシスを感じられないストーリー。暫定で今年のワーストです。


まず、この映画は予告にもあった広瀬すずさん演じる野畑七瀬が、製薬会社の面接を受けるところから始まります。嫌いなものは製薬会社の社長である自分の父親・野畑計。「御社の入社は希望しません」と断固拒否。もう面接受けるなきゃいいじゃんという話で、最初から無理やり感がありますね。展開のためには必要だったのですが、全く不自然です。


そして次のシーンでは、七瀬がボーカルを務めるバンド・魂ズのライブ。ここで曲名がタイトルコールになっているのは良かったのですが、このライブがもうツッコミどころ満載。まず全然デスメタルじゃないですし、あんなに揃ってヘドバンしますかね。ファンも絵に描いたようなオタク集団で、15年くらい古いと思います。あれじゃバンドのファンじゃなくて、七瀬の顔ファンじゃないですか。イメージだけで撮っている気がして、あまり好きじゃないですね。


さらに、曲をぶった切ってまで、回想を挟むのでテンポは死滅。最初に演奏を見せておいて、観客の心を掴むのかな、ありがちだけど悪くない始まり方だなと思いきや、そんなことは全然なくてガッカリしました。まず掴みからして失敗していると感じました。



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・観客を信頼していないのかな



テンポの悪いオープニングが明けて、映画は本編へ。野畑製薬では、若返りの薬・ロミオを開発中。しかし、同じ製薬会社であるワトソン製薬も同じく若返りの薬を開発していて、ワトソン製薬は野畑製薬を吸収合併しようと目論んでいます。しかし、計はそれを突っぱね、自社での開発を目指します。


一方、七瀬のことが心配な計は見張り役をつけます。それが吉沢亮さん演じる野畑製薬社員・松岡卓。松岡は持ち前の存在感のなさを生かして、七瀬を監視。というかそのためだけに雇われている節もあって、どんな雇用形態だよと思います。


ここで、あまり好きじゃないのが、ライブハウスでのシーンなんですけど、松岡が自分のことを「存在感のないゴースト社員」だって言っちゃってるんですよね。こう自分から説明しちゃうのあまり好きじゃないなって。それは映画なんだから描写で見せることであって、台詞で言うことじゃないでしょう。吉沢さんの演技力があればいくらでも言わずに伝えられたと思いますし。


というか、この映画全体的に説明過剰すぎるんですよね。大事なことは全部喋っちゃう。特に七瀬が嘘をつくときに耳を引っ張るという癖があるというところ。あそこもわざわざ明言するまでもなく、広瀬さんの演技力があればどうとでもなったと思いますし、説明の多さはあまり俳優さんのこと信頼してないのかなぁとすら思いました。


あと、たぶん観客のこともそんなに信頼してないんじゃないかなって。これくらい説明がなければわからないだろと、見くびられている感じが嫌でしたね。特に状況が変わったときの説明。火葬時間が遅れたとき、早まったとき、いちいち状況を図で説明してくれるんですけど、そんなことしなくてもそれくらい分かるよって言いたかったです。あと、歌の歌詞も直接的過ぎる気がして、感動の押しつけ感がありました。そこはもうちょっと慎重に考えてほしかったところですね。




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・何年前の演出ですか


さて、野畑製薬内には、何やらワトソン製薬との合併を推し進めようとする人間がいる様子。まあ推理もへったくれもなく、その怪しい雰囲気のまんま、小澤征悦さん演じる渡部が内通者なのですが、そこは計には分かっていない様子。そして、内通者を探るために計が取った手段が、ロミオの開発途中で偶然できた二日間だけ死ねる薬・ジュリエットを飲み、自らが死んでいる間に怪しい動きをした人物を特定するというものでした(まあこれも渡部の提案なのですが)。


ジュリエットを飲み、一時的に死ぬ計。ただ、死の直前に渡部は謎の書類にサインさせるという、隠す気もない悪役ムーブ。その様子をロッカーからこっそり見ていた松岡が、計の死の真相を七瀬に伝えることで、ようやく物語は動き出します。93分という短い上映時間のわりに、ここに至るまでの時間がけっこう長く(30分以上はあったと思う)、構成も少し上手くいっていないように感じました。


そこからはコメディ映画らしく、俳優さんの大袈裟な演技と、二転三転するストーリーとで映画は引っ張られていくのですが、それにしても演出がチープでインスタントな感じはしました。それはもうコメディ映画だからという言い訳も効かないくらい(というかコメディ映画だからこそ、その辺りは真摯にやるべきでは)。


まず、これを言ったら元も子もないのですが、計が幽体として現れる演出が、個人的にはキツかったです。七瀬にしか見えていないとはいえ、けっこう何でもありで、便利な説明要員と化している気がしました。三途の川で死に別れた妻と再会するくだりも何を見せられているんだろうって思いましたし、極めつけはジェスチャークイズ。あそこは恥ずかしくて、もう直視できませんでした。


さらに、現実世界の描写も収まりの悪い演出のオンパレード。ジャパーンのキツさは言わずもがな。ワトソン製薬が葬儀場を予約できないようにしたり、棺桶を買い占めるシーンは本気でやってるの?と正気を疑ってしまいましたし(キャラクターじゃなくて、作り手の方ですよ)、葬儀会場での歌に対する反応も、宗教レベルの絶賛が気持ち悪い。


極めつけは七瀬の口元に生クリームがついていた演出ですね。もう2020年にもなって、まだそれやるかと。それはもう1900年代に置いてきてよと辟易してしまいました。松岡がクリームを拭うといった胸キュンシーンなんでしょうけど、全然キュンとしませんでした。




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・完全に作劇に失敗している



どうしても、ワトソン製薬と野畑製薬の合併を成し遂げたい渡部は、計を火葬してしまうことで、生き返らせなくすることを思いつきます。しかし、計を生き返らせたい七瀬と松岡は、当然これに反発。告別式を行って、火葬の時間を遅らせんとします。


この映画がきついのって、ここからの展開なんですよね。単刀直入に言ってしまえば、主人公である七瀬が全然頑張ってないんです。全部、偶然の産物なんです。葬儀会場のホテルが空いたのだって、郷ひろみさんの体調が悪くなったからですし、棺桶を用意できたのも魂ズのステージセットに元々あったから。警戒態勢の中紛れ込めたのも、松岡がたくさんのオタクを用意してくれたおかげですし、七瀬が何かしたことで、状況が変わったというのが全くないんです。


私は、物語というのは「キャラクターが困難を乗り越えるために頑張った軌跡」だと思っているんですけど、この映画にはそれが全然ない、厳しい言い方をしてしまえば、物語やドラマといったものがないんです。葬式会場で、七瀬が計への本当の気持ちを歌うシーンも、あれは感動させたいんでしょうけど、そこに至るまでの七瀬の頑張りがあまりに希薄すぎて、カタルシスが感じられません。だから何?と思ってしまいます。


この映画は「人間は考えるだけで存在している」だとか、「何がしたいの」だとか、「当たり前のことが一番大事」だとか、「大事な人と年を取りたい」だとか、感動するような台詞がいくつか出てきました。ただ、そこに至るまでの掘り下げやドラマが不十分なので、ただ上辺だけをなぞるように過ぎていった印象があります。はっきり言って薄っぺらい。なぜなら、七瀬が自分の力で困難を乗り越えていないからです。


この映画の一番杜撰だなと思うところが、解決方法でして。正直、後出しジャンケン感があるんですよ。ごみ箱に捨てられた取扱説明書だって、松岡がすぐ確認しない理由がありませんし、強い電圧を与えるって、それが静電気でいいのかどうかは置いておくにしても、全く七瀬が関わっていません


それに、最終的な解決もダメだと思います。まず、七瀬と計がなんかいいことを言って問題解決みたいな空気になったところで、渡部の横やりが入るんですね。無理やりサインさせた遺書には「七瀬が問題を起こした場合、一番の年長者に決定権が移る」という条項がありまして。この条項自体が意味不明なんですが、一番の年長者はワトソン製薬の社長。もちろん合併を決めます。が、ここで話はさらにもう一転。実は、ロミオの開発者が一番の年長ということが明かされ、合併は反故になります。


ここも一応伏線は張ってあるとはいえ、後出しジャンケン感は否めませんし、そもそも七瀬が完全に蚊帳の外なんですよね。極端な話、七瀬が場にいなくても成立してしまうんですよ。七瀬が何かすることで、状況が変わったみたいなものが全くないんです。七瀬の行動は何も掴み取っていないんです。エンタメ作品なんだから、最後は主人公に掴み取らせないとですよ。そんなハイヤーパワーみたいなものによって決着がついたら、今までのは何だったの?ってなります。完全に作劇をミスっています。




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確かに伏線回収はいくつもなされていましたし、そこに爽快感みたいなものはかすかにありましたよ。でも、それは末節に過ぎなくて。根本の困難の乗り越え方が偶然の産物でしかなかったら、それは単なるご都合主義でしょう。キャラクターの頑張りが何の影響も与えないんだったら、その話は失敗ですよ。


なんか演出も含めて、この映画はこうしちゃいけないという悪い見本になってしまっている気がしますね。「小説家になろう」などで、底辺をさまようアマチュア作家の小説でさえ、もうちょっとキャラクター、特に主人公が頑張ってますよ。この手の商業映画でこれなんて、個人的には認めたくないです。


褒めるところと言ったら93分というコンパクトさと、俳優さんぐらいですかね。広瀬すずさんは今までとは違う、尖っていて強い口調の演技もしっかりこなしていましたし(役の幅は広がったとは思うけど、それがキャリアにプラスになるのかは知らん)、吉沢亮さんは地味目な役に合わせて、現実的な口ぶりをしていました(吉沢亮さんである必要性があったのかどうかは疑問ですけど)。


堤真一さんもちゃんと役になりきっていて、職人気質みたいなものを感じましたし、木村多江さんは演出の被害者になっていてかわいそう。他にも端役で佐藤健さんや妻夫木聡など、めまいがするような豪華俳優陣が出演していて、そういう「この人も出てる」みたいな楽しみ方をするのが、この映画に限っては一番いいのかなと思います。


でも、いくら豪華な俳優さんたちを揃えても、元の脚本や演出が上手くいっていなかったら、ダメな映画になってしまうんだなと、この映画を観て思いました。話の大切さが身に染みた感じがします。俳優さんのファンにですら、あまりオススメしたくない映画ですが、創作をしている方にとっては「こうしちゃダメなんだ」と学ぶことができるかもしれないですね。私は、この映画にそれくらいの意味しか見出せませんでした。ごめんなさい。




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以上で感想は終了となります。『一度死んでみた』、今年に入って初めて、はっきりとダメだと言える映画でした。2020年にもなって、この映画が作られてしまう日本映画界がちょっと心配になるくらいです。どうにかなりませんかね……。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 






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こんにちは。これです。こんな時は日常が大事。Jリーグがない今私にとっての日常は、たまに映画館に行くこと。


というわけで、今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『mellow』。今一番勢いがあると言っても過言ではない今泉力哉監督のオリジナル作品です。去年観た『愛がなんだ』と『アイネクライネナハトムジーク』が好きだったので、この映画もチェックしなければと思っていたんですよね。で、観たところまた好きな映画でした。日常的な空気が流れていていいですね。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―


・優しすぎないところが好き
・ジャンルで言えば恋愛群像劇
・想いの伝え方は一つじゃない





ーあらすじ―

オシャレな花屋「mellow」を営む夏目誠一。独身、彼女無し。好きな花の仕事をして、穏やかに暮らしている。姪っ子のさほは、転校後、小学校に行けない日がたまにある。そんな時、姉は夏目のところにさほを預けにやってくる。
さほを連れていくこともある近所のラーメン屋。代替わりして若い女主・木帆が営んでいる。亡くなった木帆の父の仏壇に花を届けるのも夏目の仕事だ。
常連客には近くの美容室の娘、中学生の宏美もいる。彼女はひそかに夏目にあこがれている。
店には様々な客がいて、丁寧に花の仕事を続ける夏目だが、ある日、常連客の人妻、麻里子に恋心を打ち明けられる。しかも、その場には彼女の夫も同席していた…。
様々な人の恋模様に巻き込まれていく夏目だが、彼自身の想いは……。

(映画『mellow』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください









・優しすぎないところが好き



この映画のタイトル『mellow』。これは日本語に訳すと「熟した」などの意味があるそうです。なのでこの映画では円熟した大人の物語が見られるのかなと思ったら、全然そうではなく。この映画の登場人物って全然熟していないんですよね。好きという想いを胸の奥に抱えて、悶々としているんです。


それは主人公の夏目誠一からしてそうです。物腰柔らかで誠実な人柄は、「言いたいことは言わなくていい」というオープニングのやり取りから伝わってきます。夫婦の別れ話にもらい泣きしたり、最後の一杯を他人に譲るなどいわゆる"良い人"ではあるんですが、聖人とまではいかない。後述する青木とのシーンでは、結構強い口調でツッコんでいますし、不満を煙草を吸うことで煙に巻こうとしています。後で話のネタにもしていますしね。夏目を演じた田中圭さんのすれていない穏やかな雰囲気もあり、良い人すぎないところが好感が持てました。


オープニングからこの映画は落ち着いた雰囲気で進んでいきます。映されるのはあくまで登場人物たちの日常の延長線。社会的に大きな事件などは一切起こりません。いや、片想いでいる気持ちを伝えるという当人にとっては一大事ではあるんですけど、変に脚色されずに、ありのままでいるんですよね。告白のシーンは音楽も止まっていたように思えますし。特別なんだけど、特別すぎないところが好きでした。ちゃんと街の中にいる人という感じがして。窓の外では普通に通行人が歩いていましたし。


来店した女子高生・陽子に花束を作って渡す夏目。それとなく渡す相手のことを聞き出す口ぶりや、お金を必要以上に多く取らないところから、夏目の誠実な人柄が垣間見えます。この序盤で好きだったのは、不登校の姪っ子・さほを誰も責めていないところですね。学校に行けとプレッシャーをかけずに、普通に受け入れる。その優しい空気感がたまりませんでした。


この映画って誰の想いも否定されることはないんですよね。受け入れられないことはありますけど、無碍にされることはない。柔らかな空気がずっと漂っていて、浸っていたくなりました。


ただ、これが優しい世界であるかといえば全然違って。この映画ってけっこう登場人物にとって都合の悪いことが起こるんですよね。優しい世界だったら、不登校は発生していないでしょうし、告白は100%受け入れられるでしょうし、ラーメン屋は千客万来でしょう。登場人物に都合の悪いことも当たり前に起こすことで、リアリティをより感じました。優しいだけじゃなくて、厳しい視線もちゃんと持ち合わせていて、この映画信頼できるってなりました。



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※ここからの内容は映画のネタバレを多少含みます。ご注意ください。







・ジャンルで言えば恋愛群像劇



この映画はジャンルで言えば、恋愛群像劇に分類されるでしょう。この映画っていくつもの片想いが同時進行で動いているんですよね。


まず、夏目と近所のラーメン屋の店主・古川木帆の関係性。夏目はよく木帆のラーメン屋を訪れていて、ラーメンを食べながら世間話をしています(この映画のラーメンとても美味しそうだったなぁ。空腹の状態で観たら危なかった)。どちらとも気があるようなないような、そんな微笑ましいけど微妙な空気感。密着せずに少し距離が開いているところがもどかしく感じます。木帆を演じた岡崎紗絵さんの自然的な明るい雰囲気も良かったですしね。飾らない感じで、観ていて心が解きほぐされるようでした。


次に、美容室で働く青木麻里子。二週間に一度、自宅に花を届けにやってくる夏目に片想いをしています。そのことを夫にも打ち明け、三人で夏目と話し合いの場を設けることになります。この三人の話し合いがですね、良い意味でコント的で面白かったんですよね。夫の前で片想いの相手に告白するというおかしなシチュエーション。微妙に噛み合わない会話。ツッコミ一人にボケ二人の構図。どんどんとエスカレートしていく大ボケ。


この辺りはなんというか東京03のコントを見ているようでした。あの3人がそれぞれの役にバシッとハマっていたんですよね。途中から麻里子が女装した豊本さんに見えてしょうがなかったですもん。夏目の間の取り方も絶妙でしたし、カメラを固定することでライブでコントを見ているような錯覚に陥りました(見たことないけど)。去年のM-1の時に今泉監督は解説めいたツイートをしていましたし、なんかお笑いが好きなのかなって感じます。


さらに、陽子とその先輩・宏美の関係性。オープニングで陽子が花を買ったのって、宏美に思いを打ち明けるためだったんですよね。実際、宏美は活発ですけど、どこかミステリアスな雰囲気がありましたし、同性からの人気が高いのも頷けます。宏美を演じた志田彩良さんのクールな瞳もたまりませんでしたしね。


ただ、宏美は別に好きな相手がいると陽子をフッてしまいます。しかし、昼食は一緒に食べるなど仲の良さは維持している様子。ここの「普通三月じゃない?」などといったやり取りは、今思い出しても正直ときめきますし、羨ましそうに覗き見る後輩と合わせて完璧な構図でした。あえて言わせてください。エモかった。


それと、ここで最高だったのが何といってもバスケットボールですよね。屋上の隅にちょんと置かれた。陽子と宏美をあえて中心から外して、バスケットボールとともに映す構図には計り知れないエモさを感じました。内心すごくテンション上がってましたね。バスケットボールにあそこまでときめいたのは初めてです。


今思えば、この映画って小道具が良い味を出しているんですよ。バスケットボール、コーヒー豆、ラーメン、ハサミetc...。そして、極めつけはこの映画の大きなモチーフである花と。多くのショットにこれらの小道具が入るように設計がなされていたように思えましたし、それはこの映画の大きなカラーとなっているように感じられました。




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・想いの伝え方は一つじゃない


この映画のメインテーマは「想いを形にして伝えることの大切さ」だと私は思いました。それは言葉であったり、行動であったり、物に託したりと様々です。ですが、この映画の登場人物たちは、思いを形にして、その相手に伝えているんですよね。


その最たるものは言葉でしょう。想いはただ想っているだけでは、相手には伝わりません。みんな読心術が使えるわけじゃあるまいし。この映画の主要な登場人物たちは、ほとんど全員が片想いをしていたわけですよね。劇中で「多くの好きは表に出てこない」という意味のセリフがありましたけど、意中の相手に「好き」と言えずに悶々とした日々を送っている、もしくは送っていた人は少なくないと思います。この映画の登場人物たちのように。


では、その想いを伝えないまま、相手が振り向いてくれたことはあったでしょうか。答えは多くがノーだと思います。私にもそういう経験がないわけではありませんしね。やっぱり伝えないと届きませんよね。何事も。


この映画の登場人物たちは、片想いを「好き」という言葉にして相手に伝えます。それもほとんど全員が。まあその多くは実ることはないのですが、それでも一度は「ありがとう」と言ってもらえるんですよね。肯定してもらえるんですよね。その後にくる言葉が「ごめんなさい」だとしても。決して無碍にはされないので、失恋したとしてもどこか空気は穏やかで愛しいままです。伝えるという行為そのものは否定されておらず、私はここに今泉監督の優しい視線みたいなものを感じました。伝えた方がいいよって、映画を通してそっと語り掛けてくるように思えました。




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でも、現実はそう上手くいかなくて、言葉にして伝えられないこともあると思います。ぶっちゃけ全員が「好きです」って言えるのは少しファンタジーな香りもしますしね。では、どうするかと言ったら行動にして伝えることなんですよね。


劇中で木帆はラーメン屋を畳むことを決意します。しかし、閉店の張り紙は出しません。その理由は「閉店が決まってくるお客さんってその程度の気持ちだから」「愛情じゃなくて、情。下手したら同情だから」というもの。これ分かってしまうなぁ。いわゆる"葬式鉄"というやつですよね。終わりという特別な時にしか来ない。まぁ私も閉場が決まったボーリング場にノコノコ行ったことがありますから、あまり人のことは言えませんけど。


でも、ただ家でじっとしているだけでは、同情でさえも伝えられないんですよね。行動に移さないと。行ってみないと。言葉にできないのならば、行動で示すというのだって、気持ちを伝える立派な手立ての一つだと思います。特に終わる時。「スッと消えて悲しくなる人はいる」というセリフが劇中で語られていましたけど、行動で示さなきゃその悲しさですら伝えられないんですよね。これは人が死ぬ時にも言えるなと思って。よく「孝行のしたい時分に親は無し」なんて言うじゃないですか。いなくなる前に伝えておいた方がいいよ、ということもこの映画は語っているような気がしました。




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しかし、言葉にも行動にもできない人が想いを伝えるにはどうしたらいいでしょうか。その答えが花などの物に託すということなんですよね。この映画では、何度も印象的には花が登場し、また贈られました。登場人物はただ花という物体を移動させていたかといったら、それは違いますよね。花に想いを込めて贈っていたわけですよね。赤いバラで感謝の意を示すように。


考えてみれば、花というものはただ咲いて散るだけです。子孫を残す以外に意味なんてありません。勝手に意味を加えるのは人間の方です。都合で花言葉をつけて、アピールする。こんなものは人間のエゴですよ。勝手ですよ。


でも、人間は面と向かって想いを伝えられないときに、その想いを物に託して伝えるわけですよね。この映画では小道具が印象的に使われていましたけど、それらの一個一個、花の一本一本が登場人物の想いを物語っているように私には感じられました。ただ、バスケットボールでパス交換をしたり、コーヒー豆をいじくったり、ラーメンを食べていたわけじゃないと思うんです。そこには登場人物の言葉にできない想いが込められていて、映画の中の相手や私たちに伝えてきていると思うんです。


何を当たり前のことをと思うかもしれませんが、この映画のこういった小道具の演出がテーマ自体に即している気がして、私はすごく好きなんですよね。手段は何でもいいんです。ただ、想いを伝えることができれば。想いを伝えることを肯定的に、尊いものとして描いたのがこの映画ではないかと、私は感じました。


正直、私は花があまり好きじゃなく、貰っても嬉しくないんですが、これからは花は誰かの思いが込められたものだと心得て、ゴミ箱に捨てるようなことは辞めようと思います。まあ今暮らしている部屋に花を飾るスペースはないので、もしこれから花を貰うようなことがあれば、実家に送って大切にしてもらおうかと思います。この映画を観て、そういう方向に考えが変わりましたね。観て良かったです。




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以上で感想は終了となります。映画『mellow』、観ている途中も、そして観た後も、じわじわと暖かい感情に心が満たされていくような、そんな良い映画だと思います。やっている映画館は少ないですが、機会があればぜひご覧ください。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 






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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』。私はデジモンをあまり通ってきておらず、テレビシリーズも子どもの頃にキッズステーションで断片的に見ていたぐらいで、そもそもどちらかというとポケモン派な人間です。ただこの映画は予告編が公開された時から観たいなとは思ってはいたんですよね。それで、このタイミングではるばる松本まで行って観てきた次第です。


で、観たところ名作だと感じました。デジモン派ポケモン派関係なく楽しめました。ただ少し気になったところもなくはなかったんですよね。


それでは感想を始めたいと思います。なおこの映画を観るのにした予習は『ぼくらのウォーゲーム』と最初の劇場版、そしてテレビシリーズ(無印)の第1話ぐらいです。つまり全然詳しくありません。それも踏まえてお読みいただければ幸いです。拙い文章ですが何卒よろしくお願いします。



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ー目次ー

・序盤から懐かしさを感じるシーンが満載
・かつてのデジモン世代にダメージを与える展開
・大人になることとデジモンと別れること
・100%の救済を与えないことに意味がある




ーあらすじー

太一とアグモンたちが出会い、デジタルワールドを冒険した夏から十年以上が経過した2010年。
世界中の“選ばれし子どもたち”は徐々にその存在が認知され、現実世界にデジモンがいる風景も珍しくなくなっていた。

太一は大学生となり、ヤマトたちもそれぞれ歩むべき道を見定め、自身の進路を進み始めていた。
そんな中、世界中の“選ばれし子どもたち”の周囲で、ある事件が起こり始める。
太一たちの前に現れたデジモンを専門に研究する学者・メノアと井村は、”エオスモン”と呼ばれるデジモンが原因だと語り、助力を求めてくる。

事件解決に向けて、太一たち選ばれし子どもたちが再び集結。

しかし、エオスモンとの戦いの中でアグモンたちの“進化”に異変が起こる。その様子を見たメノアは、太一たちに衝撃の事実を語る。選ばれし子どもが大人になった時、パートナーデジモンはその姿を消してしまう――。エオスモンの脅威は、次第に太一の仲間たちにも及んでいく。

戦わなければ仲間を救えない、しかし無理な戦闘はパートナーとの別れを早めていく事に。

ずっと一緒にいると思っていた。

一番大切な存在と別れてでも戦うのか?

“選ばれし子ども”が大人になるということ――。

変えられぬ宿命を前に、太一とアグモンの”絆”が導き出す、自分たちだけの答えとは?

(映画『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください。




※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。




・序盤から懐かしさを感じるシーンが満載


この映画ってもう序盤から飛ばしてくるんですよね。いきなり建物の電灯が点滅する描写は『ウォーゲーム』を彷彿とさせますし、オーロラも無印1話のオープニングを思い起こさせます。さらに、敵役として登場したキャラクターがパロットモンという。最初の劇場版に登場したデジモンがここで21年ぶりの再登板です。さらに、挿入歌も1話の終盤で流れた和田光司さんの「Brave Heart」。これでもかと昔のシチュエーションを登場させるという。いやー、本当サラッとですけど予習しておいてよかったですね。キャッチーなバトルシーンと合わせて掴みは完璧です。


この映画のメインターゲットってたぶん20代後半~30代の方だと思うんですよ。デジモンブーム直撃世代ですね。私が観た回もその年代の人で大多数が占められていましたし。で、その方たちに満足を提供するには、昔のシチュエーションを出して当時のことを思い出させてもらうのが一番手っ取り早いんですよね。とりあえず気持ちよくなってもらって、観客と作品との距離を縮めるというか。その試みはもう大成功ですよ。少なくとも私はオープニングで流れた「Butter-fly」で、もう泣きそうになりましたもん。ただ、終わってから振り返ってみるとこの展開自体が伏線となっているような気がしました。


そして、オープニング明けの太一やヤマトの現況は観ていて辛いものがありましたよね。特に太一。デジモンとの戦いをしているおかげで、就職活動もろくに進んでませんし、卒論のテーマも決まっていません。コンビニで弁当を選んでビールと一緒に家に帰る姿は、心をブスブス刺されました。何もパチンコ店でバイトさせることないでしょう。一番ダメージを与える方法を選んでやがる。何も変わらないアグモンたちとの対比がより残酷です。


おそらくこの映画を観に来る人の多くは、デジモンと共に育ったかつて子供だった人たちだと思います。太一やヤマトと同じように。だから、この映画の特徴ってキャラクターに自分を重ね合わせやすいことなんですよね。感情移入が容易なんです。なので、観ている人たちは太一たち、あるいは自分たちが置かれたこのやるせない現実からの救済を求めるという。そういう構造になっていると思います。


さて、現実では世界規模で児童連続気絶現象が発生。太一たちは、光子郎の会社に集まりその原因を探ります。ここで登場したのが、デジモン研究を進める科学者・メノアとその助手・井村。メノアに声を当てた松岡茉優さんは、何作か声優の経験があるので、分かっている感じがして安心して観てられましたね。ルー大柴さんみたいなしゃべり方には少し笑ってしまいましたけど。



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・かつてのデジモン世代にダメージを与える展開


メノアは気絶した児童には"選ばれし子どもたち"という共通点があるといい、その原因を未知のデジモン・エオスモンと特定します。そのエオスモンは人間の意識を何らかの形でデータに変え、奪ってセーブしているというんですね。


そして、太一、ヤマト、光子郎、タケルの4人がデジタルワールドへ。エオスモンと対峙します。進化するエオスモンに苦戦しながらも、グレイモンとガルルモンが合体しオメガモンになって(ここ『ウォーゲーム』で見たやつだ)、エオスモンを倒すあと一歩のところまで行きます。しかし、とどめを刺さんとするところで、オメガモンの合体は解けてしまい、エオスモンには逃げられてしまいます


その理由は、デジモンとのパートナー契約の関係。予告でもありましたよね。「無限の可能性が失われたとき、デジモンとのパートナー契約も消える」って。つまり、大人になるにはデジモンと別れなければいけないということです。


この展開もですね、かつてデジモンを楽しんでいたのに、いつの間にか離れてしまった人や、別のものに興味が移って、デジモンとの関係が希薄になった人にも向けられているのではないかと私は感じました。すなわちメインターゲットの多くですね。映画がやるから久々にデジモンのことを思い出したという人は、この展開に胸を痛めたのではないでしょうか。大人になって何かを得るということは、何かを失うということでもありますからね。ここでも太一たちに自分を重ねて、ハラハラする人は一定数いそうです。ポケモン派の私ですらそうでしたからね。


その後は、02のキャラクター(だと思う。たぶん)に、ヤマトがメノアと井村の身辺調査を頼む一方で、太一とアグモンはずっと一緒だということを再確認します。で、調査の結果、どうも井村が怪しいと。銃を受け取ったりしていましたしね。


しかし、それはミスリード。となるとこの映画のゲストキャラクターは二人しかいないわけですから、必然的にメノアが黒幕ということになります(井村はFBI捜査官でメノアを調査していました)。実はエオスモンを作り出したのもメノアで、"選ばれし子どもたち"の意識を奪っていたのもメノアでした。この真相が発覚してからのメノアの変化はよかったですね。あの目ゾクゾクしましたもん。



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・大人になることとデジモンと別れること


それはさておき、太一とヤマト、そしてアグモンとガブモンはメノアのいるデジタルワールドに飛び込みます。そこは真っ暗闇な世界。無印?に出てきたと思しき列車は氷漬け。暗闇の中にメノアが一人立っています。メノアの目的は"選ばれし子どもたち"を救うこと。そして、その方法は彼ら彼女らの意識をデジタルワールドに封じ込めて、子供のころのデジモンといたときの記憶にずーっと浸らせておくというものでした。このあからさまな懐古主義をメノアは"理想郷"や"ネバーランド"と呼んでいました。


確かに、子供のころのデジモンといた記憶は"選ばれた子どもたち"にとって、そして観客にとっては懐かしく美化されたものでしょう。やるせない現実において、綺麗な回想に浸っていたいという気持ちに浸っていたいというのも分かります。メノアだって昔、パートナーデジモン・モルフォモンとの別れを経験して、そんな思いをほかの子供たちにもうさせたくない。救済したいと思って動いていたわけですし。


というわけで、多くの観客とキャラクター達を同化させるという試みがここでもなされていますが、違うのは、大人になってしまった観客はもう前に進むことを選んでしまったことでです。フィクションみたいに立ち止まることも戻ることもできません。だから、当然太一とヤマトには前に進むことを期待するわけですよ(少なくとも私はしました)。そして、観客の期待通りに、パートナーとしていられる時間が短くなっても戦う二人とデジモン。前に進むことを選んだ多くの観客との同化がここでもなされます。


なんとかエオスモンを倒すことに成功する太一とヤマト。しかし、一体倒して喜んだと思ったのもつかの間、次から次へと、まさにうじゃうじゃとエオスモンが増殖します(ここも『ウォーゲーム』で観た)。数の暴力の前に成すすべがない二人とデジモン。エオスモンは各地の"選ばれし子どもたち"の意識を攫いに行きますが…。


と、この感想で言及するのはここまでにしておきたいと思います。全部書いちゃったら映画を観る楽しみがなくなってしまいますしね(もう既に大分なくなっている気がしないでもないけど)。この後の展開も良かったですし、最後は感動したんですけど、映画が終わって凄く気になったことがあるんですよね。観終わった直後は少しやるせなく感じて、疑問だったんですけど、考えてみたら、その引っ掛かりを残すことこそがこの映画の意味だったのかもしれないなって感じます。


その気になったことは二つ。

・空が参戦しないこと
・ラストバトルに「Butter-fly」が流れないこと



です。この2点について最後に見ていきたいと思います。



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・100%の救済を与えないことに意味がある


思えば、この映画の空って独特な立ち位置なんですよ。戦わずにピヨモンとの時間を大切にしたいという。いや、でもそんなこと言って大事な場面で助太刀に来るんでしょ?とか思っていたんですけど、本当に最後まで何にもしないんです。ただ「信じているから」と言うだけで。


まあこれはみんながみんな戦えるわけじゃない、一緒にいるという決断をとるキャラクターもいる。それは消極的な決断ではなく、自分の意志で決めたことで。戦うだけがデジモンと一緒にいる意味じゃないということを表現したかったのかなと。今作の主人公はあくまで太一とヤマトだからねって。一応は理由をつけて納得することができます。でも、不思議なのは最後に「Butter-fly」が流れなかったことですよ。


だって、どう考えても「Butter-fly」かける流れだったじゃないですか、最後は。予告編であれだけ「Butter-fly」推しといて、オープニングも1番だけで切って期待を煽らせておいて、モチーフに蝶を散々登場させたり。そもそも私がこの映画を観に行った動機だって「ラストバトルで流れるButter-flyを聞いて感動したい」っていうものでしたし。それがしっとりとした別の曲。曲も演出も全く悪くなく、むしろ良いんですけど、ただどうしても期待からは外された感じはしました。


みんながみんな私と同じことを思っているなんてことを言う気はとうていないですけど、たぶんこの二つの展開って観客の期待から外れる展開だと思うんですよね。求めているものとは違うと思うんですよ。ただ、この映画においては外したことに意味があるのかなと感じます。


だって、現実って100%上手くいくことはないじゃないですか。どこか期待外れなところあるじゃないですか。たぶんこの映画が言いたかったのってそういうことだと思うんですよ。「なんでもかんでもお前の思い通りにいくと思うなよ」っていう。あえて突き放すんですよ。ちょっとのやるせなさを残すんですよ。


そりゃあ、空を参戦させて、「Butter-fly」をかけて、大いに盛り上げることは簡単ですよ。観客が気持ちよくなる方法が分かっているんだから、それをすればいいだけのことですよ。でも、この映画はあえて気持ちよくさせない道を選んだんですよ。それはなにもかも上手くいくことはないという現実に即した態度で、茨の道ではあるんですけど、私はこの映画がこの道を選んだことを称賛したいですね。それってとても誠実なことだと思うので。


要するに、この映画自体は物語的にも100%の救済を与えず、太一やヤマト、観客を完全に救わない。演出的にも気持ちよくさせすぎない。あえて少しのやるせなさを残していると思うんです。だって、「無限大の夢のあと」にあるのは「やるせない世の中」なんですから。そして、この映画が最後にとったのは観客の期待からは外れた、観客を最大限救済する常識とは違う「常識はずれも悪くはないかな」という展開なんです。


そして、100%の救済は与えない。完全な救いはないし、あるとしたらデジモンのいない現実にしかない。この映画が描いたことって「きっと飛べるさ」ということに集約されると思うんです。「絶対」ではなく、「きっと」なんです


あの終わり方は、デジモンと過ごした太一たちや観客をも救済するものだと私は思っているんですけど、飛べるかどうかは自分次第なんです。この映画は「きっと飛べるさ」と言ってくれるだけで、最後は自分。でも、私は思い出を胸に大切にしまったまま飛べると思いましたし、そう思わせてくれたこの映画はやっぱり名作なんだと思います。わざわざ松本まで来て観た甲斐がありました。本当にありがとうございます。



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以上で感想は終了となります。映画『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』。観終わった後は少し消化不良な部分もあったのですが、こうして振り返ってみると凄い傑作だなと感じます。デジモンを知らなくても、かつて子供だった方にはぜひ観てほしいですね。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 




 
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