Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

カテゴリ: 映画




こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。二度の延期を経て、ようやく公開されたこの映画。待ちわびた私は今年でもトップクラスの期待を胸に抱いて観に行ってきました。100席ほどのスクリーンもほぼ満員。これだけ待ち続け、必要とし続けた人がいたことにまず胸が熱くなりましたね。


それでは感想を始めたいと思います。なお原作は相変わらず未読です。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―あらすじ―

代筆業に従事する彼女の名は、〈ヴァイオレット・エヴァーガーデン〉。
幼い頃から兵士として戦い、心を育む機会が与えられなかった彼女は、
大切な上官〈ギルベルト・ブーゲンビリア〉が残した言葉が理解できなかった。
──心から、愛してる。

人々に深い傷を負わせた戦争が終結して数年。
新しい技術の開発によって生活は変わり、人々は前を向いて進んでいこうとしていた。
しかし、ヴァイオレットはどこかでギルベルトが生きていることを信じ、ただ彼を想う日々を過ごす。
──親愛なるギルベルト少佐。また今日も少佐のことを思い出してしまいました。
ヴァイオレットの強い願いは、静かに夜の闇に溶けていく。

ギルベルトの母親の月命日に、
ヴァイオレットは彼の代わりを担うかのように花を手向けていた。
ある日、彼の兄・ディートフリート大佐と鉢合わせる。
ディートフリートは、ギルベルトのことはもう忘れるべきだと訴えるが、
ヴァイオレットはまっすぐ答えるだけだった。「忘れることは、できません」と。

そんな折、ヴァイオレットへ依頼の電話がかかってくる。依頼人はユリスという少年。
一方、郵便社の倉庫で一通の宛先不明の手紙が見つかり……。

(映画『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。




昨年9月に公開された外伝の感想はこちら↓









まず感想としてはやはりさすがのクオリティーでした。TVアニメからの美麗な作画をそのまま2時間20分もの長い間味わうことができます。荒みかけていた心もどんどんと潤っていくようです。さらに物語も高いレベルでまとまっていて、身構えていた私の心もかなり揺さぶられました。たぶんもう一押しあったら泣いていたと思います。これを1800円で(私は1000円だったけれど)観ていいのかと思うレベルで、映画が終わった後には自然と小さな拍手が起こっていました。きっと、観た多くの人が満足げに映画館を後にしたと思います。


ただ個人的には、あのこれは大変言いにくいのですが、ちょっとどこかで完全にはハマりきっていないかなと...…。もちろん良かったのですが、観ている途中はもしかしたらあまり好きな話じゃないのかもとさえ思ってしまいました。たぶん相性が悪かったのだと思います......。残念ながら……。





あまり愚痴愚痴言うのも良くないので、まずは好きだったところから挙げていきましょう。京都アニメーションの特徴といえば、まず思い浮かぶのが丹念で綺麗な作画ですが、それはこの映画でもバッチリ楽しむことができます。これについては説明するよりも、とにかく観てくれとしか言いようがないのですが、本編や外伝に匹敵するくらいの出来栄え。どれだけ高い期待を抱いても、それを裏切ることはありません。ぜひ酔いしれてほしいなと思います。


さらに、作画と同じくらい印象的だったのがカメラワークですね。この映画では大事なシーンで表情を映さない演出が多く用いられているんですよ。二人で話しているときに、話者一人を端に置いて受け手を映さなかったり、後ろ姿だけで見せてきたり。特に序盤のヴァイオレットがギルベルトのことを思い浮かべるシーンの数秒の間には痺れました。動かさないことが、時として動かすよりも重大な意味を持つのだと思い知りましたね。


さらに、この大事なところを見せない演出が積み重ねられていき、ラストシーンで結実するのもかなりポイント高いです。鳥肌が立ちました。他にもサムズアップなどさりげないシーンで、それとなく仄めかしたりするのもとても良いです。こうした語りすぎない演出が、一番の勝負所に効いてきていて(少し盛りすぎではと思いながらも)ねじ伏せられました。すすりなく声もいくつか聞こえてきましたし。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











この映画は暗い道を誰かが歩くシーンから始まり、「Sincerely」という単語が表示されます。親愛なるという意味もありますが、日本語で言うところの「敬具」的な意味合いも強く、これで完結だということが早くも印象づけられます。


そして、本編が始まるわけですが、もういきなりかまされました。だって、デイジーという全く知らないキャラクターの視点から始まるんですよ。誰かが死んだということは分かるけれど、今までの話にどう関連があるのか全く分からない。サプライズなスタートです。


でも、よくよく見ると写真の中に、テレビシリーズ10話で登場したアンがいるんですよね。この映画のスタートは本編から数十年後の世界で、デイジーはアンの孫でした。デイジーは日に焼けた手紙を見つけます。それはアンの母親がアンに向けて送った手紙。代筆したのはヴァイオレット。この映画はテレビシリーズでも屈指の感動回と名高い10話のエピソードをなぞる形で始まります。いきなり涙腺を刺激してきて、最初から泣きそうになりました。今年観た映画の中でも一番好きな始まり方です。


ここでヴァイオレットが18才でCH郵便社を離れたことが観客に提示され(予告編でも言及されていたけど)、ヴァイオレットたちの時代の物語がスタート。とはいっても、こちらはこちらで海に祝詞を捧げるという突飛なシーンから始まるので、こちらも理解するのには少々時間がかかりましたけど。


それからは初見の方でもわかるように、テレビシリーズの展開を少しずつおさらいしていきながら物語は進行。電話など技術の進展によりドールの仕事が脅かされつつあることや、ヴァイオレットのギルベルトへの想いを改めて提示しつつ、ギルベルトの母親への月命日の墓参りを終えたヴァイオレットに一件の電話が届きます。


それは少年ユリスからの代筆の依頼でした。ユリスは難病に臥せっていて、いくばくかの命もありません。自分の命が尽きる前に、両親と弟に手紙を書きたいとヴァイオレットを呼びます。ユリスの心情も知らず、大丈夫かとばかり心配をする両親。ユリスはそんな両親に素直になれず、つい弟に当たってしまいます。さらに、友人リュカとの面会も拒絶している様子。これを隠れて聞いていたヴァイオレットは特別に子供料金で代筆を請け負います。


えっと、この辺り明らかにアンのエピソードと被せていますよね。残されたものに向けて手紙を書くっていう。このユリス関連には言いたいことが結構あるのですが、長くなるので後に回します。












ある夜、ホッチンズとベネディクトは宛先不明で郵便局に返送されてきた手紙を発見します。筆跡は失踪したギルベルトによく似たものでした。これは予告編を観た人なら100%勘づいていると思うので言っちゃいますが、ギルベルトは生きていました。離れ島で子供たちの教育や畑仕事にあたっています。というかこの前のいくつかのシーンでギルベルトが生きていることは観客に示されているので、もはや隠す気もサラサラないのですが。


ギルベルトに会いに、離れ島へと向かうヴァイオレットとホッチンズ。長い道中にヴァイオレットはギルベルトへの手紙を書きます。そして、当該の集落へと辿り着いた二人。ギルベルトがどう思うか分からないという理由でホッチンズはヴァイオレットを入り口で待たせ、一人ギルベルトの元へと向かいます。


曇り空で暗い学校の中にギルベルトはいました。背景を薄暗くしてギルベルトの表情を多く見せない演出が冴えわたるシーンです。ギルベルトはヴァイオレットといると彼女を傷つけたことを思い出してしまうからと拒絶。ホッチンズがいくら言っても、ヴァイオレットが雨に濡れながら呼び掛けても、取りつく島もありません。この中盤のシーンは観ていて、今年有数にドキドキしましたね。誰もがじっとスクリーンを見つめていましたし。


ギルベルトに拒絶されて行く当てをなくし、灯台兼郵便局に泊まることになった二人。しかし、CH郵便社からユリスが危篤との情報が入ります。ユリスと彼が死んだ後に家族に手紙を届ける約束をしていたヴァイオレットは職務を遂行しようとライデンに戻ろうとします。あんなに会いたかったギルベルトよりも依頼主とした約束を優先させるのには成長したなって思いましたね。まあ嵐で海が荒れているので戻れないんですけど。三日かかると言われてましたし。




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とここで問題が発生するわけなんですが、個人的にはここからの展開があまり受けつけなくて。ユリスの扱いが気になったんですよね。結論から申し上げますと、ユリスは死んでしまうんですよ。これが私としてはあまり好きじゃなくて。


この映画でのユリスは主に二つの役割を持っていたと思います。その一つが、予告編や本編でも触れられた「技術が進歩して電話等が登場したら、ドールの仕事は失われてしまうのではないか」という問いへの答えです。病院に行けないヴァイオレットは、自分の代わりにアイリスを病院へと向かわせます。そこでユリスのリュカへの手紙を代筆しようとするのですが、ユリスはかなり危篤な状態で、事は一刻を争い、とても手紙の内容を伝えられるような状況ではありません。


そこで、ベネディクトの協力も得て、リュカと電話で話させるようにするのです。ドールの仕事を奪うと思われていた電話の活躍は熱い展開だなと思ったのですが、ここの電話の内容にユリスのもう一つの役割が示されているように感じました。


ユリスはリュカに弱った自分を見せたくないとリュカを拒絶します。しかし、本心では会いたいと思っている。私はこのユリスとリュカの関係は、意図的にギルベルトとヴァイオレットとの関係に重ね合わせられているのだと感じます。「ごめん」と謝ったユリスがギルベルトの本心を代弁するかのような気が私にはしたのです。これが中盤の大きな山場になって感動を生んでいるので、試み自体は成功しています。


さらに、前述の問いへの答え。それは本当に大切なのは手紙や電話という媒体うんぬんよりも「想いを伝える」ことです。それこそがドールの仕事なのだと示されているように私は受け取りましたね。これはこの映画の、いやこの作品自体の大事なテーマの一つになっていて。だからこそ、ギルベルトは終盤にああいった行動を起こしたのだと思いますし。そういった現代でも変わらない普遍的なテーマが最高潮に達したシーンが、このユリスのシーンでした。











とまあここまで考えてみれば、ユリスがこの映画で重要な役割を担っているキャラクターだということが分かるのですが、映画を観ている最中はここまで考えが至らなくて。まず、アンのエピソードを映画の中でも扱っているのだから、さすがに同じ展開は少し鼻白んでしまうなと思ったことが一つ。さらに、「難病」というモチーフに私がアレルギー反応を示してしまったことが一つです。


もう「難病」が出てきた時点で身構えるようになってしまったんですよね。きっと死ぬときに感動させるんだろうと。実際すすり泣く声もしましたけど、私はちょっと感動を盛りすぎてるかなと思って泣けませんでした(感動自体はしました)。


これは完全に個人の好みなんですが、私は映画とかで人が死んで感動させる展開があまり好きではなくて。そんなの安易だとすら思ってしまうんですね。きっとどっぷりキャラクターに愛着を湧かせてから死なせて泣かせるには、二時間という映画の尺は短すぎると思うんですよ。というか高校以降、創作物でキャラクターが死んで泣いたのって、ネウロのⅪ〈サイ〉ぐらいしかない気がします。これも20巻以上という積み重ねがあったからですしね......。


この映画を観終わってしばらくして、私は8月に公開された『糸』という映画を思い出しました。あの映画も感動の押し付けが凄かったし、難病を抱えたキャラクターが亡くなるのですが、程度の差はあれど、この映画にも同じことを感じてしまったんですよね。


端的に言ってしまえば、観ている間はユリスは死ぬために登場したキャラクターなんだと思ってしまいました。この死ぬために登場した感が透けて見えると、どうしても私は少し冷めてしまいます。だって、人は死ぬために生まれたのかと問われれば、それは絶対に違うでしょう。絶対に。なのに創作物ではミステリーの被害者に代表されるように明らかに死ぬためのキャラクターが登場する。これってちょっと不自然じゃないですか?原作は未読なのでどうかは知らないんですけど、脚本は吉田玲子さんですし、もうちょっとどうにかできたのでは、と素人ながらに感じてしまいました。




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以上で感想は終了となります。ほら、ラストまで全部書いちゃったら味気ないじゃないですか。まあ、ディートフリートはいつ来たんだとか、遠浅すぎるでしょというツッコミどころはありますが、総合力で言えばかなり高い作品だと感じます。やっぱり映画は観てなんぼのものですし、観た方が制作陣も報われるっていうもんです。実際、良作ですし、興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 




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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』。毎年恒例のしんちゃん映画が、今年はこの時期の公開です。見てきた感想をまず言うと、今年も一定以上のクオリティがあり、観てよかったなと感じました。たまに一次創作をしたりする私のパーソナリティ的にも響きましたしね。


それでは感想を始めたいと思います。何卒よろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください






当初は例年通り今年4月に公開が予定されていた今年の映画クレヨンしんちゃん。しかし、コロナ禍で公開が9月に延期。マスクをつけながらようやく観に行ったのですが、観て驚きました。ラクガキと言う今日日あまり見られない題材を扱っていながら、すごく現代的なお話だったのです。それは単にSNSやタブレットが登場したというだけではありません。意図せずコロナ禍の状況さえも反映しているように私には思えました。


さらに、この映画は今までのしんちゃん映画にないくらいオタク的でもあります。現実に虚構が立ち向かうという図式もそうですが、大切なのはラクガキと言えども立派な創作であるという点。さらに、しんのすけが行う一次創作だけでなく、あるジャンルのオタク特有の二次創作という文化が、この映画では重要な意味を持つという点が挙げられます。この映画はそういったオタク文化を肯定しているんです。少なくとも観終わって私は感じました。





※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






では、映画について見ていきましょう。この映画は偶然にも今年のドラえもん映画と同じこども科学館から始まります。オープニングに合わせて登場したのはまさかのマサオくん。VRで空中に絵を描くというかなり現代的な始まり方です。しかし、しんのすけは旧来的に床に直接マジックでラクガキ。当然よしなが先生にたしなめられますが、上空からそれを見ていた者たちがいました。


彼らの名はラクガキングダム。自由なラクガキから生まれるラクガキエナジーで成り立っている王国です。しかし、現代では町はきれいに整備され、学校の授業もタブレット(ここ大事です)に。崩壊しつつあるラクガキングダムの防衛大臣は、子供たちに無理やりラクガキをさせるウキウキカキカキ作戦を発案。他の大臣の承認も得て、作戦を実行に移します。地上には近衛兵が降り立ち、大人は特殊なカメラで撮られて壁や道路に磔に。子供たちは無理やりラクガキを描かされます。最初は良かったものの、だんだんとラクガキエナジーは低下。創作は強制的にやるものではないことが、ここで示されます。


この事態を重く見たラクガキングダムの姫。描いたものを実体化させるミラクルクレヨンを宮廷画家に託し、地上へと送ります。宮廷画家は迷いつつも、しんのすけと出会う。その前のボーちゃんでは使えなかったミラクルクレヨンですが、しんのすけはいとも簡単にひろしの靴下を描いて出現させます。その匂いは本人そのもの。


ここがポイントなのですが、しんのすけはラクガキという一次創作を実体化できる選ばれし者になったんですよね。これは現実で言うと、一次創作を商品化して世に送り出すことができる作家にしんのすけがなったということではないでしょうか。一次創作をするワナビーは数多くいますけど、その中で本やCDなど触ることのできる形として世に送り出せる者は、まさしく一握りです。しんのすけはその数少ない存在として、この瞬間に特別になったのだと思います。




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宮廷画家に先のカメラで撮られて、スケッチブックに閉じ込められたしんのすけ。そのまま紙飛行機にされ、追手から遠くへと逃がされます。辿り着いた先は富士山の見える、おそらく相模湖周辺。どこまで飛んでんだと思わなくもないですが、ミラクルクレヨンで対象の人物を囲めば磔を解くことができると聞かされていたしんのすけは、その言葉通り脱出。さらにブリーフ(二日目)ぶりぶりざえもんニセななこをミラクルクレヨンで生み出し、ななこお姉さんを救い、春日部を奪還するために一路春日部を目指します。


ブレーキのない車で逃げたり、すぐさぼるぶりぶりざえもんに手を焼いたり、はちゃめちゃな旅をしながら、町へとたどり着くしんのすけ一行。カレーの匂いを嗅ぎ付け定食屋に入ると、そこにはタブレットを片手にした6歳児・ユウマがいました。彼の母親は春日部にいる祖母を訪ねていったきり帰ってきいません。


この予告には一切登場せず隠されていたユウマが、実はこの映画では重要なキャラクターで。ユウマはタブレットを眺めている現代っ子そのものなキャラクター。ラクガキもせず、ミラクルクレヨンももちろん使えません。その一方で、ミラクルクレヨンで絵を生み出すしんのすけを勇者だと半ば崇めたりもしています。私はユウマは作品を受け取るだけで何もしない、私たち消費者や読者を象徴しているキャラクターだと感じました。しんのすけを崇めることは、創造主である作者を崇めることと一緒なのです。そういう人いますよね。











さて、ユウマのアシストもあって春日部に辿り着いたしんのすけ一行は、ミラクルクレヨンを使い近衛兵に立ち向かいます(結構ちゃんとした自衛隊も登場するのですが、霧に囲まれた春日部には入れないのです)。おならの出る尻型兵器を武器に近衛兵を撃退したり、ミラクルクレヨンで囲むことで大人たちを助けたりするしんのすけ一行+カスカベ防衛隊。しかし、使い過ぎたことによりミラクルクレヨンの残量は残りわずかに。さらに、そのちびかすになったミラクルクレヨンを裏切ったぶりぶりざえもんが持っていってしまうという二重のアクシデントに見舞われます


一方、母親を探しに行ったユウマはラクガキングダムの姫と出会い、病院で母親を見つけ出します(この母親もわりと現代的な見た目だった)。そこではミラクルクレヨンを持ったぶりぶりざえもんが、防衛大臣との取引を持ち掛けていました。まあここでぶりぶりざえもんが義を見せるというお約束もあり、母親は助かりますが代わりにミラクルクレヨンは使い切ってしまいます。


つまり、しんのすけはもう何も生み出せなくなってしまいました。さらに、ラクガキをし続け子供たちは疲労困憊。ラクガキエナジーが足りなくなったラクガキングダムは崩壊一直線です。落ちてくるラクガキングダムを食い止めようにも、ミラクルクレヨンはもうありません。何もできないしんのすけを一般市民たちは責めるんですよ。気味の悪いことに。「なんてことをしてくれたんだ」みたいに言って。


現実にもいますよね。自分の気に入らない展開になると作者に凸する人。現代はSNSをやっている人も多いですし、そういった声はより可視化される時代になっていると感じます。久保帯人先生じゃないですけど、読者に作品の展開を変える権利はないわけですよ。独り言で呟いているか、それとも読むのを止めるのか。でも、実はもう一つ選択肢があるんです。


それは自分で書いてしまうということです。私が望む展開は私が書いたるわ!の精神です。つまりは二次創作です(別に一次創作でもかまいませんが)。みさえも文句に対して「自分たちでなんとかしなさいよ」みたいなことを言っていたと思いますし、ここは自ら創作することの重要性を訴えかけているように感じましたね。私は。




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落ちてくるラクガキングダムという現実に逃げ惑う市民たち。ラクガキエナジーを集めようと呼びかけるネームドキャラの声にも全く応じてくれません。姫がサトーココノカドーからアナウンスするもこれも効果なし。もうダメかと思ったところで、ユウマが堰を切ったように発します。


助けてもらったのに、逃げんのかよ!


この言葉に私は『ちはやふる』の末次由紀先生のコラムを思い出したんですけど、これを受け取ってばかりだったユウマが言うのが熱いわけですよ。しんのすけが生み出すラクガキという作品に助けてもらったユウマが。きっと、色んな人が色んな作品に助けられて生きているんだと思います。私だってそうですし。で、その作品に助けてもらったのに、現実から逃げるのかよというね。オタクじゃなくてもハッとする言葉です。


そして、この言葉に気づかされた市民は、まず子供から一人ずつラクガキをするんですよね。それはまさしく二次創作そのもの。ほらよく聞くじゃないですか。作家が読者のファンアートに励まされたみたいな話は。それと同じことがこの映画では起こっているんですよ。一次創作をするしんのすけを二次創作たちが勇気づけているんですよ。オタク的に見ればここまで熱い展開はそうないですよね。そうして生み出された虚構に声援を送るシーンは、感動して泣きそうになりました。











こうして一次のみならず、二次創作の素晴らしささえも描いた後の着地点がもう最高で。まず、ユウマがタブレットで線を描いているんですよ。姫もタブレットにラクガキをして、しかも大事なのがそれをネット上に保存することができるということ。この映画では、そうして同じように書かれたラクガキがいくつも画面上に出てきまして。これはもうPixivじゃんってなりましたね。


こうして見ると、ラクガキの精神は現代も受け継がれているわけで。現代ではクレヨンはタブレットに代わって、スケッチブックはPixivに代わっているんですよね。しかも、序盤にサラッとラクガキを奪ったと説明されていたタブレットが、ラクガキを生み出すものとして真逆の意味に捉えられていて。きっとこれからも人に創作意欲がある限り、ラクガキは形を変えて残り続けるんだろうなということがひしひしと感じられて、現代的だなと思うのと同時に普遍的だなと感じました。


さらに、最後のタイトル回収が見事。ユウマの家に置いてかれたスケッチブックには、しんのすけたち一行と一緒にユウマも描かれていたんです。また、しんのすけはブリーフ、ぶりぶりざえもん、ニセななこ、さらにユウマを並べて、彼らは勇者であると言っています。作品からパワーを受け取って簡単な二次創作を始めたユウマを、一次創作のキャラクターと同じ立場にあるとみなすことは、もはやここ50年の二次創作文化、オタク文化の肯定と同義ですよ。素晴らしい。もう物を作る喜びと、創作物への愛に溢れていて、一次二次問わず物を創るオタクは観たらいいんじゃないかと思いますね。


それに、このコロナ禍で外出できず、家にいる時間が増えた。やることがないから、本や漫画などの作品に触れることが多くなった人も、少なくないと思うんですよね。ツイッターでも学校が休校になって暇になった子供が『鬼滅の刃』に影響されて絵を描き始めたみたいな話題を目にしましたし、そういった創作物に触れる期間が長くなった今だからこそ、この映画はより大きな効果を発揮しているんだとも私は感じました。



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以上で感想は終了となります。『映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』、一次二次問わず創作が現実に立ち向かっていく、とても私好みの映画です。他の人はどうか分かりませんが、少なくとも私は興味があるなら観てみてと勧めたいですね。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 






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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『僕たちの嘘と真実 DOCUMETARY of 欅坂46』。何を観るか迷っていたところ、三人の方に推されたので、観に行ってきました。とはいったものの、私は欅坂46について全く知りません。知っていることと言えば、いつかの紅白でメンバーの方が過呼吸を起こしたことと、今度名前が変わるということぐらいです。メンバーの方の名前も全然知らず、ほとんど満員だった映画館の中で、私が一番詳しくないだろうなと思いながら観てきました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください









この映画の特色と言えば、ライブシーンの豊富さでしょう。いきなりライブから始まるのですが、キレのあるダンスやハッとするような歌詞には純粋にかっこいいと感じました。平手友梨奈さんのオオカミのような目つきや、花道を駆け出していく姿には鳥肌すら立ちましたもの。


もっとバックステージの様子を描くのかなと思いきや、表のライブシーンが思っていたよりも多くて、そのどれもが迫力があって、これは人気が出るなと納得してしまいます。私自身十代の頃に聞いていたら、見ていたらヤバかったなと思います。


私はアイドルのことを軽く見ているつもりはなくて、ある種アスリートと同じだなという尊敬の念すら抱いているのですが、予想を上回るパフォーマンスに圧倒されました。沼にハマると厄介なことになるというブレーキが働いて何とか耐えましたけど、持っていかれる人もきっと何人もいると思います。エンタメ性が高くて、ライブみたいに楽しむことができますね




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






一方、内容の話をしますと、まずこの映画ではキャプテンの菅井友香さんが登場して、取材当時の欅坂46があまり上手くいっていないことを語ります。その後もメンバーの証言と、ドキュメンタリー映像を交互に映しながら映画は進んでいきます。序盤にデビュー当時の映像が流れるんですが、これには少し驚きました。だって、平手さんの顔が全然違うんですもの。目の大きさとかまるで別人ですよ。最初に鋭い目つきを見せられていたので、その違いにビックリしてしまいました。


その後はMVの撮影だったり、ライブシーンだったりで映画は進んでいきます。メインストーリーとなっていたのは、絶対的センター平手さんの天才性と、それを取り巻くメンバーの関係性です。体育館でMVを撮影するシーンがあるんですけど、そこからして表現力が他のメンバーとは段違い。平手さんソロの撮影を他のメンバーが見つめるシーンは、言葉にしなくてもメンバーの表情で大体のことは伝わってきます。別のMV撮影中に、誰にも話しかけず孤立していた平手さんと群れるメンバーとの対比はなかなかに強烈です。


となると、この映画は平手さんvs他のメンバーの対立。才能があるが故の孤独と、それをどうしようもできなかったメンバー。ギスギスした不協和音が生まれ、大きくなっていく様子を描いた映画と思われるかもしれません。でも、そんなことは全くなく、欅坂46のメンバーはあくまで仲が良さげなんですよね。互いが互いを思いやっているというか。


かなり最初の方に、菅井さんが「アイドルってもっと仲が悪いのかと思ってたけど、そんなことはなかった」という趣旨の発言をしていますし、メンバーも平手さんじゃなきゃセンターは務まらないと認めているんですよね。名前は忘れてしまいましたけど、本棚の前でインタビューを受けていた方は「平手さんはグループの先のことを考えている」みたいなことを言っていましたし、その言葉通り、2019年の紅白が終わった後、脱退することを決めた平手さんはメンバー一人一人を抱きしめているんですよね。もっと孤高の天才みたいな感じなのかと思いきや、全然違った。


メンバー間の結束がこの映画では何回か伝えられていて、それが極致に達していたのが、選抜メンバーでシングルを出す時のシーンですよね。当然選ばれる人、選ばれない人が出てきて、グループアイドルの残酷性をアピールする場面なのですが、ここで先ほどの本棚の方(名前覚えられなくてごめんなさい)は「全員が必要だ」と言っているんですよ。選ばれなかったメンバー含めて。思いやりが最大限に溢れていて、心が暖かくなりましたね。グループの団結が見て取れて。




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でも、こういったグループが仲良くしているだけだと、はっきり言って映画にはならないわけですよ。平手さんが満足いくパフォーマンスができずに休演して波風を立てるシーンはありましたけど、それだけじゃ訴求力はちょっと弱い。じゃあどうするかというと、「平手友梨奈vs他のメンバー」という分かりやすい対立を押し出すことなんですよね。


人間が何十人も集まって、仲が良い訳がないだろう。表では綺麗に振舞っているけれど、きっと裏ではギスギスしているんだろうというイメージです。着飾った人間の服の下や、内面を見てみたいという欲求は多くの人が持っていますし、幸か不幸か欅坂46には平手友梨奈さんという目立つアイコンがいた。一人の天才を取り巻く怨嗟や嫉妬。そう言った分かりやすいストーリーを外野は勝手に妄想して、自己消費する。平手さんの休演も火に油を注いで、悪いイメージはどんどん膨らんでいく。描かれている限り、中は全然そんなことはないのに


まあアイドルをはじめ芸能人の方々は、イメージでご飯を食べているところもあるので、これが一概に悪いとは言えません。でも、私には売り出す大人たちがそれに乗っかっていったように見えたのが嫌でしたね。特に終盤の『黒い羊』なんてその典型ですよ。輪に入っていこうとする平手さんを他のメンバーが突き放すというのは、悪いイメージそのままじゃないですか。当人たちは人形みたいに踊らされて。めちゃくちゃ意地悪いことするんだなって観ていて感じました。


そして、ラストの配信ライブ。ここで欅坂46は改名して、5年間の歴史に幕を下ろすことを発表します。平手さんが脱退して、悪いイメージはもう取り返しのつかないところまで膨らんでいたのでしょう。その悪いイメージから脱却するために改名を(メンバーの合意を得た?とはいえ、売り出す大人たちが)決めたと。私はあの発表は欅坂46がイメージに押しつぶされた、敗北したように見えました。この映画で何度か「勝つ」というワードが登場しましたけど、欅坂46のメンバーはそういった悪いイメージと戦っていたんじゃないかとすら思えます。そして、その最大の武器として出したのが、このドキュメンタリー映画だったと。


ドキュメンタリー映画監督・森達也氏の著書に『ドキュメンタリーは嘘をつく』があります。私はこの映画は二重の意味で嘘をついているんじゃないかと思いました。まず世間の悪いイメージに対する嘘。加えて、新しいスタートを踏み出すにあたって、メンバーのイメージを上げるための嘘。私は、この映画で描かれたことがすべて真実なんてとうてい思っていません。中は中で色々あったんでしょうし、おそらく真実はもう少し黒いものだと思います。この映画ってそういったシーンが全然描かれていないんですよね。


だからドキュメンタリーとしては、物足りない部分もなくはないです。それでもその物足りなさを帳消しにするほどの魅力がライブシーンをはじめとしてあったわけですし、エンターテインメントととしてはクオリティの高い作品になっていると思います。全く知らない人間が見ても、メンバーの名前が覚えられないくらいしか問題点はなく(これは私だけか)、観る価値は大いにあるのではないかと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『僕たちの嘘と真実  DOCUMENTARY of 欅坂46』。欅坂46の内情が垣間見えてくることもあり、ファンの方にはたまらない映画になっているのではないでしょうか。また、知らない人が見ても迫力のあるライブシーンは大いに楽しめるものとなっています。興味があれば観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 






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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『青くて痛くて脆い』。『君の膵臓をたべたい』の住野よるさん原作の映画です。キャストが好きな人しか出ていないので、元々8月に公開される映画の中でもかなり注目していました。珍しく原作も読んでの鑑賞です。嘘の正体を知るのは気が引けましたが、それ以上に興味が勝ってしまったので。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

人付き合いが苦手で、常に人と距離をとろうとする大学生・田端楓と
空気の読めない発言ばかりで周囲から浮きまくっている秋好寿乃。
ひとりぼっち同士の2人は磁石のように惹かれ合い秘密結社サークル【モアイ】を作る。
モアイは「世界を変える」という大それた目標を掲げボランティアやフリースクールなどの慈善活動をしていた。
周りからは理想論と馬鹿にされながらも、モアイは楓と秋好にとっての“大切な居場所”となっていた。
しかし、秋好は“この世界”から、いなくなってしまった…。
秋好の存在亡き後、モアイは社会人とのコネ作りや企業への媚売りを目的とした意識高い系の就活サークルに成り下がってしまう。
変わり果てた世界。
取り残されてしまった楓の怒り、憎しみ、すべての歪んだ感情が暴走していく……。
アイツらをぶっ潰す。秋好を奪ったモアイをぶっ壊す。どんな手を使ってでも……。
楓は、秋好が叶えたかった夢を取り戻すために親友や後輩と手を組み【モアイ奪還計画】を企む。
青春最後の革命が、いま始まる―。

(映画『青くて痛くて脆い』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。










『青くて痛くて脆い』、一本の映画としてはまとまっていたと思います。前向きなメッセージを分かりやすく伝えてきていて、爽やかな主題歌も相まって観終わった後、前向きな気持ちで映画館を後にできること間違いなしです。正直、私は原作を読んだときに、「個人的には住野よるさんはあまり得意じゃないかなぁ」と思っていたのですが、「この住野よるさんなら得意だ」と映画を観て感じました。





この映画はパラパラ漫画から始まります。初見では「どこかの配給会社のロゴかな?」と思いましたが、普通に映画が始まったので驚きました。最初のモノローグも原作と全く一緒です。


田端楓は人に不用意に近づかず、人の意見を否定しないことをテーマにしている大学一年生。目立たず事を荒立てずの、地味で平穏なキャンパスライフを送ろうとしていました。この田端を演じたのは吉沢亮さん。一年生のときの大人しい感じから、四年生の腐りかけた感じはまるで別人のようです。舞台挨拶でもあった通り、何かを訴えかけてくる目力が印象的でしたね。流石の演技でした。


目立たないキャンパスライフを送りたいという田端の目論見は、開始2分で打ち砕かれます。授業中に手を挙げて、大っぴらに理想論を語る一人の女性がいたからです。彼女の名前は秋好寿乃。世界から戦争をなくすことが本当にできると思っている、自信過剰で愚かで鈍い人間です(田端談)。彼女に間に合わせに使われたことで、田端が描いていた理想は早くも粉微塵になります。


この秋好を演じたのは杉咲花さん。理想を高らかに語る笑顔と声が良かったですよね。特に声が少しアニメチックだったのが、この映画ではプラスに働いていて。こんなやつ現実にはいない感を印象づけていました。そこからの真顔のギャップも良くて。吉沢さんと二人での講堂のシーンは息が詰まりそうな緊迫感がありましたね。「気持ち悪っ」を二回言ってくれたのも最高でした(原作では実は一回だけなんだぜ)。


行く先々の講義で理想を語り、悪目立ちした秋好は早くも大学で浮いてしまい、どのサークルにも入れてもらえません。「自分でサークルを作れば?」と提案してしまう田端。その提案に秋好はまんまと乗っかり、二人は「なりたい自分になって、世界を変える」秘密結社モアイを結成します。空から横断ほどを見上げるカメラワークが印象的でした。




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それから三年。就職も決まった田端は、数少ない友達である菫介と居酒屋で呑んでいます。そこにやってきた、やたらと騒ぎ立てる集団。彼ら彼女らは三年の時を経て、意識高い系就活サークルに成り下がったモアイでした。モアイを目の敵にする菫介。この菫介を演じたのは、私の好きな岡山天音さん(『王様になれ』の主演やってくれたから)。今回もいい感じに意識が低く、主人公と馴れ合う友人キャラで力を発揮していました。


そして、変わり果てたモアイに嫌気が差していた田端はモアイを潰すことを宣言します。一緒にモアイを作った秋好は「死んだんだ」とも。このあたり原作では少しずつ変わったモアイの存在をちらつかせつつ、60ページくらいかけていたので、スピーディだなと妙な感心をしてしまいました。


モアイ攻略の糸口を見つけるため、モアイ主催の就活イベントに潜入する菫介&報告を待つ田端(モアイの上の人間には顔が割れているかもしれないので)。水先案内人でモアイの幽霊部員であるポンちゃんと一緒に潜入します。このポンちゃんを演じたのは松本穂香さんです。今までいくつかの映画で拝見してきましたが、あまり喋らない役柄が多かったので、今回のあけすけに喋るポンちゃんは新鮮に感じました。これがまた絶妙に緩くて良くて。住野よるさんが絶賛したのも分かります。


就活イベントに潜入して、バレそうになりながらも田端と菫介は参加企業のリストをゲット。原作ではこの後ちょっと回想を挟んで、即バーベキューになるのですが、映画はここからが長かった











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












映画では秋好と田端がフリースクールに行く回想が入ります。そこには学校に馴染めない瑞希がいました。彼女を演じた森七菜さんがベースを弾くところ(あんまガチじゃないけど)が観られるのは映画版ならではの長所ですね。先生に連れ戻されそうになって、嫌々逃げ出したり、嗚咽を漏らしたりするのも良かった。ここで「このままでいいのか」という先生のセリフが、あからさまに田端に重ねられていて、この映画のテーマを浮き彫りにしていっていましたね。


さて、回想も終わりバーベキューのシーンです。田端と菫介はテン(モアイの幹部ね。演じた清水尋也さんのSっ気よ)が遊び人だという噂を聞きつけ、そのスキャンダルをネタにモアイを内側から崩そうとしていました。まあその企みは上手くはいかないんですが、ここでこの映画の肝である「大きな嘘」が発覚します。


秋好は生きていて、未だにモアイの代表を勤めていたのです


田端が言った秋好が死んだというのは、かつての理想に生きていた秋好は死んだという意味だったのです。田端は今の腐ったモアイを潰して、もう一度かつてのちゃんとしたモアイを取り戻そうとしていました。


そのために田端が取った方法と言うのがSNSでの炎上。モアイが企業に学生の情報を横流ししていたことを知った田端は、捨てアカでその事実をSNSに流します。フォロワーの数も知れている捨てアカで投稿したからって、あんなにいきなり火がつくかというツッコミは置いといて(暇な人間は大勢いる)、ネットニュースにまで取り上げられてモアイは炎上。炎を実際にバックに映す演出はちょっとどうかとは思いましたが、田端の目論見通りモアイは窮地に追い込まれます。




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と、ここからの展開は映画を観てほしいのですが、私はこの映画の大きなテーマとしては「なりたい自分になる」というものがあるように感じられました。それは瑞希が高卒認定試験を受けることや、パラパラ漫画、そして田端の存在しないIFの記憶に表れています。


私は本当は田端は人と関わりたかったのだと思います。田端のテーマは自分も相手も傷つけないようにするためでした。しかし、そのテーマを遵守するあまり、言いたいことを言えずに、結果的には自分も相手も傷ついてしまっています。「なりたい自分になる」ためには傷つく痛みも必要。ラストシーンの原作通りのあの最後のセリフは、田端がそれを受け入れた何よりの証拠だと私は思います。


なりたい自分になるために、一歩踏み出した田端の姿にきっと多くの人が勇気づけられることでしょう。自分を否定せず、なりたい自分になっていいんだという気づき。それを私はこの映画から受け取りました。観終わった後には実に清々しい気持ちになりましたね。


半分は。





















さて、この映画を観て私が感じたもう半分は驚きでした。というのもこの映画は原作とは全く異なっているからです。細かな相違点だけではありません。もはやベクトルが真逆になっているとも言っていいほどの変化でした。脚本を書いた方と同じ小説を読んだとは思えないほどです。


小説と映画の相違点は、それこそ枚挙に暇がありませんが、大きなポイントとしては以下の3つが挙げられると思います。


①秋好の生存をばらすタイミング
②フリースクールの描写の追加
③川原さん関連の描写の激減



まずは①からです。映画ではバーベキューのシーンで秋好の生存が明らかになっていますが、原作では違います。モアイのリーダーは小説の中ではしばらくはヒロというあだ名で呼ばれていて、その正体が秋好であると明らかになるのは、菫介が降りるシーンとなっています。随分早くばらすんだな、このまま興味惹き続けられるのかなと感じましたが、案の定それは上手くいっていないように感じました。映画から見る人への配慮なのでしょうが、もう少し引っ張れたんじゃないかとも感じてしまいます。


続いて②です。フリースクールや瑞希の描写は映画オリジナルのもので、原作では実は一文字もありません。別に小説をそのまま映画化しろと言っているわけではなく、改変も受け入れようとはしたのですが、わりと時間を使っているのに、このシーンでは話が一ミリも進まないんですよね。「このままでいいのか」という問いが示されはしますけど、それくらいですし。森七菜さんや光石研さんは良かったんですけど、もう少し短くても良かったんじゃないかなとは思いました。


そして、私が最大の問題だと感じているのが③です。このフリースクールの描写の増加のあおりを食らう形で、川原さんの出番が激減。いてもいなくてもいい存在になっていて、ここが個人的には一番しっくりこないポイントでした。というのも、『青くて痛くて脆い』において、川原さんはけっこうなキーパーソンなんですよ。




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それを語る前に、まずは川原さんの設定を確認しなければなりません。川原さんは田端と同じドラッグストアでバイトをしている大学一年生。モアイのわりと熱心な方の部員であり、ヤンキー女子大生(田端談)。小説では、主にモアイの内情を田端に知らせるという役割を担っています。映画では省かれましたけど、小説では、ドラッグストアでの描写もわりと多いです。この微妙な距離感好きだったんだけどな......。


いわばパイプ役の川原さんですが、彼女自身もなかなか刺さる言葉や芯を食ったセリフを連発。「距離感」「自分に酔える人間」「安全圏で笑える人間なんてゴミ」「空っぽ」などなど。特に終盤、田端と秋好が同じ「空っぽ」だと漏らしたのは痺れました。秋好と田端の共通性をこれ以上なく言い当てた言葉で、田端の行動にも大きな影響を与えていたので、映画にないのは少し勿体ない気もしました。


それに、川原さんの最大のポイントがモアイに居場所を見つけた人間であるということ。この事実が田端に自分の奪ったものを鋭利な痛さとともに突き付け、掻きむしるような恥と後悔をもたらしているわけですが、映画ではいかんせんこれが弱い。川原さんの立ち位置は瑞希に移管されていますが、瑞希はそんなに話に絡んでくるわけではないので......。


ラストの田端の衝動もちょっと薄くて、川原さん関連を大きくカットした弊害を感じます。川原さんのシーン、原作では映画の10倍くらいありますからね。夜送るシーン以外も入れてほしかったです。











この感想の最初に「私は住野よるさんが得意ではない」と書きました。それは住野さんが過剰なほどのモノローグと鋭いセリフで痛覚を刺激してくる作家さんだからです。私は住野さんの作品は『青くて痛くて脆い』と『よるのばけもの』くらいしか読んでいませんが、その2作を読んだ印象で言えば、住野さんは私たちを傷つけない作家さんだと感じています。その代わりに、元々あった癒えていない傷口に塩を塗りこんでくるような読み味があって。そっちの方が余計痛いなって感じてしまっています。


映画も私たちを傷つけることはありません。ただ、傷口には絆創膏を貼ってくれます。優しく処置をしてくれて、痛みを引かせる方へと向かわせます。それは、まるで痛みなんてなくてもいいというように。この映画には痛みがかなり減じられてしまっていて、そこには私の得意じゃない住野さんはいませんでした。何が「キミスイ」をぶっ壊すですか。この住野さんなら私は大いに得意ですよ。とても寂しく切ないことですけど。


この映画には痛みが原作ほど感じられず、「なりたい自分になる」といういわば自己啓発ムービーとなっていると私は感じました。まるでモアイがPRのために作った作中作のようです。まあ「なりたい自分になっていい」というのは優しいようでその実、無責任で、争いの原因を作る残酷さも持っているのですが。そう考えると、原作とはまた違った悪意と残酷さが透けて見えます。もしかしたら、優しい笑顔の裏の顔みたいなことがこの映画の狙いだったのかもしれないですね。




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以上で感想は終了となります。映画『青くて痛くて脆い』。原作を読んだ人と読んでいない人では、良くも悪くも印象が大きく異なる映画だと思います。個人的にはこれほどの改変は今まで観たことがなかったのでびっくりしました。ただ、全然悪い映画ではないので、興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


青くて痛くて脆い (角川文庫)
住野 よる
KADOKAWA
2020-06-12



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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『のぼる小寺さん』。最初はその存在を知らなかったのですが、『聲の形』や『若おかみは小学生!』の吉田玲子さんが脚本を担当されていると知り、俄然見なくちゃという気に。公開から1か月以上経ちましたが、ようやく長野でも公開されたので観に行ってきました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

――彼女がなぜのぼるのか、僕には“まだ”わからない。
教室。ひとりぼっちの近藤は、暇つぶしに携帯をいじっている。

体育館。
卓球部の近藤が隣をみると、小寺さんが上を目指している。
近藤は小寺さんから目を離せなかった。

放課後。
教室に小寺さん、近藤、四条、ありかが残される。
「進路調査票、白紙なのお前らだけだぞ」担任の国領が紙を広げる。
不登校気味の梨乃が遅れてやってくる。
「お前、めちゃくちゃ遅いよ!」あきれる国領。

クライミング部の隣で練習する卓球部の近藤、クライミング部の四条、ネイルが趣味で不登校気味の梨乃、
密かに小寺さんを写真に収めるありか。
小寺さんに出会った彼らの日常が、少しずつ変わりはじめる――

(映画『のぼる小寺さん』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








『のぼる小寺さん』、良い青春映画でした。観終わった後にじっくり咀嚼できて、小さな勇気をもらえるような良作でした。個人的に今まで観てきた青春映画とは少し印象が違ったんですけど、それも含めて良かったですね。




この映画は終盤のシーンを先に見せるところから始まります。「小寺さんはどうして登るんだろう」というナレーションとともに、クライミング部の小寺さんが大会に出場しているシーンが描かれます。何かを言いたげな近藤、というところでタイトルが映し出され、物語は始まっていきます。


近藤は、休み時間に誰とも喋らず、スマートフォンを見て、騒いでいる人間を馬鹿にしているような、実にありがちな高校一年生です。卓球部の練習にも身が入らず、クライミングに勤しむ小寺さんを眺めてばかりいます。この近藤を演じた伊藤健太郎さんは、微妙な表情や視線の変化で、何をがんばったらいいのか分からない等身大の学生像を見事に表現していました。やっぱり若いながら、安定感がありますね。


さて、とある日、近藤と小寺さんは教室に残されます。とはいったものの二人だけではなく、同じクライミング部の四条や、カメラを持っているありかも同じく残されています。この四人は進路調査票を白紙で提出したことで、先生からやり直しを命じられていました。「とりあえず書けば、三年間どっかで考えながら過ごすことになる」という先生。


すごくベタな始まり方ですが、高校生は将来の選択を否応なしに迫られる時期ですからね。15歳の若者に一生なんて決められるわけないのに。不満足そうに進路調査票を受け取る4人と、遅れてやって来た梨乃。この5人がメインとなってこの映画は展開していきます。


この映画は近藤、四条、梨乃、ありかの4人が小寺さんを見て"とりあえず"がんばれるものを見つけるというストーリーなのですが、ポイントとなるのは小寺さんを理想的な人物として、特別扱いしていないことなんですよね。小寺さんはクライミング一直線すぎて、進路調査票にも「クライマー」と書いてしまうキャラクター。ですが、周囲からは不思議ちゃんと呼ばれ、授業では顔面にバレーボールがぶつかって鼻血を出してしまいます。


この映画では、画面に名前が出て、それぞれのキャラクターの性格や置かれた環境を描くという演出があるのですが、それでさえ小寺さんは5人中4番目でしたし。小寺さんも他の4人と同じラインに立っているというこの映画のスタンスは好きです。演じた工藤遥さんも、基本的には自然体なんですけど、天性の引力みたいなものがあって、気づいたら見入ってしまっていました。クライミングもモーニング娘。で培った運動能力を生かして、しっかり自分で挑んでいましたし、好印象です。他の映画でも見たいなと感じました。




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黒い画面に白い文字で名前が出るこの映画の演出。一番最初に名前が登場したのは近藤です。ここは先ほど説明した通りなので割愛するとして(やる気のない卓球が見どころ)、二番目に登場したのはありかでした。このありかは丸眼鏡を掛けていて、その見た目から友達もおらず孤立しているのかなと思いきや、普通に友達はいる様子。


ありかはカメラを構えていますが、ただ趣味で撮っているだけで、どこにも出せていません。彼女を演じたのは小野花梨さんは、風貌からして言いたいことが言えない雰囲気をすごく醸し出していて、誰かに声をかけるときのぎこちなさが良かったです。


次に名前が出たのは梨乃。しかし、梨乃は不登校気味で、学校外の知り合いとバーべーキューをしたりして、遊んでいます。それでも、小寺さんと話すことで、徐々に学校にも顔を出すようになるんですよね。小寺さんにネイルを施すシーンは、この映画でも数少ないキラキラしたシーンでした。彼女を演じたのは、吉川愛さん。こういった少し派手目な役柄にぴったりの華と、その裏にのぞかせる影を併せ持っていて、嫌味ったらしくなく観ることができました。


そして、小寺さんの名前が画面に映されたのち、最後に登場したのが四条です。はじめはおどおどしていた彼ですが、小寺さんのアドバイスで髪を切ってからは少し積極的に変わっていく四条。彼を演じたのは鈴木仁さんです。『4月の君、スピカ。』や『小さな恋のうた』で何度かお見かけしたことはあったのですが、この映画でもその存在感は目を引きます。


最初のもっさりした印象があったのですが、後半は穏やかなイケメンに。それでも、根っこの部分は変わらないというバランス感覚が見事で、この映画で個人的に一番好きなキャラクターでした。鈴木仁さん自体もこの年代の俳優さんの中では一二を争うくらい好きですね。秋公開の『ジオラマボーイ・パノラマガール』も楽しみです(長野で公開されるかどうかは怪しいけど)。









前述したように、この映画は小寺さんを見ていた4人がそれぞれ小さな一歩を踏み出すストーリーです。小寺さんを含めた5人はさまざまに関わっていきますが、この映画の特徴として静かであるということが挙げられると思います。よくある青春映画だったら、もっと直接的なセリフやムード音楽を流したりして盛り上げそうなところを、この映画は自然な会話と俳優さんを生かす抑え目な演出で見せているんですよね。直接的なセリフなんて「僕も登らなきゃって思うんだ」ぐらいのものでしたし。


この映画って分かりやすさと分かりにくさの合間、微妙なラインをついていたと思うんですよ。私はバカなので分かりやすい方が好みなんですが、いい意味で分かりにくいのもいいかなって感じました。エモーショナルな場面が少なく、淡々と進んでいくんですけど、これはこれで好みだったりします。


でも、描写不足には決してなっていなくて。小寺さんと近藤の会話中に流れる蝉の声とか、近藤と伊藤の屋上での会話での焦点のあっていない景色とか。セリフだけでなく、画面の色々な角度から訴えかけてきていて、映画ならではの魅力を感じました。近藤が卓球に熱心に取り組んでいく過程も説得力がありましたし、だらだらやっていた仲間との決別を示す試合後のシーンには痺れます。


そして、小寺さんに触発されて、梨乃やありか、四条も小さな一歩を踏み出すんですよね。梨乃とありかが初めて喋るシーンは確かな感動がありましたし、小寺さんを好きだった四条がその恋心にケリをつけて、別の女子の告白を受け入れたのも好きでした。


特に梨乃の描写が個人的には好きで。劇中での梨乃は学校には来るんですけど、授業を受けるシーンはないんですね。そのまだ授業に入っていく勇気は出ないけど、小さな一歩ぐらいなら踏み出せるというこの塩梅はすごく良かったと思います。無理して押し付けない感じで。




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この映画で「これ以上できないくらい挑戦していれば、必ず『ガンバ!』って言ってくれる」といったようなセリフがありました。確かに小寺さんは最大限挑戦していて、大会のシーンは私も思わず手に汗握って、登場人物と同じように「ガンバ!」と言いたくなったのですが、私は他の4人にも同じくらい「ガンバ!」って言いたくなったんですよね。彼ら彼女らは小寺さんほど一生懸命じゃない。でも、自分の道を見つけようと、水面下でもがいている姿に私は「ガンバ!」と応援したくなりました


そして、この映画の最大のポイントだと私が感じているのが、4人の見つけた道が、人生を捧げる道だとは限らないということです。繰り返しになりますが、そもそも15歳か16歳かそこらの若者に、自分の人生を決めさせるのは酷なことだと私は思います。だって、高校を卒業してから分かることの方がずっと多いから。近藤も、ありかも、梨乃も目指した道でプロになれるかどうかは分かりませんし、なれない可能性の方がずっと高いと思います。


でも、そんな先が見えない中でも"とりあえず"がんばることに価値がある。この映画では、小寺さん以外の4人の進路調査票は放っておかれたままです。何になれるかは分からないし、夢は変わるかもしれないけれど、"とりあえず"がんばって自分の決めた道を進む。今を生きる。だれもが夢を見定めているわけじゃない高校一年生の態度としては、とても現実的なものだと私は感じました。


この映画は小寺さんを見る4人というストーリーで展開していきました。しかし、4人が"とりあえず"の道を見つけるにつれて、小寺さんを見なくなっていくんですよね。がんばっている小寺さんを羨む必要は薄くなっているんです。


それを如実に示しているのが、ラストシーンでしょう。小寺さんと近藤が背中合わせになるという絵面だけでキュンとなるシーンなのですが、ここで近藤は小寺さんを見ていないんですよね。"とりあえず"卓球に打ち込むという自分の道(仮)を見つけて、まっすぐその道を見ている。もう小寺さんという道標に頼る必要がなくなったんです。蝉の声が消えているのも、近藤が一生懸命になれるものを見つけたことを表していて、オレンジの光とともにグッとくる終わり方でした。良作ですね。




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以上で感想は終了となります。映画『のぼる小寺さん』、淡々としたムードながら、がんばっている、もしくはがんばろうとしているキャラクターたちを応援したくなる映画でした。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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