Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

カテゴリ: 感想



こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『きみの瞳が問いかけている』。吉高由里子さんと横浜流星さんが共演したラブストーリーです。本公開は10月23日なのですが、15日に1日限定で先行公開されたので、観に行ってきました。


そして、観たところなかなか興味深い映画でしたね。20年代の邦画はどうなるのか、吉高由里子さんとはいったい何なのか、考えさせられる内容でした。意外と重要な映画かもしれないです。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

視力を失くした女と、罪を犯し夢を失った男。暗闇で生きてきた2人が初めて見つけた、ささやかな幸せ。だが、あまりに過酷な運命が彼らをのみこんでいく──。

目は不自由だが明るく愛くるしい明香里(吉高由里子)と、罪を犯しキックボクサーとしての未来を絶たれた塁(横浜流星)。小さな勘違いから出会った2人は惹かれあい、ささやかながらも掛け替えのない幸せを手にしたかに見えた。
ある日、明香里は、誰にも言わずにいた秘密を塁に明かす。彼女は自らが運転していた車の事故で両親を亡くし、自身も視力を失っていたのだ。以来、ずっと自分を責めてきたという明香里。だが、彼女の告白を聞いた塁は、彼だけが知るあまりに残酷な運命の因果に気付いてしまっていた。

(映画『きみの瞳が問いかけている』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください













『きみの瞳が問いかけている』、映画を観た後にツイッターのフォロワーさんから指摘されて知ったのですが、この映画は2011年の韓国映画『ただ君だけ』のリメイクなんだそうですね。確かに地下闘技場なんてアイデアはなかなか邦画(特に恋愛映画)では出てこないような気がします。


しかし、私はそれ以上にこの映画の展開に既視感を抱きました。明香里と塁が出会い、仲を深めていく。明香里の視力を回復させるために、塁が地下闘技場での違法ファイトに赴く。予告編から推測できたストーリーから何一つ外れることなく、映画は進んでいくのです。


なので、吉高由里子さんと横浜流星さんの演技は良かったのですが、正直かなり終盤まで微妙かな......と思いながら観ていました。それでもラストの10分~15分くらいは予想を超える「ああこれがやりたかったのね」という展開が待っていて、一気に巻き返してくれたんですけど。この展開には涙を流す人がいるのも納得でした。ただ、最後まで観て、私の既視感は確信に変わりました。


この映画は2020年のケータイ小説だ」と。


ケータイ小説 - Wikipedia




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Wikipediaによると、ケータイ小説のブームは2002年~08年頃だといいます。私が小学生~中学生だった頃ですかね。当時の私は携帯電話は持っておらず、小説を読む習慣もなかったため、蚊帳の外にいましたが、何となく流行っていた記憶はあります。私の持つ勝手なイメージだと、ケータイ小説には悲惨な出来事が次々と襲い掛かり、特に死またはそれに準ずるものが安易に用いられ、感動を誘うような印象があります。それは、この映画でも多く見られました。


明香里は事故で両親を失い、視覚障害を抱えてしまいます。一方の塁も母親が入水し、孤児院に預けられています。塁には罪を犯した過去があり、許されていないと葛藤を抱えている様子。他にも、明香里に関係を迫ろうとする上司や、半グレ集団との接触など悲劇的な出来事には事欠きません。発生した困難を解決するのが物語の一つの類型とはいえ、若干多すぎるくらいです。少し悲劇が安易に用いられている気もしてしまいます。


また、最終的には純愛ものだというのもポイント。明香里は姿の見えない塁に好意を持ち、塁が消えたときには塁の顔を模した彫像まで作って悲しんでいます(少し怖かった)。また、塁も明香里に手術を受けさせようと、高額なファイトマネーを得るために地下闘技場に赴いているわけですし、二人の間には邪心は見られません。悲劇を乗り越えつつ、最後にはハッピーエンドで物語は締めくくられる。これも私が考えるケータイ小説のイメージです。


前述したようにケータイ小説のブームは2002年~08年頃です。そして、ブームは循環するものです。タピオカだって最近は陰りが見えていますが、1990年~、2008年~を経ての第三次ブームでしたからね。きっと干支が一周以上して、再びケータイ小説的純愛ものブームが来始めているのかもしれません。


だって、ケータイ小説ブームの時の中高生はもう20代後半~30代ですし、ブームが去ってからネットに触れたのが今の中高生です。前者には懐かしさを、後者には新鮮さを持って受け入れられるでしょう。この映画のような00年代のケータイ小説的恋愛ものをリバイバルする路線は、もしかしたら20年代前半のトレンドの一つになるかもしれません。そうなると、20年代の邦画を考える上では、この映画はひょっとすると重要な映画になるかもしれないですね。










繰り返しになりますが、ケータイ小説の読者だった中高生は20代後半~30代に。Wikipediaにはケータイ小説は女子主人公が多いと書かれています。当時の中高生は、主人公に自分を重ねて読んでいたのでしょう。でも、年を取った今はそういうわけにはいきません。では、どうするか。この映画は大人の女性を主人公にするという方法を取ってきました。


劇中の明香里の年齢は明言されてこそいないものの、事故発生が2015年でその当時大学生だったという描写から考えると、おそらく25~27歳あたり。これは2006年~の第二次ケータイ小説ブーム時は高校生だった計算になります。さらに、明香里を演じた吉高由里子さんは現在32歳で、これは2002年~の第一次ケータイ小説ブームにピンズド。年齢的にはケータイ小説の少女主人公が、大人になったのが明香里であるともいえそうです。


現在20代後半~30代の女優さんは何人もいます。それでも、明香里は吉高さんでなければ務まらなかったと私は映画を観終わった後に感じました。それは人気があるという理由だけではなく、女優としての吉高さんの特性ゆえです。


結論から申し上げますと、明香里が吉高さんでなくてはいけなかった理由。それは、そのリアリティの薄さです。映画を観てもらえば分かると思うんですが、あんな明るい喋り方する人、現実にはあまりいないじゃないですか。自然体とは真逆で、めちゃくちゃ作っている感じがしたんですよね。例えば、「でも大丈夫」の言い方。あれは完全に三井住友銀行のCMのソレですよ。






この映画の吉高さんって、厳密に言えば柏木明香里を演じてはないんですよ。いや、視覚障害の描写には力を入れていましたけど、それ以外では「パブリックイメージとしての吉高由里子」を演じているように私には見えました。でも、それを全うできること、フィクションをフィクションとして演じられることが吉高さんが今ドラマなどに引っ張りだこな理由かなとも思いました。


なぜかというと、ここにも近年の傾向があると思うんですが、最近ってやったらめったらリアリティが重視されるじゃないですか。現実性、整合性、自然体というものが持て囃されている感じが私にはするんですよね。CGだって壮大なものとリアルなものに二極化していますし、また共感をより重視する時代になって、感情移入のためにリアルな演技というものが追求されがちです。


でも、これだけライフスタイルや嗜好が多様化した現代に、万人が共通的にイメージするリアルなんてものはもう存在しないわけですよ。それならフィクションの方が、現実から離れているという部分では共通しているのかもしれないです。で、この映画を観て感じた吉高さんの優れている部分って、ある程度現実離れしているところなんじゃないかって感じました。


何しろ表情筋の使い方が上手いんですよね。笑顔だけで何種類バリエーションがあるんだという感じです。さらに、少し上ずった感じの口調がリアルとリアルじゃない間の絶妙なラインを突いていました。「こんな人現実にはいないよ」と思わせつつ、最後には共感させて泣かせる。そのバランス感覚が抜きん出ているんですよね。若手俳優さんだとどっちかに振りきれがちになるので、さすがの演技だなと感じました。





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繰り返しますが、この映画の吉高さんはリアルすぎていません。きっとそれがリアル志向の10年代へのカウンターとして機能しているんだと思います。飽和するリアリティに疲れた現代の人が欲している絶妙なリアリティとフィクションのバランス。それを今日本で一番体現できるのが吉高さんなんだと感じます。時代が求めているとも言えそうですね。だからドラマ等の出演が途切れないんだと思います。


でも、吉高さんが活きたのは、相手役の横浜流星さんが徹底的にリアルに演じていたからというのを忘れてはいけません。この映画の横浜さんは静かで繊細な演技を心掛けていて、特にまだ明香里に戸惑っている前半の靴を気にしたりとか、距離を測りかねている感じが良かったです。受け身の演技が光っていました


しかし、映画の後半からは攻めに転じるので、そのギャップも見どころ。鋭い目つきと鍛えられた肉体は誰が見てもきゅんとすること間違いなしです。やはり横浜さんは20年代の主役の一人になりそうな俳優さんですね。




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長くなってきたので、この辺でまとめると『きみの瞳が問いかけている』は、


・00年代のケータイ小説的純愛ものを主人公を大人にしてのリバイバル
・10年代のリアル志向へのカウンター



という二つの要素が含まれている映画だと、私は感じました。この二つの潮流は20年代前半の邦画の一つのトレンドになりそうな予感がします。よくある純愛映画に見えて、後々振り返ってみたら大きな意味を持つ映画だった、ということになるかもしれないですね。既視感はあるかもしれませんが、興味のある方はご覧になってはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想です。


今回観た映画は『パブリック 図書館の奇跡』。7月に公開されてからいくつか好評が届いていたので、観てみたいリストには入っていたこの映画。10月になってようやく地元でも公開されたので観に行ってきました。


結論から申し上げますと、傑作ですね、この映画。いっぱい笑いましたし、最後には泣きそうになりました。今年観た洋画の中でも一二を争うくらい好きです。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。





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―あらすじ―

米オハイオ州シンシナティの公共図書館で、実直な図書館員スチュアート(エミリオ・エステベス)が常連の利用者であるホームレスから思わぬことを告げられる。「今夜は帰らない。ここを占拠する」。大寒波の影響により路上で凍死者が続出しているのに、市の緊急シェルターが満杯で、行き場がないというのがその理由だった。
約70人のホームレスの苦境を察したスチュアートは、3階に立てこもった彼らと行動を共にし、出入り口を封鎖する。それは“代わりの避難場所”を求める平和的なデモだったが、政治的なイメージアップをもくろむ検察官の偏った主張やメディアのセンセーショナルな報道によって、スチュアートは心に問題を抱えた“アブない容疑者”に仕立てられてしまう。やがて警察の機動隊が出動し、追いつめられたスチュアートとホームレスたちが決断した驚愕の行動とは……。

(映画『パブリック 図書館の奇跡』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。







あらすじにもある通り、『パブリック 図書館の奇跡』は一言で言うと、大寒波で行き場を失ったホームレスたちが図書館を占拠する映画です。ユーモラスな雰囲気で包まれていますが、切実な問題提起がなされていて、観終わった後にはホームレスのことについて調べたくなるような、何かしたくなるような映画となっていました。


そして、調べてみたところビッグイシュー基金のHPによると、日本のホームレスと呼ばれる方々は2020年1月時点で3,992人いるとのこと。これは2007年から8割ほど減っていますが、ネットカフェ難民と呼ばれる方々は東京都だけでも一晩に4000人いるとのこと。このコロナ禍で失業したであろう数多くの人も含めると、日本でもまだまだ貧困問題は解決されているとは言い難いですね。


この映画でなされたのは、そんなホームレス問題、貧困問題への問いかけです。象徴的だったのが市長選のPRですね。印象悪く描かれていた検察官のデイヴィスはもちろん、善人っぽく描かれていた牧師も実はホームレス支援については何も語っていなくて。まあ住所がないと選挙の際に投票所入場券が届かないので、投票できないんですよね。政治家の身になってみれば、いくらアピールしても票が見込めないのでは、その時間や労力を他の政策に回した方が得策です。


そんな事情から職を失い、政治や公的扶助にも救われず、大寒波に震えるホームレスたち。図書館で暖を取っていましたが、閉館した夜には外に放り出されてしまいます。そして、寒さにさらされ凍死する者まで出てきてしまう。こんな状況にはもう耐えられないと、ジャクソンという黒人のホームレスをリーダーに公共図書館に居座ります。政治から見放された彼らが、公共の場に救われることには何かメッセージめいたものを感じてしまいますね。


彼らの事情を察して、図書館に居座ることを許可するのは一介の職員に過ぎないグッドソンです。もちろん、彼に夜間開放を認める権限はなく、刑事のラムステッドの説得に遭ったり、イメージを上げて選挙戦での逆転を狙うデイヴィスに、グッドソンが起こした立てこもり事件だと事をややこしくされてしまいます。


その中でも悪い意味で印象に残ったのが、中継をするリポーターですね。局の意向かもしれませんが、グッドソンを人質事件の犯人へと仕立て上げ、事実を正しく伝えません。ありのままの事実を伝えれば、事態は良い方に向かうにも関わらずです。


私にはこの報道は、自分たちが選んだ政治家が、ホームレスに支援をしなかったせいで、このようになってしまったという事実から目を背けているように感じました。自分たちにもほんの少しですが責任があるという真実を受け止めたくなくて、事件という分かりやすいストーリーにしているのかなと。




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でも、ホームレスがこの世界にいるのは事実で、本当は全員に定住する場所があることが理想なんですよね。健康で文化的な最低限度の生活に、衣食住の三要素が含まれているのであれば、ホームレスがいることは国の政策としては失敗なんですよね。映画でも、ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』から「全ての成功を帳消しにする失敗」(うろ覚え)というような言葉を引用していましたけど、まさにそれですよ。


そして、失敗は誰しも直視したくないものです。駅や道路に座るホームレスに声をかける人間が果たして何人いるでしょうか。私も東京に住んでいたころに、立川に行くとホームレスの方が毎月ビッグイシューを配ってましたけど、一度も受け取ったことなんてなかったですからね。こうやってこの映画を観なければ、わざわざこうしてホームレスの方に思いを馳せることもなかったでしょうし。


この映画は、そんな直視されない、見られないホームレスが「ここにいるぞ」と声を上げる映画なんですよね。俺たちの存在を知らしめるんだという。もう本当にのほほんと生活している自分を恥じたくなりましたよ。


最近の映画でLGBTを扱った映画が増えているじゃないですか。これも今まで顧みられなかったLGBTの方々の存在を知らせるという意味があるでしょうし、最近で言うとBLT(Black Lives Matter)運動もそうです。この運動も、人種差別の意識が薄い私たちに、いまだに人種差別が存在していることを強烈に訴えかけていました。


この映画の脚本が書かれたのは大体3年位前なんでしょうが(HPには制作に11年かかったと書かれている)、「(デイヴィスのイメージアップのために)何か事件起こらないか。黒人が射殺される以外で」というセリフがあったのにはビックリしました。そう考えると、ジャクソンが黒人であることも重要な意味を持ってきそうですね。


最近、某監督が「社会問題は誰も見ない」と呟いて物議を醸していましたけど、私は映画には記録装置という意味合いもあるので、どんどんと社会問題を扱ってほしいなと思います。普段目の届かない人に目を向けるきっかけになりますし。まあ、社会問題が入っているから高評価するっていう傾向は危ないとは思ってますけどね。ほら、多様性を必須条件としたアカデミー賞の新基準が話題になってましたし。









と、ここまで書いてきた限りでは、この映画はホームレス、貧困問題という社会問題を扱ったお堅い映画なのかなと思うかもしれません。でも、社会問題だけを伝えているのではなく、この映画はエンタメ性も十分に兼ね備えているんです。


まず、説得を狙うラムステッドと応じるわけにはいかないグッドソンとの駆け引きは手に汗握りますし、占拠中も次から次へと問題が発生して飽きさせません。事態をややこしくするデイヴィスの顔芸も見どころですし、何より映画に登場するホームレスがみんな明るい。誰一人として、必要以上に悲愴感を漂わせることなく、占拠はあくまで平和な雰囲気の中で行われているので、映画の雰囲気も決して重くなることはありません。血もほとんど流れないですし。


そして、最高だったのが、その落とし方です。警察の機動隊が突入する。もう悲劇的な結末しかない。そう思わせといてのアレにはびっくりしました。カメラが見えなくなったところで、「あ、これ全員いなくなってるヤツだ」と思ったんですが、全然違いました。初見では戸惑いとともに笑いがこみ上げてきます。まさか今年の某邦画を上回る映画を今年中に見られるとは思ってなかった。


でも、考えてみるとこれ以上ない平和的な解決方法だと思うんですよね。万国共通でインパクトも十分ですし、あれを見た住人はきっと忘れられない光景になったと思います。私もあの光景はしばらくは忘れることができないですし、ポスターの「忘れられない夜になる」という言葉の意味に思わず膝を叩いてしまいました。最後にセリフだけですけど、「低体温症になる温度は?」とか「ホームレスの人数は?」と聞かれていて、「ああこの出来事は住人の心を動かしたのだな」と感動してしまいました。


そして、私の心も動きました。もしこの映画を観ていなければ、最初に述べたようにホームレスの方々の現状を軽くでも調べることはなかったでしょう。それに、何かできることはないかとビッグイシュー基金にも少しですが協力させていただきました。今は微々たるものですが、人の役に立つことをしたという爽快感でいっぱいです。本当にこの映画を観てよかったなと思います。


参考までにビッグイシュー基金のURLを貼っておくので、映画を観たりしてホームレス問題を何とかしたいと考えた方は、寄付を検討してもいいのではないでしょうか。

https://bigissue.or.jp/how_to_join/donate/





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以上で感想は終了となります。映画『パブリック 図書館の奇跡』。社会問題をエンタメに乗せて届けている傑作です。上映している映画館はもう少なくなりましたが、興味のある方はぜひご覧ください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい






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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『ミッドナイトスワン』。草なぎ剛さん主演のトランスジェンダーを題材にした映画です。ポスターや予告編に惹かれて観に行ってきましたが、これが想像以上の良作でした。全く文句ありません。感動しました。


感想を始める前に断っておくと、私はヘテロセクシャルの男性です。LGBT当事者ではないと自分では思っているので、もしかしたら誤解を招くような表現があるかもしれません。もし気になったらコメント等でご教授いただけると幸いです。


では、感想を始めます。拙い文章ですが何卒よろしくお願いします。




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近年、映画などで一大ジャンルとなっているのがLGBT(LGBTQAなどとされることもありますが、ここでは以下LGBTと表記します)を題材にした作品です。『ムーンライト』や『君の名前で僕を呼んで』、『カランコエの花』や『his』など洋の東西を問わず多数制作されているこれらの映画。最近ではNetflixに『梨泰院クラス』もありますね。LGBTに対する認識の高まりに合わせて、次々と制作されていますが、日本では言葉が独り歩きして、本当の意味ではあまり浸透していない様子です。


そんな最中、公開されたのが草なぎ剛さんがトランスジェンダーを演じた『ミッドナイトスワン』です。公開初日に観たところ、単なるLGBTの啓発映画にはなっておらず、美しいバレエシーンも交えた良作と言える映画でした。今年公開された邦画の中でもかなり上位に食い込んでくる映画ではないかと思います。かなり衝撃的なシーンもあり、ああまでして描いたことに覚悟を感じました。迷っているならぜひ観てほしい会心の一作です。






まず、この映画の最大の魅力は何といっても凪沙を演じた草なぎ剛さんと、一果を演じた服部樹咲さんにあるでしょう。特に草なぎ剛さんはトランスジェンダーという簡単ではない役どころを演じていましたが、淡々とした口調に情感がこもっていてとても良かったです。変に粘っこくすることなく、誇張することなく、凪沙というキャラクターがするような自然な仕草を心掛けていて、もう凪沙にしか見えなくなってきます。夜に一果と踊るシーンはこの映画でも屈指の名シーンでした


本来、草なぎ剛さんといえば日本を代表するような有名人で、顔が知られまくっているということは、役を演じるには不利なことではあります。ですが、草なぎさんは足の先から頭のてっぺんまで凪沙になっていました。


これはネタバレになるのですが、劇中で凪沙が髪を切って男性らしいルックスになるシーンがあるんですね。その見た目はもう紛うことなき草なぎ剛なのですが、観ているこちらからすれば、そこにいたのは凪沙なんです。何も喋らずとも、ああ凪沙だなと分かる雰囲気を醸し出していて、脱帽しました。主演であり、間違いなくこの映画のMVPです。


また、一果を演じた服部樹咲さんも素晴らしかったです。演技は正直最初は慣れているとは言い難いのですが、その変に慣れていない感じが一果の感じている疎外感を強く訴えかけてきていましたし、後半になるにつれて、演技も目に見えて上達していました。


そして、なんといっても見どころなのがバレエシーンですよね。内田監督が強くこだわり、また服部さん自身もいくつもの大会で優秀な成績を収めているだけあって、その踊りは見事としか言いようがありません。特にラストの二つのバレエは、祈るような気持ちが伝わってきて、音楽と合わさって思わず泣きそうになってしまいました。この服部さんのバレエだけでも2000円近くを払う価値はありますね。


他にも完全な毒親と化していた水川あさみさんや、一果の才能に心ひかれていく真飛聖さん。凪沙が働くクラブのママを演じた田口トモロヲさんに、どうにもならない苦しみを叫ぶ田中俊介さんなど、脇を固める俳優さんもしっかりと好演。特に注目してほしいのが、一果の友人・桑田りんを演じた上野鈴華さんですね。一果への嫉妬とも恋情とも似つかない感情や、両親への隠れた不満を繊細に表現していました。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。







さて、私がこの映画を観て何を感じたかと言えば「呪い」ということです。この映画ではさまざまな呪いが蔓延していました。そして、呪いにしているのが他ならない私たちだとも感じました。


一応、トランスジェンダーについて説明しておきますと、こちらのサイトによれば、身体的な性と自分が認識している性が異なる人たちのことを指す言葉だそうです。つまり、身体は男性なのに自分のことを女性と認識していたり、その逆もまた然りです。


近年、日本でもLGBTという言葉は広く認識されるようになってきました。多くの会社で上層部に講習がなされたり、SNSやYoutubeなどの発展で当事者の方の声が見えやすくなったり。でも、それは「LGBT」という言葉に対する理解だけであって、LGBTに属する人たちへの理解ではないように思えます


それを端的に表しているのが、凪沙が面接を受けたときに面接官から発せられた「最近LGBT流行ってますもんね」という言葉です。これは全くの失言で、そもそもLGBTと呼ばれる人たちは、そう名前がつくよりずっと前からいましたし、流行っているのはLGBTを題材にした作品です。


また、オカマオネエなどのざっと10年は古い言葉もクラブ内では飛び交っていますし、挙句の果てには凪沙は実の親戚から「化物」などと拒絶されてしまいます。本当はLGBTや性的指向は、短い眠りでも大丈夫だとか、たくさん食べても太らないだとかそういった人間の基本的な体質と何ら変わりのない次元のことだと私は思っているのですが(違っていたらごめんなさい)、それは本来呪いでも何でもなく、その人の生まれ持った特徴に過ぎないはずです。


でも、無理解やあっても浅い理解が、その基礎的な特徴を呪いとしてしまっています。LGBTがマイノリティで多数派じゃないから可哀想みたいな間違った驕りが、呪いとなってのしかかっているんですよね。上に挙げた二つのような体質を呪いだなんて思う人はあまりいないでしょう。でも、同じレベルにあるLGBTは呪いとされてしまっている。悪気のない残酷な言葉に耐えさせて、性欲処理の道具みたいにさせてしまっている。まだまだ私もそうですけど、社会の理解が足りていないんだなと痛感させられました。













私がこの映画の特徴として感じたのが、ありとあらゆるものが「呪い」となっているということです。血縁関係、ジェンダー意識、才能、若さetc...。この映画はどこを取っても、呪いだらけで物語が進むにつれてだんだんと辛さが増していきました。


まず血縁関係は、酒を飲んで育児放棄を繰り返す早織(一果の母親)と、一果の関係に分かりやすく代表されています。凪沙と時間をかけて育んできた信頼関係も、早織の登場によって一瞬にしてぺしゃんこに押しつぶされてしまうのはあまりにも残酷で、「呪い」としか言いようがありません。また、お金持ちで何一つ不自由していないように見える桑田家でも、りんは言い知れない不満を抱えて違法なバイトに手を出していました。こちらにも呪いめいた血縁関係が見え隠れしています。


また、ジェンダー意識もこの映画の中では鋭いナイフのように描かれています。「男だから力がなければならない」とか「子供を育てるのは母親」とか。映画では唐突に現れた早織が一果を凪沙の元から連れ出してしまいます。凪沙は以前から女性になりたいと願っていて(注射してたのはたぶん女性ホルモンだと思う)、実際に女性になりますが、そこには「女性になって母親にならないと一果と一緒にいられない」というジェンダー意識があったのではないでしょうか。「あなたの母親にもなれるの」というのは、この映画でも随一のつらいワードでした。


さらに、この映画の特色は「才能」や「若さ」といった一般的に見ればプラスのものでさえ、呪いになっているということです。一果には非凡なバレエの才能がありますが、その才能はバレエの先生や凪沙といった周りの大人たちを、その道一本に縛り付けてしまいます。


また、バレエにはお金が必要で、凪沙はそれほど裕福ではないため、一果はりんに紹介されて違法なバイトに手を出します。それはJCの撮影会。おっさんたちにカメラを向けられて、一果の表情は死んでいます。これもJCが性的消費をされていると考えれば、その若さは「呪い」ということさえできると思います。


つまり、この映画はLGBTを「可哀想な呪い」だと間違った理解をしている人に「それならあなたが信じてるあれやこれやも呪いだけど?」だと突き付けているんだと私は感じます。LGBTは何ら特別なことではないというメッセージですね。だから、そういう凝り固まった考えをしている人にこそ観てほしいなと。観て何かを感じ取ってほしいなと切に思いますね。



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これは比べるものではないのかもしれませんが、今年マイノリティ(とされる人)を描いた邦画として『37セカンズ』が挙げられます。こちらは障害をテーマにしているという大きな違いはありますが、描かれているのはどちらも「呪い」、具体的に言えば当人が感じている「呪縛」だと思います。


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ですが、この二作の方向性は全く異なっていて。『37セカンズ』はその呪いを解く方向に向かうんですね。話のゴールは「(脳性麻痺でも)私は私でよかった」という再認識ですし、母親との確執も解決されます。


しかし、『ミッドナイトスワン』では、何の解呪も訪れません。早織が卒業式に出ている描写はありますが、血縁関係という呪いはそのまま残っていますし、凪沙も現実と自己認識のズレを解決できていません。特に、りんがあんなことになったのに全く一果たちには知らされず、そのまま触れられないで終わるのはなかなかにショッキングです。


きっとこれには現実の状況が反映されているんでしょうね。バリアフリー化が進み、数十年前と比べると車いすの方でも少しは暮らしやすい環境になったのに比べ、LGBTへの理解はまだまだです。ネグレクトも依然として残っています。そんな状況下では、安易な解呪はきっとできなかったのでしょう。そう考えると、惨憺たる気持ちにさせられます。数年後にはこの映画が現実離れしたほど悲惨なものとみなされるくらい、LGBTが特別視されない未来が来ると良いなと映画を観終わって思いました。




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以上で感想は終了となります。映画『ミッドナイトスワン』、真面目な映画ですが、バレエなどの見せ場もあり重くなりすぎず、絶妙なバランスを保っていた印象です。草なぎ剛さんをはじめとした俳優陣の演技も素晴らしいので、興味がある方はぜひごらんください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


ミッドナイトスワン (文春文庫)
内田 英治
文藝春秋
2020-07-08




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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。二度の延期を経て、ようやく公開されたこの映画。待ちわびた私は今年でもトップクラスの期待を胸に抱いて観に行ってきました。100席ほどのスクリーンもほぼ満員。これだけ待ち続け、必要とし続けた人がいたことにまず胸が熱くなりましたね。


それでは感想を始めたいと思います。なお原作は相変わらず未読です。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―あらすじ―

代筆業に従事する彼女の名は、〈ヴァイオレット・エヴァーガーデン〉。
幼い頃から兵士として戦い、心を育む機会が与えられなかった彼女は、
大切な上官〈ギルベルト・ブーゲンビリア〉が残した言葉が理解できなかった。
──心から、愛してる。

人々に深い傷を負わせた戦争が終結して数年。
新しい技術の開発によって生活は変わり、人々は前を向いて進んでいこうとしていた。
しかし、ヴァイオレットはどこかでギルベルトが生きていることを信じ、ただ彼を想う日々を過ごす。
──親愛なるギルベルト少佐。また今日も少佐のことを思い出してしまいました。
ヴァイオレットの強い願いは、静かに夜の闇に溶けていく。

ギルベルトの母親の月命日に、
ヴァイオレットは彼の代わりを担うかのように花を手向けていた。
ある日、彼の兄・ディートフリート大佐と鉢合わせる。
ディートフリートは、ギルベルトのことはもう忘れるべきだと訴えるが、
ヴァイオレットはまっすぐ答えるだけだった。「忘れることは、できません」と。

そんな折、ヴァイオレットへ依頼の電話がかかってくる。依頼人はユリスという少年。
一方、郵便社の倉庫で一通の宛先不明の手紙が見つかり……。

(映画『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。




昨年9月に公開された外伝の感想はこちら↓









まず感想としてはやはりさすがのクオリティーでした。TVアニメからの美麗な作画をそのまま2時間20分もの長い間味わうことができます。荒みかけていた心もどんどんと潤っていくようです。さらに物語も高いレベルでまとまっていて、身構えていた私の心もかなり揺さぶられました。たぶんもう一押しあったら泣いていたと思います。これを1800円で(私は1000円だったけれど)観ていいのかと思うレベルで、映画が終わった後には自然と小さな拍手が起こっていました。きっと、観た多くの人が満足げに映画館を後にしたと思います。


ただ個人的には、あのこれは大変言いにくいのですが、ちょっとどこかで完全にはハマりきっていないかなと...…。もちろん良かったのですが、観ている途中はもしかしたらあまり好きな話じゃないのかもとさえ思ってしまいました。たぶん相性が悪かったのだと思います......。残念ながら……。





あまり愚痴愚痴言うのも良くないので、まずは好きだったところから挙げていきましょう。京都アニメーションの特徴といえば、まず思い浮かぶのが丹念で綺麗な作画ですが、それはこの映画でもバッチリ楽しむことができます。これについては説明するよりも、とにかく観てくれとしか言いようがないのですが、本編や外伝に匹敵するくらいの出来栄え。どれだけ高い期待を抱いても、それを裏切ることはありません。ぜひ酔いしれてほしいなと思います。


さらに、作画と同じくらい印象的だったのがカメラワークですね。この映画では大事なシーンで表情を映さない演出が多く用いられているんですよ。二人で話しているときに、話者一人を端に置いて受け手を映さなかったり、後ろ姿だけで見せてきたり。特に序盤のヴァイオレットがギルベルトのことを思い浮かべるシーンの数秒の間には痺れました。動かさないことが、時として動かすよりも重大な意味を持つのだと思い知りましたね。


さらに、この大事なところを見せない演出が積み重ねられていき、ラストシーンで結実するのもかなりポイント高いです。鳥肌が立ちました。他にもサムズアップなどさりげないシーンで、それとなく仄めかしたりするのもとても良いです。こうした語りすぎない演出が、一番の勝負所に効いてきていて(少し盛りすぎではと思いながらも)ねじ伏せられました。すすりなく声もいくつか聞こえてきましたし。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











この映画は暗い道を誰かが歩くシーンから始まり、「Sincerely」という単語が表示されます。親愛なるという意味もありますが、日本語で言うところの「敬具」的な意味合いも強く、これで完結だということが早くも印象づけられます。


そして、本編が始まるわけですが、もういきなりかまされました。だって、デイジーという全く知らないキャラクターの視点から始まるんですよ。誰かが死んだということは分かるけれど、今までの話にどう関連があるのか全く分からない。サプライズなスタートです。


でも、よくよく見ると写真の中に、テレビシリーズ10話で登場したアンがいるんですよね。この映画のスタートは本編から数十年後の世界で、デイジーはアンの孫でした。デイジーは日に焼けた手紙を見つけます。それはアンの母親がアンに向けて送った手紙。代筆したのはヴァイオレット。この映画はテレビシリーズでも屈指の感動回と名高い10話のエピソードをなぞる形で始まります。いきなり涙腺を刺激してきて、最初から泣きそうになりました。今年観た映画の中でも一番好きな始まり方です。


ここでヴァイオレットが18才でCH郵便社を離れたことが観客に提示され(予告編でも言及されていたけど)、ヴァイオレットたちの時代の物語がスタート。とはいっても、こちらはこちらで海に祝詞を捧げるという突飛なシーンから始まるので、こちらも理解するのには少々時間がかかりましたけど。


それからは初見の方でもわかるように、テレビシリーズの展開を少しずつおさらいしていきながら物語は進行。電話など技術の進展によりドールの仕事が脅かされつつあることや、ヴァイオレットのギルベルトへの想いを改めて提示しつつ、ギルベルトの母親への月命日の墓参りを終えたヴァイオレットに一件の電話が届きます。


それは少年ユリスからの代筆の依頼でした。ユリスは難病に臥せっていて、いくばくかの命もありません。自分の命が尽きる前に、両親と弟に手紙を書きたいとヴァイオレットを呼びます。ユリスの心情も知らず、大丈夫かとばかり心配をする両親。ユリスはそんな両親に素直になれず、つい弟に当たってしまいます。さらに、友人リュカとの面会も拒絶している様子。これを隠れて聞いていたヴァイオレットは特別に子供料金で代筆を請け負います。


えっと、この辺り明らかにアンのエピソードと被せていますよね。残されたものに向けて手紙を書くっていう。このユリス関連には言いたいことが結構あるのですが、長くなるので後に回します。












ある夜、ホッチンズとベネディクトは宛先不明で郵便局に返送されてきた手紙を発見します。筆跡は失踪したギルベルトによく似たものでした。これは予告編を観た人なら100%勘づいていると思うので言っちゃいますが、ギルベルトは生きていました。離れ島で子供たちの教育や畑仕事にあたっています。というかこの前のいくつかのシーンでギルベルトが生きていることは観客に示されているので、もはや隠す気もサラサラないのですが。


ギルベルトに会いに、離れ島へと向かうヴァイオレットとホッチンズ。長い道中にヴァイオレットはギルベルトへの手紙を書きます。そして、当該の集落へと辿り着いた二人。ギルベルトがどう思うか分からないという理由でホッチンズはヴァイオレットを入り口で待たせ、一人ギルベルトの元へと向かいます。


曇り空で暗い学校の中にギルベルトはいました。背景を薄暗くしてギルベルトの表情を多く見せない演出が冴えわたるシーンです。ギルベルトはヴァイオレットといると彼女を傷つけたことを思い出してしまうからと拒絶。ホッチンズがいくら言っても、ヴァイオレットが雨に濡れながら呼び掛けても、取りつく島もありません。この中盤のシーンは観ていて、今年有数にドキドキしましたね。誰もがじっとスクリーンを見つめていましたし。


ギルベルトに拒絶されて行く当てをなくし、灯台兼郵便局に泊まることになった二人。しかし、CH郵便社からユリスが危篤との情報が入ります。ユリスと彼が死んだ後に家族に手紙を届ける約束をしていたヴァイオレットは職務を遂行しようとライデンに戻ろうとします。あんなに会いたかったギルベルトよりも依頼主とした約束を優先させるのには成長したなって思いましたね。まあ嵐で海が荒れているので戻れないんですけど。三日かかると言われてましたし。




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とここで問題が発生するわけなんですが、個人的にはここからの展開があまり受けつけなくて。ユリスの扱いが気になったんですよね。結論から申し上げますと、ユリスは死んでしまうんですよ。これが私としてはあまり好きじゃなくて。


この映画でのユリスは主に二つの役割を持っていたと思います。その一つが、予告編や本編でも触れられた「技術が進歩して電話等が登場したら、ドールの仕事は失われてしまうのではないか」という問いへの答えです。病院に行けないヴァイオレットは、自分の代わりにアイリスを病院へと向かわせます。そこでユリスのリュカへの手紙を代筆しようとするのですが、ユリスはかなり危篤な状態で、事は一刻を争い、とても手紙の内容を伝えられるような状況ではありません。


そこで、ベネディクトの協力も得て、リュカと電話で話させるようにするのです。ドールの仕事を奪うと思われていた電話の活躍は熱い展開だなと思ったのですが、ここの電話の内容にユリスのもう一つの役割が示されているように感じました。


ユリスはリュカに弱った自分を見せたくないとリュカを拒絶します。しかし、本心では会いたいと思っている。私はこのユリスとリュカの関係は、意図的にギルベルトとヴァイオレットとの関係に重ね合わせられているのだと感じます。「ごめん」と謝ったユリスがギルベルトの本心を代弁するかのような気が私にはしたのです。これが中盤の大きな山場になって感動を生んでいるので、試み自体は成功しています。


さらに、前述の問いへの答え。それは本当に大切なのは手紙や電話という媒体うんぬんよりも「想いを伝える」ことです。それこそがドールの仕事なのだと示されているように私は受け取りましたね。これはこの映画の、いやこの作品自体の大事なテーマの一つになっていて。だからこそ、ギルベルトは終盤にああいった行動を起こしたのだと思いますし。そういった現代でも変わらない普遍的なテーマが最高潮に達したシーンが、このユリスのシーンでした。











とまあここまで考えてみれば、ユリスがこの映画で重要な役割を担っているキャラクターだということが分かるのですが、映画を観ている最中はここまで考えが至らなくて。まず、アンのエピソードを映画の中でも扱っているのだから、さすがに同じ展開は少し鼻白んでしまうなと思ったことが一つ。さらに、「難病」というモチーフに私がアレルギー反応を示してしまったことが一つです。


もう「難病」が出てきた時点で身構えるようになってしまったんですよね。きっと死ぬときに感動させるんだろうと。実際すすり泣く声もしましたけど、私はちょっと感動を盛りすぎてるかなと思って泣けませんでした(感動自体はしました)。


これは完全に個人の好みなんですが、私は映画とかで人が死んで感動させる展開があまり好きではなくて。そんなの安易だとすら思ってしまうんですね。きっとどっぷりキャラクターに愛着を湧かせてから死なせて泣かせるには、二時間という映画の尺は短すぎると思うんですよ。というか高校以降、創作物でキャラクターが死んで泣いたのって、ネウロのⅪ〈サイ〉ぐらいしかない気がします。これも20巻以上という積み重ねがあったからですしね......。


この映画を観終わってしばらくして、私は8月に公開された『糸』という映画を思い出しました。あの映画も感動の押し付けが凄かったし、難病を抱えたキャラクターが亡くなるのですが、程度の差はあれど、この映画にも同じことを感じてしまったんですよね。


端的に言ってしまえば、観ている間はユリスは死ぬために登場したキャラクターなんだと思ってしまいました。この死ぬために登場した感が透けて見えると、どうしても私は少し冷めてしまいます。だって、人は死ぬために生まれたのかと問われれば、それは絶対に違うでしょう。絶対に。なのに創作物ではミステリーの被害者に代表されるように明らかに死ぬためのキャラクターが登場する。これってちょっと不自然じゃないですか?原作は未読なのでどうかは知らないんですけど、脚本は吉田玲子さんですし、もうちょっとどうにかできたのでは、と素人ながらに感じてしまいました。




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以上で感想は終了となります。ほら、ラストまで全部書いちゃったら味気ないじゃないですか。まあ、ディートフリートはいつ来たんだとか、遠浅すぎるでしょというツッコミどころはありますが、総合力で言えばかなり高い作品だと感じます。やっぱり映画は観てなんぼのものですし、観た方が制作陣も報われるっていうもんです。実際、良作ですし、興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 




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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』。毎年恒例のしんちゃん映画が、今年はこの時期の公開です。見てきた感想をまず言うと、今年も一定以上のクオリティがあり、観てよかったなと感じました。たまに一次創作をしたりする私のパーソナリティ的にも響きましたしね。


それでは感想を始めたいと思います。何卒よろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください






当初は例年通り今年4月に公開が予定されていた今年の映画クレヨンしんちゃん。しかし、コロナ禍で公開が9月に延期。マスクをつけながらようやく観に行ったのですが、観て驚きました。ラクガキと言う今日日あまり見られない題材を扱っていながら、すごく現代的なお話だったのです。それは単にSNSやタブレットが登場したというだけではありません。意図せずコロナ禍の状況さえも反映しているように私には思えました。


さらに、この映画は今までのしんちゃん映画にないくらいオタク的でもあります。現実に虚構が立ち向かうという図式もそうですが、大切なのはラクガキと言えども立派な創作であるという点。さらに、しんのすけが行う一次創作だけでなく、あるジャンルのオタク特有の二次創作という文化が、この映画では重要な意味を持つという点が挙げられます。この映画はそういったオタク文化を肯定しているんです。少なくとも観終わって私は感じました。





※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






では、映画について見ていきましょう。この映画は偶然にも今年のドラえもん映画と同じこども科学館から始まります。オープニングに合わせて登場したのはまさかのマサオくん。VRで空中に絵を描くというかなり現代的な始まり方です。しかし、しんのすけは旧来的に床に直接マジックでラクガキ。当然よしなが先生にたしなめられますが、上空からそれを見ていた者たちがいました。


彼らの名はラクガキングダム。自由なラクガキから生まれるラクガキエナジーで成り立っている王国です。しかし、現代では町はきれいに整備され、学校の授業もタブレット(ここ大事です)に。崩壊しつつあるラクガキングダムの防衛大臣は、子供たちに無理やりラクガキをさせるウキウキカキカキ作戦を発案。他の大臣の承認も得て、作戦を実行に移します。地上には近衛兵が降り立ち、大人は特殊なカメラで撮られて壁や道路に磔に。子供たちは無理やりラクガキを描かされます。最初は良かったものの、だんだんとラクガキエナジーは低下。創作は強制的にやるものではないことが、ここで示されます。


この事態を重く見たラクガキングダムの姫。描いたものを実体化させるミラクルクレヨンを宮廷画家に託し、地上へと送ります。宮廷画家は迷いつつも、しんのすけと出会う。その前のボーちゃんでは使えなかったミラクルクレヨンですが、しんのすけはいとも簡単にひろしの靴下を描いて出現させます。その匂いは本人そのもの。


ここがポイントなのですが、しんのすけはラクガキという一次創作を実体化できる選ばれし者になったんですよね。これは現実で言うと、一次創作を商品化して世に送り出すことができる作家にしんのすけがなったということではないでしょうか。一次創作をするワナビーは数多くいますけど、その中で本やCDなど触ることのできる形として世に送り出せる者は、まさしく一握りです。しんのすけはその数少ない存在として、この瞬間に特別になったのだと思います。




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宮廷画家に先のカメラで撮られて、スケッチブックに閉じ込められたしんのすけ。そのまま紙飛行機にされ、追手から遠くへと逃がされます。辿り着いた先は富士山の見える、おそらく相模湖周辺。どこまで飛んでんだと思わなくもないですが、ミラクルクレヨンで対象の人物を囲めば磔を解くことができると聞かされていたしんのすけは、その言葉通り脱出。さらにブリーフ(二日目)ぶりぶりざえもんニセななこをミラクルクレヨンで生み出し、ななこお姉さんを救い、春日部を奪還するために一路春日部を目指します。


ブレーキのない車で逃げたり、すぐさぼるぶりぶりざえもんに手を焼いたり、はちゃめちゃな旅をしながら、町へとたどり着くしんのすけ一行。カレーの匂いを嗅ぎ付け定食屋に入ると、そこにはタブレットを片手にした6歳児・ユウマがいました。彼の母親は春日部にいる祖母を訪ねていったきり帰ってきいません。


この予告には一切登場せず隠されていたユウマが、実はこの映画では重要なキャラクターで。ユウマはタブレットを眺めている現代っ子そのものなキャラクター。ラクガキもせず、ミラクルクレヨンももちろん使えません。その一方で、ミラクルクレヨンで絵を生み出すしんのすけを勇者だと半ば崇めたりもしています。私はユウマは作品を受け取るだけで何もしない、私たち消費者や読者を象徴しているキャラクターだと感じました。しんのすけを崇めることは、創造主である作者を崇めることと一緒なのです。そういう人いますよね。











さて、ユウマのアシストもあって春日部に辿り着いたしんのすけ一行は、ミラクルクレヨンを使い近衛兵に立ち向かいます(結構ちゃんとした自衛隊も登場するのですが、霧に囲まれた春日部には入れないのです)。おならの出る尻型兵器を武器に近衛兵を撃退したり、ミラクルクレヨンで囲むことで大人たちを助けたりするしんのすけ一行+カスカベ防衛隊。しかし、使い過ぎたことによりミラクルクレヨンの残量は残りわずかに。さらに、そのちびかすになったミラクルクレヨンを裏切ったぶりぶりざえもんが持っていってしまうという二重のアクシデントに見舞われます


一方、母親を探しに行ったユウマはラクガキングダムの姫と出会い、病院で母親を見つけ出します(この母親もわりと現代的な見た目だった)。そこではミラクルクレヨンを持ったぶりぶりざえもんが、防衛大臣との取引を持ち掛けていました。まあここでぶりぶりざえもんが義を見せるというお約束もあり、母親は助かりますが代わりにミラクルクレヨンは使い切ってしまいます。


つまり、しんのすけはもう何も生み出せなくなってしまいました。さらに、ラクガキをし続け子供たちは疲労困憊。ラクガキエナジーが足りなくなったラクガキングダムは崩壊一直線です。落ちてくるラクガキングダムを食い止めようにも、ミラクルクレヨンはもうありません。何もできないしんのすけを一般市民たちは責めるんですよ。気味の悪いことに。「なんてことをしてくれたんだ」みたいに言って。


現実にもいますよね。自分の気に入らない展開になると作者に凸する人。現代はSNSをやっている人も多いですし、そういった声はより可視化される時代になっていると感じます。久保帯人先生じゃないですけど、読者に作品の展開を変える権利はないわけですよ。独り言で呟いているか、それとも読むのを止めるのか。でも、実はもう一つ選択肢があるんです。


それは自分で書いてしまうということです。私が望む展開は私が書いたるわ!の精神です。つまりは二次創作です(別に一次創作でもかまいませんが)。みさえも文句に対して「自分たちでなんとかしなさいよ」みたいなことを言っていたと思いますし、ここは自ら創作することの重要性を訴えかけているように感じましたね。私は。




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落ちてくるラクガキングダムという現実に逃げ惑う市民たち。ラクガキエナジーを集めようと呼びかけるネームドキャラの声にも全く応じてくれません。姫がサトーココノカドーからアナウンスするもこれも効果なし。もうダメかと思ったところで、ユウマが堰を切ったように発します。


助けてもらったのに、逃げんのかよ!


この言葉に私は『ちはやふる』の末次由紀先生のコラムを思い出したんですけど、これを受け取ってばかりだったユウマが言うのが熱いわけですよ。しんのすけが生み出すラクガキという作品に助けてもらったユウマが。きっと、色んな人が色んな作品に助けられて生きているんだと思います。私だってそうですし。で、その作品に助けてもらったのに、現実から逃げるのかよというね。オタクじゃなくてもハッとする言葉です。


そして、この言葉に気づかされた市民は、まず子供から一人ずつラクガキをするんですよね。それはまさしく二次創作そのもの。ほらよく聞くじゃないですか。作家が読者のファンアートに励まされたみたいな話は。それと同じことがこの映画では起こっているんですよ。一次創作をするしんのすけを二次創作たちが勇気づけているんですよ。オタク的に見ればここまで熱い展開はそうないですよね。そうして生み出された虚構に声援を送るシーンは、感動して泣きそうになりました。











こうして一次のみならず、二次創作の素晴らしささえも描いた後の着地点がもう最高で。まず、ユウマがタブレットで線を描いているんですよ。姫もタブレットにラクガキをして、しかも大事なのがそれをネット上に保存することができるということ。この映画では、そうして同じように書かれたラクガキがいくつも画面上に出てきまして。これはもうPixivじゃんってなりましたね。


こうして見ると、ラクガキの精神は現代も受け継がれているわけで。現代ではクレヨンはタブレットに代わって、スケッチブックはPixivに代わっているんですよね。しかも、序盤にサラッとラクガキを奪ったと説明されていたタブレットが、ラクガキを生み出すものとして真逆の意味に捉えられていて。きっとこれからも人に創作意欲がある限り、ラクガキは形を変えて残り続けるんだろうなということがひしひしと感じられて、現代的だなと思うのと同時に普遍的だなと感じました。


さらに、最後のタイトル回収が見事。ユウマの家に置いてかれたスケッチブックには、しんのすけたち一行と一緒にユウマも描かれていたんです。また、しんのすけはブリーフ、ぶりぶりざえもん、ニセななこ、さらにユウマを並べて、彼らは勇者であると言っています。作品からパワーを受け取って簡単な二次創作を始めたユウマを、一次創作のキャラクターと同じ立場にあるとみなすことは、もはやここ50年の二次創作文化、オタク文化の肯定と同義ですよ。素晴らしい。もう物を作る喜びと、創作物への愛に溢れていて、一次二次問わず物を創るオタクは観たらいいんじゃないかと思いますね。


それに、このコロナ禍で外出できず、家にいる時間が増えた。やることがないから、本や漫画などの作品に触れることが多くなった人も、少なくないと思うんですよね。ツイッターでも学校が休校になって暇になった子供が『鬼滅の刃』に影響されて絵を描き始めたみたいな話題を目にしましたし、そういった創作物に触れる期間が長くなった今だからこそ、この映画はより大きな効果を発揮しているんだとも私は感じました。



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以上で感想は終了となります。『映画クレヨンしんちゃん 激突!ラクガキングダムとほぼ四人の勇者』、一次二次問わず創作が現実に立ち向かっていく、とても私好みの映画です。他の人はどうか分かりませんが、少なくとも私は興味があるなら観てみてと勧めたいですね。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 






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