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ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

カテゴリ: 感想



こんにちは。これです。前回が終わったばかりなのですが、早くも5/6に行われる第三十回文学フリマ東京に申し込ませていただきました。現在そちらで頒布予定の長編小説を執筆中です。開催が近づいてきたら、またお知らせするので何卒よろしくお願いしますね。


それはそれとして、今回のブログは映画の感想になります。今回観た映画は『ブルーアワーにぶっ飛ばす』。2016年のTSUTAYA CREATORS' PROGRAMで審査員特別賞を受賞した企画の映画化です。CMディレクターとする箱田裕子監督の初監督作品だそう。夏帆さんとシム・ウンギョンさんが共演しているということで、このタイミングになりましたが観に行ってきました。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―


・「何もない」が大事なのかも
・私たちには「生」がある
・「人」が描けている稀有な映画
・箱田監督の次回作が楽しみ





―あらすじ―

30歳の自称売れっ子CMディレクター・砂田は、東京で日々仕事に明け暮れながらも、理解ある優しい夫もいて満ち足りた日々を送っている…ようにみえるが、口 をひらけば悪態をつき、なにかあれば毒づいてばかりで心は完全に荒みきっている。
ある日、病気の祖母を見舞うため、砂田は彼女のコンプレックスの根源である大嫌いな故郷に帰ることに。 ついて来たのは、自由で天真爛漫な秘密の友だち清浦。砂田は幼い頃、夜明け前に清浦と出会い、砂田が困った時には必ず清浦が現れてそばにいてくれた。しかし、故郷で2人を待ち受けていたのは、愛想は良いが愚痴っぽい母、骨董マニアで自分勝手な父、引きこもりがちで不気味な兄…再会した家族の前では、都会で身に着けた砂田の理論武装は全く通用しない…
やがて全てを剥がされた時、見ようとしなかった本当の自分が顔を出す―。そして夕暮れに差し掛かる時間、清浦との別れが迫っていた…。 こんにちは、本当の自分。さようなら、なりたかったもう 一人の私―。


(映画『ブルーアワーにぶっ飛ばす』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。






※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。













・「何もない」が大事なのかも


確かこの映画の存在を最初に知ったのは4月頃だったと思います。夏帆さんが腰に手を当てて立っているビジュアルに「自分探しとか、ほんとうの私とか。んなもん、クソくらえだバカ野郎」というコピーがハマっていて、ビビっと来たんですよね。これは公開されたら観ようとなりました。




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でも、公開は10月だったんですけど、長野ではなかなか公開されなくて。11月も終わるというタイミングでようやく公開されたので、観に行ってきました。かなり高い期待値を持ちながら。


ただこの映画、観終わった後の印象としては正直あまり良いものではなかったんですよね。というのも劇的な展開が何もなくて、基本ただただ日常を映しているだけ。もっと主人公の砂田に感情移入できると思っていましたが、あまりの普通っぷりにそれも出来ず。


唯一の劇的な要素と言えば、天気予報で晴れだと言っているのに、大雨が降ったことぐらい。でも、それも全然許容できる範囲ですし、本当に腰が抜けるほどの「何もない」日常ばかりで。私って劇的な展開が好きなんだなと思わざるを得ず、評価はそれほど高くありませんでした。


しかし、今考えてみるとその「何もない」ことが重要だったのかなと思います。


この映画の主人公・砂田夕佳は東京でCMディレクターをしている30歳の女性。口は悪いですが、そこは一人の大人。撮影中のトラブルにも穏便に対処し、夫と一緒に何気ない日常を過ごしています。それでも、日々に不満を抱えては酒を飲み、不倫に走るなど良くない一面も抱えていました


これ思ったんですけど、同じくCMディレクターをしている箱田監督そのまんまですよね。名前の読み方も同じですし。箱田監督も日々に不満を抱えていて、それをこの映画にぶつけたのかなと感じます。いわば箱田監督の半自伝的作品みたいな。でも、これほどまでに自分のことを書けるなんて実は凄いことだと、私は感じています。その理由は後程。


砂田には自由奔放な親友・清浦あさ美がいました。清浦はテンションが高く、何物にも縛られない人物。それは、ある種東京で仕事や夫との生活に縛られている砂田の理想でもあったのでしょう。清浦は砂田が生み出した空想上の友達として、この映画を観るということも可能だと思います。


まあ私は清浦は清浦で、ちゃんとした一人の人間だと思ってるんですけどね。ラストシーンも後ろで寝ているだけだと思ってますし。映画が終わった後、砂田とは疎遠になっていそうですけど。




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ある日、砂田の元に親から電話がかかってきます。「祖母がある程度元気になったので、実家に帰ってこい」と。渋る砂田でしたが、清浦はノリノリ。「15の夜」を歌いつつ、購入した中古車で砂田の実家がある茨城へと向かいます。(ちなみに箱田監督も茨城生まれだそう。こんなところにも)


砂田曰く、実家のある茨城は「何もない」場所のこと。田舎出身の人が自分の地元を、時に謙遜して言う言葉ですが、砂田は卑下の意味で使っています。確かに、砂田の地元には田園風景が広がり、高層ビルなど一つも建っていません。家々も密集しているというわけではなく点在しており、雑草の伸び切った公園では方言丸出しの学生たちがたむろしています。


これらを見れば、確かに砂田の地元は「何もない」ということができるでしょう。でも、それはあくまで東京に比べたらの話です


私も4年間東京に暮らしていたことがあるんですが、東京って「何でもありすぎる」んですよね。実に1000万人もの人であぶれ、23区内には交通網がきめ細かい網のように敷かれています。仕事も娯楽もチャンスもピンチも有り余っている。「何もない」がない街といえるでしょう。


また、砂田は自分のことを卑下している様子にも見受けられます。本来、人間とは曖昧なもので、あるものもないものもあります。それこそ昼と夜が混在するブルーアワーのように。ただ、砂田は自分の中に「ないもの」ばかりを見ていたのでしょう。自分に「ないもの」が「ある」人間に追いつきたくて、走り続けていたのでしょう。


彼女は自分に「ないもの」を清浦に観ているようでしたし、「止まったら死ぬって、だったら半分死んでるわ」という砂田の呟きは、彼女の強迫観念を象徴しているようでした


さらに、それはカメラワークにも表れていると感じていて。砂田が不倫相手の富樫と車で帰るシーンや、清浦と茨城に帰るシーンで、カメラは車窓の外を映していましたよね。それもフロントガラスから前を向いたショットです。これ車内映さないの面白いなーと思いながら見ていたんですが、もしかしたら前しか、自分に「ないもの」がある人の背中しか見ずに走り続けていた、砂田の心情を表していたのかもしれませんね


そして、砂田の地元である茨城もまた曖昧なものでした。しかし、「何もない」なんてことはありません。茨城には田園があり、家があり、人が暮らしています。茨城にも「あるもの」があるのです。草木が生えない砂漠でもあるまいし。砂漠にも砂が「ある」し。「何もない」ところなんてそうそうないのかもしれません。その曖昧さを表すかのように、茨城に入ってから砂田の実家に向かうまで、カメラは車の横窓の外の風景を撮っていましたね


実家に帰った砂田。実家でのシーンで特筆すべきところは、正直「何もない」です。本当に普通すぎて。農作業で腰が痛いという母親も、骨董にハマる父親も、引きこもりがちな兄も一般的すぎて、正直観ている最中はあまり面白みがないなと思ってしまったぐらいです。普通にご飯を食べて、お風呂に入って、寝て起きる。ただ、それだけ。劇的なことは「何もない」のですが、それが却って砂田にとっていい影響を与えたのではないかと感じました。




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・私たちには「生」が「ある」


繰り返しになりますが、人間とは曖昧なもので、見方によっては「何かある」ようにも「何もない」ようにも見えます。砂田は「何でもありすぎる」東京にいて、自分に「あるもの」を見失っていたのではないでしょうか。しかし、「何もない」地元、「何もない」日常は却って砂田の中に「あるもの」を浮き彫りにします。それで徐々に砂田は再生されていったように感じました。口は悪いままですけど。


砂田の中に「あるもの」。その最たるものは「生」、つまり生きていることでしょう。それは、ラスト付近の砂田が祖母の元を訪れるシーンに表れていると思います。祖母はよぼよぼですが、回復して砂田と面会することができています。爪も死んでしまってはもう伸びることがありません。


生きているからこそ爪を切ることができますし、その様子をビデオカメラに収めることができるのです。「半分死んでる」砂田は、祖母の姿を見て自分も「生きている」こと、「生」が「ある」ことを実感したのではないでしょうか


つまりは自分を卑下することを止めて、認めることをした。自分に対する見方が変わったんだと思います。それが、最後に清浦という理想と別れることを彼女に決意させたのではないでしょうか。きっと「何でもありすぎる」東京の中で、砂田が自分自身のことを埋没していると感じることは、もう無いことでしょう。夕焼けが照らす、砂田の笑顔は開放感があってとても印象的なものでした。


ここで大事なのが、砂田が「振り返る」ことです。ここで初めてカメラはリアガラス(後ろのガラス)からの景色を映します。そして、砂田は過去をも「振り返る」。日の出前のブルーアワー(理屈抜きで大好きなシーンです)で、彼女が振り返った先には、子供の頃の自分がいました


おそらく、祖母に庇護されていた彼女は「何もない」なかで、自分に「あるもの」をしっかりと見つめられていたのではないでしょうか。それが「何でもありすぎる」東京で見失ってしまった。子供の頃の彼女は、30歳になった砂田の理想でもあったと私は考えています。


でも、彼女はそれにも別れを告げることを選んだんですよね。前だけ見て走るのは止めて、それでも振り返ってばかりでは進めない。エンドロールでは、二人が茨城に来たときと同じように、横のガラスからの光景が映されました。これも、曖昧な砂田自身を表しているように思えて、私は好きです


そうなんです。私がこの映画が好きなのは「曖昧」だからなんです



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・「人」が描けている稀有な映画



この映画って、そういう「曖昧」な「人」っていうものを、ものすごく良く描けていたように思うんですよね。キャラクターが動かされているんじゃなくて、キャラクター自らが動いている感じ。この感じは今年観た映画の中でもかなり上位に食い込んでくるかもです。


もううまく説明できないんですけど、口悪くしたり、方言言わせておけばいいんだろみたいな表面的な部分じゃなくて、もっと深層部分で「人」って感じがしたんですよね。それはさりげない所作に表れているというか。砂田が靴紐を結ばずに靴に入れたところとか、富樫が助手席に物を置くところ。砂田と夫との「駅前で猫見た」「よかったね」で終わる会話や、砂田の母親が散らかったキッチンでテレビを見ているところとか。本当に人間的な血の通った所作が積み重ねられていて、すごく好印象でした。靴紐は伏線にもなっていて、こちらも好みでしたね。


これはまず俳優さんの力が大きいんじゃないかなと思います。主人公の砂田夕佳を演じた夏帆さんは、サバサバしたキャラクターをオーバーになりすぎずに演じていましたし、本意とは違う微妙な表情がとても上手かったです。言い捨てる感じよかったなぁ。夏設定なので、鎖骨が常時見えていたのも好きでした。おかげで鎖骨フェチになってしまいそうです。


また、清浦あさ美を演じたシム・ウンギョンさんも、天真爛漫なハイテンションで物語を明るくしていましたし、片言の日本語もいいアクセントになっていて好みでした。夏帆さんとのコンビは安心感さえ感じられましたね。『新聞記者』とはまるで正反対のキャラクターで驚くばかりです。でも、『SUNNY』ではこういったキャラクターで認知されたみたいなんですよね。


他にもでんでんさんや、南果歩さん。渡辺大知さんや、ユースケ・サンタマリアさんなど錚々たる顔ぶれが自然な演技で好演。特に伊藤沙莉さんの田舎のクラブにいそう感は脱帽ものでしたし、こういった「普通」を演じられる実力派のキャストを揃えられたことが、まず一つの大きな勝利ですよね。おかげで、生活感が半端なくて「人」という感じが、じわじわと感じることができました。本当にああいった町ありそうです。


さらには、撮影の近藤龍人さん(『万引き家族』など)、照明の藤井勇さん(『天然コケコッコー』など)、録音の小川武さん(『ぐるりのこと。』など)。これらの他にもスタッフ全員が力を合わせて、これだけ良い映画を作っていますが、やはり一番凄いのは何と言っても監督・脚本をつとめた箱田優子監督ですよね。



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・箱田監督の次回作が楽しみ



これだけ「何もない」日常を描けるというのは、観察眼が人並外れて優れていることの証左ですし、それを伝えられる言語化能力や、コミュニケーション能力にも優れているのでしょう。半自伝作品と言っても、徹底した自己分析をするのは決して容易なことではないと思います。だってまず恥ずかしいし。なんかこういうこと私には全然できないので、すごく憧れちゃいます。


先にも述べた通り、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』はすごく「人」が描けていて、この点では今年で言うと今泉力哉監督の『愛がなんだ』や『アイネクライネナハトムジーク』に並ぶレベルにあると思います


また、同じ女性監督でいうと思い浮かんだのは山戸結希監督ですかね。『ホットギミック ガールミーツボーイ』は凄まじかったです。でも、『ブルーアワーにぶっ飛ばす』を観て、箱田監督も山戸監督とは違うベクトルでの天才性を持っていると感じました。そう遠くない将来に今泉監督や山戸監督と同じように、TAMA映画賞の最優秀新進監督賞を受賞するのではないかとさえ思えます。


『ブルーアワーにぶっ飛ばす』、観終わった後はそうでもなかったんですけど、色々と考えていくうちに、その凄さが身に染みてくるような映画でした。今では傑作とさえ思えます。これだけ評価が変わった映画は初めてですね。箱田優子監督の次回作も楽しみですし、公開されたら観る機会を貰えれば絶対観たいと思います。また、好きな映画、好きな映画監督が増えました。本当にありがとうございます。




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以上で感想は終了となります。『ブルーアワーにぶっ飛ばす』、今となってはとても良い映画だと胸を張って言うことができます。ぜひ映画館で観てみてはいかがでしょうか。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。第二十九回文学フリマ東京ありがとうございました。大変でしたけど、良い体験になりました。今は初めての長編を準備中ですので、そちらの方もよろしくお願いしますね。今年中にnoteで出せたらと思っております。


それはさておき、今回も映画の感想です。今回観た映画は『サンタ・カンパニー~クリスマスの秘密~』と『コルボッコロ』の二本立て。どちらも糸曽賢志監督が手がけたアニメ映画です。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。



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―目次―

・『コルボッコロ』
・『サンタ・カンパニー~クリスマスの秘密~』







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・『コルボッコロ』




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―あらすじ―

世界の様々な文化や宗教の起源となった街で、巫女の家系に生まれた14歳の少女「鈴」。ある日、街の遥か上空に存在する禁断の「開かずの間」に足を踏み入れる。そこで不思議な種を拾ったことがきっかけで、街の隠された秘密を知ってしまい、自分の進むべき道を模索していく。

(映画『コルボッコロ』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください。






この映画は『サンタ・カンパニー』とは違い、今回が初公開の完全オリジナル作品となっています。描かれたのはある14歳の女の子の成長。線が薄く淡めの和風の画面が、ほっとして、どこか不穏な空気を感じさせる独特の仕上がりとなっていました。


主人公のは、代々続く巫女の一族。14歳の彼女は将来人々を導く役割を期待されていますが、本人は特に乗り気ではない様子。それどころかやりたいことが分からないという普遍的な悩みを抱えています。この鈴に声を当てたのが、元乃木坂46の女優・西野七瀬さんです。一つ言っておきたいのは、西野さんは『コルボッコロ』のみの出演で、『サンタ・カンパニー』には出てこないので、そこだけはご承知おきください。


正直、その後の『サンタ・カンパニー』での本職声優さんと比べてしまうと、経験不足は否めませんが、それはこちらも分かっていたこと。慣れていない中でも基本溌剌と、でも迷いを抱えている鈴の心境を表現しようとしていました。ぶっちゃけ上手くはないのですが、でも物語を邪魔するほど下手でもなく、ある程度はスムーズに見ることができたと思います。その分、本職の茶風林さんがノリノリで演じていたので良かったですね。あのはっちゃけっぷり、波平のイメージは影も形もないです。


ある日、鈴は天高い塔の頂上にある鳥居の前で不思議な物体を拾います。球体に棘がついたそれは、見るにさながらモヤっとボール。鈴は仲の良い男の子・すいかから「それは種子ではないか」と言われ、土に埋めて水をやります。水を上げたその瞬間から見る見るうちに育っていったそれは、自ら動き出し薄い緑色の不思議な生命体・コルボッコロへと姿を変えました。


このコルボッコロ、ポケモンみたいにコロとしか喋りませんでしたが、声を当てた大森日雅さんの演技のおかげで実に愛くるしく見ることができました。あと、意外と飛びます。コルボッコロに掴まって、鈴が今まで観たことのない街を見ていくのは、この映画で一番ワクワクするシーンでした。どうも現代ではなく50年くらい前みたいな感じでしたけども。


その後は都市開発の功罪や環境破壊へのアンチテーゼというジブリっぽいテーマも挟みつつ、最後には鈴はコルボッコロに掴まって旅に出ます。結果的に鈴は母親と同じ道を選びますが、それは消極的なものではなく、彼女の主体的な決断なんですよね。事実を知らされ、それでも乗り越えていくために同じ道を選んだという。『コルボッコロ』は鈴がやりたいことを見つけようと決意するまでの物語なんですよね。それをコルボッコロという少しふしぎな存在との邂逅を通して描いていて、大変に好みの物語でありました。こういうSF(少しふしぎ)に私弱いんですよね。40分くらいでしたが、観終わった後には確かな満足感がありました。


あと、ぜひ観ていただきたいのがオープニングとエンディングの版画のようなアニメーション。黒を基調として、原色を大胆に用いていており、本編の淡い画面とは対照的で実にインパクトがあります。天月さんの主題歌もよかったですし、ここは映画館で確かめてほしいところです。



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・『サンタ・カンパニー~クリスマスの秘密~』





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―あらすじ―

ノエルはクリスマスが大嫌い。両親は離婚し、
一緒に住む父親も仕事に大忙し。
友達も遊んでくれず、今年もひとりぼっちかと憂鬱な気持ちで
横浜の自宅に帰ると、なぜかそこには

「サンタ・カンパニー」
という

会社が広がっていました。
なんとサンタクロースは会社組織に属していたのです。
驚くノエルの目の前を飛んでいく大勢のサンタクロースたち。
そしてクリスマスにおける様々なカラクリを知るノエル。
そこで出会った同年代の子供達に感化され、
サンタ・カンパニーに入社することを決めます。
入社するための試験、プレゼントを配る冒険、
途中に迫りくる恐ろしいムックとの戦い、
様々な困難の中でノエルが導き出した働く意味とは……!
これはクリスマスにまつわる、ちょっと不思議で、
それでいてとってもとっても輝ける、秘密の物語。


(映画『サンタ・カンパニー~クリスマスの秘密~』公式サイトより引用)


映画情報は公式サイトをご覧ください。





2013年に短編アニメーションとして制作されたこの作品。今回の映画版はその2014年版に大幅なシーン追加を行った作品となっているようです。私は当然、2014年版は未見なので今回初めて『サンタ・カンパニー』を観た形になります。結論から申し上げますと、これからの時期にぴったりな安心して見ることのできるアニメーションでした。何の知識も必要なく見られるのが結構貴重だなって。


まず何といっても声優さんが豪華なんですよね。花澤香菜さんに、梶裕貴さんに、戸松遥さんに、釘宮理恵さんなどなど。アニメは普段映画でしか見ない私でも知っているくらいの有名な声優さんが勢ぞろいしていて。映画の存在を知った瞬間に「あ、観よ」ってなりましたもん。よくアニメ映画である芸能人声優さんたちも決して悪くはないのですが、やっぱり本職の声優さんたちがメインを固めていると安心感がありますよね。まるで実家にいるようでした。


まあそのなかで唯一のゲスト声優だった小藪千豊さんの強さには笑いましたけど。いつもの、というかなんなら少し盛られているくらいの小藪節がこの映画でも炸裂。完全に顔が見えましたもん。周りが本職声優さんばかりだからその浮きっぷりたらなかったです。たぶん普段のままでとかオーダーされてたんだろうなぁと。




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また、ストーリーの方も変に気を衒わず、安心して見ることのできる優しい設計になっていました小学生の女の子・ノエルは毎年クリスマスを一人で過ごしています。冒頭のシーンから華やかなクリスマス(舞台は横浜)の中をノエルが一人歩いていて、彼女の寂しさを印象付けていました。このノエルの声を演じたのが花澤香菜さんですね。ほんわかボイスで優しくて癒されます。同僚の女の子・ミントと手をつなぐシーンなんて天使や、天使がおるって感じました。


一人寂しく家に帰るノエル。タワーマンションのエレベーターを降りると、そこにはベルトコンベアーに運ばれるプレゼントの数々が目に飛び込んできます。外では雪が降っていて明らかに横浜ではありません。なんと彼女が辿り着いたのはまさかのフィンランド。そこはサンタ・カンパニーというサンタの会社でした。尺は1時間ほどなので展開もスピーディ。いささか唐突感は否めませんでしたけどね。


ここでノエルは同じ年頃の男の子・ベルと出会います。ベルはサンタ・カンパニーの先輩で、ノエルを会社の新人と勘違いして迎え入れます。このベルの声を演じたのが梶裕貴さん。クールになり切れていない年頃の男の子という感じで好感が持てます。ベルがノエルを連れて行ったのは、大学のキャンパスみたいな教室。そこには大勢の子供たちが座っていました。彼らはトントゥといい、サンタの手伝いをしています。


そこでノエルは、元気印の女の子・ミント、引っ込み思案の男の子・トーマスと出会います。この二人を演じた戸松遥さんと釘宮理恵さんはもう言わずもがなの好演を見せていましたね。特に釘宮さんの男の子の声は『ペンギン・ハイウェイ』のウチダくんを想起させるほどのいじらしさで最高でした。めっちゃいいです。


教室で行われるのはメインイベントであるクリスマスイブを前にしてのホームルーム。そこで確認の意味も込めて会社紹介ビデオが流れました。よく疑問に上がりますよね。サンタはクリスマス以外は何しているの?って。ビーチで日焼けしているイメージが私にはあるんですけど、この映画ではそれに対する回答がなされているんですよね。それが面白いなーって。


ビデオ曰く、サンタ・カンパニーはクリスマス以外は世界一の警備会社として知られているそうです。そこで得た情報を元に子供にプレゼントを届けることができるという設定でした。ぶっちゃけ「え、何それ怖っ」でしたけどね。また、サンタ・カンパニーは大手通販会社も運営したり、地図アプリや同時翻訳アプリなどを開発するなど手広く色々やっている様子。世界はサンタ・カンパニーの手のひらの上といった感じでしたが、まあ世界中の子供にプレゼントを届けるという目的のためにはそれくらいやらないといけないのかも知れません。


その後、ノエルは部長に会ったこともあり、トントゥとしてサンタ・カンパニーで働くことを決意します。サンタ・カンパニーの仕事の様子は、茅原実里さんのふわりとした歌に載ってハイライトのように映されます。この映画一番の楽しいシーンで、夢を作っているという感じがして好みでしたね。


しかし、全てのプレゼントの配達が終わったものの、配達以来の手紙が一通遅れて届いていまいます。規則だからとプレゼントは届けられないという部長。しかし、ノエルたち4人はプレゼントを届けるために立ち上がります。


そこで4人を待ち受ける困難とは……?
果たして4人はプレゼントを無事に届けることができるのか……?

この先はぜひ映画館でお楽しみください。




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『サンタ・カンパニー』はそのクリスマス、サンタという題材からおそらく子供向けを想定していると思われます。実際、楽しく手に汗握るシーンもあり、子供は喜びそうだなと思うのですが、内容は意外と大人でも楽しめる話なんですよね。それはこの映画が「お仕事讃歌」という側面も持っていたからです。


基本、仕事ってあまり楽しいものではないじゃないですか。どんな仕事でも成果の裏にはその何十倍もの艱難辛苦がありますし。楽しいことは少なく、辛いことばっかり。私みたいに給料のために、食べるために仕事をしている人も少なくないと思います。


さらに、会社には規則というものがあり、行動は制限される。全体を優先しないと会社が回らないのは承知の上なのですが、個人が希薄化してどうしてもストレスを感じてしまいます。それは、サンタ・カンパニーでもそうでした。部長はことあるごとに規則を持ち出し、会社や社会の厳しさを小学生のノエルに突き付けてきます。それにノエルは納得がいかずに、自らの手でプレゼントを運び出そうとするわけです。


ただ、会社が存在しているのって言ってしまえば、顧客のためなんですよ。顧客を満足させて笑顔にするためなんですよ。それは、サンタ・カンパニーがクリスマスにプレゼントを届けて、子供たちを笑顔にするというところに存分に表れていると感じます。規則は顧客である子供たちの笑顔のために必要なものなんですよね。この映画はそういった会社や規則を肯定しているのが良いんですよね。そこから発生する仕事を賛美しているのが良いんですよ。


これは私だけかもしれないんですけど、私はサンタ・カンパニーにアニメ制作会社を見たんですよね。辛いこと大変なこともあるけれど、それでも頑張ってプレゼントを届けようとするのが結構似通っているなと。そして、それは世の中のすべての会社に言えることだとも思います。私は事務職で普段顧客と接することは全くなく、パソコンに向かってばかりの仕事なのですが、それでももしかしたら、誰かの笑顔を作っているのかもしれないと思えました。今は月曜日からの仕事がんばろうという気持ちです。ひょっとすると『サンタ・カンパニー』は仕事に就かれた大人を癒す映画なのかもしれないですね。




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以上で感想は終了となります。『サンタ・カンパニー~クリスマスの秘密~/コルボッコロ』。強くオススメとまではいきませんが、リラックスして観られる貴重なアニメ映画だと思います。


ただ、口惜しいのが同日に『人間失格/HUMAN LOST』や『幸福路のチー』、『GのレコンギスタⅠ』(ガンダムの映画)などアニメ映画が多く公開されており、注目度があまり高くなさそうな点。早朝の上映とはいえ、映画館に私含め二人しかいなかったのはなかなか来るものがありました。個人的にはこのまま埋もれてしまうのはもったいない二本だと思うので、よろしければ映画館に足を運んでください。安定して面白いですよ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。第二十九回文学フリマ東京終了しました。来てくれた方も来てくれなかった方も有難うございます。本は思っていたより売れなかったもののいい経験になりました。また頑張りたいと思います。


さて、通常営業に戻った今回のブログもいつも通り映画感想です。今回観た映画は『ドクター・スリープ』。かの名作ホラー『シャイニング』を40年ぶりの続編です。私は『シャイニング』は観たものの、正直世間ほどははまっていない人間です。それでも、予告を見て面白そうだったので観に行ってきました。結果、期待通りの面白い映画でしたよ……!


では、感想を始めます。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・序盤について
・想像以上のシャイニング合戦とバディものとしての面白さ
・赤と青と白の意味
・展望ホテルでの盛り上がりを観て!
・ラストシーンについて





―あらすじ―

40年前の惨劇を生き延びたダニー(ユアン・マクレガー)は、心に傷を抱えた孤独な大人になっていた。
父親に殺されかけたトラウマ、終わらない幼い日の悪夢。そんな彼の周囲で起こる児童連続失踪事件。
ある日、ダニーのもとに謎の少女アブラ(カイリー・カラン)からメッセージが送られてくる。
彼女は「特別な力(シャイニング)」を持っており、事件の現場を"目撃"していたのだ。
事件の謎を追う二人。
やがて二人は、ダニーにとっての運命の場所、あの"呪われたホテル"にたどりつく。

"呪われたホテル"の扉が再び開くとき、
すべての謎が明かされる――。


(映画『ドクター・スリープ』公式サイトより引用)


映画情報は公式サイトをご覧ください。






※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











・序盤について


まず、この映画は1980年の映画『シャイニング』と同じ、おどろおどろしい音楽から始まります。この映画は『シャイニング』の続編であり、『シャイニング』を観ておいた方がいいのかという質問はあると思いますが、その答えとしては絶対に観ておいた方がいいということになるでしょう。なぜなら、終盤のホテルのシーンは、『シャイニング』を見ておけばリフレインで感動しますし、ぶっちゃけ前作を観ていること前提で作られています。なので、観ていないという方は今すぐ観ておきましょう。今ならNetflixで見られますよ。


おどろおどろしい音楽とともに空撮で映されるのは、キャンプ場。バイオレットという女の子が母親から離れ一人で遊びに行っています。そこに現れたのは黒い帽子をかぶった妙齢の女性。色素の薄い目がかなり美人な彼女の名前はローズ。ローズはバイオレットを手品で引きつけておいて、仲間たちを読んで一斉に襲わせます。これがあらすじにある児童連続失踪事件というわけですね(『IT』と似てる。流石同じ原作者)。


ローズが座っているのは湖畔です。これは偶然なんでしょうけど、最近観た『地獄少女』にも湖畔のシーンは出てきたんですよね。だから私は心の中で密かにローズのことを地獄おばさんと呼んでいました。いつ「いっぺん死んでみる?」と言い出さないかヒヤヒヤものでしたよ。で、地獄おばさんであるローズの仲間たちは私には地獄の軍団にしか見えませんでした。やっていることもなかなかに地獄でしたし。


そして、スクリーンに映るのは『シャイニング』でもあったダニーがカートを漕ぐシーン。このダニー役の子が『シャイニング』でのダニーそっくりで、よく見つけてきたなと感じました。夢から覚めたダニーがいるのはフロリダの我が家。母親であるウェンディと一緒に暮らしています。新しいウェンディは『シャイニング』のウェンディよりも一般的な美人になっていて、ここは少し驚きましたかね


ダニーは、平穏な暮らしを手に入れた後も自らが持つ能力、シャイニングに苦しめられていました。死んだはずのディックをイメージし、もうシャイニングは使わないと誓います。ディックから赤い箱を渡されるダニー。ダニーのイメージではあの迷路に赤い箱は置かれて、開く時を待っていました。


ここで、一気に30年の月日が経ちます。ダニーは大人になっていますが、アルコール依存症に苦しむ毎日を送っています髭ボーボーのユアン・マクレガーが新鮮でした。ダニーの脳裏には今でも時折、幼少期のトラウマが思い出され、彼を苦しめます。バスに乗って職を求めに行くダニー。辛うじて病院の看護助手の職に就き、部屋にも住むことができるようになります。この部屋には黒板が備え付けられていました。


一方、別の町では映画館で映画が上映中。ここで、出会い系サイトでも使ったのかアンディという女子におっさんがすり寄ってきます。しかし、アンディはシャイニングの持ち主。その能力は相手に言った通りの行動を起こさせることができるというもの。アンディはおっさんを眠らせ、ベティナイフで頬に傷をつけます。


このアンディを地獄の軍団は仲間に引き入れようとするんですが、正直このアンディが個人的にかなりツボでして白い巻き毛に黒のジージャンというバットガールっぷりが印象的だったんですよね。食えないような目つきもよかったですし、スネークバイトという異名もイカしてます。いつの間にか地獄の軍団入りしていたときは嬉しかったですよ。長く見れるって。それだけに途中で死んでしまったのは悲しかったですけど、まあ最後の抵抗もありましたし。この映画で一番好きなキャラクターでした。


また、別の町ではパーティの開催中。手品が披露されており、アラブをはじめとした子供たちは喜びの表情を見せています。実は、このアラブもシャイニング持ちでして、離れたところからスプーンを壁にくっつけるという離れ業を披露するなど、かなり高度なシャイニング使いでした。この映画は、そんなアラブとダニーが出会ってからようやく物語が動き出します。それは、この一連のシーンからさらに8年後のことでした。




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・想像以上のシャイニング大合戦とバディものとしての面白さ


8年経っても、地獄の軍団は相変わらずシャイニング持ちの子供を狙っています。次の標的にされたのは打率10割の野球少年。早速、試合を終えて歩いているところを地獄の軍団に拉致されます。アンディのヤバいお姉さん感にやられてしまったんでしょうか。知らない大人についていってはいけないと盛んに叫ばれているのに。そして、野球少年は縄に縛られ、ローズにグサグサ刺されて、地獄の軍団の生きる糧にされて、殺されてしまいます。すごい悪趣味でこの一連のシーンが個人的には一番きつかったですね。


しかし、アブラはこの野球少年の惨殺をシャイニングで感じていました。それはもう悲鳴を上げるほど鮮明に。アブラはシャイニングを使って、ダニーの部屋の黒板にメッセージを送ります。それはかつてダニー自身が書いた「MURDER(殺人)」というもの。ここも鏡で見て「REDRUM」になるところまで合わせて、リフレインで引き付けられましたね。予告にもあったシーンです。


そして、ダニーとアブラは合流するわけですが、合流してからはもうシャイニングを使い放題。テレキネシスにテレパシー、幽体離脱に脳内侵入と様々な超能力を使いまくります。シャイニングを集中させてガラスを割ったり、思念を飛ばしたりとかなり何でもアリ。アブラの強力なシャイニングも重なって、SF色が強まっていきます。さらにバトルも、多くがシャイニングを用いての遠距離脳内バトル。ダニーも徐々にシャイニングの使い方を思い出していき、使用法はどんどん多彩になっていきました。


また、今回の敵であるローズもシャイニングの使い手なんですよね。仲間と感覚を共有したり、思念を飛ばしてアラブの位置を突き止めたりと、こちらもかなりの使い手。特に、思念を飛ばして飛ぶところの面白さといったら。今までそんなことしてなかったのに、唐突に出てくる飛行に面喰いますし、アブラの反撃を受けてぶっ飛ばされるところなんて、思わず笑ってしまうほどでした。ここまでシャイニング大合戦しているとは全くの想定外でした。個人的には、この方向性は好きでしたね。


また、これに輪をかけて好きだったのが、ダニーとアブラの関係性です。最初はアブラが子供だということで、ダニーはアブラに下がっているよう言うんですが、アブラは当代きってのシャイニングの使い手です。その力はローズを追い払うほど凄まじく、だんだんと両者の力関係は逆転していくんですよね。いつの間にかローズが指示する側に回っているんです。


もう想像以上にローズが大人で、肝が据わっていて。窓から携帯を捨てるところとかハードボイルドすぎて、こいつ本当に13歳か?ってなりましたし。なんかしっかりしている少女と頼りないおっさんのバディっていいですよね。おっさんがしっかりしているところを見せるのは定番の熱い展開ですし、おっさんがピンチの時に少女が助けるのは盛り上がりますよね。これらのシーンがこの映画ではしっかり含まれていて、意外とバディものとして面白いことにビックリしてしまいました。この組み合わせが好きな人は『ドクター・スリープ』を観て、損はないと思います。2時間半はちょっと長いですけどね。



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・赤と青と白の意味



『シャイニング』を観たときから気になっていたんですよね。やたらと画面に赤い、もしくは青いものが出てくるなと。廊下も、キャラクターが来ている服も、雪も、血も、237号室も。これだけ出てくるからには、何か意味が込められているんだろうなと、漠然と気にはなっていました。そして、この『ドクター・スリープ』でも、赤、青、白といったモチーフはいたるところで出てきます。それは、もう数え出したら枚挙に暇がないくらいです。


で、映画を観る前に軽く調べてみたんですけど、あるサイトに赤、青、白はアメリカ国旗の色。7月4日は独立記念日がどうこう、殺されたインディアンの復讐がどうこうみたいなことが書いてあったんですね。まあ私もこれかなぁとは思うんですけど、同じことを書いてもあまり意味がないし、何よりそんな大それたことは書けないので、ここでは私なりの簡単な解釈をしてみたいなと思います。


まず、。これは一番わかりやすいでしょう。この映画における白が持つ意味は大きく分けて二つあります。まずはという意味。これは主に、病棟で死の前に現れる猫、最期を看取るその病棟の内装、地獄の軍団のバンに表れていると感じます。さらに、展望ホテルの外で降る雪も白く、野球少年も殺され、肌の色素が抜けて白くなっていました。『シャイニング』でも、ジャックは白い雪の中で凍死していましたよね。イメージだと死=黒になりそうなところをこの映画では死=白と捉えていて、そこが面白いなと思います。


また、白が持つもう一つの意味。それは死とは全く真逆のです。子供たちが死の間際に吐く、生気と呼ばれる息は明らかに白かったですよね。まあぶっちゃけ根拠はこれしかないんですが、同じ白でも生と死の両方の意味を持っていて、奥が深いなと感じます。あと、ラストでこの白が死から生に転換していると感じたんですけど、それは後ほど。


続いては、です。青はもしかしたらこの映画では一番多く出ていた色かもしれません。キャラクターたちは事あることに青い服を着ていました。この映画で青が持つ意味とは、私は理性であると考えます。言うまでもなく、青は寒色で心を落ち着かせる効果を持っています。ダニーが青い服を多く着用していたのも、恐怖から心を静めたいという思いがあったのではないでしょうか。アブラの家が青緑だったのも、アブラのシャイニングという得体の知れない力に両親が怯えていたからではないでしょうか。また、青は自己を抑制して現実社会に適応していこうとする姿勢を象徴するとも言われています。これもシャイニングを抑制して、社会に溶け込もうとするダニーの心理を表していると感じられますね。


その反対となるのが。ダニーとは対照的にアブラは赤い服を多く着用していました。赤は暖色であり、意欲を喚起させる色。この映画における赤の持つ意味とは、私は本能、潜在意識であると考えます。もっと言えば、シャイニングそのものでもあるでしょう。アブラはいくら大人びているとはいってもまだ13歳。シャイニングを何の気兼ねもなく使っています。これも、アブラが本能や潜在意識に従っていた証拠だと考えられます。二人はこの意味で正反対なのです。



また、この青と赤の組み合わせが『ドクター・スリープ』では殊に重要でして。例えば、アブラが寝ているベッド。このベッドのシーツは頭の部分が薄い赤で、それより下が青でしたよね。これは、他の部分は理性的でも、シャイニングを使うのは頭であり、そこは本能的であることを表しているかのように私には思えました。


さらに、注目したいのがダニーが展望ホテルに着いた際の衣装。赤のチェックに青のアウターを羽織っています。これも潜在意識やシャイニングを理性で抑え込もうとしています。しかし、対照的に『シャイニング』でのジャックの衣装は、青いチェックのシャツに赤のアウターというものでした。これもジャックは潜在意識はシャイニングに支配されていたということの表れであると私は見ています。


そして、この三色は終盤の展開にも重要な意味を持っていました。



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・展望ホテルでの盛り上がりを観て!


物語は進み、いよいよ展望ホテルでの最終局面。ダニー&アブラvsローズのラストバトルを迎えます。ここ、『シャイニング』を観ていると、最大限に興奮出来るシーンでして。まず、展望ホテルに行くまでの過程が『シャイニング』のオープニングをなぞっているんですよ。湖をなめて映して、車を上空から撮ってと全く一緒。『シャイニング』を観た人を、懐かしい気分にさせてくれます。


さらに、ホテルは『シャイニング』の後、手つかずで放置されていたのか、ところどころ古びていますが、内装はほとんど同じ。青い廊下に『レディ・プレイヤー1』でも登場したロビー。237号室にタイプライターまで放置されています。さらにジャックが斧で壊したドアもそのまま残っており、裂け目からダニーが覗くシーンは、『シャイニング』といえば!というかの有名なシーンを思い起こさせて感動させてくれます。斧がガラスケースに保存されていたのは「こんなところに斧が。ツイてるわ」ってなりましたけど。


ぶっちゃけ『ドクター・スリープ』は2時間半あって長めの映画になるんですけど、この展望ホテルでのラスト30分は、ここまで『シャイニング』含め4時間あまり観てきた人へのボーナスステージと考えた方がいいかもしれないですね。私も「なかなかホテルに行かないな」とは思いましたが、このラスト30分で全てチャラです。そのくらいの魅力、感動がありましたね。この感動を最大限に感じるためにも、重ね重ねですが、絶対に『シャイニング』は観ておいた方がいいと思います。


この展望ホテルでの終盤は、『シャイニング』のリフレインや、ダニーvsローズの脳内シャイニングバトルなど見どころは様々あるんですが、一番大きな見どころと言えばダニーが過去のトラウマを乗り越えることでしょう。ダニーは父親であるジャックから殺されそうになったことを、大人になった心の傷として抱えています。そのトラウマから逃げるために酒におぼれて、アルコール依存症になったと言っても過言ではありません


『ドクター・スリープ』では、ジャックもまたアルコール依存症であったことが明かされます。だって「酒は薬だ」とか言ってるし。また、『シャイニング』でのジャックは仕事にかかりきりでダニーのことを顧みる様子が見られません。こういったアルコール依存症、もしくは機能不全家族で育った子供のことをアダルト・チルドレン(AC)といいます。


ACに特徴的なのは自分に対する自信のなさ。自分で自分のことを認められず、他者からの評価に依存してしまう。そのストレスから親と同じようにアルコール依存症になるACも多いといいます。いわばダニーは典型的なACと言えるでしょう。ダニーがスピーチをしていた会がありましたよね。あれはアルコホーリクス・アノニマス(AA)といって、アルコール依存症からの回復を目指す自助グループなんです。スピーチをするダニーは青いセーターを着ていましたし、あそこも酒を飲みたいという潜在意識を必死に抑えようとしていたのかもしれないですね。


そして、この映画ではジャックが当時のままCGで蘇り、ダニーと対峙するんですよ。『シャイニング』にもあったバーで。ダニーは理性を表す青いアウター、ジャックは本能、潜在意識を表す赤いアウターを着ていて、視覚的に理性vs本能であることを印象付けているんですよね。ここでダニーは酒を勧めてくるジャックを突っぱねることに成功します。これは理性が勝利し、ジャックというトラウマからくる酒を飲みたいという衝動を抑えることができたシーンだと私は解釈しています。ダニーは一つ乗り越えたわけですね。


しかし、ここから映画はもう一山あるわけですが、それは観てのお楽しみということで。ただ、『シャイニング』ファン垂涎のシーンであることは言っておきます。楽しみに観ていてください。



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・ラストシーンについて


それでは、最後にあのラストシーンについて、簡単に個人的見解を述べてこの感想の締めとしたいと思います。


まずは最後にアブラが着ていた服について。最後のシーンでアブラは淡い紫色の服を着ているんですよね。これは今までシャイニングに任せていたアブラが、ダニーとの交流で自らのシャイニングを少し抑制することを覚えたと私は考えています。しかし、それはダニーやジャックのように0か100かではありません。両者がちょうどよく混合するバランス、シャイニングを残しつつ、社会でやっていく方法をアブラが見つけたということが、あの衣装に表れているのではないでしょうか。


また、重要なのが紫が淡いこと。実はこの映画の冒頭でも、紫は花という形で登場しました。この紫はシャイニングの理性と本能という二面性を表していたと私は思っていますが、この花って白みが全くない真紫なんですよね。光には様々なイメージがありますが、私たちが真っ先にイメージする光はきっと白いと思います。アブラの服が淡い色だったのは、そういった白を入り込ませることで、アブラが社会で輝く、輝き続ける方法を見つけたということを表しているのではないかと私は感じました。


そして、誰もが気になるのはあのラストシーンでしょう。アブラの自宅の風呂場には237号室のあの老婆がいます。アブラが風呂場に入ってドアを閉めたところで、この映画は終わりを迎えます。ここで思い出されるのは、子供の頃のダニーの同様のシーンですよね。あそこもすぐに画面が変わって謎のシーンでした。


ダニーのシーンは老婆の叫び声が聞こえていたんですけど、私にはこれが断末魔のように聞こえて。なんらかの手法を使ってダニーが老婆をやっつけようとしたんじゃないかなと。でも、風呂場から戻った後のダニーの服には血一つついていなかった。風呂場は水色の壁を基調としていましたし、このシーンはダニーが過去のトラウマを抑え込むことで対処する方法を覚えたシーンだと私は解釈しています。


一方、アブラはシャイニングとうまく付き合う方法を、ラストシーンでは見つけ出しています。しかし、ダニーはトラウマを抑え込んだだけで、トラウマを消し去ることはできていませんし、ダニーは生き続けるといった以上、ダニーのトラウマもアブラの中で生き続けます。だからこそ、老婆は現れたのでしょうし、アブラは改めてそれをやっつけようとしたのではないでしょうか。きっとアブラならそれを完遂することでしょう。なぜなら、アブラはシャイニングをどのように使えばいいかもう知っているのですから。



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以上で感想は終了となります。映画『ドクター・スリープ』、ホラーだけに依らない多要素の幕の内弁当みたいな面白さがある映画でした。興味があれば観てみてはいかがでしょうか。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。



参考:

映画『ドクター・スリープ』公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/doctor-sleep/index.html

映画『シャイニング』感想と考察 ラストシーンの写真の意味とは!?|冬来いよ
https://popposblog.com/shining/

青ってどんな色?…今日のあなたは何色人間?(15)|カラー、色彩ご提案の東京カラーズ株式会社
http://www.tokyo-colors.com/column/青ってどんな色%EF%BC%9F今日のあなたは何色人間%EF%BC%9F%EF%BC%8815/




おしまい 





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こんにちは。11月24日(日)東京流通センター第一展示場にて開催される第二十九回文学フリマ東京に参加させていただくこれです。全四冊を頒布予定です。入稿を済ませ、現在POPなどを鋭意準備中。オ-36「胡麻ドレッシングは裏切らない」を何卒よろしくお願いします。


そんな最中の今回のブログは映画の感想になります。今回観た映画は『決算!忠臣蔵』。『忠臣蔵』と名のつくものを一個も見たことない私ですが、今回意を決して観に行ってきました。まあ結果は散々たるものでしたけどね。年齢層が高く、若者は私だけというありさまでしたよ。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください。




※ここからの内容は映画のネタバレを少し含みます。ご注意ください。











えー、まず感想を始めるにあたってお知らせがあります。ここまでイマイチ決め手に欠けていた2019年ワースト映画争いが終結しました。2019年の個人的ワースト映画は『決算!忠臣蔵』に決定です。いや、本当に全く期待はしていなかったんですけど、それでももしかしたら、もしかしたら面白いかもしれないという微かな望みをかけて観てきたんですが、予想以上の酷さに映画が終わったときに頭を抱えている私がいました。いや、ここまでとは……。


そもそも、私は『ゾンビランド:ダブルタップ』が観たかったんですよ。明日観ますけど。でも、仕事終わりのちょうどいい時間帯にはやってなくて。で、職場の同僚がこの映画を勧めてきたのを思い出したんですね。その人って『ぐるナイ』とか『チコちゃん』みたいなバラエティ番組の話ばっかりしている人で。クッソ面白くないダジャレとかもよく言うんですけど、映画館には全く行かない、それこそ『天気の子』すら見ないような人なんです。


で、私は雑談が苦手であまり人と喋れないような人間なんですけど、それじゃいかんなとは日々感じていて。その人と共通の話題を持ちたいと思って観たんですが、まあ酷いこと酷いこと。観たことを後悔しました。やっぱり人と話を合わせるために観る映画って、あまり面白いものではないですよね。義務感を感じてしまう。これからは自分が観たいものを最優先にして観よっと。信頼できるのはツイッターの映画ファンだけやで。


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話が逸れてしまいました。ここからは映画の内容の話をしたいと思います。まあ批判ばっかりになるんんですが。あまりネガキャンはしたくないけど、この映画に限ってはせざるを得ません。まず、最初に画面に映った吉本興業のロゴでもう嫌な感じはビンビンにしたんですね。今年色々問題がありましたし、心証はかなり悪くなっていました。そしてその悪い予感は見事的中してしまいました。しなくていいのに。


もう最初に、俳優さんの演技が過剰なんですよ。主演の堤真一さんをはじめ、とにかく厳しい顔で声を張り上げて、迫真の演技に見せかける。分かりやすさを一番に置いているなという感じですが、それがシンプルにうるさいんですよ。休まる時間が全然なくて、観ていて悪い意味で疲れるんです。特に荒川良々さんの過剰さと言ったらなかったです。声の大きさが完全に舞台用なんですよね。もっと映画用の演じ方もできる人のはずなのに……。ここは俳優さんのせいじゃなくて、演出の方向性が悪いですね。


あと、気になったのがモブのガヤです。こちらも音響設計バグってんじゃないの?というくらいにうるさいうるさい。この映画って吉本制作の映画ですし、たぶん売れない芸人も少なからずエキストラとして出ていたと思うんですね。で、それぞれが爪痕を残そうとめいめいに騒ぐ。それがとっても耳障りでした。あと音楽もポップな吹奏楽が全く映画のカラーに合ってませんでしたし、音響は間違いなく今年観た映画でもワーストかなと思います。


あとは芸人さんの多数起用ですかね。吉本ならではのネック。慣れている木村祐一さんや板尾創路さんはまだいいですよ。ただ、上島竜兵さんはそのまま服脱いで熱湯風呂にでも入りそうな感じが拭えませんし、ぎょろ目を瞬かせる西川きよしさんには、思わず失笑してしまうほど。「小さなことからコツコツと」は時代劇なのにそれ言っちゃうんだと辟易してしまいました。あふれ出るバラエティ番組感が抑えきれていません。


その中でも一番きつかったのが、岡村隆史さんですね。とにかく演技の幅が狭い。全体的にバラエティ番組での普段の喋り方のトーンを落としたものでしかない。悪い意味でなにをやらせても岡村隆史になってしまう感はありました。あまりこういうことは言いたくないですが、出演しているシーンの強度は他のシーンのそれと比べて明らかに劣っています。


ただ、これも岡村さんが完全に悪いわけではないんですよ。人には適材適所という言葉があって。岡村さんが最も輝けるのはバラエティ番組で、最もそぐわないのが映画だというだけです。他にも輝けない場所にいさせられた方が多くて(特に芸人の方は)、だから映画としての魅力はそこまでないのかなという印象でした。


さらに、余計性質が悪いのがこの映画って有名な俳優さんも結構出演していることなんですよね。主演の堤真一さんをはじめ、石原さとみさん、濱田岳さん、滝藤賢一さん、阿部サダヲさん、さらに『蜜蜂と遠雷』で鮮烈なデビューを飾った鈴鹿央士さんも実は出演しています。よく引っ張ってこれたなと言う面々です。で、この本職の俳優さんたち、実に真っ当に演技しているんですよね。ちゃんと仕事をしているんですよね。それがなんか凄い申し訳ないなとは正直思います。芸人さんの出演を抑えて、この面々でもっとオーソドックスに作ってたら、それなりに面白い映画になっていたのではないでしょうか。もったいない。


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また、ストーリーも全然面白くない。『忠臣蔵』というのは討ち入りがメインのストーリーですよね。メインの面白さは、討ち入りの様子やそこに至るまでの葛藤や衝突みたいなところにあると、何も見ていない私でさえ思います。でも、この映画は討ち入りを決定するまでの紆余曲折の方をどちらかというと長く取っているんですよね。そこで独自性を出したかったのかなとは推察できますが、その試みは完全に失敗しているように見受けられました。


なぜかというと討ち入りをすることは史実によって決まっているから。それに予告編でも「討ち入りにお金がかかる」ことをメインに打ち出していました。となると、討ち入りを決行するまでの紆余曲折が描かれるのかなと構えていたら全然違う。1時間経っても全然討ち入りが決まらない藩の残務整理とか討ち入りをするまでの二転三転とか、正直どうでもいいからはよ討ち入れやと冷めた目線で見ている自分がいました。正直退屈以外の何物でもなく、早く終わらないかなと願っている自分がいました。遊郭で大石蔵之介が遊んでいるところとか、本当に何を見せられているんだろうと思って帰りたくなりましたよ。こんなこと初めてです。


でも、討ち入りを決意してからはようやくちょっとですが、面白くなってくるんですよね。祭りは始まる前が一番楽しいに通ずる準備の面白さみたいなものがあって。でも、それは『忠臣蔵』というフォーマットの面白さであって、この映画独自の面白さではないと思います。


もうこの際だから言っておきますけど、私が映画を観るときに一番重視しているのってストーリーなので。ストーリーが面白くない映画は、私はあまり好きじゃないです。たとえストーリーがアレでも、俳優さんの魅力で押し切るのも一つの方法だとは思いますが、この映画にはそれもない。過剰な演技に笑っているお客さんも少しはいましたけど、それはその俳優さんが面白いのであって、この映画自体が面白いわけじゃないからなというのは一つ言っておきたいです。


あとは、やっぱり討ち入りのシーンがなかったのが嫌でしたね。そういう映画ではないと分かっていても、『忠臣蔵』の最大の華をカットして一体どうしようというのでしょうか。討ち入るの討ち入らないのグダグダやっている暇があったら、ナレーションカットするんじゃなくて、20分でいいから討ち入りのシーン見せたらんかいと。そのシーンさえあれば、もっと好印象で終わっていた気がします。ダメなのは変わらないですけど。



まだまだ、批判は続きますよ。私がこの映画を受け付けなかった最大の理由。それはこの映画が、映画というよりもバラエティ番組に近かったからです。まず、「この映画は全てを日本円で示しますよー」というナレーションに代表されるように、この映画は分かりやすさが第一。逐次いくらというテロップを出し、いくつかの台詞は文字で強調。後半に至っては、画面の端に常に残高が表示されるという小学生にでも分かる親切設計です。


それに、演出も過剰気味で。いろいろきつかったシーンは枚挙に暇がないんですが、特にきつかったのが笛の音と共に堤真一さんの耳から湯気が吹き出すシーンですね。もう素人のSN〇Wかよ、TikT〇kかよと見てられず、頭を抱えてしまうほどでした。この映画って完全にバラエティ番組の方法論で作られているんですよね。それが嫌で嫌で。


私が思うに、バラエティ番組と映画の違いって強度の種類の違いだと思うんですよね。別にバラエティ番組に強度がないと言っているわけではなくて。世の中緩い映画もいっぱいありますし。でも、バラエティ番組って多くの人が、ご飯を食べながら、会話しながら、スマホを見ながら、いわゆるながら見をしていると思うんですよ。製作側もそれを想定して作っているはずで、だからこそリアクションを過剰にしたり、テロップを逐次出して、見られている時間が少ない中で印象に残るような作りになっている印象があります


でも、映画は違うんですよ。映画館で映画を観るときには、私たちは基本的にずっとスクリーンを見ているわけじゃないですか。ジュースを飲もうとポップコーンを食べていようとメインはスクリーンに映る映像なはずです。そこで、上記のようなバラエティ番組の方法論を使われてしまうと正直クドいんですよ。情報過多なんですよ。疲れるんですよ。私も観ていて疲れましたし。


だから、映画って二時間集中を持たせるために、どっかで情報量を落として、いわば分かりにくいシーンを作る必要があるんですけど、二時間ずっとバラエティ番組のこの映画にはそれがない。緩急が無くてずっと急ばっかり。普段何気なく見ている映画がどれだけ上手く緩急を作れているのかを実感しましたね。あぁ静かな映画観たい。


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以上、ここまでずっと批判ばっかしてきたんですけど、ただ私はこういう映画もあってはいいと思ってはいるんですよね。私と同じ列にいた妙齢の女性は、私が頭を抱える一方で、満足げな表情を見せていましたし、それこそ冒頭の職場の同僚はこの映画を『面白かった』ということでしょう。この映画を面白いと感じる人は確かに存在しているはずで、それを否定することは私にはできないんですよね。


なんか普段からもっといろんな人が映画館に足を運んでほしいなと私は感じていて。だって、新規顧客を開拓できなければ、映画業界はこのまま先細っていく一方でしょう。で、インディーズから徐々に映画は減っていき、その波はメジャーにも訪れるかもしれない。それで困るのは映画ファンでしょう。だから、もう映画館に足を運んでくれればそれでよし、みたいな考えが私にはあるんですね。そう言う意味では、芸人さんを多数起用したこの映画は、普段バラエティ番組しか見ない人にとっても吸引力があるはずで、それをないがしろにするのはあまり良くないなーと思います。ミラクルが起こって、この映画から映画を多く見始める人も一人はいるかもしれないですし。


でも、この映画の面白さってバラエティ番組の面白さであって、映画の面白さではないんですね。
同僚は言うことでしょう。「『決算!忠臣蔵』面白かった」と。
私は思うことでしょう。「その面白さは映画の面白さじゃないんだぞ。勘違いしてもらっちゃ困る」と。
しかし、せっかく映画に興味を持ち始めたこの人に、それを萎ませるようなことは、極力言いたくない。
となると、私も「そうですね、面白かったですね」と答えることでしょう。

何が楽しいんだ、この会話。


周囲に左右されない「確固たる自分」がほしいものです。いくら周りが騒いでようと、悪い予感がする映画をスルーできる自分が。そんなことを『決算!忠臣蔵』を観て思いました。


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以上で感想は終了となります。『決算!忠臣蔵』、こんなこと初めて言いますが、別に観なくてもいい映画です。オススメはしませんし、どうしても観るのなら自己責任でお願いします。いや、本当に。



お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。11月24日(日)東京流通センター第一展示場で開催される第二十九回文学フリマ東京にさんかさせていただくこれです。ただいま3冊入稿完了。もう1冊入稿しようと頑張り中です。いけるところまで行きたい。


でも、そんななかどうしても観たい映画があったので観に行ってきました。それは『殺さない彼と死なない彼女』。世紀末さんの4コマ漫画が原作のこの映画。予告の時点で惹かれるものを感じ、観た結果、大正解でした。泣きました。ありがとうございます...。ありがとうございます…。



では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・はじめに
・青春は死と背中合せ
・アイデンティティの崩壊と与えられる承認
・「未来の話をしようぜ」





―あらすじ―

何にも興味が持てず、退屈な高校生活を送っていた少年・小坂(間宮祥太朗)は、リストカット常習者で”死にたがり”の少女・鹿野(桜井日奈子)に出会う。それまで周囲から孤立していた二人は、《ハチの埋葬》をきっかけに同じ時間をともに過ごすようになる。不器用なやり取りを繰り返しながらも、自分を受け入れ、そばに寄り添ってくれるあたたかな存在――そんな相手との出会いは、互いの心の傷をいやし、二人は前を向いて歩み出していくのだが……。

(映画『殺さない彼と死なない彼女』公式サイトより引用)


映画情報は公式サイトをご覧ください。







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・はじめに


映画を観ていてよく不満に思うことがあるんですよ。「こいつら(登場人物)生きていることに無自覚だな」って。自分が生きていることを、さも当たり前のように享受していて、いつか終わるなんてことは全く考えていない。有り体な言い方をすれば、死の匂いがしないんですよ。そういう暗い側面を持たない映画が俗に薄っぺらいと言われるのではないかなと。まぁこれは作品によりけりなんですけどね。でも、コメディならともかくシリアスな映画で死の匂いがしないと、私には全然響かないんですよね。


なぜかと言うと、私が毎日「もう死んだほうがいいな」と思っているからなんですよね。給料は安いし、交際経験はないし、そしてその責任は全て努力不足の私にある。自分が行動を起こさなければ何も変わらないと分かっているのに、何も行動を起こさない自分が嫌で嫌で。「このまま状況が変わらないのならもういつ死んでも同じだな」ぐらいに思っているんですよね。


でも、どうやら他人はそうではないらしくて。多くの人が他人と喋っていて、笑いあっている。彼ら彼女らは、自分のことを「死んだほうがいい」なんて思っていないように見えるんですよね。そして、それは一部の映画のキャラクターも同じ。正直、もっと悩めよ!って思うんですよね。夢だの理想だの愛だの恋だのそんな高次なことで悩むんじゃなくて、「自分は生きていていいのだろうか」というもっと根本的なことで悩めよ!!とどうしても思ってしまうんです。低次の悩みを抱えていない、死の匂いがしない人との会話にも、映画にも私が心動かされることはあまりありません。


しかし、『殺さない彼と死なない彼女』は違いますそこには常に死の匂いが漂っています。それは、彼ら彼女らが、自己の存在について悩みまくる時期である10代であることもそうですし、また彼ら彼女らにとって死というものが、他の学生よりも間近であることもそうでしょう。さらに、自然光がふんだんに取り込まれる画面は、どこか天に召されることを思い起こさせますし、ぼんやりとした映像は、まるで薄れゆく意識の中で見ているようです。これらが全編を通して、死の匂いをより醸し出しているように感じました。



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・青春は死と背中合せ


彼ら彼女らが過ごす10代は、大人から見れば「青春」と呼ばれるものでしょう。青春に関する有名な言葉として、このような言葉があります。


青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない(坂口安吾)


当たり前ですが、青春とは楽しいことばかりではありません。学校という狭い世界特有の人間関係。理想の自分になれない苦しみ。進路決定を急かされる圧迫感に、ハードな受験勉強。後になって「あの頃はよかった」などと思っていても、当時の自分はそのときの自分や周囲の状況をいいものだとはあまり思わないでしょう。それは陰キャでもリア充でも同じ。陰キャには陰キャの苦労が、リア充にはリア充の苦労が、そしてそのどちらでもない人にもまた違った苦労が、青春にはあると私は考えています。


そして、10代というのは、これも当然ですが、20代30代に比べると人生経験は少ないです。大人ならある問題に直面したとしても、今まで同じ問題を通ってきたと、過去の経験を思い出して対応できるかもしれません。いわば引き出しや選択肢を多く持っています。しかし、10代にはその開けるべき引き出しがまだ少ない。よって、自らが経験したことのない問題に直面したときに、参照すべき経験がないため、悩んでしまいます。


そこで浮上するのが「死」という選択肢です。赤ちゃんのときには、ただ思いのままに泣くことしかできなかったのに、やがて泣いてはいけない場面で泣いてしまえば叱られ、「泣かない」という選択肢ができます。このように、選択肢は経験によって増やされるものだとするならば、経験の少ない10代は選択肢が少なくて当たり前。しかし、「死」という選択肢は生まれたときから存在しており、全体においての割合は大きく、逼迫した存在となって彼ら彼女らの前に現れます。これが「青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない」という言葉に表れているのではないでしょうか。つまり、青春において「死にたい」という感情は何ら特別なものではない。そう私は考えます。


この映画の中で、「死にたい彼女」鹿野ななはリストカットをしていました。彼女の手首の傷を見て「メンヘラ」と片付けることは簡単です。しかし、「死にたい」という感情は、こと10代においては普遍的な感情のように私には思えます。月並みな表現ですが、「死にたい」という言葉の後には「だけど、生きたい」という言葉が隠されています


つまりは、彼女も生きたいんだと思います。あのリストカットは生きるための行為なのです。これはある本に書いてあったことなのですが、「リストカットをする人は、心に得体の知れない痛みを抱えている。痛みの形は分からない。でも、手首を切ると、流れる血を見て『ああ、ここが痛いんだ』と分かって安心する。心の痛みを体の痛みに置き換えている」らしいんですよね。要するに、リストカットは痛みを顕在化させることで、心の痛みに殺されないようにする行為ということです。この映画では、もう一人リストカットをしていましたが、その人もきっと得体の知れない痛みを抱えていたのではないでしょうか。


さらに、彼ら彼女らはかつて葬式を経験しています。しかも、同じ高校の生徒の葬式です。同年代の生徒が死んだということは、自分も死ぬんだという事実を彼ら彼女らに容赦なく突き付けたのではないでしょうか。ただでさえ「死と背中合せ」の時期に、彼ら彼女らはより死を身近に感じていた。そこからくる切迫感のようなものは、メインどころの6人はおろか、モブの生徒まで全員に感じました。あの高校全体に、校舎やら校庭やらに死の匂いが漂っていて、私はそこがたまらなく好きでしたね。




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・アイデンティティの崩壊と与えられる承認


例えば、自らを可愛いと信じて疑わない堀田きゃぴ子。彼女は世界中の誰からも愛されたいと思っています。そのために、誰に対しても思わせぶりな態度を取るので、少しイラつくところもありますが、ただ彼女には彼女なりの思いがある。自分を可愛いと思うことで「誰からも愛される自分」「可愛い自分」というアイデンティティを確立しようとしていたのでしょう。そうすることで自分を他ではない自分だと理解するために。堀田真由さんのぶりっ子演技にも説得力がありました。


例えば、叶わない恋をしていた大和撫子。11回好きと言っても、憧れの男子・宮定八千代は彼女になびくことはありません。しかし、彼女にとってはそれでいいのです。「叶わない恋をする自分」というアイデンティティを確立するためには。また、八千代も「好意を持ってくれる女子になびかない自分」というアイデンティティを保つためには、応じるわけにはいきません。現実ではなかなか聞けないような演劇調のセリフをガンガン繰り出す二人は自分に酔っているようでした。撫子役の箭内夢菜さんの夢見る乙女感も、八千代役のゆうたろうさんの触ったら壊れてしまいそうな儚さもたまりませんでした。


例えば、「死にたい彼女」鹿野なな。彼女もまた「死にたいと思っている自分」を演じていたようです。死ぬ気もないのに「死にたい死にたい」と言い続ける。リストカットの傷も長そでから容易に覗いていますし、周囲に「彼女は死にたいんだ」というイメージを抱かせていました。演じていたはずなのに、いつの間にか自分のアイデンティティ=「死にたい」になってしまって、もう戻れないところまで来ていてしまったように私には思えます。それを裏付けるかのような桜井日奈子さんの不機嫌な目線が良かったですね。イメージとは違うのでびっくりしました。


しかし、そんな彼ら彼女らのアイデンティティは、物語の中で崩されていきます。


例えば、きゃぴ子は付き合っていた大学生に「きゃぴ子は可愛いけど、可愛いだけだよ」という言葉とともに振られてしまいます。撫子と八千代も、まるで青春映画のような胸がうずくようなデートをした後、八千代が逆に撫子のことを「好きだ」と告白します。ここで3人のアイデンティティは崩壊。自己を保てなくなります。


しかし、彼ら彼女らにも差しのべられるものがありました。それは承認です。きゃぴ子の近くには、地味子と呼ばれる宮定澄子がいました。地味子はきゃぴ子に呆れながらも、なんだかんだ仲がいい様子。体育倉庫のシーンはよかったですよね。ラピュタ味があって。地味子を演じた恒松祐里さんは、気持ちを抑えている感じが良かったですし、報知映画賞の新人賞にもノミネートされていよいよブレイクでしょうか。


しかし、きゃぴ子は振られ「誰からも愛される自分」「可愛い自分」というアイデンティティは崩されていきます。それでも、地味子は「きゃぴ子は可愛い」ときゃぴ子のことを承認。きゃぴ子は励まされ、何とか自己を保つことができるようになります。


また、八千代には恋に関して苦い経験があり、誰かを好きになることはしないと考えていました。しかし、八千代は撫子に告白。これは撫子にとっては、「叶わない恋をする自分」、八千代にとっては、「好意を持ってくれる女子になびかない自分」というアイデンティティが崩壊しただけです。しかし、撫子は「未来の話をしたいわ」と、自らと八千代の二人のこれからを口にすることで、二人丸ごと承認します。


この「未来の話がしたい」というのが、この映画ではかなり重要でして。だって、彼ら彼女らは同校生の葬式というショッキングなイベントを体験しているんですよ。死が間近になっていて生きることに必死になっている。地味子、きゃぴ子、撫子、八千代の4人がやや芝居かかったセリフを使ってまで、アイデンティティの確立に躍起になっていたのも、「自分は死ぬ」という自覚があったからではないでしょうか。


自分は死んでいく。でも、一人で死んだら生きていた価値がない。自分の価値を認めてもらうには、他人に承認されることが一番です。でも、それは不特定多数でなくてもいい、誰か一人に承認されたら、誰か一人に存在を認めてもらえたら、自分が死んだ後も、自分との記憶はその人の中に残り続ける。それは自分が生きていたという証に他ならないでしょう。承認されるということは生きているということを認めてもらうこと。死の匂いがする高校に通う彼ら彼女らにとって、それは一種の救いだったのではないでしょうか。この点で、私は4人の誰をも身近に感じ、彼ら彼女らが承認されるシーンは思わず泣きだしそうになってしまいました。




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・「未来の話をしようぜ」


そして、この承認は鹿野ななにも与えられます。「死にたい」が口癖の彼女は、「殺す」が口癖の小坂れいに出会います。たとえ軽い気持ちでも、二人の言葉には無視できない重みがあり、死の匂いは濃厚です。しかし、二人の日々は「バニラとチョコのアイスどちらがいい」と聞かれたり、部屋でぷよぷよをしたりと、言葉とは裏腹に万事平穏。つつがなく過ぎていきます。小坂を演じた間宮祥太朗さんのぶっきらぼうな感じがグッときます。本当にかっこいい。男でも惚れる。


小坂の言う「殺す」。それは相手が生きていることが前提です。「殺す」というのは相手が生きていることを認め、それから「殺す」ということ。つまり、鹿野は小坂に「生きている」ことを承認され、「死にたい自分」というアイデンティティを否定されているのです。鹿野の自己は崩れそうなものでしたが、小坂がいてくれたおかげで何とか形を保て、それどころかより素、本来の自分になっていきました。


そして、その承認の最たるものが「未来の話をしようぜ」という小坂の言葉でしょう。その未来は、小坂と鹿野の二人がいなければ存在しえない未来です。今だけでなく、これからも生きていると認める言葉。「殺す」「死にたい」という未来のない最初の状態から、一転して未来を認めている。これからの生を認めている。その事実は、私に涙を流させるに足るものでした。


結局のところ、私は映画や小説、漫画などといったフィクションによって肯定されたいんだと思います。もう死のうか迷っているところに、「君は生きていていいんだ」と言われたいのだと思います。『殺さない彼と死なない彼女』の登場人物は、常に死の匂いを纏っていました。しかし、彼ら彼女らは、生きていることを承認され、「未来の話」をする。それは、私がフィクションに求めていることそのもので、自分の生も肯定されたようで気づいたら泣いてました。


「未来の話をしようぜ」


本当に最高です。


どうもありがとうございました。




emc


















以上で感想は終了となります。『殺さない彼と死なない彼女』。傑作です。人生どこか上手くいっていないなと思っている人は、騙されたと思って観てみてください。強くオススメします。


おしまい 





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