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こんばんは。これです。


今回のブログは、「平畠啓史Jリーグ54クラブ巡礼 ~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方~」の感想になります。結論から言うと素晴らしい本でした。Jリーグファン・サポーター全員が読んだ方がいいと思えるくらいに。


では、前置きもそこそこにここから感想を始めます。拙い文章ですが最後までお付き合いいただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。




~目次~

・はじめに
・本の構成について
・AC長野パルセイロと松本山雅FCのページの感想
・全ページ読んでほしい
・おわりに



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・はじめに

まず、現在サッカーの本は様々出ていますよね。戦術本や選手の個人本など数え始めたらキリがありません。その中には少数ではありますが、試合以外をメインに据えて書かれた本も存在します。中村慎太郎さんの「サポーターをめぐる冒険」、津村記久子さんの「ディス・イズ・ザ・デイ」。これらの本はJリーグのファン・サポーターに重点を置いて書かれたもので、「これ分かるわー」という共感が散りばめられていて、どちらもJリーグのファン・サポーターにとっては必読といってもいい素晴らしい本です。そして、先日の10月5日にまた新たなJリーグファン・サポーター垂涎の本が発売されました。それが「平畠啓史 Jリーグ54クラブ巡礼 ~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方~」です。


ある程度Jリーグに詳しい、またはスタジアムに足しげく通っている人たちのなかで著者の平畠啓史さんを知らない人はあまりいないでしょう。かつてスカパー!でやっていたJリーグハイライトで10年近くMCを務め、現在もNHKBS1の「Jリーグタイム」に時おり出演。またJリーグ公式番組「ひらちゃんねる」やDAZNでのJ3実況も担当。仕事とは関係のないプライベートでもスタジアムに足を運ぶなど芸能界一のサッカー通として知られています。その平畠さんが今回満を持して出版した本が「平畠啓史 Jリーグ54クラブ巡礼~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方」というわけです。


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(平畠啓史さん)









・本の構成について

この本はJリーグ54クラブにそれぞれ4ページが割り振られており、前半の2ページが「54クラブおすすめ紹介」、後半の2ページが「54クラブ巡礼コラム」となっています。


前半の「54クラブおすすめ紹介」は主に3つのパートに分かれていて、まずチーム、スタジアム・マスコットの紹介がされます。スタジアム紹介には平畠さんの一言メモが添えられ、色鉛筆で書かれたアクセスマップには何とも言えない味わいがあります。さらには、Jリーグの大きな魅力であるマスコットもページを彩ります。クラブの公式に乗っている写真ではなくちゃんと現地で撮った写真が載せられ、平畠さんとの2ショット、3ショットの写真も多くありました。栃木SCのトッキーの耳には「S」と「C」が描かれていることや、Y.S.C.C.横浜にはときどきスポンサーのキャラクター「グリーンベア」がやってくることなんて初耳ですし、ギラヴァンツ北九州のギランさんの「出演料高いよ」というボード芸が笑いを誘います。


そして次に紹介されるのがJリーグ初ゴールを決めた選手。ジーコ(鹿島)やマイヤー(東京V)、ウィル(大分)に風間八宏さん(広島)など懐かしの名選手から、渡辺亮太選手(沼津)や藤本憲明選手(鹿児島)といった最近の選手まで多くの選手がその時の様子とともに紹介されています。そのなかには佐藤昌吉選手(大宮)や関口圭亮選手(岡山)や他チームのサポーターはおろか、そのクラブを熱心に応援しているサポーターでもあまり知らないんじゃないかというような選手もおり、チームの歴史を教えてくれます。


そして3つ目。左1ページ丸々使って紹介されるのが「ひらちゃんのおすすめTOP5」。スタジアムやイベント、チャントやスタジアムグルメ、お土産に観光名所、果ては「村林いづみ」さん(仙台)や「三村ロンド」さん(湘南)、全力さん(東京V)やじゃんけんマン(鹿児島)など個人名までさまざまが紹介されています。これが凄いのはチャントやスタジアムグルメなど実際にスタジアムに足を運ばないと分からないことが多く書かれていること。そのチームのファン・サポーターはあるあると共感でき、他チームのサポーターは「今度行ったらここに注目してみようかな」と新しい気づきを得ることができます。正直「書くことなんてあるのかな」と思っていたY.S.C.C.横浜でさえも、納得できるようなおすすめTOP5が挙げられており、その理解と愛情の深さにただただ驚嘆するばかりです。「平畠啓史Jリーグ54クラブ巡礼 ~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方~」は観戦者目線からのJリーグのガイドブックとして抜群の出来を誇っています。
 

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そして後半では「54クラブコラム」が書かれています。そこに書かれているのは様々な「人」との交流。選手やスタッフと、スタジアム内のファン・サポーターと、さらにはスタジアムにとどまらず、町の地域の人々との胸温まる交流が描かれています。そしてどのクラブにも共通しているのが「クラブが好きだ」という思いで溢れていること。楽しんでスタジアムに来ている人はもちろん、辛い状況、艱難辛苦の中にいる人たちが平畠さんとの交流でクラブに対する熱い思いを吐きだしていきます。そこにはとてつもない熱量があり、幾度となく涙腺を刺激してきます。個人的にはベガルタ仙台や栃木SC、ファジアーノ岡山、愛媛FC辺りがやばかったです。他にも結構くるものがあったりして20回ぐらい泣きそうになりました。


そしてこの本の凄いところは、そのとてつもない熱量を持つコラムがJリーグ54クラブ全てにあること。「クラブが好きだ」という熱い思いの集合体がこの本なんです。全てのクラブにそのクラブだけの物語がある。それが平畠さんの追体験できるような細やかな気取らない書き方に載せられて私たちの心に届けられます。「平畠啓史Jリーグ54クラブ巡礼 ~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方~」は読み物としてのコラム集という意味でも出色の出来栄えとなっています。


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(裏表紙)










・AC長野パルセイロと松本山雅FCのページの感想

おそらくですが、この本を手に取る人はほぼほぼどこかのJリーグクラブのファン・サポーターでしょう。そしてその人たちがどこから読み始めるかというと、川崎フロンターレのサポーター以外は自分の応援しているクラブのページから読み始めると思います。私もその例に漏れず応援しているAC長野パルセイロと松本山雅FCのページから読み始めました。


AC長野パルセイロのJリーグ初ゴールを決めたのは現群馬所属の高橋駿太選手。確かホーム扱いで東京の味の素フィールド西が丘での試合でしたね。その頃はまだパルセイロの試合観に行ってなかったなあ。そしておすすめTOP5は「長野Uスタジアム」「北陸新幹線」「善光寺」「AC長野パルセイロレディース」「悲願のJ2昇格へ」。長野Uスタジアムは毎試合行っていて、その度にいいスタジアムだなあって思うんですけど、いつの日かそれが当たり前になってるんですよね。でもこう外部の人から評価してもらえると嬉しくなって、また外からの目から見ないと分からないこともあって新しい気づきをもらえます。当たり前のことが当たり前じゃないという気づきが。


そしてコラムでは平畠さんが初めて長野Uスタジアムに訪れたときのことが書かれていました。長野Uスタジアムの素晴らしさが書かれていて、津田知宏選手の「テンションが上がる最高のスタジアムですよ」という長野Uスタジアム評には泣きたくなるほどうれしかったです。それと意外だったのが隣の長野オリンピックスタジアムについても言及されていたこと。普段は何も考えず通り過ぎるだけですが、初めて見た人にはインパクトがあるんだなと。これも内の人間だけじゃわからないことですね。


4ページたっぷり堪能したんですけど、唯一注文があるとすれば「AC長野パルセイロレディース」のところ。ここで使われている写真がよく見ると、INAC神戸レオネッサの選手たちの写真なんですよね。胸に小さく「黒糖ドーナツ棒」と書かれていますし。なので増刷時にはここの写真を正しくAC長野パルセイロレディースの選手たちの写真に差し替えてくれると幸いです。あと善光寺にはぜひ来てください。


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(長野Uスタジアム)



ページをめくってその次は松本山雅FC。ここではJリーグ初ゴールの選手ではなく、様々な行き違いが重なったらしく、「Jリーグ初勝利の決勝ゴールの選手」として現在も山雅に在籍する飯田真輝選手が紹介されていました。そしておすすめTOP5として紹介されていたのが「アルウィン(現サンプロアルウィン)」「喫茶山雅」「松本駅」「チャント」「山雅切れ(山雅ロス)」。ザスパクサツ群馬サポーターの話は山雅を応援している人たちにとっては大変喜ばしいものではないのでしょうか。他チームのサポーターがくるって相当ですよね。嬉しいです。それと私は松本に電車で行くので、今度行くときはイヤホンをつけずに松本駅の到着アナウンスをちゃんと聞いてみたいなって感じました。


そしてコラムは愛すべき山雅サポーターの話。本当にさまざまな人に山雅は支えられているんだなと、そしてこんなにも山雅は松本に根付いているんだなと温かい気持ちになります。隠し味で笑いのエッセンスが入っているのもほっこりするポイントです。


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(サンプロアルウィン)









・全ページ読んでほしい

このように自クラブのページを読み終えた人達が次にどこに進むのかといえば、たぶん多くは冒頭の中村憲剛選手(川崎)と平畠さんの対談に進むのではないでしょうか。川崎と言えばJリーグの中でも特にファンサービスやスタジアムイベントに力を入れているチームです。ピッチ外に大きく力を入れているチームがピッチ内でも優勝という結果を出したことは大きく、中村選手のファン・サポーターに対する思いが熱く語られていたり、チャントが受け継がれている様が冒頭から涙腺にジャブを放ってきます。


そしてページをめくって目次に進みます。ここで注目していただきたいのが54クラブ巡礼コラムの目次です。自クラブのコラムで感じた熱い思いがずらーっと54クラブぶん並んでいる。そこにはそれぞれクラブに対する愛情が溢れていて、もう目次を読んでるだけでも泣けてきます。「栃木SCが存在することの意味」(栃木)や「ファジアーノ岡山は『家族』だ」(岡山)などタイトルも胸に迫ってくるんですよね、これが。





この本を手に取った人のなかには自クラブとあとはライバルクラブのページをいくつか読んであとは読まない、なんて人ももしかしたらいるかもしれません。私は声を大にして言いたい。それではあまりに悲しいと。宇都宮が「ジャズとカクテルと餃子の街」なんて、大宮が「盆栽の街」なんて知っていましたか。町田市立陸上競技場に行くときには実は永山駅が便利で、ミクニワールドスタジアム北九州が5時間24,300円で借りられることなんて知らなかったでしょう。これらの他にも一般的なガイドブックには書かれていない情報が満載で、ページをめくるたびに新たな発見があります。どのスタジアムにも、地域にもそれぞれの楽しみ方があることをこの本は教えてくれます。読み終わってここに書かれたすべてのスタジアム・地域に行ってみたいと私は感じました。


そしてコラムには54通りの温かな交流、クラブの物語が綴られています。読み進めるうちにほっとしたり、クスッとしたり、もしかしたら涙を流すかもしれません。クラブに愛情を抱いているのは自分だけではないことが分かるはずです。遠くの顔も知らない人と私たちはJリーグでつながっている。それはとても素敵なことのように私には思えます。



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・おわりに


よくJリーグの試合は地域のお祭りに例えられます。賑やかなイベントに美味しい食べ物、人との交流がいっぱいです。この本は「90分間だけがサッカーだなんてもったいない」という言葉で始まります。この本を読み終えたときその言葉に心から頷くことができるでしょう。試合を楽しむことはもちろんですが、試合以外のイベントやスタジアムグルメ、アウェイで訪れた地域の観光を楽しむことが日本独自のサッカー文化の更なる深化と熟成につながっていくのではないでしょうか。「平畠啓史Jリーグ54クラブ巡礼 ~ひらちゃん流Jリーグの楽しみ方~」はそれをこの上なく推し進めてくれる本だと思います。ぜひ買って読んで、スタジアムに、訪れた地域にこの本を持って行ってください。Jリーグとそしてそれに関わる人たちの心に残る一冊です。



おしまい






 試合終了間際にAC長橋パートナーズはコーナーキックを獲得した。それは長橋の応援席のすぐ前でのことだった。伊藤聡美は胸の前で手を組み、必死に祈る。11番の畠山がボールを入れると、オレンジと薄青のユニフォームが一斉に動き出した。合わせたのは長橋の選手だったが、頭に当たったボールは無情にもクロスバーの上を越えていった。そして吹かれる試合終了を告げる笛が鳴って、聡美は手を解いた。視線を落とすと、試合前に降った雨がまだコンクリートの上に残っていた。長橋は讃岐ヌードルスとの二部三部入れ替え戦を0-1で落とし、来年も三部リーグで戦うこととなった。


 聡美の家はもともと長橋のサポーター一家だった。まだ長橋が地域リーグにいたころ、父親が選手と同じ会社で働いているとかで、よく話をしていたのを覚えている。木橋というその選手は中盤の底で待ち構えて、得意のスライディングやインターセプトでボールを奪う、チームの中では目立たないタイプの選手だった。しかし、聡美はそんな木橋の武骨なところが好きで、家族で観戦に行っても木橋のことばかりを見ていたし、グッズも木橋の背番号である5がプリントされているものを欲しがった。聡美にとって木橋は、長橋を見る理由の大きな部分を占めていた。


 長橋は入れ替え戦に敗れた後、何人かの選手を放出して、何人かの選手を獲得した。しかし、その年は三位に終わり、またしても二部昇格を果たすことは出来なかった。そして長橋はまた、何人かの選手を放出して、何人かの選手を獲得した。そのなかには木橋も含まれていた。加齢により思うようなプレーができないことが原因で、木橋は現役を退いたのだった。木橋の引退は聡美にとって、これから自分は何をするにもうまくいかないのではないかと思うくらいには悲しかった。もうスタジアムに行くことはないかもしれないと思った。しかし、翌年も聡美は長橋の試合を見に行くことを続けた。それは、シーズン最後の練習で木橋に会った時に、「来年もチームを応援してくださいね」と言われたからだった。


 新しいシーズンが始まって、長橋は最初はまあまあ勝ってはいたものの、夏場になると調子を落としていき、順位が下の相手とも引き分けたり、負けたりしていた。スタジアムには重い空気が立ち込め、野次も増えていった。聡美はそんなスタジアムの様子をどこか他人事で見ていた。しゃんとしない選手たちには思わず文句を言いたくなったし、今まで食べていたスタジアムグルメも美味しく感じなくなっていた。そこで初めて聡美は、自分の気持ちが長橋から離れてしまっていることに気づいた。聡美と長橋を繫いでいた木橋はもういないのだ。そのころ仕事が忙しくなりだしたのもあって、聡美がスタジアムに行く回数は減っていき、ついには、その年の最終節を最後に、全く行かなくなってしまった。





 それからというもの、仕事は競合他社に押され、少しずつ減ってきて、社内はジリジリとした危機感に覆われてた。聡美の気持ちも焦りだし、それが原因で、彼氏である俊之と喧嘩をすることも多くなっていた。味付けの好みの違いだの、見たいテレビの違いだの、それらは一つ一つは取るに足らない些細なものだったが、積もり重なって気づいた時には、もう修復不能なものとなっていた。ある年の12月の暮れに聡美は3年付き合った俊之と別れた。浮かれて手を繋ぐ恋人たちを見ていると、聡美はどうしようもなく情けなくなって、買ってきたビールと一緒に飲み込もうとしたが、いくら飲んでも涙は溢れてくるばかりだった。


 聡美はうまくいかない人生の救いを本に求めるようになった。もともと本は読んでいたのだが、俊之と別れるようになってから、より読むようになった。活字の海に潜っている間は、現実という大気から逃れることができ、それは聡美に心の安定をもたらした。誰にも触れられない一人だけの世界に、聡美は徐々に閉じこもるようになっていった。


 ある日、何気なく買った週刊誌の、ある本の広告に聡美は目を留めた。その本は「ディス・イズ・ザ・デイ」というタイトルで、


22チームの22人のファンたちは、それぞれの思いを抱いて2部リーグ最後の試合の「その日」に向かう。職場の人間関係に悩む会社員、別々のチームを応援することになった家族、憧れの先輩に近づきたい男子高生、十数年ぶりに再会した祖母と孫など、ごく普通の人たちのかけがえのない喜びを、サッカーを通してエモーショナルに描き出す連作短編集。


という謳い文句が書かれていた。スタジアムには行かなくなったとはいえ、長橋の試合は時折テレビで見ていた聡美は直感的に「これ面白いかも」と思った。仕事中もその本のことが頭から離れず、それは「買え」というサインなので、仕事終わりに駅前の書店に立ち寄った。ユニークだけど味のあるイラストが表紙を飾る本をレジに持っていく。そのワクワク感が今の聡美を支えているといってもよかった。






 読み始めて第1話「三鷹を取り戻す」は、試合を観に行かなくなった男性が、再び試合を見に行くまでの話だった。いきなり自分のことが書かれているので、聡美は後ろからナイフでグサッと刺されたような感覚を味わった。


自分は二部にやってきた最初の一年で三鷹を捨てた人間のはずだ。
(第1話 p21)


主人公である貴志は、好きな選手が監督に就任したことを知り、再びスタジアムに訪れるようになる。そこで、バイト仲間の松下と会うのだが、松下はリーグのことをあまりよく知らなかった。


「降格?やばかったってこと?」
「そうだよ。よそのチームの結果にもよるけど、負けたら21位で入れ替え戦に回るか、22位で自動降格のどっちかだった」
 そんなことも知らないでこいつは試合を見ていたのか、と貴志は少しあきれるのだが、それ以上に驚く。そんなことを知らなくても、好きなチームの応援は出来るのだということに。

(第1話 p32)


 思えば、自分も木橋目当てで観に行っていたころは、長橋の順位なんてよく知らなかったなあ、ということを聡美は思い出す。最初は貴志の方に感情移入していたはずが、気づいたら松下にも感情移入しているのは自分でも不思議だった。そんな無知な松下やかつての私をも受け入れるスタジアムという場所は、なんて懐が広いところなのだろう。






読み進めているうちに聡美は、スタジアムに訪れる人の多様性が幾度も書かれていることに気づいた。


タオルマフラーを首から掛けて、ビールを片手に談笑している三十代半ばくらいに見える男性たち、壁際でひたすらスマホを操作しているユニフォーム姿の女の子、からあげを食べたいのか食べたくないのか子どもたちにたずねている若い父親、せんべいを食べながら帰りの食事場所について話し合っているヨシミの母親ぐらいの年の女性の三人組など、スタジアムにはいろいろな人がいる。映画館やライブ会場など、ヨシミが出かけたことのある様々な人が集まる場所のなかでも、サッカーのスタジアムは最も誰がいてもおかしくない空間であるように思える。
(第3話 p85)



荘介はそれまで、スポーツを現地観戦するという経験をしたことがなかったのだが、こんなふうに老人から子供まで、そして男も女も、どういう人たちが多い、と一見では判断できないぐらい、いろんな人間が集まってくるものだとは想像したこともなかった。
(第7話 p192)


何より、芝生の歌いまくる人々の大声を聞きながら試合を見ていると、一種のトランス状態というか、サッカーと歌とコールだけがそこにあって、ほとんど別のことが考えられなくなって、それはそれで心地よかった。ライブやクラブでの状態に似ているかもしれないけれども、そこにいる人たちの年齢や性別にほとんど偏りがないため、周りを気にせずにいられた。

(第10話 p304)


 たとえ、「自分はスタジアムに行ってはいけない」と思っている人や「自分が行くと負ける」と考えている人でも、スタジアムはありとあらゆる人を受け入れる。年齢も性別も本当にさまざまだ。聡美はそんなスタジアムの様子を思い出さずにはいられなかった。待機列で今か今かと会場を待つ人の会話、同じユニフォームを着たたくさんの人が行き交うコンコース、そして、青々とした芝生に吹き抜けの空。それは何かのお祭りのようで、私もその空気に当てられて、隣になった人と話したりしたなあという記憶が呼び起こされる。その人は「勝つといいね」と笑っていた。それに笑顔で返して、二言三言言葉を交わすあの時間はかけがえのないものだったと今になって聡美は気づいた。


 この他にも、スタジアムグルメ、略してスタグルを買う様子や、マスコットと触れ合う様子、買うつもりのなかったグッズを買ってしまう様子など、「ディス・イズ・ザ・デイ」にはスタジアムのさまざまな様子が克明に書かれていた。自分がまるでスタジアムの中にいるような錯覚に聡美は囚われた。文字からスタジアムがせり出してきて、自分はそれに飲み込まれたようだった。楽しそうに談笑している人、一人でスマホを操作している人、初めて来たスタジアムに戸惑っている人まで、一人一人の息遣いまでが聞こえてくるような気がした。それは自分が物語の中の登場人物に感情移入して一体となったことで、登場人物が見ている景色が見えてくることによるものだった。聡美はもうすっかりこの本の虜となっていたのだった。







 また、「ディス・イズ・ザ・デイ」には一つ大きな特徴があった。それは、試合の日の描写よりも、日常の描写が多いということだった。「ディス・イズ・ザ・デイ」に出てくる人たちに特別な人など一人もいなかった。聡美と同じように、いいことがあって喜んだり、落ち込むことがあって悩んだりする至って普通の人がどの話も登場していた。きっとこの人たちも私と同じように、寝坊して朝食を食べ忘れたり、傘を持たないときに限って突然の雨に降られたり、信号機に引っかからずスイスイ行ける日があったりするのだろう。そう考えると、登場人物たちがグッと身近なものに感じられた。それは聡美が、彼ら彼女らに感情移入するのに大きな助けとなった。



つまんないのが普通で、でもたまにいいこともあって、それにつかまってなんとかやっていく感じ。富士山の試合があってくれるっていうことはさ、そういうとこに飛び石を置いてもらう感じなのね。とりあえず、スケジュール帳に書き込むことをくれるっていうか。
(第3話 p80)


 「ディス・イズ・ザ・デイ」は試合がメインではない。それは現実でもそうで、サッカーの試合は長くても2時間ほどしかない。1週間のうちのたかだか2時間が、それ以外の時間が日常の多数を占めている。その人その人に異なった日常、人生があって、スタジアムはそんなそれぞれの人生が交差する場所なんだ。人が集まることによって生まれるエネルギーがスタジアムには確かにあって、人々はそこから元気をもらって、またそれぞれの山あり谷ありの日常に戻っていくのだろう。聡美はぼんやりとそんなことを考えていた。


 読んでいて、これはと思うことがあった。それは第4話「眼鏡の町の漂着」に登場するヴィオラ西部東京というチームのことだった。ヴィオラは経営難が原因で消滅してしまったチームで、その姿はかつての横浜フリューゲルスを思い出さずにはいられなかった。聡美はその当時のことはよく知らないが、かつてスタジアムにカップ戦を観に行ったときに、大型ビジョンで流れていた映像の中の「私たちは忘れないでしょう。横浜フリューゲルスという、非常に強いチームがあったことを」というアナウンスはなぜか強く印象に残っていた。

 
第4話の主人公の一人である誠一は、かつてはヴィオラ西部東京のファンで解散から17年経った今でもヴィオラのことを好きでいて、かつてヴィオラに所属していた野上というディフェンダーを追っているというキャラクターだった。誠一は自分の心境を、

あまりにも長く、もうなくなってしまった一つのものを好きでいると、自分自身の時間も止まってしまったような気分になるからだろうか 
(第4話 p111-112)


 と述べていた。木橋がいたころはよくスタジアムに行っていたけれど、木橋がいなくなってからはだんだん行かなくなってしまった自分と、程度の差はあれど似ていると感じた。私は今でも長橋の試合はたまにテレビで見たりはするけれど、スタジアムでの私の時間は木橋が引退したときから止まったままだった。そう考えるとなんだか胸が痛むような気がして、読むのが少しずつ辛くなっていった。


 それでも聡美は読み続けた。辛いのを我慢して読み続けた。すると最後には救いのある結末がそこには用意されていた。気づいたら温かいものが頬を伝っていた。誠一だけでなく自分さえも救われたような気がした。自分も止まっている時間を動かしていいのだ。長らく離れていたとしても、スタジアムに行って長橋を応援していいのだ。聡美は久しぶりにスタジアムに行ってみようと決めた。それは誰に言われるでもなく、自分の意志で決めたことだった。その日はもうそれ以上読めずに聡美は本を閉じた。丸く膨らんだ月が綺麗な夜だった。







 その日は8月の終わりとはいえ、まだまだ夏は帰る気配を見せず、三十度を超える気温とジメジメした湿度が肌にまとわりつく日だった。大した用もないのに早く来てしまった。キックオフまでまだ1時間以上もあるではないか。引っ張り出した昔の木橋のユニフォームを着ていた聡美は、この暇な時間をどう過ごそうか考えて、とりあえずは売店で売られていたフライドポテトをつまんでいた。正直パサパサしていてあまりおいしくはなかったが、腹は満たされたので良しとした。


 聡美がフライドポテトを食べながらぼんやりと緑の芝生を眺めていると、何やら賑やかなアナウンスが聞こえてきた。ピッチには3人が立っていて、一人は自らをスタジアムDJと名乗り、一人はその女性アシスタントで、もう一人はなんと木橋その人だった。驚き、隣の人に聞いてみると、木橋はチームを引退した次の年に営業担当としてチームに戻ってきていた、とのことだった。木橋は体格の良さは変わらなかったが、肌は室内にいることが多いからか少し白くなっていて、今日新発売だというグッズを持たされていた。聡美は自分の中で何かが許されるのを感じていた。木橋が引退したときは悲しかったが、当の木橋は選手から営業担当へと姿を変え、ピッチの上で笑っている。その様子がどうにも微笑ましくて、気づいたら自分も顔を綻ばせていた。止まっていた時計の針が再び動き出したような気がした。







 木橋らが帰ると選手たちが試合の準備を始めた。今ピッチでボールを呼んでいるあの選手にも、何人かにボールを回されているこの選手にも引退というのはあり、いつまでも選手でいてくれるわけではない。それにサッカー選手というものは他のスポーツ選手に比べて移籍が多く、よく「選手はチームを通り過ぎるもの」などと言われる。


 思えば、「ディス・イズ・ザ・デイ」の第5話「篠村兄弟の恩寵」は選手の移籍がテーマで、第9話の「おばあちゃんの好きな選手」では国内外6つのチームを渡り歩いた選手が登場していた。どちらも選手の移籍を通した出会いと別れが書かれていた。


 思えば木橋も移籍して入ってきた選手だった。木橋を応援しているときはそんなこと思いもしなかったが、木橋が引退したときに、選手でいる時間は限られているのだと聡美は思い知らされた。その限られた時間をチームのために費やしてくれる選手に、出会えたことの素晴らしさを当時の聡美は知らなかったのだが、今ではそれが身にしみて分かる。「通り過ぎていくもの」である選手が、今このチームにいるということは奇跡的なことであり、その奇跡がとてつもなく愛おしいものに感じられる。


 それは試合を見に来る人だってそうだ。今は長橋というチームを選んで見に来ているが、何の気なしに見に行くチームを変えたり、飽きたからといってこなくなってもいいのだ。一人とも違わず全く同じ人が入る試合など二度はない。たとえその試合が13位と14位の対戦という意味の薄いものであっても、それは、後にも先にもない一度きりの試合だ。

 
 選手が選手でいる時間は限られていると同時に、私たちが私たちでいられる時間も限られている。その限られた時間をサッカー観戦に消費する。他にも娯楽というものは数多あるのに、わざわざサッカー観戦を選んで見に行く。スタジアムにはそんな人たちが集まっており、そこには小さい子供やお年寄りもいる。違う日常を歩む人たちが、サッカー観戦という同じ時間を共有する。それはものすごい偶然が集まってできた事で、聡美にはそれがとても素敵なもののように感じられた。スタジアムに来たからといってどうということはない。仕事は増えないし、家に帰ってもだれも待っていてくれない。でも、老若男女問わず大勢の人が集まるスタジアムには万能感みたいなものがあって、もしかしたら何かが変わるかもしれないという感覚がした。







 選手たちが入場して、円陣を組んでから、ピッチに散らばる。試合開始を告げる笛が鳴る。ゴールの後ろにいる人たちが大きな声を出して応援している。周りの人たちは、静かにピッチ内で起こることを見守ったり、隣の人と話しながら見ていたり、携帯で他の会場の途中経過を見ながら「うっわ、マジかよ」なんて言ってたりする。聡美はじっと選手たちを見つめていた。今ピッチの上で起こっている奇跡を見逃したくはなかった。



おしまい
 

ディス・イズ・ザ・デイ
津村記久子
朝日新聞出版
2018-06-07






 広い室内にキーボードを叩く音とマウスをクリックする音、それにいくらかの話し声が響いている。モニターに向かって、テンキーを使って数字を入力しエンターキーで見送る。数字は四角の奥深くに一瞬で吸い込まれ、また新しい入力画面が飽きもせずに姿を現す。その繰り返しに、川田祥平はすっかり慣れてしまっていた。
 

 それは、ハローワークの求人票の「誰にでもできる簡単なお仕事です」という言葉通りに、機械に疎い祥平でも、少し教えてもらえれば難なくこなすことができた。ノルマもないし、残業も少ないし、周囲も優しくしてくれるしで、給料が最低賃金ギリギリであることを除けば、半年で辞めた前職とは違って、この仕事は長く続けられるかもしれない、と考えるくらいには祥平は今の仕事に概ね満足していた。人と喋るのが苦手という克服しなければならない課題はあったが、人から見れば、至って平々凡々な日々を送っている部類に入るだろう。

 



 ある昼休みのことだった。祥平が思い切って共同の休憩スペースで昼食を摂っていると、同僚の髙木が話しかけてきた。それは「川田さんって休みの日には何してるんですか?」というありふれた話題だった。


「サッカー観戦をしていることが多いですね。」
「あぁ、そういえば確かチームあったね。長、なが...。」
「AC長橋パートナーズですね。」
「そうそう長橋。で、長橋って強いの?」
「いや、三部で13位ですからそこまで強くないですね」


 祥平は口に出すことで、自分の応援するチームが弱いことを改めて思い知らされ、悲しくなった。長橋は去年こそ5位だったものの、それまでは2位3位と念願の二部リーグ昇格にあと一歩のところまで来ていたのだ。それが今年になっていきなり13位。守備の堅さの代わりに得点力不足に苦しんでいたチームは、オフの期間に攻撃的な選手を多く補強していた。シーズンが始まり、得点は増えたがその分失点も増え、祥平は、現実はなかなかうまくいかないものだなと思った。


 毎年監督が代わるチームにあって、せっかく留任していた監督もシーズン途中で交代となったのも祥平の落胆に拍車をかけた。求めれば嫌な素振りなど一切見せず、握手やサインに応じてくれるなど人柄は最高だったが、勝負の世界ではそれとこれとは別だという厳しい現実が、口を開けて待っていたのだ。それは、長らく5年前の日本サッカーリーグ、通称JSL優勝という成功体験を引きずってきた長橋に用意されていた、底の知れない落とし穴のように祥平には感じられた。






 三部リーグはチーム数が少なく、それによって試合数も一部や二部と比べて少なくなっていた。しかし、シーズンが終わるのは一部や二部と同じ十二月の初め。日程の調整のために、三部には夏に約一か月の中断期間が設けられていた。その中断前最後の試合である秋山サンダーズ戦に祥平も足を運んでいた。じりじりと照り付ける日差しが雲を寄せ付けず、相当に暑い日のことだった。


 暑さによる消耗を避け、自陣でパスをつないでチャンスを窺う長橋とは対照的に、秋山はボールを持った選手を他の選手がどんどん追い越していくという、躍動感にあふれるサッカーを見せていた。長橋は、前半に秋山の7番の選手に息を呑むほど美しいループシュートを決められ、後半にはカウンターからのオウンゴールで追加点を許した。その後は、サイドバックの松岸のヘディングのゴールで1点を返したものの、その後は秋山の集中の切れない守備の前に、シュートチャンスすら作ることができず、1対2で負けた。肩を落としながら帰るサポーターと呼ばれる熱心なファンの姿を見て、祥平は「どこかの国の大学が、サッカーファンは幸せになれないっていう論文を発表していたけど、あれは当たっているのかもしれないな」と感じた。


 クラブは毎年のように「今年こそ二部昇格」という目標を掲げていたが、それは今年も達成されそうになかった。毎年毎年期待を裏切られておきながら、サポーターはなぜ応援をやめないのだろうと祥平は考えた。彼らが言うには「応援し続けた方が昇格したときの喜びが大きいから」ということだったが、もしそうならかなりのマゾヒストではないか。祥平は、自分がそんなに忍耐強い方ではないことを思い出し、自分の中で長橋を応援する気持ちが薄まっていることに気づいた。少なくとも、大学に通っていたころの、毎試合高速バスに乗って東京から応援に来ていたころの自分はもういなかった。なぜスタジアムに行くのかと聞かれれば、「惰性」という言葉が今の自分に一番合っているような、そんな気分だった。


 そんなことを思い出していたため、髙木との話はそれ以上続かなかった。祥平は自分の席に戻り、午後の変わり映えのしない仕事に取り組み始めた。時間が過ぎるのが少しずつ遅く感じられるようになっていた。それでも仕事を終え、祥平が家に帰ると郵便受けから顔を出しているものがあった。少し考えたのちに、一昨日注文した本が届いたのだと理解した。






 機械で均一的に行われたであろう外装を丁寧に開いて、中身を確認した。「ディス・イズ・ザ・デイ」。それが本のタイトルだった。著者の津村記久子氏は「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞し、その後も次々と作品を発表している名うての小説家なのだという。「ディス・イズ・ザ・デイ」はその津村氏が朝日新聞に連載していた、Jリーグサポーターを主人公としたいくつかの物語が一冊の本になった、連作小説だった。正直、その存在を祥平は発売されるまで知らなかったのだが、ある著名なブログで好意的に紹介されているのを見て、買ってみてもいいかなと思っていた。

 
 届いたその本は、表紙にユニフォームを着た人、また着ていない人が温かなイラストで描かれていた。帯の下にも、折り返しにもたくさんの人といくつかのサッカーボールが描かれていた。表紙をめくってみると日本地図が真ん中に置かれ、その周囲を見たことのないエンブレムが飾っていた。左下に小さく「※順位は第41節終了のもの」と書かれている。そして目次に書かれている話の数は11。これは22チームの場合に1節で行われる試合数だ。これらを合わせて考えると、どうやらこの本は二部リーグの最終節をそれぞれの視点でオムニバス形式に書いた本らしい。リーグ最終節は公平を期すためにすべての試合が同日同時刻にキックオフされる。「ディス・イズ・ザ・デイ」の「ザ・デイ」はそのリーグ最終節を指しているのだろう。






 ページをめくって第1話を読んでみる。第1話は、以前は見たかというチームの応援をしていたがいつのまにか離れてしまった主人公が、好きな選手が監督に就任したことをきっかけに、また試合に観に行くようになるという話だった。


 三鷹は、三部でもあまりさえない成績で、中位をさまよっていたからだった。三部で中位なんてもう、また二部に昇格するのに何年かかるのだろうと思っていた。三鷹がいつ、自分がクラスで好きだと話しても恥ずかしくないチームになってくれるのか、貴志には見当もつかなかった。
(第1話 p13)


 まさに、長橋のことを指している、と祥平は思った。長橋は二部に昇格したことはないが、今の状態では二部に上がるのに何年かかるかしれないという点では、三鷹と同じだった。そして、これは二部を一部に、三部を二部に置き換えても成立するのではないか。むしろその方が共感する人が多いのではないか。この一節だけで祥平は、この本と自分との距離が一気に近づいたように感じた。


 その後も「ディス・イズ・ザ・デイ」には祥平が思わず頷いてしまう描写が続いていた。「ディス・イズ・ザ・デイ」には様々なチームが登場した。1位のチームもあれば22位のチームもあった。カングレーホ大林や琵琶湖トルメンタスのような調子のいい、未来への希望に満ち溢れているチームよりも、オスプレイ嵐山やモルゲン土佐といった調子があまりよくなく、はっきり言ってしまえば停滞しているようなチームに、祥平はより多くの共感を覚えた。それは現在、長橋が置かれている状況とよく似ていた。






 オスプレイ嵐山は二部で屈指の資金力を持っていながら、その使い方が下手で苦しんでいるというチームだった。


 他チームの分析をさぼってんのかコネがないのか強化部長が斜め下なことばかり考えてんのかブランド好きなのか分からないのだけれども、資金力のわりにとにかく補強が下手だと思う。ヨシミが鶚の試合を観に行くようになってから、五年が経つので、少なくともそれだけの期間、オスプレイ嵐山というクラブは、名前はあるけれども本当にチームに必要なのかという選手ばかりを高額で獲得しては、その後安く放出するということを繰り返している。
(第3話 p75)


 鶚とはオスプレイ嵐山の愛称のことだ。主人公であるヨシミは停滞に停滞を重ねる鶚に関心を失いかけており、そこが自分と似ている、と祥平は感じた。長橋も三部では屈指の資金力を持っていながら、それを有効活用できていない。昇格に手が届きそうで届かないという同じようなシーズンをもう何年も繰り返しており、待つのに疲れて離れていったサポーターも少なくない。事実、三部リーグにおいては有数ではあるものの、その観客動員は少しずつ減り始めていた。こうなると気持ちが塞いでネガティブなことばかりが思い浮かんでしまう。それはヨシミも変わらなかった。


 ヨシミは手あたり次第、彼らに、どう思います? このままプレーオフ行けても惰性だと思いません? もうこの試合なんか落として、今年は徹底的に望みを絶って、フロントにヤキを入れた方がいいと思いません? などと終末論者のような話を吹っかけてしまいたい衝動をこらえる。
(第3話 p83)

 
 それは祥平が時折考えることと全く変わりなかった。どうしてこんなことまで分かるのだろうか、と祥平はゾッとした。まるで自分の頭の中が高精度のカメラで見透かされているようで、底知れない恐ろしさがあった。実際こんなことを言う人を祥平はスタジアムで見たことがある。それはたいがい熱心なゴール裏ではなく、メインスタンドと比べて料金の安いバックスタンドでの話なのだが、そんな不安定なサポーターの心情が過不足なく描かれていた。






 第8話に登場するモルゲン土佐もまた、長橋と似ているチームだと祥平は感じた。土佐は6年前にカップ戦で準決勝まで進んでおり、その成功体験に後ろ髪を引かれ、そのときの選手を変えられずに世代交代が進まないまま、残留争いを演じていた。


 土佐がファンを増やしたのは、カップ戦で準決勝に進んでからで、それからも中位、中位の上位、プレーオフ圏内と順調に順位を上げ、その間大体同じ選手を中心にやってきた。私らはずっと、土佐が右肩上がりな状況が普通で、それを長く担ってきた選手を私らは大事にすべきだし、クラブもそうあるべきやと思ってきた。しかし、もしかしたらそういう姿勢がこの停滞をもたらしたのかもしれん。でも、選手を責めることは出来ん。とはいえこのいきなりの凋落は何なが。ここまでツケが回ってくることをクラブや選手や私らがしたがやろうか。理不尽じゃないが。
(8話 p255-256)


 特に最後のニ文が祥平の心に刺さった。長橋は昇格争いを演じるべきチームだという驕りが、長橋に関わる人々の心のどこかにあったのかもしれない。上位にいるチームと下位にいるチームは決まっていて、それが逆転することはないと思い上がっていたのかもしれない。ただ三部は一部や二部と違って降格のないリーグで、下位にいるチームはその利点を最大限に利用し、自らが志向するスタイルに向けて必死にチームを作り上げていたのだ。過去の成功体験に縋り、年齢を重ねて少しずつ衰えていく選手たちを重用し、その年の昇格を狙うだけのチームになっていた長橋は、いつしか自らのスタイルを突き詰めていたチームが上位にくる三部の流れに取り残されていたのだった。


 そのことを祥平は薄々気づいていたものの、気づいていないふりをしていた。そんな現実から目を背けるように、大声で応援することで忘れようとしていたのだが、胸のしこりは試合ごとに大きくなっていくばかりだった。そして今シーズン、その現実が避けることのできない波になって長橋に襲い掛かった。祥平はその重くのしかかる現実に耐えきれず、長橋にどうしてほしいのかが分からなくなっていた。






 第8話にはこう書かれていた。


 スタジアムに来る人達は、どんな状況のときでも応援しているチームには目の前で勝ってほしいものだと思いますよ
(第8話 p244)


 第3話にはこうも書かれていた。 


 いつもの鶚なら、多分引き分けに持ち込んでいただろうと思われる展開で、試合終了直前で一点を取って勝ったのは、ヨシミには大きなことのように思えた。自分はこのチームに勝って欲しかったのだ、と思った。どれだけしょうもない試合をしても、でも最終的に勝つところをどうしても見たいと自分は思っていたのだ、とヨシミは気が付いた。
(第3話 p93)


 祥平の中で濁った気持ちが浄化されていった。そうだ、自分は長橋に勝って欲しかったのだ。どうせ嫌いになることなんてできるはずもない。心が多少離れたとしても、その気持ちは変わらないはずだ。そのとき、祥平は気づいた。そう思っているのはスタジアムにいる人全員なんだ。応援するチームの違いはあれど、勝ってほしいという思いは変わらない。その気持ちのぶつかり合いがあり、そこに生まれる感情のうねりが感動をもたらしてくれる。だから自分はサッカーが、Jリーグが好きなのだ。


 思い返せば初めて長橋の試合を観に行ったときは、長橋に勝ってほしいと思う一心のみだった。それに余計なものが混ざるようになったのはいつからだったろう。「ディス・イズ・ザ・デイ」が祥平の中に眠る初心を呼び起こしてくれたことに、祥平は計り知れない感謝をした。この本に出会えてよかったと心の底から思えた。








 リーグ再開初戦、祥平はスタジアムにいた。8月も終わりに差し掛かっているというのに気温は相変わらず下がる様子を見せない。しかし、祥平はもう知っている。長橋のロゴがプリントされたタオルで汗を拭っている若い男の人も、うちわを扇ぐことで涼を取ろうとしているおばあさんも、日陰のコンコースに避難している親子連れも、みんな長橋に勝ってほしいと思っていることを。その事実が、祥平の心に再び火を灯している。試合開始を告げるホイッスルが鳴った。祥平は以前よりも大きな声で応援歌を歌った。空はあの日と同じように、どこまでも青く澄み渡っていた。



おしまい




ディス・イズ・ザ・デイ
津村記久子
朝日新聞出版
2018-06-07





 私が高橋久美子さんを最初に知ったのはチャットモンチーのベストアルバムを借りてからだ。私がチャットモンチーを知った2013年4月、高橋さんは既にチャットモンチーを脱退していた。橋本絵莉子さんの子供と同じように、私も高橋さんのいた、三人の頃のチャットモンチーを知らない。 それどころか、今よりもずっとずっと無知だった私はベストアルバムのライナーノーツの「高橋久美子が卒業した」という文字を見てもしばらくは、チャットモンチーは橋本絵莉子、福岡晃子、高橋久美子の3人で構成されたバンドだと、そうであると信じていたのだ。まったく恥ずかしい話である。



 それから時間が少し経ちチャットモンチーが二人組のバンドであると分かってきたことと時を同じくして、高橋さんが作家・作詞家として活動していることを私は知った。今どういったことをしているのだろうと気になったことはあったが、実際それまでだった。その頃の私は文章を読むことなど眼中になく、次から次へと現れ出るロックンロールバンドの数々に夢中になっていた。「ヒトノユメ」展にも行かず、エッセイが乗った雑誌も手に取ることはなく、「思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、」という本が出ていたことなど知る由もなかった。「ヒトノユメ」展が私の地元である長野でも開催されていたことも「いっぴき」を読んで初めて知ったぐらいだ。あの頃知っていたら実家の帰省の際に行ったのに。長野と上田は高速道路を通れば30分もかからない。新幹線なら8分だ。そんな近いところで憧れの人による展覧会が開催されていたなんて。



 そんな作家としての高橋さんの顔を知らない私にとって、高橋さんの姿を見つけることができたのは高橋さんが作詞したチャットモンチーの曲の中だけだった。「ハナノユメ」「シャングリラ」「風吹けば恋」。どの歌詞もとても魅力的だった。カラオケ、練習室、ライブハウス。いたる所で高橋さんの歌詞は歌われていた。そのたびに私は「やっぱり高橋さんの書いた歌詞っていいなあ」と10歳くらい退行したかのような感想を抱いた。もちろん橋本さんと福岡さんのとても歌詞もよかったのだけれど、高橋さんの書く歌詞はなんというか身近な感じがしてそこがたまらなく好きだったんだと思う。







 いつものように安く音質がいいとは決して言えないイヤホンでチャットモンチーを聴いていた去年の11月24日。それは起こった。橋本さんと福岡さんの二人が「チャットモンチーを来年の7月で完結させる」と発表したのだ。ショックだった。「最近チャットアルバム出してないよなーそろそろ出てもいいよなー」と感じていた矢先の出来事。当時SNSでも大騒ぎになったのを覚えている。チェックマークのついた業界の人から名前も知らないアニメのキャラクターをアイコンにした人、自撮り写真の人や原色を背景にした楕円の卵たちが次々とチャットモンチーに対する思いを露わにしていた。そしてその中に高橋さんもいた。文言は覚えていないが「二人の決断を応援したい」的な感じだったと思う。私は高橋さんのアカウントをフォローした。3万7千何人目かのフォロワーだ。





 そしてフォローして幾日か経ったとき私は高橋さんが6月に本を出すことを知る。「いっぴき」というタイトルの力いっぱいにジャンプするムササビが表紙に書かれた本。福岡さんの帯コメントと橋本さんの解説が載った本。チャットモンチーがラストアルバムをリリースする6月に出版される(タイミングが出来すぎだ)本。「買うしかないな」と直感的に思った。ちょうど私が本を読み始めた頃というのもあり高橋さんがどんな文章を書いているのか俄然興味が出てきたからというのもある。まあともかくも私は「いっぴき」を買った。そして仕事終わりの空いた時間を利用して少しずつ読み進めていった。








 読んでみて、そこには難しい言葉など何一つなかった。日常的にありふれたような言葉でできた見事な文章が346ページに渡って綴られていた。地球の自転の理由とかパブロフの犬とかじゃなくて、本当に私たちが日頃発するような何気ない言葉たちが、前ならえをして長短さまざまな列を作っていた。
 

 前ならえというと、ピシッと一直線になった、低いところから高いところへグラデーションになっていく列を想像するかもしれないがそれとはまた少し違う。少し横にずれたやつ。前のやつより身長が低くて必死につま先立ちをしているやつ。やる気満々なやつがいればそうでないやつもいる。体育大学のような厳しい前ならえとは似ても似つかない、でこぼこの前ならえ。でも、そんなでこぼこがたまらなく愛おしい。みんながみんな違う「いっぴき」。きっと人はそれを「個性」と呼ぶのだろう。『いっぴき』は作家・高橋久美子さんの一面性ではない様々な個性が詰まった本だと言えるのかもしれないとそう思った。






 『いっぴき』の中で私が印象的に思ったのは、まず「自然」の描写が多いこと。緑になった桜の木。プランターの中の家庭菜園。愛媛の葡萄畑。そして3.11。他にも自然に対する描写は驚くほど多い。そして、高橋さんのきめ細やかな筆致がその時々の風景を浮かび上がらせる。行ったこともなければ見たこともない風景なのに(あ、緑になった桜の木はあるか)、それを私たちも元々知っていたんじゃないかと錯覚させるほどにリアルで爽やか。



 人間は自然から来ている。どれだけ科学が発達して「ドラえもん」に描かれる22世紀のような世界が実現したとしても、それだけは確かで、なんだかんだで人間には母なる自然を求める心がどこかにあるんじゃないかと思う。『いっぴき』に書かれている「自然」はそんな私たちの基本的欲求を少し満たしてくれる。だから読後感がこんなにも気持ちいいんじゃないかなあ。デトックスデトックス。








 また、『いっぴき』では高橋さんが、数えてないけど5分の1ぐらいは、どっかに旅している。フィレンツェやラトビアといった海外から新潟や南予といった国内まで実に色んな所に。観光名所を巡って名物料理を食べて、といういかにもな「旅行」もあるにはあるんだけれどそれは少数。むしろネットに頼らず、自分の目と耳と口を使って、その地域の人たちの「日常」に触れる、そんな「旅」が『いっぴき』には多く描かれている。


 その人の住む地域によって「日常」は姿を変える。日本ではご飯を食べるときにお箸を使うけれど、欧米ではナイフとフォーク、インドでは直接手を使って食べる。しきたりも信じる神様も全然、もう予想だにしないくらい違う。それらは何ら意識しないまま勝手に「日常」に変換され、その「日常」の集まりが「文化」を形作るんだと思う。つまり「文化」に触れるということは、そこに住む人々の「日常」に触れるということなのだ。


 『いっぴき』で高橋さんはこうした「違った日常」に触れに触れまくっている。クロアチアの家庭に泊まり、地元の人しか知らないような南予の酒蔵に行く。私たちがしたくても勇気が出ずにウジウジしてできないことを、高橋さんは平気(じゃないのかもしれないけど)でやってのける。その羨ましさたるや。本当にいい「旅」をしているなあ、って心の底から思う。でも不思議と妬みはない。それは文章から高橋さんが、大変なこともあるけれどそれも含めて、楽しそうにしている姿が伝わってくるから。「いいなあ。行ってみたいなあ」と思わせるとても優れた旅の日記。『いっぴき』にはそういう一面もあるのだ。





 『いっぴき』というタイトルは高橋さんがチャットモンチーも事務所も離れフリーになった自らに対してつけたものだ。『いっぴき』という言葉の響きからは、孤独という暗いイメージがどうしてもつきまとう。でも、読んでいくうちにその「いっぴき」のイメージがどんどんと覆されていく。それは、高橋さんが人とのつながりを大切にしているからだと私は感じた。



 人間というのは誰しもが「いっぴき」だ。他に変わりはいないという意味での「いっぴき」。いくらよく似た双子だろうと、それぞれ別の遺伝子を持っている。もしも「いっぴき」じゃなくなるときが来るとするならば、それはヒト用クローン技術が完成の目を見たときだろう。倫理観の問題で当分実現しそうにはないが。

 
 そしてやっぱり、人は一人で「いっぴき」で生きていくことは出来ない。一人で何でもできるスーパーマンなどフィクションの世界にしか存在しないのだ。私たちはスーパーマンではない。長所も短所もある「いっぴき」だ。現実はそんな「いっぴき」同士がジグソーパズルのように互いに足りない部分を埋め合って生きている。


 「一人になったはずなのに私は一人じゃなかった。私を必要としてくれる誰かが必ず待ってくれた。」
(お仕事)


 なんて暖かいんだろうか。人は完全なる「いっぴき」になることはやっぱり不可能だよなあ。うんうん。


 現代はSNSの隆盛で、現実での人と人との結びつきが希薄になっているとよく言われている。何年も前から隣に住んでいる人の名前を知らない時代だ。


 そんな時代だからこそ、現実での人と人とのつながりを大切にしている高橋さんの姿勢は深く胸に突き刺さる。私はこの本を「自分は友達がいない」だとか「自分には価値がない」と思っている人に読んでほしいと思う。この本を読んで人と人のつながりがたまらなく愛おしいということを感じてほしい。


 別に友達が多いから偉いわけでも何でもない。昨今のなんでもかんでも「絆」を求める風潮は私も正直どうかと思う。でも、たとえ使い古された言葉でも「あなたは一人じゃないよ」ということを知ってほしいのだ。「人に必要とされていない自分に価値がない」とは思わないでほしい。価値のない人なんていない。価値の種類が違うだけだ。あなたにも私にも生きる価値はある。きっと。『いっぴき』を読んで柄にもなくそんなことを考えたりした6月の夜だった。


 







 『いっぴき』のなかで、どの章も好きだけれど、特に私が好きな章がある。それが「バイバイフェチ」という章だ。
 

 高橋さんは人の別れ際を見るのが好きなのだという。バイバイは「人の生々しさの出る場所」であり、「それぞれの性格が見えるから面白い」、らしい。私はそんな感情を持って、人の別れ際を見たことがないのでビックリした。世の中にはいろんな人がいるもんだなあ。でも言われてみればそんな気もする。「元気でね。ありがとう。バイバイ」に込められた感情。それは10人いれば10通り、100人いれば100通りの感情がある。その感情を想像してみると...。確かにこれは面白い。他人の感情というのは自分の想像が及ばない領域だ。いわば広大な余白。その余白に思いのままに画を描いていく。自分の好きなようにできるのだ。これはなんて楽しいことなのだろう。「バイバイフェチ」はそんな新しい気づきを私にくれた。


 そして、「バイバイフェチ」にはバイバイは「バイバイとともにやってくる新しい自分」と向き合い、「たった一人の自分に戻って、大きく深呼吸をし、胸を張ってスッと歩き出す」ためのものだとある。私がまだチャットモンチーを知らなかったあの日、高橋さんはどんな顔をして、どんな言葉で、二人にバイバイを告げたのだろうか。たぶん笑顔だったんだろうなあ、最後の瞬間は、3人とも。そして来月、その二人はどんな顔をして、どんな言葉で私たちにバイバイを言ってくれるのだろうか。泣いてる姿は見たくないよなあ。やり切ったっていう達成感に満ち満ちた顔でいてほしいな。そんなことを思わずにはいられなかった。










 いろいろ、本当にいろいろなことを考えながら、今日、『いっぴき』を読み終わった。私は月面に立っているような感覚を味わった。つまりとても体が軽くなったと感じたのだ。体だけでなく心もそうだった。万能感。今ならスパイダーマンよりも身軽にビル街を闊歩できて、ハルクとの腕相撲にだって勝てる。そんな根拠のない自信が私の心を満たした。


どんな山だって、どんな傷だって、越えられる気がする。今、超無敵。


 私は本来後ろ向きな人間ではあるが、こんな前向きな気持ちになったのも、高橋さんの紡ぐ言葉のマジックのおかげだよなあ。私はこの世に2人とない「いっぴき」。でも「いっぴきじゃない」。胸を張って歩ける。前を見て歩ける。それがとても幸せなことなんだよなあ。こんな若輩者の私に生きる勇気を与えてくれて、ありがとうございます。『いっぴき』に出会えてよかった。










 そんなことを考えながら、読み進めていた終盤、「音楽2」の最終段落。


「人間は必ず前に進まなければいけないことになっている。歌詞でも何でも『新しい未来』とか『前に進もう』とか歌いがちだけれど、それだけが正解ではないのではないか。一瞬の燃えるような情熱を胸に秘めて生きていくだけでよしにしてくれないか。」


 バールのようなもの(実際には純然としたバールらしいが)で頭を殴られたような衝撃を感じた。あなたがそれを言うか、と。私に前を向かせてくれたあなたが。


 でも、これは高橋さんが36年生きてきてたどり着いた一つの答えなんだとも感じた。バンドでも作家でも前を向いて進み続けた、けど「いつも同じ場所にいた」高橋さんなりの。


 24歳の私は今はまだ前に進むのが絶対的な善だと考えている。「過去の中にこそ、新鮮な未来が見える瞬間があるのだ」という境地には至っていない。私にとって何もしていない過去は振り返りたくもないものだけれど、いつかそう思えるようになる日が来るのだろうか。干支をもう一周したときが楽しみである。その時、その瞬間もチャットモンチーを聴きながら、高橋さんの書いた文章や歌詞を読んでいたい。そう強く願った。
 



おしまい




いっぴき (ちくま文庫)
高橋 久美子
筑摩書房
2018-06-08


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