Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203




この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。

こちらのページは5月16日(日)、第三十一回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『アディクト・イン・ザ・ダーク』の試し読みサイトとなっております。

日々を惰性的に過ごしていた冴えない男にとある転機が訪れるお話です。

今回は19p、およそ10000字分を無料公開いたします。

では、どうぞ。






~~~~~~~~~~~~~~~~~








 プロローグ、たった一人で夜にいる



 迷っていた。何がしたいのか。自分には何があるのか。ずっと不安だった。目に見えない恐怖がのしかかり、押し潰されそうだった。

 求めていた。不安から解放してくれる優しさを。心配のない世界に連れて行ってくれるヒーローを。何もかも忘れられて、新しく生まれ変わることのできる瞬間を。

 だから、今日も俺はクスリに手を伸ばす。アルミホイルにクスリを開けて、下からライターで炙る。プラスチックのストローを通って、煙が俺の体を満たす。口の中が生暖かい。煙は細胞に浸透していき、意識に棘が生えた。脳のひだが、意志を持って動き出すかのようだ。

 八時間の仕事を終えた体に、活力が蘇ってくる。疲労は彼方に吹き飛んでいく。思考はどろどろとした蛹だ。だが、クスリによって固められ、やがて蛹を抜け出し、蝶になり羽ばたいていく。俺は、空を自由に飛んでいる。くるりと宙返りをしてみせる。誰も称賛する者はいないから、自分で自分を褒め称えよう。俺は窓に映った自分に向けて、手を開いておどけてみせた。鏡の中の俺は、口を開けて笑っている。

 解放は続く。ベッドに上り、ジャンプをした。布団は何も跳ね返さず、また受け入れることもしない。しかし、俺にはそれで十分だった。俺には手の届かない、一般的な幸福を掴めるという確信が湧いてくる。俺は飛び続けた。木製のベッドは、五五キログラムの妄動にも耐えられるくらい頑丈だった。

 キッチンで鼻歌交じりに皿を洗う。水道水の冷たさも、俺の目を覚ますまでには至らない。踵でリズムを刻みながら、立つ泡にほだされていく。頭では一種のショーが開演していた。宙を舞う空中ブランコ。玉乗りに興じるクラウン。特等席に座る俺は、テント中に聞こえるような大きな拍手を送っている。腰を捻りながら皿を拭くと、湿った布巾の感触が、羊毛のように心地よかった。

 することもなくなり、俺はベッドに入り、目を瞑った。だが、脳が興奮して眠ることはできないし、そもそも眠る気もなかった。俺はクスリがしたくて生きている。この高揚感を味わえるなら、本当に誰にでもできるつまらない仕事の日々も耐えられる。クスリは、まったく俺を解放してくれるパートナーで、人生の指針でもあった。

 冴えた頭で俺は思う。明後日もまたクスリをやろうと。このまま眠って起きたら日付が飛んで、明後日にワープしていればいい。クスリを使っている時間だけが、俺が俺でいられるかけがえのない時間だった。他人が俺を慰めることはない。俺を慰めてくれるのはクスリと、それに伴う自慰行為だけだ。

 そういえば、今日はまだ抜いていなかった。俺は起き上がり、枕元のティッシュ箱から、ティッシュペーパーを五枚抜き取る。ふと目をやると、灰色のジャージに、ありきたりな突起が芽生えていた。欲求が放たれる瞬間を、待望する俺がいた。




 神様、私にお与えください。

 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、

 変えられるものは変えてゆく勇気を、

 そして二つのものを見分ける賢さを。







 一、くだらない存在



 視界の端を景色が滑っていく。灰色の住宅街。空気は一か月前までの暑さを失っていて、手に当たる風が薄気味悪いくらい涼しい。ペダルを漕がなくても自転車は下り坂を進む。途中にある病院では紅葉が色づき、煉瓦の床をより赤く染めていた。心動かされることはない。どうせ掃いて捨てられるだけの存在だ。スニーカーが、ローファーが、革靴が葉を踏みつけていく。一枚の葉が擦られて、二つに割れている。

 渡ろうとしたところで、踏切が鳴り、黄色と黒のバーが下りた。警告音が鳴っているのに電車はなかなか到着しない。待ちかねた俺は自転車から降りて、スマートフォンを手に取る。開いたSNSでは殺人未遂事件のニュースが、トレンドに上っていた。まるで毎朝浴びるシャワーのように、もう何も感じなくなってしまっている。一瞬恐怖するが、それだけだ。

 俺に殺そうとまで執着を抱く人間なんているはずもない。俺は殺されない。喜ばしいことのはずなのに、胸の奥で何かが落ちる音がした。見上げた空には雲一つなく、気象予報士が言っていた「爽やかな秋晴れ」という言葉がそのまま当てはまっていた。

 踏切が上がり、車や歩行者が動き出す。ペダルは漕ぎだしの一歩目が一番重い。それに精神的な負担ものしかかる。会社の人間が全員俺より給料が低かったならば、まだ仕事へのやる気も出るというのに。言葉に出せない絵空事を浮かべながら、俺は右足に力を入れる。自転車は鈍重に動き出した。


 タイムカードを切って席に着く。机の上のクリアファイルには、今日も何も入っていない。ミスを指摘しても無駄、気に掛ける価値もないと思われているのだろうか。隣席の上野秀嗣(うえのひでつぐ)が「昨日の欠勤、ありがとうございました」と話しかけてくる。何がありがたいのかも分からず、ただ、プログラムされた愛想笑いを作って返す。脳裏には朝の踏切の音が流れている。

 仕事はデータの入力。適当に入力して問題になると面倒なので、一応は正確に入力することを心掛ける。心掛けるふりをする。頭の中では、好きな曲をプレイリスト化してずっと流している。休憩もこまめに取る。

 本音では、一人で仕事をしたいのだが、今以上にだらけるのは目に見えている。職場という場は侮れない。右隣にも左隣にも人がいる。人間は、「人の間」と書く。人と人との間でスーツを着ている俺は、辛うじて人間でいられている。

 うだつの上がらない働きぶりのまま、一二時になった。一時間の昼休憩。昼食は奥の休憩スペースで取りたい人はそこで、自席で取りたい人は自席で取る決まりになっている。休憩スペースに来る面々は決まっていて、席も目に見えないテープで固定されていた。

 俺は今日も休憩スペースに向かう。人類最大の発明である言語を介して、コミュニケーションを取るのが人間だ。人間でいたいという切実なプライドが、俺にはまだ残っていた。

 椅子に座ったはいいが、自分から話しかけることはしない。何を話しかけていいか判然としない。俺が興味あるのはサッカーと映画ぐらいで、話をしても特に反応はなく、すぐに別の話に置き換えられてしまう。それに、他人の怒りのツボなんてどこにあるか知れたものではない。俺が発した一言が相手の逆鱗に触れ、次の瞬間には拳が飛んできている可能性だってあるのだ。

 他人は、いつ噛みついてくるかも分からない野犬に似ている。

 ただ、テーブルの住民はそんなことを気にも掛けない様子で、世間話に花を咲かせていた。他人への無意識の信頼に、羨ましくて反吐が出る。俺も話に入ろうとはする。しかし、その言葉は適切かということを考え続けているうちに、話題はあっという間にすり替わっている。

 毎日、自分はどうしようもなく頭が悪いのだと思い知らされる。話している人たちは火花が伝播するように次々と言葉が浮かんでくるのだろう。健全な人間のあり方だ。俺とは違って。

 俺は会話に参加できず、ただただスマートフォンでSNSを見ている。お前らうるせえんだよと心の中で毒づきながら。喋らない俺の方が優れている人間だと、二束三文の言い訳で自分を慰める。それでも、喋れないことを恥じる自分が勝つ。

 人の話し声が嫌いで、心臓に負担がかかるから喋らないって、なんだそれ。今までの人生で苦労も我慢も努力もしたことがないから、お前は子供のままなんだよ。我慢する努力をしろ。社会性を培え。他人も自分も否定し、口にしている菓子パンの味だけが、唯一肯定できるものだった。

 何も喋ることができず、俺は休憩スペースを後にする。自席に戻ってイヤフォンをつけて、机に突っ伏す。声が聞こえないためには、それなりのボリュームで音楽を流すしかなく、眠ることができない。曲が終わってから次の曲が流れるまでの、空白の時間に耳から脳を刺すようなノイズに何度も苛立つ。中途半端に眠い頭で、イヤフォンを外すとき、心の底から黙れと嘆願する。俺が我慢すればいいだけだから、口にすることはないが。


 部屋に帰ると、床に散乱した服が俺を迎えた。縮んだジーンズに、チェックのシャツに、穴の開いた靴下。拾い集めることもなく、炬燵机に向かう。腰を下ろすと、斜めになったテレビに自分の顔が映って、「死ねばいいのに」と呟いた。

 帰りに寄ったコンビニエンスストアの袋から、三五〇ミリリットルのビール缶と、柿の種を取り出す。テレビをつけて、自分の姿を消去し、代わりに昨日録画したバラエティ番組を再生する。落とし穴に落ちる芸人を見て、俺は声高に笑う。会社では表出しないような声と笑顔で、手を叩いて笑う。

 ビールを体に流し込む。喉が冷たくなった後に、頭が温かくなってきて、安堵を得る。今日の失敗も、髪の毛の先から溶け出していくようだ。落下する柿の種を口で受け止めると、口の中は塩気と少しの辛味で埋め尽くされ、ビールがまた欲しくなる。ビールの刺すような苦みが、日に日に心地よくなっていくのを感じる。

 バラエティ番組の大げさな演出に、俺はヤラセだと責める。誰にも届かないのに責め続ける。

 番組が終わると、テレビのスイッチは勝手に切れ、また醜い自分の顔が現れた。俺はその肖像に向かって中指を立てる。親指を下にして、首の前で横断させたりもする。テレビの中の俺はキョトンとしていて、殴りたくなる。

 逃げるようにテレビから顔を背け、スマートフォンでSNSを開く。フォローしている言語学者が、外交問題について鋭い私見を述べていた。俺はそれをシェアし、しばらくタイムラインを眺める。宙ぶらりんになった自己顕示欲たちが、タイムラインの海を渡っていた。

 見上げると白熱灯が、ジーッという音を立てながら瞬いている。電球の中で羽虫が死んでいて、いくつか黒点が見受けられた。柔らかな意志を持った光に照らされると、自分の馬鹿らしさが浮き彫りになる。

 毎日会社と部屋の往復。仕事ができるわけでもなく、同僚と良好な関係を築けているわけでもない。帰ってからすることといえば、酒を飲んでテレビを見て、SNSを眺め、コンビニ弁当を食べて、寝る前に自慰をするだけ。幼稚園児のままごとにも劣る生活。無用。無価値。無目的。無いものは有るけれど、有るものは無い。ああくだらない。ひっくり返るほどの低次元だ。俺は、安易に失望する。

 コンビニで買った新発売の豚丼は、あまり美味しくなかった。弁当箱と箸を分別することなく、一緒に燃えるゴミの袋に入れる。目につかないように押し入れの中にしまい、ビールの最後の一口を飲み干す。今までは欠けたパーツを埋めてくれていたのに、最後の一口を飲み終えるとまた別のパーツが欠けてしまう。きっと明日も飲んで、生産性のない搾りかすみたいな日々を繰り返していくのだろう。

 解放されたくて、俺は窓を開けてベランダに出る。空には灰色の雲がまき散らされていて、星も月も姿を見せない。下を見ると、枝だけになった枯れ木がしゃがれていた。この三階のベランダから飛び降りたら、どうなるだろうかと考える。上手くいって死ぬことができればいいが、失敗したら残るのは苦痛と後遺症だけだ。現状を変える勇気もなければ、死ぬ勇気もない。自分のあまりの臆病さに嫌気が差す。

 結局傷つくのが嫌なだけなのだ。傷つくことを避けてきた結果が、この有様だというのに。

 黒と灰色の境目が曖昧になった空を見上げる。理由もなく肯定してくれる星の光も月の光もなくて、自分はこの世に不要な存在だと思い知る。無愛想で、特別頭が冴えるわけでも、特殊な才能があるわけでもない俺を誰が必要とするのだろうか。今の俺は、ただの五五キログラムの肉塊だ。

 暗澹とした夜は不適切な妄想を駆り立てる。このままでは本当に息絶えてしまう。生きるためには何か別のことを考えなければいけない。少し考えて、コンビニで弁当と一緒に卑猥な漫画雑誌を買ったことを思い出す。今夜はそれで一発抜こう。生きるために命の源泉を無駄にするなんて最低の皮肉だなと、俺は一人でにやつく。窓を閉めた途端に小雨が降りだしてきたのが、ベランダのコンクリートに小さな斑点が現れたことで分かった。

 雨音を背に、俺は冷蔵庫の横にある棚へと向かい、二段目の引き出しを開けた。自慰では得られない、生きているという実感のために。


「弓木(ゆみき)君って、いつもコンビニのパンを食べてるよね。飽きないの?」

 今まで話しかけられたことのない相手に、名前を呼びかけられたことに驚き、顔を上げた。横に立っていたのは、南渕(なぶち)先輩だった。六つ上で、短く切り揃えられた髪に、端正に整えられた眉毛が引き締まった印象を与える。

「そうですね。でも安いですし、おにぎりよりはパンの方が腹持ちもいい気がして、毎日食べてます」

 声が上ずる。南渕先輩は仕事もでき、愛想もよく、同僚との会話も何の苦労もなしにこなせてしまう。竹を割ったような性格で、俺とは正反対のような人間だ。世の中に必要とされる人間とは、きっと南渕先輩のような人を指すのだろう。

「そっか、でもちゃんと栄養は取らないと駄目だよ。最近、弓木君調子良くなさそうに見えるけど」

 南渕先輩がパイプ椅子を引いて座る。机の上に水玉のクロスに包まれた長方形の物体が置かれた。左手の薬指にはシルバーの指輪が、ぴったりと収まっている。

「そう見えます?」

「見えるよ。だって最近の弓木君って、いつも欠伸ばっかりしているでしょ。それに朝の挨拶もなんだか元気ないし。背筋も去年はそんなに曲がってなかったよね。ちゃんと夜眠れてる?」

「あの、最近は一時ぐらいに寝て、八時ぐらいに起きてるんですけど、四時とか五時くらいにはいったん目が覚めますね。寝つきもそんなに良くないかもしれないです」

「やっぱりね。もっと寝なきゃ。弓木君、丁寧に仕事するのはいいと思うけど、最近はペースがあからさまに落ちているから大丈夫かなと思って。体調管理も仕事のうちだから、そこだけは気をつけないとね」

 ありきたりなアドバイスが嬉しかった。社内でも一二を争うほどに仕事のできる南渕先輩は、特に仕事ができるわけでもない俺のことなんてどうでもよく、むしろ目障りだろうと感じていた。しかし、それは違った。南渕先輩の「仕事ができる」には、周囲への気配りも含まれているのだと、改めて気づかされる。

 南渕先輩は結ばれた水玉のクロスを解く。白い二層の弁当箱が現れた。蓋を開けると、弁当箱の中にはバランスよく食材が配置されていた。唐揚げ、ポテトサラダ、きんぴらごぼう、卵焼き。幸福な日常が思い浮かぶようだ。彩りが目に眩しい。

「南渕先輩、それって」

「ああ、これ。弓木君が思っている通り、ウチの奥さんの手作りだよ」

 南渕先輩が弁当箱の二段目の蓋を開ける。胡麻塩が振りかけられたご飯の中央に、梅干しが載っていた。

「美味しそうですね」

「ありがとう。せっかくだから弓木君も一つ食べてみる? 卵焼きあげる」

 そう言うと、南渕先輩は弁当箱の蓋に、淡い黄色の卵焼きを置いた。箸も爪楊枝もないので、親指と人差し指で、卵焼きを挟んで持ち上げる。口に入れると、包み込むようなほのかな甘さがあった。広い草原のような、しばらく味わったことのなかった感触だった。

 昼食を摂っている途中、摂り終わった後も昼休憩が終わるまで、南渕先輩と二人で話した。休日の過ごし方だったり、南渕先輩が飼っているシーズーの話だったり、本当に他愛のない話をした。普段だったら三分も持たずに、席を離れたくなるのだけれど、南渕先輩の声はテノール歌手のように低く、簡単に離れることのできない魅力があった。

 休憩が終わる五分前になって、南渕先輩が席に戻る。その後に続いて俺も席に戻った。ふわふわとした夢心地が、自席についてもまだ覚めずに、頭の中を漂流していた。


 仕事が終わって会社の外に出てみると、雨が降っていた。雲は墨を溶かしたように灰色で、糸のような細い雨が次第に強さを増す。すぐに大雨になり、向かいの家のトタン屋根に打ち付けられる雨音がやかましい。にわかに風も吹き始めている。乗ってきた自転車の籠に雨合羽はなく、鞄に常備している折り畳みの傘では、横から打ち付ける雨を防ぐことはできないだろう。

 途方に暮れて立ち尽くす。時間が経てば少しは雨も弱まるだろうと踵を返して社内に戻ろうとすると、南渕先輩が近づいてくるのが見えた。南渕先輩は車のキーチェンを人差し指に差して、軽快に回している。

「降ってるな。今日は午後の降水確率二〇パーセントだって言ってたのにな。それがこんな豪雨だよ。やっぱり天気予報は信じるもんじゃないな」

「南渕先輩は傘持ってきてますか」

「俺? 持ってきてないよ。俺って傘と日焼け止めは持たない主義だから」

 南渕先輩が右手で顔を掻く。日焼けした手の下に、真新しい肌の手首が覗いた。

「弓木君は会社までどうやって来てるんだっけ」

「自転車ですね。片道一〇分くらいです」

「そっか。じゃあこの雨の中はきついね」

 雨は止むことなくさらに勢いを増す。目の前が一瞬光り、十秒後に背後から雷鳴が聞こえた。南渕先輩は尻尾を踏まれた猫みたいに一瞬驚いた表情を見せる。そして、俺の方を見て笑う。俺も釣られて笑う。

「弓木君、家まで送っていってあげるよ」

「え、でも……」

「でも、じゃない。ほら、ついてきて」

 そう言うと、南渕先輩は雨に向かって勢いよく走りだした。困惑する暇もなく、俺も南渕先輩の後を追うようにして走り出した。十月の雨は、体温を奪うのに十分な冷たさだ。それでも、それに抗うようにメタリックシルバーの南渕先輩の車へと向かって走った。


 南渕先輩に部屋の住所を教えて、車は県道を走っていく。途中で国道にぶつかり、赤信号に止まる。スクランブル交差点を、我が物顔で行き交う人々。一人一人の顔が、わりによく見える。

「弓木君ってさ、いつも家に帰った後、何してんの?」

 エンジンの音だけが響く車内。南渕先輩の唐突な質問が刺さる。

「そうですね……。コンビニでご飯買って食べたり、テレビ見たり動画見たりしてます」

「また、コンビニなんだ」

「また」という言葉が、責めるように聞こえる。また、コンビニ。また、テレビ。また、自慰。また、生きているか死んでいるかも分からない時間を過ごすだろう。このまま家に帰ったならば。

「これから家に来られる?」

 南渕先輩のその言葉は突拍子もなく、全く予想していなかったので、俺はしどろもどろになった。歩行者信号は点滅を始めて、中年が駆け足で車の前を横切っていく。

「は、はい……。時間的には大丈夫だと思います」

 口から出た言葉に南渕先輩は素早く反応した。振り向いて、ニコッと笑ってみせる。その笑顔は和やかだったけれど、既製品のようでもあった。冬に向かっている今の季節よりも温度のないその表情に、心臓が縮こまり血の気が引くような思いが、ほんの一瞬した。

 車が左折する。俺の部屋に行くには右折しなければならないので、どうやら本当に南渕先輩の家に向かっているらしい。俺なんかよりもずっと価値のある家に向かって、車は雨の中を走っていく。コンソールに置かれたコーヒー缶の飲み口に、煙草の灰が付着していた。






 二、さよなら空白地帯



 オレンジ色の照明がテーブルを照らす。ダイニングはさっぱりしていて、余計なものがない。フラットな椅子に座る俺の前には、ペペロンチーノが置かれていた。南渕先輩の妻の小絵(さえ)さんは「急に言われても、簡単なものしか作れないよ」と言っていたが、その言葉通りのシンプルな夕食だった。

 南渕先輩と小絵さんは、駅前にできたカフェの話題で談笑している。小絵さんの薬指に銀色の指輪が光る。小絵さんは背がスラリと伸びていて姿勢もよく、顔立ちも雑誌のモデルのように端麗だ。まさに完璧な美男美女といった組み合わせ。人間はやはり収まるところに収まるのだ。

「弓木さん、どうしたんですか。どうぞ召しあがってください」

 呆然としているところに、視線に気づいた小絵さんが声をかけてきて、現実に引き戻される。「あっ、はい、いただきます」と言って口に運んだペペロンチーノは、絶妙な塩加減で、パスタも柔らかすぎず、鷹の爪の辛さがいいアクセントになっていた。すぐに二口目、三口目と食べ進める。

「とても美味しいです。レストランで出されていてもおかしくないくらいです」

「そうだろ。小絵ちゃんの作る料理はプロにも負けてないからな。俺はこれを毎日食えるんだぜ。どうだ。羨ましいだろ」

 小絵さんは「ちょっと、トモくん言いすぎだってば」と、南渕先輩の肩を軽く叩いていた。満更でもない様子だ。俺は、そんな二人を見て「羨ましいです」とだけ返す。自分とは違う別世界の住人のように感じられて、嫉妬も敗北感も一切出てこなかった。

「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」

「はい、そうします」


 小絵さんが洗い物を終え、「じゃあ私お風呂入ってくる」と言って、バスルームに向かっていったのは、二十一時を過ぎてのことだった。一人になった部屋で俺はスマホを見ながら、妄想を働かせる。小絵さんがシャワーを浴びるところや、湯船に浸かるところを想像すると、気分が高揚した。

「弓木君、今エロいこと考えてたでしょ」

 気づいたら横に立っていた南渕先輩が茶化す。「そ、そんなことないですよ」と慌てて誤魔化すが、南渕先輩は笑って看過し、「まぁ小絵ちゃん可愛いからな」と咎める様子もなく流してくれた。

「そうだ、ちょっと来てくれない?」

 緩まりかけた心が一気にまた引き締められ、警戒を取り戻す。何か良からぬことをされるのではないか。そう直感したが、断るに足る理由が見つからなかったので、言われた通りにソファから立ち上がり、南渕先輩についていった。

 リビングから出て、玄関へ向かう廊下の途中、左側にあった部屋に、南渕先輩は入る。きちんと整頓されていたリビングとは違い、脱ぎ捨てられたジャージが床に転がっている。点けられた照明も部屋中に行き渡ることはない。

 南渕先輩は、正面にある棚の一段目を開けて、細長いガラスケースを手に取った。筒状になっていて、銀色の蓋が目を引くそれは、俺が初めて見る物体だった。南渕先輩曰くアトマイザーといって、香水を入れるために使うらしい。俺には、縁のない代物である。

 さらに、南渕先輩は同じ段からストローを二本取り出した。そのうち一本を俺に向けて、投げかける。慌ててキャッチすると、ストローはプラスチック製ではなく、しっかりとした質感を持ったガラスのストローだった。ひんやりと冷たい。

 次に南渕先輩が開けた二段目の引き出しには、クリップやシールなどがごちゃ混ぜになっていた。その中から南渕先輩が取り出したのはライターだった。コンビニで買うような百円ライターだ。ポケットにしまう仕草を含めて、この日、俺は一番南渕先輩を身近に感じた。

 最後に取り出されたのは、小さな閉じ口付きのポリ袋。中には真白の粉末が入っている。

「南渕先輩。それって……」

「ああこれ。憂さ晴らしだよ」

 そう言うと、南渕先輩は粉末をアトマイザーに注いだ。粉末はきめ細かく、まるで白い砂浜のようだった。ポケットから百円ライターを取り出し、点火スイッチに親指が当たる。カチッという音とともに、オレンジの火が灯る。南渕先輩はそれをアトマイザーの下に持っていった。アトマイザーの底で粉末がじっと溶け始めていた。

 南渕先輩はガラスのストローを口にくわえ、頬と喉を動かす。気化された煙は透明だったが、ストローの先端に集まっていくことが、俺には何となくだが分かった。ガラスのストローを高揚が上っていく度に、南渕先輩の顔面は喜色が強まっていく。誘拐犯が人質に銃を突きつけるような、実に不敵な笑みだった。

「南渕先輩、何やってるんですか」

「だから、憂さ晴らしだって。気晴らし、皴伸ばし、レクリエーション。エブリシンガナビーオーライだよ」

「なんで英語なんですか。それに、こんなことやってたらダメなんじゃ」

「じゃあ、弓木君は会社でストレス感じないの? この仕事上手くいかねぇなーとか、あいつうぜぇなーとか。これやれば、そんなこと忘れられるよ。フィールズライクヘブンだから、これ」

「でも、奥さんにバレたら……」

「大丈夫大丈夫。小絵もやってるから。あいつも風呂から上がった後、いつもやってるから。でも、今日は小絵に先んじて、弓木君にこうやって勧めてるわけじゃない。ね、やるよね?」

 俺は、ガラスのストローを握り締める。いくら力を込めても割れないくらいには頑丈だ。

「で、でも……」

「やるよね? なぁ弓木?」

 先程まで笑っていた南渕先輩の顔が急に強張り、眉間に皴が寄る。俺たちの距離はそれほど近くなかったが、南渕先輩が眼前にいるように感じられた。

 「はい、やります」と伝える。南渕先輩は一転して上機嫌に戻り、机に向かっていて、また新しいアトマイザーとポリ袋を取り出した。アトマイザーは三つあり、一つには「サエ」と書かれた白いシールが貼られていた。

 新たに粉末がアトマイザーに開けられる。南渕先輩が下からライターを当てると、粉末は再び泡立っていく。南渕先輩の真似をして、俺もガラスのストローを内容物に向けた。恍惚する南渕先輩の横で、俺は始めの方は息を止めて、煙を吸わないようにしていた。だが、頭の片隅から好奇心は広がりを見せていく。その快感を知りたいという欲求は、とめどなく溢れてくる。気づけば口を開けて、煙を吸い込んでしまっていた。

 学生のときの薬物防止教育で聞いたことがある。薬物を使用すると脳がパッと晴れて、自分には何でもできると、万能感が湧いてくると。俺は吸うときに、明日の仕事のことも、やかましい同僚のことも忘れることを期待した。

 だが、現実は期待を越えてはくれなかった。頭の奥が少しツンとする感覚はしたが、全く大したことはない。気分も少しは高揚したが、罪悪感の方がまだ勝っている。正直こんなものかという感じだ。何が、エブリシングガナビーオーライだ。

「どう、弓木君? 気持ちいい?」

 そう聞いてくる南渕先輩の声は弾んでいる。軽妙な声色はシャボン玉のように脆い。だから、壊さないようにするためには、「はい、最高です」と言う他ない。

 本意に反していたとしても、すぐに見透かされるようなぎこちない笑顔でも、しゃにむに演じるしかない。今の俺はちゃんと笑えているのだろうか。それでも、南渕先輩は満足気に頷いたので、何とかこの場はやり過ごせたらしかった。

「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」

 あやふやに頷く。何もなくなったアトマイザーの底が、一瞬照明を反射して光り、今日は浴びることができなかった日光を思い起こさせた。 







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以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。

『アディクト・イン・ザ・ダーク』は、A5判で196ページ。800円というお買い得価格で頒布します。

さらに、他にも3冊を頒布予定ですので、もし気になったのであれば、エー17『胡麻ドレッシングは裏切らない』までお越しいただけると嬉しいです。

何卒よろしくお願いします。



この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。

こちらのページは5月16日(日)、第三十二回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『これ作品集 午前四時三〇分のモノローグ』収録の『柘榴と二本の電波塔』の試し読みサイトとなっております。

とある作家と編集者のお話です。今回は13p、およそ7000字分を無料公開いたします。

では、どうぞ。






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 西から吹く微風が、若葉をさざめかせている。無情から切り離された暖かな情動が、頬に触れる。世界が一瞬で切り替わる心地がした。チャコールグレーのアスファルトも、黄緑がくすんだ雑草も、底の見通せない濁った川も、目に飛び込んでくる全ての事象が、今は愛おしい。

 心の奥から爪の先まで、想像もできないほど充足していき、自立することができなくなる。日盛りの惜しみない太陽光に、溶かされていくアイスクリームみたいだ。静かに、着実に崩れ、原形を留めなくなっていく。蜃気楼に隠されていく。崩壊を食い止めるかのように、ヒロトは私の背中に大きな両手を回して、強く抱き寄せてくれた。

 ヒロトのにべもない優しさに包まれると、呼吸をするという当たり前が、当たり前ではなくなる。頼りがいがあるとは言えない細やかな腕と、華奢な胸板が波打つのに呼応して、私の心臓も弛緩して、鼓動を緩める。粒子のようにひらりとした髪が、顔に当たってくすぐったい。吸い上げるように私の形は元に戻り、感情の結束はより確固たるものになった。

 私は生まれ変わる。きっとこの先、ヒロトが抱擁してくれる度に。何度でも。


 私たちは、唇を重ね合わせた。


      *


 天井にキーボードの音が、シャボン玉のように弾けて消える。入り口の隣にある本棚には、水色の背表紙が凸凹に浮き出ている。広い窓からは、プリズムに濾過された日光が、ふんだんに取り入れられていて、室内には空気清浄機が慎ましく稼働する。スーツはクリーニングから帰ってきたばかり。飄々とした開放感があり、私は自分の職場を、入社したときから、密かに気に入っていた。

 タイムカードは、今日も一日を起動する。青い背もたれの椅子に座り、コンピューターを立ち上げる。メールソフトを起動すると、深夜三時に一件のメールが届いていた。添付されたファイルを開くと、画面に映し出されたのは、産声を上げたばかりの文字の羅列。作家が苦心して、眠気に負けそうになりながらも、何とか書き上げであろう原稿。目が潤う。一文字一文字に乗り移った作家の魂を、最良の状態で感じられるこの時間のために、会社に来ているようなものだ。

 画面からいったん目を離して、紙パックのミルクティーを一口飲み、体に活力を巡らせる。一息つくと、図ったかのように低い声が、意識に割り込んできた。

 顔を上げると、立っていたのは、一八〇センチはある長身に、たっぷりと蓄えられた口髭が威圧的な男。文芸雑誌『柘榴』の編集長、道岡大剛だ。その眼光の鋭さに、自分が何かしでかしてしまったのかと慄いてしまう。

「関、今話できるか」

「は、はい。大丈夫です」

 編集長の畏怖的な雰囲気に圧されて、どうということはない口調も、怖く感じられてしまう。思わず立ち上がる。手を軽く机にぶつけてしまった。

「来月、中美が『ヤングペンギン』編集部に異動することになったのは知ってるな」

「もちろん、知っています。ムードメーカーの中美先輩がいなくなると、編集部も寂しくなっちゃいますよね」

 せめてもの抵抗で、無理やりにでも笑顔を作ろうとする。しかし、表情筋が上手く動いてくれず、彫刻の失敗作のような顔になってしまう。編集長は当然のことながら笑っていない。緊張で私を支配しようとしている。

「それで、中美の担当の引き継ぎをしなければならないんだが、お前には三澤諒先生を担当してほしいんだ」

「三澤先生、ですか」

 一瞬、信じることができなかった。三澤諒といえば、瑞々しい文体と感傷的なストーリーで、幅広い世代から人気を博している若手作家だ。年齢も私と一歳ぐらいしか、変わらないはず。同年代の人物の中で、最も尊敬している存在と言ってもいい。そんな三澤先生と一緒に仕事ができるなんて。

 心の中で密かにガッツポーズを作った。だが、そのガッツポーズも、すぐに言いしれない不安に消されてしまう。私に三澤先生の担当が務まるのだろうか。しばし、視線が定まらなかった。少し落ち着いてから視線を戻すと、編集長は毅然とした態度で、腕を組んで立っていた。

「編集長……。ありがとうございます……」

 意図しているわけではないだろうが、編集長の眼差しは、私を睨んでいるように感じられた。この緊張感では、浮いた言葉は許されないだろう。脳裏に浮かんだ言葉を、かき消し続ける。

「本当に大丈夫か?」

「大丈夫だと思います。多分……」

 流石の編集長もこれにはやや戸惑った様子で、私には見えない言葉を、一つ二つ吐き出していた。もしかしたら、なかったことにされるかもしれない。それはあまりに嫌なので、強圧な意思に逆らうように顔を上げて、編集長を見つめる。三秒も目を合わせることができない。

 編集長は一つ頷いた。どうやら納得してくれたらしい。

「ただ、三澤先生はちょっと特殊でな。他の先生方とは、少し事情が異なっているんだ。初対面だとおそらく驚くと思うが、それでも大丈夫か」

「それは、会ってみないと、分からないです」

「それもそうだな。まあお前なら何とかなるだろ。期待してるぞ」

 私にさりげなくプレッシャーをかけ、編集長は向こうへと声を飛ばした。低い声は墜落することなく、壁まで届いていく。

「おい、中美。三澤先生と連絡取れてるか」

「取れてますよー。ていうか先月伝えたじゃないですか。明後日の十四時だって」

 ひどく軽薄な声だ。紙を捲る音の方が、まだ質量が感じられる。だけれど、中身先輩の竹を割ったような性格に、部内の危機が何度救われたか分からない。編集長の口角が、この日初めて緩んだのを、私は見逃さなかった。

「そういうことだから、よろしく頼むな」

「はい……頑張りたいと思います……」

 絞り出した声のあまりの頼りなさに、不安が活発になる。覚悟を決めなければならない。今度の仕事は、私にとって大きなターニングポイントになる。なぜだか確信めいた予感がしていた。

 窓枠の間に掲げられている時計を眺める。秒針の動きが、いつもより綽然と感じられた。



 三澤先生の待つ部屋へは、エレベーターを二つ乗り継いで行かなければならなかった。エレベータから初めて目にした内廊下は、亜麻色のカーペットが敷かれていて、そこらのビジネスホテルよりも上等だった。不思議な浮遊感に戸惑いながらも、内廊下を奥に向かって歩いていく。照明もどことなく抑えられている気がする。中美先輩は地に足をつけて、ズンズン進んでいく。私があのように我が物顔で歩けるようになるには、きっと一年や二年では足りない。

 ロビーで三澤先生の了承は得ていたので、中美先輩が木目調のドアの前に立つと、すぐにドアは開いた。横にスライドする自動ドアが、私たちに世界を広げる。こんなところにまでお金をかけるなんて、新築は違う。知らないうちに羨望の眼差しを向けていて、中美先輩にやんわりと注意される。

 ドアが開くと、玄関には三澤先生が立っていた。

「こんにちは。中美さん。いつもご足労ありがとうございます」

「ういーす。三澤先生。今日もよろしくっす」

 雑誌のインタビューでも、写真がページの四分の三ほどを占める三澤先生は、雑誌やテレビで見る以上に格好よかった。背は高いが優しい雰囲気を醸し出していて、圧迫感は感じない。足も長く、黄金比という言葉が脳裏に浮かぶ。スタイルがいいばかりか、鼻筋は高く通っているし、大きな目の主張は凄まじく、薄い唇の下にある泣き黒子がセクシーだ。爛々とした目で見つめる私にふっと笑いかける。笑顔も爽やかで、ファッション雑誌に写っていても、他のモデルと遜色はないだろう。

 それを、この先輩は。百回頭を下げたい気分になる。

「よろしくおねがいします。あ、中美さん、もしかしてそちらの方が、先月おっしゃっていた新しい担当さんですか」

「そうそう、コイツがウチの関。まだ、三年目なんで色々教えてやってくださいや」

「よ、よろしくお願いしまっ」

 緊張で語尾を言い終わる前に、舌を噛んでしまった。一瞬感じた羞恥を、床に押し付けるかのように頭を下げる。ファーストコンタクトに失敗し、心は喚きだしそうだった。

 しかし、顔を上げると、三澤先生はもう一度、微笑んでくれていた。許されたという気持ちになったのと同時に、何かをそっと隠されたような感じもした。

「関さん、こちらこそよろしくお願いしますね。さあ、詳しい話は中でしましょう。どうぞ上がってください」

 よかった。三澤先生は私の失態を、心配していないようだ。気を取り直して、よろしくお願いしますと言おうとしたが、今度は「が」のところで噛んでしまう。「さっきより早いとこで噛んでんじゃねーか」と、中美先輩が乾いた笑いを漏らしていた。


 一歩部屋の中に入ると、まるで台本もなく舞台に放り出されてしまったみたいに、自分がひどく場違いに感じられた。どこもかしこも洒脱で、高級感が私の胸をチクチク刺す。リビングに置いてあるソファはシックなブラウンで、いかにも座り心地がよさそうだ。私はまだソファに選ばれていない。中美先輩は当然のように、三澤先生に案内される前に腰かけて、両手を組んでいたけれど。

「関さんも、どうぞおかけになってください」

 包み込むような笑顔が、私の壁を取り払う。三澤先生に促されるがままゆっくりと座ってみると、ソファは私の体重の分だけ凹み、私の存在を許してくれた。少しごわごわとした布地が気持ちいい。

「今、お飲み物を用意しますね。中美さんはいつもの通りコーヒーでいいですか。関さんは……」

「あ、こいつはカレーでいいっすよ。この前も五日連続で食べたって言ってましたし」

「み、三澤先生、そんなわけないじゃないですか。あの、私もコーヒーでお願いします」

 中美先輩の笑えない冗談に、体温が一度上がる。背中に汗が滲みだすように感じた。


 三澤先生が大仰なコーヒーメーカーで淹れてくれたコーヒーは、苦すぎず、酸味がいいアクセントになっていて、美味しかった。喉から少しずつ緊張が和らいでいく。三人とも全く同じタイミングで、コーヒーカップから口を離したのが、妙に可笑しかった。

 だけれど、三澤先生が持ってきてくれたトレーの上には、コーヒーカップが四つあった。そのうち一つはミルクを入れたのか、色が少し薄い。三澤先生は甘党なのかなと思ったけれど、三澤先生が飲んだのは、何も入れていない方のコーヒーだった。では、もう一杯のコーヒーは誰に?

 そんな私の疑念をよそに、中美先輩は、自らが『ヤングペンギン』編集部に異動になることを、改めて三澤先生に伝える。三澤先生は気丈に振る舞っていたが、抑えきれない不安が、黒髪の上で渦を巻いていた。どうやら三澤先生にとっては、初めての担当交代らしい。私も心許ないし、三澤先生も心許ない。二人の心許なさが両輪となって、混乱の底なし沼に沈んでいかないように、気合いを入れ直さなければ。

 三澤先生には他にも三社の担当がついていること、打ち合わせは、角を曲がったところにある喫茶店で行うことが多いこと、連絡は午後の方が繋がりやすいこと。一つの連絡事項も聞き逃すまいと、私は逐一メモを取った。三澤先生にも読めるように最低限の綺麗さで、けれど、なるべく素早く。

 メモ帳の三ページ目を捲ろうとしたとき、背後からドアが開く音がした。裸足なのか張り付くような足音がする。

「おー、三澤おはよう」

「やっと起きたんですか、木立さん。今日の二時に中美さんが来るから、それまでには起きていてって言ったじゃないですか」

 振り返って、声の主の全容を視野に入れる。木立と呼ばれたその人物は、鈍色のジャージを着ていて、背丈は三澤先生よりも一〇センチメートルほど低かった。目も鼻も口も、道行く百人の顔をコンピューターソフトで合成したら、こうなるのではないかというくらい平凡だ。それなのに、体つきは三澤先生よりもガッチリしていて、幾分横に長いので、その個性は埋没してはいなかった。アッシュブラウンに染められた髪の毛が、盛大に跳ねている。

「ああ、わりぃわりぃ。すっかり忘れてたわ。ごめんな。で、この中美さんの横に座ってるのが、新しい担当さん?女なんだ」

「そうですよ、こちらの関さんが新しい担当さんです」

 〝木立さん〟なる人が何者なのか。三澤先生とはどういった関係なのか。事情が何一つ呑み込めなかったが、整頓されたリビングは、私に挨拶を強要している。慌ててバックから名刺ケースを取り出し、一枚抜き取った。

「はじめまして。陽燦社の関と申します。よろしくお願いいたします」

 〝木立さん〟は、右手で私が差し出した名刺を、ポイントカードみたいにつまんだ。一見して名前を確認すると、名刺をズボンのポケットにしまい、私を観察する。黒猫のような鋭い眼で、顕微鏡でも覗くように。心の最深部まで見透かされていると、確かに感じた。

「ねぇ、アヤカちゃん。年いくつ?」

 いきなり諸々を飛ばした「アヤカちゃん」呼びに、心身が動揺する。コーヒーを少し飲んでから答える。カップを持つ手はかすかに震えていた。

「二十五です」

「へぇ、二十五。若いね。リョウと一つしか違わない」

「ちょっと、木立さん。いきなり『アヤカちゃん』呼びは失礼じゃないんですか。関さん、驚いてるじゃないですか」

「いいじゃん別に。減るもんじゃあるまいし。文句あんの?」

「いや、特にないですけど……」

「まあまあ、皆一回座ろう。ほら、木立くんも。引き継ぎの続き、続き」

 中美先輩が、そう場を宥めると〝木立さん〟は、三澤先生の横に座った。足を大っぴらに開けて座っているので、三澤先生が使えるスペースは狭くなり、窮屈そうだった。〝木立さん〟は、温くなったミルクコーヒーを口に運んで、満足そうな顔で小さく頷いた。私という人間の品定めはもう終わったのだろうか。

「関、改めて紹介するな。こちらが木立巧実くんだ」

「うっす。よろしく」

 その挨拶に遠慮は感じられない。こちらに向けてはにかんできたけれど、平平凡凡たる笑顔だった。私の疑念はより密度を増し、胸の中で膨らんだ疑問が、吐き出される。

「あの、木立さんは三澤先生とどういった関係なんでしょうか。もしかしてお付き合いされてるんですか?」

「アヤカちゃん、何言ってんの。俺と三澤はそういう関係じゃないよ。大学からの友達」

 〝木立さん〟が三澤先生に「な?」と同意を求める。三澤先生は糸で引っ張られたかのように頷き、切なく笑った。私はそれを、私だけに送られたメッセージとして受信する。

「木立さんは、僕の二つ上の先輩なんです。大学の頃から木立さんにはよくしてもらっていて」

 三澤先生は、笑顔の仮面を崩さない。目の前の三澤先生と〝木立さん〟の関係は、単なる先輩後輩の関係ではないように感じた。主人と使用人に近いだろうか。三澤先生の命の綱は〝木立さん〟が握っている。直感よりも深い部分が、そう私に教えてくるのだ。

 中美先輩が何の気なしに話を続ける。

「関、木立くんも小説を書いてるんだ。彼、結構上手いよ。大衆的なセンスがあって、それを過不足なく言葉にできる。『売れる』小説を書かせたら、彼に並ぶ人はあまりいないんじゃないかな」

「アヤカちゃんも、きっと俺の書いた小説、読んだことあると思うよ。だって、俺の書いた小説が好きそうな顔してるもん」

 どんな顔だと感じながらも、思索を巡らせる。〝木立巧実〟という作家は、見たことも聞いたこともない。もしかしてペンネームを使っているのかもしれない。そうだとしたらお手上げだ。しかし、ふとジグザグした視線が、私に向けられていることに気づく。視線の発信源は他ならぬ三澤先生。

 目が合う。縋るような瞳が寂しい。まさか。

「三澤先生は、書いていないんですか」

 言葉が宙に浮く。誰かが強い力で、かき消してくれることを願う。

「そうだよ。〝三澤諒〟の正体は木立くんだ。木立くんが、三澤くん名義で小説を書いているんだ」

 叶わなかった。

「三澤先生、本当なんですか。三澤先生が書いていない、なんてことないですよね」

「いや、関さん。申し訳ないけど本当です。〝三澤諒〟は僕じゃない。木立さんなんです」

 三本の矢に、私の心臓は貫かれた。積み上げてきた虚像というレンガが、重機で容赦なく壊されていく。コーヒーの水面に、波紋が広がる。

「それって、つまりはゴーストライターってことですか」

「やだなー、アヤカちゃん、その言い方。『共著』って言ってくれよ。一応、リョウもアイデア出してくれるんだからさ。まあ、あんま参考にならないけど」

「今の僕があるのは、木立さんのお陰なんです。関さん、裏切ってすいません。でも、分かってください。これは、僕と木立さんに与えられた役目なんです。僕が望んでしていることなんです」

「いいか、関。編集を続けていれば、これからもこういった場面にぶち当たる。編集長はお前のことを見込んで、早いうちに慣れておいた方がいいと考えて、この二人の担当につかせたんだ。これはお前の将来のためなんだぞ」

 そんなこと言われても、だ。世界が一瞬にして転覆し、本当は嘘で塗り替えられる。三人の言葉は耳朶を滑っていき、バクテリアに間もなく分解されてしまう。私が今まで読んできた言葉。何度も脳内で繰り返した表現。励まし。救い。そんなものは所詮、まやかしに過ぎなかった。感覚は夜に支配されていく。目の前のコーヒーを一気に飲み干す。神経は鈍麻していて、コーヒーの味は、殴りたくなるくらい透明だった。

 窓の向こうにはタワーが二つ、背中を向けるように直立している。視界はぼやけ、景色はあやふやにしか見えない。だけれど、片方の電波塔だけははっきりと見えた。太陽の光を吸収して、自分より低いもの全てを優しく撫でる。

 それは、相手が何を望んでも、決して有無を言わせない、不遜な姿だった。






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以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。


『これ作品集 午前四時三〇分のモノローグ』は、『柘榴と二本の電波塔』他3編を収録し、計312ページ。A5判で1000円というお買い得価格で頒布しております。

さらに、他にも3冊を頒布予定ですので、もし気になったのであれば、エー17『胡麻ドレッシングは裏切らない』までお越しいただけると嬉しいです。

何卒よろしくお願いします。
 



こんにちは。これです。


季節も四月に入りようやく春めいてきましたね。もはやコートもいらない暖かさで、私は今のところ花粉症もないので、過ごしやすくて嬉しく思います。しかし、コロナも第四波が来ており、特に大阪は大変なことになっていますね。マスクをしなくてもいい日はいつ訪れるのでしょうか。今年中にワクチン打てるかな。


さて、今回のブログも月間映画ランキングです。3月には計17本の映画を鑑賞しました。それぞれの映画に一言コメントもつけて、ランキング化しました。果たして一位に輝くのはどの映画なのでしょうか?


何卒よろしくお願いします。








第17位:太陽は動かない


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ドーン!という間の抜けた予告編から嫌な予感は漂っていましたが、映画本編でもその悪印象は覆りませんでした。アクションはそこまで悪くなかったものの、回想と現代を交互に繰り返すストーリーテリングが上手くいっているとは言えず…...。決めのセリフが聞き取りづらかったのも惜しいところ。しかし、何より衝撃的だったのはエンドロールです。多部未華子さんや吉田鋼太郎さんなど、映画にないシーンがどんどんと映されるのですから。存在しない記憶を見せられて、終わった後に戸惑いが一番先に来てしまいました。








第16位:KCIA 南山の部長たち


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KCIAという、アメリカで言うところのFBIに当たる機関の部長が、紆余曲折を経て大統領を暗殺するこの映画。保身のためならば、ばっさばっさと側近や人民たちを切り捨てていく大統領に震えあがり、喜楽を奪われたイ・ビョンホンのプレーンフェイスが事態の深刻さを伝えてきます。日本では、さほどヒットしないであろうこの映画が韓国でヒットしたことはお国柄の違いを感じさせますね。ただ、緊迫感のある静かな映画だったので、私は何度か落ちてしまいました。通して観れたらもっと上に来ていたと思います。








第15位:心の傷を癒すということ 劇場版


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NHKの同名ドラマを再編集した映画です。うっすらと感動した記憶があったので、観に行きました。震災で心の傷を負った人たちに向き合う精神科医の話。だと思っていたのですが、診療よりも主人公の生い立ちがメインになっていました。「弱いのは悪いことじゃない」や「誰も一人ぼっちにさせない」など、心に沁みる言葉は多いのですが、肝心の診療シーンが少なく、やや説得力に欠けていたかなと。たぶんドラマ版は診療シーンも数多くあったと思うので、ドラマ版の方がいい作品なんだろうなというのは、観終わって最初に来た感想でした。









第14位:ミナリ


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アカデミー賞ノミネート作品も、個人的にはあまりハマらずこの位置に。トラブルもありますが、家族の絆が深まっていく過程を淡々と見せられて、イマイチ乗り切れませんでした。離婚話がやたらとリアルだったり、おばあちゃんに尿を飲ませるといういきすぎたクソガキムーブがどうしても受け入れられなかった。最後も良いように締めているけれど、何一つ解決しとらんやんけと思ってしまいましたし。熱狂の意味が違いましたね。一番印象に残っているのはひよこのオスメスを見分ける仕事です。こんなベタなことするんだって思いました。









第13位:空に聞く


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震災後東北に移住し、いくつものドキュメンタリーを発表してきた小森はるか監督の作品です。阿部さんというラジオ・パーソナリティに密着しており、日常的な営みを淡々と描き出すこの映画。最初は市からの発表を間違えず読み上げることに集中していた阿部さんが、住民の声を伝えることが大事なんだと語り、実際に祭りの様子や、凧を揚げて追悼するシーンが収められ、編集されてはいるものの記録映画として高い価値があります。震災から十年。まだ復興は道半ばですが、人がいる限り小さな花はずっと咲き続けるのだと感じました。










第12位:FUNAN フナン


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アヌシーでグランプリを受賞したフランスのアニメ映画。独裁政権下のカンボジアを舞台にしており、息子と生き別れてしまった夫婦の悪戦苦闘を描きます。革命に賛同しないものは、ばったばったと処刑されていく辛辣な描写をはじめとして、自殺や飢餓、銃殺に売春など目を覆いたくなるような悲惨なシーンがとにかく多い。最後は一応ハッピーエンドで終わりますが、それでも気分は全く晴れません。映画には歴史を記録する機能があるとはいえ、バランスのとり方があまり上手だと私には感じられませんでした。シンプルな線は良かったんですけどね。









第11位:ブレイブ 群青戦記


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アレなキャッチコピーの割にはなかなか奮闘した映画だと思います。序盤の学生がバッタバタと殺されていく地獄絵図は、後の展開への期待を膨らませ、新田真剣佑さんのアクションや三浦春馬さんの最後の演技など見どころも十分。ただ、落ち武者が現代に適応するのが早かったり、ラストで唐突に馬に乗れるようになっていたりとツッコミどころも多かった。大作邦画特有のウェットな演出もてんこ盛りで、観ていて食傷気味です。落としどころは良かっただけに、惜しいという印象が残ってしまいました。













第10位:二重のまち/交代地のうたを編む


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第13位の『空に聞く』と同じく小森はるか監督の映画がランクイン。震災後の陸前高田市にやってきた四人の若者が、地域に暮らす人の話を聞いて、映画を観ている人に語りかける、伝えていくというただそれだけの映画です。劇伴も少なく、黒地を背景にただ語っているだけという場面も多いので、少し落ちかけはしましたが、それでも伝えていくこと、繋いでいくことの重要性を考えさせられる映画でした。


タイトルの『二重のまち』とは、震災後にかさ上げをしている陸前高田のことを指していて、寓話的な小話として劇中何度か挿入されます。私たちが、今暮らしている土地もスクラップアンドビルドを繰り返してきたわけで、過去を伝えるというどこでも共通の問いが何度も投げかけられます。この映画は最後はポスターに映っている四人が伝えていくことの意味について話し合うのですが、結局答えは出ないまま、映画は終わります。なぜ伝えるのか、どのように伝えるのかは映画を観た私たち自身が考えるしかないと、突きつけられたようでした。








第9位:ノマドランド


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ゴールデングローブ賞を獲得し、今年度のアカデミー賞の有力候補とも目されているこの映画。何といってもその特徴はアメリカの雄大な景色を、スクリーンいっぱいに堪能できることでしょう。ロードムービーという特性を生かした画作りは、眠りを誘ってしまうくらい心地良いです。実際私も何度か落ちかけましたし。絶対そういうオーラ出てますよ。静かすぎる。


話としては主人公である中年女性が、夫の死をきっかけにノマドと呼ばれる放浪民になるというもの。ホームレスではなく、ハウスレスと自称していますが、交流をしていた同じノマドがハウスとホームを同時に得ていき、徐々に一人になっていくのが辛かった。だけれど、それは永遠の別れというわけではなく、ノマドには「さよなら」という言葉がない。あるのは「またいつか」。そして、それは必ず現実になる。喪失でつけられた主人公の心の傷を、優しく癒していくムードが評価されたのだと思います。時間が進むにつれて、しみじみと良いなと感じました。









第8位:騙し絵の牙


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めちゃくちゃ面白い映画が8位にランクイン。出版社で廃刊間際の雑誌を、熱い情熱で救う編集者の話。かと思いきや、あるプロジェクトの存亡をかけた社内のパワーゲームがメインのこの映画。最初のテンポの速いカットバックから、息つく間もなく嘘や謀が畳みかけられます。登場人物全員とはいかずとも、8割の人間が嘘をついていて、騙し合いバトルとしての満足感が高い。


当て書きされた大泉洋さんの食えない雰囲気はもちろん、松岡茉優さんの対峙した相手を引き立てる受けの演技も良かったです。國村隼さんとのシーンは『ちはやふる』を思い出して、胸がジーンとなりました。


結論としては、今の状況のままなら座して死を待つのみ。だから、とにかく動かなければならないというものでしたが、それがイコール新しいことをするに結びついていないのが良かったと思います。温故知新という言葉があるように、古いものでもやりようによっては戦える。新しいものだけを賛美しない姿勢に私は、思わず拍手を送りたくなりました。










第7位:野球少女


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タイトル通り天才野球少女が、プロを目指す映画が7位にランクイン。周囲は露悪的ではなく、むしろ優しい部類に入るのですが、それでも女性にプロは無理だという空気が支配的。最大の理解者となるべき母親も懐疑的で、主人公であるスヨンにはいばらの道が待ち受けています。ですが、コーチと出会い特訓をしていく中で、少しずつ理解者を増やしていく。師弟ものの面白さがあります。


前例がない中でも必死に頑張るスヨン。その頑張りに周囲が動かされていくという王道のストーリーが観ていて気持ち良かったですね。基本的に穏やかに進んで行くのですが、静かな熱量がありました。母親がデレる終盤のシーンは思わずホロリとしてしまいましたね。


そして、私が一番グッときたのがそのラスト。スヨンはプロ入りを果たすわけですが、それよりも高校の野球部に女子部員が入部するというのが良くて。スヨンが前例を作ったことで、少しずつ社会が変わっていく。チャレンジは決して無駄じゃなかったことを証明する見事なラストでした。











第6位:シカゴ7裁判

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ネットフリックスの映画っていつでも観られるから、かえっていつまでも観ないっていうことありますよね。この映画が配信されたのも半年くらい前で、話題になってはいたのですが、なかなか観る気が起きず、今回映画館で上映されたので、ようやく観てきました。


ベトナム戦争への抗議デモを扇動した罪に問われた7人。真っ当な裁判もので専門用語も多数飛び交い、なかなかついていけないところも正直ありましたが、それでもスタイリッシュな編集と音楽が印象的でした。冒頭のシーンで表される通り、裁判は彼らを有罪にすることが既定路線。百何回と一応公判は行われますが、それでも証人に証言をさせなかったり、口に猿轡をつけて物理的に被告人を喋れなくしたりと、今の裁判では考えられないような仕打ちが続きます。特に裁判長の態度は酷かったですね。


そんな中でどう無罪にしていくかに焦点が当てられがちですが、この映画のラストは有罪が決まっていることを逆手に取ります。戦争の悲惨さを訴えるラストは、反戦という七人の目的を果たしたもの。まさに試合に負けて勝負に勝ったという趣です。実際の映像も多く用いられて、真に迫る。個人的にはこの映画がアカデミー賞を獲ると良いなと思います。














第5位:ガンズ・アキンボ


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『ハリー・ポッター』シリーズのイメージをぶち壊すかのように、トンチキ映画に出続けているダニエル・ラドクリフ。彼が今回演じたのは、ポスターを見て分かる通り、両手に拳銃を取りつけられた男の悪戦苦闘です。


主人公はゲーム制作を仕事にしていますが、普段はSNSへのクソリプに余念がない内弁慶。違法配信のデスゲーム・スキズムにクソリプを送ったことで、拳銃を取り付けられ、最凶の女殺し屋ニックスと戦うことになってしまいます。最初はニックスがかっこいいだけの映画だと思っていましたが、徐々に主人公が覚悟を固めていく展開は、意外なほど王道で熱いものがありました。ちゃんとどんでん返しもありましたしね。妄想でミスリードを誘ったのは上手いと素直に感心しましたし。


それに、主人公が覚醒してのガンアクションは、この映画が最も力を入れたところで、実際一番の盛り上がりになっています。この映画は人がバンバン死ぬのですが、それをあたかもゲームのように見せることで、一種の爽快感を生んでいました。主人公の属性を生かした、好演出でテンションも上がります。あまり期待していなかったのですが、観た後にはすっきりとした気分で映画館を後にできる思わぬ掘り出し物でした。










第4位:藁にもすがる獣たち


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原作は日本の小説ですが、なぜか韓国で実写映画化されたこの一作。今月の締めとして、そこまで期待せずに観に行ったのですが、想像以上の面白さに観ている間ずっと興奮しっぱなしでした。


映画の内容はバッグに入った10億ウォンを巡って、闇金や役人、セックスワーカーや一般人が仁義なき戦いを繰り広げるというもの。序盤は視点がめまぐるしく変わっていき、後半の展開への種まきをしてきます。どの登場人物もが金を必要としているからこその骨肉の争い。人がけっこうあっさりと死ぬので、緊張感は最後まで途切れません。


その中でも私が一番ゾッとしたのは、セックスワーカーを雇う女社長ですかね。淡々と死体の捨て方を指南したり、不利になると思えばためらわずに刺殺したりと、人の命をなんとも思っていないような冷酷さが、逆にたまりませんでした。


映画は点と点で進んで行きますが、ある瞬間からまさしく一本の線になって、ストーリーの全体像が浮かび上がってきます。その種明かしの快感と言ったらなかったですね。オチも完璧でしたし、見逃さないでよかったなと思いました。巻き込まれたパンピーの親子は可哀想でしたけど。


ただ、観終わった後、あまりの面白さに悔しくも感じたんですよね。どうしてこれを邦画でできなかったんだろうって。別にどこの国が映画化しても良いし、韓国ノワールだからこそ出せた味が大きいんですけど、それでもこの原作を逃してしまったのは、日本映画界にとってもったいないなと感じてしまいました。









第3位:シン・エヴァンゲリオン劇場版


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テレビ放送開始から26年間続いてきた『新世紀エヴァンゲリオン』の完結編にして、今月の本命に位置する映画です。エヴァと同い年の私は、今年に入ってから急いで旧劇から見始めて、公開当日に鑑賞しましたが、間違いなく今年を代表する映画だと感じました。アニメーションのクオリティは、名の知れた制作会社がいくつも参加しているので、言わずもがな今の日本アニメの最高峰といえる出来なのですが、それ以上に話に感動しましたね。


Qの最後でカヲル君が、シンジに向かって「縁が君を導くだろう」と言っていましたが、まさにその言葉通りの映画でした。Qで完膚なきまでに叩きのめされたシンジを再び立ち上がらせたのは、トウジやケンスケ、委員長にレイ、アスカといった人の縁に他なりません。皆がシンジのことを想って優しくする様子は、それまでのエヴァシリーズでは見られなかったもので、前半の第三村のシーンだけで、観て良かったなと感じました。


そこからも人の縁にシンジは導かれ、ゲンドウとも初めて腹を割って話し合います。それぞれのキャラクターも、人の縁に救われていき、最後は現実も捨てたもんじゃないよという結末。エヴァほどのビッグタイトルになると、人生を狂わされた人も大勢いると思うんです。本質的なテーマ(だと思う)人間賛歌には目もくれずに、世界の謎について考察本を出していた悪いオタクとか。彼ら彼女らに対して、現実は生きるに値するものだと示したのがこの映画だと思います。


今までも「現実を生きろ」というメッセージはありましたけど、伝え方がずっとマイルドになっていて、庵野監督のまごころみたいなものを私は感じましたね。









第2位:まともじゃないのは君も一緒


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公開規模は大きくないものの、朝ドラの主演も控え、飛ぶ鳥を落とす勢いの清原果耶さんが出演しているということで期待していたこの映画。観ている間、いい意味でずっとニヤニヤが止まりませんでした。


数学好きで普通の恋愛が分からない予備校教師と、知ったかぶる癖に恋愛経験に乏しい教え子が織りなす会話劇がメインのこの映画。成田凌さんの不器用な演技が愛らしく、清原果耶さんのあーだこーだ作戦を考える姿が微笑ましい。序盤のシーンに代表されるように、会話自体のテンポも良く、上質なコントのような笑いを提供してくれます。軽やかな劇伴も最大限マッチしていましたし、ストレスフリーで何時間でも観ていたくなりました。


それでも短くまとめて、この二人の先をもう少し観てみたいと思わせるところで終わっていて、気持ち良く映画館を後にすることができました。日本語ならではのリズムを大切に練られた脚本は、邦画の一つの方向性を示したと私は思います。こういう邦画ばっかり観ていたいですね。本音を言うと。


また、少しずれた二人の視点から、社会にはびこる「普通」という呪縛を皮肉っているのもポイント高いです。結婚ができなくても、普通じゃなくても、世界は素晴らしいんですよね。私もまともな人間ではないので励まされました。ちょっと埋もれているのがもったいない傑作だと思います。










第1位:すくってごらん

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目立ちこそしませんでしたが、実は公開前からひそかに期待していた映画でした。『魔女見習いをさがして』で百田夏菜子さんには良いイメージを持っていましたし。ただ、シネコンでやる勝算が見えないなと心配しながら、観に行ったのですが、そのぶっとんだ内容に完全ノックアウトされてしまいました。今年一番狂った映画だと思います。


金魚すくいを題材にしていて、左遷されてきた銀行員が地方に馴染んでいくという良くあるストーリーなのかと思いきや、その味付けの仕方が独特で。なんとミュージカル仕立てなのです。どの曲も抜群に良く、メインの俳優さんも歌が上手く、百田さんのピアノも様になっていて、飽きる隙を与えません。最初は心の声を字幕にすんなや、歌詞出すなやMVちゃうねんぞと乗り切れていなかったのですが、だんだんと基準が壊れていく様は、観ていて気持ちが良かったですね。まあ90分ほどの映画なのにもかかわらず、休憩があるのは謎ですが。


演出はかなり奇抜ですが、小赤を脱落組に見立てたり、ポイの破れと人生における失敗を上手く被せていたり、メッセージ性もちゃんとあり、考えられているのもポイントが高い。起と承はしっかり(?)してるんです。転でマサルさんになって、結でボーボボになるだけで。それでも、タイトルの出し方は格好良かったですし、今年あと何本映画を観ても、この映画のことは忘れないだろうというインパクトがありました。記録よりも記憶に残る映画です。


この映画を1位に置くことでシネフィルな人たちから、総スカンをくらっても本望だと思いました。まだ公開中ですので、イカれた世界をぜひどうぞ。

















以上、2021年3月の映画ランキングでした。いかがでしたでしょうか。


今月としては、やはり『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ですか。クオリティは図抜けていて観終わった後の満足感もかなり高かった。にもかかわらず、邦画が2本上に来ているということは個人的にはとても嬉しく思います。どちらもあまり公開規模は大きくないですが、お勧めです。ぜひ観てみてください。


それと今月の特徴としては、4位の『藁にもすがる獣たち』と5位の『ガンズ・アキンボ』と、人がたくさん死ぬ映画が上位に来ているということ。11位の『ブレイブ 群青戦記』もそうですが、フィクションではいくら人を死なせてもいいのだなと感じました。もちろんやり方次第ですけど、ここまで人が死ぬ映画が上位に来たのは私としては意外ですね。


さて、もう4月に入っていますが今月も観たい映画がもりだくさん。新規公開作としては、


・砕け散るところを見せてあげる
・バイプレイヤーズ もしも100人の名脇役が映画を作ったら
・街の上で
・ザ・スイッチ
・るろうに剣心 最終章 The Final
・映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園
・賭ケグルイ 絶体絶命ロシアンルーレット



はぜひとも観たいなと思っていますし、他にも


・恋するけだもの
・ダニエル
・おろかもの
・チャンシルさんには福が多いね
・NO CALL NO LIFE
・JUNK HEAD



あたりはチェックしたいなと思っています。他にも午前十時の映画祭が再会したり、『るろうに剣心』シリーズが上映されたりと、なんだかんだで4月も毎週映画館に通うことになりそうです。どの映画が上位に来るか今でも楽しみですね。またランキング記事を書きたいと思っていますので、その時は何卒よろしくお願いします。


では、また会いましょう。


おしまい





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