こんにちは。これです。昨日、夜中じゅう降っていた雪は止みましたが、長野では20㎝ほどの積雪を記録しました。こりゃ自転車は無理ですね。


ただそんななかでも、もはや習慣となっている映画館通いは今日も親の車を借りて続行。今回観た映画は『生きてるだけで、愛。』。公開自体は去年なんですけど、ミニシアター系映画恒例の地方での公開遅れに遭い、年が明けての鑑賞となってしまいました。


今回のブログはその感想になります。ただ、映画自体の感想が「よく分からん」なので、内容もフワフワしたものになってしまっています。それでもよろしければ、今回も何卒お付き合いください。ちなみに本谷有希子さんの原作小説は未読なので、そのつもりでよろしくお願いします。




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―あらすじ―

同棲して三年になる寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)。もともとメンタルに問題を抱えていた寧子は鬱状態に入り、バイトも満足に続かない。おまけに過眠症のため、家にいても家事一つするわけではなく、敷きっぱなしの布団の上で寝てばかり。姉との電話やメールのやり取りだけが世間との唯一のつながりだった。

一方の津奈木も、文学に夢を抱いて出版社に入ったものの、週刊誌の編集部でゴシップ雑誌の執筆に甘んじる日々。仕事にやり甲斐を感じることもできず、職場での人間関係にも期待しなくなっていた。それでも毎日会社に通い、家から出ることもほとんどない寧子のためにお弁当を買って帰る。

津奈木は寧子がどんなに理不尽な感情をぶつけても静かにやり過ごし、怒りもしなければ喧嘩にすらならない。それは優しさであるかに見えて、何事にも正面から向き合うことを避けているような態度がむしろ寧子を苛立たせるが、お互いに自分の思いを言葉にして相手に伝える術は持っていなかった。

ある日、いつものように寧子が一人で寝ていると、部屋に安堂(仲里依紗)が訪ねてくる。津奈木と付き合っていた安堂は彼に未練を残しており、寧子と別れさせて彼を取り戻したいと言う。まるで納得のいかない話ではあったが、寧子が津奈木から離れても生きていけるように、なぜか安堂は寧子の社会復帰と自立を手助けすることに。こうして寧子は安堂の紹介で半ば強制的にカフェバーのバイトを始めることになるが…。

(映画『生きてるだけで、愛。』公式サイトより引用)




※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。















はい、観てきました。『生きてるだけで、愛』。正直言っていいですか。よく分からなかったです。なんてことのない日常のシーンを切り取っていて、特に大事件が起こるわけでもないし...。前半はわりと退屈だったし...。思っていた以上にアーティスティックな映画でしたね。アップを多用するカメラワークも癖が強かったですし...。正直お手上げです。降参!







ってこれじゃ感想にならないですよね。なのでここからは思ったことを本当に何の脈絡もなく書いていきたいと思います。話があっちゃこっちゃいったりして何のまとまりもないですが、よろしければお付き合いください。


この映画は寧子と津奈木をはじめとしたつながりを求める人たちの物語でした。現代社会ではSNSの普及などによってつながることが容易になってますよね。そんななかでつながるということの本当の意味を追求した映画のように私は感じました。



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まずは主人公の寧子。寧子は過睡眠を持っていて起きるのが午後なんてざらなキャラクターです。本人はうつだと言っていました。ただそれを差し引いても入ってくる印象というのは悪いものばかり。すぐに機嫌を損ねるし、世話をしてくれる津奈木には文句ばかりだし、一般的にいうとわがままなキャラクターです。


ただ、寧子には「全部見通されてる気がする」という被害妄想があり、自意識も過剰です。感受性も強く、ウォシュレットの話を理解してもらえなかったなど少しのことで傷ついてしまいます。いわばとても繊細なキャラクターで、図太く生きられない不器用なところがうつ状態につながったと考えられます。


この寧子を演じたのは趣里さん。個人的には『勝手にふるえてろ』以来ですね。あのときは人形のような外国人女性を演じていましたが、今回はものすごく人間味に満ちた役柄。反感を買いやすいキャラクターを、時おり壊れてしまいそうな弱さを見せることで上手く演じていた印象です。人前でおずおずしているのと、家では内弁慶、たまに慟哭するのもギャップがあってよかったですね。ぶっちゃけそこまでタイプというわけではないのですが、多用されている顔のアップでも微妙な表情の変化を見せており引きつけられました。この映画で日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞したそうですがそれも頷けます




寧子は自分のことをうつだと言っていましたが、過睡眠という症状から察するに彼女は「非定型うつ病」なんじゃないかと思います。


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(参考:3月 非定型うつ病|メンタルヘルス講座


寧子は過睡眠はもちろん、夕方から夜にかけて落ち込んでいますし、他人の言動にとても敏感です。この非定型うつ病というのは主に20~30代の女性に多いそうです。最近認識されてきた新たなうつ病の形ですね。




『生きてるだけで、愛。』で目立ったのは、この寧子の持つ非定型うつ病に対する周囲の無理解です。「うつ病で仕事ができないなんて甘えてるだけじゃないの?」「うつ病になったのは寂しかったからよね」「みんなでワイワイしてればうつ病なんて治るわよ」。当人からしてみれば「勝手に決めつけんなよ」って感じですよね。「うつになっていないあんたたちに私の何が分かるの?」って。でも、それが言えないのは寧子が普通にできない自分にコンプレックスを抱いてるからなんですよね。上手くやろうとしても出来ない。「生きてるだけで疲れる」。




この寧子を津奈木の元カノである安堂は「自分で稼いで家から出て行って」と親しくしているカフェでバイトを始めさせます。そして、カフェの店主や店員たちは寧子に優しく接しています。いくら遅刻してもクビにすることはしません。私はここに「自分たちが寧子の社会復帰を助けている」「自分たちはいいことをしている」という押しつけがましい善意を感じました。「自分たちは寧子にとってなくてはならない存在である」と勝手に感じているような気持ち悪さを感じましたね。依存しているというか。


ただ難しいのが、そんな無理解で押しつけがましい周囲がうつ病を改善させることもあり得るということ。無理解がうつ病を悪化させることもあるけれど、考えてばかりで行動に移さなければ何も起こりません。動かないことで改善の可能性を潰している時もあるということです。ただそこはまさにケースバイケースで正解はないので難しいところですね。


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そして、この寧子と同棲していたのが津奈木です。津奈木は話しかけてくる寧子に対してふんふんと言ってやり過ごすばかりです。それは寧子に対して関心がないわけではなく、自分が傷つきたくないから。自分が傷つかないために周囲と距離を取る。近づきさえされなければ傷つくこともない。津奈木はそんなキャラクターでした。


この津奈木を演じたのは菅田将暉さん。『銀魂』ではガンガン突っ込んでましたが、それとは逆に今作ではとても物静か。演技の幅の広さを感じます。無造作なヘアスタイルがぶっきらぼうな感じを醸し出していて、言葉数の少なさとも相まってクールでとてもかっこよかったです。




津奈木はゴシップ雑誌のライターです。文学をしたくて出版社に入ったのに、すぐに忘れ去られてしまうような二束三文のゴシップ雑誌に甘んじています。手ごたえもやりがいもない仕事に嫌気がさしていた津奈木。彼は自分のことを忘れない存在を求めていました。そこで出会ったのが寧子です。二人は合コンで出会ってそのまま流れで同棲を始めるようになります。


この二人の関係は恋人とも同居人とも言えない不思議な関係でした。物理的にも精神的にもすれ違いが続いていますし、(あくまで映画の中では)情事に及ぶ気配さえ見せません。肉体関係もない(であろう)二人がなぜ一緒に暮らしていたか。それは共依存なんじゃないかなと私は考えます。


このページによると共依存とは「依存者の世話をすることに依存する」ということ。寧子は綱紀がいないと生活できないので思いっきり依存していますが、その反対に津奈木も寧子の世話をすることで、自らの忘れられるという穴を埋めようとしている様子が見受けられます。二人は互いに依存しあっていたのです。


それは二人とも「生きづらさ」を感じていたから。寧子と津奈木にはそれぞれ穴が開いていて、その反対にでっぱりもあって。そのでっぱりがそれぞれの穴にちょうどよく収まったから、傷を埋め合わせあえたから3年も一緒にいたんじゃないでしょうか。


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この映画の大きなテーマとして「つながり」があると先に述べました。この映画が描いた「つながり」、それは「依存」です。この映画の登場人物はその多くが他者に依存していました。それは寧子や津奈木はもちろん、カフェの店員や津奈木の元カノ安堂にも当てはまります。


安堂は津奈木とよりを戻すために、寧子に部屋から出ていくよう迫ります。この安堂を演じたのは仲里依紗さん。じわりじわりと寧子を追い詰めていく様子が怖かった。


でもって、この安堂は劇中で「津奈木を支えてやる人間が必要なんだ」と語っています。言うまでもなくこれは安堂自身を指していて、安堂は津奈木の世話をすることに依存していたということが言えますね。


ただ、安堂と津奈木がよりを戻すことは最後までありませんでした。それは津奈木は安堂に依存していなかったからです。終盤、寧子と津奈木は互いの思いを確かめ合います。双方が互いに依存していることを確認した二人。傍で聞いていた安堂を通り過ぎて部屋に戻っていき、映画は終幕を迎えました。




人は一人で生きていくことはできません。誰しも生まれながらに誰かに依存しています。家族、友達、同僚、上司...etc。「生きてるだけで、依存」です。この映画のタイトルは『生きてるだけで、愛。』。つまりこの映画は愛をはじめとした全ての人間関係、つながりはとどのつまり依存であるということを言いたかったのではないでしょうか。


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映画の終盤、屋上で寧子は津奈木に思いをぶちまけます。「私に振り回されてよ」「何で私と三年も一緒にいたの?」。それに対する津奈木の答えは「昔、『すべてを見透かされている気がする』と同じようなことを感じたことがあったから」「初めて会った時に、走っていてなびく青いスカートが、意味分からないけど美しかった」「それをまた見たいと思ったから」。この津奈木が言った「意味分からないけど美しい」ものでこの映画は溢れていました。


それは例えば調味料が出しっぱなしの雑然とした部屋。濁った川が流れる混沌とした街並み。そして、血を流しながらも走る寧子の姿。考えても分からないし、そこに深い意味なんてないのかもしれないけど、場面一つ一つが心に静かな印象を残しました。一人ひとりはか細く弱い。だから依存する人間の生き様がとても健気でまっすぐで美しいもののように感じます。映画が終わってからも心地よい余韻に包まれる。そんな映画でした。考えるな、感じろ


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以上で感想は終了となります。よく分かんないという第一印象の通り、なんかよく分かんない感想になってしまってすいません。『生きてるだけで、愛。』。幾分アーティスティックな気が強い映画なので、合う合わないはあります(私はちょっと合わない気味)。趣里さんや菅田将暉さんらの熱演も楽しめますし、私の周りでも何人かはハンカチを握っていたように、ツボにはまれば十分感動もできると思うので、興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

3月 非定型うつ病|メンタルヘルス講座
http://www.shaho-net.co.jp/mental-health-kouza/column/03.html


共依存と依存-こころのこくばん
https://cocoronokokuban.jimdo.com/共依存と依存/




おしまい