こんにちは。これです。


一部の地域では梅雨も明け夏本番の到来。映画も夏休みシーズンに入り、大作が続々と公開されています。その中でもひときわ注目を集めるのが、映画『天気の子』。3年前『君の名は。』で、超特大ホームランをかました新海誠監督の最新作です。


私はまず公開当日の金曜に観て、昨日もう一回観に行ってきました。どちらもかなりお客さん入っていましたね。女性や若年層も多く、『君の名は。』の影響を存分に感じました。


正直、一回目では感想があまりまとまらなかったんですけど、二回目でだいぶまとまってきたので、それをいつもの通り思うがまま書いていきたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・ざっと作画、声優、音楽について
・重要な「糸」と「ネット」
・帆高が線路を走った意味
・賛否両論のラストについて
・「セカイ系」としての『天気の子』
・純粋で絵になる映画






―あらすじ―

「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、
怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。
彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。
ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。


(映画『天気の子』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。











・ざっと作画、声優、音楽について


まず、予告を見て分かっていたことなんですが、作画が『君の名は。』に続いて抜群に良い。新宿の街のリアリティと、雲の上の世界のファンタジックさ。対極に位置する両方に力を惜しみなく注いだからこそ、どちらも遜色なく主張し、お互いを引き立てる絶妙なバランスになっていたと思います。花火のシーンが一番のお気に入りですね。公開10日ぐらいまで粘っていたみたいですけど、その成果は存分すぎるほど現れていました。


声優さんもよかったです。特に、新人の醍醐虎太郎さんと森七菜さんを起用したのは、初々しさや擦れてなさがマッチしていて名采配でした。誰でもない感じがよかったですね。その反対に、大人のゲスト声優さん、小栗旬さんや本田翼さん、平泉成さんなどは、まあぶっちゃけ顔は見えます。でも、それが悪いというわけでは全然なくて、キャラクターにあっているかどうかの方が重要ですし、そういった意味じゃ圭介のぶっきらぼうさや、安井刑事のベテラン刑事感、夏美のさっぱりした感じが存分に出ていて、こちらもあっていたと思います。特に夏美ね。ああいうあっさりとしたお姉さんいいですよね。本田翼さんの魅力が弾けてましたよ。


さらに、RADWIMPSが手がけた音楽も引き続き至高。インストの曲は夏美が帆高を乗せてバイクで駆け出すシーンをはじめ、どのシーンにもあってましたし、歌詞ありの曲をインストで流すのも心憎い。一方、歌詞のある曲も『君の名は。』より多く、さらに今回特徴的なのが女性ボーカルも入っていることなんですよね。ボーカルの三浦透子さんは『21世紀の女の子』にも出演していたんですけど、出ていた話があまり台詞のない話だったので、今回初めて声を聞いたんですが、名前の通り透き通るような声をしていました。単純に聞いていて楽しくなりましたし、映画の最適なアクセントになっていた印象です。こちらも名采配。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・重要な「糸」と「ネット」


では、作画や声優さん、音楽についてざっと触れたところで映画の内容について書いていきます。話は映画の中盤まで飛びます。神社を訪れる圭介と夏美。その本殿の天井には龍が描かれていて、神主の老人が「晴れ女伝説」を語ります。「天気とは天の気分」「人間は住まわせてもらっている」など。そして、神主は「晴れ女」を「天気の治療をする巫女」と語り、「空と人間を結ぶ糸」だとしています。はい、出ました。『天気の子』の個人的キーワード。「」です。


どうして重要かというと、『天気の子』が繋がりの映画だと私は考えているからなんですね。帆高は一人で家出をしてきて、寄る辺もなく東京の縁にいました。でも、圭介や夏美、陽菜と繋がっていく。また、陽菜は母親が入院中に日差しが一筋差すビルの屋上へ向かいます。ここで鳥居をくぐりながら祈ることで、空と繋がります。そして、「繋」という漢字には「糸」が含まれています。やっぱり糸じゃないか。




そして、「糸」の対比になっていたものが『天気の子』にはありまして。それがネット(インターネット)です。映画の冒頭で帆高はYahoo!知恵袋で職探しのアドバイスを貰おうとしますが、ろくな返答を得られていません。また、100%の晴れ女の噂もネットで広まっていますが、そこに陽菜という答えはありません。さらに、映画の中では2021年のツイッターの画面が何度か登場しますが、いずれもストーリーに影響を与えることはない。このように『天気の子』にはネットが多く登場しますが、重要なのは帆高たちの役にはそこまで立っていないということなんですよね。


そりゃあ、お天気ガールのおかげで帆高と陽菜が食いつないでいっているし、一定の役には立っています。しかし、決定打にはなっていない。ネット、網とは「糸などを粗く結んで作った道具」。広範囲を覆うことができますが、反面その粗さゆえに取り逃してしまうものもあります。『天気の子』で主に降っていた雨は糸雨(しう)。読んで字のごとく糸のように細い雨です。家出した帆高や、親を失い弟と二人で暮らす陽菜。社会的に弱い立場にある二人のことを表しているかのようです。


安井刑事(cv.平泉成)が言っていました。「最近の若い子は何でもネットに書くからな」と。その次のシーンでは帆高がYahoo!知恵袋に、陽菜への誕生日プレゼントは何がいいか聞いています。しかし、まともな答えは返ってこず、何も解決しません。この時、帆高のバックに網が張ってあったのはとても象徴的でした。そして、帆高は陽菜の弟である凪から「指輪一択でしょ」とアドバイスを貰い、問題は解決します。このシーンが指し示す通り、『天気の子』ではネットというバーチャルではなく、現実で帆高が繋がった人たちからのみ、援助や解決策、救済がもたらされています


それはなぜでしょうか。現代はSNS隆盛の時代です。ネットでしか知らない、顔も分からない友達というのも少なくありません。人間関係が希薄になってきているというのは、ここ五十年くらいの常套句です。これは後でも書きますが、新海監督は『天気の子』では『君の名は。』と比べてより現実を描こうとしていたように思われます。


ネットはネットで素晴らしいですが、私たちが生きているのは現実。ネットの中に入って生きることはできず、所詮は現実にのみ実在しています。まあ私は現実逃避でSNSを見がちなんですが、『天気の子』では、アナログな繋がりが全てを左右する様を描くことで、そんなSNSにのめり込む人に、ネットには本当の援助や救済といった類のものはなく、現実にこそ本当の援助や救済が用意されている。だからもっと現実を生きようみたいなことを伝えたかったのかなと感じました。こう書くとよくあることですけど、まあ事実なので。




それに、この辺り『君の名は。』との類似点を感じるんですよ。『君の名は。』でも、糸守町や組紐など「糸」を想起させるものが登場しましたよね。それに、瀧はネットの情報で近くまで来れましたけど、糸守町がもう無くなっていることを知ったのって、定食屋のおじさんからじゃないですか。糸守町の情報も図書館で集めてましたし、アナログな情報が主流だったように思えます。『君の名は。』でもネットはそこまで役に立っていませんでしたし、この二作を見る限り、新海監督はやっていることはフィクションでも、ベースはあくまで私たちが生きている現実に設定した作品を作る人なのかなと感じます。正しいのかどうかは知りませんけど。




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・帆高が線路を走った意味


また、『天気の子』を語る上で「生」と「死」に触れないわけにはいきません。『天気の子』では、意図的なくらい「死」が多く登場しています。陽菜の母と圭介の奥さんは亡くなっていますし、立花家ではお盆の迎え火を焚いています。それに、陽菜が最初にくぐった鳥居のそばにも精霊馬が置かれていて、あの鳥居はこの世とあの世の境目で、陽菜は臨死体験をして晴れ女の力を得たのかと考えてしまうほどです。積乱雲の上は水草が繁っていて、天国のようでした。


よく亡くなることを「昇天する」「天に召される」などと言いますよね。この言葉、キリスト教からきているみたいなんですけど、そんなこと知らないくらいに日本に馴染んでます。これを基にするとこの映画では、地上が生の象徴で、空は死の象徴になっていると私は考えます。となると、「空と繋がってしまった」という陽菜の言葉は「死と繋がってしまった」とも取れますし、「人柱になる」とはそのまま「死」です。映画の中でも陽菜が風に飛ばされて昇天しかけたシーンありましたよね。あのシーンで陽菜の体に水たまりができかけたのも死が近づいているという分かりやすい証拠でしょう。


そして、いよいよ陽菜は昇天、死んでしまいます。陽菜が昇天したことで東京の空には晴れ間が戻りました。ただ、このシーンとても悲しい。晴れるということはモノトーンの空に色が戻ったということ。糸へんに色で「絶」。絶縁、絶交、絶望。いずれにしてもあまりいい言葉ではありませんね。


陽菜を失った帆高はもう一度会いたい一心で、陽菜が初めて晴れにしているところを見た廃ビルの屋上へと向かいます。その途中に脱走、逃走、発砲などの様々な違法行為を起こしますが、注目したいのは帆高が線路の上を走って廃ビルに向かったということ。はい、線路の「線」にも「糸」が含まれていますね。「線」は「糸のように細長く連続するもの」という意味で、3つも「糸」が含まれています。


でも、ここで重要なのは「」の方です。というのも「泉」には「あの世、冥土」という意味があるからです。「黄泉」という言葉は皆さん聞いたことがあるでしょうし、死ぬことを「泉下の人となる」とも言うそうです。このことからも陽菜が行ったのは死後の世界で、線路はその死後の世界へと通ずる路であると考えられますね。


帆高は陽菜へと、死後の世界へと通ずる線路を縦断します。横断じゃなくて縦断。ここにも糸。で、この「縦」という漢字には「ほしいまま。きままにする」という意味もあります。縦(ほしいまま)に操ると書いて「操縦」ですからね。これも陽菜にもう一度会いたい、天気なんて世界なんてどうでもいいという帆高の強い思いを表しているかのようでした。




雲の上という死後の世界で再会し、現世に黄泉がえった帆高と陽菜。ここで、「晴れ女には悲しい結末が待っている」という定めを破ってしまいます。糸へんに「定」と書いて「綻」、ほころびる。この上に「破」をつけると「破綻」。この通りに東京は、世界は破綻してしまいます。





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※ここからの内容は映画のラストに言及した内容となっております。激しくネタバレをしていますので、どうか十分にご注意ください。










・賛否両論のラストについて


『天気の子』はここからラストを迎えます。そのラストとはずばり世界が救われないラスト。首都圏では3年間雨が降り続き、かなりの部分が水没してしまっています。これはとてもショッキングな絵面でした。当然批判する人もいるでしょう。何人死んでるんだ。首都機能は壊滅してしまっているじゃないかと。フィクションと現実の区別もつけられずに。


新海監督の前作『君の名は。』は映像の綺麗さと謎解き要素のあるストーリーやRADWIMPSの音楽が、それまで新海監督の映画を観てこなかった人にも大受けした作品でしたが、ヒットした最大の要因というのはハッピーエンドで終わったことでしょう。


糸守町が救われ、もう会うことはないと思っていた瀧と三葉が再会を果たす。希望しかないラストが大勢の人の心を掴んだと思われ、興収250億円もの大ヒット及び、新語・流行語大賞30語にノミネートされるほどの社会現象を巻き起こしました(なお、2016年の新語・流行語大賞トップ10には『聖地巡礼』がランクインしていますが、これも『君の名は。』の影響が大きかったと考えられます)。


そして、3年が経った今作。当然のことながら新海監督にかかるプレッシャーは相当なものだったでしょう。そして、考え抜かれた末に選ばれたラストが、東京水没エンド。これは『君の名は。』で描かれたハッピーエンドとは真逆。そして、『君の名は。』が好きな人の多くが望むエンドとも真逆です。


今、Google様で『天気の子』の感想を検索したんですけど、「最後は陽菜の不思議な力で世界を救う」みたいな記事が出てきまして。もう腹を抱えて笑ってしまいます。ああやっぱりハッピーエンドを求めているんだなって。で、それに新海監督自らがNOを叩きつけていて、凄い挑戦的だなぁ、めっちゃ思い切ったなぁと感じます。


そりゃあ世界が救われて、陽菜にももう一度会えてみたいなハッピーエンドにすることだって容易いですよ。でも、それって『君の名は。』と全く同じで、同じことを繰り返していたら作家としての成長はあまりありませんからね。なので、このラストは物語上では必然ですが、メタ的な意味でも必然だったのではないかと思います。


ラストの東京が沈没した画に、私は東日本大震災を思い出しました
。家屋を避難車を根こそぎさらっていく映像がリフレインしたんですね。『君の名は。』は歴史を改変して災害を無かったことにしたフィクションの世界でしたが、『天気の子』では世界は救われません。これは東日本大震災のあった現実と同じです。


変えられない悲惨な現実でも、狂っていても破綻していても、残された私たちは現実を生きるしかない。親が亡くなって行く当てがなくても、どこかで生きるしかない。最後に帆高の言った「大丈夫」はそんな私たちを勇気づける言葉だと感じました。絶望の中の希望を描いていて、私は肯定したいなと思います。



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・「セカイ系」としての『天気の子』


それに、人類滅亡なんてフィクションの世界じゃ、ザラじゃないですか。東京が水没したのも南極の氷が溶けて人類の半分が滅亡したことに比べたら大したことないですよ。あれ、なんでエヴァ...?始まる前に予告見たからかな...。


私が『天気の子』を観て思った最初の感想が『めっちゃセカイ系じゃん!』ってものだったんですよね。『君の名は。』と同じで。というか私がセカイ系という言葉を知ったのも『君の名は。』の感想をネットで読んでからですしね。


とりあえず、セカイ系を知らない方に説明しておくと、


セカイ系とは―
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界危機」「この世の終わり」などといった抽的な大問題に直結する作品群のこと
セカイ系-Wikipedia


だそうです。ここでの中間項というのは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々」とのこと。うーん、でも『天気の子』では、国家機関としての警察やお天気ガールに依頼する人がいたり、わりと中間項あったような気が...。でも、予告の「あの日、私たちは世界の形を決定的に変えてしまったんだ」とセリフからもセカイ系な気がビンビンしてますよね。セカイ系で間違いないでしょう。で、そのセカイ系はエヴァに端を発しているらしいので、セカイ系である『天気の子』もエヴァの影響を受けているのは自然なことです


では、ここからセカイ系としての『天気の子』及びエヴァとの関連性について書いていきます!としたいのはやまやまなんですが、ここで問題が一つ。私ってエヴァ見たことないんですよね。いつか見なきゃとは思ってるんですけど…はい...。そもそも南極の氷がどうっていうのも空想科学読本で知ったことですからね。めっちゃ真剣に墓場が足りなくなるんじゃないかって心配してた記憶。



なのであまり詳しいことは書けないのですが、それでも少し書いてみたいと思います。セカイ系の世界とは紛れもなく「世界」のことです。実は糸へんに「世」という字は存在していまして、「紲」と書いて「きずな」と読むそうです。聞こえはいいですが、その意味は「①きずな。イヌ・ウシ・ウマ・などをつなぐなわ。罪人をしばるなわ。②つなぐ。しばる」とあまりいいものではありません。「束縛」といった方が正しいでしょうか。


『天気の子』で帆高は離島での代わり映えしない生活に縛られていました。そこから抜け出したくて、東京にやってきたわけですが、住むところも雇ってくれるところもなく、孤独な日々を送っています。しかし、圭介や夏美、陽菜と出会って繋がる。結びつく。居場所を得た帆高ですが、いいことばかりではなく、今度は「天気を晴れにするためには、陽菜を失わなければならない」という定め、運命に縛られてしまいます


陽菜を一度は失い、憔悴する帆高。世界か陽菜かというセカイ系特有の二択を迫られます。世界の平穏のためには陽菜を諦めなければなりませんが、帆高はそれに抗い、世界の平穏よりも陽菜といることを選択します。先ほどの定めとは真逆を行っていますが、これって束縛からの「解放」なんですよ。「俺は陽菜といたい!天気なんてどうだっていい!」という「世界の運命なんか知るか!」的な態度ですね。


で、ここで流れた曲が「グランドエスケープ」というのも重要で。帆高と陽菜は自らが背負ってしまった運命から脱出しようとしているんですよ。それは自分勝手かもしれないですけど、実に堂々としていて、高潮する曲調や絵的な爽快感とも合わせて、『天気の子』で一番の盛り上がりどころでした。「紲」という縛りからの解放。『天気の子』は「セカイ系」であり、「世界系」であり、「紲解系」であるのかもしれないですね。


まあ定めを破ったので、世界は破綻するという結末を迎えるんですけど、帆高はそんな「セカイ」でも「大丈夫」だと言うんですよね。ずっと不安でしょうがなかった帆高が終わりになって、狂って奇妙になった「セカイ」も含めてあるがまま受け入れて。とても綺麗な終わり方で、個人的には好きです。



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・純粋で絵になる映画


『天気の子』は『君の名は。』と、かなり異なったアプローチをしています。でも、ボーイミーツガールという基本は同じなんですよね。主人公がヒロインに出会い、紆余曲折を経て別れて、再会するという。このあたりは『君の名は。』が好きな人にも受け入れられそうだなと思います。


それに、ボーイミーツガールを描くと、やっぱり絵になるんですよね。人と人が会うというのは物語の基本みたいなところありますし、出会いからスタートするのは定番ですよね。糸へんに「会」と書いて「絵」と読みますし、絵巻はアニメーションの端緒ですし。ここがストーリーの始まりなんだぞっていうのが分かりやすい。『君の名は。』と同様、多くの人に届くことは間違いないでしょう。


それに、もう会えないと思っていた二人が再会を果たすというのはベタな感動シーンでもありますし、RADWIMPSの『愛にできることはまだあるかい』によってよりドラマチックに彩られます。実際、満員の映画館でもすすり泣く声が複数聞こえましたし、隣の女子高生は終わった後に「めっちゃ泣いたー」って言ってました。なので、賛否両論あるとは思いますけど、まあ大丈夫でしょう。二度目を観たくなる仕掛けも施されていますし、興収100億円はいくんじゃないでしょうか。


さらに、その女子高生は「応援上映行きたい」って言ってましたし、どうやら心はがっつり掴まれたそうです。周囲への口コミも期待できますね。でも、一体何を応援するんでしょうか。撃て―撃てーとでも言うんでしょうか。謎です。




あと思ったんですけど、『天気の子』って『君の名は。』に負けず劣らず、フェティシズムを追求してますよね。夏美の谷間だったり、陽菜の脇だったり。特にメインヒロインの陽菜がよかったですよね。明るくて闊達で、男性警官をタックルで押しやるぐらいにはパワフルで。帆高の2歳上だからっていって、帆高のこと呼び捨てにしちゃったりして。でも、実は帆高よりも年下だったことが、劇中では明かされて。年下であんなフラットな言い方してたんだって、悶えますよ。『天気の子』は、年下のお姉さんが最高な映画でした。


で、なんでこんなに魅力的に見えたかって言うと、帆高の視線を通して見ていたからなんですよね。帆高ってとってもピュアな少年で純粋なんですよ。その慣れなさといいますか、覚束なさといいますか、それが魅力を跳ね上げているんですよね。たまらない。あぁたまらない。


このままだと性癖垂れ流したまま終わるので、少し真面目な話でもしましょうか。『天気の子』って帆高が純粋でなければ成立しなかった話だと思うんですよね。帆高は純粋ゆえに、離島の閉鎖的な雰囲気や親からの束縛をより鋭く感じていたと。実は「純」の右側の「」には、「なやむ。苦しむ。」という意味もあります。つまり帆高は純粋ゆえに屯(なや)んでいたと。というか帆高が屯んでなかったら、この映画始まってないですし。


そして、帆高が陽菜と出会ってからの接し方もピュアそのものです。「俺は陽菜といたい!天気なんてどうだっていい!」というのも帆高の純然たる気持ちでしょう。最後の「大丈夫」も純粋な帆高だからこそ出た言葉。雨が降り続いているという暗めな世界観でも、この映画が暗くならなかったのは帆高が純粋だったおかげです。というか帆高が係わったキャラクターは大体純粋でしたね。陽菜も凪も圭介も夏美も。不純もあるにはあるんですけど、ジメジメした空気を感じさせない純情な映画で、後味も良好です。これから夏休みですし、ぜひとも多くの方に観ていただきたいなと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『天気の子』。個人的には『君の名は。』に負けず劣らずの名作だと思います。観てのお楽しみなサプライズもあるので、よろしければ映画館へと足を運んでみてはいかがでしょうか。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

映画『天気の子』公式サイト
https://tenkinoko.com/

いと いとへん|六画|部首索引|漢字ペディア
https://www.kanjipedia.jp/sakuin/bushu/detail/6/120


おしまい


天気の子
RADWIMPS
Universal Music =music=
2019-07-19



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