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今作の原典である『チャイルド・プレイ』が製作されたのは1988年のことである。可愛らしい人形が残酷な表情を浮かべ、惨たらしい殺人を犯す。そのギャップは今見返してみても色褪せることはなく、チャッキーという殺人人形は映画愛好家に歓迎された。シリーズは累計7作が製作され、チャッキーは30年もの長きに渡って愛情を注がれてきた。


そして2019年、令和の時代に入り『チャイルド・プレイ』はリメイクされた。筆者は正直、今リメイクする意味があるのかと懐疑的な気分を抱いた。近年は多くのリメイクホラーが製作されている。『IT』『サスペリア』『ハロウィン』。リメイク作品にはオリジナル版のファンがついており、一定の興行収入を見込むことができる。そういった商業的な思惑がどうしてもリメイクホラーには付き物だ。だが、今作『チャイルド・プレイ』は違った。明らかに2019年の今だからこそ作られるべき映画だったのだ






なるほど、確かに視覚的な怖さは増している。オリジナル版『チャイルド・プレイ』では、チャッキーの殺し方は包丁で刺すのほぼ一択だったのに対し、リメイク版では芝刈り機、電動ノコギリ、自動運転車の暴走など実に多彩な殺し方をしている。指を向けるだけで機器を操り人を殺めるのは、ハイテクに生まれ変わったチャッキーだからこそなせる業といえよう。特に終盤で登場したドローンは強烈な印象を与える。鑑賞後ではきっとドローンを見ると身の毛がよだつ身体になっているはずだ。製作陣はドローンに何の恨みがあるのだろうか。


さらに、リメイク版『チャイルド・プレイ』は、少年アンディの成長物語としても優秀だ。今作でのアンディには友達がおらず、環境を変えて心機一転やり直そうとしている。だが、アンディは勇気が出ず、友達を作ると言っては廊下でゲームをする。親は不倫をしていて、鬱憤は溜まる一方だ。そして、「誰も構わないでくれ」と言い放つ。「みんな消えてしまえばいいのに」という鬱屈した感情が芽生える。筆者も友達が多いわけではないので、この描写には非常に胸を痛めた。


だが、アンディには劇中でファリンとパグという悪友が出来る。次々と殺人を繰り返すチャッキー。ファリンとパグはチャッキーの仕業というアンディの言葉を信じないが、証拠映像を見て次第に考えを改めていく。トイショップに閉じ込められ、危機に瀕したアンディをファリンとパグは済んでのところで助けるのだ。


そして、アンディはチャッキーとの戦いに勝利する。その後、劇中で新たにチャッキーの持ち主となったオマールを含めた4人でチャッキーを叩き壊すシーンは、かの名作『スタンド・バイ・ミー』を彷彿とさせる名シーンだ。最後にアンディは看板の前に座り、彼ら彼女らと共にハンバーガーを食べている。アンディには友達ができ、「みんな消えてしまえばいいのに」という感情は霧散しているのだ。鑑賞者はホラーを見ていたつもりが、気づけばアンディの成長物語に魅せられていることだろう。清々しい気分すら味わうことだって可能なのだ。


しかし、筆者が考える今作の本質は以上の点にはない。リメイク版『チャイルド・プレイ』は娯楽映画として受け取ることも容易で、実際にエンターテイメントとして高い完成度を誇っている。しかし、その裏に隠されたテーマというのはとても重大なものだ。そしてそれは、海の向こうで起こっている問題ではない。我々が住んでいる日本で実際に発生している問題である




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2019年5月28日。神奈川県川崎市登戸の公園で、20名の死者負傷者を出した無差別殺傷事件が発生したことは記憶に新しい。加害者の男性も自死した、非常に悲惨な事件だ。そして、同種の無差別殺傷事件は各地で発生している。代表的なものは2008年の東京都千代田区秋葉原での事件だろう。直近では京都アニメーションへの放火も同系統のものとされている。さらに、同じ類型の事件は海外でも銃乱射事件としてたびたび報道される。洋の東西を問わず、加害者とは無関係の人間が襲われる事件が日々発生しているのだ


そんな彼らを総括する言葉がある。「無敵の人」という言葉だ。明確な定義はないが、「無敵の人」とは失うものが何もない人間を指すことが多い。職が無く、収入も無く、社会的地位も無い。事件を起こして逮捕されるうことは社会的地位の剥奪であるが、彼らには剥奪されるものがないので、何の影響も及ぼさない。社会的地位で抑制できる犯罪への欲求は、そのまま表出してしまう。


そして、私たち多くの失うもののある人間は、彼ら彼女に「無敵の人」というレッテルを貼り、自分とは違う動物なのだと自らを説得することを試みる。誰にだってある日全てを失う可能性はあるのに、偶々失ってしまった彼ら彼女らを、自分とは違う動物であると認識し、何の価値もない安堵を得る。その冷酷な態度、違う動物だから関係ないといったものが、彼ら彼女らをさらに苦境に追い込む。社会は断絶され、「無敵の人」のレッテルを貼られた彼ら彼女らは、援助もなく孤立を深めてしまう。そこに回復や救済はない。






では、今作『チャイルド・プレイ』ではどうだろうか。まず、オリジナル版とリメイク版で大きく違うのはチャッキーに人格が宿った経緯だ。オリジナル版の『チャイルド・プレイ』では、チャッキーに宿った人格は連続殺人鬼のものだった。警官に追われ、死の間際に呪術でチャッキーに魂を委譲する。このチャッキーの行動原理は純粋な殺人欲求、または警官や呪術師など特定の人間に向けた憎悪であり、極めて限定されている。アンディを襲う理由も自分が生き続けるためで、どこまでも独善的だ。


一方のリメイク版『チャイルド・プレイ』。こちらのチャッキーに宿った人格は、ベトナムのしがない一工場員のものに過ぎない。上司の台詞から彼は元々路上で暮らしていたことが示唆される。彼にとって唯一あったものは工場員としての社会的地位だけである。しかし、彼は上司から能率の上がらない仕事ぶりをパワハラと共に叱咤され、「この人形を作ったら辞めろ」と吐き捨てられてしまう。ここで、彼は社会的地位を失い、失うものが何もなくなってしまう。彼はチャッキーに備えられていた制限を解除し、暴走の元となるパーツを埋め込む。そして、高層から車に叩きつけられて死に至るのだ。


筆者は、彼の死を自殺と考える。自分にはもう何もないという絶望が、彼を自殺に駆り立てたのではないだろうか。彼はこう思ったはずだ。「誰も助けてくれない」と。その怨嗟が角度を変え、「みんな消えてしまえばいいのに」という憎悪に変化したのではないだろうか。しかし、彼は自殺を選んだ。人を巻き込まずに一人で死ぬという僅かな理性が働いた結果だ。ただ、彼の周囲への、世界への憎悪は消えることはなかった。そして、その悲愴な感情はチャッキーに託されてしまう。もう失うもののないチャッキー。リメイク版のチャッキーは「無敵の人形」として生まれ出でてしまったのだ






社会的地位のない社会的弱者は、現代社会ではあたかも存在していないような扱いを受けることが多い。社会的信用がなければ預金口座もクレジットカードも作ることが出来ず、周囲とのかかわりも極めて限定的なものになってしまう。収入も無く、ただ死んでいくのを待っているだけの日々。きっと彼らは渇望しているのだ。自分が社会に所属し、他人に承認されることを。社会で生きているという実感を得て、「人間」の形を保持していたいのだ。これは強烈な社会的欲求や承認欲求であり、私たちと同質の欲求である(もっとも社会的欲求や承認欲求の土台に、生理的欲求や安全欲求があることは留意しなければならないが)。


映画冒頭でチャッキーは返品される不良品として扱われていた。持ち主に受け入れられなかったことで、チャッキーの承認欲求は満たされなかったことは言うまでもない。しかし、チャッキーはアンディの母・カレンに引き取られ、アンディに手渡される。チャッキーはアンディに言う。「僕たち親友だよね?」と。アンディに承認されたいというチャッキーの思いは、一人でに歌を歌ったり、夜中に起きて執拗に確認するなど痛切なほどに表現される。それほどチャッキーの承認欲求は満たされていなかったということだ。バディ型人形は近々新しいバージョンが発売されるということで、乗り換えられてしまう恐怖もあったのかもしれない。


そして、映画が進むにつれチャッキーは残酷な行為に手を染めていく。その奥底にあったのは「アンディのために」という思いだけだ。アンディがスプラッター映画を観て喜んでいるから、自分も包丁を振り回す。アンディが猫に吠えられて気分を害したから、猫を殺す。アンディがいなくなればいいといったから、カレンの不倫相手を殺す。全てアンディのためであり、そこに独善的な思惑は一切存在しない。矢印が自分に向いているか他者に向いているかが、オリジナル版とリメイク版における最大の相違点であるとも言っていい


では、チャッキーがどうしてここまで執拗にアンディにこだわったのか。それは、唯一承認してくれたアンディに見放されることが死に直結するほどの恐怖だったからだろう。アンディにまで嫌われてしまったら、自分の承認欲求を満たしてくれる相手はもう存在しない。たった一本の蜘蛛の糸に縋りつく思いで、チャッキーは殺人を繰り返していたと筆者は考える。新たに生まれ変わったチャッキーは承認を求めて彷徨う、非常に悲しい存在なのだ。


チャッキーの殺戮はエスカレートしていく。自分だけがアンディに気に入られればいいと考え、アンディにかかわるすべての人間を排除しようと動く。アンディが他者を承認し、自分を承認してくれなくなることが我慢ならなかったのだ。重度の依存である。トイショップでの「皆が逃げていくけど、僕だけがアンディの傍にいる」という台詞はそのことを如実に表している。


この殺戮の過程で着目すべきは、チャッキーが自らの手で人を殺めていないという点だ。今作のチャッキーは機器を操り、殺人を犯すシーンが多い。電動ノコギリだって、自動運転車だって、フォークリフトだってそうだ。指先一つで殺人を犯してしまう。


これは、筆者にはインターネット及びSNSの暗喩であるように思える。現代ではインターネット・SNSが発達し、他人と繋がりやすくなった分、相手への思慮を欠いた対応が増加しているように感じる。顔の見えない相手にだったら何を言ってもいいという空気が蔓延しているかのようだ。言葉は優しい毛布にもなれば鋭利な刃物にもなる。軽はずみな罵詈雑言で相手を刺し殺すことだって可能なのだ。映画でのチャッキーの指先は、私達のキーボードを、スマートフォンの画面をタップする指先と重複して見えるのは、果たして筆者だけであろうか。




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物語は最終章に入る。バディ(チャッキーの正式名称)2の発売日。日付が変わり発売される瞬間を大勢の親子が今か今かと待ちわびている。カウントダウンが終わったと瞬間に現れた、被り物を被った男性。彼はチャッキーに首を切られ、首から血を吹き出して倒れてしまう。それを合図に開始されるのは殺戮。剃刀を羽根にまとったドローンが上空から、意志を持ったバディ2が地上から集まった人々を殺めていく。彼らの共通項は、同じ瞬間にトイショップに居合わせたことのみだ。関係性のない人々が無差別に殺されていく様相は、無差別殺傷事件、銃乱射事件を激しく想起させる


チャッキーはカレンを人質に取り、アンディをおびき出す。バックヤードに入っていったアンディが発見したのは、フォークリフトに縄で首をくくりつけられたカレン。フォークリフトは上昇し、カレンは縊死へと一直線だ。棚をよじ登りチェーンソーで縄を断ち切ろうとするアンディ。チャッキーの妨害を受けつつも、縄を断つことに成功する。地面に叩きつけられ、胸部を包丁で刺されたチャッキーは当然カレンを襲おうとするわけだが、マイク刑事に狙撃され、再び倒れる。そして、カレンがチャッキーの首を引きちぎり、チャッキーの挙動は静止する。アンディとカレンは助かり、物語はハッピーエンドを迎えるというのが、この映画の結末だ。


ここでオリジナル版を見たことがある方は、疑問に思うことだろう。「チャッキー呆気なさすぎないか」と。オリジナル版、特に『1』でのチャッキーは頭部を捥がれても、皮膚素材を溶かされ黒焦げになっても、アンディらを殺そうと躍起になっていたはずではなかったか。そのことと比較すると、リメイク版のチャッキーは頭部を捥がれただけで静止してしまうので、やや拍子抜けな印象を与えてしまうことは否めない。ただ、筆者はこのことにも理由があると考えている。ここで提示したいのは、以下2つの説だ。


①殺傷という行為そのものがチャッキーの目的であるという説
②アンディの承認は自分に向けられないことを自覚したという説



まず、一つ目の説。社会的地位のない人間が、自分が生きているという他者からの承認を得ることは容易いことではない。交差点で大声を出したところで、振り向いてくれる人間は1割もおらず、瞬時に忘れ去られてしまう。ともなれば、極大の衝撃を与えなければ、誰も気づいてくれないだろう。線路に飛び込むよりも、より衝撃度のある手段。突出した能力を持たない多くの人間にとって、それは殺人である。


殺人を犯せば全国とはいかずとも、当該地域の報道番組には高い可能性で露出できる。自らの存在に目を向けてもらえる絶好の機会だ。多くの人間を殺せば殺すほど話題性も大きくなり、無視できない存在となるだろう。殺人が被承認の手段となってしまっているのが、無差別殺傷事件の特徴の一つであると筆者は考える。もちろん動機はそれだけではないであろうことは重々承知の上である。


今作でのチャッキーもそうだ。多くの人に自らの存在に気付いてほしい。それはベトナムの工場員が胸に抱いていた思いと類似しているとは考えられないだろうか。トイショップでの事件でチャッキーという殺人人形は多くの人間に認知されたことだろう。承認欲求が大きく間違った方法であったとしても、ある程度満たされたことで、チャッキーに宿った渇望は消えたのではないかと筆者は考えている。


次に、二つ目の説である。チャッキーは自分を承認してくれるのはアンディしかいないと思い込んでいる。アンディの承認を独り占めしたいと考えている。しかし、アンディの承認は彼のみに与えられるものではない。確かに、映画の始めにはアンディの承認はチャッキーにしか向けられていなかった。だが、アンディは物語の中で多くの人間と繋がっていっている。ファリン、パグ、オマール、マイク刑事。そして、母親であるカレン。


承認とは鏡のようなものである。自らが相手を承認すると、相手も承認してくれる。相手が自らを承認してくれると、自らも相手を承認したくなる。しかし、これは人間対人間に限定された話である。物をいくら承認しても、物から承認は返ってこない。虚しさが増していくだけだ。その方式が覆されたことが、今回の事件の発端となっているのだが。


おそらくチャッキーは自らが人形であることを自覚していたのではないだろうか。本来、人形が人間に承認を向けることはできないが、チャッキーは全身全霊をもってそのことに反抗している。だが、アンディを承認してくれるのはチャッキーではなく、人間である。アンディが複数の人間に承認されていることに気づき、自分の間違った認識を認める。これは諦めであり、悲劇である。絶望に包まれたチャッキーが自ら命を絶つ。リメイク版『チャイルド・プレイ』は、承認を得たいチャッキーの足掻きの映画でもあるのだ




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さて、このチャッキーの悲劇を目の当たりにした私たちはどうすればいいのだろうか。チャッキーを「無敵の人形」であると断じることは容易である。私たちと違う「人形」の話であると決めつけてしまうのは簡単だ。「みんな消えてしまえばいいのに」は、思春期で克服できていなければならない課題で、大人になっても抱えているなんてみっともない。恥ずべき感情で人間として持ち合わせるべきものではないと規範を振りかざし、一掃する。


だが、それでは現状は何も変わらない。むしろ悪化していく一方だ。断絶を深め、孤立を強化し、行き着く先は無差別殺傷事件の増加。憐憫は無効化され、隣人にさえ最大限の警戒をしなければならないディストピアの到来だ。もう「無敵の人」というレッテルを貼られた彼ら彼女らを無視することはできないのである。彼らの行為を「子供の遊び」と片付けることは誰にもできないのである。


私達ができること。それはこの映画の中で提示されている。「無敵の人」というレッテルを貼らずに、人間対人間で接すること。言葉にすれば陳腐だが、個人単位でできることなどそのくらいだ。アンディは友達のいない孤独な少年であった。だが、人間として接してくれるファリンやパグらの存在によって承認され、救済されたのである。


アンディの境遇は、チャッキーと、ベトナムの工場員と、承認を得られていないという点で類似している。アンディは彼らのこうなっていたかもしれないというIFの姿でもあるのだ。裏を返せばアンディが彼らのようになっても何ら不思議ではない。違いは他者からの承認、救済があったかどうかだけなのである。


改めて問う。私たちはどうすべきか。リメイク版『チャイルド・プレイ』を観て、この感想をご覧になったあなたならば、もう取るべき選択肢は承知しているはずだ。リメイク版『チャイルド・プレイ』は、「無敵の人」問題に真っ向から挑んだ社会的意義の大きい作品なのだ


チャッキーたちは、私たちが暮らす日本にも多数存在している。日に日に生まれていっている。最後のチャッキーが再起動するシーンがそのことを十分すぎるほど示唆している。残忍な行為からは目を背けたくもなるだろう。だが、目を背けてはならない。これは現代の日本で、世界で確かに起こっていることなのだから。




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映画『チャイルド・プレイ』公式サイト
https://childsplay.jp/