こんにちは。これです。今回のブログは2日続けての映画感想になります。


今回観た映画は『いなくなれ、群青』。あまり話題となっている映画ではありませんが、キービジュアルを見た時からビビッと来ていたので、観に行ってきました。その結果、かなり好きな映画であると感じましたね。観てよかったです。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いいたします。




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―目次―

・若手俳優さんたちが魅力的!
・悪い部分があってこそ人間だと思う
・まとめ





―あらすじ―

 ある日突然、僕は〈階段島〉にやって来た。ここは捨てられた人たちの島で、どうして僕たちがこの島に来たのか知る人はいない。この島を出るには、失くしたものを見つけなければいけない。だが、疑問さえ抱かなければ、島の日常は安定していた。幼馴染の彼女に再会するまでは──真辺由宇。この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる。「納得できない」と憤慨する真辺は、島から出るために、僕と周囲を巻き込みながら島にまつわる謎を解き明かそうとするのだが──。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。

(映画『いなくなれ、群青』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












・若手俳優さんたちが魅力的!



『いなくなれ、群青』では、青春ファンタジーと銘打たれている通り、主演キャストの多くが若手の俳優さんで固められています。この映画で初めて見る方も何人かいましたが、結論から申し上げますと、私は映画が終わった後に、全員を好きになってしまっていました。本当に全員売れてほしいと心から思います。


主演は、『はじめて恋をした日に読む話』や『チア男子!!』などで知られる横浜流星さん。悲観主義者の七草を演じています。今をときめく人気若手俳優さんですが、この映画でも横浜さんの魅力は爆発。移り気な瞳に、低いテンション。淡々とセリフを述べるその様子は、吹いたら飛んで行ってしまいそうな儚さがありました。憧れというよりは「守ってあげたい」みたいな感じですかね。映画館に来ていた多くの女性(男性は私を入れて二人だけだった)も満足したのではないでしょうか。


今作のヒロイン・真辺を演じたのは飯豊まりえさん。個人的には『名探偵ピカチュウ』以来だったので、動いているところを観るのは初めてでしたが、キャラクターに合致した真っすぐな眼差しが印象的でした。真辺は階段島から出るという自分の意志を貫くキャラクターだったんですけど、その行動力の高さもよかったですね。周囲を顧みないという点も含めて。海辺の堤防に佇む姿は、とても感傷的でした。


さて、ここからは恥ずかしながら、多くが初めましての俳優さんになります。まずは、会話が苦手な女子・を演じた矢作穂香さん。特筆したいのは、そのミステリアスな雰囲気。立っているだけで、底知れないオーラを放っていますし、目元の黒子がセクシーでした。多くを語るわけではないんですけども、海辺での真辺と話すシーンなど随所に存在感を発揮していました。


続いては、ゲーム好きな男子・佐々岡を演じた松岡広大さん。こちらは軽薄気味なキャラクターを好演していて、空気が重くなりすぎないように努力しようとする姿が愛おしかった。でも、彼もまた、委員長の水谷には「ヒーロー気取り」と言われ、自分のことを好きになれず、ゲーム音楽に逃げ込むキャラクターなので、共感する部分は大いにありました。キメるときにはちゃんとキメてくれましたしね。


また、彼らは高校生でしたが、この映画には中学生も登場しています。バイオリンを弾く豊川がそうです。豊川はかつてコンクールで失敗したことをトラウマに持っており、人前で演奏することができないというキャラクターでした。そんな彼女を演じたのが、中村里帆さん。豊川の苦悩を、少ない言葉で表現していて、演技力の高さを感じます。豊川もまたこの映画では重要なキャラクターでしたが、その重責を十分に果たせたと言っていいかと思います。


さらに、授業に出ず、屋上で本ばかり読んでいるというナドというキャラクターもいました。演じたのは黒羽麻璃央さん。達観した様子の彼に、黒羽さんの危うげな雰囲気がベストマッチしていたと思います。横浜さんとは正反対で、会話シーンはお互いがお互いを際立てていてよかったですね。登場すると雰囲気が若干ポエトリーになります。


しかし、彼ら彼女らを差し置いて、私がこの映画で一番魅力的に感じたキャラクター。それは学級委員長の水谷です。とにかく正しいことを主張するというキャラクターでしたが、気はあまり強くなくタジタジとしているところもあって、そこが魅力的に映りました。佐々岡からは「自分がいい人だと思われたいだけだろ」と言われていて、私もいい人だと思われたい、誰にも嫌われたくないので、分かると共感しきりでした。演じた松本妃代さんは眼鏡も似合っていて、分けられた髪型とともに、真面目を押し付けられている感じが出ていて、凄く良かったと思います。これからに注目していきたい俳優さんがまた一人増えました。




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そして、『いなくなれ、群青』では、若手俳優さんたちのポテンシャルに、映画の魅力のかなりの部分を依存しています。顔のアップがめちゃくちゃ多かったですが、横浜さんをはじめとして、だれ一人そのプレッシャーに負けておらず、青春の危うさを切り取ると言った意味でも、この演出は大成功を収めていると感じました。


さらに、若手俳優さんたちの熱がそれぞれに伝播し、互いを高めあっていく様子がスクリーンからも感じ取れます。映画が進むにつれて、彼ら彼女らは加速度的に魅力を増しています。群像劇チックなテイストもあるこの映画では、誰もがいい演技をしていて、若手俳優さんたちを売り出すという意味でも、価値のある一本になっていると思います。出演した俳優さんたちが、これから飛躍していくにつれて、じわじわと観られていき評価が高まっていく作品に、彼ら彼女らのマイルストーンになるのではないでしょうか。今観ておいて損はない映画です。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・悪い部分があってこそ人間だと思う


この映画を一言で表すならば、「人間の悪い部分が沈殿したかのような映画」だと思います。この映画で描かれる「青春」というのは、あまりいいものではなく、艱難辛苦に満ちています。キャラクターたちも、どこか歪んでいて、全員が全員、何かを失くしています。映画の空気も決して軽くはありません。


しかし、彼ら彼女らが集まる階段島はいいところとして描かれています。学生寮に住まわせてもらえて食事も出るし、傷つくことも少ない。自覚しなければ、生活は安寧そのもの。この階段島の舞台になったのは伊豆ですが(階段が多いから長崎の五島列島だと思ってた)、まずこのロケーションが最高でした。森の緑に、クリアな海。清々しい雰囲気で、重たい物語との対比になっていて映えます。その一方で、海はどこか不気味でもあり、家々の塗装は潮風で剥げ、灯台は錆びていて古めかしい。映画で描かれている重さをよりリアルなものとして、突き付けてきてもいました。




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プロローグを経て、七草たちが通う学校に真辺が転校してきます。階段島にやってくる人間は記憶を一部分消されていて、多くの人はそれに納得していますが、真辺は納得していない様子。島を支配する魔女を探し出して、島から脱出しようとします。彼女は理想主義者であり、そのやり方はやや強引なもので、周囲の人間を否応なしに巻き込んでいきます。


積極的で理想的な真辺の登場は、平穏だった階段島をかき乱していきます。そして暴露されるのは、それぞれの人間の嫌な部分。七草は悲観し、矢作は周囲の輪に入ることができず、佐々岡はお調子者。水谷は自分のことを偽善者だと責め、豊川はトラウマに囚われ、ナドは授業をさぼって読書に耽ります。人間には様々な側面があり、嫌な部分があってこその人間だと私は思っているので、この描き方は大歓迎でした。


それに、行動的で積極的で人間の良いとされる部分が形を持ったような真辺は、もう一人の彼ら彼女らでもあります。自分とは正反対の存在。それはまるで光に照らされる影のように、自分の嫌な部分を浮き彫りにしていきます。そして、生み出された自己葛藤に彼ら彼女らが苦闘するというのが、『いなくなれ、青春』の大筋でした。これは、まるで学生時代の葛藤を表しているようです。


学生時代、大人たちは彼ら彼女らに規範的な意識を押し付けてきます。やれ勉強しなさいだの、友達と仲良くしなさいだの、明るくポジティブに振舞いなさいだの。本当の自分はもっと暗くてどうしようもない人間なのに、笑顔の仮面を被って明るい人間を演じなければいけないというフレームワークにあてはめられる。その枠組みから外れたネガティブな自分、嫌な自分は切り捨てられ、心の中を延々と彷徨う。SOSは受信されない。


でも、『いなくなれ、群青』は、こういった嫌な自分に焦点を当てた映画です。人間の悪い部分をこれでもかと見せられる。それは、まるで鏡に映った自分を見ているようで、ダイレクトに心に届きました。「自分を受け入れる」なんて、言葉にすれば簡単です。でも、それができている人が一体どれだけいるのでしょうか。時おり顔を出す悪い部分に気づき、自己嫌悪に陥る。現在進行形で私を感じているようです。私も階段島にいます。この映画は紛れもなく「私」の映画です。今年観た映画の中で、一番そう感じました。




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(堀を演じた矢作穂香さん。良い。)















・まとめ


しかし、私は「嫌な自分も悪いことばかりではない」と『いなくなれ、群青』は伝えていると感じました。確かに悲観的な性質はなかなか変えられないですが、それは言い方を変えれば、「よく考えて慎重に行動する」という一見プラスの意味にも受け取ることができます。長所は短所で、短所は長所。実際理想的だとされていた真辺も、水谷に「周囲を顧みない」と指摘されていますしね。


そして、この映画では、この嫌な自分が反転して人を助けるという描写がいくつもなされているんですよ。佐々岡の軽はずみな行動が、バイオリンの絃の入手につながって豊川を助けていますし、水谷の相手を思いやるという心が、真辺にも伝わって、それが豊川をトラウマから解放しています。私はここに、人間の悪い部分、嫌な自分でも人の助けになることができるかもしれないという強烈な希望を感じました。嫌な自分も存在していていいと言われた気がします。


ただ、映画としては群像劇チックなだけに焦点がぼやけてしまったり、ポエムが過ぎたりするところも正直あります。「第〇話 〇〇」といった演出も余計だと思いますし、大人に「青春だなぁ」と言わせるのもちょっと気に入りません。手放しで称賛はできませんが、しかし、私はこの映画が好きなのです。人間の嫌な部分が存分に出たこの映画が愛おしいのです。


自分を受け入れるのは簡単ではありません。本来なら学生のうちに完了しておくべきものですが、大人になってもそれができない人が大勢いるということは、階段島にいた大人たちが示しています。でも、だからといって、嫌な自分を封殺するのではなく、存在を認めていくこと。それが、自分を受け入れる第一歩になるのだと、私は『いなくなれ、群青』を観て感じました。完璧な聖人君子なんてこの世にいないですし、誰もが自分の嫌なところを持っているので、ぜひとも多くの方に観てほしい映画です。何か感じることがあるのではないでしょうか。




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以上で感想は終了となります。『いなくなれ、群青』。とても身につまされる映画だと思います。ぜひとも映画館でご覧ください。オススメですよ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


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