こんにちは。11月24日(日)、東京流通センター第一展示場で開催の第二十九回文学フリマ東京に参加させていただくこれです。現在、4冊中3冊目の推敲が完了。4冊目も一応最後まで書きあがっている状態です。締め切りまであと5日。できるところまで頑張ります。


そんななか、また私は映画を観に行ってきました。今回観た映画は『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』。SNSが日常のティーンの成長を描いた青春映画です。私もSNSを見ている時間はそれなりに長いので、これは観に行かなければと思い、ようやく観てきました。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・ケイラはまわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン
・現実とSNSの単純な二項対立になっていないのが好き
・拍手は一人分でいいのさ





―あらすじ―

中学校生活の最後の一週間を迎えたケイラは、「学年で最も無口な子」に選ばれてしまう。不器用な自分を変えようと、SNSを駆使してクラスメイト達と繋がろうとする彼女だったが、いくつもの壁が立ちはだかる。人気者のケネディは冷たいし、好きな男の子にもどうやってアプローチして良いか分からない。お節介ばかりしてくるパパはウザイし、待ち受ける高校生活も不安でいっぱいだ。中学卒業を前に、憧れの男子や、クラスで人気者の女子たちに近づこうと頑張るが…。

(映画『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・ケイラはまわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン


この映画の肝、それは言うまでもなくSNSです。いきなり個人的な話で恐縮なのですが、私はライブドアブログの他に、ツイッターにも登録しています。ツイッターを開くと、フォロワーの何気ないツイートの他に、何千何万リツイートの、いわゆるバズっているツイートが表示されます。多くのリプライが表示され、ツイートを越えてアカウント自体が多くの人に承認されたような感覚を受ける。それはふつふつとした承認欲求を抱えた私の憧れでもあります。


ただ、私はバズりというものを経験したことがありません。このブログのアクセス数もツイッター経由というよりは検索流入が大半を占めています。公開週での感想ならともかく、これを書いている時点で『エイス・グレード』は公開から2か月近くが経っており、多くのアクセス数は望めないでしょう。20PVも行けばいい方ではないでしょうか。なので、ここでも私の承認欲求は満たされることはありません。


だからこそ、私はこの映画でのケイラの行動をバカにすることはできませんでした。ケイラはYouTubeに「同じような女の子に向けて」というスタンスで、グダグダのアドバイス動画をアップし続けています。しかし、その動画の再生回数は0。多くても一桁が関の山です。これもですね、私みたいなゴミカス弱小ハイパー零細クソブロガーに痛いほど刺さるんですよね。現実にシェアしてくれるような友達もいない一般人の投稿なんて、存在していないのと同義ですから。凄くリアリティのある描写ですよ。


さらに、刺さったのがケイラが満たされていないように見えたことです。何に満たされていなかったかと言われれば、それはおそらく私と同じ承認欲求でしょう。ケイラは「学年で最も無口な子」に選ばれ、気軽に話せる友達もいません。勇気を出して、キラキラ女子に話しかけても明らかに退屈そうに受け流されてしまいます。パーティの際にプールに入ってきても、誰にも気づかれません。言うならば陰キャ。いつも一人。これでは承認欲求など満たされるはずがありません。


このケイラを演じたのは新進の女優エルシー・フィッシャーとにかく彼女の陰キャしぐさがこの映画では素晴らしかったです。話しかけられてもすぐに答えを出すことができず、やっとの思いで行ったパーティも蚊帳の外で、プレゼントも喜んでもらえず、皆が楽しんでいるのに「もう帰りたい」と父親であるマークに電話したのは、まるで私を見ているかのようでした。その後のカラオケで引かれるところまで含めて、パーティでのエルシーの演技はグサグサ刺さりましたね。周りが痩せているのに、お腹が出ていてそれを隠すような水着を着ているのももう見てられないとなりましたし、陰キャかくあるべきといった感じです。


このケイラの様子を見て、私はある歌を思い出しました。それはthe pillowsの『ストレンジカメレオン』です。





君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで
まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン
優しい歌を唄いたい 拍手は一人分でいいのさ
それは君の事だよ


(一部歌詞抜粋)


もう言うまでもなく、この映画のケイラは「まわりの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」であるように私には思えて、同一視せずにはいられませんでした。


そして、そんなケイラはSNSに動画や、華やかな写真を上げることで承認欲求を満たそうとしていたと思われます。アドバイスをして誰かにためになったと思われたら、加工された写真を誰かが羨ましがったら、いいね!が貰えたら、それだけで彼女は自分が承認されたと思うことでしょう。いなければ何のリアクションも貰えませんから。不特定多数の承認を求めて、動画を撮影し、日の当たる場所で笑顔で自撮りをするケイラの姿はとても痛々しいものでもありました。


しかし、前述したようにケイラの投稿は何のリアクションも得られず、彼女の承認欲求が満たされることはSNSでもありません。現実でも束の間、高校の体験入学で先輩と仲良くなり、一時的に承認欲求は満たされますが、話の輪に入ることはできず、一緒にいた男には付け込まれて、深く傷ついてしまいます。そして、ケイラはYouTubeからの引退を宣言。悲痛な面持ちで、自分はアドバイスができるような人間ではないと語りますが、この動画もしょせんは誰にも見られません。ケイラの承認を満たしてくれる場所はどこにも亡くなったかのように見えました。


しかし、この映画では、傷つきに傷ついたケイラを救うような展開が終盤に用意されていました。今までのきつい展開を一気に癒すようなとても優しい展開で、私がこの映画が好きな一番のポイントです。



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・現実とSNSの単純な二項対立になっていないのが好き



傷つき疲れたケイラ。自分の部屋でふと掘り起こしたタイムカプセルを開けます。そこに入っていたのはスポンジボブのUSBメモリー。そこには中学入学前の彼女が、卒業間近の彼女へ向けたメッセージが収められていました。未来への夢や希望を語るかつてのケイラ。しかし、今のケイラはかつてのケイラがなりたかった自分ではありません。ままならない現実にケイラは深く落ち込み、タイムカプセルを焼却することを決意します。


父親であるマークと一緒に揺れる炎を眺めるケイラ。なりたい自分になれなかったことを恥じ、自分と同じような子供が生まれてきたら恥とまで言い張ります。しかし、落ち込むケイラにマークは最大限の愛を持って接するんですよね。「恥じることはない」「お前を見ていて勇気を貰った」など暖かい言葉でケイラの悲しみを包みます。存在を全肯定する非常に優しい態度です。つまり、「優しい歌を唄いたい」。


ここで重要だと感じたのが、ケイラがマークに承認されていることです。SNSで不特定多数から得ることができなかった承認を、マーク一人から受け取っているんですよ。これを先程の『ストレンジカメレオン』に照らし合わせれば、「拍手は一人分でいいのさ」という言葉に置き換えられるでしょう。誰にでも届かなくても、誰か一人に届けば、拍手をしてもらえればいいのかもしれないし、それだけで救われるかもしれません。


21世紀に入り、SNSが隆盛を極めるようになって、もう19年が経過しようとしています。現在の10代はもう物心ついた頃からSNSがあるという状況、SNSネイティブです。SNSは今や社会になくては存在。しかし、大前提として私たちの人生はあくまでSNSではなく、現実にあります。SNSにのめり込むだけで、現実をないがしろにしては疎まれるのも当然です。「もっと社交的になれ」とはごく自然な指摘でしょう。だからこそ、SNSに逃げ込むばかりで、現実ではあまり喋れていない私は、毎日自分をダメな人間だと責めているんですが。


それに、SNSでは何者でもないアカウントの投稿は、ただ単にタイムラインを流れていくだけで、引っかかることは稀です。認識されている実感がありません。その点、現実では1対1の会話であれば、相手が自分のことに興味を示してくれる可能性はSNSよりも遥かに高い。そこでは、承認欲求も少しは満たされることでしょう。なので、SNSを見ているよりも、現実で話せるようになった方がいいなということは私も常々感じています。1対1のオフラインのコミュニケーションの方が、結局有力なんじゃないかなと。だからこそ、来週文学フリマに参加させていただくわけなのですが。売れる気はしていませんけどね。




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話を戻すと、私のように現実を重視するとなれば、SNSは一種の敵として扱われがちです。現実とSNSを単純な二項対立の図式に持ち込んで、現実の方が大事という分かりやすい結論に達することはとても容易なことです。ですが、ケイラのようにSNSが居場所になっている人もこの世界には存在しているんですよね。SNSから出会って、現実の友達になったケースはいくらでもありますし、ストレスを発散して現実を生きやすくするという機能もSNSには確かにあるでしょう。その人たちからSNSを取り上げてしまえば、どうなるかは分かりません。


そういった意味で個人的に好きなのが、この映画が現実対SNSの単純な二項対立の図式になっていないということなんですよね。食事中もイヤホンをしてSNSを見るケイラ。しかし、マークはそんなケイラにもSNSへの没頭にも理解を示していて、再生回数0の動画の撮影を自分にはできないことして認めているんですよね。普通なら「SNSを止めろ」と言うところを。なかなかできることではないですよ。


さらに、良かったのが終盤、ケイラと彼女の憧れの男の子、エイデンとの距離が縮まるシーン。そこで、エイデンはケイラの動画を見て、面白いという感想を述べているんですよ。もしかするとケイラをものにするためのエイデンの嘘だったのかもしれませんが、それでもケイラが自分の動画が承認されたと受け取ったことには変わりないでしょう。


つまり私が言いたいのは、現実でもSNSでも「一人分の拍手」は関係なく贈られるということです。そこには現実とSNSどちらがいいかという優劣はありません。まずマークで、ケイラは現実で承認され、その後、エイデンによってSNSでも承認される。そのどちらもがケイラを満たしたという点で、この映画は現実とSNSを何ら変わりないものとして扱っているんですよ。このSNSをないがしろにしない描写がとても現代的で、好きなポイントの一つでした。SNSもやっていていいんだって励まされた気になりましたね。



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拍手は一人分でいいのさ


最後になりますが、ここではケイラの動画の中身を見ていきます。ケイラの動画は「同じような女の子にアドバイスをする」というもの。自分らしさについては、「人によって変えていたらそれは自分らしさではない」。自信については、「自信は生まれつきあるものではなく、持とうと思えば持てるもの」。他にも様々なアドバイスをしていますが、私にはケイラのこれらの言葉は、全て彼女自身に向けられているように感じられました。


なぜなら、動画の彼女は現実とは打って変わって明るい姿で、それはケイラが理想とする彼女自身であるように感じられたからです。出来損ないのカメレオンたる彼女は、明るく周りと接することを理想としていたのでしょう。それができないことで自分を責めていたように私には思えます。というか私自身がそうやって自分を責めていますから。


だから、彼女が発する「自分らしく」「自信を持って」といったポジティブなメッセージは、彼女自身を励ますものでもあったと思います。理想である動画の中のケイラが語っていた「自分らしさ」。それは、現実の「彼女らしさ」とは違う、願いにも似た飛躍した「自分らしさ」。そう私には感じられました。では、なぜ彼女はこのような動画を撮影したのか。おそらくここでもキーワードになるのは承認欲求ではないでしょうか。それを考えていくには、マズローが提唱したかの有名な欲求5段階説を今一度確認する必要があります。


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ここで重要なのが、承認欲求には「他者から価値を認められたい」と「自分を認めたい」の2種類があるということです。そして、この二つには高低関係があり、前者が低次で後者が高次になっているといいます。つまり、他者から価値を認められて初めて、自分を認めることができるというわけです。前後する場合もあるようですが、基本的に。


わざわざ言及するまでもなく、ケイラも自分を認めていることができていなかったのは明白でしょう。自分を認められなかったからこそ、「理想の自分」に発破をかけさせることで、自らを「理想の自分」に近づけて認めたい。そのような思いがケイラにあったと考えられます。しかし、他者から承認を受けられない状況下では、ケイラの思いが叶うことはなく、一度上げてから落とされたことで、ケイラの動画投稿は頓挫してしまいます。それは、自分を認めることはもう叶わないというケイラの諦めをも意味しているように私には感じられ、胸が締め付けられるようでした。


しかし、現実でマークに、SNSでエイデンに承認され、ケイラの「他者から価値を認められたい」という欲求は満たされていきます。すると、今度は「自分を認めたい」という欲求が顔を出す。映画が始まる頃は、ビビっていたケイラですが、終盤になると「たとえ上手くいなくても、上手くいかなかった自分をもマーク(ともしかしたらエイデン)は承認してくれる」という安心感が彼女の中に芽生えていたように私には見えました。だからこそ、最後にケイラは「自分を認めようとする」ことができたのではないでしょうか。


この映画はケイラが18歳の自分に向けて新しいタイムカプセルを埋め、動画を撮影するところで幕を閉じます。タイムカプセルの表面に書かれていたのは「世界で一番クールな私へ」。さらに、動画では「どんな姿になっていても、どんな高校生活でもきっと大丈夫」「私は早くあなたになりたい」とポジティブなメッセージを未来の自分自身に送っていました。


これは、8回生の彼女が未来の彼女に向けて「理想になれなくても大丈夫」と「優しい歌」を唄っていたように私には思えます。「自分を認めたい」という欲求において、それを満たせるのは自分自身を置いて他にはいません。要するに自分を認めることは自分一人にしかできないのです。最初、ケイラは自分を認めることができませんでした。しかし、最後に彼女は「きっと大丈夫」と言う。それは、不特定多数の誰かに送られるメッセージではなく、彼女が彼女自身のためだけに送ったメッセージであり、承認です。「拍手は一人分でいいのさ」。物語を通して、ケイラの中に小さいですが、確実な変化が生まれた。そのさりげない成長を描いたこの映画が、私はとても好きです。観てよかったです。




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以上で感想は終了となります。『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』。本文には書けませんでしたが、EDMがバリバリに流れて、結構コメディチックなシーンもあったりととても楽しく観られる映画でもあります。ケイラの成長にもグッときますし、良い青春映画でした。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


参考:

映画『エイス・グレード 世界で一番クールな私へ』公式サイト
http://www.transformer.co.jp/m/eighthgrade/

マズローの欲求5段階説をこの上なく丁寧に解説する。あなたの欲求はどのレベル?|八木仁平公式サイト
https://www.jimpei.net/entry/maslow#4


おしまい 


【映画パンフレット】エイス グレード 世界でいちばんクールな私へ
エイス グレード 世界でいちばんクールな私へ



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