こんばんは。これです。もう今年半分が終わってしまいましたね。昨日始まったと思ったらもう折り返し地点。その早さに毎年のことながらビビります。あと半年も多分あっという間なんでしょうけど、頑張っていきたいと思います。
さて、今回のブログは昨日観てきた映画「レディ・バード」の感想になります。「あなたの物語」と銘打ってましたが、その言葉通り、自分ごととして観ることのできる映画でした。面白かったです。では、感想に入ります。いつにも増して、輪をかけて拙い文章ですが、何卒よろしくお願いいたします。
※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。十分ご注意ください。
まずは新しい試みとしておおよそのあらすじをば。
2002年、カリフォルニア州サクラメント。
閉塞感溢れる片田舎のカトリック系高校から、
大都会ニューヨークへの大学進学を夢見るクリスティン(自称“レディ・バード”)。
高校生活最後の1年、友達や彼氏や家族について、
そして自分の将来について、悩める17歳の少女の揺れ動く心情を
瑞々しくユーモアたっぷりに描いた超話題作!
(映画公式サイト|STORYより引用)
というわけです。分かりましたね。
じゃ、いきなり全開で行かせてもらいます。
映画冒頭に出てくる言葉
「何かを成し遂げたい」
「夢は?」「ない」
これがクリスティンっていうキャラクターを端的に表してるんじゃないかなって思うんです。何かを成し遂げることによって、自分のことを特別な人間であるというように見られたいという欲求。これはクリスティンが持つ「劣等感」から来てるんじゃないかなって思うんですよね。
クリスティンは自らの住む家が裕福ではないのを恥じて、自らの住んでいる地区を「線路を渡ったスラム」と表現していますし、劇中でできた友人には、他の立派な家を自分の家だと偽って伝えています。
嘘をつくのは自らのコンプレックスを隠すためで、自分をよく見せたいという思いからです。自らのコンプレックスを隠すのは自分に自信が無いためです。クリスティンは自分に価値がないと思ってしまってます。
また、このページに
人と違う行動をすることで、自分にとって特別感が得られます。特別感が得られることで自分に価値があると自分自身に言い聞かせているのです。
ってあったんですけど、まさにクリスティンはこれだなって。ミュージカルの舞台に立つ、生徒会長に立候補するなど、その辺の人にはできない特別な行動で、「こういうことができる私すごいでしょ。だから私を認めてよ」って心の中で叫んでるんですよね。
で、なんで自分に価値がないと思ってしまうのかというと「人と比べてしまうから」なんですよね。
クリスティンは17歳で、発達段階では青年期と呼ばれる段階にあります。
青年期は精神生活の始まりである。自分自身についての関心が高まり、自分の容姿は十人並みだろうか、人は自分をどう見ているのだろうかなどと考え込んでしまう。自我の確立へのスタートということができる。
(「新しい心理学ゼミナール—基礎から応用まで—」より引用)
この自分がどう見られているかを気にすること。そこには他者からの視線に対する意識があります。つまり他者に対する意識が青年期には出てくるということです。自分の目で他者を見るということを通して、自分にはないものに気づいてしまいます。
自信のある人だったら、「この人にはこういう特徴があって、それは私にはないけれど、私にはこういう特徴があって、それはこの人にはない。比べられるもんじゃないわ」ってなるんでしょうが、自信のない人だったら、「この人にはこういう特徴があって、それは私にはない。羨ましい。この特徴がない私はダメなんだわ」と思ってしまうことでしょう。
で、クリスティンは後者に位置してるんですよね。それは自らを「レディ・バード」と名乗ることからも現れています。
クリスティンが「レディ・バード」と名乗るのは「鳥のように大空を自在に飛び回れるような存在」になりたいと思ってのことですよね。現在の自分をつまらないものと平凡なものとして感じて、自信を喪失しかけている証拠です。
青年の心は不安定である。周囲の人々から大人扱いされても、自分一人で乗り越える自信がない。そこで、片意地を張って抵抗する。周囲の人々、特に親や教師に依存している自分を知りながら、そういう自分を許せないのである。そこに葛藤が生じ、自我が戦い出す。親だけでなく、社会的な権威、伝統、慣習、社会的慣習などにことごとく抵抗する。これが第二反抗期と言われるものである。反抗を繰り返しながら、自分の道を探し、自分というものを確立していくのである。
(「新しい心理学ゼミナール—基礎から応用まで—」より引用)
クリスティンは親から名前を貰ったという事実に抵抗しています。親に名前を与えられたということは親に依存している自分がいるということを彼女は感じ、それが許せないのです。だから、「レディ・バード」と名乗ることにより、その自意識に反抗しているのではないでしょうか。
そして、その抵抗は進路選択にも及んでいます。親が進める地元の大学ではなく、大都会ニューヨークの大学に行きたいと言い出します。これは抵抗と憧れが混ざり合った選択だと思われます。
自分の住んでいる地区を田舎だと切り捨て、華の大都会ニューヨークに住みたいと考え、親にニューヨークの大学に行くために奨学金の援助を頼んだりしています。父親が失業し、そこまで裕福な家庭ではないにもかかわらずです。でもこれちょっと分かるなあ。
地方に住んでると大都市への憧れっていうのはでてきますよね。都会は何かと便利だし、おしゃれなイメージがあるし、芸能人に会える確率だって田舎とは段違いです。地方にいるとどこに行くにも車がいるし、野暮ったいイメージはなかなか頭から離れず、芸能人に会えることなんてまずない。都会に憧れる心理っていうのは国を跨いでも一緒なんだなっていうのが分かっていたく共感しました。私も地方出身者ですしね。
話を戻します。都会の大学に行きたいっていうのは親に対する抵抗っていう話でしたよね。親は金銭的な事情から学費が割安になる地元の大学を勧めていましたが、そんなことクリスティンは知ったこっちゃありません。クリスティンを動かしていたのは、「抵抗」というエネルギーです。周りからこうしろああしろと言われ続けるとうんざりして、別の方向に進みたくなってしまうのが人間の性。
また、「子供は親の言うことを聞くもの」だという意識がクリスティンの中にあって、「それに反抗しちゃう私、特別」みたいな自分に酔っているところもあったのでしょう。自分に酔うのは中二病に近く、誰もが通ってきた道感ありますね。
「レディ・バード」では親子の心のすれ違いも描かれています。クリスティンの母親はクリスティンのことを愛しているのに上手く態度に出せない。厳しき接するという教育方針のせいですかね。クリスティンも母親のことを愛してるのに、第二反抗期のせいで、それを態度に出せない。親子のすれ違いは続きます。
クリスティンは青年期真っ只中で第二反抗期の中にいるとはいえ、まだ17歳です。親に依存している自分を認識して抵抗していますが、ふとした時に親の愛情が必要なことだってまだまだあるでしょう。でも母親は自分の主張を認めてくれない、認められたいという承認欲求に加え、母親は自分を愛していないのでは?という疑念がクリスティンの中に生まれてきます。
ドレッシングルームで思わず出てしまったクリスティンの言葉。
「お母さんは私のこと愛してる?」
「褒めてほしい」
これは「自分を見て!」という承認欲求が高まりが出させた言葉でした。抵抗しているのに「褒めてほしい」って言うのも相手に自分を認めてほしいからと考えれば何ら不思議はありません。ていうかクリスティンって思えば承認欲求けっこう高かった気がする。
生徒会長になって周りに認めてほしいという承認欲求。ミュージカルの主演を務めて周囲に一目置かれたいという承認欲求。クリスティンは家で認められておらず、外に承認欲求を満たしてくれる場を求めた。それが彼女を時に大胆な行動に走らせていたんだと思います。彼氏と二人付き合ったのも「自分の価値を誰かに認めてほしい」っていう思いからだったのかもしれませんね。
クリスティンは劇中でニューヨークの大学に補欠合格したことを母親に隠していました。兄の就職を祝うパーティでそのことが母親に告げられ、母親はキレて部屋に戻ってしまいます。怒って一言も発しない母親に対してクリスティンは、「ほんとに悪かったと思ってる」「お願いだからなんか喋ってよ」と泣きつきます。自分の抵抗が行き過ぎてしまったことを自覚しました。
ここで大事なポイントは「私は嘘もつくし、性格も良くない」ってクリスティンが認めたことなんですよね。自分自身の承認欲求のために嘘をついているということを自覚したことに大きな意味があります。弱い自分というものを知ったことで、自我の確立に一歩近づいたという点で大きな意味が。
その後、父親の慰めにより「母親も自我を持った一人の人間なんだ」ということを理解したクリスティン。母親は自分を愛していないわけじゃなかったということを父親から教えられ、クリスティンの承認欲求は満たされました。
エリクソンは、「自分は・・・である」という主体的な意識を自我同一性(エゴ・アイデンティティ)とよんだが、同一性を獲得するには猶予期間(モラトリアム)が必要である。青年は、この時期に同一性をいかに獲得していくのかを問われる。
(「新しい心理学ゼミナール—基礎から応用まで—」より引用)
大学に合格し、ニューヨークに出たクリスティン。そこで出会った男性に、「私は"クリスティン"」と名乗ります。今まで「レディ・バード」と名乗っていたクリスティンが自ら「クリスティン」と名乗ったんですよ。すごいですよね。
クリスティンの母親に対する承認欲求が満たされ、「自分はレディ・バードではない、クリスティンである。マリオン・マクファーソンの娘、クリスティン・マクファーソンである」という主体的な意識をクリスティンは獲得しました。大空に羽ばたく準備が整ってのです。あとは飛んでいくだけです。
辛いことや大変なことがあって、飛ぶのに疲れても「マリオン・マクファーソンの娘、クリスティン・マクファーソンである」という立ち返れる場所ができました。そう自分のことを認めたことにより劣等感も少しは薄まっていることでしょう。
クリスティンが成長する様を、一人の少女が大人になっていく様を「レディ・バード」で見守ることができて嬉しい気持ちでいっぱいです。観てよかったー。
書いて思ったんですけど、これ誰にでもあることですよね。発達の段階で青年期っていうのは必ず通る過程です。親に抵抗したことがない人の方が少ないはずですし、抵抗しなかった人も心の中では抵抗心を持ってる人もいるはず。劣等感やそれに伴う承認欲求だって誰もが多かれ少なかれ持っているはずです。
「レディ・バード」はそんな、誰もが通った、そしてこれから通るであろう青年期という普遍的な時期を鮮やかに描き出しており、多くの人が共感できる映画になっています。全てのティーンエイジャー、そしてティーンエイジャーだった人に観てほしいそんな映画です。不器用なクリスティンの姿に刺さるものがきっとあるはず。オススメです。ぜひ観てみてください。
参考:
生きづらさを感じる「特別な存在になりたい心理」
https://www.cocoro-quest.net/entry/special-existence
藤田主一、板垣文彦編「新しい心理学ゼミナール—基礎から応用まで—」 福村出版
おしまい