Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2019年03月



こんにちは。これです。最初に言っておくと、今回も映画の感想ブログですよ。


さて、今回観たのは『ROMA/ローマ』。『ゼロ・グラビティ』を手がけたアルフォンソ・キュアロン監督のNetflix発の映画です。アカデミー賞で監督賞や外国語映画賞を受賞し、日本での注目独活も高いこの映画。私も一応Netflixには入ってはいるんですが、家のパソコンだと映らないし、かといってバキバキのスマホで見たくはないし、というわけで劇場公開を心待ちにしていたんですよね。そして、今回松本のイオンシネマで上映してくれるとの情報を聞きつけ、ようやく昨日観に行ってきました。長野では(ry


では、前置きもこれくらいにして感想のほうを始めていきたいと思います。ただ、『ROMA/ローマ』についてはもういろんな人がいろんなことを書いてますし、何を書いても被っちゃうんですよね...。でも、そんな気持ちにも負けずに書いたので、お読みいただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。




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―目次―

・尊い…
・画面作りや音楽が尊い…
・支えあうソフィア家とクレオが尊い…
・最初のシーンとラストシーンの対比が尊い…





―作品情報―

「ゼロ・グラビティ」のアルフォンソ・キュアロン監督が、政治的混乱に揺れる1970年代メキシコを舞台に、とある中産階級の家庭に訪れる激動の1年を、若い家政婦の視点から描いたNetflixオリジナルのヒューマンドラマ。キュアロン監督が脚本・撮影も手がけ、自身の幼少期の体験を交えながら、心揺さぶる家族の愛の物語を美しいモノクロ映像で紡ぎ出した。70年代初頭のメキシコシティ。医者の夫アントニオと妻ソフィア、彼らの4人の子どもたちと祖母が暮らす中産階級の家で家政婦として働く若い女性クレオは、子どもたちの世話や家事に追われる日々を送っていた。そんな中、クレオは同僚の恋人の従兄弟である青年フェルミンと恋に落ちる。一方、アントニオは長期の海外出張へ行くことになり……。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で、最高賞にあたる金獅子賞を受賞。第91回アカデミー賞でも作品賞を含む同年度最多タイの10部門でノミネートされ、外国語映画賞、監督賞、撮影賞を受賞した。Netflixで18年12月14日から配信。日本では19年3月9日からイオンシネマで劇場公開される。

映画.comより引用)










・尊い…


いや…尊い…。尊すぎますよ、この映画。メキシコシティはコロニア・ローマで暮らすソフィア一家と、住み込みで働くクレオの物語なんですけど、何が尊いかってなんてことのない日常が描かれていることなんですよね。みんなでご飯を食べて、父親を笑って迎え入れて、時には喧嘩もする。その何の変哲も無い日常が最高に尊い。


ただ大変なこともありますよ。地震で赤ちゃんが死んだり、山火事が起きたり、学生がデモを起こしたり。それに舞台となった1970年頃のメキシコって、Wikipediaによると一党独裁だったようで、経済格差や自由な隣国アメリカへの羨望からデモがよく起きていたらしく、300人ほどの死者を出したものもあったそうです。一党独裁に陰りが見え始め、国内が混乱に陥っていた時期みたいなんですよね。でも、そんな大変な時代でも、家族と家政婦の営みは変わらない。個人的に観ていて2015年に製作された『この世界の片隅に』という映画を思い出しました。『片隅』もすずさんというミニマムな視点から時代の大変さをそれとなく描いていて最高だったなぁ。


この映画は日常→不測の事態→日常という風に変遷していくんですが、最終的に日常に戻るのが本当に素晴らしいんですよ。彼ら彼女らの繋がりは簡単には途切れないということが示されていて感動しました。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・画面作りや音楽が尊い…



さて、この映画の持つ尊さを最大に盛り上げていたのが、画面作りです。この映画で切り取られた風景・光景の美しさというのは誰もが認めるところでしょう。本当に不純物が一つも無くて、とても済んでいてキレイ。ソフィア家の階段の多い構造や、本当にどこにでもあるような、それこそ日本でも普通に見られる間取り。発展した街並みから、自然の豊かな郊外までどこをとっても思わず見惚れてしまうほどです。犬のフンやモロ出しのチ〇コまで美しいってどういうことですか…。


たぶんこれはこの映画が白黒の画面を採用したっていうことが一番大きいんでしょうね。ただ単純に白と黒だけじゃなくて、グラデーションがある。どっちつかずのグレーがある。明度の違いで、この白や黒、グレーは何色だって想像できるのがモノトーンの映画の楽しみ方の一つだと思うんですけど、『ROMA』ではそれが最大限に活かされていた印象でした。壁の色や車の色。空の青と海の青はちゃんと違っていて、白黒でも雰囲気が手に取るように分かります。それに白黒って懐かしい印象を与えるじゃないですか。それは温かみにも似ていて安心するといいますか。家族と家政婦の何気ない日常を描くというこの映画のコンセプトは、この白黒の画面が与える安心感が無ければ成立し得なかったと思います。


それに、カメラワークもどこか遠いところから客観的に撮っていた印象があるんですよね。キャラクターのアップのショットは少なくて、多くの場面で背景を入れているといいますか。クレオが働くシーンだって必ず家の壁が背景に入ってましたよね。これによってキャラクターが世界の一部であることが示されるんですよね。ちゃんと世界に生きている人間だって。簡単に言えば生活感が出るんですよ。かけがえのない生活感が。生活の描写はこの映画の生命線なので、ここは妥協せず徹底的にこだわっていた感じあります。


それに推測なんですけど、この映画って光の使い方が上手いんだろうなって。どの角度からどれだけの光を照らせば最大限に映えるかがちゃんと計算されている。ソフィアの家には吹き抜けがあって日光が差し込んでいて明るい印象を与えますし、なんといっても終盤の海辺のシーンですよ。あのシーンは6人を後ろから日光が照らしていて、後光が差しているといってもいい神々しい印象すら与えます。逆光で6人の表情が見えづらいのも心憎い演出ですね。照明班や撮影班は最高の仕事をしていました。手放しで称賛したい気分です。




また、意外だったのが『ROMA』では音楽がふんだんに使われていたことです。正直白黒映画ですし、もっと敷居高い感じを予想していたんですが、そんなことはまったく無かったです。音楽隊がマーチを鳴らしながらソフィア家の前を横切ってくれますし、テレビからも明るい歌が流れる。正月にはみんなで踊っていますし、ギターの歪んだ音さえ聞こえる。想像以上にポップでエンタメしていました。日常をただ描くという退屈になりかねない展開を、音楽が上手く盛り上げていた印象です。ただ、山火事のときに仮装していたおっさんが歌っていたのは意味わかんなかったですけど。マジなんだったんだあれ。




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・支えあうソフィア家とクレオが尊い…


さて、これは今調べたのですが、物語には縦軸と横軸があるといいます。縦軸はストーリーの柱。横軸はそこから派生したエピソード群。『ROMA』の横軸は紛れもなく家政婦クレオとソフィア家(主に子どもたち)との日常です。では、縦軸は何かというとクレオの出産なんですよね。


クレオはボーイフレンドのフェルミンと映画に行きます。そこで、自分が妊娠しているかもしれないということを告げるわけですね。この前のシーンでフェルミンが裸で棒を使った武術をチ〇コ丸出しで(結構大きかった)披露するシーンがありまして、まあその後にやったんだろうと。で、これを聞いたフェルミンは逃げ出してしまいます。


病院に行き、妊娠が確定したクレオ。逃げたフェルミンを探しに行きます。フェルミンは道場で修行をしているわけですが、ここの日本文化が間違って伝わってる感面白かったなあ。片言で「イチ、ニー、サーン」とか行っちゃって。そもそも棒を振り回す武術なんて日本にあります?と思ったら沖縄の方にあったわ。棒術って言うらしいです。すみませんでした。まあそれはさておき、フェルミンは「責任取れや」と言いに来たクレオに対し、「もう話しかけてくんな」と突き放す態度をとります。このクソ野郎が。


そして、ベビーベッドを買いに行くクレオとソフィアの母・テレサ。外では悲惨なデモが行われていて、フェルミンもデモに参加した学生を撃ち殺す集団の一人として参加していました。フェルミンに銃を突きつけられるクレオ。フェルミンが去った後にクレオは破水します。急いで病院へ向かうクレオとテレサですが、クレオの出産は残念ながら死産に終わってしまいます。クレオは息をすることの無かった赤ん坊を抱かせてもらうのですが、ここも手術出の背景と一緒にミドルショットで映されていて、残酷さが増していてとても悲しくなるシーンでした。




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ショックを受けて言葉少なげになってしまうクレオ。ソフィア家はそんな彼女を海に誘います。ここからが私がこの映画で大好きなところなんですが、クレオの再生が描かれているんですよ。クレオの再生を一手に担っていたのが、ソフィア家のトーニョ、パコ、ペペ、ソフィという4人の子どもたち。端的に言うとこの子たち、クレオのことが大好きすぎるんです。クレオにめっちゃ懐いていますし、最後に「クレオが生まれた村に行きたいな」とか言い出して本当に尊かったです。


きっと子どもたちにとってはクレオが家政婦かどうかなんて関係ないんでしょうね。ただの働き手としか観ていない、彼女のミドルネームや誕生日も知らない大人たちと違って。純真無垢な子どもたちによってクレオは死産のショックから立ち直っていきますし、最後は明確にハッピーエンドで終わるのも心地よいです。それに輪をかけて重要なのがソフィア家も傷ついているということなんですよね。


映画の終盤でソフィアは夫のアントニオと離婚します。父親がいなくなることを告げられて、子供たちのショックは大きかったことでしょう。悲しい気持ちを紛らわそうと海辺で遊んでいます。ここでペペとソフィーがおぼれかけてしまい、クレオが助けに行くんですが、彼女泳げないんですよ。なのに無償の愛をもって助けに行く。救われたぺぺとソフィー、さらにはトーニョとパコ、ソフィアも合わさって6人で体を寄せ合うシーンは、アイキャッチにも使われているこの映画の最重要シーンです。ここで視覚的にだけではなく、精神面でも互いが互いを支えているんですよね。再生して、再生されて。無くてはならない存在になって。立場の違いも越えて支えあえるってめっちゃ尊くないですか…。推せる…。


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・最初のシーンとラストシーンの対比が尊い…


『ROMA』はもう全編通して尊かったんですけど、一番最高だなって思ったのが最初のシーンとラストシーンの対比なんですよね。


『ROMA』は石畳が画面に映されて幕を開けます。ここでキャストやスタッフの名前が表示されるんですが、波のような音がしているんですよね。ここ白黒だと波か石鹸水かの判断が付かなくて。まあ石鹸水だったんですけども。そして石鹸水に反射する空が映されて、その中を飛行機が飛んでいます。とても閉鎖的なオープニングでした。


一方で、これがラストシーンでは本物の空が映されているんですよ。雲ひとつ無い空を飛行機が横切っていく。オープニングとは対照的に開放的なエンディングです。私が思うにたぶんこれはクレオの心情の変化を表しているのではないかと。


閉鎖的なオープニングは所詮家政婦だから、雇われ人だからと塞ぎこんでいたクレオの心内を表現している。開放的なオープニングは紆余曲折を経てソフィア家と認め合えた、憑き物が落ちたクレオのさわやかな心情を表しているのではないかという仮説です。さらに裏づけとなりそうのが最初のシーンではクレオは下を向いていたのに対し、ラストシーンでは上を向いているということ。これを前向きになった彼女の心境の変化と捉えずしてどう捉えましょう。


さらに、作り物の石鹸水から本物の海水への変化はそのままクレオとソフィア家の関係が作り物から本物になったということを示唆しているとも考えられます。それに二つのシーンで象徴的なのがどちらにも飛行機が登場しているということなんですよ。


ここで考えたいのが飛行機が国境と国境を飛び越える存在であるということ。最初のシーンで飛行機の影は壁に隠れて見えなくなっていましたよね。これはソフィア家とクレオの間には壁があり、飛び越えられていないということのメタファーだと思います。また、クレオとフェルミンが観た映画では飛行機が墜落していましたよね。これもまた、壁を飛び越えられていないということを表していたと考えられます。


でも、最後のシーンで飛行機は自由に飛び去っています。もう言わなくても分かりますよね。ソフィア家とクレオの間にある壁なんて関係ないということです。雇用主と家政婦という壁を飛び越えて信頼し会える、支え合える関係に両者はなったのです。支えあうっていいですよね...。ハァ…尊い…。最高に尊いよ、この映画…。




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以上で感想は終了となります。『ROMA/ローマ』はとにかく尊く、観終わった後優しい気持ちに慣れる素敵な映画です。上映館もまだまだ拡大していくようですし、ぜひともこの機会に観てみてはいかがでしょうか。おススメです。


お読みいただきありがとうございました。



おしまい


『ROMA/ローマ』オリジナル・サウンドトラック
オリジナル・サウンドトラック
SMJ
2019-03-13



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こんにちは。これです。


昨日の『THE GUILTY/ギルティ』を観て、ブログを書き終えた後、私はもう一本映画を観に行っていました。大九明子監督の『美人が婚活してみたら』です。大九監督の前作『勝手にふるえてろ』が個人的にクリーンヒットしたので、ぜひ観てみたいと思ってたんですよね。この映画も長野ではやっていないのではるばる松本まで出かけて観に行きました。



では、感想を始めたいと思います。どちらかといえば否定的な感想になっていますが、それでもよければお付き合いくださいませ。




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―目次―

・キャストとキャラクターについての雑感
・リアリティを出していた演出について
・コントっぽい脚本について
・結論がちょっと…






―あらすじ―

主人公のタカコは道行く誰もが振り返る美女。WEBデザイナーという仕事にも恵まれ、愚痴を聞いてくれるケイコという親友もいる。しかし、長くつきあってから相手が結婚していることが発覚するという恋愛が3回も続き、気づけば32歳になっていた。不毛な恋愛に疲れ果てたタカコの口から「死にたい……」という言葉がこぼれ出たその夜、タカコは結婚を決意し、婚活サイトに登録する。マッチングサイトで出会った本気で婚活に励む非モテ系の園木とデートを重ねながら、シングルズバーで知り合った結婚願望のないバツイチ・イケメン歯科医の矢田部に惹かれていくタカコ。実は自身の結婚生活に悩んでいたケイコは、タカコが結婚後についてまったく考えていないことに苛立ち始め、2人はとうとう本音を激しくぶつけあう大げんかをしてしまう。

(映画『美人が婚活してみたら』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。















・キャストとキャラクターについての雑感


この映画の主人公であるタカコを演じたのは黒川芽以さん。ちゃんと美人でこの映画の根本を崩していないのはもちろん、演技でも自信たっぷりに振る舞うことで美人という強者の余裕を感じさせました。部屋でだらけている様子さえ可愛らしいってどういうことよ。でも、ケイコとの喧嘩などや終盤の別れなど時折見せるキツい表情もよかったなあ。


そして、そのタカコの友達であるケイコを演じたのは臼田あさ美さん。ケイコの話し相手というキャラクターをあっけらかんと演じていました。でも後半になるにつれて、嫌な人間らしい表情も見せるんですよね。矢田部の元妻のインスタの愚痴をプリントアウトするし、歩道橋の上では子供を迫る親にブチギレる。ここ空気重くて個人的には一番好きなシーンです。


次にオクテな男・園木を演じたのが中村倫也さん。タカコの心を溶かしていく役割を柔和な演技で全うしていました。女性に慣れてない頼りない感じがとてもよくて、分かる〜って感じます。タカコと2人で歩くシーンなんて、2人の歩幅が合ったり合わなかったりでいじらしかった。


そして極めつけが田中圭さん。女性に慣れている歯科医・矢田部を演じているんですが、まあフェロモンがすごい。余裕からくる妖しい雰囲気。これは普通の人には出せないなあ。バーボンの氷を回すところとか女性すごく喜びそうですよね。タカコとの濡れ場もあってファンの方には目眩がするほど素敵な田中圭像をまた一つ提供したのではないでしょうか。


以上でキャスト・キャラクターの項は終わり。本当に雑な感想ですみません。まあチラシの裏の落書き程度に受け取ってもらえれば。




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・リアリティを出していた演出について


さて、この映画の特徴ってリアルさだと思うんですよ。例えば、最初のシーンは公園を遠くから撮ってタカコを小さく描いてますよね。ここからは「タカコはいくら美人といえど周りの人間と同じ存在。特別扱いはしないぞ」という大九監督のメッセージを感じました。


それにタカコとケイコが居酒屋で飲むシーンは2人のアップではなく、周囲の客と一緒に映してるじゃないですか。ここで彼女たちの埋没感、その辺にいる感じが表現されていたように思います。リアルにもああやってだべってる女同士っているよね的な。


他にもタカコの部屋を定点カメラで撮影したり、ケイコが疲れて帰ってくる様子を足元を映すことで訴えてかけてくるなど特徴的な演出は多かったんですが、その中でも印象的なのが、多用されていた後ろからのショットです。


思えば、タカコと矢田部が話すシーンやタカコのシャワーシーン、タカコが園木から離れていき回想に突入するシーンなどこの映画では後ろからのショットが多く用いられていました。この後ろからのショットの利点はなんといっても顔が見えないこと。今どんな表情をしているのだろうと想像を掻き立てられます。少し横顔を見せるのも効いていましたね。見せすぎない感じが逆にリアルでした。


それに、この映画での後ろからのショットって「キャラクター(主にタカコ)の後ろめたい気持ち」を表現していたと思うんですよ。タカコと矢田部が話すシーンはタカコには園木の存在がありますし、タカコが園木こら離れていくシーンには元彼の影があります。


このようにタカコには後ろめたい思いがあったと思われますが、結論を出してからのタカコには後ろからのショットがないんですよ。全部前から撮ったショットで。これはタカコの気持ちが前向きになったことを表していると個人的には感じます。これを踏まえて考えると『美人が婚活してみたら』は(一応)傷ついていたタカコの再生の物語と言えますね。




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・コントっぽい脚本について


また、この映画は芸人であるシソンヌじろうさんが脚本を手がけていることも大きな特徴です。シソンヌといえばキングオブコントでキングに輝いた経験もある実力派のコント師です。そういったコント畑の方が書いているだけあって、この映画にはコントっぽい部分がいくつか見受けられました。


それはまず、矢田部と会ってタカコが舞い上がるシーンや、ケイコがタカコに婚活雑誌を見せるという分かりやすい部分があります。このあたり明らかに笑かしに来ていて実際笑ってしまいました。


また、この映画って最初のタカコとケイコの会話で分かりやすく状況を伝えてくれるんですよね。美人と言われても謙遜しないタカコの性格や、付き合った男が全員不倫していることなどセリフで。コントでもまず最初は舞台説明から入ることが多いじゃないですか。イメージですけど。コント的だなあって振り返ってみると思います。タカコが婚活を始めた後のボケの積み重ねもコント師らしかったですしね。


それに、コントってリアリティが大切だと思うんですね。徹底してリアリティを追求することで、そこから逸脱したボケが笑いを生むじゃないですか。学芸会のようなチープなセットよりもプロが作ったセットの方が、説得力があって笑いも大きくなります(それを逆手にとって「ショボイな」って笑いもある)。


そういった意味じゃ上記のようにリアリティを追求していた大九監督の演出はじろうさんの書いた脚本になかなかマッチしていたのではないかと感じます。想像以上に笑えましたし、喜怒哀楽の「喜」や「楽」の部分では十分に成功作なんじゃないかとあまりハマらなかった私でさえ思えました。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






・結論がちょっと…


さあ、映画の終盤、タカコは園木とも矢田部とも別れます(超絶ネタバレ)。婚活をやめにし、ケイコと漬物づくりに勤しむタカコ。この前でタカコがなんて言ったか分かります?「私は恋がしたかっただけだったんだ」です。これが結論。タカコは独身のままでいることを選択します。


映画の最初に「死にたい」って呟いたタカコ。しかし、最後はルンルン気分で歌まで歌っちゃっています。これはタカコが結婚しなきゃというムーブを跳ね除けて、自分でいることを受け入れたということでハッピーエンドなんですが、付き合わされた男はたまったものではありません。


そりゃ矢田部はいいですよ。女性の扱いに慣れていますし、他の候補もたくさんいます。でも園木の立場はどうなるんだって話ですよ。園木はオクテだけど意を決して、順番を飛ばそうとしたんですよ。それを直前で「ごめんなさい」って…。振り回されて可哀想ですよ。


確かに大九監督の描きたい(であろう)「苦しみながらも輝く女性像」っていうのは分かるんですよ。私もそういうの好きですし。ただ、タカコが出した結論って、男を「恋愛するためのツール」としてしか見てないと思えてしまうんですよね。観終わった後考えてみると、園木と矢田部ってオクテと遊び人っていう役割を与えられた人形にしか見えないなって。タカコの自己実現のための踏み台的な。


前述したようにこの映画ってタカコが再生する物語なんですけど、そこに軸足を置きすぎて、園木と矢田部の人間らしさがあまり見えなかったのはあまりハマれなかった理由の一つですね。




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そして、私がこの映画にハマれなかった最大の理由っていうのがタカコが美人として設定されていたことだったんです。えーと作品の根幹の否定になっちゃってますね。でも実際そうなんだから仕方ない。


だってタカコって自分が美人であることを否定しないんですよ。謙遜も全くしないし、強者の余裕が感じられます。こっちはブスで余裕全くないっていうのに。少なくともこの時点で共感はできるはずもないです。まあそれは分かっていて観に行ったんだろといえばそれまでなんですが、どこかで弱みを見せてくれることを期待してたのは否めない。


それにタカコって「死にたい」って思ったことが一度もないっていうんですね。32年も生きてきて。そんな人います?どんなにイージーモードな人生でも一度は死にたいって思いますよね?私なんて毎日うっすら死にたいと思ってるのに。それでも今死んだらみっともないなとか、恥ずかしいなとかそんな理由で生きのばしてるのに。


この映画のテーマって「美人でも誰にでもそれなりに苦労はある」ということもあると思うんですけど、タカコの苦労って付き合ってくれる男がいての苦労なんですよね。途中上げて落とすパートがあるんですが断言します。ブスはそこまで行けない。落とされてもどこか他人事に思えてしまう。リアルな画づくりを心がけているにもかかわらず。


それに仕事もできてなんでも話せる相手もいるって完璧かよ。弱み全然見せてくれないし、遠く感じてしまいました。あれ、文句ばっかり言ってるな…。なんで観に行ったんだろう…。当たり屋かな。




それでも大九監督の前作『勝手にふるえてろ』は、どハマりして去年の3位に推したんですが、それに比べるとこの映画はなぁ…。多分『勝手にふるえてろ』のヨシカは持たざる者で、『美人が婚活してみたら』のタカコは持てる者だったのが大きいのかなと。


ヨシカは彼氏いない歴=年齢というキャラクターで、絶滅した生物が好きというヤバい一面も見せてくれで、「これは俺だ」ってなったけど、タカコにはそれが薄かったんだよなぁ…。美人だし全部うまくいってるやんみたいな感じで、憧れはするけど共感はできなかった。でもこれは私が持たざる者の方が好きっていう嗜好の問題もあるんでしょうね。決して悪くない映画でしたし。


あとはやっぱり松岡茉優さんですか。あれだけ美人なのにいい塩梅で冴えない感じ出してたもんなぁ。歌ってから帰って泣くシーンや一人で淡々と過ごすシーンの胸の締め付けられ方すごかったし。最高で最強です。やっぱり松岡茉優さんはすごいですよ。何だこの結論。




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以上で感想は終了となります。『美人が婚活してみたら』、私ははまれなかったんですけど、決して悪い映画ではありませんので。上質な笑いを提供してくれますので。興味のある方は観てみてもいいのではないでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


美人が婚活してみたら
とあるアラ子
小学館クリエイティブ
2017-05-11



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こんにちは。これです。もうすぐ3月も終わり。明後日にはもう新元号が発表されると考えると思うと早いですね。平成の次の元号は何になるのでしょうか。


それはともかく、今回のブログも映画の感想になります。 今回観た映画は『THE GUILTY/ギルティ』。口コミでじわじわと人気を集めているデンマーク映画です。長野ではやってないので、松本までわざわざ松本まで観に行きました。そして今このブログは駅前のマックで書いてます。まあそんな感じです。

 
それでは感想を始めたいと思います。今回も何卒よろしくお願いいたします。







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ー目次ー

・制限された情報が想像を掻き立てる 
・疑心暗鬼になった
・ SNSから考えるこの映画が描いた「罪」とは




 

ーあらすじー

緊急通報指令室のオペレーターであるアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、ある事件をきっかけに警察官としての一線を退き、交通事故による緊急搬送を遠隔手配するなど、些細な事件に応対する日々が続いていた。そんなある日、一本の通報を受ける。それは今まさに誘拐されているという女性自身からの通報だった。彼に与えられた事件解決の手段は”電話”だけ。車の発車音、女性の怯える声、犯人の息遣い・・・。微かに聞こえる音だけを手がかりに、“見えない”事件を解決することはできるのか―。

(映画『THE GUILTY/ギルティ』公式サイトより引用)




映画情報はこちらからどうぞ

 








※ここからの内容は映画のネタバレを多少含みます。ご注意ください。











・制限された情報が想像を掻き立てる 


この映画の最大の特徴でありセールスポイント。それは言わずもがな「ほとんど電話の会話のみでストーリーが展開される」という点にあります。あらすじにもあるように、主人公アスガーは緊急通報指令室のオペレーター。日々緊急の電話の相手をしています。スクリーンに映し出されるのは電話を受けているアスガーだけ。事件の風景は自分で想像するしかありません。


薬中からの電話や「自転車で転んで膝を怪我した」などの自分でなんとかしろと言いたくなる電話(これ日本でもよくあるヤツや)に日々追われるアスガー。オペレーター勤務の最終日、ある女性からの通報が入ります。その女性は男に車で誘拐されていて助けてほしいと泣きながらに懇願します。


繰り返しになりますけど、ここで事件(と言っておく)の映像は一切示されないんですよね。観ている人のイメージに委ねられる。なので人それぞれによってイメージしている映像は千差万別で異なるんです。


ちなみに私がイメージしたのは、イーベンは『クワイエット・プレイス』のときのエミリー・ブラント。夫のミケルは短髪でうっすらと髭が生えていて、例えるならデビッド・ベッカム。俳優じゃないけど。そして娘のマチルデは『アイ・アム・サム』のときのダコタ・ファニング。マチルデを保護した警官は黒人で、電話相手のボスは太っている感じ。北デンマーク州の司令官は短い金髪に黒縁のメガネをかけていて、アスガーの相棒(名前忘れた)はたぶんアスガーよりも背が低い。といったような容貌をイメージしながら観ていました。


事件の様子は想像するしかないんですが、それを掻き立ててくれるのがです。車の走る音やイーベンがもがく音、周囲の話し声に風の吹く音まで、この映画は様々な音が電話越しに聞こえてきました。雑音といってもいいこれらの音ですが、数少ない手がかりとなって、状況をよりリアルに伝えてくれるんですよね。


ほら、日常で無音ってないじゃないですか。映画の演出で無音にすることで、物語中の世界であることを際立たせるっていう手法があるんですが、この映画はあえてノイズをカットしないことで、これはフィクションではなく現実の話だと突きつけてくるんですよ。リアリティがすごい。


さらに、この映画で音の演出の他に際立っていたのが画面作りです。この映画ってイーベンの事件の内容が明らかになっていくにつれて、どんどんと画面の情報が減っていくんですよ。淡い水色のオペレータールームから、電気のついていない暗い部屋へと。そしてシャッターを降ろして外界からの光を遮断するなど、物語が進むのに、聴覚からの情報が増えていくのに合わせて視覚からの情報は減らされていくんです。これによって事件の内容により集中することができるようになって上手い演出だなと感じました。


さらに、場所の移動だけでなくカメラワークもわざとアスガーにピントを合わせて、周囲の光景をぼやかせたり、アスガーの顔のアップを多用するなど、情報量の削減が徹底されています。アスガーの顔のアップでは、彼の焦燥や不安、怒りが手に取るように伝わってきて、彼を演じたヤコブ・セーダーグレンの演技は迫真のものでしたね。彼も多くを語らないんですけど、それがまたよかったです。事件の様子を見せない、視覚からの情報量を減らすといった『THE GUILTY/ギルティ』は引き算がバチっとはまった映画ですね。



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・疑心暗鬼になった


ほとんど電話の会話のみで構成されたこの映画。余白が多く、観ている人のイメージに委ねられる部分が大きかったのですが、私が何を考えながら観ていたかというと「こいつら嘘ついてんじゃねーか?」ってことなんですよね。


観ている私たちには事件の光景というのは想像できませんし、言ってしまえば本当に事件が起きてるかどうかだって定かではないんですよ。もしかしたらテープでノイズを流しているだけで、家から一歩も出ていない可能性。ミケルとイーベンの家に来た警官が本当は真犯人で、マチルデを攫っていくという展開。「実は全てドッキリでしたー」みたいなオチさえ想像したほどです。


映像によって確認することができないから、誰が本当の事を言っていて、嘘をついているかどうかなんて知る術がないんですよね。誰もが嘘をついているように思えてしまって。いや、最後もう一回どんでん返しあるんじゃないかって疑心暗鬼になりながら観てました。正解を示さない事でいろいろの考えが頭の中をぐるぐると回って、推理する楽しさがあって面白かったですね。


さて、当然のことながら考えを巡らせているだけでは物語は進みません。ならアスガーはどうしたかっていうと決めつけたんですよね。事件の構造をこうだと決めつけて、それを元に聞き取りを進めていく。観ている私もヤコブの決めつけに従っていって、ヤコブと一心同体になったようでした。


でも、決めつけって怖いんですよ。だってその決めつけが100%正しいとは限らないじゃないですか。昔は天動説だって決めつけられてましたけど、今では地動説が主流でしょう。決めつけが正しくないことなんていくらでもあるんです。勝手にレッテルを貼って、個人を見ようとせず、レッテルばっかり見て。それでその人を理解したようになって。映画の中でこの決めつけは覆されますし、想像力を基にした決めつけは万能ではないとこの映画は主張していたように私には思えます。


そして、これってとても現代的なテーマだと思うんですよね。つまりはSNSです。



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・SNSから考えるこの映画が描いた「罪」とは


現代はSNSによってより遠くの人とも簡単に繋がれるようになっていますよね。利用者も爆発的に増えて。2010年代は「SNSの時代」と言ってもいいくらいです。確かにSNSは便利ですが、その一方で使い方を間違えればとても危険なツールでもあります。


私はツイッターとたまにLINEしかやっていませんが、SNSというのは情報量があまり多くないじゃないですか。ツイッターは140字しかないし、画像を4枚載せても限りがあります。動画を載せることも可能ですが、最後まで見てくれる人はあまり多くない。つまりは限られた文字数、情報量で伝えなければならないんです。これは電話での会話で情報量を制限していたこの映画と同じだと私は考えます。


そして、SNSでも想像力は必要になります。この投稿でこの人は何を言いたかったんだろうという想像力。でも、やっている人の表情は分からないし、明るい顔文字をたくさん使っていても泣きながら投稿しているかもしれないですよね。嘘をつくのだって容易なわけです。何が本当かなんて本人にしか、本人にすら分からないことだってある


それでも私たちは「こうだ」って決めつけながら、SNSを使っていますよね。本人の意図する方向とは逆に解釈してしまうこともある。気にいらない人の投稿を自らの都合のいいように決めつけて攻撃する。それってとても怖いことだなって思います。


また、映画の中でアスガーは善意正義感をモチベーションにして動いています。これは人間として正の感情であり、否定されるいわれはありません。ただ、この映画の中ではこの善意や正義感が仇になっているんですよね。アスガーは自らの業務の範疇を超えて、イーベンを助けようとしました。しかし、映画ではそれがさらに深刻な事態を招いてしまっています。いきすぎた善意、正義感の暴走とも言えるでしょう。


でもって、これもSNSに適用できるんですよね。ほら炎上ってあるじゃないですか。個人の発言だけで、その人の性格を決めつけ、攻撃するっていうヤツ。あれもいきすぎた善意、正義感の暴走だと思うんですよね。


「こいつは悪だ」って決めつけて、「悪だから排除してもいい」という正義を振りかざし、力づくで排除する。歴史を振り返ってもナチスのユダヤ人虐殺や、日本での関東大震災後に朝鮮人が殺されるといった事件など枚挙に暇がありません。そしてこれは現代でも炎上という形で引き継がれているんですよね。『THE GUILTY/ギルティ』はそういった人間の過去から現代まで続く愚かな営みを小さい単位で可視化していたというのが私の印象です。


これってつまりは映画の中でも言われてたんですけど「自業自得」なんですよ。だっててめぇが首を突っ込んだんですもん。無視することもできたのに。でも、炎上に加担したからにはてめぇにも跳ね返ってくるぞと。実際アスガーは始まるときよりも不利な状況になって映画は終わっていますし。勝手な決めつけといきすぎた善意、正義感の暴走こそが「罪」であるというのがこの映画の主張だと私は思います。まあこれも決めつけなんですけどね。





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以上で感想は終了となります。『THE GUILTY/ギルティ』の持つ静かな迫力は映画館の音響でこそ映えるというもの。興味があるならば観てみることをオススメします。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい



 

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こんばんは。これです。シーズン始まりましたね。ただパルセイロはトップチームもレディースチームも未だ勝ちなし。今週末こそは勝利を挙げてほしいところです。一つ勝ったら勢いに乗っていいところまで行ける気がする。


さて、今回のブログは移籍記事になります。シーズンが始まったこのタイミングで加入がありました。滑り込みですね。では、よろしくお願いいたします。




―今回のラインナップ―

・前橋育英高校の伊藤有里彩選手が特別指定登録(パルセイロレディース)






AC長野パルセイロレディース


・前橋育英高校の伊藤有里彩選手が特別指定登録

2019年JFA・なでしこリーグ特別指定選手承認のお知らせ(長野公式)


伊藤


【サッカー】前橋育英が完封発進 U-17代表候補のGK伊藤有里彩「最終的に勝てばアピールになる」(THE ANSWER)





2019シーズンをGK2人体制で迎えたAC長野パルセイロレディース。池ヶ谷選手か風間選手のどちらかが怪我をしてしまうと、控えGKがいなくなるという危険な状況でしたが、この度、伊藤選手が特別指定登録。これで1人が怪我をしても2人残るという体制を組むことができました。とりあえずは一安心です。


伊藤選手は前橋育英高校に所属し、今年のインターハイ・高校選手権とともに正守護神として出場。171㎝の体躯を生かしたセービングが魅力の選手です。さらにU-17女子日本代表にも選出され、試合出場はなかったもののウルグアイでのU-17W杯にも帯同。世代の中では高い評価を受けているようです。それにしても、風間選手や中村選手、瀧澤選手に山岸選手など有望な選手がどんどんと長野から出てきてますね。これもパルセイロレディースがあったおかげでしょうか。素晴らしいですね。


ただ、そんな伊藤選手もまずは風間選手と第2GK争いをすることになりそうです。実績では伊藤選手の方が上ですが、風間選手には一年パルセイロレディースで堤コーチの指導を受けたという経験があります。池ヶ谷選手も含めた3人で切磋琢磨してGKのレベルを底上げしてほしいですね。頑張ってください。


それとここだけの話なんですけど、最初「有里彩」を「ありさ」と読んでしまいました。正しくは「ゆりあ」なんですね。北斗の拳の。注意していきたいと思います。










2019AC長野パルセイロレディース(3月28日現在)


監督:本田美登里(留任)
ヘッドコーチ:小笠原唯志(新任)

GKコーチ:堤喬也(留任)
コンディショニングコーチ
:藤田ひかる(留任)
トレーナー:菊地美里(新任)


GK 池ヶ谷夏美

GK 風間優華 

DF 野口美也
DF 五嶋京香
DF 鈴木
里奈
DF 大河内友貴 

DF 小泉玲奈
DF 原海七 
MF 國澤志乃
MF 古舘知都

MF 山岸夢歩
MF 瀧澤千聖
MF 濱本まりん
MF 巴月優希
MF 大久保舞
FW 鈴木陽
FW 横山久美
FW 三谷沙也加
FW 中村恵実
FW 滝川結女



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GK 伊藤有里彩(←前橋育英高校/特別指定登録


GK:3人 DF:6人 MF:7人 FW:5人 計:21人






お読みいただきありがとうございました。


おしまい





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こんにちは。これです。


突然ですけど、みなさんって献血したことありますか?献血ルームでは無料で暖かい飲み物が飲めますし、糖分が必要なのでお菓子もつまめますし、私の地元の献血ルームでは献血している最中にテレビ間で見させてくれるんですよね。少しずつ袋に血がたまっていく様は少しゾッとしますが、終わった後の「なんかいい事した」っていう満足感がいいんですよね。最近は今服用している薬が引っかかるらしいので行けてないんですけど。


さて、今回観た映画はそんな血を抜いて売る男が主人公の『いつか家族に』です。中国の作家余華さんの原作で、韓国では2015年に公開されたこの映画。日本には3年越しの上陸で、長野ではさらに遅れてこの3月に公開。予告編のレトロな雰囲気が気に入ったんですよね。ただ、現在では上映館数も4館ほどになり、もう私ぐらいしか話題にしている人いないんじゃないでしょうか。実際劇場内には私一人しかいませんでしたし。寂しかったなぁ。


それはさておき、ここから本編の感想を始めたいと思います。また拙い文章ですが何卒よろしくお願いいたします。





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―目次―


・こんなん、惚れてまうやろ~1953年パート~
・いい意味で暗くて重い展開~1964年パート前半~
・血の繋がりがなくても~1964年パート後半~








―あらすじ―

1953年、朝鮮戦争の終戦直後。現場仕事で生計を立てるサムグァン(ハ・ジョンウ)は、ポップコーン売りの美しいオンナン(ハ・ジウォン)に一目ぼれし、彼女には羽振りのいい恋人がいると知りながらもプロポーズする。オンナンの父親を説得し、結ばれた2人。利発な長男をはじめ3人の子宝にも恵まれ、貧しいながらも幸せに暮らしていたが、11年間育てた息子が他人の子ではないかという噂が流れ......。

(映画『いつか家族に』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトを参照ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








・こんなん、惚れてまうやろ~1953年パート~


時は1953年の韓国。この映画は畑の風景から始まります。畑でスイカを耕しているこの映画の主人公ホ・サムグァンとその父親。このホ・サムグァンを演じ、監督も務めたのがハ・ジョンウ。『お嬢さん』や『1987、ある闘いの真実』に出演した韓国の名優です。融通があまり効きそうにない雰囲気がよかったですね。あとなかなかのクソ野郎だったんですけど、それは後ほど。


キャストの名前やらがハングルで流れ、字幕は縦書きのオープニングですが、ここで驚きだったのが売血が一般的になっていることなんですよね。それも後ろめたい気持ちはさらさらなく、むしろ健康の証みたいにポジティブにとられていて。男なら一回ぐらいやっとけやぐらいのテンション。このときは朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた辺りですから、まだまだ旧的な価値観が残っています。現代からしてみると異常ですね。




町は朝鮮戦争からの復興の真っ最中。ホ・サムグァンも工事現場で働いています。空気に砂が待っていてオレンジがかっていたのがいい感じにレトロでした。そして、そこに通りかかったのがポップコーン売りのオンナン。白い服で髪の毛を後ろで束ねたオンナンが通ると、白黒の中でそこだけ色彩があるかのように華やぎます。我先にとオンナンにポップコーンを求める労働者たち。こいつら完全に中学生のノリでした。


この今作のヒロイン・オンナンを演じたのが『マンハント』『奇皇后』などの出演作を持つハ・ジウォン。もう超美人なんですよね。可愛いとか綺麗とかじゃなくて、ただただ美人。いるだけで画面がパッと明るくなりますし、クソで厳しい世界を軽くしてくれました。気の強い性格もツボでしたし、時折弱さを見せる演技も最高でしたね。この映画のMVPです


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他の多くの中学生(精神年齢)と同様にオンナンに一目ぼれしてしまったサムグァン。彼女とのデート費用を稼ぐために売血を行います。正直、「もう売血すんのかい」って思いました。迷って迷って苦渋の決断の末に売血するのかと思いきや、開始10分で売血。想像以上のお手軽さです。


売血の先輩たちについていき、医院へと向かうサムグァン。売血のためにどうするのかっていうと水をがぶがぶ飲むんですよ。汚ったねぇ川の水を8杯、それに仕上げの水道水。もちろんトイレには行きません。診察のときにモジモジする様子がおかしかったですね。そして、採血は300mlぐらいの瓶に3本。人間の血液量って体重の1/13ぐらいで、体重75kgの人だと約6L。そしてこの2分の1が失われると失血死するようなので、300ml×3=900mlは大分攻めた数字です。献血は400ml献血が一般的なので、その倍以上ですね。




売血をしてお金を手に入れたサムグァンはオンナンを誘いデートに出かけます。この辺りの展開、とにかくテンポがいい。初デートでいきなり結婚を申し込み、その日のうちに実家に上がり込んでオンナンの父親を丸め込む。そして、次のシーンではいきなり結婚式とポンポン進みます。ここでサムグァンはオンナンの父親を説得するために、嘘ついてるんですよね。オンナンが付き合っているハ・ソヨンのことを遊び人だとか。嘘も方便という言葉がありますが、ちょっとクソだなって感じました。




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・いい意味で暗くて重い展開~1964年パート前半~


時は流れて11年後。サムグァンとオンナンは3人の子どもをもうけ、貧しいながらも幸せそうに暮らしています(子ども3人とも坊主でちょっと見分けがつきづらかったのは秘密だ)。ただ、あらすじにもあるように長男のイルラクがソヨンに似ているという噂が流れ始めます。ここも時間が飛んでから最初の展開だったのでスピーディでしたね。


イルラクに血液型検査を受けさせるサムグァン。その判定結果は予告編にもある通り、イルラクはサムグァンの息子ではなくソヨンの息子というものでした。11年愛して育ててきた息子が他人の子どもだった。これを知ったサムグァンは急激にイルラクを突き放すんですよね。「お前は俺の息子じゃないからどうなろうが知ったこっちゃない」と言わんばかりの他人行儀。外でふて寝ばかりです。イルラクが知り合いの息子に怪我をさせた時も「は?俺関係ないですよね?」みたいな態度を取っていてクソだなって。急に突き付けられた現実を受け入れられなくて、苦しんでいたのは分かりますけどもうちょっとこう葛藤するとかしてほしかったかな。


そして、ここからの展開がなかなかアレなもんでして。怪我の医療費を払うために家の物は押収される。サムグァンは他の女に手を出すし、子どもたちには「ソヨンの娘が成長したら押し倒せ」とか言っちゃう。唯一の良心・オンナンもソヨンの家に行って、ソヨンの妻を「その二人の娘は本当にあなたの子かしら?」「この家なんだかイカ臭いわ」とか煽って張っ倒されますし、いい意味で暗くて重い展開です。まあ正直引きましたが、「いいぞもっとやれ」みたいな自分もいたのも事実。人の不幸は蜜の味ってか。すみません。




ただ、ここで辛かったのがイルラクがサムグァンからも、ソヨンからも受け入れてもらえなかったこと。生みの親にも育ての親にも拒絶されて、イルラクが自分を責めるようになっていったのがきつかったです。本当に悪いのはオンナンを押し倒したソヨンなのに。生まれた子どもに罪はないんですよね。全ては親の責任で。なのに大人の勝手な都合で辛い思いをさせてしまって。イルラクに優しく寄り添っていたオンナンだけが唯一の救いでした。中盤までは。




ある日、ソヨンが脳炎で倒れます(これを聞いたサムグァンは「因果応報だ」って言ってた。やっぱりクソ)。ソヨンの妻が道士に相談すると「息子が必要だ」と。「イルラクに高度な教育を受けさせる」と言われ、ソヨン家にイルラクを差し出すサムグァンとオンナン。ここからの祈祷のシーンがこの映画で私が一番オススメしたいポイントになりますね。


ソヨン家の一室は赤に包まれ、壁には馴染みのない神様(?)がたくさん描かれています。そして、あのお祓いのときに使われる棒に紙がヒラヒラとついたヤツを振り回す道士。楽器隊も連れていて本格的。これの何がヤバいかって祈祷でソヨンの脳炎が解決するわけがないっていうことですよ。ちゃんとした治療をせずに治るわけがないじゃないですか。にもかかわらず、イルラクに「お父さん戻ってきて、お父さん行かないで」と叫ばせる。もっと大きな声でと迫る。韓国の祈祷のテンション半端ないです。まあ道教は中国由来みたいですけどね。


なかなか上の文言が言えないイルラク。ここでサムグァンが心配になって様子を見に来るわけですが、それを見つけたイルラクは「お父さん連れていって」と涙ながらに叫びます。ここはイルラク役のナム・ダルムの名演ですね。イルラクのためを思ってソヨン家に送り出したサムグァンでしたが、やはり一緒に過ごした11年の年月にはそれなりの重みがありました。それこそ血の繋がりを超えるような。ここでのハ・ジョンウの演技も胸に来るものがありましたね。あやうく泣きそうになりました。


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・血の繋がりがなくても~1964年パート後半~


サムグァンに連れられて家に帰ってきたイルラク。二人の弟と遊びに行きますが、予告編にもあった通り倒れてしまいます。なんでも症状はソヨンと同じ脳炎だとか。「お父さん連れていって」が現実となってしまった。祈祷のパワー凄い。祈祷最強説


いよいよこの映画も佳境。イルラクの治療費を稼ぐために、サムグァンは血を売って売って売りまくります。3か月間を開けないと死ぬ可能性があるという売血を、毎週やる患者が「あの世行き」と呼ばれる売血を毎日。繰り返される採血描写。そしてフラフラになっていくサムグァンが可哀想で可哀想で、目を背けたくなりました。しかし、血の繋がらない息子のために自らの血を捧げるという一般的な親子以上の愛が私を画面に釘付けにします。




...えーと、言っていいですかね。うん、言おう。最終的にイルラクは助かり映画はハッピーエンドを迎えます。ただ、その解決方法が個人的にはちょっと唐突に感じられたんですよね。今まで一切そんな素振りを見せていなかったのに、××××××××ことで解決するなんて...。最後はほっこりとする場面でこの映画は幕を閉じますが、それでも「この人、××××××なんだよな」ってちょっとモヤモヤしてしまって。


ただ、いうなればこれも愛の形ですよね。サムグァンが身を削って血を売らなければ、××××××××こともなかったわけですし。「自分を犠牲にしても家族を守る」という尊い愛、血の繋がりがなくてもそれくらいの愛を持つことができるということを伝えるために、あのような解決方法にしたんじゃないんですかね。この時代には戦争孤児もたくさんいたでしょうし、彼ら彼女らに対する救いでもあるのかなってそんなことを考えたりもしました。「祈り」が込められた映画ですね。


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以上で感想は終了となります。『いつか家族に』、パンフレットも作られておらず、ソフト化の望みも薄いですが、決して悪い映画ではありませんでした。もうすぐ上映も終わりますが、興味があれば観てみてもいいんじゃないでしょうか。肉まんが食べたい


お読みいただきありがとうございました。


おしまい





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