Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2019年10月



こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『ジェミニマン』。ウィル・スミスvsウィル・スミスの近未来SF映画です。アクションが主体で見る前からNot for meな感じはしていましたが果たして……。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いいたします。




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―目次―


・アクションやキャストはいい
・ストーリーが普通すぎるのがまずい





―あらすじ―

引退を決意した伝説的スナイパーのヘンリー(ウィル・スミス)は、政府に依頼されたミッションを遂行中に何者かに襲撃される。
自分のあらゆる動きが把握され、神出鬼没な暗殺者に翻弄されるヘンリーだったが、その正体が秘密裏に創られた"若い自分自身"のクローンだという驚愕の事実に辿り着く。
なぜ自分のクローンが創られたのか?なぜ彼と戦わなければならないのか?謎の組織"ジェミニ"とは…?
ヘンリーの監視役として潜入捜査を行っていたアメリカ国防情報局のダニー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)も、暗殺者の正体を突き止め、ヘンリーと共に"ジェミニ"の陰謀に立ち向かうことを決意。
追われる身となった2人は、謎の核心に迫っていく――。
"経験"と"若さ"のどちらが有利なのか?そして、ヘンリーが最後に下す究極の選択とは…!?

(映画『ジェミニマン』リーフレットより引用)















※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・アクションやキャストはいい


この映画を観終わったとき、私の頭にはある一つの言葉が浮かびました。それは普通です。この映画普通すぎるんですよ。


いや、アクションシーンは非凡なんですよ。ヘンリーとクローンのヘンリー、通称〈ジュニア〉が最初に撃ち合うシーンからカメラはガンガン動いて臨場感たっぷり。手投げ弾を銃で撃ち返すのには唸りました。そして、そこからのバイクチェイスは、街中でのアクションで、〈ジュニア〉が徐々にヘンリーを追い詰めていく緊張感もあり、手に汗握ります。バイクの後輪で、人って殴れるんですね。とても痛そう。〈ジュニア〉のバイク捌きは見事で、ここまでバイクを有効にアクションに取り入れた映画ってあまりないんじゃないかと思わされます。この映画の最大の見どころで、後の展開の期待も高まりましたね。終わってみたら正直ここがピークだった感は否めませんけど。


でも、その後のシーンがシンプルな殴り合いっていうのがまたいいんですよね。ブタペストの強制収容所を舞台にしていて、不気味な感じがありますし、ヒロインのダニーのピンチに颯爽と駆け付けたヘンリーはかっこよかった。経験を見せつけて面目躍如ですが、そこから感情をむき出しにした殴り合いになるのがいいんですよ。開放感のあった最初のシーンと違って、どちらが優勢かも分からないほど薄暗くて、閉鎖的。そのギャップが良かったですね。


さらに、最後の銃撃戦。マシンガンの雨あられで、店内が荒らされていく様子は圧倒されますし、そこからヘンリーとダニーが銃を握って、敵をバッタバッタとなぎ倒していく様が決まっていました。ダニーみたいな女性がごつい銃をぶっ放すのっていいですよね。まあどうして死なないんだろうというご都合はバリバリに感じましたけど、それを言ってしまったらおしまいでしょう。この三シーンとも臨場感はたっぷりで、この映画の一番のセールスポイントになっていました。3Dで見たらより凄かったんだろうなぁ。




それに、CG技術も凄くて。この映画って51歳のウィル・スミスと、23歳のウィル・スミスが共演しているんですけど、当然23歳のウィル・スミスはCGなんですよね。まず普通にウィル・スミスに演技させておいて、そっから顔のシワを修正し、体型を修正し、その他細かい部分まで修正して。さらにそれをアクションを支えるスピーディーな動きやカメラワークに対応させなければならない。どれだけの作業量なんだと途方に暮れてしまいそうです。でも、それを最新技術(詳しくは分からない)で可能にしていて、ウィル・スミスの全く異なる演技と合わせて、目を見張るものがありましたね。


この映画のウィル・スミスは、まあ凄いのは説明不要なんですけど、23歳のどうしようもない若さを存分に押し出していたのが個人的には好きで。本当、〈ジュニア〉の世の中を知らない子供っぽさたらなかったですからね。でも、それは引退間近のヘンリーにも共通していて、これからどうしていけばいいのか迷っている様子が感じ取れました。


また、ヒロインのダニーを演じたのは、メアリー・エリザベス・ウィンテッド。黒髪でコケティッシュで洗練されていて。まあ単純にタイプでした。今年観た洋画の中でも一二を争うぐらいには。足を引っ張っていないのが好感が持てます。


あとは、仲間のパイロットを演じたベネディクト・ウォンですかね。ガタイのいいアジア系で、戸惑うときに細めた目が印象的です。恥を忍んで言いますけど、私ずっとマ・ドンソクだと思って観ていたんですよね。『新感染』や『神と共に』の。あと『邦キチ!映子さん』でもおなじみの。でも、私はあまりマ・ドンソクの出ている映画を観たことが無くて。で、現れたときにテンションが上がったんですよ。ああこの人がマ・ドンソクなんだって。




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(ベネディクト・ウォン)


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(マ・ドンソク)




で、そこからはマ・ドンソクっぽい人の一挙手一投足に目を奪われていて。だらだらサッカーを見るマ・ドンソクっぽい人、歌いながらノリノリで飛行機を操縦するマ・ドンソクっぽい人。話についていけず戸惑うマ・ドンソクっぽい人。お亡くなりになられたときには合掌しましたもん。さらば、マ・ドンソクっぽい人って。


映画も終盤になって「マ・ドンソクっぽい人に持ってかれたわー」みたいな感想を書こうとも思ったんですけど、エンドロールを見たらなんと別人ではないですか。調べてみたらベネディクト・ウォンも『アベンジャーズ』に出演するくらいの著名な俳優さんで。ただただ私の無知を思い知らされた形になりました。まぁベネディクト・ウォンはベネディクト・ウォンで愛くるしかったからいいんですけどね


とにかく、このスリーマンセルは魅力十分、アクションも凝っていて視覚的には楽しかったんですが、ただそれを打ち消してしまうだけのストーリーのまずさがこの映画にはありました。本当に普通すぎたんです。




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・ストーリーが普通すぎるのがまずい


まず、ヘンリーは殺しに迷いが出てきて引退しようとします。それを狙う怪しげな黒幕の動きを、この映画は親切にもすべて説明してくれます。さらに、不穏な音楽でこれから襲われますよーというのを存分にアピール。この親切すぎる設計は序盤からかなり不安になりました


ヘンリーと〈ジュニア〉の最初の対決の後、〈ジュニア〉はヘンリーのクローンであることが判明します。続いて、ヘンリーと〈ジュニア〉の二度目の対面。ヘンリーから自分がクローンであることを知らされ、〈ジュニア〉は自らの存在意義に悩むようになります。黒幕であるヴァリスに嘘をつかれていたことにショックを受ける〈ジュニア〉。武器として造られたことを突きつけられ、自我との葛藤が芽生えます。武器という役割を失くした自分は、これからどう生きていけばいいのかと迷い始めます(『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』みたいだ)。


別にこの葛藤自体はいいんですけど、ただこういった葛藤って、それこそもうドリー問題が表出した20年くらい前にやり尽くされていると思うんですよね。答えは出てないですし、出るようなものでもないんですけど、2019年になってクローン技術も進歩した現代だからこそ、もっと踏み込んでほしかったかなというのはあります。今さら20年前から進歩しない議論を焼き直されたって、時代は進歩して価値観も変化しているわけですから、それはもう過去のものになってしまって、新鮮な気持ちでは受け取れないですよね。でも、この映画って20年前と同じような議論に終始してしまっていて、単刀直入に言えば普通だなって感じます。近未来SFに初挑戦したアマチュア作家ですか。大のハリウッドが。


黒幕であるヴァリスのクローンを作る理由も、最強の軍隊を作ることができれば、戦争は無くなり誰も傷つくことはなくなるみたいな理論でしたが、それってただの恐怖政治でしょう。そこに対する議論もないですし、もうちょっとそこの動機付けを、作りこめなかったのかなとは正直……。もっと考えさせるような理由がほしかったですね。このあたりも先進的とは言えないと思います。


ただ、期待はしていたんですよ。どんでん返しがあるかもしれないって。このやり尽くされた議論をひっくり返す何かがあるかもしれないって。ただ、本当に何のどんでん返しもなく、ヴァリスの処理もめちゃくちゃ雑。そういう意味では、『彼方のアストラ』は凄かったんだなと思わざるを得ません。さらに、最後もまぁそうなるやろなというなんか良さげなシーンで締め。


もう普通すぎてびっくりします。このご時世にここまで普通な映画作られるんだなって。期待を越える展開が一個もない。もうちょっと単純なエンタメではない刺さる展開があったらなと。かなりの物足りなさを感じました。別に奇をてらってすべっている映画よりは全然いいんですけど……。いや、挑戦して結果すべってしまったのなら、それはそれでいいな。置きにいってすべるのが一番よくない。普通じゃない展開が見たかった……。残念です。




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以上で感想は終了となります。映画『ジェミニマン』、私はあまりオススメしませんが、アクションは凝っているので、興味のある方はよろしければ。結末まで書いておいてなんですけどね。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。ラグビー日本代表残念でしたね。でも、初のベスト8ですし、なかなかの盛り上がりを見せたことで、大きなインパクトを残してくれました。次のW杯にも出られるそうですし、また期待したいですね。


それとは関係なく、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『スペシャルアクターズ』。去年『カメラを止めるな!』(以下『カメ止め』)で社会現象を巻き起こした上田慎一郎監督の最新作です。同じ役者を描いていて、なにやら『カメ止め』と同じ匂いを感じますが、観たところこれが、『カメ止め』にも負けないくらい面白い映画でした。個人的には好きですね。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・「フィクションの力」を信じきった映画
・最後の展開について





―あらすじ―

超能力ヒーローが活躍する大好きな映画を観てため息をつく売れない役者の和人。ある日、和人は数年ぶりに再会した弟から俳優事務所「スペシャルアクターズ」に誘われる。そこでは映画やドラマの仕事の他に、依頼者から受けた相談や悩み事などを役者によって解決する、つまり演じることを使った何でも屋も引き受けていた。そんなスペアクに、”カルト集団から旅館を守って欲しい”という依頼が入る。ヤバ目な連中相手に計画を練り、演技練習を重ねるスペアクの役者たち。しかし、和人にはみんなに内緒にしている秘密があった。極限まで緊張すると気絶してしまうのだ。あろうことか、このミッションの中心メンバーにされた和人。果たして、和人の運命やいかに!?

(映画『スペシャルアクターズ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












・「フィクションの力」を信じきった映画


この映画の主人公・大野和人はオーディションに落ち続ける売れない役者。子供のころから好きな『レスキューマン』のビデオばかり見ています。さらに、緊張すると気絶するという性質のせいで、バイトもクビになる始末。人生全く上手く行っていません。この大野和人を演じた大澤数人さんの、冴えない雰囲気とどこか人懐っこい感じが好印象でしたね。あと、『レスキューマン』のB級感がたまらなく好きです。あのクオリティのビデオ一日中見ていたい。


同じく役者の弟に誘われ、俳優事務所「スペシャルアクターズ」(以下「スペアク」)に入所する和人。スペアクは演じることを活用した何でも屋という顔を持っており、家賃が払えない和人は仕方なくスペアクで働き始めます。コメディ映画で大笑いしたり、クレーム対応テストでぶちぎれたり、需要は結構あるようなスペアク。メンバー一人一人も個性的で、特に社長の富士たくやさんと、その娘の北浦愛さんの親子がツボでした。


そんなある日、スペアクに女子高生から依頼が入ります。依頼内容は「実家の旅館がカルト集団に乗っ取られそうだから阻止してほしい」というもの。ポンと300万円出せる女子高生から依頼を受けて、手始めにカルト集団「ムスビル」に潜入します。才能を解放させて幸せになるという教えの元、手で作ったお結びを飲み込むと宇宙になるという謎の教戒を展開するムスビル。ハニートラップやアホほど高いグッズなど詐欺の手口もきっちり確保。喋らない教祖やプライスオフなど新興宗教を作る上で参考になる点がたくさんありました。教祖役の淡梨さんのミステリアスな感じ好きだったなぁ。


ただ、もちろんムスビルは詐欺集団で嘘なので、彼らも新興宗教の教祖及び幹部を演じているんですよね。この映画って「演じる」こと及びフィクションが大きなテーマとなっていて、いわば演技合戦の様相を呈しているわけですよ。でも、ムスビルは演じることを悪用していて、信者から金を巻き上げています。もしそれで幸せになったとしても、そんなものは「嘘」に基づいたまやかしの幸せでしかないわけです。まぁ宗教なんて元々そんなものですけど。だって世界の始まり方は一通りしかないのに、いくつもの解釈が存在しているってことは、正しい一つ以外は嘘ってことになってしまうじゃないですか。


それはさておき、このムスビルに対抗するスペアクも演技という「嘘」を用いているんですよね。ムスビルもスペアクも根っこは一緒で、もしかしたらスペアクも詐欺集団なのかもしれない。でも、スペアクがムスビルと違うのは、演じることを「善」として用いていることです。スペアクは依頼者の目的のために演技を用いており、私欲のためには用いていません。そして、この映画はスペアクがムスビルを懲らしめるというストーリーになっているので、分かりやすい勧善懲悪の物語になっていると言えると思います。思い返せば、ここも後の展開のヒントでした。




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そして、ここから演技でムスビルをやっつける展開がとにかく痛快なんですよね。いろいろ趣向を凝らしつつもスピーディーで。緊迫感もありましたし、和人の緊張すると気絶する設定も上手く盛り込んでいたのは見事でした。この辺り、仕掛ける準備もあり、タネも明かされていたので、笑いつつも安心しながら見ることができました。だからこそ、描かれていない展開になったときが映えるんですよね。和人がムスビルの実態を見てしまうシーンなど、ご都合感が強い展開がいくつかあったのは引っかかりましたけど、基本的には好きです。


なんで好きかっていうと「フィクションの力」を感じられたからなんですよね。ムスビルはガゼウス神というフィクションの力を持って、信者たちを信じ込ませていましたし、実際それが心の拠り所になっていた人もいたことでしょう。ここ私たちが映画や小説といったフィクションを拠り所にするのと何ら変わりないように感じてしまいます。だからこそ嫌悪感を覚えたんですけど。特に裏教典の「20代の友達がいなさそうな人」って、まんま私ですからね。気をつけなければ。


で、このムスビルを懲らしめるスペアクも「フィクションの力」を用いていたのが良くて。それまでの芝居も良かったんですけど、特に最後の『レスキューマン』を再利用するシーンは痺れました。和人がレスキューマンに扮して信者たちを薙ぎ払い、教祖の嘘を暴くという展開だったんですけど、これって数多のフィクションに救われた私たち自身だなと感じます。子供のころに憧れた「フィクションの力」が具現化されたシーンに、他のお客さん(一人)は泣いている様子でした。実際、私もジーンときましたし、ここは掛け値なしにいいシーンだったと思います。


『カメ止め』もそうだったんですけど、上田監督って「フィクションの力」を信じきっているんですよね。フィクションには人の背中を押す力があることを知っていて。私たちを励ましてくれるフィクションに惜しげもない愛を注いでいるのが、全編を通して伝わってきました。このスタンスはとても好きですね。





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・最後の展開について


ムスビルを懲らしめ、めでたしめでたしとなったこの映画ですが、ラストにさらなる展開を迎えます。和人が目撃したのは、ムスビルの教祖と車に乗り込む弟の姿。不審に思った和人がスペアクの事務所を訪れてみると、そこにあったのはクリアファイルに閉じ込められた依頼書。実は、この映画で描かれたのは『レスキューマン』という台本上の物語でした。弟が、和人の治療を目的とした依頼だったのです。俗に言うどんでん返しがこの映画でも用意されていました。


えーと、ここの展開には少し言いたいことがあります。まず、この映画って和人が最後気絶して終わりますよね。状況は何も変わっていないじゃないですか。これまでの物語は何だったんでしょうか。それと、実は全て台本通りでしたという展開にすることで、先にも上げたご都合感をごまかしているような気がしたんですけど。鍵がカーペットの下にあったのも依頼書がすぐに見つけられたのも、和人のためのご都合ですよね。フィクションをご都合の言い訳みたいに使ってほしくないんですけど。


それに、実は全て仕組まれてましたーというのは『カメ止め』や『イソップの思うつぼ』に続いて三連続目じゃないですか。上田監督には『お米とおっぱい』などといったまた違った作品があるのは知ってますけど、さすがに三回連続で同じ展開はちょっと…。『カメ止め』の大ヒットに縛られ過ぎているのかなとすら感じてしまいます。




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でも、なんだかんだ言って私はこの展開も好きだったんですよね。それは、フィクションの力ではどうにもならない領域を描いていたからです。フィクションなんてしょせん、最初の監督らしき人が言っていたように「嘘だよ!大嘘だよ!」なんですよね。背中を押すことはできるけど、一歩を踏み出すのは紛れもない自分自身なわけですよ。精神科医の先生も「スイッチを押すのは自分自身しか出来ませんよ」と言っていますし、それはフィクションの力が及ばない領域でもあります。


それに、いくらフィクションがハッピーエンドで終わったとしても、行動を起こさない限り現実は何も変わらないじゃないですか。最後も和人の状況は別に好転していませんよね。もし綺麗に終わらせるんだったら、ムスビルを懲らしめてはい終わりーで良かったと思うんです。でも、あえてそうしなかったところに、私はフィクションの限界を心得ている上田監督の作家性みたいなものを見た気がしました。自分で動かない限り、フィクションが現実には及ばないという「本当」を描いていて、凄い誠実な方だなと思います。


でも、前述した通り上田監督はフィクションの力を信じ切っているとも思うんですよね。そこにあるのは底なしの「愛」や「優しさ」というもので。だって、兄の治療のために架空のカルト集団を作る大仕掛けまでしているんですよ。これが優しさじゃなくて何なんでしょうか。私が思うに『スペシャルアクターズ』って物凄く「優しい映画」なんですよね。


それはフィクションそのものでなく、例えばそれぞれに合わせて当て書きをした俳優さんたちへの優しさもそうですし、もっと言えば映画を観ている私たちへの優しさでもあるんですよね。和人みたいに人生なかなか上手くいかない私たちへ「フィクションの力」を最大限に信奉したこの映画をもって、背中を押すと言いますか。そういった大いなる優しさが画面からひしひしと伝わってきました。


確かに気になるところはありますけど、それでもこんな優しさを受け取ってしまったら、この映画を嫌いにはなれません。個人的には、レスキューマンのシーンの盛り上がりもあり、『カメ止め』よりも好きかもしれないです。上田監督、優しさにあふれた面白い映画をありがとうございました。ただ、次の映画は直近の三作とはまた違った展開で、何卒よろしくお願いします。



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以上で感想は終了となります。映画『スペシャルアクターズ』。「フィクションの力」をまじまじと感じられる優しさにあふれた映画なので、よろしければぜひご覧ください。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい



スペシャルアクターズ
鈴木伸宏/伊藤翔磨
Rambling RECORDS
2019-10-11



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こんにちは。これです。長野はまた雨でもういい加減にしろよと思う今日この頃です。これ以上被害をもたらさないでほしい。


でも、なぜか今日も映画を観に行っていました。今回観た映画は『楽園』。『64―ロクヨン―』の瀬々敬久監督の最新作です。ほとんどを長野で撮影したとのことで、これは観に行かなければと思い観に行ってきました。そうしたらメンタルをガンガン削られました。結構辛い映画でしたね。『ジョーカー』みたいに。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・中村豪士と集合感情の侵害
・田中善次郎と限界集落の諦観
・湯川紡と私がこの映画に感じたメッセージ





―あらすじ―

青田が広がるとある地方都市―。
屋台や骨董市で賑わう夏祭りの日、一人の青年・中村豪士(綾野 剛)が慌てふためきながら助けを求めてきた。
偽ブランド品を売る母親が男に恫喝されていたのだ。

仲裁をした藤木五郎(柄本 明)は、友人もおらずに母の手伝いをする豪士に同情し、職を紹介する約束を交わすが、
青田から山間部へと別れるY字路で五郎の孫娘・愛華が忽然と姿を消し、その約束は果たされることは無かった。
必死の捜索空しく、愛華の行方は知れぬまま。

愛華の親友で、Y字路で別れる直前まで一緒にいた紡(杉咲 花)は罪悪感を抱えながら成長する。
12年後―、ある夜、紡は後方から迫る車に動揺して転倒、慌てて運転席から飛び出してきた豪士に助けられた。
豪士は、笛が破損したお詫びにと、新しい笛を弁償する。
彼の優しさに触れた紡は心を開き、二人は互いの不遇に共感しあっていくが、心を乱すものもいた。

一人は紡に想いを寄せる幼馴染の野上広呂(村上虹郎)、もう一人は愛華の祖父・五郎だった。そして夏祭りの日、再び事件が起きる。
12年前と同じようにY字路で少女が消息を絶ったのだ。
住民の疑念は一気に豪士に浴びせられ、追い詰められた豪士は街へと逃れるが……。

その惨事を目撃していた田中善次郎(佐藤浩市)は、Y字路に続く集落で、亡き妻を想いながら、愛犬レオと穏やかに暮らしていた。
しかし、養蜂での村おこしの計画がこじれ、村人から拒絶され孤立を深めていく。
次第に正気は失われ、想像もつかなかった事件が起こる。

Y字路から起こった二つの事件、容疑者の青年、傷ついた少女、追い込まれる男…
三人の運命の結末は―

(映画『楽園』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












・中村豪士と集合感情の侵害


青田が並ぶ地方の町。事件はあるY字路で起きます。少女が失踪し、地域住民の捜索も虚しく見つからないまま、12年の時が流れました。ある日、同じY字路で再び少女が失踪。しかし、今度は必死の捜索のかいあって少女は無事発見・保護されました。


まずこの映画について重要なことといえば、それは少女失踪事件の真犯人を捜すことがメインではないということでしょう。この映画での事件はあくまできっかけに過ぎず、事件が及ぼした影響がこの映画ではメインとして描かれています。


二度目の少女失踪事件の際、とある住民が声高に犯人かもしれないという情報を語ります。そして、犯人に仕立て上げられたのは中村豪士。幼いころ母親とともにタイから日本にやってきた青年でした。彼は地方によくありがちな平屋のアパートに一人で暮らしています。彼の暮らしぶりはとても慎ましいもので、演じた綾野剛さんは、日本語があまり上手くないという設定ながらも、片言や表情で感情をダイレクトに表現していました。追い詰められて定食屋に逃げ込むシーンの迫力は凄かったですね。


この映画は彼の母親が男に暴行を受けるシーンから始まります。また、彼自身も同級生に家のガラスを割られるなどのいじめを受けていた描写もあります。ここで重要なのが「逸脱」という概念。伊藤(2014)によると逸脱とは規範や標準、平均から外れているという意味です。おそらく日本人だらけの社会の中で、外国人である中村親子は標準から逸脱していたと考えられます。


そして、この逸脱は社会の「集合感情」を侵害(伊藤,2014)します。この「集合感情」はフランスの社会学者、エミール・デュルケームによって提唱された概念です。


デュルケームが社会学独自の対象とした「社会的事実」とは、個人の外にあって個人の行動や考え方を拘束する、集団あるいは全体社会に共有された行動・思考の様式のことであり、「集合表象」(直訳だと集合意識)とも呼ばれている。つまり人間の行動や思考は、個人を超越した集団や社会のしきたり、慣習などによって支配されるということである。
(エミール・デュルケーム - Wikipediaより引用)


これは少し言葉は違いますがほぼ同義と考えていいでしょう。町の日本人の中に二人逸脱した中村親子の存在によって、町の一部の人たちの「ここには日本人しかいない」という集合感情が侵害されたことは想像に難くありません。これは、都会から地方にやってきた人が、なかなかその地域社会に馴染めないことに似ていますが、その根底には「町の人しかいない」という集合感情がマイナスに働いたものだと私は考えています。




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そして、この集合感情の侵害として最たるものが犯罪となります。人を殺してはいけない、物を盗んではいけない。これらはまさしく規定された社会のしきたりであり、秩序であり、集合感情です。そこには失踪も含まれます。社会からいなくなるという逸脱。さらにインパクトを与えるのが、少女であったということ。大人から未来があるとみなされた子供が突然いなくなった時、与える衝撃は多大なものとなります。


侵害された集合感情は回復されなければなりません。それは刑法的な償いではなく、伊藤(2014)によれば、「応報」的な刑罰を科すことで集合感情の回復が図られ、罪を犯した者を「懲らしめ」たり「報いを与える」ことで、私たちはとりあえず納得したり気がすんだりします。なお、この集合感情の回復のために社会が逸脱者に対して行う処置を総称して「サンクション」と言うそうです。


しかし、失踪は逸脱者自身が見かけ上はいません。それに、少女は逸脱したものの罪を犯したわけではありません。よって、逸脱者である少女にサンクションを科すことはできないのです。では、その代わりにどうするか。それは失踪の原因を作った者にサンクションを科すということです。つまり犯人を作り上げてサンクションを科すということになります。


また、このサンクションのターゲットは特定の人物にすることで、より明確になるので、しばしば「犯人探し」が始まってしまいます。この映画で犯人として槍玉に挙がったのは、豪士です。声高に告げられて「かもしれない」という情報だけで、犯人だと決めつけられた豪士。そこには彼自身の(町人から見れば)逸脱者というパーソナリティが付加されていたとするのは私の考えすぎでしょうか。


そして、ここから町人は容赦なく豪士の家に押し掛け、ドアを蹴破ります。「犯人」のプライバシーなど知ったことかという暴走っぷり。一度豪士を見つければ、全員で追いかけます。そりゃ悪いことしてなくてもあんな大人数に追いかけられたら逃げるに決まっているでしょう。集合感情を必死で回復しようとするその姿は、まるでネットでの「炎上」に加担する私たちを見ているように感じられました。端的に言えば、とても恐ろしかったのです。


追い詰められた豪士は最後には文字通り炎上して死んでしまいました。彼が犯人なのかどうかも分からないのに。そこまでして追い詰めた地域住民たちが、彼を殺したかのように私の目には映りました。応報的な刑罰、いわば私刑でも人を殺すことができるのだと、我が身を顧みさせられます。


加えて、この映画にはもう一つの軸があります。それは村八分にされた田中善次郎の話です。こちらも諦観や仲間外しなど地方の嫌な部分が凝縮されていました。なので、続いてはこちらについて見ていきたいと思います。




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・田中善次郎と限界集落の諦観



この善次郎の話は、原作では少女失踪事件とは別の話になります。私は原作未読なので、良く分かりませんが、それでも何か微妙につながっていない感じはしました。でも、根底にある集合感情の侵害、及びその回復は両者とも共通していると思います。


善次郎は同じ村で養蜂業と便利屋サービスを営んでいました。妻を早くに亡くし、犬のレオと暮らしています。ある日、地域の寄合に参加した善次郎。衰退していく限界集落のことを思い、養蜂で村おこしをしようと老人たちに提案します。しかし、老人たちの反応は芳しくありませんでした。


というのも老人たちには、ある老人が「あと10年もすればみんな死んでこの集落もなくなる」と言っていたように、諦観が集合感情として存在していたからです。このまま自分たちの代で終わることを共通認識としていた老人たち。そこに、次の代まで考えた善次郎の提案は、その諦めという集合感情を侵害するものだったことでしょう。多くの人は善次郎の提案を善しとするでしょうが、この限界集落では悪とされてしまうほど、諦めの力は大きかったと思います。本当に嫌ですね、これ。


ここで、少女失踪事件と違うのが、逸脱者が善次郎であることが明確だということ。サンクションの対象が即座に見つかれば、後は簡単。村八分のスタートです。あらぬ噂を流され、少女失踪事件の情報をリークされ、孤立を深めていく善次郎。棒で思いっきりぶたれ、腰をいわしてしまいます。善次郎が耐えきれずに、便利屋の客の女性にキスを迫ると(ここなぜか温泉だった。温泉である必要性は全く感じなかったけど瀬々監督の作家性か何かなのかしら)、その噂は小集落特有のスピードで拡散していき、妻の墓に落書きまでされる始末。


小学生が行うようないじめを人生経験のある老人たちが行っている様は人間の本質っていくつになっても変わらないんだなと思わされます。ここ、善次郎を演じた佐藤浩市さんの卓越した演技力によって、孤立が痛いほど伝わってきて、もう途中で見ていられないってなりました。




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一つ余談をさせてもらうと、この映画って90%を長野県でロケしているんですけど、これ見て長野、及び地方に住みたい人がいるんでしょうかね。特に主な舞台となった飯山市には完全なディスプロモーションとなっているように感じられるんですが。でも、必ずどこかがやらなければいけないわけで、それを引き受けた飯山市の懐の深さは凄いなと思います。


村八分にされた善次郎ですが、植樹をすることで何とか精神を保っていました。もう人間が信用できなくなって、こんな土地は人間のいない森に返ってしまえという思想ですね。亡くなった妻の骨を埋めているのが切なかった。しかし、この植樹も村人により、掘り返されてしまいます。何もかも失った善次郎はある事件を起こし、彼もまた重篤な状態に陥ってしまいます。松明を持つその姿は、詳しくは知りませんが「つけびの村」事件を思い起こさせるものでした。集合感情の回復がまた人を窮地に追いやったのです。


このように、この映画を観ていると人間の嫌な部分、集合感情の回復のためには平気で人を傷つける、を痛感して、私はもう人が信じられなくなりました。地方だけではなく、都会でも、どこの国でも人々がいて集合感情が存在している限り、同じようなことが起こっているのだと暗澹たる気持ちです。この映画と同じく、ネットで日々起こる「炎上」に嫌気が差します。もう「楽園」なんてどこにもないんだなと、あるとすれば、数多の犬が闊歩する森の中にしかないんだなと、そんな気分です。


そう、犬です。もう犬しか信じられません。本能のままに動くイノセントな存在。善次郎をかばおうとするレオ、レオを拾って喜ぶ善次郎。犬は人類の最高の友なのです。そして、その犬をほしがる石橋静河さんもまたかわいかった。この映画、想像以上に犬映画でしたね。今度犬を見つけたら優しいまなざしで見守りたいと思います。世界に犬がいてくれてよかった。犬を崇めよ奉れよ。犬、最高。



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・湯川紡と私がこの映画に感じたメッセージ



よく分からない話になってすみません。でも、この映画って犬の他に、ちゃんと人間の方にも救いを残しているんですよね。それが12年前、失踪した少女の親友・湯川紡です。彼女はあの時一緒にいれば少女を救えたと悔いているキャラクターでした。さらに、親交のあった豪士も失い、心の傷はより深くなってしまっています。この点で、彼女は集合感情の回復の犠牲者ともいえる存在だと私は考えます。演じた杉咲花さんの抑え目な演技も光ってましたね。


ただ、責めるだけ自分を責めていた彼女にも最後には救いが用意されていまして。豪士の書いた「君は悪くない」(意訳)というメモを受け取るんですよね、豪士の母親から、終盤に。それで、まず積年の悩みに一つの着地点を見つけられたというのが大きくて。


で、東京に出ていた彼女は夏祭りのために、また地方に戻るんですけど、そこであのY字路で失踪した少女の祖父と話すシーンがあるんですよ。そこで、彼女が「全部抱えて生きていく」って言うんですよ。何人も死んだ後で、彼女も「なんで自分だけ生き残ったんだろう」と悩みに悩んだうえでのそのセリフの価値は計り知れません。絶望の渦中から少し希望が見えた瞬間で、この映画で一番好きなシーンです。


さらに思い返されるのが、紡の幼馴染の「新しい『楽園』を作ってよ」という言葉。これは私は、「もうどうせ終わる」と諦めムードが漂っていた町に風穴を開ける言葉だと感じました。諦観という集合感情を塗り替えてほしい。それができるのは紡のような若者であるみたいな願いにも似たメッセージを、私は感じましたね。観ていて精神をガリガリ削られる映画だったんですけど、最後は前向きに終わったと個人的には解釈しています。


でもですね、終わり方は好きだったんですけど、そこに至るまでの雰囲気が私にはちょっとハマらなかったかなと。これを言ったらサスペンス全否定になってしまうんですけど、重苦しい間が少し苦痛に感じてしまいました。それに、二つの話もちょっと独立している印象がありましたし、全体的には好きなんですけど、評価はそこまで高くないかもしれないです。でも、嫌な気分になりたい方にはうってつけの映画だと思うので、よろしければ映画館でご覧ください。



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以上で感想は終了となります。瀬々監督の最新作『楽園』は『ジョーカー』とはまた違ったベクトルでメンタルをやられる映画でしたね。でも、観て損はないと思うので興味のある方はぜひ。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

伊藤茂樹(2014)「こどもの自殺」の社会学―「いじめ自殺」はどう語られてきたのか―

エミール・デュルケム - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/エミール・デュルケーム


おしまい 

犯罪小説集 (角川文庫)
吉田 修一
KADOKAWA
2018-11-22



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横浜は厚い雲に覆われていた。13時30分、新横浜駅で降りると、ピロウズTシャツやカーディガンを着ているバスターズを何人か確認することができた。彼らについていくように、横浜アリーナを目指す。着いた先は一面を窓に覆われた横浜アリーナだった。外国人カップルが記念撮影をしている。私は一人で来ていた。




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右の階段を上って、物販の待機列に並ぶ。並んだはいいもののやることがなくてひたすら本を読んだ。タイトルを言えば、ドン引かれること間違いなしの本を数冊読んだ。物販列は角を曲がり、階段を下り100メートル以上先まで伸びて折り返していた。後ろから話し声が聞こえる。一人で来ていた私には、話し相手がいなかった。


SNSを見ると、フォローしているバスターズが別のバスターズと会ったりしている。ピロウズが繋いだ縁というのは素晴らしいものだ。リアルでもSNSでも盛り上がる会話。私は、そのどこにも入れないでいた。ただ、本の読んでいて辛くなる記述に潜り込んで、たまに足を動かしたりするだけ。列は思いのほかスムーズに進んでいた。


物販は会場内で行われていた。入るとピロウズの曲が流れている。「No Surrender」が特に印象的だった。物販スペースに入ると、レジが12列に渡って並び、壁にはメンバー3人の写真が飾られていた。天井からぶら下げられていたそれは、災害救助で活躍した市民の栄誉を称えるような、そんな趣だった。




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物販では、「LOSTMAN GO TO YOKOHAMA ARENA」Tシャツと、黒とグレーのハイブリッドレインボウタオルを買った。さらに、「Happy Go Ducky!」に封入されていた引換券をチケットホルダーに替える。車に乗った3人のバスター君の周りを星が囲んでいる。全部黒だなと気づき、苦笑した。


今度は、書籍「ハイブリッドレインボウ2」を買うために、別の列に並ぶ。こちらも短くない列ができていた。BGMの隙間から微かに、リハーサルの音が漏れ聞こえてくる。「サリバンになりたい」と「雨上がりに見た幻」はどうやらやるようだ。あまりの行列に、売り切れることを危惧したが、「ハイブリッドレインボウ2」は難なく買うことができた。


時刻は15時30分。18時の開場までは、まだ時間がある。私は横アリを後にして、近くのネットカフェに入った。5時30分出発だったので、始まるまでに少し寝ようと思ったけど、ソワソワしてあまり眠ることができなかった。今日がその日なんだという実感が徐々に自分の中で大きくなる。


再び横アリに着いたのは17時だった。天気予報通り小雨が降り出している。私は、雨を避けるために、屋根の下に入り、また本を読んでいた。空はどんどん暗くなる。一人で本を読む私を傍目に、あちらこちらでバスターズが集まって会話をしている。入場を待っている間も後ろの二人はずっと話していた。


裏切られた気分だった。バスターズはみんな人と喋ることができないファッキンコミュ障だと思っていたのに。それが普通に話しているではないか。やはり私は一人なのだと感じた。100人のライブハウスでも1万人のアリーナでも関係ない。一人で来ている以上、誰とも話さなければ、ずっと一人ぼっちのままなのだ。自分の生来の性格を恨み、これまでのぼっち人生を恥ずかしんだ。死にたいという思いが、脳裏をよぎった。


開場する。入ってすぐのところにお祝いの花輪があった。Mr.Children、GLAY、BUMP OF CHICKEN。様々なバンドから贈られた花の束だ。スマートフォンで撮影する人たちでごった返していた。コインランドリーに荷物を預け、指定席に向かう。会場内はたくさんの人が行き交っていた。軽食を求める人たち。久しぶりの再会を喜ぶ女性。トイレにも列ができている。多くの人がピロウズのTシャツを着ていた。でも、私はそこでもやはり一人だった。こんなにバスターズがいるのに、言い知れない疎外感を感じてしまう。お祝いムードにふさわしくない感情は、封じ込もうとすればするほど顔を出して、留まるところを知らなかった。


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指定席を探して、映画館みたいな席に座る。赤い緞帳がステージを隠している。なるほど、スタンディングエリアに比べて一段高いところにあるから遮るものは何もない。ストレスなく見ることができるだろう。ただ、ステージから距離があることは否めない。物理的な距離感が心理的な距離感に換算されるとすると、果たして私はライブを十分に楽しむことができるのだろうかと不安に感じた。スタンディングエリアでより近く見ることができる彼らを羨ましいと思った。


スタンディングエリアは前の方から徐々に埋まっていく。それは開演の時間が近づいてくることを示していた。指定席も賑やかさを増す。熱気と固唾を飲む緊張感の中で、私の頭には入場前に読んだ「ハイブリッドレインボウ2」の一節が何度もリフレインしていた。


ー音楽的にちゃんとしたライヴをやるのが…
「これで最後だと思ってる」



これからもピロウズは続くとはいえ、こんな大規模なライブはもうない。ピロウズの一つの終わりとともに、私の中の何かが終わってしまうような気がして、始まってほしくないとさえ思った。でも、早く観たいという自分も確かに存在していて、石を投げられた水面みたいに私の心は揺れていた。




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19時からどれだけ時間が経ったのかは、スマートフォンの電源を切っていたので分からない。会場が暗転した。歓声が上がり、ステージの両側にあるビジョンに映像が映し出される。白黒の子供の写真だ。年配の女性のナレーションがついている。それがシンイチロウさんだと分かったときに、客席から少し笑いが起きていた。メンバー3人の生い立ちが、彼らの母親の優しい語りによって紹介される。どれも最後はファンについて言及していて、思い返せばこの時点で泣き出す準備が整えられていたような気がする。


さわおさんのお母さんが「メンバーは家族のようなもの?」と聞いたときに、さわおさんが「そうだよ」と答えたエピソードを最後に映像は終わった。赤い緞帳がパッと照らし出される。


聴こえてくるのは キミの声
それ以外はいらなくなってた



さわおさんの歌声が横浜アリーナに轟く。演奏が始まると緞帳が開いて、メンバーの姿があらわになる。ああ、いよいよ始まるのだ。たぶん、バンドで鳴らされた最初の一音を聴いたときから泣いていたと思う。映画「王様になれ」での最初のセリフ。そして、最後の演奏。映画を観ながら号泣した思い出が蘇る。長い長い助走を取って、大きくジャンプした瞬間。「溢れる涙はそのままでいいんだ」という歌詞にも後押しされ、私は拭うことなく涙を流した。


MY FOOT」「Blues Drive Monster」。泣くような曲じゃないのに泣いていた。有江さんも加えた4人が無事にステージに立てて、そして私も無事にここにいることが嬉しかった。ステージは遠くて、あまり大きくは見えなかったけど、横のビジョンよりもメンバーを見るように努めた。目に焼き付けようと思ったからだ。憂鬱な世界を踏み潰してくれる彼らを。


30年間、バンドを続けてきたんだ。俺たちの音楽を受け取ってくれよ


そう言ってさわおさんが弾き語り始めたのは「アナザーモーニング」だった。15周年でも20周年でもライブDVDを見るたびに、私はこの曲に涙していたのだから、泣かないはずはなかった。アリーナを暖かい手拍子が包む。シャッフルの軽快なリズムが、どうしようもなく胸に響いた。


そこからの「スケアクロウ」は、前半での私の涙のピークだったように思う。柔らかいイントロが始まった瞬間、泣き崩れるかと思った。エモーショナルな間奏も「一人じゃない」の繰り返しも、大きなうねりとなって私を襲う。これだけ泣いていて、後が大丈夫なのだろうかと心配になる。


しかし、その後に続いたのが「バビロン 天使の詩」「I know you」だったのは少し意外だった。もちろんやるとは思っていたし、嬉しかったのだけれど、しんみりするパートだと思っていたので、不意をつかれた。ライブ特有のアレンジは、掛け値なしに盛り上がったし、突き抜ける感じで気持ちよかったのだけれど、この日のピロウズは落ち着くパート、盛り上がるパートを分けずに曲を投入してきたのが特徴的だと感じた。おかげで感情の振れ幅が大きい。ジェットコースターにでも乗っている気分だった。


俺は今でもサリバンになりたい!!


という掛け声で始まった「サリバンになりたい」は、間奏がいつもより長い特別バージョンだった。真鍋さんがステージの右側に設けられた花道の先で演奏している。近くで見られて羨ましいと思ったが、彼らは彼らで見え辛かっただろうから、ちょうどトントンになっていたのかもしれない。腕を振り回しているのが心地よかった。


次の「LAST DINOSAUR」が終わると、少し間が取られて、さわおさんのギターが掻き鳴らされた。CDにはない前奏で始まったその曲は「Please Mr.Lostman」。アニバーサリーライブでは必ず演奏される曲だが、ここで演奏されるとは。膨らんでいた期待は、歌が始まるとさらにその体積を増す。バックのビジョンには夕焼けに照らされた枯れ木が映し出されていた。サビを迎えると、その枯れ木に文字通り「星が咲く」。彼らが30年積み重ねてきたものを象徴しているかのような演出に、もう何度目かも分からない涙が出た。ピロウズを聴いたときの思い出が一気に溢れてきた。ほんの9年くらいだけれど。


だが、そのままの感動ムードでは終わらない。「1,2,3,4,5,6,7,8」と天を衝くようなコール。「No Surrender」だ。急激なモードチェンジに少し戸惑ったものの、今思い返せばこの曲順で良かったと思う。歩みを噛みしめておいて、未来に思いを馳せるという流れには感動したし、「また会おう!」というさわおさんのシャウトにはやはり勇気づけられた。個人的にも幾度となく聴いた思い出の曲であり、アリーナで聴く「No Surrender」はまた格別のものだった。




「永遠のオルタナティブ・クイーン」に捧げられた「Kim deal」。30年もの時を経て演奏され続ける「ぼくはかけら」。初めて聴く「1989」から、最新盤の「ニンゲンドモ」まで、マスターピースは続けられる。無邪気に楽しむことができたが、どこか変な感じがあった。そして、その違和感は「10年ぶりにやるよ」と演奏された「雨上がりに見た幻」で、決定づけられる。


泣けなかったのだ。前半あれだけ泣いておいて、急に泣けなくなったのだ。もちろん演奏は最高で、「楽しそうに笑っていたいけど、もう一人の自分が邪魔をする」や「必要とされたい」、「雨上がりに見た幻を今も覚えてる」など歌詞も刺さるものばかり。特に「雨上がりに見た幻」のシャウトはさわおさんの気迫が伝わってきて、心を揺さぶられたけど、それでも泣けなかった。


おそらく涙が枯れたのだと思う。前半で涙を使い果たしてしまって、ダムにはあまり水が残されていなかった。我慢しているわけでもなく、心では泣いているのに涙が流れないというのは初めての体験だった。でも、泣けないことイコールライブを楽しめていないということではないので、この辺りから泣くのはやめてもう純粋に楽しもうという気持ちになった。そして吹っ切れた後の「サードアイ」と「Advice」は何もかも忘れて、ただ音に身を任せることができ、とても気分が良かったのを覚えている。


MCでメンバー紹介があると、いよいよ終わりが近づいてきたなと思う。有江さんはこの場で弾けることの感謝を、シンイチロウさんは母親とのおとぼけエピソードを喋っていた。真鍋さんは、スタッフ・関係者への感謝を述べる。いつもあっさりとしたMCをするから、これには少し驚いた。さわおさんも照れくさそうに笑っている。


「もう少しやるか」と言って、演奏が再開された。が、ここでハプニングが起こる。うまく合わせられずに演奏が中断してしまったのだ。「Swanky Street」は私もコピーしたことがあり、出だし、特に二回目の音を合わせるタイミングが難しいなとは常々感じていた。でも、まさか本人たちが失敗するとは。でも、ステージ上では雰囲気が悪くなるでもなく、むしろその逆でメンバーも思わず笑っていた。雰囲気はかえって良くなった気がする。ライブハウスに引き戻されたような感覚を味わった。


この辺りからだろうか。私が客席にも目が向くようになったのは。アリーナはステージを除いた270度、1万2000人のバスターズで埋め尽くされている。そして、手を上げたり体を揺らしたりして、思い思いにピロウズの音楽を楽しんでいる。「Swanky Street」で歌われた「僕ら」。それは当初はメンバーのみだったと思うが、徐々に範囲は拡大していき、今では横アリに来た1万2000人、いや全てのピロウズを聴く人間を包括しているように感じられる。そのことに気づいたとき、また涙がこぼれるのを感じた。


今夜もロックンロールの引力は万能で
裸足のままで走り出していたんだ



ピロウズのロックンロールの引力に引き寄せられた人間がこんなに集まっている。不敵なメッセージを受け取って笑って騒いでいる。私はピロウズに多くの場面で救われたが、彼らの多くもそうなのだろう。歌い出しから泣いていたのは、きっと私だけではなかったのだと思いたい。手を上げているバスターズの多さがその答えであってほしい。


LITTLE BUSTERS」では、多くのバスターズが立って腕を上げていた。2階席もそうだ。黒いリストバンドが見える。シンプルな曲調は盛り上がるのに最適だ。1万2000人のアリーナなのに、狭いライブハウスのような熱気が迸る。


そのまま「Ready Steady Go!」へと雪崩れ込む。アップテンポでスタンディングエリアは我を忘れて盛り上がっている様子だ。「Go!Go!Ready Steady Go!」の合いの手も完璧に差し込まれている。「Busters!」での解放感はもの凄いものがあった。そのまま最高潮を更新したまま、演奏は終了し、メンバーはステージから引き上げていった。拍手は鳴り止まない。




幾ばくかしてメンバーがステージに再び登る。MCもなしに演奏されたのは「ストレンジカメレオン」だった。この曲は「私一人」の曲である。そう思っていた。周囲にピロウズを知っている人間はいない。勧めても軽く流される。そもそも私には友達がおらず、職場にも溶け込めているとは言い難い。まさしく「周りの色に馴染まない出来損ないのカメレオン」なのだ。そして、それは私一人だけと思っていた。私一人が世界から疎外されていて、孤独を痛いほど味わっているのだと。


でも、違った。ステージ上ではメンバーが万感の思いを込めて演奏している。それを1万2000人が総じて聴き入っているのだ。周囲を見渡すと、誰もが自分のこととして真摯に受け止めているようで、孤独を味わっているのは私一人ではないことを思い知った。今思い返せば、ここが私の感情のピークだったと思う。枯れたと思っていた涙も訳が分からないほど流している。1万2000人から贈られた拍手は、共感と祝福の拍手に違いなかった。


静かにギターが鳴らされる。「Can you feel?」とさわおさんが問いかける。声高く反応するバスターズ。噛みしめるかのように「ハイブリッドレインボウ」が始まった。もう一言一句が涙腺を刺激してくる。口を開けて声なき声で歌ってみると、余計に胸に迫るものがある。心が叫ぶのを声にして解放させたかったけど、代わりに思いっきり息を吐くことで対処した。思いっきり泣きながら口をパクパクさせていて、みっともないように思えたけど、会場を見渡すとそれでいいのだと思うことができた。


昨日まで選ばれなかった僕らでも明日を持ってる


演奏が終わったとき、アリーナをこの日一番の拍手が包んだ。苦しい時にも寄り添ってくれるピロウズに出会えた喜びを、胸に抱いて拍手という手段に替えて伝えた。大歓声の後にメンバーが引き上げていく。でも、さわおさんは一人残っていた。


俺は音楽業界は信用してない。けど、君たちのことは信じたいよ


さわおさんから「信じたい」なんて言われて、また泣きそうになった。ピロウズを聴いていて良かったと、心の底から感じた。私も、世界も人間も信用していないけれど、ピロウズのことは信じたいし、信じていれば報われる瞬間はこれからも訪れそうな気がする。


さわおさんが帰っていったあと、アリーナ内には「Thank you, my twilight」が流れた。1万2000もの手拍子とともに聴く「Thank you, my twilight」は、とても心地よかった。サビの最後でバスターズが声を揃えて歌っている。私も今度は精一杯「Thank you, my twilight」と歌った。何度も何度も歌った。バスターズからピロウズへの感謝を伝えるにはこれ以上ない選曲だったと思う。欲を言えばステージで演奏してほしかったけど。


ダブルアンコールで、メンバーはビール缶を持って現れた。両側の花道で挨拶をして乾杯をする。いつものピロウズのライブの光景だ。さわおさんは「Swanky Street」でミスったことを笑いながら振り返っていた。本人たちからすれば、DVDになるときはカットしたいと思うだろうけれど、私はカットしないでそのまま収録してほしいと感じる。なぜならひたすら愛おしかったから。


いつもなら長く話しているところだが、今日は早々に切り上げ演奏する準備に入った。いくつかのとんちんかんなコールをスルーし、真鍋さんのリフが炸裂する。「Ride on shooting star」は短いながらも、ピロウズ曲で屈指の盛り上がりを見せる。正直やらないことも覚悟していたので、このタイミングでやってくれたのは嬉しかった。演奏に合わせて体を前後に揺らす。ステージ上のメンバーと一体になったようだ。


そして、「Ride on shooting star」が終わると、シンイチロウのドラムが鳴り響く。ここで演奏される曲と言ったら一つしかない。そう、「Funny Bunny」だ。最近また脚光を浴びだしたこの曲。そのストレートな応援歌的な使われ方には首を傾げるところもあるものの、こうしてライブで演奏してくれると単純に嬉しい。なんだかんだ言って曲自体の良さには抗えるはずもない。


曲はサビに突入する。さわおさんは歌うのを止めた。その代わりにバスターズが歌う。初めて聴く1万2000人の「Funny Bunny」。合唱は、不揃いででこぼこしていたけれど、可塑性の高い粘液みたいにどんな心にもすっぽりと形を変えて入り込んでしまう。アリーナの全方向から歌声が聞こえてきて、爽やかな大気に包まれているようだった。端的に言えば、またとない機会に感動した。


好きな場所へ行こう
「僕らは」それができる



それは、他の誰でもない自分に向けて歌われた曲だった。おそらくは1万と2000の「自分」に。


ダブルアンコールも終了し、ちらちらと返り始める人も出てきている。ただ、20周年の武道館の時はトリプルアンコールがあったはずだ。祈るような気持ちで拍手を続ける。あちらこちらから拍手が聞こえる。帰ろうとしている人が立ち止まるのが見えた。そして、三度メンバーがステージに姿を現す。


新しいも古いもない世界!それがロックンロールだ!!


最後の曲として選ばれたのは「Locomotion, more! more!」。私はこの曲が最後で良かったと切に思う。それは当然盛り上がるからというのもあるが、この曲が25周年の後の5年の間に作られた曲だからだ。過去に縋るのではなく、新しめの曲で終わったところに、今もなお活動を続けるピロウズの矜持を見たような気がした。もちろん、アリーナはぶり返したような熱気に包まれ、横浜シティは大いに揺れ、最高潮のうちに"LOSTMAN GO TO YOKOHAMA ARENA"は幕を閉じた。


セットリストを見返してみると、人気曲、キラーチューンばかりで、まさにピロウズの30年の集大成と言った感じがする。横アリのロビーは確かな満足感で満たされていた。人の波に流されながら、外へ出ると雨がすっかり強くなっていた。傘を差しながら新横浜駅へと帰っていくバスターズ。私もその一員として、街灯が照らす夜道へと一歩歩き出した。




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さて、一夜明けてみてどうだろうか。あれほど忘れないと強く思っていたライブの内容は、少しずつ忘れてきているし、寝不足で仕事でも軽くしくじった。部屋に戻っても相変わらず一人で、自分の社会不適合者ぶりに軽く死にたくなる。そんなとき、私はピロウズを聴く。そして、足りない頭で思い出すだろう。あの日、ピロウズの集大成を1万2000のバスターズと、間違いなく目撃したことを。ピロウズの30年を目の当たりにして流した涙がとても暖かったことを。


これからも、ピロウズの音楽とともに生きていく。
その事実だけで、素晴らしい。











2019.10.17
"LOSTMAN GO TO YOKOHAMA ARENA" 


セットリスト



01.この世の果てまで
02.MY FOOT
03.Blues Drive Monster
04.アナザーモーニング
05.スケアクロウ
06.バビロン 天使の詩
07.I know you
08.サリバンになりたい
09.LAST DINOSAUR
10.Please Mr.Lostman
11.No Surrender
12.Kim deal
13.ぼくはかけら
14.1989
15.ニンゲンドモ
16.雨上がりに見た幻
17.サードアイ
18.Advice
19.Swanky Street
20.About A Rock'n'Roll Band
21.LITTLE BUSTERS
22.Ready Steady Go!

En1.ストレンジカメレオン
En2.ハイブリッドレインボウ

En3.Ride on shooting star
En4.Funny Bunny

En5.Locomotion, more! more!





お読みいただきありがとうございました。


おしまい


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こんにちは。これです。長野は巨大台風の後も雨でした。マジふざけんなよと思います。もう雨はいいだろ。台風一過の青空なんて嘘だ。「空、クッソ青い」と言わせてくれよって感じです。


でも、そんな中でも私は映画を観に行ってしまいました。今回観た映画は『メランコリック』。小規模公開ながらも絶賛が相次ぎ、徐々に上映館を増やしている映画です。割と盛り上がっていたので気になって観に行ってきました。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・本来好きなはずなのに…
・共感を拒む作りになっているのが合わなかった





―あらすじ―

バイトを始めた銭湯は、
深夜に風呂場で人を殺していた――!?

名門大学を卒業後、うだつの上がらぬ生活を送っていた主人公・和彦。ある夜たまたま訪れた銭湯で高校の同級生・百合と出会ったのをきっかけに、その銭湯で働くこととなる。そして和彦は、その銭湯が閉店後の深夜、風呂場を「人を殺す場所」として貸し出していることを知る。そして同僚の松本は殺し屋であることが明らかになり…。

(映画『メランコリック』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・本来好きなはずなのに…


公開されるやいなや、映画ファンの間で絶賛の嵐を巻き起こした映画『メランコリック』。その高い評価に後押しされ、今回観に行ったわけですが、正直私にはあまりハマりませんでした。いや、描かれていることは本来、かなり好きなはずなんですよ。絶賛されるのも良く分かるんです。私も観た後には、なんでこれがハマってないんだろう?って不思議に思ったくらいですし。


なので、この感想ではまずはこの映画の好きなところを上げて、その後になぜハマらなかったのかを少し上げていきたいと思います。


まず、この映画で光るのは銭湯を「人殺しの場所」として貸し出すというアイデア。確かに銭湯であれば血は水で流せますし、遺体は釜戸に入れて火葬することができます。その一方で、昼間には一般客も出入りする場所である以上、証拠を残してはいけないという緊張感もあります。なので、このアイデア自体は非常に面白いですし、思いついた時点である程度の出来は保証されている気がしました。


続いて良いのが、主役の和彦を演じた皆川鴨二さんと、後に相棒的なポジションとなる松本を演じた磯崎義知さんの二人。皆川さんは慌てふためく感じが良い意味で社交性のなさを感じましたし、磯崎さんはがっちりとした体格が逆に不安を煽ります。この映画のプロデューサーは皆川さん自身で、自らと磯崎さんの特徴を熟知しているからこそ、一番ハマる役柄を持ってきた印象がありますね。それが、この映画の大きな長所になっていたと感じます。




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さて、映画序盤では小寺というキャラクターが、主に人殺しを行っていました。しかし、映画途中でその小寺は命を落としてしまいます。依頼主の田中(ヤクザ)は元々は人殺しをしていた松本を引き抜こうと画策。そして、人殺しのことを知っている和彦を自分も人殺しができるようにするか、口封じのために殺すかと、店主の東に迫ります


ここで、松本は和彦のもとに行き、今の仕事についての自覚、覚悟はあるか尋ねます。煮え切らない和彦にキレる松本。話し合いの結果、元凶である田中を殺せば、全てチャラになるという結論に達します。ここからのっぽ眼鏡の和彦と、ガタイの良い松本のバディムービーの様相もこの映画は呈してきました。実際これは観ていて楽しく、二人が銃の練習をするシーンは思わず笑いがこみあげてきてしまうほどのコミカルなシーンでした。本人たちは真剣なんですけど。


で、この後のシーンが超好きでして。二人は一転して定食屋にいるんですよね。酒が飲める飲めないだの童貞だのそうじゃないの馬鹿なトークを展開しています。で、ここで交わされる会話が良くて。


和彦「人生に何も楽しみないの?
松本「人生って楽しみがなくちゃいけないんですか?


松本「なんで東大卒でこんなことしてんですか?
和彦「東大出て、いい会社入って、幸せな生活送ってなきゃいけない?


(すべて意訳です)


というものだったんですけど、これって世間の「こうあるべき」像なんですよね。人生には楽しみがないといけない。東大卒はいい会社に入らないといけない。この映画のチラシの裏には「人生、こんなはずじゃなかった。」と書いてあるんですが、まさにこういう人たちの映画で。人殺しも、東大卒で二―とも「すべきではない」。世間の圧力に言葉に出さずとも苛まれているのが、和彦と松本の共通点だったと思います。この辺り、私も常日頃感じていることなので、共感はかなりしましたね。


で、その二人が、元凶である田中と、自分たちに人殺し及びその後処理をやらせていた東のもとへと殴り込み。最初に言った松本は二人の策略に騙され、ピンチになるも後から駆け付けた和彦が、二人を討ち取ります。ここの何がいいかっていうと、二人が主体性を持ったことで、状況が変わったのがいいんですよね。


映画の中で、二人は仕事を「やらされて」いました。なんでその人が殺されるのかもわからず、仕事だからと自らを納得させ、淡々と後処理をします。でも、二人は自らの主体性を持って、元凶である田中を殺すことを決意したんですよね。そして、紆余曲折ありながらもそれは成功。自らの意志で動けば状況は好転するという非常に前向きなメッセージを伝えていると感じました。


それは虐げられていた奴隷が主人を倒して自由を手に入れるようでもあり、自分たちの意志で努力を重ねた弱小スポーツ部が大会を勝ち抜いていくような爽快感がありました。映画の中で、和彦の家で田中の愛人だった外国人女性も含めて、囲む食卓がとても暖かったのが印象的ですね。それまで、ろくな生活をしてこなかった松本が初めて恵まれたシーンで、感動してしまいました。



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そして、最後には営業時間外の銭湯で、人殺しではなく飲みを開くシーンでこの映画は締め。外国人女性と和彦の彼女である百合と4人で交わす酒の席はとても楽しそうで、彼らが笑顔で本当によかったと感じずにはいられません。そして、映画はこういったナレーションで締めくくられます。


人生の中で何回かある、この時間がずっと続けばいいのにと思う瞬間。人生は、それがあるだけでいいんだと思う」(意訳)


これが定食屋のシーンで語られた世間の「こうあるべき」像の答えになっているのがいいんですよね。「こうあるべき」像じゃなくても、自分たちが良ければそれでいいんじゃないかと。それは、主体性を持って動き、自分の力で何かを成し遂げた人間にしか、口にできない答えでもありました。自分で掴んだ最高ではなくても、良好な現実。とても清々しくて、本来これは私の大好物でもあります。


でも、前述の通り、私はこの映画にあまりハマらなかったんですよね。それはどうしてかということを、次に書いていきたいと思います。




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・共感を拒む作りになっているのが合わなかった



この映画が私にハマらなかった理由。それは銭湯で殺人をするというグロさにあったわけではありません。むしろ、この銭湯のシーンは、逸脱した行為を無理やり納得させ、淡々と処理するという狂った感じがあって好きでした。私がハマらなかったのは、むしろ銭湯の外のシーンです。


まず、特徴的だったのが和彦が家で食卓を囲むシーンです。ここ、両親があまりにも和彦の現状を受容しすぎるんですよね。「ご飯おいしいね」ぐらいしか言っていなくて、和彦は生返事。このあまりの需要っぷりが、定点カメラでの撮影と合わさって逆にとても不気味でした。


さらに、彼女となる百合も和彦のことを否定しません。現状にかなり理解を示してくれています。この映画正直思っていたよりも恋愛パートが多くて。百合がきっかけで和彦が銭湯で働くことになりましたし、必要なキャラクターであることは分かるんですよ。ただ、あまりに多い。悪くはなかったものの、そこが少し退屈に感じてしまった部分はありました。


で、この二つに共通しているのが、世間の「こうあるべき」像と乖離していることなんですよね。なんかもっと「お前何してんだ」って責められてしかるべきだと思うんです、和彦は。私も「働けや」と思いましたし、誰も和彦のことを責めないのはかなり違和感がありました。そして、ここが私がこの映画にハマらなかった最大のポイントだと感じました。この映画って共感を拒む作りになっているんですよね、


これは私の悪いところなんですが、私ってどうしても映画の評価を「どれだけ共感できたか」で決めてしまいがちなんですよね。全く共感できない映画でもいい映画はあるのに、そのことがまだ分かっていない。この映画で言えば、「お前何してんだ」という視点があった方が、私は和彦に感情移入できていたと感じます。そっちの方が和彦が置かれている境遇がはっきりするので。めちゃくちゃ自分勝手な考えですね。ごめんなさい。


いや、それが狙いだっていうことは分かるんですよ。「お前何してんだ」を観客に任せて、その疑問を最後の最後で回収するという構成は見事ですし、食卓のあの不気味さが、終盤の温かみをより際立たせていました。この点で『メランコリック』は特筆すべき出来なのですが、残念ながらわがままキッズである私には合いませんでした。これ、映画全然悪くないですね。わがままキッズな私が一方的に悪いだけです。もうちょっと大人の観方を出来たらなと深く反省しています。誠に申し訳ありませんでした。




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以上で感想は終了となります。『メランコリック』、キッズな私には合いませんでしたが、大人な皆さんなら楽しめる映画だと思います。機会があればぜひご覧ください。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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