Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2019年10月



こんにちは。これです。台風大変でした。私が暮らす地域は大きな被害はなかったですが、同じ長野市内では千曲川が越水して大きな浸水被害を受けた地域もあります。死者も少なからず出ていて、これ以上被害が拡大しないことと、早期の復旧を願っています。義援金口座が出来たらお金を送りたいと思います。それくらいしかできないので。


さて、こんな大変な状況の中観に行くかどうか迷いましたが、今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『真実』。『万引き家族』でパルムドールを受賞した是枝裕和監督の最新作です。日曜日なのに映画館には人が少なくて、台風の被害をまた一つ感じてしまいましたね。寂しかったです。


でも、切り替えて感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いいたします。




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―目次―

・雰囲気が少し合わなかった
・是枝監督が描き続けてきた「家族」というテーマがこの映画でも
・「真実」が提示されないのが面白かった





―あらすじ―

すべてのはじまりは、国民的大女優が発表した「真実」という名の自伝本――

世界中にその名を知られる、国民的大女優ファビエンヌが、自伝本「真実」を出版。海外で脚本家として活躍している娘のリュミール、テレビ俳優として人気の娘婿、そのふたりの娘シャルロット、ファビエンヌの現在のパートナーと元夫、彼女の公私にわたるすべてを把握する長年の秘書─。“出版祝い”を口実に、ファビエンヌを取り巻く“家族”が集まるが、全員の気がかりはただ一つ。「いったい彼女は何を綴ったのか?」
そしてこの自伝に綴られた<嘘>と、綴られなかった<真実>が、次第に母と娘の間に隠された、愛憎うず巻く心の影を露わにしていき―。


(映画『真実』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください












・雰囲気が少し合わなかった


この映画のオープニングは木の葉が揺れる風景からスタート。サラサラと揺れる木の葉をバックにフランス語でタイトルが登場。このあたり是枝監督が撮っているのにもかかわらず、実にフランスっぽいなと感じました。モノクロでも何らおかしくない気がしたんですよね、この始まり方は。


さらに、続いてのシーンはインタビューを受ける大女優・ファビエンヌ。終盤への伏線を多分に含むシーンでしたが、画素数が低めに抑えられていてフィルム感をもの凄く感じます。7,80年代かな?と思ってしまいましたもん。その後に続くシーンも、台詞回しは平坦で画面もあまり派手じゃない。言ってしまえば、劇的な出来事はなく地味で淡々と進んでいきます


この7,80年代のフランス映画の香りを残した演出。実は観る前からキッズな私との相性はあまり良くないだろうなぁと感じていましたが、その悪い予感が的中。前日にあまり眠れなかったこともあり、序盤は結構寝てしまいました。そうでなくても眠気にかなり頭を支配されていて、ちゃんと観ることができたのは30分ぐらい経ってからです。シャルロットがスタジオに見学に行ったシーン?とかあまり記憶にないですもん。徐々に慣れてはいったんですが、この先の内容はうつらうつらしながら観ていたことをご承知おきいただければと思います。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






・是枝監督が描き続けてきた「家族」というテーマがこの映画でも


ファビエンヌが執筆した自伝本「真実」。ただ、この本には実際の事実とは大幅に異なる内容が書かれていました。夫ピエールが死んだことにされていたり、秘書のリュックについての記述があまりなかったり。一番大きかったのは、彼女の姉妹で同じ女優であるサラの記述が少なかったこと。これに、娘のリュミールは大きく反発します。なぜなら、仕事にかかりきりだったファビエンヌの代わりに主にリュミールの面倒を見てくれたのは叔母のサラだったからです。


納得のいかないリュミールはファビエンヌと喧嘩。サラからファビエンヌが役を奪い取ったことを暴露するなど、なかなかのドロドロっぷりです。ここで喧嘩に入っていけず、蚊帳の外になっているイーサン・ホークが面白かったですね。あのイーサン・ホークがですよ笑。


しかし、ここからファビエンヌは少しずつ改心し、歩み寄りを見せていきます。もう前半のファビエンヌったらなかったですもん。それまで女優として築き上げたプライドから、悪口を言いたい放題。メチャクチャ口が悪くて、吸うたばこと共に、気難しい印象を与えます。名優カトリーヌ・ドヌーヴの巧みな演技もあり、どんどんヘイトが溜まっていきますが、それも後半に向けたフリ。徐々に彼女が女優として大成するために、家庭を犠牲にしていたことが明らかになっていくと、憐憫の眼差しを向けざるを得ません。楽しげに盛り上がる家族を見つめる悲しげな眼差しが印象的でした。


簡単にまとめるとこの映画って、人生ももう終盤に差し掛ったファビエンヌが、自らの人生を内省して、ないがしろにしていた家族と向き合って再生していく物語なんですよね。自伝本を執筆するのなんて若造にはできません。女優としてのキャリアも晩年に差し掛ったファビエンヌの、秘書のリュックも含めた家族との関係性の修復が、一番の見どころになっていたのは疑いようがないと思います。




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この「家族」というテーマって、今までの是枝監督の作品で結構描かれてきたテーマですよね。『万引き家族』はもちろん『誰も知らない』『そして、父になる』『海街diary』など。その多くは、血の繋がっていない家族で、血の繋がりが家族にどう影響するかことを是枝監督は多く描いてきて、それは『万引き家族』で一つの到達点に達したと感じます。


ですが、『真実』ではそれとは反対に、血の繋がった家族が主体です。ファビエンヌ、リュミール、孫のシャルロットの三人がこの映画の主要な登場人物でした。しかし、血が繋がっておらずとも雰囲気が良かった『万引き家族』とは対照的に、こちらの家族は血が繋がっているのに雰囲気が悪い悪い。底を流れる意地の悪さや不協和音と言うものが、じわじわと私たちの感情を揺さぶっていきます。


ただ、ファビエンヌは女優としては、もう斜陽に差し掛っています。新進の女優のマノンの才能を見せつけられて、焦りも出てくるファビエンヌ。しかし、それが却って自分を見つめ直す機会となったのがラッキーでした。自伝本を書くという人生を振り返る機会があったのもプラス。しかし、長年のプライドから素直になれないファビエンヌ。リュックに謝ろうとしてもなかなか踏ん切りがつかないのはいじらしくもありました。


しかし、リュミールがリュックに謝る脚本を書いてくれたおかげで、リュックは辞職を撤回(脚本であることは見抜かれていましたが)。さらに、「真実」ではなく「虚構」である映画の撮影。そこで迫真の演技を披露するファビエンヌの姿に心動かされ、ファビエンヌとリュミールも少しずつ和解していきます。窓際での体を寄せ合うシーンは、言葉では強がっているものの優しさに溢れていて好きでした。『万引き家族』が関係性が崩壊していったのに対して、『真実』は修復されていて、こちらの方が明るくて分かりやすいのかなと感じます。フランスのカラッとした雰囲気もありましたし。




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いずれにせよ『真実』は、家族がテーマになっていてフランス映画ながら、はっきりと是枝監督の色が出ていましたが、この映画の特徴って「家族」の再生だけに収まっていないことなんですよね。斜陽のファビエンヌ自身も再生しているんですよね。才能溢れるマノンも実は悩んでいて、それはサラの後継者と言われることでした。


終盤にマノンがファビエンヌ家を訪れるシーンがあります。ここで、序盤の記者のインタビュー「女優として誰のDNAを継いでいると思いますか?」という質問が伏線となって効いてくるんですよね。ファビエンヌはマノンにサラの服を着せて、サラの後継者であることをポジティブに捉えるよう働きかけます。ファビエンヌもずっと家族の側にいたサラに負い目を感じて悩んでいましたが、家族と向き合って再生していく中で吹っ切れたんですよね。サラを羨んでいてもそれでいいと。


励まされたことによって、マノンは元気を貰っていましたし、さらにファビエンヌ自身も新たにシーンを取り直すアイデアが浮かびます。家族関係が再生されたことで、女優としてのファビエンヌも再生されたんですよね。もう最後のファビエンヌは撮りたくて撮りたくて仕方がないと言った感じでしたし、家庭と仕事の好循環に胸がすく思いがしました。ワークライフバランスや。


















・「真実」が提示されないのが面白かった



最後に、この映画で面白いと思ったのが、この映画って「真実」も「事実」もあまり提示されないんですよ。自伝本の内容が一文も読まれないのもかなり意外でしたし、この自伝本自体あまり話に絡んできませんし。さらには、回想シーンもなく語られる事実は口頭のみで、それが「真実」かどうかははっきりとしないんですよね。


それに、この映画では「演じる」ということが大きなキーになっていまして。「演じる」という行為もノンフィクションでない限りは、「真実」じゃなくて「虚構」じゃないですか。でも、その「虚構」がファビエンヌたち家族の再生に一役買っているんですよね。『オズの魔法使い』とか。


で、この映画で一番面白いなと感じたのが、最後のシャルロットとファビエンヌの会話でした。シャルロットは「女優になる」と言ってファビエンヌを喜ばせますが、実はこれリュミールが書いた脚本だったんですよね。ファビエンヌがリュックに謝ったシーンの意趣返しになっていて、でファビエンヌはそこで「脚本じゃない」って言っていましたよね。なので、このシーンもシャルロットの本心と言う可能性もあるわけですよ。


往々にして、映画の登場人物には「真実」は分からないけど、観客には分かっているみたいなことあるじゃないですか。でも、この映画では「虚構」と「真実」の境目を曖昧にすることで、観客にも何が「真実」か分からないようになっているんですよね。映画自体はそこまでハマらなかったんですけど、その点が想像を掻き立てられて面白いなと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『真実』、キッズなせいで私には合わなかったんですけど、間違いなくいい映画ですので、興味がある方は尻込みせずに、映画館に向かっていただければと思います。本当に被害がないのに自粛だけはやめてくださいね。それで傾く産業もあるので。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。台風19号が近づいてきてますね。長野もバッチリ強風域に入っていて週末がとても心配です。大事にならないように祈ってます。本当、被害拡大しないでほしい。


なので、もう映画は早いうちに観とけということで、観てきました。『空の青さを知る人よ』(以下、『空青』)。結論から申し上げますと、すんごい傑作ですよ、この映画。『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』を劇場版のみ、『心が叫びたがってるんだ。』を前日に観たぐらいの私でもそう思います。超オススメです。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・キャスト等について
・「狭い世界」と「広い世界」
・「大人」だけの映画ではない気がする





―あらすじ―

山に囲まれた町に住む、17歳の高校二年生・相生あおい。将来の進路を決める大事な時期なのに、受験勉強もせず、暇さえあれば大好きなベースを弾いて音楽漬けの毎日。そんなあおいが心配でしょうがない姉・あかね。二人は、13年前に事故で両親を失った。当時高校三年生だったあかねは恋人との上京を断念して、地元で就職。それ以来、あおいの親代わりになり、二人きりで暮らしてきたのだ。あおいは自分を育てるために、恋愛もせず色んなことをあきらめて生きてきた姉に、負い目を感じていた。姉の人生から自由を奪ってしまったと…。そんなある日。町で開催される音楽祭のゲストに、大物歌手・新渡戸団吉が決定。そのバックミュージシャンとして、ある男の名前が発表された。金室慎之介。あかねのかつての恋人であり、あおいに音楽の楽しさを教えてくれた憧れの人。高校卒業後、東京に出て行ったきり音信不通になっていた慎之介が、ついに帰ってくる…。それを知ったあおいの前に、突然“彼”が現れた。“彼”は、しんの。高校生時代の姿のままで、過去から時間を超えてやって来た18歳の金室慎之介。思わぬ再会から、しんのへの憧れが恋へと変わっていくあおい。一方で、13年ぶりに再会を果たす、あかねと慎之介。せつなくてふしぎな四角関係…過去と現在をつなぐ、「二度目の初恋」が始まる。

(映画『空の青さを知る人よ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












・キャスト等について


この映画ではメインキャストに俳優さんが起用されています。また観ていない人たちから批判がありそうなもんですが、個人的に『空青』は今年一番くらいに俳優さんの声優起用がはまっている映画だと感じました


まずは、吉沢亮さん。31歳の慎之介と18歳のしんのを一人二役で演じるというかなり高いハードルを見事にクリアしています。しんのは、それまで青春映画に出演した経験から何とかなるとは思っていましたし、実際明るく物語を引っ張ってくれる声で予想以上だったのですが、それ以上に慎之介が良くて。きつめの口調に疲れた感じが漂っていて、東京で大変なんだろうなとそのバックボーンを推し量ることができます。二人が対面するシーンでの演じ分けは凄かったですね。


続いて、吉岡里帆さん。相生家の姉・あかねを演じていましたが、こちらはとにかく口調が優しい。聞いていてとても癒されます。でも、穏やかな中に悟った表情も滲ませていて、慎之介を突き放すシーンや、あおいにきつく言われた後のちょっとした一言が、悲しくて好きでした。正直、ここまでとは。最近『空青』の他にも『見えない目撃者』や『時効警察はじめました』など、吉岡さんのターンが来ている印象ですね。良いことです。


でも、この二人を差し置いて個人的に印象に残ったのが若山詩音さんなんですよね。予告を見た時からめっちゃツボだなと感じて、すでに好きだったんですが、いざ映画が始まってみると、あおいの思春期特有の気難しさを完璧に表現。少し低めの声が、口が悪かったり強がるあおいに見事にはまっていました。でも、トイレのシーンやしんのに思いを打ち明けるシーンなど、高めの可愛い声も使い分けていて。まあ一言で言えば素晴らしかったんですよ、映画初出演とは思えないくらい。元子役の方らしいんですけど、既にオファー殺到していそうな気がします。そのくらい良かった。


さらに、脇を固めるキャストの方々も、松平健さん筆頭に皆さんめちゃくちゃ良かったですし、声優に関してはもうパーフェクトと言っていい出来だと思います。俳優さんが声優をやっているから馬鹿にするのではなく、ちゃんと観てから言ってほしいですね。





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加えて、印象に残ったのが音楽です。最初のね、あおいのベースプレイがとにかく渋くてかっこいいわけですよ。私はそこで一気に心つかまれましたね。さらに、息つく暇もなく過去回想でバンド演奏を浴びせて、ベースとドラムのリズム隊のセッションで中弛みを防止。慎之介の弾き語りもユーモアに富んでいてよかったですし、極めつけはあいみょんさんの「空の青さを知る人よ」ですよね。


この曲が、映画の一番の盛り上がるシーンで流れるんですけど、青い空をバックにしたこのシーンの爽快さといったら。ぶっちゃけ『天気の子』は思い出しますが、それにも負けないくらいのカタルシスがありました。それまでのフリが聞いていて、とても気分が良かったです。


あと、音楽で言いますと、エンドロールでバンド演奏をしていたメンバーを見て驚いたんですよね。ギターがアオキテツさん、ドラムが渡邊一丘さん。私が好きでライブにも行ったことがあるa flood of circleのメンバーがこんなところで出てくるなんて。「青」繋がりですかね。とても嬉しい驚きでした。



























※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












・「狭い世界」と「広い世界」



監督:長井龍雪さん × 脚本:岡田磨里さん × キャラクターデザイン・総作画監督:田中将賀さんの、超平和バスターズで製作された『空の青さを知る人よ』。この座組は『あの花』『ここさけ』以来三度目です。これらはいずれも秩父を舞台にしていたり、高校生を主人公に据えていたりと共通する要素は多いのですが、『空青』には前二作とは違った特徴がありました。それは、大人のキャラクターもメインに据えているということです。


『あの花』や『ここさけ』は、いずれもメインは高校生で、大人はあまり物語に強く絡んできません。『あの花』は正直、劇場版だけではすべてを把握できず、TVアニメを見ていること前提の映画だったので、ここでの言及は避けますが、『ここさけ』で描かれていたのは、思春期の葛藤です。年齢を重ねていくうちに世界が広がっていく中で、自分はどのようにして振舞えばいいのかというのが『ここさけ』の一つのテーマだったと私は感じました。


で、私にはこれが見事に刺さったんですよね。私も広がる世界の中での振舞い方が分からず、口をつぐんで嫌われないようにしてやり過ごしていますし、「言いたいことが言えない」という順をはじめとしたキャラクターの気持ちにはいたく共感したんです。でも、観終わった後に思ったんですよね。この映画が好きで、共感していて果たして本当にいいのだろうかって。


というのも、「大人」、それも年を重ねれば重ねるほど、世界って広がらなくなっていくじゃないですか。固定されてマンネリ化するじゃないですか。その広がり切った世界の中で、どうやって変化をつけていくかで悩むのが「大人」だとするならば、世界が広がることに悩んでいる私はまだまだ子供だなって思ったんですよね。もう25なのに。いい加減大人になれよって。


確かに、「言いたいことが言えない」という『ここさけ』のキャラクターに共感する人はいると思いますし「大人」でも楽しめる映画だとは思います。高校って子供からすれば「広い世界」ですけど、「大人」からすれば「狭い世界」じゃないですか。俺たちはより広い、広がりきった世界で悩んでるのに、そんな「狭い世界」で悩んでんじゃねーよとなる人もいるでしょう。なので、『ここさけ』は「狭い世界での悩みが過ぎ去った大人」には受け入れられづらい映画だとは感じました。『あの花』と同様に。




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(映画『心が叫びたがってるんだ。』)



しかし、『空青』ではあかねと慎之介という二人の大人のキャラクターがいます。あかねは早いうちに両親を失くしてしまったため、あおいの世話をせざるを得ず、慎之介と東京に行くなど様々なことを諦め、我慢せざるを得なくなっています。また、慎之介も東京に出たはいいものの、ソロとしては芽が出ず、演歌歌手のバックバンドをしていて、描いていた理想とは程遠い状態。二人は「夢」を失い、「現実」を受け入れたキャラクターだと私は感じました


この二人と対照的に描かれていたのが、言わずもがな子供のあおい。東京に行ってバンドで天下を獲るという青すぎる夢を(本心ではないにしても)語っています。その根底にあったのは、秩父というロケーション。「巨大な監獄に収容されてんの」とあおいが語るように、四方を山に囲まれ、圧迫感や閉塞感はばっちりです。まさに「狭い世界」で、井戸の中。そして、あおいはイヤホンをつけて雑音をシャットアウトし、一人でさらに狭い世界に入っていきます。晴れた空には見向きもせず、手元のベースに夢中です。


この秩父という「狭い世界」の反対となるのは、やはり「東京」という大海、「広い世界」でしょう。どんな夢も叶うという世界。これは田舎者から見る東京の姿そのものです。私はこれを「東京幻想」と呼んでいるんですけど、何にもない田舎からすれば、何でもある東京っていうのは、実像を歪めるくらい輝かしく見えてしまうんですよ。娯楽も多いし、芸能人もいっぱいいるし。私も高校生の時は東京に出たくて仕方なかったですし。まぁそれは幻想で、いざ東京に暮らしてみると、特に楽しくも辛くもなかったんですが。


物語の中で、あかねはあおいの世話をするために、東京という「広い世界」ではなく、秩父という「狭い世界」に残ることを選びます。その一方で、東京という「広い世界」に出た慎之介。ただ、幻想は幻想で「ビッグになってあかねを迎えに来る」という夢との距離は遠ざかる一方です。「広い世界」を諦めたあかねと、「広い世界」に苦しむ慎之介。ただ、『空青』の特徴として「広い世界」を悪く描くこと、否定することはしないんですよね。あかねも慎之介も、現状を変えたくて変えたくて仕方がないというほど不満が溜まっている様子はないですし、ここ結構重要なポイントかなと感じます(また後で少し書きます)。


31歳になった慎之介の姿にショックを受けたあおい。山の上のお堂に入ってベースを掻き鳴らします。しかし、「うるせえ」という声が。その声の方を見ると、13年前の慎之介(通称:しんの)がいました。しんのはどうしてここにいるか自分でも分からず、実体はありますが生き霊のような存在として映画では扱われています。そして、結界が張られたようにお堂から出ることはできません。これは、まるでお堂の中という「狭い世界」に、しんのが囚われているように見えますし、実際そうだったのでしょう。


なぜなら、しんのとあおいは高校生です。卒業文集に「世界征服!」と書いたり、本心でなくても「東京行ってバンドで天下獲ります」と言ってしまうような、青い高校生です。高校は大人の広い世界と比べると「狭い世界」であり、二人は「狭い世界」、井戸の中にいると私は考えます。「社会」という「広い世界」にいる「大人」たちと違って。




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ここで特徴的なのが、時間が不可逆であるのと同時に、「広い世界」から「狭い世界」に戻ることはできないということです。「広い世界」にいる「大人」がまた「狭い世界」の高校に入りなおすのは、日本では一般的とは言えません。成長するにしたがって、私たちは「広い世界」を手に入れる代わりに、「狭い世界」を失っていくとも言えそうです。そして、この「狭い世界」に戻ることは、子供に返るということ。それは「大人」の世界では認められないことです。「狭い世界」は捨て去られ、顧みられることなく、消失していきます。


それが『空青』ではどうでしょう。演歌歌手の新渡戸団吉のバックバンドのベースとドラムが体調不良になり、あおいとあかねの幼馴染であり、市役所職員の中道が抜擢されます。プロのバンドに混じり、慎之介にきつく言われて凹むあおい。しかし、しんのはあおいに「大丈夫だ。なんたって目玉スターなんだからな」と励まします。しんのはこの映画の中で一番「狭い世界」にいる存在。そのしんのがより「広い世界」にいるあおいを励まして勇気づけるのです。捨て去られた「狭い世界」の意地です。


さらに、印象的だったシーンが、しんのと慎之介が直接対面するシーン。あかねは土砂崩れでトンネルとに閉じ込められてしまいます。助けに行こうとするしんの。しかし、「狭い世界」に阻まれて動くことができません。一方、「広い世界」にいる慎之介は助けに行くことはなく、行政に任せるという態度を取ります。動くことができるのに、動かない慎之介にしんのはキレて胸ぐらを掴んで、叫びます。


こうなりたいって思わせてくれよ!」と。


「狭い世界」、井戸の中では比較対象も少なく、少しでも得意なことがあると、自分が一番優れていると思いがちです。一番高いところから上を見て、空の青さを知ることもできるでしょう。ただ、それは幻想で「広い世界」、大海に出てみると、自分より優れた人間はわんさかいます。それこそ、上を見ても、うじゃうじゃいる人に覆い隠されて、空を見ることができないくらい。それはとても不安なことで、安心するためには下を見て、自分よりも劣っている人間もたくさんいると認識することになるでしょう。でも、そんな「広い世界」にいる自分に、過去の「狭い世界」にいた自分は問いかけるわけですよね。


今の自分は『なりたかった自分』になれているか?」と。


そこに、青い夢を見ていた自分はいません。「狭い世界」で見ていた夢は、「広い世界」に順応していく上で、捨てざるを得ない人が大多数だと思います。でも、かつては「大人」も「狭い世界」にいたわけで「なりたかった自分」があったわけですよね。しかし、「広い世界」では諦めたり我慢したりせざるを得ない。


でも、あおいや慎之介がしんのから勇気を貰うと同様に、観ている「大人」も励まされるわけですよ。それは主題歌が流れるシーンでの、「狭い世界」から「広い世界」への絵的な解放もそうです。さらに、最後には慎之介が「まだ諦めていない」「ここは途中だ」と希望を語るんですよねまだ「広い世界」でもがくことを続ける。世界は拡張している途中。まだ見たことが無いものが見られるかもしれない。こんなもの、今を生きる全ての「大人」たちに向けた応援歌じゃないですか。「広い世界」で頑張っていこうぜという。『空青』は単に「狭い世界」に回帰するのではなく、最終的には「広い世界」で生きることを描いているのが、とても素晴らしいなと私は感じました。『あの花』『ここさけ』以上に「大人」が楽しめる映画となっていますね。




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・「大人」だけの映画ではない気がする


ここまでは「大人」に限って話を進めてきたんですけど、実は『空青』って大人に限った話じゃないと思うんですよね。子供にも同じことが言えるのではないでしょうか。


まず、子供って別に「元気いっぱい!夢いっぱい!」じゃないんですよ。子供は子供なりに、悩んで我慢して、折り合いをつけて日々を過ごしているんですよね。だって全員が宇宙飛行士やパティシエになれるわけじゃないですし。高校生にもなると「あ、自分は宇宙飛行士になれないな」というのははっきりとわかってきますよね。で、夢を変更せざるを得ない。子供だって諦めているんですよ。


それは、あおいも同じで。あおいは、あかねがやりたいことができなかったのは自分がいたせいだと自分を責めています。東京に行くというのも、あかねを自由にしてあげたいというのが本心でした。でも、本当はあかねが大好きなのであかねと一緒にいたいんですよね、あおいは。ここで、あおいは「あかねと一緒にいることを諦めている」と言うことができると思います。


何でもできるあかねに憧れるあおい。これは「狭い世界」から「広い世界」への幻想である「東京幻想」にも似た「あかね何でもできる幻想」と言えるでしょう。しかし、影ではあかねは相応の努力を重ねていたことをある日知ります。あおいの幻想は打ち砕かれますが、あかねの自分への愛情を再確認。しんのが好きだったあおいですが、最終的にはあかねの幸せを選択します。しんのという「狭い世界」よりも、あかねというより「広い世界」を選び取ったあおい。それは、そのまま「大人」になるということでした


「大人」は空を飛ぶことができません。なので、慎之介のように一歩一歩進んでいくしかない。この映画の最後で、あおいは車に乗らずに歩いて帰ります。「空を飛ぶ」という幻想から、「地に足をつけて一歩一歩進む」という現実へ。あおいが一つ大人になったと感じるシーンでした。空を見上げて「クッソ青い」と呟くあおい。「広い世界」「東京」「大人」への幻想がなくなり、「狭い世界」から見上げた空は、微かに夕焼け色に染まっていてとてもきれいでした。


『空青』は少女あおいの成長物語としても素晴らしい映画で、高校生たちといった子供にも、この等身大の成長物語はウケそうですね。この辺り『あの花』『ここさけ』と違っているようで似通っていると感じます。『あの花』でも『ここさけ』でも、前述したように「成長して手に入れるものがあれば失うものもある」ということを描いていました。そして、これは『空青』でも共通しています。あおいは成長する代わりにしんのを失っています。


学校が上がるにつれて、世界が広くなっていくとするならば、中学生から見た高校はより「広い世界」です。同時に、小学生から見た中学校も、幼稚園児・保育園児から見た小学校もより「広い世界」です。そして、「狭い世界」から「広い世界」に移行するには失っていくものもある。友達や先生と別れたり、馬鹿げた青い夢を見なくなる。子供だって「諦め」や「我慢」、「喪失」をしているわけですよ。でも、彼らもかつては「狭い世界」にいたはずで、それは「大人」と何ら変わらない。「大人」だけでなく、子供が見てもきっと感じるものがあるはずです。


超平和バスターズの新作は、子供は今まで通りOK。さらに、大人も取り込めるとなると、もうどうなっちゃうんだろうという感じです。大人向けではなく、万人向けと言った方が正しいですね。老若男女問わず観てほしい映画です。台風で大変ですけど、過ぎ去った後に機会があればどうぞ。オススメです。




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以上で感想は終了となります。『空の青さを知る人よ』、声優さんたちも最高ですし、観ていて励まされる傑作なので、ぜひ映画館でご覧ください。ぜひ、ぜひ!


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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―あらすじ―


本当の悪は、人間の笑顔の中にある。


「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母親の言葉を胸にコメディアンを夢見る、孤独だが心優しいアーサー。
都会の片隅でピエロメイクの大道芸人をしながら母を助け、同じアパートに住むソフィーに密かに好意を抱いている。
笑いのある人生は素晴らしいと信じ、ドン底から抜け出そうともがくアーサーはなぜ、狂気あふれる〈悪のカリスマ〉ジョーカーに変貌したのか?
切なくとも衝撃の真実が明かされる!

映画『JOKER/ジョーカー』公式サイトより引用)











こんちわ~。『JOKER/ジョーカー』観てきたよ~。私ね、アメコミには疎くて、バットマンもこの映画を観る前に辛うじて『ダークナイト』を見たぐらいのぺーぺーだったんだけど、単体の映画として凄い面白かった~!バットマンはおろか、ジョーカーさえも知らなくても楽しめる~。だって一から説明してくれるから~。めっちゃ分かりやすくて、超楽しかった~!!観ている間ずっと笑顔だったもん~!流石コメディアンの本領発揮って感じだよね!


いや、最初は流石に引いたよ。この映画の主人公のアーサーってね、ひょんなことから笑い出しちゃう性質の持ち主なの。最初にアーサーが笑うシーンあったんだけど、そこ悲しみを必死に堪えて笑っている感じで超胸に来るの~。めっちゃ怖かった!ホアキン・フェニックスの迫力マジヤバい~!


でね、アーサーがね、この前半は大体虐げられてんのね。悪ガキに蹴られたり、子供の母親に睨まれたり。で、そのストレスが溜まりに溜まって、地下鉄で三人を射殺しちゃうの。で、ピエロの仕事もクビになっちゃうわけ。ここ凄い悲しかったし、それでも笑うホアキン・フェニックスえぐ過ぎ笑。


それで、アーサーは精神障害ってことで、市の福祉支援を受けているんだけど、その支援が打ち切られちゃうの。ここでアーサーが「ぼくが死んでも誰も気にしない」みたいなこと言うの。いや、めっちゃ分かりみ~。分かるボタン超連打~。私も一応働いてはいるんだけど、本当に誰にでもできる仕事で給料安いし~。手取り15万がこの前話題になってたけど、私の手取り10万もないし~。全然貯金できないヤバい~。


それに、私って超コミュ障だから、人と全然喋れなくて、友達もいないし~。なんかこの世に存在してる感じがしないのよね~。私が死んでも誰も悲しまない、まあ親は悲しむと思うけどそのくらいかな~。このまま暗い未来しか待っていないから、いつ死んでも同じだなみたいな感じ~。だから、世の中に認識されてないアーサーの気持ちめっちゃ分かるのよね~。


で、こっからアーサーの反攻が始まるの!自分たちを虐げてきた奴らをどんどん殺してく!虐げられてきた者の反攻って感じで超スカッとした!観ている間、超笑顔だったもん!人死んでるのに笑。極めつけはアーサーは市長候補の隠し子みたいな展開になって、市長候補を問い詰めるんだけど、殴られて。そこで何こいつムカつく!ってなった~。ふんぞり返る上流階級マジ何様って感じ~!


私も手取り10万以下で貧困層の自覚あるし、この上流階級への不満めっちゃ分かるんだよね~。ほら日本って最近、消費税上がったじゃん?貧乏人の支出増えてるじゃん?でも、所得税や法人税は下がってんじゃん?金持ちから全然取られてないじゃん?それっておかしくない~?貧困層凄い虐げられてんじゃん~!だからジョーカーになったアーサーが起爆剤となって、上流階級への不満が爆発するっていうの気持ちいいんだよね~。私もああしたいなって思う~。あの暴動、参加したかった~。もちろん死なない程度に笑。


そんで、最後はジョーカーは下流階級に祭り上げられて踊るの!ジョーカーは下流階級の彼らのシンボルになったの!支配的な上流階級に、反旗を翻す私たちのヒーロー!願望の具現化!下流階級にいる私たちのリーダー!みたいな?マジカッコよかった!心の中でめっちゃ拍手してたもん!凄い清々しかった!


なんかね、試写会とかでこの映画を観た人たちが「凄すぎてしばらく他の映画を観る気がしない」みたいなこと言ってたでしょ?確かに凄い映画だったんだけど、他の映画を観る気がしないっていうのはよく分かんないな~。だってこんなに清々しい映画なかなかないよ!?終わった後も長い時間、笑顔だったし~。エネルギーめっちゃ貰った~。


なんか今の気分を言うと、ほら、映画のCMとかで女子高生らへんが「〇〇、最高!!」みたいにいうやつあるじゃん?まさにあんな感じ!超楽しかった~!


『ジョーカー』、最高!!!!!





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さて、冗談はこれぐらいにしておきましょう。ここからが本当の感想の始まりです。


確かに映画を観ている途中は、上記のように笑いながら観ていたんですけど、その一方で死にたくもなったんですよね。それは映画を観ている最中もそうですし、映画が終わった後、今この感想を書いている途中でもです。本当にきつい。忠告しておきますけど、ここからの感想は私がどうして死にたいって思ったかをつらつらと書き連ねていくのみなので、それが嫌な人は読まないでください。映画同様そんなに良いことは書かないつもりですので。よろしくお願いします。




※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。




まず、辛いのがアーサーの置かれた境遇なんですよね。アーサーは父親が分からず、母親は介護が必要な状態。ピエロの仕事は上手く行かず、突発的に笑ってしまう障害のせいで、周囲から白い目で見られてしまう。そして、劇中で残酷な事実が判明し、職も母親も失ってしまう。ここで、アーサーは何も失うものがない状態。あまり使いたくない言葉で言えば「無敵の人」となってしまいました。


「無敵の人」というのは、逮捕されて失う社会的信用がないため、犯罪を起こすことにためらう必要がありません。今日本はおろか世界中で「無敵の人」は問題となっています。でも、誰しもある日突然職を失う可能性はありますし、いつそういった窮状に追いやられてもおかしくないんですよね。私も、友達はいませんし、社会的信用も一応働いているとはいえ、一つの目安として給料=社会的信用だとすると、無いに近いんですし。いつタガが外れるか、自分でも分からなくて不安です。自分が「無敵の人」になって周囲を巻き込むならば、一人で迷惑のかからないように、それこそ縊死とか服毒自殺とかしなきゃいけないのかなという気持ちにはなりましたね。


で、私がアーサーと違うのが、アーサーはどうにもならない外的要因が原因で孤独になったんですけど、私の場合はまだ自分でどうにかできるということ。私が人と喋りたくないのって、人の話し声が単純にうるさくて嫌で、自分から進んで嫌な気持ちを味わいたくないなというのが大きいんですが、それも我慢すればいいことですし。給料が低くて不満なら、一生懸命努力して資格取るなりなんなりして、より出してくれるところに転職すればいいだけですし。全部自分がいけないんですよ。でも、大変だからやらないという。自分の駄目さ加減に死にたくなりました。


脱線してしまったので話を戻しますと、「無敵の人」という存在はどんどん増えているわけですよね。個人的には、臭い物に蓋をするように社会全体が、彼ら彼女らを見ないように、叫びに耳を貸さないようになってきている印象があります。それは私もそうなので、この無自覚な現状に自分なんていなくなればいいなと感じました。


そして、彼ら彼女らに残された手段というのが犯罪なんですよね。自分の存在を認識してもらうにはその犯罪のインパクトは大きければ大きい方がいい。ジョーカーとなったアーサーがカメラの前で司会者を射殺したように。ここで、多くのものを奪われていった被害者が、逆に人から奪うという加害者になってしまっているんですよ。最近も書きましたけど、被害者と加害者は表裏一体だという指摘はこの映画でもなされていたと思います。私もいつ加害者になるかなんて分からないという点でゾクッとしました。


どうして、彼ら彼女らが犯罪に及ぶかというと、それが簡単だからなんですよね。現代は100均の包丁で人を刺し殺せる時代です。いくら貧しくても、大した力が無くても100円さえあれば、殺人は可能です。何もない彼ら彼女らでも犯行に及ぶことができる。この点で、触れておきたいことがあります。それは自爆テロです。




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自爆テロとは言わずもがな「犯人自身が必然的に死ぬことを承知の上で行う攻撃」。以前にも書きましたが、自爆テロは貧しくて高度な教育を受けていない人のグループでも実行できてしまい、お金のかかる電子装置などを用意しなくても確実に攻撃目標を攻撃できてしまうので『貧者のスマート爆弾』とも呼ばれています。貧者という点で彼ら彼女らとも共通していますが、この映画には他にも重要なポイントがあります。それは、この映画の題材の一つにもなっていた笑いです。


この映画でアーサーが主に用いていた笑いというのは自虐ネタです。「大きくなったらコメディアンになりたい」という夢を母親に諭される。「子供のころはコメディアンになると言ったらみんな笑ったのに、今は誰も笑わない」など。「ノック、ノック」と言いながら自らのあごに銃を突きつけるのは、自虐の象徴でしょう。自虐は、自分で自分を痛めつける行為です。そして、自分で自分を痛めつけた先にあるのが自爆です。私も普段、「自分はダメだ」「自分なんていない方がいい」と自虐をしているので、ここは笑いながらも心が痛みましたね。


それに、自虐の特徴はネタにするが容易であるという点です。誰もがコンプレックスの一つや二つ持っていることでしょう。それを語ればいいだけなのですから、心理的な抵抗さえ乗り越えれば簡単です。面白くなるかどうかは別問題ですが、誰にでもできる一番身近な笑いの一つだと私は思います。


でも、アーサーの自虐は訳が違う。実の父親は分からない。虐げられたストレスから人を殺してしまい、職を失う。母親が自身を虐待していたことを知り、母親も殺害。そして、虐げてきた者たちへの反攻へ。まさにその人生は悲劇と言って差し支えないものですが、もう本当に意地の悪いことに酷い目に遭うアーサーを笑顔で眺めている自分がいたんですよね。いいぞ、もっとやれという。




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それは、私はこんな酷い目にはあっていない。下にはまだ下がいるという優越感からくる笑顔で。まあめちゃくちゃ醜い笑顔なわけですよ。人が酷い目に遭っているのにそれを喜んでみている自分に、反吐が出る思いです。もうですね、今「無敵の人」なんて書いている自分も嫌なんですよ。だってわざわざ「無敵の人」という名前を与えることで、自分たち「人間」とは別の生き物なんだぞって言っているようなものじゃないですか。こんなものは隔離ですよ。排除ですよ。


これ知っているかどうかは分かりませんけど、昔ジャンプで連載されていた『魔人探偵脳噛ネウロ』という漫画で、シックスという「絶対悪」のキャラクターがいたんですよね。で、敵の葛西がシックスを説明するときに、

「今の世の中、やたらと性善説がはびこってる」
「『本当は善い奴だったんだ』みたいなラスボスばっか」
「そんな半端な悪倒しても…見てる側はスッキリも何もできやしねぇ」
「いるんだよ『悪』は」
「結果悪とか必要悪とかそんな不純な『悪』じゃない」
「『絶対悪』だ」



と言っていたんですが、ジョーカーって「絶対悪」だと思うんですよね。『ダークナイト』を見た限りでは。凡人には理解不能な「絶対悪」のカリスマ性がジョーカーの魅力だと『ダークナイト』を見て感じたんですが、「絶対悪」というのもそう名付けることで、人間とは別の存在とする行為ですよね。自分とは違う存在なんだという安心感があったと思うんです。


でも、それがこの映画ではひっくり返されているジョーカーは「絶対悪」ではなく、私たちと同じ人間だったというのが示されているんですよ。ここたぶん受け付けない人いるんじゃないかなぁ。自分とは違う領域にいたジョーカーが、自分の領域に侵入してくるわけですからね。拒否反応が出ても当然だと思います。私たちもいつジョーカーのようになるか分からないという恐怖が、この映画の最大の特徴だと思います。私は苦しむジョーカーの姿を見て、内省しきりでした。




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あと語りたいことといえば、アーサーの精神障害ですかね。たぶんアーサーはPTSD(心的外傷後ストレス障害)だったと私は思います。圧倒的な外傷的出来事の記憶が頭の中に割り込んでくるように繰り返しよみがえることが特徴のPTSD。アーサーは幼いころ母親に虐待されたことで、このPTSDを発症してしまったのだと思います。遺伝的要因ではなく、外的要因なのが辛いですね。


これは推測ですが、アーサーの頭の中にも虐待の記憶が繰り返し浮かんでいたのではないでしょうか。でも、思い出すことを回避するために笑うという行動を起こしていただけで、それはおそらく無意識の回避症状だと思います。で、実は私もこのPTSDを簡易的にではあるのですが、この映画で味わってしまったんですよね。


この映画って心理的に凄惨なシーンや展開がとても多いんですよ。もう私のキャパシティでは受け止められないくらい。心にかなりダメージを受けてしまって、それを見ないように笑って誤魔化している自分がいました。映画の中のアーサーと同じ気分を味わってしまったんですよね。同じように笑ってしまって。本当笑っている途中にふと嫌な気分、死にたいという感情を味わってしまって、非常に複雑な状態での鑑賞でした。「無敵の人」と名付けられてもおかしくないアーサーから、心の目を逸らして笑って。自分のあまりの酷さに死にたくなりましたよ。


この映画って公開前に警察が中止を求めていたって話ありましたけど、それ今なら分かる気がします。単に下流階級が上流階級に反攻する、現代の一向一揆を危惧しただけではなく、私のようにあまりに自分を内省するあまり、死にたいと思う人も出るのではという理由もあると思いますね。確かにこれは凄すぎてしばらく他の映画観る気しませんね…。ちょっと3日ぐらい休みたいと思います...。あぁきつかった。観ているときも書いているときも。オススメですが、まだ観ていない方は飲み込まれないように心して観に行ってください。



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以上で感想は終了となります。冒頭の馴れ馴れしいテンション、大変失礼しました。映画『JOKER/ジョーカー』、さすがベネチア国際映画祭最高賞・金獅子賞に輝いただけあって、心にずしんと来る映画です。私のようにねじ伏せられないよう、覚悟を持って観に行ってください。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

映画『JOKER/ジョーカー』公式サイト
http://wwws.warnerbros.co.jp/jokermovie/index.html

無敵の人とは(ムテキノヒトとは)[単語記事]- ニコニコ大百科
https://dic.nicovideo.jp/a/無敵の人

自爆テロ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/自爆テロ

心的外傷後ストレス障害(PTSD) -10.心の健康問題 - MSDマニュアル家庭版
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/10-心の健康問題/不安症とストレス関連障害/心的外傷後ストレス障害-%EF%BC%88ptsd%EF%BC%89#v26234317_ja


※今年に入って「無敵の人」を描いたもう一つの映画↓





お読みいただきありがとうございました。


おしまい





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こんにちは。これです。10月に入って涼しくなり、過ごしやすい気候になってきました。一年間ずっとこうだったらいいんですけどね。


さて、今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『ディリリとパリの時間旅行』。『キリクと魔女』『アスールとアズマール』のミッシェル・オスロ監督が手がけたフランス製アニメーション映画です。私はオスロ監督の映画を観たことはないんですけど、評判が良かったので今回観に行ってきました。


で、観たところまず驚いたのが、映画の中で時間旅行をしているわけではないところです。キャラクターというよりも観ている私たちを1900年前後のパリに連れて行ってくれる映画ですね。観ていて楽しかったです。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・風景やキャラクター、音楽について
・偉人たちのオンパレードは教養があるほど楽しい
・人間対人間で接する重要さを伝える映画





―あらすじ―

ベル・エポックの時代のパリ。 ディリリは、どうしても外国に行ってみたくて、ニューカレドニアから密かに船に乗りパリにやってきた。
開催中の博覧会に出演し、偶然出会った配達人のオレルとパリで初めてのバカンスを楽しむ約束をする。その頃、街の人々の話題は少女の誘拐事件で持ちきりだった。男性支配団と名乗る謎の集団が犯人だという。ディリリはオレルが紹介してくれる、パリの有名人たちに出会い、男性支配団について次々に質問していく。
洗濯船でピカソに“悪魔の風車”に男性支配団のアジトがあると聞き、二人は向かうが、そこでオレルは狂犬病の犬に噛まれてしまう。


三輪車に乗ってモンマルトルの丘から猛スピードで坂を下り、パスツール研究所で治療を受け、事なきを得る。オペラ座では稀代のオペラ歌手エマ・カルヴェに紹介され、彼女の失礼な運転手ルブフに出会う。
ある日、男性支配団がロワイヤル通りの宝石店を襲う計画を知った二人は、待ち伏せし強盗を阻止する。その顛末は新聞に顔写真入りで大きく報じられ、一躍有名になったディリリは男性支配団の標的となり、ルブフの裏切りによって誘拐されてしまう。ディリリはオレルたち仲間の力を借りて男性支配団から逃げることができるのか? 誘拐された少女たちの運命は?

(映画『ディリリとパリの時間旅行』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。














・風景やキャラクター、音楽について



この映画で目を引くのは、まず何と言ってもパリの美しい風景でしょう。建物自体は現代とさして変わりませんが、1900年前後のベル・エポック(古き良き時代)のパリの雰囲気を十二分に再現。線の一本一本までくっきりとしており、写実的でリアルと見間違うほどです。とくに宮殿の中の絢爛豪華さが印象に残りました。この風景はオスロ監督が撮影した実際の写真を元にしており、私たちをパリへと誘ってくれます


その一方で、キャラクターはかなりデフォルメされています。パステルカラーのべた塗りで、輪郭が無くどこか平面的。日本ではまず見られない絵で、ああ外国的だなと感じました。でも、その淡い色彩が柔らかな雰囲気を醸し出しているんですよね。絵本の登場人物が現実世界にやってきたという雰囲気があり、そのアンバランス感は観ていてとても楽しいものでした。寓話にすることで、男性支配団の行為のえげつなさがより印象付けられていたというのも上手いと思います。


ただ、穏やかな雰囲気で進むのかと思いきや、パリの影の部分も描いていたのは好感触。貧しい彼らと接した際のディリリの優しさが胸に沁みます。さらに、三輪車で階段を駆け下りたり、女性が躍るシーンを入れたことで、絵的な躍動感もしっかり確保。極めつけは、終盤のエッフェル塔からの飛行船のシーンでしょう。エッフェル塔から見下ろす景色は、写実的な風景に街の灯りが映え、飛行船の電飾は宝石のようにファンタジック。現実世界が魔法にかけられたようで、このシーンだけでこの映画を傑作だと言い切ることができるほどです。


加えて、素晴らしかったのが音楽。まず、運動会で良く演奏される曲(「天国と地獄」かな?)で、踊り子が踊るシーンは躍動感にあふれていて、気分を盛り上げます。さらに、サティ本人が弾く「グノシエンヌNo.1」はミステリアスな雰囲気を醸し出し、緊迫感を演出。さらに、オリジナル曲「太陽と雨」で、テーマである人間の平等性を押しつけがましくなく示し、フランスの俳優ナタリー・デセイがエマとして歌唱するシーンは一人ぼっちのディリリに優しく寄り添います。特に最後の歌唱は、人間ってこんな声出せるんだという圧巻のものでしたので、ぜひ映画館で確かめてほしいですね。


ちなみに、映画を観ているとき、サティの「グノシエンヌNo.1」どこかで聴いたことあるなぁと感じたんですよね。それが、映画『あみこ』で使われていた曲だこれ!と気づいたときには嬉しくなりました。







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・偉人たちのオンパレードは教養があるほど楽しい



この映画の主人公ディリリはニューカレドニアからやってきた女の子。親がおらず、面倒を見てくれる夫人はいますが、基本的には一人ぼっちです。このディリリ、幼いながらも自分を持っていて、言葉の端々に自信を感じられます。礼儀もよく、スカートの裾を持って挨拶する姿はとてもキュートでした。将来の夢がコロコロ変わる無邪気さも魅力。


でも、それは強がりで本当は甘えたい年ごろでもあるんですよね。オレルやエマ、ルブフといった大人たちに抱きかかえられるシーンは。観ているこちらが安心するような優しさがありましたね。私は、今回吹替版で観たのですが、ディリリを演じた新津ちせさんは上手かったですよ。好奇心が抑えられないと言った様子や、使命感に燃えるディリリの心情、その中にふと見せるか細さを完璧に表現していた印象でした。


ディリリは配達人オレルと出会います。オレルは真っ当な大人。紳士的で、落ち着いた口ぶりが頼もしい印象を与えます。このオレルを吹替えたのが斎藤工さん。ディリリを気遣いながらも、優しい口調で安心感を与えていて、こちらも良かったと思います。いい斎藤工さんですね。他の声優さんたちもおおむね安定していて、吹替版は個人的には自信を持ってお勧めしたいです。


さて、パリの街では男性支配団という組織による少女の誘拐事件が続いています。男性支配団の構成員は鼻にピアスをつけており、一目瞭然分かりやすい。全体的に顔色も悪く、ディリリを攫おうとしたシーンはとても不気味でしたね。


そして、ディリリは純粋な正義感から、この少女たちを助け出すことを決意。オレルと共に捜査を進めます。この映画の特徴として、実在の偉人たちが多く登場するということが挙げられますが、この操作パートは想像以上に偉人のオンパレードでした。キュリー夫人に始まり、パスツールにピカソ、ロダン。モネは「睡蓮」を描いていて、サティは「グノシエンヌNo.1」を演奏します


これには教養が全くない私でもわくわくしたので、文化的な教養があればあるほどテンションの上がる展開でしょう。個人的に嬉しかったのは、エドガー・ドガが登場したことですね。私のドガのイメージって『ギャグマンガ日和』の黒いもじゃもじゃのドガさんなので、ちゃんと人の形で現れた!という変な感動をしてしまいました。




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(左下がドガさん。このテキトーぶりよ)




偉人たちの助言もあり、ディリリとオレルは男性支配団が宝石店に盗み入るところを確保に成功。縄跳びを投げて捕まえるディリリが見事でした。音もなく馬のハーネスを外すオレルも見事。犬に噛まれて狂犬病になったはずの足も何事もなかったかのように動いています。パスツールのワクチン超凄い。この大捕り物により、ディリリは一躍、街の有名人に。しかし、このまま何事もなく終わるはずがなく、映画は第二章へと進んでいきます。



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・人間対人間で接する重要性を伝える映画



有名になったディリリはより一層、男性支配団に狙われる存在に。これを危惧したオペラ歌手・エマは、運転手のルブフに送り迎えをさせるよう指示します。実は、このルブフは男性支配団に唆されていたんですよね。「女に命令されて運転手をやっていていいのか、本来は逆ではないのか」と。この辺りから組織名の通り、男性支配団の男性優位主義がチラチラと見え隠れしてきます。そして、ルブフは言われるがまま、男性支配団にディリリを引き渡してしまいます


構成員に連れられて、男性支配団のアジトに入るルブフ。誘拐された少女たちの側を通り過ぎ、ボスの前に謁見します。丸々太ったボスは「女性が目立ってきていて、パリの秩序は乱れてきている。男性の優位を回復させて、パリの秩序を取り戻す」(意訳)と発言。ゴリゴリの男性優位社会の信仰者です。


この時点で、私はかなり引いたのですが、さらにドン引きしたのが、その後。「女性はいないのか」というルブフの問いに「今座っているではないか」と答えるボス。ルブフが座っていた黒い椅子は、なんと四つん這いになった女性でした。デブったボスは彼女らのことを「四つ足」と呼び、自分は動けないから4つの四つ足に座っているというド外道ぶりを披露。


女性に人権はないというあまりにも強烈な主張で、従順に言うことを聞く少女たちを、四つ足に育てるために誘拐したという、もう吐き気がするほどのアンチ・フェミニズムです。これにはさすがの私もドン引き。その引き具合は今年でも一二を争うほどで、デフォルメされて寓話的な分、より一層醜いものがありました。20人ほど子供たちが一斉に四つ足で歩く訓練をしているシーンは言い表せないショックがありますね。


でも、これって100年以上が経った現代でもあまり変わらないと思うんですよね。今まで優位に立っていた者が、劣位に立たされていた者が台頭してきて、パワーバランスが崩れるそうになると、それを抑えつけて優位を保とうとするのは当然のことだと私は思いますし。男性支配団の思想は過激すぎますけど。


例えば移民問題で、移民が流入すると仕事が奪われるから受け入れたくない、みたいな問題は世界のあちこちで起こっているわけじゃないですか。最近だとAIとかも当たりますかね。それに、歴史を振り返ってみると、黒人解放運動などに代表される人種問題も大いに当てはまりそうです




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この映画ってフェミニズムの問題の他に、人種問題も内包しているんですよね。主人公のディリリはニューカレドニア出身で、フランスとニューカレドニアのハーフ。でも、ニューカレドニアではフランス人扱いされて、フランスではニューカレドニア人扱いされる。どちらにも居場所がない存在なんですよね。


また、ショックだったのがこの映画の始まり方。ディリリは知らない人たちと暮らしています。翻訳されない言語を話し、狩猟採集の原始的な生活を営む。しかし、これは万博用にショーアップされた「ニューカレドニアの原住民の暮らし」なんですよ。カメラが引いていって観ている人たちが映された瞬間、趣味悪っと思いましたもん。それはあたかも動物園で動物を見ているかのようで、ディリリは確定的な劣位に立たされていました。加えて、ディリリは少女なので、この映画では二重の劣位に立たされていたと言えると思います。


でも、オレルやエマをはじめとしたこの映画に登場する多くの大人たちはディリリを迫害もしないし、差別もしないんですよね。ありのままのディリリという人間を受け止めていて。人間対人間で接していて、心が暖かくなります。悪態ついていたルブフも比較的すぐに改心しますし。その中でディリリにも他人に対する愛着が生まれていく。そして、最後には自らと同じ劣位に立たされていた、誘拐された少女を助けるというのが良いんですよね。


自らのことを貶めない人と接するうちに、ディリリは劣位から少しずつ抜け出していく。そして、劣位に立たされている、それは過去の自分と同じ、少女らを助け出す。もちろん大人の協力も得つつ。そして、最後には人生への希望を語る。なんて理想的で素敵な話なんでしょう。劣位を思考に植え付けられてしまっていたディリリが、一人じゃないと知り思考がフラットな方へ向かっていく。マイナスからゼロのところに上がったという点で、『ディリリとパリの時間旅行』はディリリの成長物語であるということができそうですね。最後のエンドロールは今年観た映画の中でも一番多幸感に溢れたものでした。


この人間対人間で接するということは、簡単なようでなかなかできないことなんですけど、テロが頻発し、いまだ戦争が止まない世界を良くしていくには、こういった基本的なことが大切なんだと、この映画は伝えていたように私には思えます。一言で言えば「優しい世界」ですね。パリの綺麗な風景やキャラクターの愛くるしさ、効果的な音楽と合わさって、個人的にはかなり好きな映画です。機会があれば観てみてはいかがでしょうか。




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以上で感想は終了となります。『ディリリとパリの時間旅行』、個人的には傑作と言って差し支えない素晴らしいアニメーション映画でした。興味のある方はぜひ観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


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こんにちは。これです。


今回のブログも映画の感想です。今回観た映画は『蜜蜂と遠雷』。2017年の直木賞・本屋大賞をダブル受賞した恩田陸さんの同名小説を映画化した一作です。今回珍しく原作を読んでから観に行ったんですけど、まあ原作自体が面白い面白い。流れるような文章でスラスラ読めちゃう。とても好きな小説だったので否応なしに期待は高まります。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・想像以上にがっつり削られて残念
・浜崎奏は必要だったのではないか
・映画のテーマと描写が矛盾している気がする
・ちゃんと良いところもあるよ





―あらすじ―

3年に一度開催され、若手ピアニストの登竜門として注目される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
かつて天才少女と言われ、その将来を嘱望されるも、7年前、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた栄伝亜夜は、再起をかけ、自分の音を探しに、コンクールに挑む。
そしてそこで、3人のコンテスタントと出会う。岩手の楽器店で働くかたわら、夢を諦めず、“生活者の音楽”を掲げ、年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑むサラリーマン奏者、高島明石。幼少の頃、亜夜と共にピアノを学び、いまは名門ジュリアード音楽院に在学し、人気実力を兼ね備えた優勝大本命のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
そして、今は亡き“ピアノの神様”の推薦状を持ち、突如として現れた謎の少年、風間塵。国際コンクールの熾烈な戦いを通し、ライバルたちと互いに刺激し合う中で、亜夜は、かつての自分の音楽と向き合うことになる。果たして亜夜は、まだ音楽の神様に愛されているのか。そして、最後に勝つのは誰か?


(映画『蜜蜂と遠雷』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・想像以上にがっつり削られていて残念


まず、映画『蜜蜂と遠雷』の感想を一言で言うなら「前後編で観たかった」。これに尽きます。そもそも原作者の恩田陸さんからして「映画化は無謀、そう思っていました。」というコメントを寄せています。ここで言う「無謀」とは、音楽を題材にした物語である以上、映画化するにあたっては音楽面で高いハードルが設けられる。それを越えるのは難しいと言った意味が、まず一つあったかもしれません。でも、映画では音楽面ではこのハードルを越えることはできていると感じます。しかし、問題はもう一つの「無謀」の方です。それはその文量です。


『蜜蜂と遠雷』の原作は500ページにも渡る大長編。さらに、ピアノコンクールという場の特殊性もあります。コンクールではコンテスタントに与えられる時間は数十分。映画で描かれなかった第三次予選に至っては一時間の長丁場です。さらに、演奏される曲も数分では収まらない長さ。それが数十曲。これらを逐一描こうとすれば、どれだけの時間が必要になるかなんて想像もつきません。なので、2時間で収まりきるかどうかは、私も見る前から不安でした。そして、観たところ想像以上にがっつり削られていましたね。


まず、亜夜と母親のシーンから始まり、その直後には、いきなり第一次予選というテロップが出るではありませんか。原作では第一次予選に至るまでに「エントリー」という90ページほどの章があったのですが、後々に示される数シーン以外はばっさりカットです。さらに、第一次予選もまさかの演奏なし。記者たちに説明セリフを喋らせ、設定の提示はしていますが、原作の90ページをわずか10分ほどに圧縮。計180ページが10分という超絶スピードです。


ここキャラクターを理解させるシーンも多く、必要だとは思ったのですが、せめて前編があれば…。いきなり「アーちゃん」「マーくん」言われても唐突すぎて…。この辺りで映画にうまく入り込むことができず、ずっとそのまま最後まで行ってしまった感じですね。


さて、第二次予選はしっかり描いたものの、映画では第二次予選からいきなり本選となってしまっています。実は、この間に原作では「第三次予選」という120ページにわたる章があったのですが、ここも映画ではまるまるカット。マサルのリストとか、塵の「アフリカ幻想曲」とか、ここで聴いてみたい曲けっこうあったんだけどなぁ...。私が原作で一番好きなシーンもカットされてるし...。そのぶん、本選で原作にはなかった亜夜の演奏をしっかりと聴かせてくれたのは、最高だったんですけど…。やっぱり前後編に分かれていれば、第三次予選もあったのかなと思わずにはいられません。


というか、この第三次予選がなかったせいで、いろいろ変なことが起こっていまして。まず、原作では、亜夜と明石はこの第三次予選で初めて言葉を交わしますからね。二人が泣くシーンは映画では、本選、しかもマサルの演奏中に挿入されていて。ぶっちゃけ印象がマサルの演奏と、二人の涙でばらけてしまうわけですよ。


映画では亜夜の最後の演奏が最大の見せ場となっていて、まあここは掛け値なしに感動するんですが、でも原作を読んでない人は最後の結果を見て、こう思うんじゃないでしょうか。「え!?亜夜が優勝じゃないの!?」と。もう完全に亜夜が優勝みたいな描かれ方をしていたので、原作通りにするなら、マサルの最後の演奏をもう少し集中してみせてほしかったなというのはあります。


それに、亜夜と明石が変に出会ってしまったおかげで、亜夜と塵がピアノを弾くのが音大から、よく分からない工房に変更になっていたのも大きい。まあここは二人の連弾で弾かれる「イッツ・ア・オンリー・ペーパー・ムーン」に大いに悶えたからいいんですけど。でも、原作では亜夜は学長に拾われて、音大生やってるという描写があるんですよね。でも、この映画ではそういうことは特に語られず。


この映画では亜夜が主人公的な立ち位置になっている(原作では群像劇だけれど、中心は塵だと私は思う)というのが、原作からの一番大きな改変なんですが、この亜夜の状況が描かれなかったのってけっこう致命的だなーと感じました。




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・浜崎奏は必要だったのではないか



原作から映画化するにあたっての改変は、『蜜蜂と遠雷』ではかなり多くて。展開的な改変以外にも、三枝子が審査委員長になっている(原作ではオリガという女性の審査委員長がいる)。塵が普通のホテルに泊まっている(原作では塵は花屋に泊まっている。好きな生け花のシーンがないのはショックだった)。塵と亜夜の順番が前の方になっている(原作では二人は終盤の登場だった。本選で展開の犠牲になった韓国のコンテスタントかわいそう)などなど他にも細かい改変を上げれば、もう枚挙に暇がありません。その中でも、私がここは変えちゃダメだろ...と感じたのが、亜夜の親友である浜崎奏の存在です。


原作には音大の学長の娘で、コンクールに参加する亜夜の世話をする奏というキャラクターがいたんですよね。かなり亜夜のメンタルケアをしていて、亜夜の復活には彼女の貢献が大きいんですが、いざいないとなると、その存在の大きさを感じました。彼女の何が特徴かというと、コンクールに参加していないことなんですよね。彼女は音楽をやっているけど、コンクールは外から見ている。いわば私たちの視点となるキャラクターなんですが、その外からの視点がないと、まあ取っ掛かり辛いこと取っ掛かり辛いこと


私達と一緒にコンクールを見てくれるネームドキャラがおらず、コンクールの渦中に視点が集中してしまったのは、この映画における一つの短所だと感じます。だって私たち、コンクール出てないし、天才でもないし。耳はいいけど、天才じゃない奏がいた原作の方が、より体験している感があって個人的には好きです。奏から見た亜夜の変化も面白かったのになぁ。


亜夜を主人公にするならば、ここは削ってはいけない部分だと感じました。誰が演じるのかワクワクしてたのに...。個人的には『ちはやふる』のまんま上白石萌音さんをイメージしてたよ…。ワクワク返して…。


もうですね、本当500ページを2時間に圧縮してるから、この映画っていろいろと描写不足が目立つんですよ。たとえば、ジェニファ・チャンですね。「あのジェニファ・チャンが落ちた!」っていっても、いや私たち彼女の演奏聴いてないし、知らないし。それに、塵の第一次予選の評価が賛否両論割れていましたよね。これ、原作では「エントリー」で彼の演奏が扇情的過ぎて、否が多かったんですけど、コンクールが進むにつれてだんだん賛が多くなっていくという展開があったんですよ。原作では、ここも見どころだったのになぁ。亜夜を主人公にした煽りを受けてしまった…。せめて、せめて前後編だったら…。




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・映画のテーマと描写が矛盾している気がする



その一方で、この映画では原作にないシーンもいくつか追加されています。片桐はいりさん感が強すぎる受付係は原作にはいませんし、鹿賀丈史さん演じる指揮者もあんなに出番多くなかった。マサルとのシーンなんて、原作ではほんの数行で済まされてますからね。さらには、本選前のオーケストラの演奏なんて原作には一文字もありません。ここから浮かび上がってくるのは、この映画は原作と同じく、ピアノコンクールだけではない、もっと大きな「音楽」というものを描こうとしていたのではないかという推測です。


映画では、片桐はいりさんが音楽を聴くシーンが何度か挿入されました。オーケストラの出番も増えています。また、「世界が鳴ってる」「世界は音で溢れている」というセリフ(ここは原作通り)もありました。ここで示されていたのは、音楽は何も楽器から出るものだけではなく、身の周りに溢れている。音楽はコンテスタントだけのものではなく、全ての人のためのものであるというテーマのように私は感じます。その象徴となっていたのが、本編に幾度となく挿入されたやたらと立派な「」です。


きっと、原作を読んでいない人には脈絡のない馬の登場に戸惑ったことでしょう。原作を読んだ私ですらそうでしたのだから。はて?こんなシーンあったっけなと思い、帰って原作を少し見返してみました。ありました。それは、亜夜が初登場するシーンでの描写です


雨の音がひときわ強くなって、栄伝亜夜は、無意識に本から顔を上げていた。
(中略)
やっぱり聞こえる。雨の馬たち。
それは、子供の頃から何度も聴いてきたリズムで、かつて亜夜が「雨の馬が走ってる」と言っても大人たちはきょとんとするばかりだった。
(中略)
恐らくは、雨の勢いが強くて、母屋の屋根からトタン屋根の上に雨水が飛んでくるのだろう。そうすると、トタン屋根の上で、雨は独特のリズムを刻む。
ギャロップのリズムだ。


(恩田陸『蜜蜂と遠雷』p38-39より引用)


はい。というわけで、この描写を映画では再現したわけですね。きちんとした馬術指導の方まで雇って。亜夜の「雨の馬」は、この物語で初めて描かれた、いわば彼女の原体験の一つです。その「雨の馬」を塵の演奏の際にだぶらせることで、昔を思い出して、吹っ切れたと。塵の演奏が彼女を勇気づけたと。風間塵はコンテスタントの才能を弾けさせる「ギフト」なんだと。私はこのように感じました。って、原作を読んでない人にはこんなの分かるか!って感じですよね。天才の感覚を説明もなく出されて、分かってたまるかい!って感じですよね。もっともだと思います。


それに、原作を読んでいない人は最後の「菱沼章・高島明石」の意味もきっと分からないですよね。「日本人作曲家演奏賞」ってなんじゃらほいですよね。これも説明しますと、菱沼賞というのは「作曲者の菱沼忠明先生が、今大会で『春と修羅』を演奏したコンテスタントの中から、いちばんよい演奏だったということで選ばれた賞です」(原文ママ)というもの。


これを明石が受賞したということは「生活者の音楽」が認められた一つの証左なんですよ。第二次予選で落ちてしまった明石にも救いがある、原作で一番好きなシーンなんですが、このシーンが映画版ではなかったんですよね。これはいかんだろうと。


この映画の「音楽は、楽器から出される音だけでは、コンテスタントだけのものではない。もっと世界に満ちている」というテーマからすると、子供を持ち働きながら音楽に打ち込む明石というのはその象徴で、物語でもキーパーソンと言って差し支えないキャラクターなんですよ。それは、映画に登場しなかった奏にしてもそうです。二人はコンクール外の音楽の象徴。この二人の描写をおざなりにしてしまうことは、上記のテーマと大いに矛盾してしまっていると私は考えます。


「天才」に重心が偏っているのが良くも悪くも映画版の特徴なんですけど、私は少し悪く受け取ってしまいました。もうしつこいようですけど、前後編...。前後編でもっとじっくり描いてくれたら、傑作になってた気がする...。




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・ちゃんと良いところもあるよ


ここまでつらつらと不満ばかり語ってきましたが、映画『蜜蜂と遠雷』には、良いところも決してなかったわけではありません。それは、俳優さんと音楽の二点が大きく上げられるかと私は思います。


まずは俳優さんについて。この映画の主人公となる栄伝亜夜を演じたのは、松岡茉優さん。松岡さんは個人的に今一番好きな女優さんで、私がこの映画を観に行ったのも松岡さんが主演だからというのは多分にあります。で、実際に観たところもう言わずもがなの熱演。最初の鏡のシーンで一気に心を掴まれ、そこからは亜夜の彷徨っている様を全身で表現しています。特に細い声がよかったですね。


注目していただきたいのが、散々迷っておいての最後の凛々しさ。最高。ダイナミックにピアノを弾き、プロコフィエフの三番とともに映画を最高潮に盛り上げます。この演奏だけで、この映画を観た価値が十分にあると確信できるほどです。ぜひ観ていただきたい。


続いて、働きながらコンクールに出場する高島明石を演じたのは、松坂桃李さん。眼鏡を掛けて穏やかな佇まいは、明石そのもの。子供と遊ぶシーンはいいパパを絵に描いたよう。ブラックな演技じゃなく、こういった優しい演技も出来て、本当に幅が広いんだなと再認識しました。個人的な見どころはインタビューで言葉を詰まらせるシーンです。あの喋り出すまでの前に、言いしれない悔しさがひしひしと表れていて好きですね。


また、優勝候補であるマサル・C・L・アナトールを演じたのは、『レディ・プレイヤー1』での活躍が記憶に新しい森崎ウィンさん。正直、身長は少し足りない気もしましたが、それを補って有り余る貴公子ぶりを披露。感じもよく爽やかで「ポピュラリティ」を兼ね備えていました。ピアノを弾く際に見せる笑顔がキュートです。


さらに、音楽の神様に愛された謎の少年・風間塵を演じたのは、これが映画初出演となる鈴鹿央士さん。フレッシュな雰囲気はもちろん、猫のようなとっつきやすさと、宇宙のような得体の知れなさを両方持っていて、まさに風間塵にぴったりだったと思います。ピアノの演奏も板についていましたし、今後の活躍を期待したい俳優さんですね。


他にも、斉藤由貴さんの英語や、ブルゾンちえみさんなどところどころ引っかかるところはありつつも、俳優さんたちはおおむね好演していたと思います。いや、鹿賀丈史さんの迫力凄かったですね。睨まれたら動けなくなりそうです。誇張じゃなくて。





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そして、この映画の最大のセールスポイントである音楽ですよ。亜夜担当の河村尚子さん、明石担当の福間洸太郎さん、マサル担当の金子三勇士さん、塵担当の藤田真央さん。私はクラシック方面には全く疎いので、正直全員存じ上げませんでしたが、素人ながらに誰もが素晴らしい演奏をされていたと思います。


代表的なのは第二次予選で、課題曲の「春と修羅」を弾くシーン。ここはこの映画の最初の演奏シーンで、キャラクターを音楽だけで伝えなくてはいけないという、映画を左右する非常に重要なシーンです。この音楽だけで伝えるという判断は、演奏者の方々を相当に信頼していなければできないもので、ハードルは相当に高かったと思いますが、4人ともがそれぞれ抜群の回答を披露


金子さんは超絶技巧でマサルの貴公子ぶりをアピールし、福間さんは柔らかな演奏で明石の積み重ねてきた時間を思わせます。藤田さんが激しい演奏で塵の天衣無縫ぶりを表現したかと思いきや、河村さんは軽やかな演奏で、亜夜の才能を見せつける。観ている人の感受性に委ねる部分は大きいですが、私は素人ながらに音楽だけでキャラクターを伝えるという試みは成功していると感じました。


さらに、オーケストラの演奏も迫力があり壮大。とても満足しましたが、やはり特筆したいのが、ピアノとオーケストラが合わさった亜夜のプロコフィエフの三番です。これは映画のクライマックスで、それまでの印象をひっくり返してしまうようなパワーがありました。優雅で、大胆で、身を乗り出して聴きたくなります。亜夜が「プロコフィエフは踊りたくなる」と言っていましたが、その言葉通りの弾けた演奏でした。ずるいですよ。あんなの聴かされたら感動するしかないじゃないですか。


あ、ちなみにここ原作では、亜夜がプロコフィエフの二番、マサルがプロコフィエフの三番と二人の演奏曲が逆になっていたんですよね。この改変は、単に最後に三番を持ってきた方が盛り上がるだろうという映画的な改変だと思いますけど、他の改変と違って、この改変はバッチリハマってました。超ファインプレーだと思います。




それだけに、俳優さんと音楽は良かっただけに話を削りすぎたのが痛い...。どうしても前後編でやることはできなかったんでしょうか。いや、きっと初期の企画段階では前後編の構想だったんだ。それが様々な事情が絡み、紆余曲折を経て、二時間一本になったんだ。うん、きっとそうに違いない。音楽がプラスされるだけで、映画化した意味がありますしね。その試み自体は私には否定できません。でも、やっぱりもっとじっくりやってほしかったというのが偽らざる本音です。惜しい…。




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以上で感想は終了となります。『蜜蜂と遠雷』、個人的には期待していった分、がっくりと来た気持ちが強いです。正直、今年観た邦画でも半分よりは下かな...。でも、悪い映画では全然ないので、興味があれば観てみるのもいいかと思います。プロコフィエフの三番、感動しますよ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


蜜蜂と遠雷
恩田 陸
幻冬舎
2016-09-23



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