Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2020年01月



こんにちは。これです。今日は風が強くて大変でした。そんな今日のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『ロマンスドール』。高橋一生さんと蒼井優さん共演のラブストーリーです。どちらも好きな俳優さんなので、ぜひ観たいと思っていたところ、運よく長野での上映があったので観ることができました。結論から申し上げますと好きな映画でした。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・意外とある笑える面白さ
・主演二人の演技がさすが
・人間の三大欲求に基づいた映画
・ラブドールを比較対象として浮かび上がる人間の実像





―あらすじ―

一目惚れをして結婚した園子(蒼井優)と幸せな日常を送りながら、
ラブドール職人であることを隠し続けている哲雄(高橋一生)。
仕事にのめり込むうちに家庭を顧みなくなった哲雄は、
恋焦がれて夫婦になったはずの園子と次第にセックスレスになっていく。
いよいよ夫婦の危機が訪れそうになった時、園子は胸の中に抱えていた秘密を打ち明ける……。

(映画『ロマンスドール』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。










・意外とある笑える面白さ



『ロマンスドール』は一言で言うと、面白い映画でした。ただ、その面白さの種類が少し意外だったんですよね。観る前は切ないラブストーリーとしての面白さを期待していましたし、実際その面白さはあったんですが、それよりも笑える面白さが印象に残りました。言ってしまえばコント的な面白さがあると感じたんです。


北村哲雄は何も知らされず、ラブドール製造会社・久保田商店にやってきます。仕事もお金もない哲雄はそこで働くことを決意。しかし、作ったラブドールは社長に却下されてしまいます。その理由は胸にリアリティがないから。まあまあ社運のかかったラブドールをよりリアルに近づけるため、先輩職人相川とともに実際の女性の胸から型を取ることを思いつきます。


しかし、ラブドールと正直に言ってしまっては女性が来ないことを危惧した相川は、人工乳房を作る医療関係の仕事と偽ることを提案。そして、募集をかけてやってきたのが小沢園子でした。そして、その子の胸の肩を取る一連のシーンとなるわけですが、ここきたろうさんが最高に面白いんですよね。


理想のラブドール作りに熱意を燃やす相川ですが、いざとなると結構他人任せなところがありました。やたらとテンションの高いじゃんけんで勝ったのにもかかわらず、臆病風に吹かれて型を取るのは哲雄に任せてしまいますし。リアリティのためには胸を触らなければいけない、でもやるのは哲雄という。そういう挙動が人間臭くて笑いを誘います。実際、私の後ろで見ていた人は笑いをこらえ切れていませんでしたしね。女性用白衣の件で既に。


詳しくは知りませんけど、きたろうさんはコントグループ・シティボーイズでも有名ですし、そういう出自や情けない雰囲気もあって、相川という役にこれ以上ないほどマッチしていると感じました。その笑いで物語を引っ張ってくれていたところも結構あったので、途中退場してしまったときは悲しくなりました。


それにもうひとつ面白かったのが、緊張と緩和ですね。哲雄と園子が初めて出会ったシーンは本当のことがバレちゃいけないという緊張がありました。だって哲雄と相川がやっていることは通報されてもおかしくないことですから。だからこそ、相川の胸を触ろうっていう緩和が効くんですよね。胸を触らんとする相川と止めようとする哲雄とのやり取りは、まさしくコントを見ているようでおかしかったです。


さらに、この緊張と緩和は他のシーンでも有効に使われていて。例えば、結婚式で哲雄が自分の指に園子の指輪をはめてしまうシーン。また、例えば哲雄と園子がお互いの浮気を告白するシーン。この両者に共通しているのは、正しい展開から少しズラしていること。後者のシーンでは、哲雄が、観ている私たちが知りたいのは園子の本当の秘密なのに、浮気してましたという観ている私たちには周知の秘密が明かされる。溜めておいて緊張させておいて、ズラしという緩和を入れることで、そっちかいという笑いが生まれるんですよね。思わず笑ってしまいました。


だから観ている最中、私の中では沸々と面白さが湧き上がってきていました。ほら、コントの設定でよく銀行強盗とかプロポーズとかがあるじゃないですか。これも緊張を作りやすいからなんだなとこの映画を観て感じました。『ロマンスドール』にはそういう笑える面白さもあるということは、ひとつ伝えておきたいことです。



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・主演二人の演技がさすが


哲雄はモデルに来た園子に一目惚れして、あったその日のうちにいきなり「好きです」と告白してしまいます。そして、園子も首を縦に振るという。そこからの付き合う過程をこの映画では大胆に省略。次の二人のシーンではいきなり結婚式になっています。この映画にはラブドール職人というお仕事物と、哲雄と園子のラブストーリーの二つの側面がありましたが、後者は二人が結婚するところから始まります


哲雄を演じたのは高橋一生さん。お仕事物としては、ラブドール職人の自覚が芽生えてくるところを表情と声の抑揚で表現していました。また、ラブストーリーとしては幸せそうな雰囲気から、園子を問い詰める口ぶりまで幅の広い演技を披露していました。そのどちらもが巧みで、リアリティを感じましたね。あとやっぱり声が良いですよね。少し頼りないんですけど、ちゃんと芯があって。独特のつかみどころのなさといいますか。あの出で立ちからあの声を出されると、魅了されるしかなくなります。


一方、園子を演じたのは蒼井優さん。まず、初登場した時の幸薄そうなオーラにやられました。でも、結婚初期のころは幸せそうなオーラを纏っていて、でも映画が進むにつれて、悲壮なオーラが漂ってくる。そのオーラを口調や表情、挙動に間の取り方などあらゆる要素を使って変えているのが凄いなと感じました。映画ごとに全く別の表情を見せてくれる女優さんですよね。後半、ベッドに臥せっているときの何とも言えない表情が特にグッときました。


そして、この二人が共演することで生まれる化学反応がこの映画の一番の魅力であることは間違いないでしょう。新婚の微笑ましい空気。一緒に手作りの料理を食べる幸福感。そこからの距離の空き方。ギスギスした空気が画面から痛いほど伝わってきます。そして、それぞれ浮気に走る。ここ理由の描写はないんですけど、二人の演技がそれを雄弁に語っていて、リアリティがありましたね。ラブストーリーとしての説得力。


でも、一番特筆すべきはやはりベッドシーンです。この映画はR15ではなく、PG12なのでそこまで攻めたベッドシーンは見られませんが、二人の演技の前ではそんなの些細なこと。特に終盤のベッドシーンの連続は、切迫感に駆られたやるせないものでしたが、二人を見ているとその切実さがより増すんですよね。言語化不能の表情がとても良いです。特に最後のイメージでのベッドシーンですよ。あそこ蒼井優さんの目元と口の開き方がとんでもなく良くて。切なさに涙が出そうになりました。PG12には心理的ハードルを下げるという利点がありますし、これは多くの方に観ていただきたいところです。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・人間の三大欲求に基づいた映画


『ロマンスドール』を観て、私が感じたのは人間の三大欲求です。すなわち、食欲・性欲・睡眠欲ですね。この三つの欲求、生理的欲求に基づいた映画だなと感じました。まあこの三大欲求は日本特有のものらしく、人間の欲求には諸説あるそうなんですが、この感想ではこの3つに絞って話を進めていきたいと思います。


まず、一番分かりやすいのは性欲でしょう。それは、主人公である哲雄がラブドールを作っているということに如実に表れていますよね。ラブドールというのは疑似セックスをして性欲を満たすための道具です。いわば、哲雄は男の性欲のために働いています。どんなに着飾ってもこれは揺るぎのない事実です。


それに、この映画では前述したようにベッドシーンも多い。しかも終盤にかけてより多くなる。それはなぜかというと、園子がガンにかかっていてもう助からないというところまで来てしまっているからなんですね。最後ぐらいQOL(クオリティ・オブ・ライフ。生活の質)を高めましょうと。そして、二人が選んだのがセックスをすることでした。


まあ言ってしまえば、園子の秘密というのはガンを抱えていることで、これは映画の宣伝で秘密と煽られていることなんですが、映画を観れば最初のシーンでもうなんとなく分かっちゃうんですよね。事後のシーンで「妻が命を終えた」って言っちゃってますから。そして、その理由が病気というのはベタベタにベタですが、見せ方と俳優さんの演技次第ではいかようにも面白くできると感じました。


もうお気づきのことかと思いますが、ここで園子とラブドールの同一化が図られているんですよね。園子はガンにより子供が産めない体になっていますし、それはラブドールも同じでしょう。哲雄と園子のセックスは実を結ぶことはないのです。ラブドール相手のそれと同じように。切ないですね。でも、二人はセックスをする。それは性欲という基礎的なものだけではきっとなくて、繋がりを実感するための手段が身体的な接触であったのだと思います。朽ちた桜でも花を咲かすように、子供ができるかどうかなんて関係ない。


そして、園子は哲雄に「自分を作って」と言います。その言葉通り、哲雄は園子を模したラブドールを作ります。それも園子が生きた証を残すため。二人のセックスに性欲が薄くなっていくのと反比例して、性欲の権化とも言えるラブドールは完成に近づいていきます。完成したラブドールには目に光が宿っているように私には見えました。誰かを想いながら作ると、作り物でも魂が宿るものですね。


しかし、販売するからには試さなければいけない。自分の妻を模したラブドールを使う哲雄。端的に言わなくても狂っていますが、それを感じさせない高橋一生さんと蒼井優さんの演技力よ。そして、完成したラブドールは「そのこ」と名付けられて100体限定で販売。価格は一体120万円。ただ、高めの価格設定にもかかわらず、そのこはあっという間に完売します。よほどの大富豪でない限り、120万円のラブドールはぞんざいに扱われることはないでしょう。私だったらこれが120万円か…と思って躊躇して使いませんしね。哲雄が魂込めて作ったそのこが大切に扱われるであろうという希望が見えます。


この映画は先に述べた通り、ラブドール職人としてのお仕事物の側面も持っています。社運をかけて新しい素材を提案する社長。しかし、進めていた新素材はスパイに盗まれ、他社に先出しされてしまいました。二番煎じにならないためには、元のシリコンで作るしかありません。そこで、哲雄は繋ぎ目のない一体型のラブドールを作ることを提案します。そう言う哲雄の目は力強く、食べるものも食べずに哲雄は理想のラブドール作りに没頭します。その姿はこれってプロジェクトXか何か?と見間違うほどでした。


そして、完成したそのこは最も人間に近い出来栄え。そのリアルさに私は、哲雄のラブドール職人としての矜持を感じましたね。所詮は性処理の道具でしかないラブドール。彼女と見立てて一緒に暮らすドーラ―には、私でさえうっわ気持ち悪っと思いましたし、日本では認可されていないのに精緻に作りすぎて社長は逮捕されます。でも、そんなラブドールにも作り手の思いがあり、アダルトグッズだからと言って軽蔑してはいけないなと感じました。『ロマンスドール』はそういう熱さもある映画です。




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・ラブドールを比較対象として浮かび上がる人間の実像


さて、話は人間の三大欲求に戻ります。性欲は見てきたので、食欲と睡眠欲ですね。二つのうち、この映画において私が大事だと感じたのは食欲です。なぜなら、食べるという行為が人間とラブドールを隔てる最大のものだと感じたからです。ラブドールを使って疑似セックスはできる。一緒に眠ることも疑似的にはできる。ただ、ラブドールとの疑似的な食事はできません。


思えばこの映画では少なくない回数の食事シーンや食べ物が登場しました。面接の際に供された羊羹。居酒屋でのメニュー。お酒は複数回。園子の手作り弁当。その中から卵焼きを掴む相川。写真の前に置かれるチョコレート。食べられなかった園子の手料理。哲雄が一人で食べるコンビニ弁当とカップ焼きそば。久保田商会の面々が旅館でいただく宴会料理などなど。食べることが一つのキーになっていると感じるには十分なほどです。


最初に私が注目したのが、哲雄と園子が結婚してからの最初の食事です。ここよく見るとご飯が炊き込みご飯になっているんですよね。これだけで、二人は中流家庭にあることと園子が料理が好きなことが一発で分かるので、とても上手い演出だと感じました。エンドロールにもクレジットされていたフードコーディネーター助手の方ナイス。


そこから先は、食べ物や食事シーンが哲雄と園子の状況を表しているんですよね。哲雄がレタスをちぎっただけのサラダを園子が褒めるという幸せな食事風景。手作り弁当という愛情表現。年月が経って二人の間に溝が生まれ、仕事のストレスもあり園子の手料理を食べなくなる哲雄。園子が行方をくらませてからは、哲雄はコンビニ弁当を食べるようになり、夕食はカップ焼きそばで済ます。こういった演出は正直基本的なことではありますが、それを手を抜かずにやっていることはとても好印象を受けます。


ラブドールは物を食べられません。生物たる人間にしか食べることはできません。ラブドールを比較対象として、人間の実像を浮かび上がらせていることが、この映画の特徴だと私は考えます。誰とセックスをするのかと同じくらい、何を誰と食べるかがこの映画においてはとても重要な意味を持っていると感じました。


それと睡眠欲もですね。セックスをした哲雄と園子は一緒に夜を越しているじゃないですか。ということは一緒に眠っているわけですよ。終盤に実際そういう画もありましたけど。でも、二人とも浮気相手とは一緒に眠っていないんですよね。哲雄は浮気相手と一度セックスをしていますが、ホテルから出てきたときにはまだ夜のままでしたし、園子も夜のうちに帰ってきています。この映画で描写された限りでは、二人の寝顔は二人しか知らないんですよね。


この映画の最後は哲雄の「僕は周囲の人間が知らない園子を知っている」というようなナレーションで終わりました。ここに含まれているのはもちろん幾度のセックスもあるでしょう。ただ性欲だけではなく、レタスをちぎっただけのサラダが美味しいという食事や、それぞれしか知らない寝顔といった食欲や睡眠欲も含まれていると私は考えます。


つまり、一緒に食べて、一緒にセックスして、一緒に眠る。そういう生理的欲求を共に満たすことが、この映画が描いた結婚してからのラブストーリーではないかと。それはラブドールにはできないことです。というかそもそも欲求自体がありません。『ロマンスドール』はラブドールという性欲を象徴するアイテムを通して、その実、それだけに収まらない人間の欲求を描いた映画だと私は感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『ロマンスドール』。意外と笑える面白さあり、お仕事物の熱さあり、ラブストーリーの切なさありと様々な面白さがある映画でした。興味のある方はぜひ映画館でご覧ください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


ロマンスドール (角川文庫)
タナダ ユキ
KADOKAWA
2019-11-21



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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『サヨナラまでの30分』。 北村匠海さんと新田真剣佑さんの4作目の共演作です。実は私この映画の撮影にエキストラとして参加させていただいたんですよね。楽しかったですよ。俳優さんも間近に見れましたし、色々な格好をすることができましたし。


それはさておき感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。 



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ー目次ー

・見どころの多い撮影
・俳優さんと音楽が素晴らしい 
・上書きと喪失からの再起




ーあらすじー

メジャーデビューを目前に解散したバンド「ECHOLL」。
1年後のある日、突然大学生の颯太が現れ、 メンバーのヤマケン、重田、森の日常にずかずか踏み込み再結成を迫る。誰をも魅了する歌声を持ち、強引だがどこか憎めない颯太に、少しずつ心を動かされていくメンバーたち。
実は颯太の中身は、1年前に死んだボーカルのアキだった!
偶然拾ったアキのカセットテープを颯太が再生する30分だけ、2人は入れ替わる事ができ、1つの体を共有していく。
人づきあいが苦手で、はじめはアキを毛嫌いしていた颯太。
「俺にこじ開けられない扉はない」が口癖のポジティブなアキ。
30分ごとの入れ替わりを何度も繰り返す、正反対の2人の共同生活がスタート。
ひとりで音楽を作っていた颯太も、次第にアキや仲間と音楽を奏でる楽しさを知る。
アキも颯太の体を使ってバンドを復活させ、音楽のある生活を取り戻したが、
「ECHOLL」を去った恋人・カナだけは戻ってこない。
カナに再び音楽を始めてもらうため、最高の1曲を作り上げようとする2人。
そんな日々の中で颯太もカナに心惹かれていき、カナもどこかアキの面影を感じる颯太に、心を開き始める。
すべてがうまくいくように見えたが、ふとした事から颯太=アキなのではないかとカナは気が付いてしまう。
一方カセットテープに異変がおき、アキと颯太の入れ替われる時間は短くなっていく——。

(映画『サヨナラまでの30分』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください。






 

・見どころの多い撮影


まずこの映画で注目すべきは、その青春映画としての強度ですよね。アキとカナのキスやバンドの楽しそうなセッションなど、青さや若さを感じさせるシーンが多数。しかもそれらが全く嘘っぽくないのが凄いところ。これは色々なところで言われてますけど、撮影の今村圭佑さんの功績が大きいと思います。


今村さんといえば『帝一の國』や『新聞記者』などの撮影で知られる名カメラマン。個人的にも、2018年のベスト4『志乃ちゃんは自分の名前を言えない』や2019年のベスト2『ホットギミック』といった映画は大好きで、密かに気になっている方ではありました。


そして、その撮影技術はこの映画でも健在。まず特筆すべきはオープニング。ここではECHOOLやアキとカナの5年間を音楽に乗せながらダイジェストで流すわけですが、ここの快感がまず半端ない。アキとカナのアップから少し引いてみたりと変幻自在、的確な撮影でセリフがなくても彼ら彼女らの積み重ねた年月が分かるという離れ業を披露していました。荻原監督の演出や編集の力もありますが、映画に引き込むという意味ではこれ以上ない働きをしていたと思います。


さらにその後も俳優さんたちに寄り添うカメラワークが次々披露されます。密着しているというわけではなく丁度いい距離感。新田真剣佑さんや北村匠海さんら俳優さんたちをかっこよく魅力的に撮影することに成功していて、もうこれだけで満足感を覚えるほどです。後ろにいた女性も見終わった後に


さらに、月明かり差し込む部屋で連弾をする颯太とカナ満天の星空のもとで背中合わせに寄り添う颯太とカナなど印象的なシーンも多数。撮影によって映画はここまで左右されるのかと驚きました。もちろん今村さんだけじゃなく指示を出した荻原監督も凄いですけどね。


個人的に印象に残ったのが、俳優さんをぐるりと映すカメラワーク。臨場感があって、それが俳優さんの魅力を最大限にまで引き出すことに繋がっているのかなと感じました。



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・俳優さんと音楽が素晴らしい

 
もちろん俳優さんの演技自体も素晴らしくて。特に主演の北村匠海さんと新田真剣佑さんは両者ともベストアクト級の演技でした。


まず北村匠海さん。素の颯太と颯太と入れ替わったアキの二役を演じていました。『影踏み』に続く一人二役でしたが、この映画では両者の差異がより際立っていた印象です。颯太のボソッとした自信なさげな喋り方と、アキの軽やかな性格の切り替わりが一瞬にして完了していて出色の存在でした。


さらに、物語が進むにつれて颯太自身にも新たな一面が見えてきますし、アキに対して声を荒げるシーンの迫力は凄かった。そしてフェスの出番の前の複雑な演技も見事にこなしていて、一人で三役も四役もやってましたね。その演じ分けが抜群に良くて、この映画のMVP最有力候補だと思います。もう一人の自分を見る目つきが特に好きでした。


その北村匠海さんに肩を並べる活躍を見せたのがアキを演じた新田真剣佑さん。アキはとにかくポジティブなキャラクターで、自信が迸る口ぶりが印象的でした。一生体を貸すと言われた時のはしゃぎっぷりといったら。


でも、アキって颯太がスイッチを押さなければ、この世に存在することができないので受け身なキャラクターでもあるんですよね。主張しているんだけど主張しすぎないというその塩梅が絶妙でした。上書きされていると分かってからの影が出てきたところも、そういう雰囲気がバンバン出ていて良きでした。


また、この映画では他の俳優さんたちも軒並みよかったですよね。例えばこの映画のヒロイン・カナを演じた久保田紗友さん。最初の拒絶っぷりはハマってましたし、そこから徐々に颯太に心を許していくグラデーションが上手い。ソウタとの連弾のシーンのいじらしさといったらなかった。これからも注目していきたい女優さんがまた一人増えました。


さらにギター・ヤマケンを演じた葉山奨之さんはバンドのことを誰よりも想っている感じが、ベース・森を演じた清原翔さんは皆を見守る父性さえ感じさせる雰囲気が、ドラム・重田を演じた上杉柊平さんはやや粗暴な中に覗かせる熱情がそれぞれ良かった。筒井道隆さんや牧瀬里穂さん松重豊さんらも、若いキャストを支える安定した演技を披露していましたし、相乗効果で映画の魅力が何倍にも上がっていましたね。俳優さんたちの演技だけでも満足度はかなり高いです。



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この映画は“青春音楽映画”と銘打たれています。となると音楽が映画の出来を大きく左右しますが、この音楽もまた最高でした。andropの内澤崇仁さんがプロデュースした楽曲群はどれも耳に残るものばかり。これらの良質な劇中歌が映画の盛り上げに大きく寄与していましたね。


ある歌はオープニングで疾走感たっぷりに。またある曲はギターの弾き語りで始まり徐々に盛り上がっていく。ピアノの伴奏でしっとりとさせつつ、最後にはフェス向きのシンガロングもあるバラード。どの曲を取ってもシーンにバッチリ合っていて映画を加速させていっていました。


さらにそれを歌う北村匠海さんと新田真剣佑さんの歌声も素晴らしい。北村匠海さんはそっと側にいるみたいな歌声で、DISH//で積み重ねてきたものを感じます。また、新田真剣佑さんもその格好いい風貌から発せられる優しい歌声はギャップがあってやられそうになりました。いいです。実にいいです。


それらも含めて個人的に1番好きなのはやっぱり最後の「真昼の星座」ですかね。北村匠海さんと新田真剣佑さんの両方のボーカルが聞けて眼福ならぬ耳福。さらに、「この声を この言葉を この歌を ずっと」というのがECHOOLの願いのように響いて、またテーマにも合っていて感動しました。エキストラに参加させていただいた2日間で聴き浸った曲ですが、映画のマジックで全く新鮮に聴こえたのも嬉しい驚きです。


このように、『サヨナラまでの30分』には撮影、演技、音楽など素晴らしい点は多々あり、これはすぐにでも観てほしいのですが、私が一番好きなのはこの映画が描いたテーマなんですよね。それは「上書き」という言葉に集約されると思います。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。


・上書きと喪失からの再起


カセットテープを再生することで颯太と入れ替われることに気づいたアキ。そこからはソウタの体を借りて思いのまま。面接では得意のトークを生かして喋り倒して、バンドメンバーを焚きつけてECHOOLを再結成させるように仕向けます。


最初は戸惑っていた颯太でしたが、アキのバンドに懸ける思いに感化されたのか徐々に心を許していきます。自分でも知らない一面も引き出されて、颯太自身にも前向きな変化が現れます。

ただ、颯太がECHOOLとの関わりを深めていくなかでアキが入れ替われる時間は徐々に短くなっていきました。ここで登場するのが上書きというキーワードです。


カセットテープでアキになっている間、颯太の人格は俯瞰しています。そこでアキとの過去の思い出を垣間見ます。その謎を颯太はカセットテープがアキの記憶そのものであったと理解。カセットテープはアキが何度も上書きしながら使っていたものでECHOOLの歴史がそのまま詰まっていました。


しかし、ところどころで誰とも知らずに押される録音ボタン。カセットテープにはその分颯太とカナ、ECHOOLの思い出が上書きされ、アキの記憶は短くなっていました。だからアキが入れ替われる時間も短くなっていったというわけですね。ここでカセットテープの中の出来事と映画の中の現実とがリンクしていきます。それは喪失からの再起です。


アキは1年前に交通事故で亡くなってしまいました。それを機にECHOOLは一度解散。メンバーはそれぞれの道に進んでいきます。しかし、「1秒でも何かしていないとアキのことを思い出してしまう」というカナをはじめとして、ECHOOLを解散してもどこかアキの幻影に付き纏われています。



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思えば、人生において喪失はつきものです。出会いがあれば別れもあるとは使い古された言葉ですが真理でしょう。親はいつか死にますし、もちろん自分も。そうでなくても彼氏彼女と別れたということも喪失に含まれるでしょう。


喪失に対する周囲の反応は様々です。それこそ苦しんでる悲しんでる遺族を慰めようと声をかけてくる人もいるでしょう。ただ、颯太のようにそれが却って負担になってしまうこともある。まぁ放っておけばいいというわけではないので難しい問題ですけどね。


まさか遺族に対して「死んだ人のことは忘れなさい」という人はゆめゆめいないと思いますし、いたとしたら相当デリカシーがない。でも、彼氏彼女と別れたという相談に対して「忘れてしまえば」と答える人がいるのはなぜでしょうか。まだ若いんだからなんて言って。最後の恋愛になるのかもしれないのに。


でも、忘れられるわけがないんですよ。その人のことを深く想っていれば想っているほど、ふとしたときに思い出して悲しむことになる。振り返ってばかりで前に進めない自分を責める人もいるかもしれません。そうなったら再起からは離れていく一方です。


そこにこの映画は忘れなくてもいいというんですね。カセットテープが上書きされても元々のデータを残しているのと一緒です。記憶は積み木ように積み重なっていて、その上にまた新しい積み木を置いていけばいい。前に進むことは別れた相手に対する裏切りにはならないんですよ。だって思い出は上から見た積み木みたいに、真昼の星座のように目には見えなくてもそこにあるから。


だからこの映画ではアキがいなくなってしまうという終わり方なんですけど、バッドエンドではないんですよ。だってECHOOLの礎には絶対にアキがいて、それはなくならないから。彼ら彼女らの中にはアキがいつづけるんですよね。上書きされても消えない記憶のように。いなくなることをアキ自らが選択したのがまた良いですよね。颯太にこれからを託すというバトンタッチの意味合いもあって最高に好きです。



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さらに良いのがこの映画が余計なエピローグなくスパッと終わったことなんですよね。ECHOOLが、颯太が歌い終わったところ、盛り上がりが最高潮のところで終わってる。でも物足りなさは全く感じない。


それはなぜかというとこれからもECHOOLが続いていくことが、その礎にはアキがいることが容易に想像できるから。もうその先まで物語と歌で語り尽くしてる。だから、これからも頑張ろうなという再確認のようなエピローグはいらないわけです。


先にも述べたように人生に喪失は付きものです。大人はもちろんですが、若い人でさえも、学生時代に仲良かった友達と離れ離れみたいな喪失は経験していると思います。なのでティーン向け青春映画と間口を狭めず、ぜひ多くの方に観ていただきたいです。積み重ねることの大切さを描いていて来するものがあるのではないかと。


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以上で感想は終了となります。映画『サヨナラまでの30分』。あらゆる要素が素晴らしい今年ここまでで一二を争う傑作映画だと思います。興味のある方は是非ご覧ください。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。

 
おしまい


 

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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『ジョジョ・ラビット』。第二次世界大戦下のドイツを舞台に、ナチス信奉者の少年と、ユダヤ人の少女のボーイミーツガールを描いた映画です。ナチスやヒトラーを描いているということで、賛否両論あるこの映画。ただ、アカデミー賞の作品賞にノミネートされているからには悪い映画ではないはず。そう思って、重い腰を上げ、眠い目をこすりながら観に行ってきました。そして、観た結果、非常に好みの映画となっておりました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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映画情報は公式サイトをご覧ください。




※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











この映画の舞台は第二次世界大戦下のドイツ。鏡の前に立つ10歳の少年ジョジョのシーンから始まります。鏡に向かってナチスに誓いを立てるジョジョ。彼を演じたのは、今作が映画初出演となるローマン・グリフィン・デイビスという少年。ビジュアルだけ見れば、すぐ調子に乗りそうな少年でしたが、反対に心根は優しく、随所随所の葛藤するシーンはこの映画の見どころの一つでした。また、終盤の戦争に対する反応も、絶望よりも先に戸惑いが来ていてよかったと思います。


これから訓練を受けようというジョジョですが、内心は不安で一杯。空想上の友達、イマジナリーフレンドに話しかけます。そのイマジナリーフレンドは、なんとヒトラー。ナチスの元凶をこんなにもポップに召喚するなんて、タブーを恐れない勇敢さです。このヒトラーを演じたのは、今作で監督・脚本も務めたタイカ・ワイティティ。最初はコミカルな演技をしていましたが、物語が進むにつれて口調がどんどんと扇情的になっていったのは上手かったですね。顔のインパクトも上々でした。


この映画って最初は明るくポップなんですよね。最初のダンスは思わず笑ってしまうほどでしたし、オープニングにビートルズの「I Wanna Hold Your Hand」を持ってきたのも楽しい演出でした。また、ジョジョとヒトラーが並走するシーンもあり、そこの勢いもなかなかでした。


でも、やっていることはわりときついんですよね。ジョジョは道行く人に「ヒトラー万歳」と挨拶していますし、それが普通になってしまっているのは、現代から見ると狂っていると感じずにはいられません。途中、30回ぐらい「ヒトラー万歳」が連呼されるシーンがありましたからね。笑ってはいけないと思いつつもあまりのしつこさが滑稽に感じてしまいます。


さらに、10歳かそこらの少年に軍事の訓練をさせるのは、日本も人のことは言えないですけど、やっぱりイカレてますし、銃を握らせたり、手榴弾を投げさせたり狂気の沙汰ですよね。さらに、戦地に行くことができない女性にもできることがあるといって産めや殖やせやを奨励しています。極めつけは、大昔ユダヤ人は魚と交尾していたなど、ナチズムに則った間違った価値観の植え付け。戦時下の異常事態がテンポよく映されて、ただ観ているだけなら楽しんですけど、恐怖を感じてしまうほどでした。




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しかし、ジョジョは心根の優しい少年。訓練でウサギを殺すというなかなかきつい訓練がありましたが、ジョジョは殺せず逃げ出してしまいます。周囲からは「ジョジョ・ラビット」と呼ばれからかわれてしまいますが、ここでジョジョが殺してたら、彼の中での殺しのハードルが低くなっていたことを考えると本当に良かった。


落ち込むジョジョでしたが、ヒトラーに発破をかけられて走り出します。手榴弾の訓練中に教官から手榴弾を奪い投げますが、木に跳ね返って手榴弾はジョジョの足元で爆発。ここ爆発のシーンがジョジョが、絞り出されたマヨネーズみたいにぴゅーっと横跳びしていて、謎におかしかったので、もうちょっとどうにかならなかったのかなとは感じました。


あと、教官を演じたのはサム・ロックウェルで、同日公開の『リチャード・ジュエル』に続いての出演。全然違う厳しめの演技を見せていましたね。個人的には『リチャード・ジュエル』のサム・ロックウェルの方が好きですけど。


ここでジョジョは負傷してしまい、顔にあざがつき訓練を続けることは不可能になります。ポスターを貼ったり、ビラを配ったりするジョジョ。使えるものは何でも使えとばかりに、子供でも容赦なく動員するところに戦争の恐ろしさを感じましたし、反ナチス運動をしていた人たちが見せしめとして、縊首されたまま広場に放置されていたのはなかなかくるものがありました。


実は、ジョジョの母親のロージーも反ナチス運動をしていて。戦争には負けると冷笑的な見方をしているんですよね。このロージーを演じたのが、世界的大スターのスカーレット・ヨハンソンでしたが、この映画の面白いところって途中までスカーレット・ヨハンソンが結構やりたい放題やっていることなんですよね。


暖炉から炭を取って口周りにつけて、父親のふりをするところは、彼女のオンステージといった感じで思わず笑ってしまいました(父親は外国の戦場に行っていて2年ほど返ってきていない設定)。靴ひもを結べないジョジョをからかうのも面白かったですし、自転車で並走するところなんて良い母親過ぎて、きつめの世界観の中でしたけど、少しほんわかしました。匿っているユダヤ人の少女エルサに優しくしていたのもポイント高い。スカーレット・ヨハンソンのいろいろな表情が観られるので(途中までは)、彼女のファンなら見て損はないと感じました。












訓練に行けないジョジョは、家で過ごす時間が多くなります。そのときキッチンから謎の物音が。訓練の最初に貰ったナイフを駆使して開けてみると、そこには少女がいました。最近『パラサイト』で見た展開や!とも思いましたが、ロージーが意図的に匿っていたので違いますね。彼女の名前はエルサ(アナ雪?)。ナチスが迫害しているユダヤ人の少女でした。彼女を演じたトマーシン・マッケンジーはジョジョをリードするお姉さんっぽいサバサバした雰囲気を備えていて、そこが芯の強いエルサにはまっていましたね。


と、ここからはジョジョとエルサの中が深まっていくという展開なのですが、正直このあたりあまり覚えていないんですよね……。ウトウトしてしまっていて。作品に全く罪は無く、100%私のせいなんですが、今日は一日中眠くて。これを書いている今も眠いですし、一秒でも見逃してしまったのは悔しかったですね。目が覚めたらスカーレット・ヨハンソンのオンステージで、そこのインパクトはすごかったんですけど......。


ただ、結構ロマンティックだなというのは覚えていて。エルサにはフィアンセがいたんですけど、ジョジョはこのフィアンセのフリして手紙を書いて読むんですよね(『ラストレター』?)。最初はエルサを傷つけようとして「別れよう」という手紙を書くんです。ヒトラーにも「なかなかの悪だな」と言われるくらい。ただ、ここでジョジョの優しさが出てしまって。実際にエルサが凹んだのを見ると、「やっぱり別れない」という手紙を書くんですよ。なんていいやつなんだと微笑ましくなっちゃいましたね。好きなシーンです。結構ロマンティックな一面もあるんですよね。この映画は。


この映画が、二人を通して描きたかったのは、やっぱり人対人で向き合うことの大切さなのかなと感じます。ドイツ人とかユダヤ人とかじゃなくて、一人の人間として接すること。これがなかなか難しいですし、できないから戦争になってしまうんですよね。私の記憶が正しければ、ジョジョがエルサに「ユダヤ人?」と聞いたシーンでは、エルサが答えを返さずに次のシーンになっていましたし、エルサもジョジョのことを「ただの10歳の男の子」と見ています。二人の間では人種の垣根はだんだんと取り払われていきます。それはすごく理想的なことではあるんですが、フィクションは理想を描くべきだと思っている私にとってはこの展開は大歓迎でした。




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なんで理想的なのが良いかというと、この映画が終盤になるにつれてどんどんときつい展開になっていくからなんですよね。これはネタバレになってしまうんですけど、映画の途中で反ナチス運動を展開していたロージーはナチス党に捕まって、広場の真ん中で縊首させられてしまいます。ここロージーの顔を映さずに、ふらふら揺れる下半身のみを映していたのがショックでしたね。意地の悪い演出です。だからこそ、途中で引いて全体像を見せるシーンは個人的にはいらなかったのかなと感じてしまいました。


母親を失って、どうしようと途方に暮れるジョジョとエルサ。これに追い打ちをかけるように市街地戦が始まります。銃弾の雨あられが降り注ぐ戦場。道に倒れ込む死傷者。子供ですら容赦なく銃を渡されて、戦場へと駆り出されていきます。前半で「これはないだろ」となった軍服案まで登場させるブラックユーモアもありましたね。


個人的に一番辛かったのが、手榴弾を巻き付けられて「敵に抱きついておいで」と送り出される少年兵でした。ここ本当にさりげないシーンなんですけど、自爆攻撃を表していて、ああこんなことが特別視もされないで行われていたのかと胸が痛くなりましたよ。戦争の悲惨さ、痛々しさ、そして無意味さが伝わってきました。


この悲惨な戦争のシーンがあるからこそ、ジョジョとエルサの関係が希望として映るんですよね。人種差別や優生思想なんて関係なく、人間として向き合う。それでも分かり合えない時はありますが、きっと分かり合えるかもしれないという願いですよね。だからこそ、戦争が終わってエルサが自由に外に出ることができたラストシーンは胸を打ちました。ようやく解放されたというカタルシスがありつつ、本当はこうならなければよかったのにという悲しさがありました。それをひっくるめて踊るのは感動的でしたし、最後のリルケの詩もスーッと心に沁み込んでくるようでした。絶望は終わりではないっていう言葉良いですね。


そして、このラストシーンの前が、ジョジョが再び鏡の前で語るシーンになっているのも好きなポイント。10歳半というところでまずビビっときましたし、エルサと過ごした時間がジョジョを成長させていたことが窺えます。実はこの映画ってめちゃくちゃ真っ当な少年の成長物語でもあるんですよね。あまりに真っ当でビックリしましたけど、これは評価されるのも分かるなぁと。実際、私も大好物ですしね。この手の物語は。ナチスを扱うという難しさもあったこの映画。始まる前は身構えていましたが、着地点が鮮やかで好きな映画となりました。


でも、だからこそ言っておきたいことが。最後のヒトラーの登場要ります?あれはイマジナリーフレンドからの卒業と、優生思想を始めとしたナチズムからの解放を表していると思うんですけど、ただそれは鏡の前で喋るシーンだけで十分表現できていると思ったんですよね。文字通りケリをつけるのはいいんですけど、想像以上のスピードでぶっ飛んでいったので、少し笑ってしまいました。ここ個人的には少し蛇足に感じてしまって、惜しいなぁと思うポイントでした。全体で見ると十分好きな映画ではあるんですけどね。




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以上で感想は終了となります。映画『ジョジョ・ラビット』。ナチスを扱っているという難しさはありますが、すごく真っ当なボーイミーツガールであり、少年の成長物語でもあるので、個人的には好きな映画でした。機会があればぜひどうぞ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


ジョジョ・ラビット(オリジナル・サウンドトラック)
サントラ
ユニバーサル ミュージック
2020-01-17



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こんにちは。これです。冬だというのにこちらは全然雪が降りません。これも地球温暖化の影響でしょうか。降っていると忌々しいものですが、いざ降らないとなると少し心配です。


それはさておき、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『リチャード・ジュエル』。巨匠クリント・イーストウッド監督の最新作です。「実話」と銘打たれたこの映画、反応も上々だったので、さっそく観に行ってきました。気になるところはあったものの、好きな映画でしたよ。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・メディアのイメージが固定化されすぎている気がする
・リチャードは私たちと変わらない「人間」だった





―あらすじ―

 1996年、警備員のリチャード・ジュエルは米アトランタのセンテニアル公園で不審なリュックを発見。その中身は、無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。
 事件を未然に防ぎ一時は英雄視された彼だが、現地の新聞社とテレビ局がリチャードを容疑者であるかのように書き立て、実名報道したことで状況は一変。さらに、FBIの徹底的な捜査、メディアによる連日の過熱報道により、リチャードの人格は全国民の目前でおとしめられていった。
 そこへ異を唱えるため弁護士のワトソンが立ち上がる。無実を信じ続けるワトソンだが、そこへ立ちはだかるのは、FBIとマスコミ、そしておよそ3億人の人口をかかえるアメリカ全国民だった――。

(映画『リチャード・ジュエル』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・メディアのイメージが固定化されすぎている気がする


まず、この映画を観て私が感じたことは、メディアのイメージが固定化されすぎているということです。民衆に事実を伝えるという大義名分を盾にして、その裏では当事者のことなど考えずに、プライバシーのない過熱報道を繰り返す。去年、『フロントランナー』という映画を観たときも思いましたが、メディアが思慮のない悪者扱いされることが多すぎると思うんです。まるでマシーンのように、マイクを向けカメラのシャッターを切る。そこに記者の意思など介在していないかのようです。


それは、この映画でもそうでした。この映画では新聞社に勤めるキャシーがメディアの代表として登場します。キャシーは同僚に"殺し"の記事が一面になることを茶化すように謝り、いい"ネタ"はないかと探しています。事件が起こった際も現場に居合わせ、「犯人が興味深い人物ならいい」と発言。FBI捜査官から情報を聞き出し、リチャードが容疑者であるように書き立て、スクープをすっぱ抜いたことで部内から称賛を浴びています。二人の死人が出ている事件だというのに。


そこからは、FBIの決めつけによる捜査とメディアの過熱報道がジュエルたちを追い詰めます。どこに行くにもカメラがついて回り、容赦のないフラッシュと質問の嵐にリチャードたちの精神はやられ、母親は参ってしまいます。そこからの反撃は面白かったのですが、私はこの展開を正直ありがちと感じてしまったんですよね。現代のSNSで毎日繰り返される現象を見ているようで、食傷気味で。でも、何度も繰り返して描かなければならないほど、事態はマズくなっているのかもしれないです。




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昨今は新聞やテレビなどのオールドメディアの力が弱まってきて、SNSなどの新興メディアが大きな力を持つようになりました。報道番組のクルーがバズったツイートに使用許可を求めてきて、ツイート主がそれを断るといった光景はよく目にします。でも、根本にあるものは変わっていなくて。それは民衆の興味関心なんですよね。


この映画で、テレビや新聞がなぜアトランタ爆破事件を取り上げたかというと、そこには民衆の興味があるからですよ。知りたいという需要があるからですよ。メディアは需要に対して供給をしていたにすぎず、押しかける記者たちからは民衆の好奇の目が透けて見えるようです。一貫して映画の中に民衆が描かれていなかったのが余計怖い。つまり、メディアは民衆の操り人形に過ぎなかったというわけですね。この映画では。そこが観ていて少し疑問だったんですけど、これも昨今のSNSの影響を考えるとしょうがないのかなって。


SNSで日常的に行われることと言えば、犯人捜し及びバッシングだと私は思います。事件の報道があったときには必要以上に犯人を責め立てる。あたかも私法に則った法執行人のように。そして、悪者のいない問題でも、自らの方に照らし合わせて犯人を捜しては叩く叩く。それは、この映画でメディアが行ったことと何ら変わりなく、むしろメディアという媒体を介さずにダイレクトに意見を述べることができるようになったおかげで、事態はより深刻化していると思います。SNSが好奇のもとに、人を叩く道具と化していると感じるのは私だけでしょうか。


そして、叩く対象は「興味深い人間」であれば、なおのこと良しです。『ジョーカー』の感想でも書きましたけど、「無敵の人」という言説があるじゃないですか。あれ、なんで「無敵の人」というかと言うと、同じ人間じゃないと思いたいからなんですよね。自分たちから切り離された、ある種動物のように「無敵の人」を定義することで、自分たちとは違う存在だという安心感を持って叩けるわけです。



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・リチャードは私たちと同じ「人間」だった


では、この映画のリチャードはどうだったのでしょうか。リチャードは一応働いてはいますが、33になっても母親の元で暮らしています。「大人なら親元から自立すべきだ」という価値観に照らし合わせれば、リチャードは異常ということができるでしょう。ここで、リチャードは「パラサイトシングル」や「子供部屋おじさん」などと類型化され、そうでない「一般人」たちからは切り離されてしまいます。それは「無敵の人」となんら変わらない言説です。


しかし、リチャードは「一般人」と何ら変わりないことが、この映画では描かれます。「一般人」と変わりないように、リチャードも自らの正義を持っていました。法執行人になるという正義感は繰り返し語られ、それは危うさをも感じさせるものでした。実際に、以前勤務していた学校ではその正義が行き過ぎて、首になっていますしね。もし、SNSをやっていたら勢い余って叩きに参加しそうなくらい。


このリチャードを演じたのは、ポール・ウォルター・ハウザー。『アイ,トーニャ』や『ブラック・クランズマン』で、浅薄な考えを持つ憎まれ役なんだけど、どこか憎めないキャラクターを演じていましたが、主役になったこの映画では印象が一変。考え方こそマシになってはいましたが、正義のもと何をするかわからない怖さが全編に渡ってありました。それは虐げられてきた人間にしか出せない怖さで、一挙手一投足からその怖さを存分に感じられる熱演だったと思います。


リチャードはその容貌から「デブ」と呼ばれて、虐げられてきました。。その中でもただ一人、リチャードのことを「人間」として接したのが弁護士であるワトソンです。この映画の冒頭は中小企業庁でリチャードとワトソンが会話する場面なんですけど、そこでスニッカーズを通じて友情を深めていく二人の様子がとても好きでして。この映画は、不都合に立ち向かう男二人の友情ドラマとしても見ることができ、なかなかの熱さを感じましたね。ワトソンを演じたサム・ロックウェルも意志の強さを感じて良きでした。




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第一発見者というだけで爆弾犯の嫌疑をかけられたリチャード。メディア(SNS)の往来はやむことはありません。でも、この映画ではリチャードがワトソンとともに、メディアや国民に対して反撃をするんですよね。リチャードの犯行は不可能だと劇中で証明がなされます。リチャードの母親は涙ながらに息子の無実を訴え、リチャードはFBI捜査官に証拠もないのに疑うことの不健全さを突きつけます。それは虐げられたものの反撃であって、犯人を異常者として特別視する「一般人」の観念をひっくり返すようで、痛快なものでもありました。最後は食い入るように映画を観ている私がいました。


つまりこの映画は、ある人を類型化し、特別視して、分断するSNSの性質に歯止めをかけたいのかもしれません。確かに、映画の中では事件は解決しました。しかし、現実のSNSでは人を変え、毎日のようにリンチの再生産が続いています。様々なメリットがあるSNSですが、こういった問題が繰り返される以上、これからも同じような物語は生まれることでしょう。20年以上前の話なのに、現代と変わらない普遍性を持った映画だと感じました。メディアのイメージの固定化も、SNSに関わる私たちの危険な現状を浮かび上がらせるためには必要だったのかもしれませんね。それがイーストウッド監督が伝えたかったことなのかなと思います。




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以上で感想は終了となります。映画『リチャード・ジュエル』。現代のSNSにも通じるメディアの恐ろしさを感じさせるなかなかの社会派作品となっていました。それでも、あまり重くなく観ることができるので、観ようかどうか迷っている方には観ることをお勧めします。面白いですよ。


お読みいただきありがとうございました。

おしまい
 





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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『ラストレター』。岩井俊二監督の最新作です。この映画を観るにあたり、原作は既読。岩井監督の映画もゼロのところから『リリィ・シュシュのすべて』『Love Letter』『スワロウテイル』の三作を鑑賞するなど、ちょっとだけ予習をして観に行きました。


そして観たところ、とても好みの映画でした。では、どこがどう好きなのか、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・キャストについて

・ロマンティックってなんだ
・印象に残った色の使い方





―あらすじ―


裕里(松たか子)の姉の未咲が、亡くなった。裕里は葬儀の場で、未咲の面影を残す娘の鮎美(広瀬すず)から、未咲宛ての同窓会の案内と、未咲が鮎美に残した手紙の存在を告げられる。未咲の死を知らせるために行った同窓会で、学校のヒロインだった姉と勘違いされてしまう裕里。そしてその場で、初恋の相手・鏡史郎(福山雅治)と再会することに。

勘違いから始まった、裕里と鏡史郎の不思議な文通。裕里は、未咲のふりをして、手紙を書き続ける。その内のひとつの手紙が鮎美に届いてしまったことで、鮎美は鏡史郎(回想・神木隆之介)と未咲(回想・広瀬すず)、そして裕里(回想・森七菜)の学生時代の淡い初恋の思い出を辿りだす。

ひょんなことから彼らを繋いだ手紙は、未咲の死の真相、そして過去と現在、心に蓋をしてきたそれぞれの初恋の想いを、時を超えて動かしていく

(映画『ラストレター』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・キャストについて


まず言ってしまうと、この映画はキャストの方が全員良くて。優れた演技を見ることができて引き込まれて、時間があっという間に感じました。


松たか子さんが演じた裕里は、死んだ未咲のことをずっと引きずるのかなと思いきや、意外とコメディカルな演技も見せていたのが好きで。お風呂のシーンとか神社のシーンとか。思わず微笑んでしまう感じ。それでいて要所要所はしっかり締めるという。貫禄すら感じさせる演技でした。


広瀬すずさんは、未咲の娘の鮎美と回想での未咲という一人二役をこなしていましたが、その演じ分けが見事でした。最初の鮎美は母を失ったことで沈んでいるんですが、徐々に明るくなっていくんですけど、その明るさを取り戻した鮎美と未咲のキャラクターがこれまた微妙に違うんです。未咲の方が奥ゆかしいといいますか。それをさりげなく見せてくれるので好きでした。


『天気の子』で一躍脚光を浴びた森七菜さんも、同じように裕里の娘の颯香と、回想の裕里の一人二役を演じています。はしゃぐ颯香のキャラクターが凄くはまっていた印象でした。スーッと廊下を滑っていくの好き。それでも、こちらも回想の裕里とはまた違った演技、具体的に言えば喋り方が柔らかくなっていたりとか、を見せていてそのポテンシャルの高さをうかがい知れます。


実は私がこの映画で一番好きなのが、この三人が未咲の仏壇の前で座っている冒頭のシーンでして。ここ三者三様の座り方をしているんですよね。裕里は正座。鮎美は体育座り。颯香は崩して座っていて、何もしゃべらなくても性格や未咲の死の受け止め方が違うのが伝わってくるんですよね。さらには、終盤にはこれと対比になるシーンもありましたし、そういう絵で語る演出が上手いなぁと感じました。


裕里の文通相手で、未咲のことを思い続ける乙坂鏡史郎を演じたのは福山雅治さん。落ち着いた演技で場を支配していましたね。常に眼鏡をかけていて髭もはやして、一般的な福山雅治さんとは違った表情を見せていました。完璧じゃなくて、こういう少し情けない役を演じた方が、ギャップがあっていいなと感じました。


あとは、回想での乙坂を演じた神木隆之介さんはさすがの安定感でしたし(でももうそろそろ高校生はきつくなっている気がする)、『Love Letter』で共演した中山美穂さんと豊川悦司さんも、この映画には出演し、的確な演技を見せています。二人ともやさぐれ感が凄かったですね。でも、個人的に印象に残ったのはあまり映画に出ないであろう庵野秀明さんなんですよね。


あまり演技に慣れていないところはどうしてもあるのですが、そこが一周回ってかわいかったです。あのごつそうな風貌から出る声が意外なほど柔らかく、飾らないことによる良さみたいなものを感じました。最後の「おかえり」が特に好きですね。広瀬すずさんや森七菜さんを抑えて、この映画での一番の癒しキャラでした。まさかこんなことになるとは、映画を観る前は思いもしませんでしたよ。




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・ロマンティックってなんだ


さて、岩井俊二監督の作品によく付随する言葉といえば、ロマンティックだと思います。確かに『Love Letter』は、亡くなった好きだった相手に手紙を送ると、返るはずのない手紙が返ってきて……というロマンティックなストーリーでしたし、この映画の予告編でも新海誠監督の「岩井俊二ほどロマンティックな作家を、僕は知らない。」というコメントを引用するなど、ロマンティック推しが激しいことになっています。


まあ個人的には、岩井監督がロマンティックな作家だとは全然思ってないんですけどね。あくまで3作を見た印象ですが、『リリィ・シュシュのすべて』はロマンティックとは程遠い鬱映画でしたし、『スワロウテイル』もなかなか陰惨なムードの映画です。『四月物語』や『花とアリス』は違うのかもしれませんが、私が抱いていた岩井監督作品のイメージはそこまで明るいものではありませんでした。


だからこそ、この作品のロマンティックなムードに少し面食らったところもあったんですよね。初恋だの甘酸っぱい衝動が何のためらいもなく飛び出す世界観は、死を扱っているという重さをあまり感じさせません。いい意味でも悪い意味でも。回想のシーンなんてロマンティックの集合体で、観ていて気がどうにかなりそうなほどです。


きっと、この映画を観た人の多くが、口を揃えてロマンティックということでしょう。でも、待ってください。そもそもロマンティックとは一体何なのでしょうか。何をもってロマンティックというのでしょうか。


手元の電子辞書を引いてみます。


ロマンチック―
現実離れしていて甘美なさま。空想的で波乱に満ちたさま。情熱と理想に溢れたさま。

(三省堂 スーパー大辞林3.0)


なるほど、確かに現代では、文通というのは現実離れしているでしょう。波乱こそありませんでしたが、乙坂の書く手紙の内容は現実に即していながら、どこか空想的でもありますし、情熱を帯びていました。それに、裕里のこの言葉。


「お姉ちゃんのフリして手紙を書いていたら、なんかお姉ちゃんの人生がまだ続いているような気がちょっとしました。誰かがその人のことを思い続けたら、死んだ人も生きてることになるんじゃないでしょうか」
(岩井俊二『ラストレター』p180より引用)



はっきり言ってしまえば、こんなものは理想ですよ。これは自信を持って言えますが、私が死んだとしても、誰も私のことを思い続けてはくれません。みんなそんなに暇じゃないです。人は死んだらそれまでです。


でも、この映画の多くのキャラクターたちは、未咲が死んだことを完全に受け入れられていません。なんとかして思い出だけでも現世に留めようとしています。理想に溢れたロマンティックな雰囲気がこの映画には充満していました。




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では、未咲を生きていることにしたいというロマンティックな思想を持つ彼ら彼女らはロマンティストということができると思います。


ロマンチシスト―
①ロマンチシズムを主張する人々。浪漫主義者。
②ロマンチックな人。空想家。夢想家。

(三省堂 スーパー大辞林3.0)


②の意味は見た通りです。問題は①。ロマンチシズムってなんじゃらほいですよね。ロマンチシズム及びロマン主義は、手元の電子辞書で次のように説明されています。


ロマン主義―
一八世紀末から一九世紀の初めにかけてのヨーロッパで、芸術・哲学・政治などの諸領域に展開された精神的傾向。近代個人主義を根本におき、秩序と論理に反逆する自我尊重、感性の解放の欲求を主情的に表現する。

(三省堂 スーパー大辞林3.0)

(前略)17世紀以来の古典主義を人間精神の内奥の力を否定したものとして攻撃、なによりも個性や自我の自由な表現を尊重し、知性よりも情緒を、理性よりも想像力を、形式よりも内容を重んじた。
(ブリタニカ国際大百科事典)


まあ要するに、何にも縛られずやりたいようにやろうぜみたいなことなんだと思います。この映画では感情に一番の重点が置かれていたように感じます。「人は死んだら終わり」という論理の影は薄く、「死んだ人も生きてることになる」という感情の赴くままにストーリーは動いていました。そう思った理由は、この映画の色の使い方。具体的に言えば、白と黒の使い方です。




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・印象に残った色の使い方


いきなりですが、小説と映画の大きな違いは、文字通り映像があるかどうかでしょう。小説では描写されていなければ、便箋の色は赤かもしれないし、青かもしれない。ペンの色は黄色かもしれないし、緑かもしれない。でも、映像になると便箋の色は白、ペンの色は黒と限定されます。この映画ではほとんどのシーンでこの図式が崩されることはありませんでした。


白い便箋はまっさら。何も書いてありません。そこに黒いペンでしたためるわけです。じゃあ何をと言えば、それは意思エゴといったものでしょう。キャラクターたちが書いていた手紙は、未咲と偽っていたとしても、未咲を生かしていたいという彼ら彼女らの意思表明、エゴです。それはスマートフォンでのやり取りも変わっていませんでした。


ここで、黒を意思やエゴとすると、それに対する白は、上でいうところの秩序、論理、知性、理性、形式ということができると思います。制服が白いのは秩序を、裕里が白い服をよく着ていたのも知性的で、理性的な人物だということを表したかったのかもしれないですね。秩序の反対は混沌、カオスなんですけど、恋心なんてカオスなものじゃないですか。黒い文字で書かれた手紙は、秩序や知性を飛び越えた混沌とした強い気持ちを表したかったのかもしれません。




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また、一般的に白は「生」を、黒は「死」を表すとされています。でも、この映画は未咲の死から始まります。葬式のシーン、おそらく白い棺桶の中の未咲は白装束を着ていたのではないでしょうか。さらに、未咲の仮の仏壇も白い布が掛けられています。この映画では、白=「生」がひっくり返って、白=「死」となっていると私は考えました。白い死から始まる。これは『Love Letter』を彷彿とさせますね。で、その反対の黒は「生」だと。だって喪服って生きていなきゃ着れないじゃないですか。鮎美と颯香だって、学生じゃなければ黒い喪服を着ていたはずですし。


そして、この白と黒のモチーフは、裕里と乙坂の着ていた服にも表れていると思います。手紙を書く裕里は大体白い服を着ていました。これは死んだ未咲のふりをしていたことを象徴していると思います。乙坂に正体がバレるシーンは全く違う服を着ていたこともなかなか暗示的。また、乙坂の服はグレーが多かった。黒と白がごちゃ混ぜになったこの色は、死んだ未咲を生きていると思っている乙坂の心情を表していているのではないかと。でも、未咲が死んでいると分かってからは一転、乙坂は黒い服を着るようになるんですよね。それは、未咲の死を受け止めて、それでも生きて前に進んでみようと思ったからではないでしょうか。


映画の終盤に訪れた図書館のシーン。ここでは裕里は白に白を合わせていますが、乙坂は白の上に黒を着こんでいます。これはまだ未咲の死から離れられない裕里と、受け入れて前に進む乙坂という構図を視覚的に明確にしていたのではないでしょうか。あのコントラストは美しいようで、その実残酷なシーンでもあると思います。


また、真っ白な便箋に黒いペンで手紙を書くこと。これも「生きる」という証明なのかなと思います。何も書かれていない便箋は「死」ではありませんが、黒字すなわち「命」がまだ存在していないことを考えると、「死」と似たようでもあります。そこに「生」を象徴する黒い文字を書き込んでいく。未咲を生かしていたいという意思を書き連ねていく。ここで、文通という設定が活かされていると私は感じました。


アナログである文通の最大の特徴は、筆跡が感じられることだと思います。SNSでのやり取りや、本になった小説は、既定のフォントが使われていて、そこに個人の特徴はあまり見られません。でも、この映画での文通は、それぞれに違う筆跡が描かれていて、人となりを感じさせます。便箋も乙坂はマス目がきっちり指定されたものを使っていますし、手紙から性格がにじみ出ていて、そこが好きなポイントの一つでした。


これは、黒=「生」を強調する効果があったと個人的には感じていて。自らの「生きている」筆跡で書くことで、未咲を生かしておきたいという意思がより強調されていたように思えました。また、劇中で乙坂が自らの本に、三度サインを書いていたのも象徴的ですね。生きていた証拠をより残せたとでも言いますか。お決まりのフォントでは得られない感動がありました。




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で、この映画は最後の図書館のシーンを代表するようにやたらと白と黒を強調してくるんですけど、それがラストシーンへのフリになっていたのがとても好きで。この映画の最後って、体育館に赤いパイプ椅子がずらりと並ぶカットで終わるんですよね。それまでの落ち着いた色合いから一転したこのラストシーンにはとてもインパクトがありました。


この映画には、ファーストシーンや上空撮影、裕里たちが通っていた高校のネクタイや川沿いなど緑色も多く登場します。緑は自然の色で、生命の息吹を感じさせます。ここで気持ちを落ち着けておくことで、目が比較的疲れることなく見ることができて、配慮がなされているなと感じましたが、これさえもラストシーンへのフリになっていました。


赤はメラメラ燃える色。活発な印象があり、緑とともに「生命」を象徴する色でもあります。劇中でも度々ポストが登場していましたが、これも未咲を生かしておきたいという裕里らの強い感情を表していたのだと思います。そして、最後の最後に画面を赤で埋め尽くす。ビジュアル的なインパクトもあり、希望に溢れた未咲と乙坂の感情を表しているようでした。確か『Love Letter』の最後でも、中山美穂さんは赤いセーターを着ていましたし、両作が「生と死」という共通したテーマを持っていることを感じさせますね。そして、最後は「生」に向かうという。いやー好きです。




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まとめると、『ラストレター』はロマンティックでロマン主義な映画だと思います。この夢見がちさが合わない人もいそうですが、私はいい感じに酔えたので好きです。それに、フィクションてやっぱり理想を描いてなんぼと私は思っているので、「死んだ人も生きてることになる」という理想を真っすぐ信じたこの映画を嫌いになるはずがありません。俳優さんたちの演技もいいですし、機会があればみてみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


ラストレター (文春文庫)
岩井 俊二
文藝春秋
2019-09-03



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