Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2020年02月



こんにちは。これです。今回のブログも昨日に続いて映画の感想になります。


今回観た映画は『ミッドサマー』。『ヘレディタリー/継承』のアリ・アスター監督の最新作です。私は『ヘレディタリー』に興味がないわけではなかったのですが、怖すぎるという評判を聞いて、どうも手が出せなかったんですよね。ただ、そんな私の殻を破ろうと、勇気を出して『ミッドサマー』、観に行ってきました。まぁ正直言うとあまり怖くはなかったんですけどね。観終わった直後は。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

家族を不慮の事故で失ったダニーは、大学で民俗学を研究する恋人や友人と共にスウェーデンの奥地で開かれる”90年に一度の祝祭”を訪れる。美しい花々が咲き乱れ、太陽が沈まないその村は、優しい住人が陽気に歌い踊る楽園のように思えた。しかし、次第に不穏な空気が漂い始め、ダニーの心はかき乱されていく。妄想、トラウマ、不安、恐怖……それは想像を絶する悪夢の始まりだった。

(映画『ミッドサマー』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。






※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








『ミッドサマー』には、幽霊もゾンビも出てきません。怪奇現象や超能力の類もありません。あるのはただのイカれた村の祝祭だけです。舞台は夏のスウェーデンということで、白夜で夜の二時間以外は、ほとんど明るい時間が続いています。そこに充満しているのは、村人たちの自覚のない静かな狂気。現代社会ではおおよそ考えられないような宗教的価値観こそが怖いのです。


暗いシーンもありましたが、多くが明るいシーンのもので、あまりのイカレっぷりに私の理性も壊れて、終盤はずっと爆笑していました。もちろん心の中で。そして、ラストシーンを観終えたときには、不思議と目の前が開けた感じがしました。この映画は解放の映画だったのだなと明るく映画館を後にすることができました。グロテスクな描写も少なくなかったですし、後ろで見ていた人は気分悪いと言っていましたが、私の心は白夜の空のように晴れていましたね。




この映画の主人公・ダニーは大学生。両親と双極性障害を持つ妹との4人家族ですが、ある雪の晩、ダニーは不慮の事故で3人を失ってしまいます。ここの演出は赤いライトが緊迫感を増していて、良かったですね。恋人・クリスチャンの元で悲嘆にくれるダニー。結論を言ってしまうと、この映画はダニーの喪失からの再起を描いた復活の映画でもありました。誰もが経験する近親者の死からどう立ち直るかを描いていたんですね。その目標が最後に達成されたからこそ、私は晴れやかな気持ちになったのだと思います。


ダニーの家族の死から時間は数か月後に飛びます。大学の友人4人(全員男)といるダニー。友人の一人、ペレの提案でスウェーデンの村で行われる祝祭に、民俗学の論文を書くという理由で訪れます。そして、訪れた村は草原が開けていて牧歌的な雰囲気。日が沈まない白夜。ダニーたち5人は、そこでロンドンから来たもう3人と合流して、大麻?をやります。そこで、ダニーは悪い幻覚を見てしまい、野原を走り回り、駆け込んだ家の鏡に死んだ妹を見てしまいます


この映画って、たぶん鏡が重要な役割を果たしていたと思うんですよね。序盤にクリスチャンの姿が鏡に映っていましたし、5人が集まった部屋にも鏡があった。さらに、その直後も少しずつ鏡は登場していました。村に行く途中のシーンで天地が逆転した構図があったのも鏡の一環と言えそうです。視覚的に目に見えないものを映して恐怖を煽るという効果はてき面でしたね。あと、ちょっと別の意味もあると思うんですけど、それについては後程また触れます。


祝祭は何事もなく和やかに進んでいきます。ただ、食事シーンでのおじいちゃんおばあちゃんが号令を発しなければ食べてはいけないなど、ところどころに不穏な空気を漂わせています。ダニーたちが歩くシーンでもバックになんだか分からない伝承の踊りをそれとなく入れるなど、何見せられてるんだコレ?感はありましたが、少しずつ恐怖は忍び寄ってきました。


ただ、それにしても話が動き出すまでが、いささか長すぎる気はします。実際にタオルの画など伏線になっているシーンはあったのですが、40分ほどはかかっていたような気がします。これも伏線になっているんだろう、観ておかなければと自分を励まし、なんとか起きていられたのですが、正直眠かったです。2時間20分という長めの上映時間ですし、前半部分をもうちょっとコンパクトにやってほしかった気はします。



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ただ、老人二人が謎の神輿に担がれて、山の上に行くあたりから空気は少しずつ変わり始めます。おばあちゃんの方がナイフで手を切って、石碑に血を塗りたくったかと思いきや、崖っぷちへ。飛び降りるのかな、でもこれだけ焦らしているからやっぱり飛び降りないのかも、と思いきや普通に飛び降りて、岩に顔面をぶつけてグロテスクな状態に。ただ村人たちは何も言わず、ただ見守っているだけです。狼狽えるロンドン3人組とは対照的です。私はと言うと「そういえば昨日WHOが、自殺シーンの規制を求めてたなぁ」なんてことを思い出し、妙にタイムリーな気持ちになっていました。キツくはありましたが。


さらに、おじいちゃんの方は飛び降り自殺に失敗してしまいます。そこで、村人たちはブーイング。ハンマーを持ってきて、顔を潰します。餅をつくようにカジュアルに顔を潰すんじゃないよ。狂ってる。潰された顔は原形をとどめておらず、気合の入ったグロテスクさで、耐性がないとここはちょっと注意が必要なところだと感じました。他にも目を背けたくなるようなグロはいくつか登場するので、慣れてない人にはキツイと思います。


狼狽えるロンドン3人組に村人は、これは大いなる喜びなんだと説得します。この村には「ホルガ」という考えが根付いています。それは、人生を18年区切りで4つの季節に分けるという考え方72歳を超えた人間は、自ら死を選んで命を次に繋げていかなくてはなりません。次の命のために死ねるというのは大いなる喜びであるというんですね。「祝祭」はハレー彗星より長い90年周期ですけど、この72年のホルガ+次の命が生まれるまでのもう18年で90年なのかなと。新しい命の誕生を祝う祭りでもあるのかなと感じました。


そして、ダニーは死んだ2人に自らの家族の姿を重ねてしまいます。自らの夢に家族を登場させてしまいますし、「祝祭」に行く前のトイレのシーンからも家族の喪失から復活できていないのは重々感じ取れます。ダニーは立ち直るための「救い」を必要としていましたそこに与えられたのが、ホルガだったわけです。


この「命は輪となって繋がっている」という輪廻みたいな考えに基づいたホルガは、自分と家族の関係が断ち切られてしまったように思えたダニーにとってはとても魅力的な思想だったのでしょう。だから、「もうこんな村いられるか!俺はここを出るぜ!」という展開があっても、一緒にやってきた友人二人が行方不明になったとしても、村から離れることができなかったのではないでしょうか。








私は途中までは何だこいつら?と思っていましたが、途中から理性がぶっ壊れて爆笑しながら観ていたんですよね。まぁそれならしゃあないかみたいな。閉ざされた村では近親相姦の恐れがあるから、外から男を引っ張ってくるって実に理にかなっているなとか思ってしまいましたし、村人たちの儀式が声明をつなぐものだと分かると、これ私たちの社会と何も変わらないなと思って、一気に吸い寄せられたんですよ。次に何が飛び出すのだろうかと言うワクワク感すらありましたね。


友人二人が行方不明になっても、ダンス大会に参加するダニー。それは倒れるまで踊り続け、女王を決めるサバイバルダンス。明らかにヤバい色のお茶を飲み干し(案の定、幻覚系薬物が入っていた)、踊り続けるダニー。どれくらい踊っていたのかは、白夜で空が変化しないのでわかりません。しまいにはダニーは優勝してしまい、女王として花輪を被されてしまいます。


ここら辺からこの映画はヤバさを増してきていて。花輪の花が開いたり閉じたり、幻覚で景色が歪んだりと、ダニーの判断力を奪って村人たちの思うがままにされます。完全に操られていますね。嗚咽するときの侍女たちとのシンクロ率も異常でおぞましいものでした。クリスチャンもクリスチャンで、例のお茶でされるがままにセックスをさせられていましたしね。あそこの裸の女性が10人くらいいる異様な雰囲気凄かったですよね。見たことない。


で、ラスト付近はもう爆笑に次ぐ爆笑ですよね。なんですか、あの花に埋もれたドレスは。生贄の決定方法が抽選という雑さは。お目目にお花。着ぐるみのようなくまさん。映画館じゃなくて、家で一人で観ていたら腹抱えて笑っていたと思います。というかもう明らか笑わしにかかってますよね。これがシュールな笑いかって思いましたもん。やっていることは凄惨なのにコメディですよ、コメディ。


でも、その全てがダニーにとっては救いの行為で。この映画はホルガの考えをダニーが受け入れて、再起する映画で、悲しみからの解放なんですよね。家族と自分の命は繋がっている。そして、生贄になった友人3人+村人たちの命も繋がっている。だから悲しむことはない。全ては輪になっているのだから。そう悟ったダニーのラストの笑顔はとても不気味で、晴れやかなものでした。私もダニーと一緒に晴れやかな気持ちになりましたし、喪失を受け止められそうって感じました。『ミッドサマー』は、ホラーのようでいて、前を向かせてくれるいい映画ですね。観て良かったです



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と、ここまで書いたところで、他の人の感想を見てみると、これは宗教だという感想がありました。確かに、今冷静になって考えてみると、あの村で起こった出来事は倫理的に反しているものばかりですよね。自殺の勧奨。無意味な殺戮。さらには聖典?を書くために、わざと近親相姦して障害のある子どもを産むという行為は現代の倫理では到底受け入れられるものではありません。


ただ、あの村の人たちはそれを当たり前だとして過ごしているんですよね。生活様式、行動様式は宗教化していて、それがダニーたちにも押し付けられる。最初は反発していたダニーですが、心の弱いところに付け込まれ、だんだん違和感を感じなっていく。そして、最後には人を家ごと燃やしたにもかかわらず、あの笑顔。洗脳、もっと言えば入信が完了したとも取れて、背筋が寒くなります。


そして、それは観ている私も同様。だって明らかな雑さに目くじらを立てるわけでもなく、笑って見過ごしてしまっているのですから。違和感はとうに消え、何事もないように受け入れてしまっています。倫理的、社会的に反した行動をスルーする様は、まさしく怪しい宗教にハマっていく様のようです。


でも、だから何だって言うんですか!私が映画を観終わって感じた清々しい気持ちは本物なんですよ!喪失を受け入れる術を提示してくれて、むしろありがたい気持ちですよ!だから、私は私を楽しませてくれた、ためになる認識を与えてくれたこの映画を否定できません!文句があるならかかってこいやあああああ!!!!!!!!


って、こうして人は怪しい宗教にハマっていくのでしょうね。こんな簡単に騙される私は勧誘があれば簡単に入信してしまいそうです。たぶん、そろそろそれっぽい水晶とかよく分からない掛軸とか買わされると思います。もし、街で宗教新聞を配っている私をみかけても、何も言わず無視してくださいね。よろしくお願いします。


どうか、この感想を新興宗教関連の人が読みませんように。



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以上で感想は終了となります。映画『ミッドサマー』、怖いのはグロぐらいなので、ホラーが苦手な人にもお勧めできますが、注意してみないと心を持っていかれる作品です。観るときはぜひとも心して観てください。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。昨今はコロナウィルスが猛威を振るい、Jリーグなどのイベントにも影響が出ていますが、そんなことは知らないふりをして、私は今日も映画館に行っていました。たぶん明日も明後日も行きます。


そんな三連休初日、私が見た映画は『Red』。直木賞作家・島本理生さんの同名小説を、『幼な子われらに生まれ』の三島有紀子監督が映画化した一作です。去年『ブルーアワーにぶっ飛ばす』を観て、より好きになった夏帆さんが主演とあれば観ないわけにはいきません。


そして、観たところ想像を超える好きな映画でした。今年は『ラストレター』や『ロマンスドール』など邦画の恋愛映画に良作が出てきていますね。良いことです。


それでは感想を始めたいと思います。なお、原作は未読です。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・赤は不完全燃焼だと思う
・塔子を取り巻く三人がとても良い
・ジェンダーロールからの解放と迷い
・『ホットギミック ガールミーツボーイ』を思い出した
・男女を越えた根源的な問いが投げかけられている





―あらすじ―

大雪の夜、車を走らせる男と女。
先が見えない一夜の道行きは、ふたりの関係そのものだった。


誰もがうらやむ夫、かわいい娘、“何も問題のない生活”を過ごしていた、はずだった塔子。
10年ぶりに、かつて愛した男・鞍田に再会する。
鞍田は、ずっと行き場のなかった塔子の気持ちを、少しずつ、少しずつほどいていく…。
しかし、鞍田には“秘密”があった。
現在と過去が交錯しながら向かう先の、誰も想像しなかった塔子の“決断”とは――。

映画オリジナルの愛の行方、その結末に、切なく、心揺さぶられる。


(映画『Red』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。













・赤は不完全燃焼だと思う


タイトルである『Red』が指し示す通り、この映画には実に多くの赤が登場しました。赤い布、トンネルを始めとした赤い照明、クリスマス、赤ワイン、コーラの缶に橋桁。そして、流れる血。大小合わせればこの映画に登場した赤は枚挙に暇がありません。その赤の中でも私が印象に残ったのは、煙草の火やライターの炎といった赤です。


赤は情熱的な色と見られ、燃え盛る熱情を表していると一般的に見られています。ですが、私にはこの映画が持つ赤の意味合いは、それとは違っているように感じられたんですよね。燃えてはいるものの、それは不完全燃焼なのではないかと。


これは生活の知恵としてお馴染みですが、ガスコンロの火は青ければ安心とされていますよね。ちょっと調べたところ、炎の色は基本は青だそうです。酸素が足りていないときに炎は赤く燃えるそうで、これが塔子をはじめとしたキャラクターの心情を物語っているような気が私にはしました。酸素を求め、もがき揺らいでいる姿がそっくりだと感じたんです。


この映画の主人公・村主塔子は一流商社勤務の夫を持ち、娘もいて、傍から見れば幸せそうに見える生活を送っています。あの『パラサイト』を思い起こさせる豪邸からも、その裕福さが分かります。ただ、姑からのプレッシャー等もあり、現状を幸せとは明言できない様子。出産を機に仕事も辞めて、モヤモヤした不完全燃焼の日々を送っています


この映画で、その塔子を演じたのは夏帆さん。元々個人的に好きな女優さんだったのですが、映画を観て「この映画は間違いなく夏帆さんの代表作になる」と確信しました。ちょっとした仕草や今までのイメージを拭い去るような大胆なベッドシーンなど観ていただきたい箇所は山ほどあるのですが、一番はその表情ですよ。


あの心の機微を正確に映し出すかのような表情。同じ焦燥でもその全てが微妙に違う。観ていて素直に圧倒されました。今年観た映画の中でも、本職女優さんというくくりの中では一二を争う強い印象を残しました。ブルーリボン賞などの映画賞を受賞してくれるといいなと思います。単純に。



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・塔子を取り巻く三人がとても良い


この映画は屋外の雪のシーンからスタートします。風に舞う赤い布。結ばれている木材から離れ、電話をしている塔子の元へと飛んでいきます。そばにいたのは夫の真ではなく、10年ぶりに再会した鞍田でした。この映画はその後も少しずつ、塔子と鞍田が雪道を走るシーンを挿入してきて、この演出は少しずつ期待を煽っていくようで好きでしたね。夜の雪道と言うのはそれだけで危険なムード満点ですし、赤いトンネルの光も「ハレルヤ」の緩やかな曲調も心に残りました。


さて、前述したように塔子は主婦として何不自由ない日々を送っています。しかし、不満はどことなく燻っている様子。ある日、夫の付き添いで訪れたパーティ(?)で、10年前に愛し合っていた鞍田と再会します。再開するやいなやいきなり激しいディープキスを二人はかましていて、びっくりしたと同時に色めき立ちました。


その鞍田を演じたのは妻夫木聡さん。言わずと知れた日本を代表する俳優さんでしたが、今回もさすがの演技を見せていました。40歳目前ということで、安定した演技を披露するのかなと思いきや、この映画ではわりと不安定に揺れ動いているんですよね。語る言葉の節々にもどこか迷いがあって、ベッドシーンも振り切れきれていない切なさみたいなものを感じました。


また、この鞍田と肩を並べる小鷹を演じた柄本佑さんと間宮祥太朗さんも良くて。小鷹は鞍田の事務所の従業員で、塔子に思いを寄せているのですが、柄本さんの演技は塔子の良き理解者という感じ。その風貌もあってかっこつけたいのにかっこつけられない空気が好きでした。それでも男女関係を意識しているところは、等身大として見えましたけどね。比較的軽いキャラクターで映画の良いアクセントになっていました。


加えて塔子の夫・真に扮した間宮祥太朗さんの好青年感よ。見るからに仕事ができそうな雰囲気を醸し出しています。でも、その反動なのか、家庭にはけっこうノータッチな部分があり、価値観も前時代的。この映画では真はヘイトを集める役割も担っていたと思うのですが、間宮さんの真摯な演技がその役割を十分に果たしていた印象です。あと、直近で観た間宮さんは高校生の役を演じていて(『殺さない彼と死なない彼女』)、演技の幅が広いなぁってバカみたいに思いました。



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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・ジェンダーロールからの解放と迷い


映画に話を戻します。塔子は鞍田の事務所で臨時職員として働くことになり、鞍田との関係をより深めていきます。趣味で家の模型を一緒に作ったり、鞍田の家で激しい行為をしたり。一方、仕事も順調で、正社員にもなり浮かれ気分の塔子。しかし、その間に娘が幼稚園のジャングルジムから落ちて怪我をしてしまいます。真は、塔子が仕事で遅くまで残って迎えにいかなかったからだと塔子を責めます。この辺りから真と塔子の夫婦仲に徐々に亀裂が入っていきました。


真が言うには、仕事に勤しむ塔子に、家庭を疎かにしていない?と。「塔子らしくないよ」と。ここでこの映画のテーマが浮かび上がってきました。それは役割です。この映画で描かれた役割は「男は外に出て働き、女は家で家事に勤しむ」という前時代的なジェンダーロールです。それは、優位な立場にある(と見られている)男性が勝手に規定したルールで、塔子の主体性は奪われてしまっています。「良妻賢母」に落とし込められています。


これは、大雪で出張している新潟から塔子が帰れなくなったシーンもそうでした。新幹線が運休になり、塔子が電話をすると、真はなんとか帰ってきてくれないかと。その心は娘を迎えに行ってほしいから。なぜなら、塔子は「母親」だから。塔子も言っていた通り、真だって「父親」なのに、その役割を半ば放棄して。ガッチガチのジェンダーロールに塔子は縛られてしまっているんですよね。で、雪の中帰りざるを得ないと。


この映画で描かれたのは、そんな塔子のジェンダーロールからの解放でした。雪の中を進む塔子の前に現れたのは鞍田。持病が悪化し、病床に臥せっているはずの鞍田です。鞍田は塔子を乗せて東京へと帰ろうとするその途中。塔子は公衆電話から真に電話をかけます。両者譲らない静かな水掛け論を繰り広げた後に、塔子は真に「結婚って何?」と問いかける。


真の煮え切らない答えは、塔子を一生「妻」として、「母」として固定するものでした。でも、塔子だって一人の人間で自由意思があります。自分の人生をそんな言葉で決めつけられたくないとでも思ったのでしょうか、塔子は電話を切って結婚指輪を公衆電話に置いていきます。それは塔子の主体性を持った判断で、「良妻賢母」というジェンダーロールからの解放でした。しかし、正直、当の塔子はこれでいいのか迷っていたように私には思えるんですよね。不完全燃焼を示す赤い布が飛んできたことも、そのことを示唆しているように感じられました。



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・『ホットギミック ガールミーツボーイ』を思い出した


この映画を観て思ったんですけど、この映画って去年公開された『ホットギミック ガールミーツボーイ』と構図的に似ているように感じたんですよね。両映画とも一人の女性を三人の男性が取り巻くという構図は一緒ですし、間宮祥太朗さんは両映画に出演しています(これはあまり関係ないけど)。観ている最中、いや観る前からあらすじを読んでいて「この映画は大人の『ホットギミック』だ」と感じていたんですが、今考えるとそれもちょっと違うなと。


最初は大人って子供より縛るものが多いから大変だなあ、よりキツくて生々しい『ホットギミック』だなあぐらいに感じていたのですが、思えば『ホットギミック』も大概生々しかったですし、子供だからといって縛るものが少ないわけじゃないなって。大人は家庭や仕事に縛られているけど、子供だって勉強だったり学校という狭い中での友達関係に縛られていて、そのキツさってあまり変わりないんじゃないかと感じました。つまり縛るものの種類が違う。大人は「大人の女性像」、子供は「少女性」というよく分からないものにそれぞれ縛られている。


そして、この両映画は主体性を持って、自らの足でその呪縛を抜け出すことを描いているわけなんですが、ぶっちゃけこれって誰でも同じだと思うんです。ジェンダーロールなんて不明瞭な言葉を使わなくても、「キャラ」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。


自分はこういうキャラだからと、心に南京錠を取り付けて、本当の願望を封印している。「キャラ」とは個性じゃなくて、集合体の中で与えられた役割に過ぎないと私は思っていますし、そこからの解放という意味ではきっと多くの人が思い当たる節があると思います。結婚とか不倫とかわりとどうでもいいなぁと思っている私ですら、そうなのですから。



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・男女を越えた根源的な問いが投げかけられている



あと、この映画を観て「フェミニストと呼ばれる人たちは喜びそうだなぁ」とも思いました。だって、この映画で描かれていることって男女が逆転したら叩かれそうなことじゃないですか。不倫って。
現実問題として、直近で不倫をした某俳優さんとその相手の方は必要とされる量の三万倍くらいのバッシングを受けていますし、女性が不倫をしたらいいのかと言われれば、それはそれで叩かれる。まあ私は結婚という制度自体に興味がないですし(相手がいないということもある)、完全なる他人事だからどうでもいいんですけど、そんな私でも嫌になるくらいの過熱ぶりですよ。


今、「フェミニズム」という言葉を電子辞書で引いたら「男女同権主義」とか「女性解放思想」とか、私の文章力では手に余る言葉が出てきたんですけど……。シンプルに言えば「良いことも悪いことも男女に等しく与えられるべき」みたいなことでいいですかね……。


ほら、最近某アニメのポスターで一騒動あったじゃないですか。性的消費だーみたいなことをフェミニストの方たちが声高に叫んで、ポスターが取り下げられた騒動。5年ぐらい前から何も変わってないなーって、正直辟易しているんですけど。なんか女性が良いことばかりを享受すべきみたいな女性優位の発想になってない?男女同権じゃなくない?みたいに思って。というのも……。


まあここからの話はいろいろ面倒なので止めときましょう。私が言いたいのは、この映画を観て「女性解放だー」みたいな単一的な見方をするのは違うんじゃないかってことなんです。もっと性別に依らない根源的な問いだと思うんですよね。男女以前に一人の人間としてどう生きるのかという。そこが男女に縛られていると見えてきにくいんじゃないかなというのは思います。フェミニズム的でいて、実のところ現代社会で暮らす私たちへの普遍的な問いを投げかけている映画だと私は感じました。フェミニズム思想に縛られると、窓から外を覗いたように一部分だけしか見えないですよ、この映画は。


だから、私はこの映画が好きなんですよね。自分にも当てはまる問題提起がなされて、その答えを、迷いながら、揺らぎながら、もがきながら主人公が出していて。最後は悲しいシーンなのになぜか勇気づけられましたもん。だって、不完全燃焼のままでも「行きましょう」という決意を固めたんですよ。最後に白い灰になろうが、黒い炭になろうがそれは知ったことではない。主体性を持って選んだ結果なら悲しくても受け入れなければ。そんなメッセージを私はこの映画から受け取りました。


今年観た映画の中でも結構上位に食い込んでくるほど好きです。本当にありがとうございました。夏帆さんだけでも何らかの賞を取ってくれることを願ってます。



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以上で感想は終了となります。映画『Red』、個人的な好みにドンピシャで当てはまった作品でした。R15ということもあり、人を選ぶかもしれませんが、個人的にはぜひともお勧めしたい映画です。よろしければ映画館でご覧ください。

おしまい 



Red (中公文庫)
島本 理生
中央公論新社
2017-09-22



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こんにちは。これです。今回のブログも映画感想になります。


今回観た映画は『‶隠れビッチ″やってました。』。そのタイトルからしてスルーする気でいたのですが、去年、ツイッターでの評判が結構良かったんですよね。なのでにわかに気になってはいて、地元でも公開されたこのタイミングで観に行ってきました。結論から申し上げますと、ツイッターの映画好きの人たちを信じて良かったと思える映画でした。ありがてぇありがてぇ…。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―


26歳の独身女・ひろみの趣味&特技は異性にモテること。 絶妙のタイミングでのスキンシップや会話術で相手を翻弄し、「好きです」と告白させたら即フェイドアウト。 そんなひろみに、シェアハウス仲間のコジと彩は呆れ顔で「最低の“隠れビッチ”ね!」とたしなめるも、彼女の耳には届かない。 ある日、気になるお相手・安藤が現れるも、数年ぶりの負け試合。 さらに安藤を本気で好きになっていたことに気づき、ショックを受ける。 やけ酒をあおり酔いつぶれているところを、同じ職場の三沢に目撃され、すっかり醜態をさらしてしまう。 ひろみは“隠れビッチ”だということを打ち明け、封印してきた過去と向き合い始める。 本当のしあわせに気づいた時、彼女が出した答えとは…。

(映画『‶隠れビッチ″やってました。』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











さて、『‶隠れビッチ″やってました。』、実際観てみたところ、想像以上に重たい映画でした。男を弄ぶ隠れビッチな主人公が、本当に愛し愛されることがどういうことなのか知る映画だとは予想していましたが、これほどまでにキツイとは。因果応報に見えるのですが、誰が悪いとは一概には言えない物語。途中からあまりのしんどさに頭が考えることを拒んでいる状態でした。


この映画は漫画家あらいぴろよさんの実話コミックエッセイが原作となっているそうですが、もしこれが実体験だとしたら、かなりハードモードな人生送ってませんか?凄い大変だったと思うんですけど。でも、他の著作を見ても「ワタシはぜったい虐待しませんからね!」や「美大とかに行けたら、もっといい人生だったのかな。」など胸に来るようなタイトル。最新作に至っては「虐待父がようやく死んだ」ですからね。どうやら本当に実体験みたいです。考えただけで苦しい気持ちになってしまいますね。実際、自分のことが好きになれない人をグサグサと刺してくる映画でしたし。




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この映画の主人公・荒井ひろみは外面は良いですが、本性は体の関係こそ持たないものの何人も相手をとっかえひっかえするどうしようもない女性です。彼女にとって男性は、ただ好きと言って自らの承認欲求を満たしてくれれば、そこでおしまい。SNSの「いいね!」ボタンにも似た単なる数で、人間としては見られてはいません。きつい言い方をしてしまうと。恋愛の悪戦苦闘、艱難辛苦、悶絶僻地は自分が傷つくからスルー。上澄みだけを味わうムカつく女性です。


この腹の立つひろみ像に説得力を与えていたのが、今作が映画初出演となった佐久間由衣さんの演技でしょう。正直ちょっとオーバーでうるさいなと感じた部分もあったのですが、それもキャラのうちと見ればプラスに評価できます。隠れビッチをしているときの清楚な感じと、オフモードの雑な感じはまるで別人のようでした(これはメイクも多分にあるんでしょうけど)。酒によって寝っ転がるなどわりと体当たりな演技が好感が持てます。まざまざとしたキレっぷりに説得力があって好きでした。『光のお父さん』では見られなかった部分で、これからの活躍にも期待が持てますね。


ひろみはありとあらゆる手段を使って、男性を誘います。肌の露出は15%、相手に合わせて対応を変えるべしなど、役に立つんだか立たないんだか分からないテクニックを使って、男から「好きです」の言葉を引き出します。自分が愛されていることを実感できれば、ひろみにとってはそれでオーケー。あとはとりあえずキープしておいて、適当な時に振る。電話越しで、脚を掻いたり鼻をほじりながら、でも声は猫なで声で。その姿は同居人の木村彩に「サイテーの隠れビッチ」と言われても仕方のないほどでした(この彩を演じた大後寿々花さんのきつめの雰囲気も良かった。眼鏡好き)。


ただ、この辺りSNSやブログをやっている身としては共感できてしまうんですよね。私もリツイートやいいねがほしいですし、ブログも読まれてほしいですから。リアルで誰かに認められている感覚がないから、SNSという場に承認を求めるんですよね。なので、私は承認を求めてさまようひろみのことを強く言うことはできません。序盤から彩が「それって本当の自信なの?」「自分からは逃げられないんだよ」(どちらも意訳)と結構刺してきますし、この時点で好きそうな雰囲気はビンビン出ていました。









デパートのケーキ売り場で働くひろみ(男性についたその場凌ぎの嘘かと思いきや案外本当だった)。売れ残ったケーキをどうしたらいいかと思っていると、上司の三沢光昭に「他の売れ残りと交換してみたら」という助言を貰います。さっそく惣菜売り場で焼売と交換。売れ残った焼売にも優しく声をかける安藤剛に一目惚れをしてしまいます。


喫煙室でライターを拾わせるなどアプローチをするひろみ。安藤もひろみになびき、二人は付き合い始めます。この付き合っている過程が無駄にロマンチックだったんですよね。バイクに二人乗りをして聞こえる聞こえないとカップルかよというやり取りをしたり、海辺で夕陽をバックにキスをしたり。まあこのままハッピーエンドで行くわけがないというのは分かっていたので、それほどムカつかずに見れたんですけどね。逆に笑ってしまうほどでした。


安藤は美容師志望。デパートのバイトも辞めて転職するなど、その本気度はイラストレーターになりたいといいながら、何もしないひろみとは雲泥の差です。ひろみはそんな安藤を眩しく感じ、何もない自分にコンプレックスを感じてしまいます。手っ取り早くイラストレーターになる方法はないかと探したところウルトラデジタル学院というクッソくだらない名前の専門学校の広告が。さっそく願書を出しに行きますが、安藤がバイクに別の女性を乗せているところをひろみは目撃してしまいます。それは、あたかも何股をも掛けている罰が当たったかのように。


安藤とはすっかり疎遠になってしまい、むしゃくしゃして公園で悪酔いをするひろみ。一緒にいた男にも逃げられてしまいます。酒を飲んで寝っ転がったりと結構振り切った演技を佐久間さんはしていましたが、その辺の木に「好きだったのに」とこぼすシーンは胸に来ましたね。好きになるということは、裏を返せば、別れたときに傷つく恐れがあるということ。それはチヤホヤされたい彼女にとっては御法度。私も同じようにチヤホヤされたいですし、それが裏切られたとなれば、痛い思いをするのも当然です。性別こそ違いますが、私はこの辺りまではひろみに共感しながら観ていました


泥酔しているところを助けたのは上司の三沢。もう本性知られちゃったしいっかと、翌日の食堂でひろみは三沢に隠れビッチであることを打ち明けます。ただ、三沢はそんなにはダメージは受けていない様子。それどころか、イラストという自分にできることを知っているひろみが羨ましいと好意的な気持ちを向けます。微かに訪れた受容の兆し。




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そんなある日、ひろみがシェアハウスに帰ると彩が連れ込んだ男性とセックスをしていました。ただセックスをしていても付き合っている様子はなく、彩も彩で傷つくのが怖くて一歩踏み込めない、このままの関係をキープしたい感じ。それをひろみは「何それ」と嘲笑。いや、「好き」と言われて満足して、付き合わないひろみだって同じ穴のムジナでしょう。人のこと言える立場じゃないですよ。


売り言葉に買い言葉で彩も反論し、二人は取っ組み合いのケンカを始めてしまいます。まあこのケンカはもう一人の同居人・小島晃が二人に文字通り冷や水をぶっかけることで収まったんですけどね。そんな方法あったんだ。床はびしょぬれになるけど、なんというウルトラC。


小島は二人を座らせ、ホットドリンクを出して宥めます。映画では特に言及されていませんでしたが、公式サイトを見ると小島はバイセクシャルのようで。どおりで言葉が柔らかったわけだ(実際のバイセクシャルの方があんな喋り方をするかどうかは知りませんが)。演じた村上虹郎さんもいい味出してました。


それはそれとして、小島は二人にこう諭します。「男に依存し過ぎているんじゃないの?」「女である前に一人の人間として生きなさい」と。自身の評価を他者に依存してしまえば、誰からも評価されなくなったときに、自分の姿が見えなくなってしまう。他者がいなくなれば自分もいなくなってしまう。性別やその他諸々のレッテルに縛られて、その範囲内でしか動けなくなってしまう。本当はレッテル外の部分もあるのに。


他者からの「好き」や「いいね!」という評価に依存しているひろみ、そして私にとっては耳が痛い言葉です。自分の軸を他人に委ねるなと言うことですよね。その通りなだけに少し拒否反応を示してしまいます。私だったらウジウジ悩んでいただろうに、切り替えて「イラストレーターになるぞ」「一人の人間として生きるぞ」と宣言できるひろみは偉いですよ。サバサバした性格が力強かったです。










ひろみは三沢とその同僚の前で、デパートの仕事を辞め、イラストレーターになると宣言します。ここで三沢から「好き」という告白が。自らが欲していた言葉のはずなのにひろみは戸惑います。表面的な隠れビッチとしての自分ではなく、本性を好きと言われたのですから。それは博美にとってははじめての経験でした。その帰り道で、ひろみは三沢からキスをされます。そのままなし崩し的に二人は付き合い始めることになります。(ちなみに、三沢を演じたのは森山未來さん。純朴な演技が良かったです)


眼中になかった三沢と付き合い始めたひろみですが、その生活はなかなか順風満帆とはいきません。頼んだ牛乳を買ってきてくれなかったり、食事を用意して待っているのに帰れないと言われたり、(ひろみにとっては)嫌なこと、苦しいことばかり起こるんですよね。ここでひろみがどうしたかって言うと、もうブチギレですよ。些細なことでも口やかましく責めて、相手の話なんて一切聞かない。この辺りの佐久間さんの演技は光っていたと思います。


でも、これ凄い分かるんですよね。だって私もああいうキレ方しますもん。特にふざけんなふざけんなとブツクサ言いながらカレーを捨てるところなんて、私かな?って思いましたし。実際、昨日トイレットペーパーがなくてふざけんなってキレましたし。ここで、共感はさらに深まりましたね。その分、この後の展開がきつかったのですが。


ひろみは三沢に「私のことちっとも気にしてないじゃない」「もっと私のことも考えてよ」と三沢に迫るんですが、これってひろみに弄ばれてきた男性たちの気持ちそのまんまなんですよね。いざ深く付き合うとなると、(勝手に)傷つくような出来事がどんどん出てきて、余裕がなくなっていく。しっぺ返しを食らってしまうんです。ひろみの放つ言葉の一つ一つが鋭利なブーメランになって、自分をグサグサ刺しているんですよね。


それに「もっと私のこと考えて」っていうのは他人からの評価を気にしている証ですよね。一人の人間として生きると宣言したはずなのに、ひろみは未だに男性依存、他社からの評価依存から抜け出せていないんですよ。同じところを堂々巡りであがいているひろみはもう見ていられません。そして、それは他者からの評価を気にしまくる私を見ているようで、とてもしんどかったです。脳が途中から考えることを拒んでいましたもん。こんなヒロイン認めたくないって。自分の足で立つことができない、そんな弱さなんて見たくないですから。




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その横暴なひろみの態度に三沢は、一か月間距離を置こうと言います。ここは今までにない間を取ったやり取りで新鮮味がありましたが、ひろみは深く傷ついてしまいます。そこにかかってくる母親からの電話。父親がガンで倒れたという知らせでした。ここからいよいよ映画は核心に迫っていきます。それはひろみの根幹にもかかわる問題でした。


父親はひろみと妻にDVを振るっていました。泣き叫ぶひろみにすすり泣く妻。それでも、父親は暴力を止めない。この悲惨な回想が序盤にも挟まれていて、観ていて辛くなります。ひろみは父親のことをクソ親父と断罪しています。ひろみは父親から愛情を注がれていなかったのです。そんなひろみの心はがらんどう。満たされなかった愛情を補填するために、ひろみは男性からの「好き」を摂取する隠れビッチになってしまったのです。しかし、いくら「好き」と言われても、チヤホヤされても親からの愛情というのは代替不能なもので、ひろみが満たされることはありませんでした。今でもトラウマを夢に見るなど、克服できていない様子です。


ひろみはガンになった父親に、保険の書類か何かを書いてもらいます。そこでひろみは自分と父親の字がそっくりであることに気づきます。そして、自覚するんですよね、私は父親の血を引いているって。理不尽で一方的なキレ方も父親譲りのものであると。あれだけ忌み嫌っていた父親のDNAが自分にもあることを知り、ひろみはその事実に耐え切れずに吐いてしまいました。観ている私も愕然として、戦慄ですよ。私と同じキレ方だなぁと逃避のように軽く見ていたのに、それが根底からひっくり返されるんですもん。私は虐待された経験はないですが、身につまされる思いがしました。


でも、この映画の性質悪いところというか、単純じゃないのが誰が悪いって決めつけることができないことだと思います。もちろん、DVを振るう父親を分かりやすく悪者とみなすことは簡単ですし、DVという行為自体はあってはならないものです。それでも、あくまで想像の範疇ですが、父親は父親で満たされない思いを抱えていたと思うんですよね。隠れビッチとして承認や愛情を求めるひろみと同じように。無職みたいでしたし、社会に必要とされていないという思いがあったのでしょうか。その行き場のない怒りが家族に向けられてしまって、ひろみを隠れビッチにしてしまった。こんなもの悲劇の連鎖ですよ。やりきれないですよ。


自分の根幹を知って、いや、初めて目を向けて凹むひろみ。あっという間に1ヵ月が過ぎ、シェアハウスに三沢がやってきます。川沿いのベンチに座る二人。三沢はひろみのことが必要だと言い、弱さと向き合っているところも、そこから逃げているところも好きとひろみを認めます。女性じゃなくて、一人の人間として認めるんですよ。完全なる受容であり、個人の尊重ですよ、これ。


それは真に相手のことを思っていなければ出来ないこと。愛情と呼ばれるものでもあるのでしょう。ひろみは表面も本性も全て含めてを三沢に受け入れられた。初めて本当の愛情を感じることができたんですよね。ずっと認めないぞと思ってきた私でも、これには良かったなぁと泣きそうになりました。人間関係の一つの理想ですよね。映画でぐらい理想描かないと、ですよ。


この映画って本編のラストシーンもまた良いんですよね。最初のシーンと同じアングルで対比になっているんですけど、最初が夜で最後が昼で。まるでずっと暗闇の中にいたひろみに光が差し込んだみたいじゃないですか。ひろみの成長を感じられて、胸が暖かくなりましたよ。








思えば、この映画はタイトルでかなり損をしていると思います。観る前はもっと別のタイトルにした方が良かったのでは...と感じていたのですが、観終わった後ではこのタイトルで正解だとさえ思えます。隠れビッチという上っ面で隠していた、満たされていないから承認を、愛情を求めてしまうという自分の弱さ。その隠していた弱さに目を向け、対峙する決意ができたとき、小さなしあわせが訪れる。


この映画は「人生で一番大事なことは自分の弱さに気づくこと」という言葉で締めくくられました。多くの人間が満たされていないからこそ、その弱さに気づいて素直になることができれば、そしてそれを受容することができれば、もしかしたらささやかな変化がもたらされるのかもしれませんね。



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以上で感想は終了となります。映画『‶隠れビッチ″やってました。』、もう全国でも三館ぐらいしか上映していませんが、5月13日にDVDが発売される様子。刺さる人も少なからずいると思うので、よかったら観てみてはいかがでしょうか。良作ですよ。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 



“隠れビッチ”やってました。
あらい ぴろよ
光文社
2016-12-16



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こんにちは。これです。バレンタインデーは鬼籍に入った。俺たちの勝利だ。


今回のブログも映画の感想です。今日観た映画は『影裏』(「えいり」と読みます)。『るろうに剣心』の大友啓史監督が、沼田真佑さんの芥川賞受賞作である同名小説を映画化した一作です。正直観る前はそれほど期待しておらず、他に観たいものもないから観に行くかぐらいのテンションでしたが、観てみたら想像を超える良作でした。いやー見逃さなくてよかった。疲れたけど。


それでは感想を始めます。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・俳優さんたちの静かな熱演がいい意味で疲れる
・想像以上に強いブロマンス要素と岩手の自然をそのまま写した撮影
・テーマを背負った照明が素晴らしい
・照らされる光は生の象徴





―あらすじ―

今野秋一(綾野剛)は、会社の転勤をきっかけに移り住んだ岩手・盛岡で、同じ年の同僚、日浅典博(松田龍平)と出会う。慣れない地でただ一人、日浅に心を許していく今野。二人で酒を酌み交わし、二人で釣りをし、たわいもないことで笑う…まるで遅れてやってきたかのような成熟した青春の日々に、今野は言いようのない心地よさを感じていた。

夜釣りに出かけたある晩、些細なことで雰囲気が悪くなった二人。流木の焚火に照らされた日浅は、「知った気になるなよ。人を見る時はな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ」と今野を見つめたまま言う。突然の態度の変化に戸惑う今野は、朝まで飲もうと言う日浅の誘いを断り帰宅。しかしそれが、今野が日浅と会った最後の日となるのだった—。

数か月後、今野は会社帰りに同僚の西山(筒井真理子)に呼び止められる。西山は日浅が行方不明、もしかしたら死んでしまったかもしれないと話し始める。そして、日浅に金を貸してもいることを明かした。日浅の足跡を辿りはじめた今野は、日浅の父親・征吾(國村隼)に会い「捜索願を出すべき」と進言するも、「息子とは縁を切った。捜索願は出さない」と素っ気なく返される。さらに日浅の兄・馨(安田顕)からは「あんな奴、どこでも生きていける」と突き放されてしまう。

そして見えてきたのは、これまで自分が見てきた彼とは全く違う別の顔だった。

陽の光の下、ともに時を過ごしたあの男の“本当”はどこにあるのか—。

(映画『影裏』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。










・俳優さんたちの静かな熱演がいい意味で疲れる



観終わってまず一言。疲れました。2時間超えというその長さ。俳優さんたちの緊迫感のある演技。映画を通して流れる不穏な空気。余白もかなり多く、観ていて集中力を必要とします。それでも、俳優さんたちの静かな熱演を通して映画に没入することができ、体感時間はわりあいに短かったです。その分観終わった後には心地よい疲労がありましたね。昨日『1917 命をかけた伝令』を観て、あの映画も疲れる映画ではあったんですが、疲労はこちらのほうが感じました。


まず、この映画の長所として挙げられるのは俳優さんたちの静かな熱演でしょう。この映画では、綾野剛さんと松田龍平さんがW主演を果たしています。二人ともいわずと知れた名優さんですが、今作でも期待に応える演技を披露していました。


盛岡に赴任してきたサラリーマン・今野秋一を演じたのは綾野剛さん。序盤のいかにも虚無という感じの視線からまず引き込まれましたし、そこから日浅と出会ったことで徐々に顔に生気が宿っていくのが良きでした。今作では役的に少し明るい場面も見せているのですが、それが心に沁みましたね。でも、全体を通して宙に浮いているような、地に足がついているような微妙な佇まい、根暗とはまた違う、を見せていて、こういう役をやらせたらやっぱり安定して上手だなと思わされます。


その今野と親しくなる日浅典博を演じたのは松田龍平さん。今作の松田さんは、少し髪を伸ばして、人は良いんですが、どこか危険な雰囲気を感じさせます。何気ない口調の中にも、いつキレるか分からないという怖さ、不穏さがありましたね。さりげない一言一言にキレがありました。ヘビースモーカーと言う設定でしたが、煙草を吸う姿も実に自然で日浅というキャラクターの背景を感じさせます。


さらに脇を固める俳優さんたちも、筒井真理子さん、安田顕さん、國村隼さんといったベテラン俳優さんたちが、流石の演技を見せるのもこの映画の見どころ。筒井さんは(比較的)気の良いおばちゃんでしたが、安田さんと國村さんは映画の後半になって登場し、重厚な演技を披露。息を呑むほどの緊迫した演技は、映画を厳かに彩ります。また、中村倫也さんが予測がつかない役柄で登場するので、そちらも見ていただきたいところです。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・想像以上に強いブロマンス要素と岩手の自然をそのまま写した撮影


さて、ここからはストーリーの話をしたいのですが、正直概要は上記のあらすじが8割ほど言っちゃってるんですよね。もちろん隠している部分もありますが、全体としてはそこまで書いちゃうんだと思うほどのネタバレ具合です。そもそも、この映画は日浅の正体を探ることがメインストーリーではないですしね。尺も日浅が行方不明になる前の描写に多くが取られていました。


この映画を観て意外だったのが、今野と日浅の友情が思っていたよりフィーチャーされていたことです。ある日会社でなんて事のない出会いをした二人。そこから徐々に距離が近づいていき(正直序盤はウトウトしていたのでこの辺あまり覚えてない。ごめんなさい)、一緒に釣りに行ったり、祭りを観に行ったり、酒を飲み交わしたりします。それは、今野が今まで感じたことがない遅れてきた青春です。


この映画で際立っていたのが、今野と日浅のブロマンス的な間柄。BLとはまた違う、もっと落ち着いて展開ですね。でも、「だーれだ?」と今野が日浅の目を隠すシーンや、釣りでワイワイするシーン。さらには少しドキドキするシーンもあったりして、そういう趣味がなくても思わず心動いてしまうほどです。この辺は明るくポップでしたね。こんなブロマンスだなんて聞いてない。でも、綾野剛さんと松田龍平さんのブロマンスが嫌いな人がいるだろうか。いや、いない。二人の日常的な演技も合わさって魅力はすごいありました。


その二人と同じくらい魅力的だったのが、岩手というロケーションです。古本屋やジャズ喫茶など、その街並みの雰囲気の良さは抜群。特筆すべきはその自然で、少し車を走らせれば、釣りができる渓流がどこにでもあり、二人の関係性を物語るのに大きな役割を果たします。


この映画は岩手の自然が俳優さんたちと同じくらいこの映画の立役者となっていました。人間の表と裏以外のもう一つのテーマを語るのにこの自然はうってつけでして、特に川が流れるシーンはかなりの頻度でインサートされたり、SEでも水の流れる音が何回か流れます。この自然をありのまま映した撮影は、今年の邦画の中でもかなり高いレベルにあると感じました。これはあらすじを読んでも分からない部分であり、映画館で確かめるしかないところですね。芦澤明子さんを始めとした撮影の方々に盛大な拍手を。


あと余談ですけど、この映画はテレビ岩手の開局50周年作品として銘打たれていますが、岩手の自然の魅力を映し出すことに大成功していました。実際そういうオーダーがあったのかどうかはわかりませんが、これにはテレビ岩手の人もホクホクでしょう。ちゃんと残る作品になっていると思います。




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・テーマを背負った照明が素晴らしい


ただ、そのブロマンスもいつまでも続くわけではありません。中盤で起こる東日本大震災によって、この映画はその重さを増していきます。震災発生当時、釜石に営業に出ていた日浅は行方不明となってしまいます。一人取り残される今野。彼に告げられたのは、今まで知らなかった日浅の別の一面でした。


日浅は同僚の西山に金を借りていました。大学の卒業証書を偽造し、四年間父親から学費を騙し取っていて、親子の縁を切られていました。兄ともあまり親しくありません。日浅は今野が思うような良い人間ではなかったのです(このことをそれとなく感じさせる松田龍平さんはやっぱり上手い)。


ここで思い起こされるのが、予告編にもあった日浅のこのセリフ。


人を見るときはな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ


自分に理想の親友という幻影を描いていた今野に、日浅が突き付けたこの言葉。確かに人間は一面的なものでは測れないでしょう。どんな人間にも人には見せていない隠された側面があり、もしそれがなければプログラムされた言葉を吐き出すただのロボットと同じだと思います。この映画の今野だって、観客に全てを見せているようでその実、映画の外では別の側面を見せているかもしれません。


そして、その影の一番濃い所を見るためには、今いる場所に安住するのではなく、裏に回り込まなければいけない。誘導尋問みたいな言葉を問いかけて、別の面を引き出したり、日常から逸脱した行為を投げかけて、いつもとは違う側面を垣間見たり。それはとても勇気のいることで、もしかしたら相手から拒絶されてしまうかもしれません。知らないでいた方が幸せなこともある。でも、踏み込んだり、さらけ出したりすることで、より相手のことを理解できる。


その事を象徴していたのが、今野の旧友である副島でしょう。中村倫也さんが演じたこの副島は実は性転換手術をして、男性から女性になっていたんですね。明言はされていませんでしたが。副島は今まで今野に見せていなかった女性という面をさらけ出しました。そして、今野も別れ際に「ハグして」と自らの副島に抱いた思いを明かす。今野にとってはそれは知られたくない、影の一番濃い所だったはず。でも、明かしたことで、副島も自分も受容することが少しできた。心が微かに解かされていくような心地を私は味わいました。


この表と裏、光と影を印象付けるにあたって、大事な役割を果たしていたのが照明です。この映画では「影」とタイトルにあるくらいですから、その影を作り出す照明が映画の出来を左右するほどの重責を背負っていたのは誰もが認めるところ。そして、実際にこの映画の照明は素晴らしく、絶妙な光の加減で登場人物を印象的に照らし、味わい深い影を作っています。


特にオープニングとエンディングの一つ前、焚火のシーンが素晴らしかったですね。焚火の赤い光がほのかに危険を醸し出していて、あそこでこの映画が成功していることを私は確信しました。さらに、影を上手く作ることで、登場人物の知られざる側面を浮かび上がらせ、キャラクターに深みを与えていた印象です。撮影と同じように、今年の邦画の中でもかなりのハイレベルにあったのではないでしょうか。永田英則さん他照明を担当されたスタッフに惜しのない賛辞を。




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・照らされる光は生の象徴


さらに、この照明が映し出すのは光と影だけではないんですよね。それがこの映画のもう一つのテーマ、生と死だと私は思います。


日浅は今野が見つけたポイントで渓流釣りをするとき、苔の生えた木を見てこうも言っていました。


俺たち、屍の上に立ってんだよ


この映画で特徴的に扱われたのは、やはり東日本大震災でしょう。日浅は釜石で津波に流されてしまったのかもしれない。いや、3か月間も行方不明であれば、生きている可能性はどちらかといえば低いと言わざるを得ません。


ここで思い起こされるのが、自然の描写。とりわけの描写です。この映画では実に多くの水の描写が登場しました。川が流れるシーン、滝が落ちるシーン、SEでも時折水の流れを流すなど、実に徹底しています。ここでこの映画が描きたかったのは、自然の恵みと恐怖であるように私には感じられました。


川の流れは人間に魚と言った恵みをもたらしてくれる、屍の上に立っていることを実感させてくれますが、人間の生活を根こそぎ流し去る、命を奪い去る津波もまた水なのです。自然を象徴して描かれる水に人間は成す術もありません。そのことを象徴していたのが、だと思います。この映画に登場した煙草や焚火の火は、いずれも人工的なもの。自然の水には火は簡単に消されてしまいます。人間は簡単に死んでしまいます。


さらに、災害がなくても自然の摂理で人間は死んでしまうもの。この映画では、今野と同じアパートで暮らし、口うるさく言っていた老婆が災害に関係なく死んでしまいます。ハウスクリーニングがされていたことがその証拠でしょう(引っ越しの線もありますが、私は亡くなったとみています)。人間は死んでしまうと今野が改めて自覚した瞬間のように思えました。


でも、映画の終盤、今野は震災前に日浅がサインした書類を見つけます。それは今はいない日浅が生きていた証拠。日浅の喪失の微かな受容。「屍の上に立っている」ことの自覚。自分が生きているという再認識。ここで今野には惜しみない日光が注がれ、明るく照らされます。


この映画は震災直後の暗い倉庫のシーンで始まっていますが、それとは真逆です。今野が日浅の喪失を受け入れ、自分は生きていると改めて知った。照らされる光は生の象徴。綾野剛さんの迫真の演技も合わさって、私はここにとてつもないエモーショナルを感じました。そこで生まれる影も含めて生の実感があり、この映画を観て良かったと素直に思えました。ラストシーンもこれからの新たな始まりを予期させるとても良いものでしたし、重い映画ですが観終わった後の感触は不思議と爽やかでした。良い映画観たなぁと内心ガッツポーズです。




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以上で感想は終了となります。


映画『影裏』は総合してみると個人的には結構好きな映画です。その重厚さ故に疲れますし、正直少しウトウトした部分もあります。でも、2時間超を飽きることなく見せてくれましたし、心地よい疲労とともに満足感がありました。よろしければ体調の良いときにでもご覧ください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


影裏 (文春文庫)
沼田 真佑
文藝春秋
2019-09-03



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こんにちは。これです。


近年すっかり影が薄くなってしまっているJホラー。最近でも『来る』や『地獄少女』『貞子』など少しずつ製作されてはいるものの、どれも話題になったとは言い難いです。さらにJホラーには小規模公開のものも多く、地方である長野にはあまり届いてきません。怖いものは苦手ですし、Jホラーもほとんど観てはいませんが、Jホラーが嫌いでない私は少し飢えていました。


そんななか今年に入って公開されたのが『犬鳴村』です。言わずと知れた『呪怨』の清水崇監督の最新作であるこの作品。長野でもタイムラグなしで公開されたので、観に行ったところ、意外なことが起こりました。なんと地方のミニシアターではあまり見ない若い人たちが20人ほど観に来てくれたのです。中には「来るの『ドラゴンボール』ぶりだわー」という人まで。一年ぶりですよ。その若い人のあまりの多さに「あれ?『犬鳴村』ってこんな映画だったの?『コナン』ぐらい来てない?」と思ってしまったほど。まだまだJホラーに需要があることを知って、観る前から非常に嬉しくなりました。


そして、映画が終わった後には「めっちゃ怖かったわー」という男性の声が漏れてました。もうこの時点で内心ガッツポーズですよね。他のお客さんの反応が知れるというのは、家で映画を観るときには味わえない感覚です。Jホラーを楽しんでくれたようで本当に良かったです。


でも、正直なことを言うと、私は『犬鳴村』はあまり怖くはなかったんですよね。別に強がりではなくて、レイティングも全年齢対象であることと相応だなって。ココイチでいったら普通~1辛レベルだと思います。つまり全然いけます。ホラー映画でこんな勧め方は良くないのかもしれませんが、『犬鳴村』は、怖いのが苦手な人でも楽しめる入門的な映画なので、よかったら映画館に足を運んでみてください。 


なんかもうまとまった感ありますが、本編の感想はここからです。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―


・導入は良かった
・ツッコミどころもあるけど楽しめた前半
・日常から逸脱していて怖くなかった
・胸糞悪いのは好き






―あらすじ―

臨床心理士の森田奏の周りで突如、奇妙な出来事が起こり始める。「わんこがねぇやに ふたしちゃろ~♪」奇妙なわらべ歌を口ずさみ、おかしくなった女性、行方不明になった兄弟、そして繰り返される不可解な変死…。

それらの共通点は心霊スポット【犬鳴トンネル】だった。「トンネルを抜けた先に村があって、そこで××を見た…」突然死した女性が死の直前に残したこの言葉は、一体どんな意味なのか?全ての謎を突き止めるため、奏は犬鳴トンネルに向かう。しかしその先には、決して踏み込んではいけない、驚愕の真相があった…!

(映画『犬鳴村』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。






※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











・導入は良かった



とはいえ、全体的には怖くないという評価になってしまったものの、序盤の撮り方はかなり秀逸なものだったと思います。この映画のスタートはYoutuberの撮影という形で始まるんですよね。この撮影している男性の主観目線と、荒い映像が恐怖を煽るのに最適だったと思います。目の前で起こっていることをダイレクトに映し出す恐怖がありました。客観的な映像ではこうはならない。


それに、この段階ではまだ何が起こるか分からないという怪異があったわけですよね。緊張を煽っておいて何もないという緩和が効いていて、観ているこちらの関心を煽ります。落差は大きければ大きければいい。この手の主観的映像は、POVというらしいですが、こういった潜入モノとしてはベタですが、やはり使われ続けるのには訳があるということを実感させられますね。


あと、単純にYoutuberの明菜役の大谷凛香さんが可愛い。なんですか、あの背伸びをしない身近な可愛さは。特に懐中電灯で自分の顔を照らすのは最高でしたよね。あのシーンでこの映画が一気に好きになりましたもん。『ミスミソウ』にも出演されていたみたいですが、また好きな俳優さんを見つけてしまいました。


ざっくりと見てきましたが、この導入は本当に良かったんですよね。これが続いてくれるなら...という期待はあったんですが、残念ながらこの導入が『犬鳴村』の怖さのピークとなってしまったように感じられました。逆に言えば、ここさえ乗り切ることができればあとは大丈夫です。最初にだけツンとするワサビみたいなものです。なので身構えることなくどうぞふらりと観に行ってください。



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・ツッコミどころもあるけれど楽しめた前半



本編に話を戻します。明菜は普通に家に戻ってきます。死んでるのかと思った。が、不思議な歌を口ずさんだり、サイコな絵を書いたりと、どうも心の調子がおかしい様子。そして、放尿しながら歩き、挙句の果てには鉄塔から飛び降りて死んでしまいます(ここが序盤の瞬間最大風速だったかな...)。そして、次々起こる変死。全く無関係の他人まで巻き込まれるのは少し可哀想でしたね。


一方、この映画の主人公である森田奏は臨床心理士をしていて、一人の子供・遼太郎を診ています。その子供はある夢を見るといいます。しかし、その夢は奏に話されることはありません。言っても「もう一人のお母さんが…」くらいです。そして、その子に近づく奏にはいるはずのない女性が見えるという怪奇現象が起きていました。鏡に映っているはずなのに、隣にはいない女性。これまたベタな脅かし方ですが、着実に恐怖心を煽っていきます。


この森田奏を演じたのは、昨年『ダンスウィズミー』での活躍も記憶に新しい三吉彩花さん。今作は全く違った役柄ですが、じわじわと来る恐怖にやられていく奏を上手く演じていたと思います。何が何だかわからない中盤の演技が良かった。まあ公式サイトにある「最叫ヒロイン」というほどには叫んでいませんでしたが、三吉さんのスタイルを考えるとそれも妥当でしょう。ただその恵まれた体躯(こう書くとスポーツ選手みたい)を生かした逃げ惑うシーンも見たかったような気がします。


さて、物語ですが明菜の彼氏であり、奏の兄である悠真は、明菜がおかしくなった犬鳴トンネルに友達と出向きます。この犬鳴トンネル、結構な奥地にひっそりとあるのかなと思いきや、なんと同じ市内の車で行ける距離にあるではありませんか。意外と身近なところにあるのにまず驚きました。しかし、トンネルには以前訪れたときにはなかったバリケードが敷かれていて、落書きも書かれている状態。まあこのバリケード、どうぞ登ってくださいと言わんばかりに段差があって、楽にトンネル内に入ることができたのは笑いましたけどね。そして、隠れてついてきた奏の弟、康太もトンネル内に入ってしまい、行方不明になってしまいます。


さらに、遼太郎の容態が一変。また、明菜の検死をした医師も危篤状態に陥ってしまいます。奏の周りで次々と起こる怪奇現象。ここで心霊が奏たちを襲うわけですが、あの心霊の動き、超面白くなかったですか。変なところでスムーズでしたよね。特に電話ボックスから退散するシーンなんて思わず笑ってしまいましたよ。映画としてはどうなんだと思わなくはないですが、個人的には楽しかったです。


医師も溺死してしまい、奏の兄弟は戻らないまま。不審に思った奏は、父親(高嶋政伸さんという謎の豪華さ)に何が起こっているのかを聞きます。まぁ父親はわりとはっきりと「お前の血筋に問題がある」と言ってしまうんですけど。「交わるんじゃなかった」とも。じゃあなんで離婚せずにいるんだって話ですけど。ともかく、ここから物語は奏が自分のルーツを探っていくという方向にシフトしていきます。ただ、残念なことにここから徐々に恐怖は薄れていってしまうんですよね。



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・日常から逸脱していて怖くなかった


最初に言った通り、私はJホラーをあまり見る人間ではありませんが、一応好きなJホラーはありまして。『残穢―住んではいけない部屋―』という映画です。


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『残穢』の何が好きかと言うと、登場人物たちがあるマンションの一室で起こる怪奇現象の理由を解明していくところなんですよね。怪奇現象そのものではなく。次から次へと点が現れて、その点と点が線で繋がっていく快感が気持ちいい映画です。謎解き要素が良いんですよね。ワクワクしながら観れて。


なので、『犬鳴村』のこの展開自体は好きだったんですけど、考えてみると謎解きあまりしてないなって。奏が得る情報って全てが与えられた情報なんですよ。孫可愛さに話す祖父はともかく、都合よく幽霊が登場して、都合よく記録映像を見せてくれて、さらにはナビゲートまでしてくれる。奏があまり主体的に動いてないんですよね。『残穢』では登場人物たちが主体的に動いていたのと比べると大違いです。ここは消化不良な部分ではありますね。




それと怖くないと思った理由は他にもあって。ここで紹介したい論文があるんですけど、といっても大学生の卒論ですけど、「ホラー映画の日本作品と欧米作品の違い」という論文があるんです(URL→http://www.edu.utsunomiya-u.ac.jp/sociology/2017saitou.pdf。40ページくらいあるので、暇なときにでも読んでください)。


この論文によるとJホラーの恐怖というのは、「日常の中において幽霊を描くことがJホラーにおける恐怖」とあります。確かに日本独自の怪談文化は、私たちの暮らしの中に怪異を紛れ込ませることで発展していきました。稲川淳二さんの怪談や、学校の七不思議と呼ばれるものはその代表でしょう。『リング』や『着信アリ』などは、ビデオテープや携帯電話といった日常に潜む恐怖を描きヒットしました。


そして、同論文には「Jホラーの根幹には実話を基にしていることがあり、それに幽霊を絡めたことが、Jホラーの大きな特徴といえる」という記述があります。これは実在する旧犬鳴トンネルを題材にしている『犬鳴村』にピッタリと当てはまっています。ここで大事なのはあくまで日常の範疇にあるということ。この映画では、後半にかけてどんどん日常を逸脱していくんですが、それが凶と出てしまったように感じられました。


まあこれはネタバレになるんですけど、森田家は犬鳴村の生き残りの血筋なんですね。犬を殺して売買することで生計を立てていた犬鳴村は、電力会社に騙されて今はダムの底。被害者がどんどんと溺死していったのはその祟りというわけです。令和の時代にもなって、ダムに沈んだ村ですよ。一周回って胸熱でしたね。


ただ、物体も触れるリアリティラインがあやふやな幽霊a.k.a.のおかげで、この映画は日常からはどんどんとかけ離れていきます。奏がその子孫という設定自体はいいんですが、ダムに沈んだ村の住民は今となってはごく少数でしょう。失礼を承知で言えば、多くの人には共感できない設定なんですよね。つまり、多くの人の日常とはここで隔離されていきます。現実感は薄まっていってしまいます。




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そして、決定的にマズかったのが終盤の奏が犬鳴村に足を踏み入れる展開。映画の最大の盛り上がりどころなのですが、ここ一応、在りし日の犬鳴村にタイムスリップしているんですよね。つまり完全に現実ではないわけですよ。もちろん実話ではなく、映画でしか描けない展開ではあるんですが、「日常において幽霊を描く」Jホラー(に見られる傾向)とは完全に離れてしまっています。私の好きなJホラーはあくまで日常を基盤にしたものが多いので、もう自分事とは思えず、さながらお化け屋敷といったアトラクションのような感覚で観ていました。鍵を取って来いとか、走って逃げろとかいかにもお化け屋敷って感じです。

 
それはそれで悪いことではないのですが、ただお化け屋敷として見ても、正直パワー不足かなと...。まず、ガイドがいるって何ですか?現実のお化け屋敷は行ってこーいですよね?それに、この映画では摩耶という女性の村人が犬化して狂暴になるというのが終盤の見せ場(?)でしたが、摩耶さんもっと頑張ってくれよ…としか言いようがありません。何、男二人に抑えられてるんですか。主人公を襲いなさいよ、主人公を。唐突なパニックホラーでしたが、面食らうほどの迫力は残念ながらなかった印象です。そもそもパニックホラーが観たかったんじゃないし。


さらに、これが客観的な視点で撮られていることが、映画である、フィクションであるという印象を強く植え付け、恐怖を軽減させてしまいます。冒頭の主観的な視点は、個人の延長線上、日常の範囲に収まっているからこそ怖かったんです。それが映画であることが分かってしまうと、どこか他人事になって日常とはあまり感じられない。タイムスリップしているなら尚更です。全編POVで撮ったほうが良かったとまでは言いませんが、撮り方はもうちょっと工夫したほうが良かったんじゃないかなとも感じました。


このような理由で個人的には怖さはあまり感じられませんでしたが、その代わりにこの映画には胸糞悪さはあったんですよね。そこは大きな評価ポイントだと感じます。あと高島礼子さんのガチ犬演技も。




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・胸糞悪いのは好き


この映画における犬鳴村はダムに沈んだ村という設定でした。さらに、電力会社はいいように付けこんで村人を騙し、女性を隔離して犬と交わったという噂を流します。そして、沈められてしまう。村人の楽しそうな生活と、迫害される苦境を見せられただけに、その苦しさは胸に迫ってきます。たとえ他人事でも。


さらに、摩耶が放置されていた小屋には一緒に犬がいて、麻耶は子供を産んでいます。犬と交わったという噂が本当であると示唆されているわけです。真偽は分からないですが、異種姦行為とは何とも趣味が悪い。想像しただけで、苦虫を噛み潰すような顔になってしまいます。それを女性が強要されていたという事実も目を背けたくなるほどの苦痛です。


それに輪をかけてきついのが、その子供が奏たちの祖先であったことなんですよね。その行為がなければ奏たちは存在していないんです。そう仮定すると、奏の体にも......。これ以上は書きたくありませんね。自らのルーツに直結する生理的、根源的な嫌悪感はこの映画にはあって、そこは逆に好きなところですね。尾を引く気持ち悪さがあって。何も残らないよりは、何か残ったほうが良いですよ。蓋をしたくなる悪感情でも。


でも、この映画は「臭い物に蓋をしてはいけない」という社会的なメッセージも含んでいます。終わり方も嫌悪したくなる対象はまだ存在しているという終わり方で。後味の悪い幕引きではあるんですが、ホラー映画はこうでなくっちゃという終わり方で、個人的には好きです。最後でようやく現実に戻ってきた感じですね。まあその後の壮大な、物語を清算するような主題歌が全然映画に合ってなくて、ちょっとアレでしたけど。



fph













とここまで、『犬鳴村』について賛否両方(どちらかと言えば否が多かったけど)を語ってきましたが、こんなものは私がJホラーに付与する謎の加点+5000点の前では些末な問題ですよ。だって、単純にJホラーが作られてことが嬉しいですから。多くの人と観られたことに喜びを感じていますから。「めっちゃ怖かった」という感想にホクホクしてますから。


それに、『犬鳴村』を観て単純に楽しんだことで、俄然Jホラーに興味が湧いてきていますし、今度『呪怨』とか『仄暗い水の底から』とか借りてみようかなという気になってますもん。本当ですよ。いやあ、どんどんJホラー作ってほしいですね。もっと観たい。なのでJホラーのこの先のためにも『犬鳴村』、どうぞ映画館でご覧ください大丈夫、そこまで怖くないですよ(それはホラー映画としてどうなんだ)。


お読みいただきありがとうございました。


参考:

「ホラー映画の日本作品と欧米作品の違い」
http://www.edu.utsunomiya-u.ac.jp/sociology/2017saitou.pdf

おしまい 







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