こんにちは。アカデミー賞にあまり関心を持てない寂しいこれです。『パラサイト』が作品賞を受賞しましたよね。びっくりしました。韓国映画だけに限らず、邦画ももっと世界で評価されるようになったらいいですね。評価されていい映画はいっぱいあると思うので。
それはさておき、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『わたしは光をにぎっている』。去年の公開ですが、私の好きな松本穂香さんが主演とあれば観ないわけにはいきません。ようやくこちらの方でも公開されたので、祝日のこのタイミングに観に行ってきました。
それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。
―目次―
・松本穂香さんのベストアクトだと思う
・映画の雰囲気に浸っていたくなった
・「言葉は心、心は光」
・少しモヤる部分も…
―あらすじ―
宮川澪、20歳。
ふるさとを出て、働きだした。
友達ができた。
好きな人ができた。
その街も消える、もう間もなく
亡き両親に代わって育ててくれた祖母・久仁子の入院を機に東京へ出てくることになった澪。都会の空気に馴染めないでいたが「目の前のできることから、ひとつずつ」という久仁子の言葉をきっかけに、居候先の銭湯を手伝うようになる。昔ながらの商店街の人たちとの交流も生まれ、都会の暮らしの中に喜びを見出し始めたある日、その場所が区画整理によりもうすぐなくなることを聞かされる。その事実に戸惑いながらも澪は、「しゃんと終わらせる」決意をするー。
(映画『わたしは光をにぎっている』公式サイトより引用)
映画情報は公式サイトをご覧ください。
・松本穂香さんのベストアクトだと思う
映画を観終わって、良い映画だと感じました。騒がしいところもあるけれど、銭湯のように浸りたくなる映画だとも。好きか嫌いかで言えば、好きな映画です。でも、心の底から好きかと言われると正直疑問符がつきます。心のどこかではまりきれていないような妙な違和感も残っていました。
もちろんこの映画には良いところはたくさんあります。まずはなんといっても主人公である宮川澪を演じた松本穂香さんの演技でしょう。あまり出演作を観ているわけではないのですが、今作の松本穂香さんは今まででベストアクトだと感じました。内気な20歳である澪。最初の野尻湖のシークエンスから、口数は少ないけれど、その引っ込み思案な挙動に一気に引き込まれました。
上京してからの周囲に慣れない演技も良かったですし、引っ込み思案が根元から染みついている感じがして、同じく内気な私は痛いくらい共感できました。この映画の松本穂香さんって何も言わない演技が抜群なんですよね。特に再開発による立ち退きが決まってからの、脱衣所の椅子に座っているところ。スクリーンの端っこの方に映っているのにもかかわらず、上を向く佇まいだけで得も言われぬ存在感があります。主演としてのキャリアも徐々に重ねてきて、女優として開眼しつつある感じがしました。これから映画界でもさらに存在感を増していきそうです。3月公開の『酔うと化け物になる父がつらい』も観たいです。まあ長野でやる気配はなさそうですけど。
また、渡辺大知さんや徳永えりさんなど脇を固める俳優さんも飾らない等身大の演技を見せていてよかったのですが(個人的には『いなくなれ、群青』で好演を見せていた松本妃代さんの出演が嬉しかった)、やはり澪が働く銭湯の店主である三沢京介を演じた光石研さんの熱演に触れないわけにはいかないでしょう。光石さんと言えば日本を代表する名バイプレイヤーですが、この映画でも流石の演技を披露していました。
澪を不愛想にあしらうようで、見捨てることのない優しさが、心に染み入りましたし、多くを語らないなかでも言葉の一つ一つに重みがあります。澪に仕事を教えるダイジェストの演技は観ていて安心します。再開発には反対していますが、もう決まったことは覆せないという諦めや虚脱感を醸し出す光石さんの姿には思わず見入ってしまいますし、無念で酔いつぶれる演技が絶望感があって最高でした。日常を描いているこの映画に浮足立たない重みを加えていて、安定感がありましたね。
・映画の雰囲気に浸っていたくなった
さて、公式サイトで松本穂香さんも言っている通り、この映画は大きな事件が起きる映画ではないです。映されるのは東京の下町の日常風景。様々な人が様々な店を営み、顔も知らない多くの人々が行き交います。ラーメンを食べ、酒を飲み、外国料理では民族音楽が歌われる。かつて日本にも多くあった風景がそのまま映されます。それは住民の生活を追ったある種のドキュメンタリーのようでもありました。
この映画での伸光湯は実にのんびりとした時間が流れています。正直お客さんは常連が数人と言うこじんまりとした銭湯なのですが、そこには高層ビルの街にはあまりない種類の暖かさがありました。しかし、一歩街に出れば結構騒がしい。踏切の音も大きく、夜には飲み歩く人が何人も見られます。それはいいように言えば活気があるということで、静かな銭湯とのギャップはありましたが、こちらも温い人肌の温度。野尻湖のどこか冷たく厳しい自然の空気とは異なります。銭湯や街の温度をスクリーンを通して肌で感じ、浸っていたくなる空気感がありましたね。だからこそ、再開発で取り壊されると決まったときのショックも大きかったのですが。
その街で暮らし始める澪。最初はアルバイトもすぐに辞めるなど、東京に馴染めないでいましたが、銭湯の仕事を始めるとなると徐々に周囲に馴染めるようになってきます。でも、それは何か劇的な出来事があったわけではなく、伸光湯に通っていた緒方や美琴らとのなんて事のない交流のおかげ。一緒にラーメンを食べたり、緒方が制作したドキュメンタリー映画を観たりと、あくまで日常の範囲内。今もきっとどこかで暮らしている名前が知られていない人々のささやかな暮らしをカメラはすくい取っていて、完全なる他人事には思えません。
この澪が東京に馴染んでいく過程。松本穂香さんの演技が良いのはもちろんのこと、その映し方もいいんですよね。中川監督はこの映画でも引きの画、ロングショットを多く用いていて、登場人物の背景にある事象まで映し出しているんですよね。クローズアップショットがあまりないのが特徴で、登場人物が特別じゃない、風景に溶け込んで生きている感じをヒシヒシと感じました。最後のシーンもロングショットでしたし、そのセンスには感動するばかりです。先日観た『静かな雨』でもロングショットは多かったですし、中川監督の映画の特徴なんですかね。
そして、この映画の一番の暖かさは伸光湯が地域の人の居場所になっていたことだと思います。なにせ、覗きをするおじいさんまで「ここに来れなくなったらどこに行けばいいんだ」と排除しないのですから。女子高生からお年寄りまで気軽に入ることができ、誰もが平等で居心地のいい場所。家庭、職場に次ぐいわばサード・プレイス(第3の場所)です。最近の言葉で言うと。
このサード・プレイスは精神的に安心した生活を送るためにはなくてはならない居場所。伸光湯は場所を提供しただけですが、それでもその場所があることが重要。心のよりどころがあることが大切だと思います。そして、このサード・プレイスは映画の中では伸光湯だけでなく、ラーメン屋だったり、居酒屋だったり、エチオピア料理店だったりしました。居場所はいたるところにあり、東京での澪の居場所も一つ、また一つと増えていきました。
・「言葉は心、心は光」
ですが、それらの居場所は都主導の再開発により、一斉に取り壊されると言います。この映画のテーマの一つに「居場所が失われるとき、人はどうすればいいか?」という問いがあったように思えます。その答えは言ってみれば、「今まで通りしゃんとする」ということになるでしょう。特別なことをする必要はなく、それまでの日常を最後の一日までやり切る。もう抗うことができない状態では、それしかできることがないという一種の諦観のようにも感じられ、胸が切なくなります。
何もかも取り壊されてしまったとあれば、物理的な場は残るでしょうが、精神的な居場所は失われてしまいます。更地に集まるような人間は少ないでしょう。コミュニティの死。よりどころの喪失。それは、人間にとって不可逆な死をも思い起こさせます。この映画では澪の祖母がコロリと亡くなってしまいますが、町も人も終わりは避けられない。ただ、町が人がなくなってしまえば、何もかもなくなってしまうのかというと、それは違うとこの映画は描いていました。
まず、その一つは緒方が撮影していたドキュメンタリー映画でしょう。映画には記録媒体と言う一面もあり、なくなった人や町もフィルムが保存される限りは半永久的に残すことができます。なくなるという現実には抗えないとしても、記録に残せばまたいつでも見返すことができる。思い出すことができる。この映画は終盤、緒方が撮影したドキュメンタリー映画という体で、町の人々が映されています。その姿はいささか過剰気味ではありましたが、過ごした日々は残り続けるという意味で、胸を打つのには十分なものでした。
そして、居場所がなくなっても残せるもののもう一つが言葉です。この映画で澪の祖母が「言葉は心、心は光」と澪に話していましたが、これがこの映画を一番象徴するセリフだと私は感じました。人々が話す言葉は瞬時に消えていってしまいますが、大正時代に書かれた山村暮鳥の詩が現代まで残っているように、残り続ける言葉もあります。
もちろんこれは例外中の例外ですが、そんなに長いスパンでなくても会話をしたという記憶は、ある程度は人の頭の中に残るでしょう。その記憶は会話を交わした場所がなくなっても残ります。Wikipediaのサード・プレイスの項には「会話が主たる活動」とあります。描写はされていませんでしたが、伸光湯でも常連同士の会話はちょっとはあったのでしょう。「伸光」は「親交」とも読めますから。また、会話は伸光湯のみならず町の方々でなされていて、言ってみればあの町全体が巨大なサード・プレイスであったと思います。
でも、その町は壊されてしまう。それでも会話をしたという記憶はある。交わした言葉の一つ一つが光であり、思い出として残るのでしょう。サード・プレイスは家や職場のようにはっきりしたものと違い、どちらかといえば精神的なものだと私は思います。記憶として、思い出として残るサード・プレイスの町。それは物理的な破壊では決して奪うことのできない高貴なもののように感じられます。
また、澪の友人である美琴が澪に向けて、このようなセリフを発していました。
「澪ちゃんは話せないんじゃなくて、話さないんだよ。そうすることで自分を守っているの」
澪の本質を言い当てたこのセリフも、言葉にフォーカスしてますよね。最初は澪はあまり話さなかった。ただ、それは馴染めていなかっただけで、周りが自分にも分け隔てなく接してくれることが分かると、徐々に言葉を発していく。自信を得ていく。そして、遂には一人で伸光湯を開けるようになる。その過程で交わした言葉の一つ一つが光となって輝く。
でも、町はもうすぐなくなってしまう。町と一緒に交わした言葉が消えてしまわないように、大切に握りしめる。わたしは光をにぎっている。実家の旅館のお風呂で澪が一人発した言葉は、そういったこれまで通りの日常を、会話を大切にするといった澪の決意のように私には感じられました。物理的なものは根こそぎなくなっても、なくならないものはあるという意地にも似た微かな希望を感じて、この部分はとても好きでした。コミュ障の私ももっと言葉を交わしていきたいなと思います。
・少しモヤる部分も...
と、ここまではいいのですが、まだモヤモヤは残っています。まず一つが、初見では上記の美琴の台詞に対する答えがあまり描かれていなかったこと。つまり、澪があまり変わっていないんじゃ…と感じてしまったんですよね。いや、変わってはいるんですよ。ラストシーンもあれは澪が自分の言葉で掴み取った仕事でしょうし、最初と最後で主人公の状況は変化しているべきという物語の鉄則に則ってはいるんですが、いかんせん終わりが見えてからの描写が少ない気がしたんですよね。
もちろん描かないことで余白を作って想像させるというのも手法的には全然アリですし、あのドキュメンタリー映画だけで、立ち退きを宣告されてからの描写は十分だという方もいるでしょう。私も実際そう思います。ただ、この映画の予告編やポスターで「どう終わるかって、たぶん大事だから。」と銘打たれていて、それを鵜呑みにした私は、終わらせるための描写がもっと長く取られると思ってたんですよね。観たときに、なんか思ってたのと違うというのは感じました。別に湿っぽい終活が観たかったわけではないんですけど、さっぱりと終わらせすぎてるかなというのは正直…。
それに、あのドキュメンタリー映画自体にもちょっと疑問があります。しっかり胸を打たれておいて、こういうのもなんですが、あそこ少し感動的すぎませんか?フィルムカメラで画質を粗くして、ただ微笑んで立っているという姿を映すこと自体はいいんですけど、ちょっと押しが強いというか…狙いにいってるというか…。あのシーンだけ明らかに毛色が違うじゃないですか。いや、分かるんですよ。記録として残すという狙いも、光をにぎっているのは澪だけじゃないというメッセージも。ただ、やっぱりちょっと浮いているというか湿っぽい感じはしたので、心では感動しながらも頭ではうーん...と考え込んでしまいました。
と、ここまでモヤったポイントを少し書いてきたんですが、読み返してみると個人のいちゃもんでしかないなと感じます。批評するならするで、脚本のここがこうとか演出のそこがどうとか、もっとそういう具体的な指摘をしなければならないですね。なんかふわふわしてますもん、ふわふわ。批評ってやっぱり難しいですね。もっと頑張らなければ。
以上で感想は終了となります。まあ最後の私のいちゃもんはさておき、『わたしは光をにぎっている』は消えゆく町の風景を克明に映した良い映画だと思います。もう上映館数はあまり多くありませんが、気になった方は観てみてはいかがでしょうか。中川龍太郎監督の名前は覚えておいて損はないですよ。
お読みいただきありがとうございました。
参考:
映画『わたしは光をにぎっている』公式サイト
https://phantom-film.com/watashi_hikari/
映画『わたしは光をにぎっている』の詩 - 余白の詩学
https://yohak-u.net/?p=594
サード・プレイス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/サード・プレイス
おしまい
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