Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2020年02月



こんにちは。アカデミー賞にあまり関心を持てない寂しいこれです。『パラサイト』が作品賞を受賞しましたよね。びっくりしました。韓国映画だけに限らず、邦画ももっと世界で評価されるようになったらいいですね。評価されていい映画はいっぱいあると思うので。


それはさておき、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『わたしは光をにぎっている』。去年の公開ですが、私の好きな松本穂香さんが主演とあれば観ないわけにはいきません。ようやくこちらの方でも公開されたので、祝日のこのタイミングに観に行ってきました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―


・松本穂香さんのベストアクトだと思う
・映画の雰囲気に浸っていたくなった
・「言葉は心、心は光」
・少しモヤる部分も…





―あらすじ―

宮川澪、20歳。
ふるさとを出て、働きだした。
友達ができた。
好きな人ができた。

その街も消える、もう間もなく

亡き両親に代わって育ててくれた祖母・久仁子の入院を機に東京へ出てくることになった澪。都会の空気に馴染めないでいたが「目の前のできることから、ひとつずつ」という久仁子の言葉をきっかけに、居候先の銭湯を手伝うようになる。昔ながらの商店街の人たちとの交流も生まれ、都会の暮らしの中に喜びを見出し始めたある日、その場所が区画整理によりもうすぐなくなることを聞かされる。その事実に戸惑いながらも澪は、「しゃんと終わらせる」決意をするー。

(映画『わたしは光をにぎっている』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。








・松本穂香さんのベストアクトだと思う


映画を観終わって、良い映画だと感じました。騒がしいところもあるけれど、銭湯のように浸りたくなる映画だとも。好きか嫌いかで言えば、好きな映画です。でも、心の底から好きかと言われると正直疑問符がつきます。心のどこかではまりきれていないような妙な違和感も残っていました。


もちろんこの映画には良いところはたくさんあります。まずはなんといっても主人公である宮川澪を演じた松本穂香さんの演技でしょう。あまり出演作を観ているわけではないのですが、今作の松本穂香さんは今まででベストアクトだと感じました。内気な20歳である澪。最初の野尻湖のシークエンスから、口数は少ないけれど、その引っ込み思案な挙動に一気に引き込まれました。


上京してからの周囲に慣れない演技も良かったですし、引っ込み思案が根元から染みついている感じがして、同じく内気な私は痛いくらい共感できました。この映画の松本穂香さんって何も言わない演技が抜群なんですよね。特に再開発による立ち退きが決まってからの、脱衣所の椅子に座っているところ。スクリーンの端っこの方に映っているのにもかかわらず、上を向く佇まいだけで得も言われぬ存在感があります。主演としてのキャリアも徐々に重ねてきて、女優として開眼しつつある感じがしました。これから映画界でもさらに存在感を増していきそうです。3月公開の『酔うと化け物になる父がつらい』も観たいです。まあ長野でやる気配はなさそうですけど。


また、渡辺大知さんや徳永えりさんなど脇を固める俳優さんも飾らない等身大の演技を見せていてよかったのですが(個人的には『いなくなれ、群青』で好演を見せていた松本妃代さんの出演が嬉しかった)、やはり澪が働く銭湯の店主である三沢京介を演じた光石研さんの熱演に触れないわけにはいかないでしょう。光石さんと言えば日本を代表する名バイプレイヤーですが、この映画でも流石の演技を披露していました。


澪を不愛想にあしらうようで、見捨てることのない優しさが、心に染み入りましたし、多くを語らないなかでも言葉の一つ一つに重みがあります。澪に仕事を教えるダイジェストの演技は観ていて安心します。再開発には反対していますが、もう決まったことは覆せないという諦めや虚脱感を醸し出す光石さんの姿には思わず見入ってしまいますし、無念で酔いつぶれる演技が絶望感があって最高でした。日常を描いているこの映画に浮足立たない重みを加えていて、安定感がありましたね。




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・映画の雰囲気に浸っていたくなった


さて、公式サイトで松本穂香さんも言っている通り、この映画は大きな事件が起きる映画ではないです。映されるのは東京の下町の日常風景。様々な人が様々な店を営み、顔も知らない多くの人々が行き交います。ラーメンを食べ、酒を飲み、外国料理では民族音楽が歌われる。かつて日本にも多くあった風景がそのまま映されます。それは住民の生活を追ったある種のドキュメンタリーのようでもありました。


この映画での伸光湯は実にのんびりとした時間が流れています。正直お客さんは常連が数人と言うこじんまりとした銭湯なのですが、そこには高層ビルの街にはあまりない種類の暖かさがありました。しかし、一歩街に出れば結構騒がしい。踏切の音も大きく、夜には飲み歩く人が何人も見られます。それはいいように言えば活気があるということで、静かな銭湯とのギャップはありましたが、こちらも温い人肌の温度。野尻湖のどこか冷たく厳しい自然の空気とは異なります。銭湯や街の温度をスクリーンを通して肌で感じ、浸っていたくなる空気感がありましたね。だからこそ、再開発で取り壊されると決まったときのショックも大きかったのですが。


その街で暮らし始める澪。最初はアルバイトもすぐに辞めるなど、東京に馴染めないでいましたが、銭湯の仕事を始めるとなると徐々に周囲に馴染めるようになってきます。でも、それは何か劇的な出来事があったわけではなく、伸光湯に通っていた緒方や美琴らとのなんて事のない交流のおかげ。一緒にラーメンを食べたり、緒方が制作したドキュメンタリー映画を観たりと、あくまで日常の範囲内。今もきっとどこかで暮らしている名前が知られていない人々のささやかな暮らしをカメラはすくい取っていて、完全なる他人事には思えません。


この澪が東京に馴染んでいく過程。松本穂香さんの演技が良いのはもちろんのこと、その映し方もいいんですよね。中川監督はこの映画でも引きの画、ロングショットを多く用いていて、登場人物の背景にある事象まで映し出しているんですよね。クローズアップショットがあまりないのが特徴で、登場人物が特別じゃない、風景に溶け込んで生きている感じをヒシヒシと感じました。最後のシーンもロングショットでしたし、そのセンスには感動するばかりです。先日観た『静かな雨』でもロングショットは多かったですし、中川監督の映画の特徴なんですかね。


そして、この映画の一番の暖かさは伸光湯が地域の人の居場所になっていたことだと思います。なにせ、覗きをするおじいさんまで「ここに来れなくなったらどこに行けばいいんだ」と排除しないのですから。女子高生からお年寄りまで気軽に入ることができ、誰もが平等で居心地のいい場所。家庭、職場に次ぐいわばサード・プレイス(第3の場所)です。最近の言葉で言うと。


このサード・プレイスは精神的に安心した生活を送るためにはなくてはならない居場所。伸光湯は場所を提供しただけですが、それでもその場所があることが重要。心のよりどころがあることが大切だと思います。そして、このサード・プレイスは映画の中では伸光湯だけでなく、ラーメン屋だったり、居酒屋だったり、エチオピア料理店だったりしました。居場所はいたるところにあり、東京での澪の居場所も一つ、また一つと増えていきました。




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・「言葉は心、心は光」


ですが、それらの居場所は都主導の再開発により、一斉に取り壊されると言います。この映画のテーマの一つに「居場所が失われるとき、人はどうすればいいか?」という問いがあったように思えます。その答えは言ってみれば、「今まで通りしゃんとする」ということになるでしょう。特別なことをする必要はなく、それまでの日常を最後の一日までやり切る。もう抗うことができない状態では、それしかできることがないという一種の諦観のようにも感じられ、胸が切なくなります。


何もかも取り壊されてしまったとあれば、物理的な場は残るでしょうが、精神的な居場所は失われてしまいます。更地に集まるような人間は少ないでしょう。コミュニティの死。よりどころの喪失。それは、人間にとって不可逆な死をも思い起こさせます。この映画では澪の祖母がコロリと亡くなってしまいますが、町も人も終わりは避けられない。ただ、町が人がなくなってしまえば、何もかもなくなってしまうのかというと、それは違うとこの映画は描いていました。


まず、その一つは緒方が撮影していたドキュメンタリー映画でしょう。映画には記録媒体と言う一面もあり、なくなった人や町もフィルムが保存される限りは半永久的に残すことができます。なくなるという現実には抗えないとしても、記録に残せばまたいつでも見返すことができる。思い出すことができる。この映画は終盤、緒方が撮影したドキュメンタリー映画という体で、町の人々が映されています。その姿はいささか過剰気味ではありましたが、過ごした日々は残り続けるという意味で、胸を打つのには十分なものでした。


そして、居場所がなくなっても残せるもののもう一つが言葉です。この映画で澪の祖母が「言葉は心、心は光」と澪に話していましたが、これがこの映画を一番象徴するセリフだと私は感じました。人々が話す言葉は瞬時に消えていってしまいますが、大正時代に書かれた山村暮鳥の詩が現代まで残っているように、残り続ける言葉もあります。


もちろんこれは例外中の例外ですが、そんなに長いスパンでなくても会話をしたという記憶は、ある程度は人の頭の中に残るでしょう。その記憶は会話を交わした場所がなくなっても残ります。Wikipediaのサード・プレイスの項には「会話が主たる活動」とあります。描写はされていませんでしたが、伸光湯でも常連同士の会話はちょっとはあったのでしょう。「伸光」は「親交」とも読めますから。また、会話は伸光湯のみならず町の方々でなされていて、言ってみればあの町全体が巨大なサード・プレイスであったと思います。


でも、その町は壊されてしまう。それでも会話をしたという記憶はある。交わした言葉の一つ一つが光であり、思い出として残るのでしょう。サード・プレイスは家や職場のようにはっきりしたものと違い、どちらかといえば精神的なものだと私は思います。記憶として、思い出として残るサード・プレイスの町。それは物理的な破壊では決して奪うことのできない高貴なもののように感じられます。




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また、澪の友人である美琴が澪に向けて、このようなセリフを発していました。


澪ちゃんは話せないんじゃなくて、話さないんだよ。そうすることで自分を守っているの


澪の本質を言い当てたこのセリフも、言葉にフォーカスしてますよね。最初は澪はあまり話さなかった。ただ、それは馴染めていなかっただけで、周りが自分にも分け隔てなく接してくれることが分かると、徐々に言葉を発していく。自信を得ていく。そして、遂には一人で伸光湯を開けるようになる。その過程で交わした言葉の一つ一つが光となって輝く。


でも、町はもうすぐなくなってしまう。町と一緒に交わした言葉が消えてしまわないように、大切に握りしめる。わたしは光をにぎっている。実家の旅館のお風呂で澪が一人発した言葉は、そういったこれまで通りの日常を、会話を大切にするといった澪の決意のように私には感じられました。物理的なものは根こそぎなくなっても、なくならないものはあるという意地にも似た微かな希望を感じて、この部分はとても好きでした。コミュ障の私ももっと言葉を交わしていきたいなと思います。



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・少しモヤる部分も...


と、ここまではいいのですが、まだモヤモヤは残っています。まず一つが、初見では上記の美琴の台詞に対する答えがあまり描かれていなかったこと。つまり、澪があまり変わっていないんじゃ…と感じてしまったんですよね。いや、変わってはいるんですよ。ラストシーンもあれは澪が自分の言葉で掴み取った仕事でしょうし、最初と最後で主人公の状況は変化しているべきという物語の鉄則に則ってはいるんですが、いかんせん終わりが見えてからの描写が少ない気がしたんですよね。


もちろん描かないことで余白を作って想像させるというのも手法的には全然アリですし、あのドキュメンタリー映画だけで、立ち退きを宣告されてからの描写は十分だという方もいるでしょう。私も実際そう思います。ただ、この映画の予告編やポスターで「どう終わるかって、たぶん大事だから。」と銘打たれていて、それを鵜呑みにした私は、終わらせるための描写がもっと長く取られると思ってたんですよね。観たときに、なんか思ってたのと違うというのは感じました。別に湿っぽい終活が観たかったわけではないんですけど、さっぱりと終わらせすぎてるかなというのは正直…。


それに、あのドキュメンタリー映画自体にもちょっと疑問があります。しっかり胸を打たれておいて、こういうのもなんですが、あそこ少し感動的すぎませんか?フィルムカメラで画質を粗くして、ただ微笑んで立っているという姿を映すこと自体はいいんですけど、ちょっと押しが強いというか…狙いにいってるというか…。あのシーンだけ明らかに毛色が違うじゃないですか。いや、分かるんですよ。記録として残すという狙いも、光をにぎっているのは澪だけじゃないというメッセージも。ただ、やっぱりちょっと浮いているというか湿っぽい感じはしたので、心では感動しながらも頭ではうーん...と考え込んでしまいました。


と、ここまでモヤったポイントを少し書いてきたんですが、読み返してみると個人のいちゃもんでしかないなと感じます。批評するならするで、脚本のここがこうとか演出のそこがどうとか、もっとそういう具体的な指摘をしなければならないですね。なんかふわふわしてますもん、ふわふわ。批評ってやっぱり難しいですね。もっと頑張らなければ。



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以上で感想は終了となります。まあ最後の私のいちゃもんはさておき、『わたしは光をにぎっている』は消えゆく町の風景を克明に映した良い映画だと思います。もう上映館数はあまり多くありませんが、気になった方は観てみてはいかがでしょうか。中川龍太郎監督の名前は覚えておいて損はないですよ。


お読みいただきありがとうございました。


参考:

映画『わたしは光をにぎっている』公式サイト
https://phantom-film.com/watashi_hikari/

映画『わたしは光をにぎっている』の詩 - 余白の詩学
https://yohak-u.net/?p=594

サード・プレイス - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/サード・プレイス


おしまい



 

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こんにちは。これです。昨日、今年ベストを更新する超絶大傑作『37Seconds』を観た私。勢いで感想を書き上げ、やや疲れた状態で次なる映画に向かいました。せっかく東京に来たのにこのまま寝るのもったいないなと思ったので。


今回観た映画は『静かな雨』。『羊と鋼の森』等の著作で知られる宮下奈都さんの原作小説を、『わたしは光をにぎっている』の中川龍太郎監督が映画化した作品です。せっかく東京に来たのだから、どうせなら地元でやる予定のない映画をと選んだ今作。『わたしは光をにぎっている』がタイミングが合わずに、実はまだ観れていない私にとっては、これが初めての中川監督の映画になりました。


そして観てきたところ、個人的には大当たり。上半期ベストでも上位に食い込むであろう映画となっていました。わざわざ東京にまで観に来た甲斐があったというものです。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。





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―あらすじ―

たとえ記憶が消えてしまっても、ふたりの世界は少しずつ重なりゆく
大学の研究室で働く、足を引き摺る行助は、“たいやき屋”を営むこよみと出会う。
だがほどなく、こよみは事故に遭い、新しい記憶を短時間しか留めておけなくなってしまう。
こよみが明日になったら忘れてしまう今日という一日、また一日を、彼女と共に生きようと決意する行助。
絶望と背中合わせの希望に彩られたふたりの日々が始まった・・・。

(映画『静かな雨』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






『静かな雨』は、一言で言うならば"普通"な映画でした。やっていること、起こっていること、喋っていること。一日しか記憶が残らないというフィクショナルな要素こそあるものの、一つ一つを抜き出してみればどこまでも普通で、取るに足らないものです。ただ、やっていること自体は普通でも、この映画の出来は間違いなく非凡で、私の心にクリティカルヒットしました。地元では上映される予定がないから、わざわざ東京まで来て観て良かったですよ…!本当にありがとうございます…!


何が良いかってまずは主演の二人ですよね。行助を演じた仲野太賀さんのどこにでもいる男感が凄まじいわけですよ、一つには。足を引き摺ってこそいるものの、その他は身振り手振り口振りどれをとっても平々凡々。俳優さんにはやはりオーラがあり、普通を演じるのはなかなか難しいものですが、いい意味で今作の太賀はそのことを感じさせません。露店を見つめる眼差しや、料理をするときの手つきまで、本当に電車で私たちの隣の席に座っているような身近さがあります。


それでも見せ場ではスイッチを切り替えて、抜群の演技を見せるなど実力派と呼ばれるその所以を披露。足を引き摺りながら走るシーンは心が震えました。邦画で走るシーンは、その感情の強さを表すのに最適だからと、よく使われるのですが、あそこまでズタズタで泥臭い走り方はあまり見たことがありません。気持ちがひしひしと伝わってきてとても感動しました。


また、今作でヒロインであるこよみを演じた衛藤美彩さんは、これが映画初出演だとのこと。でも、それを感じさせない演技を見せていました印象です。端的に言うならばこよみそのものです。ちょっとした笑い方や仕草、寄り添うような話し方まで何一つ飾ることなく、等身大のこよみ像を作り上げていました。たい焼き屋さんでのお客さんへの対応はナチュラルなもので、こんなたい焼き屋さんなら足しげく通ってみたいと思うほどの暖かみがあって、36度5分のちょうどいい温度感です。


加えて、衛藤さんも記憶を失ってからの演技はさらに輝きを増していて。「ここ、ユキさんの部屋?」と何回も言うわけなんですが、どれもが微妙にニュアンスが違うんです。少しずつ落ち着いた感じになってきていて。さらに髪形を変えると同時に見せる表情も結構変わるんですよね。病床に伏せるときの切なさを纏った眼差しは、映画初出演とは思えないほど訴えかけてくるものがありました。今後の出演作も楽しみです。




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そして、この映画はこの二人の「知り合い以上恋人未満」な関係性がなんとも愛おしく切ないものでありました。たい焼き屋で出会った二人。真正面で顔をつき合わせることができるのは、店員とお客さんという他人行儀な関係性のみ。一緒にたい焼きを食べていても、顔を合わせることができず、歩く時も歩調は合わず、横並びになることはありません。まるで地球に自らの一面しか見せない月のように、お互いの全体像が見えない行助とこよみ。この微妙な距離感がいじらしくてめちゃくちゃ良いわけですよ。上手く言語化できませんが、とにかく良いということだけは言えます。


それを際立たせているのが、この映画の撮影ですよね。ロングショットや長回しが用いられる回数が多く、二人が初めて行助の部屋に入った時の解像度の低さといったら。まるで手持ちカメラで撮影しているかのようにカメラがぶれることも多い。細かくカットを割らないことで、この世界に存在しているというリアリティがより増していました。でも、ただ遠くから映しているだけではメリハリがないので、時にはクローズアップショットも使うことで、高低差をつけ、取るに足らない日常を特別なものにしていました。映画の魔法みたいなものを感じて、退屈することなく観ることができました


でも、こういっちゃなんですけど、本来私はこういった日常をただ映した映画ってあまり得意ではないんですよね。それでも、この映画が好きなのは音楽に依るところが大きいです。この映画って結構長い時間音楽がかかりっぱなしなんですよね。しとやかなピアノのメロディが。これが太賀さんと衛藤さんの演技を阻害することなく、やりすぎることなく、ちょうどよく映画を盛り上げてくれるんです。何もないように見える日常でも、スッと心に入ってきて音楽がかかるだけで、特別なものに変わるという映画の魔法みたいなものをここでも感じました。


ストーリーの話に戻ります。前にたい焼き屋さんに来た酔っぱらいを尾行する二人。その帰り道に、二人はなんてことのない他愛のない話をします。階段の前で二人は別れます。電話番号をたい焼きの袋に書いてこよみに渡す行助。スマホで連絡先交換せずに、書いて渡すというのはなかなか情緒があって良いですね(この映画の原作は2004年に発表されたものなので、その頃にはスマホはなかったからかとも思いましたが、次のシーンで普通にスマホが出てきていて少しびっくりしたのは内緒です)。そこに降る雨。行助が見上げると空は晴れていて、片面だけを向けた月がはっきりと見えていました


しかし、次のシーンではこよみが事故に遭ったことが判明します。描写もなしに、日常に闖入してきた急展開。意識を失っていたこよみは二週間が経ってようやく目を覚ましますが、事故で強く頭を打った影響で最新の記憶をとどめておくことができなくなります。つまり、こよみの記憶は事故に遭ったポイントで止まったままで、こよみの中で時間が動くことはありません。こよみはいったん家に帰りますが、放っておけない行助は、暦に自分の家で一緒に暮らすことを提案します。こうして、こよみの記憶には一切残らない二人の共同生活が始まりました


二人の共同生活は、前述したように取るに足らない平凡なもの。「ここ、ユキさんの部屋?」「雨上がったね」「ちょっと長くなるけど(話を)聞いてほしい」「コーヒー淹れよっか」。毎朝繰り返されるお決まりの会話。朝ごはんは行助が作り、夜ご飯はこよみが作る。日中は大学での研究、たい焼き屋さんと事故以前と何も変わらない時間を過ごします。どこか行こうか、何か特別な体験をしようかなどといった劇的なことは全くなく、二人は同じような、でも同じではない日々を送り、こよみの時間は止まったままです。記憶に残らないので、行助の嫌いなブロッコリーも相変わらず食卓に出されます。この観ているだけで胸が苦しくなる展開には観ていてどんどんと引き込まれました。




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ある日、こよみの元彼が九州からやってきます。大学を一年で中退したこよみのその後の様子を見に来たとのことですが、元彼と過ごした記憶はこよみの中に十全に残っています。しかし、行助との記憶は事故に遭ってからいつまでも更新されない。月の裏側が見えないのと同じように、こよみが知らなかった行助の側面、ブロッコリーが嫌いだとか焼き芋が好きだとかは、一瞬だけ見えてもすぐに隠されてしまいます。近くにいる自分のことを覚えてもらえない行助の辛さは察するに余りあります。太賀さんの諦めにも似た表情がそのことを痛切に感じさせました。


それでも、記憶は脳にだけあるわけではないことがこの映画では示されます。こよみに額にキスされた時のドキドキは行助の心臓が、少し欠けた月は網膜が、たい焼きの焼ける匂いは嗅覚が、雨に濡れる感触は冷たさとともに触覚が、こよみと二人で食べたたい焼きの味は舌が胃が腸が覚えているのかもしれません。60年間書き続けた日記を燃やしたにもかかわらず、翌日にはまた日記を書いた老人のように、脳の記憶が失われても二人で過ごした日々は、全身が覚えているかもしれない、いや、全身に残っているはずだという小さな希望が垣間見えました。


このブログの前のエントリーである『37Seconds』の感想にも書きましたが、「希望は、絶望を分かち合うこと」です。二人の日々は記憶されることがなく、更新されることもないという絶望。その絶望を二人が分かち合っていたことが判明したからこそ、太陽は昇り、街を照らし出しました。私たち一人一人が持つ世界。それは黄砂が来たり来なかったり、サインコサインタンジェントが役に立ったり立たなかったり、それぞれ違います。ただ、その異なるお互いの世界にお互いは存在しているというごくごく小さな、でも当たり前ではない喜び。ある一面しか見せない世界でも交差することで、取るに足らない普通の日常が特別なものに変わる様をこの映画は描いていたように私には感じられます。


雨が上がって、街をそれぞれの世界を太陽が暖かく照らすことを考えると、『静かな雨』はやはり希望の映画でしょう。なんてことのない日常に芽生える希望と、連続して起こるミクロの奇跡。一面しか見えなくても、それで十分だと私はこの映画を見て思いました。だから、あの終わり方とエンドロールがとても好きなんですよね。心ニクイ演出もされていて、最近エンドロールを見るか見ないかがまたちょっと話題になりましたけど、このエンドロールを見ないで帰る人はそうそういないと思います。私が観た回でも30人ぐらいいた観客の全員が最後まで席を立つことなく観ていました。その理由は観ればわかります。ぜひとも最後まで楽しんでください。


『静かな雨』、お腹いっぱいいただきました。ごちそうさまでした。



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以上で感想は終了となります。映画『静かな雨』、上映館数は限られていて、地方ではなかなか観る機会もありませんし、何も起こらない日常を映している時間も長いので、好き嫌いはある程度分かれると思います。でも、普通が特別なものとして観られる映画の魔法みたいなものを味わえましたし、私にはクリティカルヒットしたので、個人的にはお勧めしたいと思います。機会があればぜひどうぞ。


お読みいただきありがとうございました。
 

おしまい


静かな雨 (文春文庫)
宮下 奈都
文藝春秋
2019-06-06



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こんにちは。これです。


いきなりですが、私は発達障害の当事者です自閉症スペクトラム症(ASD)の診断を受けていて、精神障害者保健福祉手帳も交付されています。さらに今の仕事は障害者雇用枠で採用されていて、障害年金も受給しています。見た目では分かりませんが、私は障害者であるという認識を持って日々を過ごしています。


そんな私が普段何を思っているかというと、「生きていてごめんなさい」です。言うまでもありませんが、自分は生きていて良いと前向きに生きている障害者の方ももちろんいらっしゃいますし、そちらの方が多数派だとも思います。ただ、私は常に申し訳なさを感じているんですよね。


もっと重度の障害を持っていても、障害者手帳や障害年金を申請せずに頑張っている障害者の方はいくらでもいらっしゃいますし、ASDごときで障害者手帳や障害年金をもらっていてごめんなさいというのがまず一つ。それに、私が死ねば私にかかっているお金をもっと困っている方に回すことができると思うと、障害年金を受給していることに罪悪感をひしひしと感じています。


さらに悪いのが、障害年金を受けながら映画やサッカーなどに行っているということです。障害年金は皆さんの保険料や税金から出ているのにも関わらず、そのお金を何の役にも立たない趣味ごときに使って申し訳ない思いをしながら、割引料金で映画を観ています。どうですか?腹が立ちません?汗水たらして働いて納めた保険料や税金が浪費されているんですよ?生活保護でパチンコに行っている人が叩かれるのと同じように、私も叩かれるべきだと思うんですけど?パチンコと映画やサッカーは何が違うんですか?


とまあこのように、私が生きていて良いことなんて社会的に見れば一個もないわけですよ。だから早いとこ死ななきゃなぁと思いながら日々を送っています。「死にたい」ではなく、「死ななきゃ」です。ただ死ぬ勇気がなくて、もしかしたら人生で良いことがあるんじゃないかという誤った期待をしながら、生き延びています。本当に情けないことです。


でも、そんな私の鬱々とした思いを和らげてくれそうな映画が、2月7日の今日公開されました。『37Seconds』(37セカンズ)です。障害を持つ女性の性の目覚めと自立を、実際に脳性麻痺を持つ女性が演じたこの映画。映画の存在を知ってから、これは私のパーソナリティ的にマストの映画だと感じ、公開初日に早速観てきました。地元じゃやっていないのでわざわざ東京まで行って。有給も取って。


そして観たところ、期待していた以上の超絶大傑作でした。HIKARI監督の「社会はこうあってほしい」という思いを感じて、終盤はずっと泣きそうになりながら観ていました。現時点で今年のナンバーワンです。本当にありがとうございます。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・障害に真摯に向き合っている誠実な映画
・受容と自立の物語




―あらすじ―

ユマ23歳。
職業「ゴーストライター」。

生まれた時に、たった37秒息をしていなかったことで、身体に障害を抱えてしまった主人公・貴田ユマ。親友の漫画家のゴーストライターとして、ひっそりと社会に存在している。そんな彼女と共に暮らす過保護な母は、ユマの世話をすることが唯一の生きがい。
毎日が息苦しく感じ始めたある日。独り立ちをしたいと思う一心で、自作の漫画を出版社に持ち込むが、女性編集長に「人生経験が少ない作家に、いい作品は描けない」と一蹴されてしまう。その瞬間、ユマの中で秘めていた何かが動き始める。これまでの自分の世界から脱するため、夢と直感だけを信じて、道を切り開いていくユマ。その先で彼女を待ち受けていたものとは…

(映画『37Seconds』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・障害に真摯に向き合っている誠実な映画


まずこの映画を観て感じたことは、障害と真摯に向き合っているということです。それは「障害者を見た目では障害者として描く」という当たり前のことができていたからだと思います。


この映画では主人公の貴田ユマは下半身不随となり車椅子生活を送っています。母親の助けがなければ服を脱ぐことも、お風呂に入ることもできません。電車から降りるのも駅員の助けが必要。この映画では、そんなユマの現状を一番最初に見せ、理解を促していて、とても誠実だと感じました。


そして、ユマを実際に脳性麻痺を持つ佳山明さんが演じたことが、この映画における最大の成功だと思います。床を這って進むあのシーンはどんな名俳優でも決してできないものでしょう。その後のお風呂に入るシーンは迫力に圧倒されてしまいました。小さい声も自信のなさを印象付けていて、観客に可哀想だなという傲慢なイメージを植えつけます。


個人的に障害者が障害者を演じるってかなり難しいと思うんですよ。私だって普段の様子そのままだったらあまり障害者に見えないと思いますし、かといってオーバーに演じたら嘘になってしまいますし。だから、そのリアリティは障害を扱う映画では一番大事なものになるんですけど、この映画はそれが完璧で。佳山さん自身の努力と、HIKARI監督の慧眼が合わさって、まるでドキュメンタリーを見ているように自然で、血の通った貴田ユマになっていました



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ユマは親友の漫画家のゴーストライターをしています。しかし、そのことは公にはされていない様子。まあ障害関係なくゴーストライターって発表したらダメですからね。ここでリアルだなと思ったポイントが一つありまして。編集者が「アシスタントがいるって発表したらどうですか。障害者を雇っているとなるとイメージ上がりますよ」と言うんですよ。ここ障害を持っていない方でも不快に感じると思うんですけど、この不快なセリフを入れてきたことが、逆にとても真摯だなって思うんですよね。障害者に対する一般のイメージを表していて。


ご存知かとは思いますが、障害者雇用制度というものがあります。今、法定雇用率が民間企業で2.2%だったかな。45.5人以上の会社はその割合で障害者を雇いましょうという制度です。この制度自体は良いとは思いますし、私も恩恵に預かってはいるんですが、個人的にちょっと疑問があるんですよね。


黙ってやるならまだしも、「ウチはこれだけ障害者を雇用しています。社会に貢献しています」って公表する企業も中にはあるんですけど、障害者雇用ってアピールするものではないでしょう。特別だという意識が表れちゃってますけど、もっと一般的なものだと思うんです。そして、その企業のイメージは上がるって何だそれ。障害者をアピールの材料に使わないでほしいです。絶滅寸前の動物を保護してますとか、地球環境のために植樹してますとかそのくらいにしか考えてないんじゃないですか。こちとら一人の人間じゃい。


つまりは、まだまだその程度の理解だということですよ。健常者から見た障害者というのは。そのことを上記のセリフは端的に表していて、この映画は信頼できるとなりましたね、私は。悪い側面もそれとなく描いていて、とても誠実だなと感じました。




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ゴーストライターとしていることに少しずつ鬱憤がたまっていくユマ。ふと見つけたエロ漫画雑誌に自作のエロ漫画を持ち込みます。このエロ漫画、導入はSFチックなもので、映画では漫画がアニメーションのようにCHAIのポップな音楽に合わせて動くんですよね。虚実織り交ぜたフィクションの楽しさが出ていて、ここはぜひとも観ていただきたいところです。HIKARI監督のセンスよ。


それでも、ユマの描いた漫画は「人生経験がない」、言い換えれば「セックスをしたことがないから描写にリアリティが感じられない」と却下されてしまいます。この言葉にショックを受けたユマは出会い系サイトに登録して、男性と会ったり(ここで登場した最後の男性が健常者の障害者に対する認識を如実に表していて良かったなぁ。「意識しない」と言っている時点で意識している)、風俗を求めて街をさ迷ったりします。さらには、漫画というよりも自身のためにアダルトグッズを買いに行きもします。透明の男性器は思わず笑ってしまうほどでした。


こういった性的要素を描いているのもこの映画の真摯なポイントでして。障害者の性愛ってタブー視されがちですよね。去年も24時間テレビの裏でNHKが「2.4時間テレビ 愛の不自由、」という番組をしていたぐらいですし、ここも健常者が障害者をどこか違う存在としてみているのが現れているのかなと思います。ただでさえ大変なのに性に意識を向けるなんて、それはいけないことだという意識の表れでしょうか。正直、私にもその意識がないとは言えません。


ただ、障害者も当然性欲はあるわけですよ。だって人間だから。子孫を残すようにプログラムされているから。この映画にはセックスワーカー(障害者に対して性的サービスを行う)の女性が登場しました。彼女は自らの仕事に誇りを持ち、とても明るく、ユマの性の先導役となっています。風俗でのセックス前の描写などは力が入っていましたし、ナイーブな部分でも包み隠す必要はないとこの映画は描いているようでした。人間だから性欲もあって当然というこの映画の姿勢は、障害に左右されない人間のリアルな部分を描いていて、とても好感が持てました



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・受容と自立の物語


この映画は障害を持ったユマの自立と受容の物語なのだと思います。なにを当たり前のことをと思うかもしれませんが、これは障害のあるなしに関わらず、思春期の人間にとって訪れる大きな試練ではないでしょうか。


よく障害に対する態度で大切なのは受容であると言われます。障害の受容というのは、自分自身の障害を受け入れて、できることとできないことがあることを認めること。障害から目を逸らさず、それでも前向きに生きることです。この障害を受容することは、誰にとってもなかなか難しく、かくいう私もまったくできていません。


近年では、障害をその人間の個性だとする向きもあります。発達障害は発達凸凹と言い換えられることもあります。でも、ここで健常者の方々に聞きたいのは、あなたは障害という"個性"を持って生きたいですか?脳性麻痺で下半身不随となってもいいのですか?ということです。障害者の方々に失礼なのは重々承知です。ただ、自らの胸に問いかけてみてください。答えは聞きませんが。


私は、生まれ変わったら健常者として生きたいと思っています。ASDがあることで人とのコミュニケーションが上手く取れないこんな人生は嫌です。そう思う私はやはりASDを受容することができていないのでしょう。ASDや脳性麻痺といった生まれ持った障害だからといって、本人が受容できていると思ったらそれは大間違いです


ここで誤解されやすいのが、障害があるから何もできないという諦めと受容が同じだということ。この二つは違いますできることもあると認識するのが受容なのです。障害があるから何もできないという言い訳じみた諦めとは全くの別物です。つまり、障害を言い訳にしていないかということです。私はしまくっています。コミュニケーションが上手く取れなかったときなどASDだからなと落ち込み、ASDだから自分には何もできないと思い込んでしまっています。


そして、私個人はこの諦めをユマにも見ました。これは私の勝手な想像ですが、ユマは母親の過保護にも思える援助により、人にしてもらわなければ何もできないというマインドセットになりかけていたのだと思います。息苦しさを感じていたものの、でも私には障害があるから…と映画が始まる前のユマは感じていたのだと思います。




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しかし、編集長に漫画を却下されたことで、現状への不安が出てくるユマ。セックスワーカーの女性と出会い、母親や親友とは離れて遊ぶようになります。自分の意思を強めていきます。少しずつ自分は自分であることを認めていくユマの目は、シーンを追うごとに輝きを増していったようでした。これは一見母親や親友からの自立にも見えます。


よく、自立は何にも頼らず一人で生きることと誤解されがちです。でも、考えてみてください。私たちは誰にも頼らず生きているでしょうか。誰かが作った食べ物をいただいて、誰かが稼動させている電気や水道を使い、誰かからお金をもらって、誰かにお金を払って。現代社会で誰にも頼らず生きていく、完全な自立をすることは不可能です。それは物理的にも精神的にもそうです。


以前読んだ本に「自立とは、依存先を増やすこと」と書いてありました。依存先とは安心して身を委ねることができる場所と言い換えてもいいかもしれません。自らの人生を求めて、自発的に動くようになったユマは多くの人と出会うことになります。セックスワーカーの女性に、その同僚の男性。いなくなった父親に生き別れた姉など、ユマの世界は大きく広がっていきます。ここで印象的なのは、この誰もがユマのことを拒絶せず、受容していたことでしょう。


彼ら彼女らは障害を持つユマのことを特別視せず、障害も含めた一人の人間として扱っています。その受容は単なる表面的な受容ではありません。同じ本に、「希望は、絶望を分かち合うこと」とも書いてありました。ユマの脳性麻痺は治ることのない障害です。しかし、ユマを取り巻く人々はその治ることのない絶望まで含めて、ユマを受容していたように私には思えました。人間としてこうありたいという理想ですね。たびたび言ってますけど、フィクションは理想を描くべきだと思っている私にとっては、この展開は泣きそうになるほど胸に響きました。


そして、いくつもの受容をされたユマは最後に「私は私でよかった」と、自らの障害を受容します。周囲の人に受け入れられている感覚があると人間は自分のことを大切に思えるようになるものです。周囲の人がしてくれたように、自分の障害を受容することができたユマ。言い訳をしない強い決意。「私は私でよかった」と依然思えない私は、ユマの放った大いなる希望に、思わず心を動かされてしまいました。こうありたいなと強く願いました。


さらに、極めつけはユマと母親の和解。ユマは母親の援助を過保護と言っていましたが、それも母親のユマに対する強い愛情があったからなんですよね。じゃなきゃ警察に捜索届けまで出さないですよ。そのことを旅の過程で知っていくユマ。最後にはユマは母親の元に戻ってきます。しっかりと戻ることのできる巣、安心して身を委ねられる場所があっての自立。ラストシーンのユマの表情はとても晴れやかで、この映画を観てよかったと幸福感に浸らずにはいられないほどでした。




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健常者は障害者に対して「助ける」や「雇う」といった言葉を使います。しかし、それは「助けてやろう」や「雇ってやろう」といった健常者の上から目線の傲慢であるように私には感じられます。もちろんその傲慢で助かっている障害者の方も多くいるのですが、それだと障害者を本当の意味で受容したことにはならず、両者の溝は埋まりません。


そうではなく、上下ではなくまず一緒の場所に立つこと。そして、差し出された手をお互い取り合って生きていく。手を繋いでお互い安心して身を委ねられる、依存できるようにすることが自立につながる。自身の受容は障害に関係なく全ての人間にあるのだから、そのことを理解して、心の壁を取り払う。いわば「心のバリアフリー」が実現できる社会であってほしい。そのことをHIKARI監督はこの映画で描いたと私は受け取りました。本当に良い映画です。


なので、障害のあるなしに関わらず『37Seconds』は、一人でも多くの方に観ていただきたいですね。どんな感想を持ってもいいので、まず観てみてください。今年屈指の映画です。強くお勧めします。


お読みいただきありがとうございました。


参考:

障害受容
http://www.arsvi.com/d/aod.htm


おしまい






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こんにちは。これです。


いきなりですが、私は小規模映画が好きです。近代化されていない町の小さな映画館でコーヒーを飲みながら観る小規模映画が好きです。なぜなら観る人が少ないから。観る人が少ないと興収も上がらず作り手さんたちにお金が入らない。だから興収に少しでも貢献しようと、小規模公開映画を観に行って感想を書いたりするわけですよ。迷ったときには公開規模が小さい映画を選ぶことさえあります


でも、その小規模映画も大作と呼ばれる映画がなければ成り立たないんですよね。大作映画の興収で映画産業自体が潤って、その分を小規模映画に回せる。大作が不振に陥りパイが少なくなると、その煽りを受けるのってまず小規模映画なので、大作映画は大作映画でヒットしてほしいなという思いもあります。


ただ、日本じゃ大作映画が作りづらい。その最大の要因は予算でしょう。だって、ハリウッドの超大作と比べると日本映画の予算ってウン十分の一という話ですからね。今どき映画という意味のないものに大金を出してくれるスポンサーなんていないですよ。そして、それがオリジナル企画となれば尚更です。ヒットするかどうかも不透明なオリジナル企画にお金を出してくれるスポンサーとなればその数はさらに少なくなることでしょう。
 

そこに現れたのが『22年目の告白』の入江悠監督のオリジナル大作映画『AI崩壊』です。2030年の近未来を舞台にAIが命の選別を始めるというディストピアを描いたこの映画。日本のオリジナル企画でここまでの規模の映画はなかなかなく、それが初週で興収1位を獲得しているという事実は歓迎すべきものではないでしょうか。


というわけでこの波に乗り遅れないうちに観てきましたよ、『AI崩壊』…!観終わった後の感想を一言で言うなら凹んだですけどね...!まあそれは観る前から分かっていたことですけど…!


それでは感想を始めたいと思います。ただ、まとまっていないのはいつものことの上、かなりセンシティブなことまで書いています。それでもよろしければお読みいただけると幸いです。




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―目次―

・AIのリアリティは説得力十分
・テメェのケツぐらいテメェで拭くぜ!
・間引かれて当然の人間だよ私は





―あらすじ―

2030年。人々の生活を支える医療AI「のぞみ」の開発者である桐生浩介(大沢たかお)は、その功績が認められ娘と共に久々に日本に帰国する。英雄のような扱いを受ける桐生だったが、突如のぞみが暴走を開始――人間の生きる価値を合理的に選別し、殺戮を始める。警察庁の天才捜査官・桜庭(岩田剛典)は、AIを暴走させたテロリストを開発者である桐生と断定。日本中に張り巡らされたAI監視網で、逃亡者・桐生を追い詰める。桐生が開発したAIを管理していたのは、桐生の亡き妻でありAI共同開発者の望(松嶋菜々子)の弟、西村(賀来賢人)。事件の鍵を握る西村も奔走する一方で、所轄のベテラン刑事・合田(三浦友和)と捜査一課の新米刑事・奥瀬(広瀬アリス)は足を使った捜査で桐生に迫る。日本中がパニックに陥る中、桐生の決死の逃亡の果てに待っているものとは?一体、なぜAIは暴走したのか?止まらないAI社会の崩壊は、衝撃の結末へ――。

(映画『AI崩壊』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






・AIのリアリティは説得力十分


結論から申し上げますと、『AI崩壊』は昨今ないほどの大作ムーブを味わえる映画でした。やたらと人の多い状況での撮影。監視と追手をどうやって潜り抜けるという緊迫した展開(途中までは)。病気、爆発、海外ロケ。大仰さを増していく音楽に、最後は気合い。情緒的な主題歌に、30人規模の製作委員会(エンドロールもよかったら観てね)。ここまでの大作ムーブを全身に受けて、却って清々しい思いさえしました。


時は2023年、AI開発者の桐生浩介は新たな医療用AIの開発に成功します。ただ、そのAIの使用は国から認可が降りず、病気の妻を救うことができませんでした。正直「また病気か...」とちょっと辟易してしまった部分はあるのですが、動機づけのためには必要な要素なので、そこまでとやかく言うところではないですね。「いつかAIで病気に苦しむ人を救ってほしい」という思いは至極真っ当なものですし。


桐生は亡き妻の思いを糧にし、また関連法も成立したことで、医療用AI「のぞみ」は受け入れられ、稼働を開始。腕時計型の「のぞみ」により、人々の健康は管理され的確な治療が可能に。また、「のぞみ」は他AIとも連携し、移動や生活にも活躍の場を広げ、2030年には「のぞみ」は電気、ガス、水道に続く第4のライフラインとして人々の暮らしに根付いていました。(書いてて思ったけど、2030年ってまだガスは健在なのかな。電気や水道と並ぶほどの存在感はないような気もする)


このAI関連の描写は三名の専門家に監修してもらっただけでなく、入江監督自身も「人工知能学会」というアカデミックなところに入会して1年に渡る取材を続けたそう。その甲斐もあってAIの描写は限りなくリアルに近づいていましたね(本当かどうかはまだ体験していないので何とも)。買い物から運転、エアコンの温度設定までいたるところでAIが主導権を握っていて、もはや体の一部。それがいきなり切り落とされるのですから、あそこまでのパニックも頷けます。警察の捜査用AI「百眼」による捜査も凄く怖かったですし、AI関連の説得力は観客を騙すには十分すぎるほどの説得力があったと思います。




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2030年、桐生とその娘のはシンガポールで暮らしていました。千葉に「のぞみ」の新たなデーターセンターが完成した記念に(ついでに総理大臣賞も)、再び日本に帰ってくる二人。ただ、久しぶりの日本は少子高齢化と過疎化によってそんなに大きくは変わっていない様子。新設されたデーターセンターの前では、産業革命時よろしく(ちなみに今は第4次産業革命の真っただ中。詳しくは調べて)、AI反対のデモが盛大に行われていました。ここ個人的には少しうるさすぎたかな。というかデモのシーンは全体的に音量を少し下げてほしいと感じました。


さて、映画は桐生の記念スピーチの最中。そこにAI反対派の記者が乗り込んできます。「AIが人を選別することはないのか」と。当然桐生は笑顔で否定。車に乗り込んで総理官邸に向かおうとしますが、心が家族の思い出の写真をどこかに落としてしまいます。後から追いつくからと桐生と別れ、地下13階のデーターセンターにまで探しに行く、心とHope(「のぞみ」の管理会社)の社員たち。


しかし、ここで何者からの外部アクセスによって「のぞみ」が暴走。制御不能の状態に陥ってしまいます。そして、データーセンターに一人閉じ込められる心。何者かに攻撃を受けたと判断した「のぞみ」は自らを冷却するために室温を下げ続けます。心はみるみるうちに低体温症に。このままでは24時間も持たないと宣告されてしまいます。ここで、この映画に一つのタイムリミットが設定されました。


一方、Hopeは外部アクセスの発信源を特定。その発信源は桐生が持っているデバイスでした。しかし、桐生は身に覚えがありません。それでも機動隊が到着し、桐生を取り囲みます。でも、「のぞみ」暴走の余波による事故で、桐生は機動隊からいったんは逃げ出します(機動隊ザルじゃない?とも思ったけど、ここで捕まったら話が終わってしまうので仕方ない)。ここから桐生の逃走劇が幕を開けました。


この逃走劇、前半は文句なしに面白いんですよね。桐生を追い詰める警察の捜査用AI「百眼」はその名の通り、あらゆる監視カメラやAI技術を用いて桐生をパパッと特定します。個人のドライブレコーダーやデバイスまで使っていて、プライバシーもへったくれもない違法捜査ですが、逃げ場のない緊迫感はありました。


さらに、逃げる場所も街中、地下水路、船の中など多彩。特に地下水路と船の閉鎖感はいつ捕まるんじゃないかと観ていてドキドキさせます。場所選びが上手いですね。BGMを抑えめにして緊迫感を出していたのも良きでした。あと、桐生を演じた大沢たかおさんが無駄にムキムキだったのも良かった。開発者だってジムに行くし、筋トレもするだろと言われたらそこまでなんですが、このムキムキさが一般的な開発者のイメージとギャップがあって面白かったです。追われている必死な感じも増していましたしね。演技自体も迫真のものでした。




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・テメェのケツぐらいテメェで拭くぜ!



ただ、前半はとても面白かったし、没入できたんですが、後半になると少し冷めてしまったんですよね、私は。正直に言うと、途中でゴールが見えてしまったんです。


具体的には副総理が再登場して、総理大臣になったシーンぐらいですかね。「あっ、こいつが黒幕だ」って気づいてしまったんですよ。まぁ大体の人は初登場時の「国民仕分け法」の時点で気づいたと思うんですけど。副総理が国家維持のために主導しているって。その構図が見えてしまって、言ってしまえば途中でどうでもよくなってしまったんですよ。「はいはい、こいつが黒幕でしょ」って。まあ展開を追う必要もなくなって、俳優さんたちを追えたのはよかったんですが、心が少し離れてしまったのは正直なところです。


でも、期待はしてました。「衝撃の結末と謳うからには、きっとこの簡単な予想を超える展開があるはずだ」って。でも、予想通り普通に副総理が黒幕で。国家維持のために人間を選別していて。この映画って公開一週間前くらいに重大なネタバレが出回って、ちょっとした騒ぎになったじゃないですか。まあ私はそのネタバレを踏まずに観にいったんですけど、これならネタバレされててもあまり変わらなかっただろうなという気はしました。ぶっちゃけそろそろ「衝撃の結末―」と宣伝するのは控えてほしいですね。衝撃じゃなかったときの落胆が後を引いて映画の評価を下げてしまうので。


そんな少し心が離れた状態でも、映画はお構いなしに続きます。「のぞみ」は人間の指示に従わず、何かを学習中。そして学習をコンプリートし、社会に必要な人間と不要な人間の選別を始めました。その選別が完了するまでは6時間。ここで、この映画に二つ目のタイムリミットが設定されました。



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その後は、桐生の義弟である西村が撃たれたり、車が爆発したり、なんだかんだありつつ、桐生は心が閉じ込められている千葉データーセンターに到着します(6時間過ぎてない?とは思いつつもない。何故か東北自動車道空いていたけど)。ただ、そこに待っていたのは警察庁の理事官でサイバー犯罪対策課を指導する桜庭ら警察の面々。桐生万事休すか―と思いきや、持ち前のプログラミング技術を駆使し、桜庭が犯人であることを突き止めます。


桜庭は言いました。


働ける人間は国民の50%、未来を担う子供は10%未満、残り40%は老人と生活保護者。日本は破綻している
国家を維持するためには生産性のない人間には退場してもらうしかない
これからは合理的なAIで合理的に進めなくては


正直一理あると思います。国家を維持するだけなら正しいとさえ思います。まあとうてい受け入れられるものではないですけどね(これについては後述します)。


罪を認めた桜庭。しかし、桐生によってその供述は全世界に配信されていました。逮捕される桜庭。その前に桐生がこう言いました。


AIにできなくて、人間にしかできないことがある。責任を取ることだ


これは耳が痛い言葉です。だって、AIに全てを任せておけば何かあったらAIのせいにすればいいんですから。自分で責任を負わなくて済んで楽ですからね。でも、責任を手放して、自分の命の綱を他人に握らせておいた結果が、あの大パニックです。命の選別です。どんどんAIが進歩していって、権利や責任を委譲する人間への警鐘なのかもしれないですね、この映画は。痛い目見るぞっていう。


これはたぶん分からないと思うんですが、昔「世界まる見え!テレビ特捜部」だったかな。世界の面白CMを紹介するコーナーがあったんですよ。そこでペーパーレス社会をイジったCMが紹介されていて。どんなにペーパーレス社会になっても、トイレットペーパーは変わらず必要だよというものだったんですけど、それを思い出しましたね。というか覚えている人います?ネットを検索しても出てこないんですけど。


まあなんでこれを思い出したかと言うと「テメェのテメェぐらいてめえで拭くぜ!」ってことなんですよね。自分の責任は自分で負うという。昔のヤンキー漫画の精神よ今再び。普段から責任を他人に押し付けて逃げてばかりの私ですけど、もうちょっとしっかりしよう。じゃないといつ殺されるか分からないなと思い知らされましたね。AI以前に人間として大事なことです。まあ自己責任論も行き過ぎると自分を刺す刃になってしまうので、そこはほどほどにですけどね。


それと桜庭関連で気になったのが、最後。「遅かれ早かれAIは人間を選別しますよ」って言ってたじゃないですか。取調室で。あれ誰に向かって言ってたんですかね?いや映画を観ている私たちにだとは思いますけど、なんか「世にも奇妙な物語」のタモリさんみたいになってませんでした?シンギュラリティが来るよって警告したかったんでしょうけど、ほら、今結構有名じゃないですか、シンギュラリティ。「仮面ライダーゼロワン」でも取り上げられて。知名度が上がった分、最後の桜庭のシーンはちょっと蛇足に感じてしまいました。桜庭を演じた岩田剛典さん自体はあまり見ないクールな役どころでよかったんですけどね。




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えっと、まだもうちょっと書きたいことあるんですけど、これ書いていいですかね…?結構センシティブな話題なんですけど…。






分かりました。書きます。ただ、石は投げないでくださいね。あくまで個人の感想であり、何らかの意見を代弁するものではないですから。それだけは留意してもらえるとありがたいです。

















※ここからは非常にセンシティブな内容を含みます。不快な表現も多々あります。もしかしたら気分を害されるかもしれませんが、それでもよろしければどうぞ。












・間引かれて当然の人間だよ私は


桜庭は言いました。


国家を維持するためには生産性のない人間には退場してもらうしかない


この思想、ナチスドイツの優生思想にも似た危険な思想ですが、正直分かってしまいます。というか、この映画の予告編を見て「あっ、真っ先に私殺されるわ」と思ったぐらいですから。はっきり言えば、私はこの世から、社会から退場すべき人間なんですよ。


『AI崩壊』を観て、私はある事件を思い出しました。2016年7月26日、神奈川県相模原市で起きた戦後最悪の大量殺人事件(当時)。「津久井やまゆり園事件」です。


相模原障害者施設殺傷事件(さがみはら しょうがいしゃしせつ さっしょうじけん)は、2016年(平成28年)7月26日未明に神奈川県相模原市にあった神奈川県立の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」にて発生した大量殺人事件。元施設職員の男A(犯行当時26歳)が施設に侵入して所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。


(相模原障害者施設殺傷事件-Wikipediaより引用)



今年に入って公判が行われたことも記憶に新しいこの事件。もう二度と繰り返してはならない事件ですが、この男Aは犯行前に当時の衆議院議長にこのような手紙を宛てています。



私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

(参考:http://wwwave.net/blog/arok/ishihara/sagamihara-2016.html



男Aは手紙の中で障害者を「不幸を作ることしかでき」ない存在とみなし、「障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」と誤った思想を平然と正当化しています。これは「価値のない人間を選別して間引く」という『AI崩壊』で描かれたAIの暴走と何ら変わりのないものではないでしょうか。これは間違いなく唾棄すべき思想です。あってはいけません。少なくとも道義上ではです。


ただ、勘違いしてほしくないのは、私はこの点を以って『AI崩壊』をあってはならない反道義的な映画だと弾劾しているのではありません。むしろフィクションの中でしか描けない(と私たちは思いたい)思想であり、その恐怖を突きつけたこの映画は、個人的な拒否こそすれ、誰に否定されるものではありません。思想の自由は保障されるべきもの。ただただ私だけが落ち込んでいるということです。


それは、おそらく私自身が障害者であるからでしょう。私は発達障害当事者であり、精神障害者保健福祉手帳の交付を受けています。また、障害基礎年金の給付も受けています。私は皆さんの税金で生かされています。いつもありがとうございます。


ただ、それと同時に申し訳なさも感じるわけですよ。生きていてごめんなさいという。だって私が死ねば、その分の障害年金をまた別のところに回せますからね。それで助かる人もいるでしょうし。本当発達障害程度で障害年金の給付を受けていてごめんなさいですよ。もっと重度の障害を持つ方で、障害年金の給付を受けずに頑張っている方はいくらでもいるわけですし、その方々に顔向けができないです。


それに、私は障害年金の給付を受けていながら、映画やサッカーに行っているんですよ。一応障害者雇用で契約社員として働いてはいますが、その収入は生活費に消えていきます。映画鑑賞やサッカー観戦といった趣味の費用は障害年金から捻出しているのが実情です。どうですか?腹立ちません?金返せと思いません?生活保護でパチンコに行く人は叩くくせに、私を叩かないのっておかしくないですか?パチンコと映画やサッカーでは何が違うんですか?だから、映画を観るときはいつも申し訳なさを感じているわけですよ。皆さんの税金で映画を観てごめんなさい。1000円の割引を受けていてごめんなさいって。


まあ私は生きていても何の役にも立ってませんし、誰も幸せにしてませんし、間引かれて当然の存在
というわけです。私がいなくなれば皆さんの税金をちょっと有意義に使うことができるわけですからね。だから「退場してもらうしかない」と言われたら、ごめんなさいごめんなさいですよ。まあ好んで刺されに行った部分もあるんですが、想像通り刺されて凹んでます。これで、この映画に文句を言ったとすれば、それはいちゃもんと呼ばれるものでしょう。その事実が私をさらに落ち込ませるわけですよ。この気持ち分かるかなぁ。分かんないか。みんな経済的に自立してますもんね。


でも、だからこそこの映画を観て少しでも分かってほしいんですよね。間引かれる側の気持ちを。他の方は違うと思いますが、私は間引かれて当然だと思っているので。そして自らの倫理観を問い直していただければ幸いです。自分にも優生思想な部分がないかどうか。それを自覚して無くす努力をすることで、漠然とした言葉ですけど、より良い共生社会に近づくのかなって。そう感じました。




あぁ辛い。凹むなぁ。これは絶対『37セカンズ』観なきゃなぁ。


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脳性まひの女性が主人公の映画で、私のパーソナリティ的に観ないとダメな映画だと思ってはいたんですけど、より観たい思いを強くしました。私の落ち込んでいる気持ちを和らげてくれるはず。多分。とりあえず明後日観に行こうと思っているので、何事もなければこのブログにまた感想を書きますね。おそらく同じ話をすると思いますが、何卒よろしくお願いします。
















以上で感想は終了となります。最後の方、感想じゃなくて懺悔になってしまってごめんなさい。でも、『AI崩壊』自体は、近未来SFとして見どころの多い作品に仕上がっています。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


AI崩壊 (講談社文庫)
浜口 倫太郎
講談社
2019-11-14



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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『前田建設ファンタジー営業部』。マジンガーZの格納庫を作るという無茶なプロジェクトに情熱を注いだサラリーマンの物語です。一見すると空想上の話に思えるかもしれませんが、なんと実話だそうで。前田建設ファンタジー営業部も実在しているそうなんですね。空想に本気で取り組むユーモラス。映画自体の評判も上々で期待も高まります。


で、観たところ期待をはるかに上回る面白さでした。面白過ぎて途中で涙出てきたくらいです。今年観た映画の中でも一二を争う楽しさがありました。


では、感想を始めたいと思います。全くまとまっておらず、また拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・俳優さんたちの好演が映画に熱を与える
・人を動かし、ワクワクさせるのは好きという情熱




―あらすじ―


2003年.前田建設工業のオフィスの片隅にある広報グループ。
社会人になったら粛々と生きていく、と働くことに情熱を見いだせないでいたドイ(高杉真宙)が憂鬱そうにパソコンに向かっている。満面の笑みをたたえたグループリーダーのアサガワ(小木博明)の「マジンガーZの格納庫を作れるか」という問いに、適当に答えるドイ。そんな二人のやりとりに、同グループのベッショ(上地雄輔)、エモト(岸井ゆきの)、チカダ(本多力)も入ってきて口々に持論を展開する。部下たちが話に乗ってきたタイミングを見計らい、アサガワの声が轟いた。

「うちの技術で、マジンガーの格納庫作っちゃおう!」


しかし、昨今では、新規事明らかに縮小、民間営業は厳しいコスト合戦を強いられている。そんな中でも、どこかにブルーオーシャンがあるんじゃないか・・・。あったんだよ!それが、マンガやアニメの世界、つまり空想世界からの受注だったんだよ!空想世界では、毎週のように、さまざまな建造物が、作っては壊され、作っては壊され!そんな奇跡のようなニューフロンティアに、わが社がいち早く、乗り込もうじゃないか!」

かくして、アサガワに巻き込まれる形で広報グループは、マジンガーZの地下格納庫を作る依頼をファンタジーの世界から受けたという体裁で、検討に向け始動する。アサガワが上層部やマジンガーZの権利元に次々と根回しをし、部員たちも創意工夫を凝らしていくが、前途多難な問題が次々と襲い掛かる。

最初は、冷ややかだったドイも、渋々ながらも巻き込まれた部員たちと共に、掘削オタクで土質担当のヤマダ(町田)、クセの強いベテラン機械グループ担当部長のフワ(六角)、さらに社内だけでなく社外からも協力を得て、前代未聞のミッションに立ち向かっていく。


(映画『前田建設ファンタジー営業部』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。











・俳優さんたちの好演が映画に熱を与える


まず、この映画はプロローグ一切なしで会社のシーンから始まります。広報グループで粛々と仕事に取り組む主人公のドイ。そこに部長のアサガワがマジンガーZが表紙の雑誌ドーンと置きます。主題の提示まで一分と掛かっていない。素晴らしいスピード感です。


そして、その後のさりげない会話でキャラクターの性格を見せるのがまた上手いんですよね。土井はあくまでクールでツッコミ役。会話を引っ張るアサガワの快活さ。ドイの先輩であるベッショの調子のいい性格。アニメに詳しくないし、関心もあまりないドイの同僚のエモト。普段は目立たないけれど、アニメのこととなると目の色が変わるチカダ。わずかなシークエンスで口調やワードチョイスを駆使してキャラクターを観客に理解させる手法は見事だと感じました。ベッショが溜めて色のいい返事をしたのが好きですね。


それになんといってもあのオープニングですよ。アッパーな曲を背景に特殊効果を用いて臨戦態勢。全員キメキメで思わず笑ってしまうほどでした。実写映画であそこまでちゃんとしたオープニングがあるのはなかなか珍しいのではないでしょうか。特に風に吹かれる土使い・岸井ゆきのさんが好きでした。あそこ髪に隠れた目が決まりすぎてぞくっとします。本編で宇宙に行きそうになっていたのと同じ人物とは思えないほどでした。


それにエンドロールも凝っていたのが最高でしたよね。氣志團の熱い曲に合わせて、手帳やら付箋やら事務方の道具に合わせてキャスト&スタッフの名前が書かれるという。これも後でも書きますけど、意味のないことなんですよね。エンドロールって普通に黒地に白文字で十分ですもん。でも、意味のないことに全力を傾けるこの映画を踏襲していて、遊び心があって、最初から最後まで楽しむことができました。本当に始まって秒で楽しい&面白くて、それが途切れることなく最後まで続くんですよね。どこをとっても楽しく面白く、まるで金太郎飴みたいだなって感じました。めちゃくちゃ優秀なエンターテイメント映画だと思います。









また、この映画の見どころとして挙げられるのが俳優さんたちの好演。この映画では基本的に喜怒哀楽をはっきり出したオーバーめな演技を皆さんされていて、その熱量が虚構に真剣に取り組むこの映画になくてはならないエンジンとなっていたように感じました。もちろんオーバーに演じればいいというわけではありませんが、ファンタジー営業部の面々が情熱を傾けて積算に取り組んでいる様子が、この映画においてはばっちりとハマっていたんですよ。


まずは、ドイを演じた高杉真宙さん。働く喜びを感じられないというキャラクターですが、高杉さんのあっさりとした出で立ちがピッタリでした。周囲が夢中になっていく中で置いてけぼり感を食らっているところの演技が好きでしたね。そこからの真剣に積算に取り組むようになるシーンのギャップよ。とある問題が発生した時に熱い気持ちを吐露するシーンは、本当に目の色が変わったようでした。終盤の状況が呑み込めていない雰囲気も良かったですね。観ている人の気持ちを演技で代弁していて。


続いて、ベッショを演じた上地雄輔さん。すぐ乗せられるチョロさが最高でした。調子のいい性格で、アサガワとチカダの次にプロジェクトを引っ張っていくのですが、その役柄をやや大げさに、それでもキザになり過ぎず演じていたのが印象的です。上地さんのパブリックイメージに近いキャラクターだったので、その分力も発揮しやすかったのでしょうか。口調も極めて自然体でこういう人いそうだなという親近感がありました。


次に、エモトを演じた岸井ゆきのさん。『愛がなんだ』での演技が記憶に新しいところですが、この映画では反対に、プロジェクトという対象からは距離を置く役柄です。その何言ってんだみたいな目線が刺さりました。難しい単語を処理できずまどろみ、宇宙に行っている演技はなおのこと刺さりました。あそこから真顔に戻る瞬間最高。でもって、土質担当のヤマダとの二人のシーンは、その微妙な距離感が良かったですよね。恋の始まりみたいな感じ。あそこの岸井さんのさりげない笑い方好きです。


さらに、チカダを演じた本多力さんの、オタクっぷりが板についていること。マジンガーZのオープニングを見ているときのはしゃぎっぷりは身に覚えがある人もいるんじゃないでしょうか。その後の周囲に引かれるところまでセットで。でも、プロジェクトについて語るときの本多さんの幸せそうな表情と言ったら。まさに水を得た魚ですよ。あと協力会社に一人放り込まれるところの心細そうな演技がツボでした。生まれたての小鹿みたいだった。


他にも、掘削オタクのヤマダを演じた町田啓太さんの純粋で心優しそうな感じや、ベテラン社員のフワを演じた六角精児さんの、落ち着いていながらちょっと可笑しい演技など魅力的な俳優さんたちを上げればそれこそキリがありませんが、やはりこの映画の一番のポイントは課長でプロジェクトリーダーのアサガワに、本職俳優じゃないおぎやはぎの小木博明さんを起用したことだと思います。この大胆なキャスティングがめちゃくちゃ功を奏していたんですよね。


そもそもこのアサガワはそのハイテンションで物語を引っ張るという非常に重要なキャラクターでした。これをですね、小木さんは声を張り上げて見事なまでに演じているんですよ。そのテンションや調子のいい態度、距離をすぐ詰めてくる感じなど、若干うざったいぐらいです。ややドライな目が眼鏡で強調されてよりうざい(褒めてます)。笑った顔に少しの悪意がにじみ出ているのもまたいいです。状況を楽しんでいる感じがして(褒めてます)。こういう人いるよねという。でも具体的な名前は思いつかないという絶妙なリアル感。小木さん以外にはあまりできない、この映画のMVPといっても過言ではないと思います。よく考えついたなぁという感じです。





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・人を動かし、ワクワクさせるのは好きという情熱



マジンガーZの格納庫を作る―。弓教授から空想世界通信装置で受注を受けた体で、見積もりを出す―。しかし、実際には作らない―。その無茶なプロジェクトに、アサガワとチカダは俄然乗り気ですが、ドイ、ベッショ、エモトの3人はあまりやる気がありませんでした。こんな無償で意味のないことをして何になるの?といった感じです。それは映画を観ている私たちも同じ。マジンガーZの格納庫を作る意味も意義も見出せません。ドイたちの冷ややかな態度は観ている私たちがそこにいるかのようです。


でも、この3人を動かしていくのが好きという気持ちであり、情熱なんですよね。ベッショは連載をしているサイトに誹謗中傷を書き込もうとしますが、マジンガーZ好きな警備員が話しかけてくることで、取り止めます。穴を掘る掘削に興味がなかったエモトも、掘削が好きで自分の仕事に誇りを持っているヤマダの熱にあてられていきます。ドイもベテラン社員のフワの出す問題に答えようと、ダムの勉強をして、実際に前田建設工業が作ったダムを見に行く。そして、フワの「建設業はまだまだ人をワクワクさせられる」という言葉に心動かされていきます。


その過程で、ドイやエモトらが掘削を見に行くシーンがあるのですが、ドリルでガリガリ掘っていく掘削は実に地味な作業です。しかし、普段は見られない大掛かりな重機が稼働し、私たちの知らない世界を観ることができます。また、スケールの大きなダムの裏側も見せてくれますし、知的好奇心が刺激される大人の社会科見学といった側面もこの映画は持っていました。やっぱり単純にスケールが大きいのはいい。マジンガーZも格納庫も、大きい物には無条件で興奮してしまいます。大は小を兼ねるのです。どうせやるならでかい仕事を、地で行く有り様で実にいいです。


で、この好きという情熱がエンジンとなって三人を変えていくというのが良いですよね。やっぱり好きは最高のエネルギーですよ。嫌いよりも好きで動いたほうが良いですよ。だってドイたちに好きなものを語る彼らの目は輝いていましたもん。眩しいくらいです。好きという情熱はまだまだ人を動かせる、ワクワクさせることができるんです。好きという情熱にあてられた土井たちの目もまた輝いていた。私には好きなものが一個もないのでとても羨ましく感じましたね。




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そして、観ている私たちもいつの間にかキャラクターたちの好きという情熱に感化させられて、プロジェクトの中に取り込まれていく。前田建設ファンタジー営業部の一員になることができるというのがこの映画の面白いところでして。マジンガーZの格納庫が作られるのを観たいという気持ちに自然となってしまうんですよね。目を輝かせて夢を語る彼らを観ていると。映画の中にいる感覚が味わえるのとっても良きでした。だからこそ、マジンガーZが〇〇した時のうろたえっぷりね。あそこはおいおいマジかよってファンタジー営業部と同じテンションになりましたし、その後の途方に暮れるのも同じでしたよ。貴重な映画体験でした。


それとこの映画を観て感じたのが、仕事に誇りを持てるっていいなということです。なんというか本当に好きで仕事をやっている感じ。仕事にワクワクしている感じが私には全くないので、そこも羨ましかったですね。私のやっている仕事に誇りなんて一ミリもないですし、毎日が本当につまらない。ワクワクすることなんて皆無なんです。でも、この映画のキャラクターは自分の仕事に誇りを持って、働くことを楽しんでいる。その姿は私には眩しすぎました。やっぱり仕事って人生の大きな部分を占めますし、ひいては彼らって人生楽しそうだなって思います。もちろん上手くいかないこと、辛いこと多々あると思いますが、それを含めて楽しそうだなって。


また、この映画ではその誇りや楽しさが、マジンガーZの格納庫を作るという意味のないことに向けられているのが最高でした。言ってみれば、これは映画だって同じだと思うんですよ。いや本や音楽や漫画やゲーム、全ての創作物にも当てはまると思います。これらの創作物ってただ生きていくだけなら必要ないんですよね。映画を観て楽しい気持ちになったからって何?ゲームをしてステータスを上げたところで何になるの?現実は何も変わってないよね?という。意味ないじゃんという。


でも、その意味のないことが大事なんですよ。世の中では。確かに現実は動かないとしても、楽しいと感じたこと、面白いと感じたこと自体がとても大切なことなんですよ。夢を見る、夢に騙される心の余裕がなかったら人生はつまらないですよ。夢なんてなくて毎日を屍のように過ごしている私みたいに。マジンガーZの格納庫を作ること自体に、映画自体に意味なんてなくても、人をワクワクさせることができたなら、明日への活力になったらそれでいいじゃないですか。つまらない現実の中でワクワクする瞬間が欲しいんですよ、私は。




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この映画ってすごく質の高いエンターテイメント映画、娯楽作になっていると思うんですけど、その楽しいということの価値をヒシヒシと感じましたね。観ている最中、ずっとニヤニヤしていましたもん。うわー楽しい、面白ぇーって。難関のプロジェクトにチームで挑んでいく様は王道で面白いのは言わずもがな。好きを語るキャラクターたちがとても生き生きとしていて、観ていて体の奥の方から面白さが湧いて出る感覚を味わえました。しばらく忘れていたプリミティブなワクワク感を味わうことができて満足です。エンタメとしての価値や矜持みたいなものを感じました。


そして、そのワクワク感は原始的なものであるがゆえに、老若男女問わず響くと思うんですよね。この映画で印象的だったのが、ベッショの子供がマジンガーZを観ているところなんですよ。言葉を覚えるよりも先に来る原始的なワクワク感を子供ながらに感じている。それは、世代を超えて受け継がれていくものだろうと。終盤のカタルシスを感じるシーンでベッショの子供がなぜかいたのもそれを象徴していると思います。意味のあることよりも、意味のないことが原始的に胸に響く。意味のないことの持つ力が存分に表れていて、ここ大好きなシーンでした。理想であり、救いでもありますよね。意味にとらわれてしまう私たちにとっての。


これまた楽しいエンドロールが流れて、この映画を観終わったとき、私はもう一年が終わってしまったと感じたんですよね。だって、『前田建設ファンタジー営業部』を観終わった瞬間ほど、楽しく、ワクワクする瞬間なんて、今年中には訪れないと直感しましたから。それくらいの満足感。単純な面白さでは今年一番で、エンタメの底力を見せられた思いがします。映画でワクワクしたい人にはこれ以上ないほどお勧めです。マジンガーZを知らなくても十分に楽しめますのでぜひ。




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以上で感想は終了となります。『前田建設ファンタジー営業部』、個人的には現時点で今年のベストを争うくらい好きな映画となりました。専門用語は飛び交いますが、何も考えずワクワクすることができるので、ぜひ映画館に足をお運びください。強く勧めます。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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