こんばんは。これです。
今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『ファンシー』。山本直樹さんの同名の短編漫画を映画化した一作です。観るかどうか迷っていたのですが、長野県が舞台となっていると聞いて、興味本位で観に行ってきました。映画館は二席空けての販売で、ソーシャルディスタンスを意識せずにはいられませんでしたね。
それでは感想を始めます。拙い文章ですが、よろしくお願いします。
―目次―
・キャストについて
・取り残された者と宿命について
―あらすじ―
とある地方の温泉街に、一日中サングラスをかけている鷹巣明(永瀬正敏)というニヒルな男が住んでいた。失踪した父親、竜男(宇崎竜童)の後を継いで彫師となり、昼は郵便配達屋もこなしている鷹巣の日課は、町外れの白い家に引きこもって暮らす若い詩人(窪田正孝)にファンレターを届けること。その詩人は“南十字星ペンギン”というペンネームで月刊ファンシーポエムという雑誌に寄稿し、女子学生の絶大な支持を得ている。見かけからしてペンギン似の詩人は、いつもレトロな空調で室内をキンキンに冷やし、氷風呂に身を浸すという生態までペンギンのよう。そんなペンギンの浮世離れした日常を不思議がる鷹巣だったが、はみ出し者同士のふたりは奇妙な友情で結ばれていた。
(映画『ファンシー』公式サイトより一部引用。長いので。)
詳細なあらすじ他映画情報は公式サイトをご覧ください。
・キャストについて
この映画の主人公である鷹巣明を演じたのは永瀬正敏さんです。あるワンシーンを除いて、ずっとサングラスをかけっぱなし。目は口程に物を言うといいますが、目線に頼ることができない今回の役柄はハードルが高かったように思えます。しかし、そこはベテランの永瀬さん。微妙な表情や声色の変化、ちょっとした仕草などでそのハンデをカバー。いくつかあった煙草をくわえるシーンも失望だったり、感慨だったりとバリエーションが豊富で、渋くてセクシーでした。昭和感ある見た目を無理に現代に寄せることなく、忠実に演じていたのが良かったですね。
次に、この映画で鷹巣の相手役を務めたのは窪田正孝さんです。今回の窪田さんの役どころは何とペンギン。といっても本当のペンギンではなく、ペンギンと言い張っている人間ですが。その最大の特徴はオドオドとした喋り方。いかにも漫画の中から飛び出してきたようなフィクショナルな口調は、リアル志向の永瀬さんといい均衡を保っていました。単純に可愛いですしね。それに、目を泳がせたり口を尖らせたりと、表情もどことなくペンギンを意識していて見守りたくなります。終盤のふらつきながらも進む演技も良かったです。窪田さんの出演作の中ではあまり語られることはないんでしょうけど、彼が好きなら見て損はないかと。
そして、このペンギンのファンである月夜の星(ペンネーム。本名は最後まで明かされず)を演じたのは、小西桜子さんです。小西さんといえば三池崇史監督の『初恋』での熱演が記憶に新しいところですが(偶然にもこの映画の共演も窪田さん。実は『ファンシー』の方が公開は先)、今回は『初恋』のときよりはニュートラルな役柄でした。眼鏡を掛けていて、いかにも等身大の女子大生という感じです。ですが、注目していただきたいのが、関係性の変化に伴う表情の移り変わり。終盤になると、物語の初めとはまるで別人のような表情を浮かべており、観る者を強くひきつけます。ラブシーンにも挑戦した『ファンシー』でさらに演技の幅を広げた感もあり、今後とも楽しみな女優さんであると改めて認識しました。
他にも、宇崎竜童さんや田口トモロヲさんなど個性的な面々が脇を固めていますが、個人的に印象に残ったのが、郵便局員を演じた吉岡睦雄さんですね。あの微妙な滑舌に寝ぐせが爆発したような頭。さらに怪しい笑い方など、嫌でも印象に残ってしまう存在感を発揮していました。命乞いをするシーンでは笑いすら起こっていましたし、吉岡さんの一癖も二癖もある演技が、映画に良いアクセントを加えていたように思います。
※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。
・取り残された者と宿命について
私はこの映画には二つのテーマがあると感じました。それは「取り残された者」と「宿命」です。
まずは前者から見ていきたいと思います。この映画には前時代的なものがやたらと多く登場しました。ヤクザは劇中で組長が愚痴っていた通り、今の時代にはなかなかそぐいませんし、鷹巣がずっとかけているサングラスは『あぶない刑事』などといった昭和の刑事ものを連想させます。
さらに、射的屋に扮して風俗嬢を斡旋する郵便局長やストリップ劇場など、平成の終わりというよりは昭和の終わりといった方が正しいような雰囲気です。まさか令和にもなって、あれだけベタな王様ゲームを見せられるとは思わなかった。現代都市の生活から見れば、まさにファンシー、空想に近いようなオーラがスクリーンの中には漂っていました。
さらに、昭和の趣を残す温泉街というロケーションも大きくプラスに働いていたように思います。ネオンサインが光る銀座とは名ばかりのスナック街。古びたゲートに、単色の店。スナックの外観も塗装のツヤは失われていて、年季を思い起こさせます。さらに、四方を山に囲まれており、閉塞感もばっちり。まるで陸の孤島かのように、住民は取り残されたかのようです。
ちなみに、この温泉街はそのまま戸倉上山田温泉として存在しています。長野県千曲市に実際にあるので、同じ長野県民としては登場した時に嬉しくなりました。私がこの映画を観に行った一番の理由もそこにありましたからね。あの山の電飾もちゃんとありますから。高速道路からも見える。
それに、私が応援しているAC長野パルセイロのエンブレムも少し映ったり、居酒屋には千曲市にホームアリーナがある信州ブレイブウォリアーズのポスターなんかも掲げられていて、地域色をしっかりと感じ取ることができました。相生座・ロキシーにはロケ地マップも置かれていましたし、去年の『4月の君、スピカ。』や今年1月の『サヨナラまでの30分』と長野県が舞台となった作品を立て続けに観られて楽しいです。
まあ、それはさておき、この映画のあらすじにもある通り、キャラクターたちは何かしらに取り残されているように感じました。それは時代だったり、周囲との隔絶だったり。ペンギンも基本的には家の中から出ませんし、月夜の星も家族から離れてしまっています。鷹巣のルックスから溢れ出る昭和感は言わずもがな。
この映画のメインとなるストーリーは、鷹巣とペンギンと月夜の星の三角関係です。映画はこの三人を軸にして進んでいきますが、もう一つサブプロットとしてヤクザや郵便局員をはじめとした地元住民のシーンがありました。ヤクザはお家騒動を巻き起こしています。郵便局長は風俗嬢を斡旋していて、そのうちの一人が郵便局員の妻であり、キレた郵便局員に足を刺されてしまいます。やたら墓を勧めてくる住職なんかもいますが、ぶっちゃけこれらの出来事が三人に影響を及ぼすことはあまりありません。
鷹巣はヤクザの組長の先輩という関係性でしたが、それほどストーリーに絡んでくることもなく、三人の話と、地元住民の話は比較的独立している印象を受けました。ペンギンや月夜の星はヤクザと会いませんしね。『初恋』みたいにまた窪田さんがヤクザとかち合うのかと思ったら、そんなことは全くなく。正直なところ、ヤクザの話いる?とさえ思ってしまったぐらいです。そのくらい三人との関わりが薄かったのです。
でも、もしかしたらこの映画が描きたかったのは、三人の関係性ではなく、もっと大きなヤクザや地域住民をひっくるめた取り残された者全体だったのかもしれません。劇中にも二回ほど彼らの顔を順番に映す演出がありましたし、私たちが顧みることがない取り残された者がどう生きているのかを描きたかったのかもしれません。そう思うと、この並列的なストーリー展開にも少しは納得がいきます。まぁ個人的なことを言うと、もうちょっと両者を絡ませてほしかったですけど。そっちの方が面白くなった気がしないでもないです。
次に、もう一つのテーマである「宿命」について見ていきたいと思います。この映画に登場したヤクザの組長は、親に跡目を継がされて無理やり組長にさせられたと愚痴っていました。鷹巣の父親も彫師をしていましたし、鷹巣は文字通り父の背中を見て育ったと言えると思います。さらに、ペンギンは(見た目は人間でしたが)獣なので、人間とは交われない宿命です。性的不能とも劇中では言われていましたね。さらに冷房が効いていない屋外には出にくい。これも生まれつきのもので、自分の力ではどうしようもないものです。
このようにこの映画の多くのキャラクターは、何かしらの宿命を背負わせれていました。宿命とは「人間の力では避けることも変えることもできない運命」のことです。それはまさしく背中に彫られた刺青のように一度刻まれてしまえば、やり直すことができません。蛙の子は蛙。さらに、生まれた場所や赴任先も宿命の一つと考えれば、彼らがあの温泉街に囚われていることも宿命なのです。
しかし、この映画ではそんな宿命に囚われないキャラクターが一人だけ登場しました。月夜の星です。彼女のバックボーンは最後まで明かされず、進むも退くも自由なキャラクターでした。そんな彼女が現れたことで、鷹巣とペンギンの二人にも変化が生まれるというのが、この映画の最大のストーリーでした。
鷹巣は彫師という職業によるものなのか、背中ばかりを見ています。風俗嬢の背中を確かめ、ペンギンとは対照的に、ストリッパーと正面から向き合うこともありません。さらに、夜でもサングラスをつけている姿は、日の光が眩しいという理由だけでなく、自らの目で正面から他人と向き合うことを忌避しているようにも映ります。自宅での月夜の星とのシーンでも、背中に注目は向いていましたしね。
だけれど、月夜の星が「ちゃんと私を見て」(意訳)といった次のシーンでは、一瞬ですけどサングラスを外しているんですよ。劇中を通してずっとつけていたサングラスを。ここに私は、鷹巣の宿命めいた呪縛のようなものが、束の間ですが解かれたように感じました。初めて他人に心を許したというか。そんな変化が見えて、思わず注目してしまいました。
さらに、変化はペンギンにも訪れます。終盤で、ペンギンは月夜の星と一緒にお風呂に入ろうと言うんですね。ペンギンは冷水の風呂にしか入れないのに、歩み寄ったということですよ。これだけでも良いんですが、さらにグッと来たのが苦手とする夏の太陽のもとに、自分から歩き出していったことです。
月夜の星がなかなか自分のところに帰ってこない故の行動だったのですが、それまでのペンギンからは考えられないほどの変化を見せていて、窪田さんの息も切れ切れの演技もあり、思わず引き込まれてしまいました。鷹巣と月夜の星、ペンギン、それぞれの様子が交互に映される演出は、否応なしに映画がクライマックスに突入していることを感じさせ、しっかりとストーリーを盛り上げることができていたと思います。
また、順番は前後しますが、ヤクザの組長が人生思い通りにならないことを先輩である鷹巣に吐露するシーンがあります。いくら金があっても人生は辛いと。で、それに対する鷹巣の返答が「たとえ泥船に乗っていてもどう漕ぐか」「お前の時間はお前のものだ」(意訳)というもので。まあこれは父親からの受け売りであったんですが、これがこの映画のテーマを表しているのかなと私は感じました。
宿命づけられた泥船のような人生の中でも、どう過ごすかは自分次第。自分に宿命が課せられていて、時代や周囲から取り残されていることを受け入れて、その上でどう生きるのか。それまでののらりくらりとした映画の雰囲気とは合わない強烈にポジティブなメッセージでしたが、この映画に主題があるとしたらこれかなと。たとえ、太陽に気に入られず、月を見て過ごすしかないキャラクターたちを一気に肯定するかのようで、清々しささえ感じました(唐突感は否めませんでしたけど)。宿命を受け入れたところから新しい物語が始まるんですよね。
と、着地自体は綺麗だったものの、個人的には二つのストーリーがあまり関わらずに同時進行していくこの映画の構造自体にはあまり乗れませんでした。終わると錯覚してしまうシーンもいくつかありました(これは観ていた私の問題だけれど)。でも、永瀬さんを始めとして主演の三人の演技は見ごたえがありましたし、観て良かったなとは思いました。パルセイロも映りこんでいましたしね。
以上で感想は終了となります。映画『ファンシー』、バイオレンスも少なくなく、ラブシーンもありますが、そこまで空想的ではないので、気構えることなく見ることができると思います。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。
お読みいただきありがとうございました。
おしまい
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