Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2020年05月




こんばんは。これです。


今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『ファンシー』。山本直樹さんの同名の短編漫画を映画化した一作です。観るかどうか迷っていたのですが、長野県が舞台となっていると聞いて、興味本位で観に行ってきました。映画館は二席空けての販売で、ソーシャルディスタンスを意識せずにはいられませんでしたね。


それでは感想を始めます。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―目次―

・キャストについて
・取り残された者と宿命について





―あらすじ―

とある地方の温泉街に、一日中サングラスをかけている鷹巣明(永瀬正敏)というニヒルな男が住んでいた。失踪した父親、竜男(宇崎竜童)の後を継いで彫師となり、昼は郵便配達屋もこなしている鷹巣の日課は、町外れの白い家に引きこもって暮らす若い詩人(窪田正孝)にファンレターを届けること。その詩人は“南十字星ペンギン”というペンネームで月刊ファンシーポエムという雑誌に寄稿し、女子学生の絶大な支持を得ている。見かけからしてペンギン似の詩人は、いつもレトロな空調で室内をキンキンに冷やし、氷風呂に身を浸すという生態までペンギンのよう。そんなペンギンの浮世離れした日常を不思議がる鷹巣だったが、はみ出し者同士のふたりは奇妙な友情で結ばれていた。


(映画『ファンシー』公式サイトより一部引用。長いので。)








詳細なあらすじ他映画情報は公式サイトをご覧ください。












・キャストについて



この映画の主人公である鷹巣明を演じたのは永瀬正敏さんです。あるワンシーンを除いて、ずっとサングラスをかけっぱなし。目は口程に物を言うといいますが、目線に頼ることができない今回の役柄はハードルが高かったように思えます。しかし、そこはベテランの永瀬さん。微妙な表情や声色の変化、ちょっとした仕草などでそのハンデをカバー。いくつかあった煙草をくわえるシーンも失望だったり、感慨だったりとバリエーションが豊富で、渋くてセクシーでした。昭和感ある見た目を無理に現代に寄せることなく、忠実に演じていたのが良かったですね。


次に、この映画で鷹巣の相手役を務めたのは窪田正孝さんです。今回の窪田さんの役どころは何とペンギン。といっても本当のペンギンではなく、ペンギンと言い張っている人間ですが。その最大の特徴はオドオドとした喋り方。いかにも漫画の中から飛び出してきたようなフィクショナルな口調は、リアル志向の永瀬さんといい均衡を保っていました。単純に可愛いですしね。それに、目を泳がせたり口を尖らせたりと、表情もどことなくペンギンを意識していて見守りたくなります。終盤のふらつきながらも進む演技も良かったです。窪田さんの出演作の中ではあまり語られることはないんでしょうけど、彼が好きなら見て損はないかと。


そして、このペンギンのファンである月夜の星(ペンネーム。本名は最後まで明かされず)を演じたのは、小西桜子さんです。小西さんといえば三池崇史監督の『初恋』での熱演が記憶に新しいところですが(偶然にもこの映画の共演も窪田さん。実は『ファンシー』の方が公開は先)、今回は『初恋』のときよりはニュートラルな役柄でした。眼鏡を掛けていて、いかにも等身大の女子大生という感じです。ですが、注目していただきたいのが、関係性の変化に伴う表情の移り変わり。終盤になると、物語の初めとはまるで別人のような表情を浮かべており、観る者を強くひきつけます。ラブシーンにも挑戦した『ファンシー』でさらに演技の幅を広げた感もあり、今後とも楽しみな女優さんであると改めて認識しました。


他にも、宇崎竜童さんや田口トモロヲさんなど個性的な面々が脇を固めていますが、個人的に印象に残ったのが、郵便局員を演じた吉岡睦雄さんですね。あの微妙な滑舌に寝ぐせが爆発したような頭。さらに怪しい笑い方など、嫌でも印象に残ってしまう存在感を発揮していました。命乞いをするシーンでは笑いすら起こっていましたし、吉岡さんの一癖も二癖もある演技が、映画に良いアクセントを加えていたように思います。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










・取り残された者と宿命について


私はこの映画には二つのテーマがあると感じました。それは「取り残された者」と「宿命」です。


まずは前者から見ていきたいと思います。この映画には前時代的なものがやたらと多く登場しました。ヤクザは劇中で組長が愚痴っていた通り、今の時代にはなかなかそぐいませんし、鷹巣がずっとかけているサングラスは『あぶない刑事』などといった昭和の刑事ものを連想させます。


さらに、射的屋に扮して風俗嬢を斡旋する郵便局長やストリップ劇場など、平成の終わりというよりは昭和の終わりといった方が正しいような雰囲気です。まさか令和にもなって、あれだけベタな王様ゲームを見せられるとは思わなかった。現代都市の生活から見れば、まさにファンシー、空想に近いようなオーラがスクリーンの中には漂っていました


さらに、昭和の趣を残す温泉街というロケーションも大きくプラスに働いていたように思います。ネオンサインが光る銀座とは名ばかりのスナック街。古びたゲートに、単色の店。スナックの外観も塗装のツヤは失われていて、年季を思い起こさせます。さらに、四方を山に囲まれており、閉塞感もばっちり。まるで陸の孤島かのように、住民は取り残されたかのようです。


ちなみに、この温泉街はそのまま戸倉上山田温泉として存在しています。長野県千曲市に実際にあるので、同じ長野県民としては登場した時に嬉しくなりました。私がこの映画を観に行った一番の理由もそこにありましたからね。あの山の電飾もちゃんとありますから。高速道路からも見える。


それに、私が応援しているAC長野パルセイロのエンブレムも少し映ったり、居酒屋には千曲市にホームアリーナがある信州ブレイブウォリアーズのポスターなんかも掲げられていて、地域色をしっかりと感じ取ることができました。相生座・ロキシーにはロケ地マップも置かれていましたし、去年の『4月の君、スピカ。』や今年1月の『サヨナラまでの30分』と長野県が舞台となった作品を立て続けに観られて楽しいです。




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まあ、それはさておき、この映画のあらすじにもある通り、キャラクターたちは何かしらに取り残されているように感じました。それは時代だったり、周囲との隔絶だったり。ペンギンも基本的には家の中から出ませんし、月夜の星も家族から離れてしまっています。鷹巣のルックスから溢れ出る昭和感は言わずもがな。


この映画のメインとなるストーリーは、鷹巣とペンギンと月夜の星の三角関係です。映画はこの三人を軸にして進んでいきますが、もう一つサブプロットとしてヤクザや郵便局員をはじめとした地元住民のシーンがありました。ヤクザはお家騒動を巻き起こしています。郵便局長は風俗嬢を斡旋していて、そのうちの一人が郵便局員の妻であり、キレた郵便局員に足を刺されてしまいます。やたら墓を勧めてくる住職なんかもいますが、ぶっちゃけこれらの出来事が三人に影響を及ぼすことはあまりありません


鷹巣はヤクザの組長の先輩という関係性でしたが、それほどストーリーに絡んでくることもなく、三人の話と、地元住民の話は比較的独立している印象を受けました。ペンギンや月夜の星はヤクザと会いませんしね。『初恋』みたいにまた窪田さんがヤクザとかち合うのかと思ったら、そんなことは全くなく。正直なところ、ヤクザの話いる?とさえ思ってしまったぐらいです。そのくらい三人との関わりが薄かったのです。


でも、もしかしたらこの映画が描きたかったのは、三人の関係性ではなく、もっと大きなヤクザや地域住民をひっくるめた取り残された者全体だったのかもしれません。劇中にも二回ほど彼らの顔を順番に映す演出がありましたし、私たちが顧みることがない取り残された者がどう生きているのかを描きたかったのかもしれません。そう思うと、この並列的なストーリー展開にも少しは納得がいきます。まぁ個人的なことを言うと、もうちょっと両者を絡ませてほしかったですけど。そっちの方が面白くなった気がしないでもないです。




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次に、もう一つのテーマである「宿命」について見ていきたいと思います。この映画に登場したヤクザの組長は、親に跡目を継がされて無理やり組長にさせられたと愚痴っていました。鷹巣の父親も彫師をしていましたし、鷹巣は文字通り父の背中を見て育ったと言えると思います。さらに、ペンギンは(見た目は人間でしたが)獣なので、人間とは交われない宿命です。性的不能とも劇中では言われていましたね。さらに冷房が効いていない屋外には出にくい。これも生まれつきのもので、自分の力ではどうしようもないものです。


このようにこの映画の多くのキャラクターは、何かしらの宿命を背負わせれていました。宿命とは「人間の力では避けることも変えることもできない運命」のことです。それはまさしく背中に彫られた刺青のように一度刻まれてしまえば、やり直すことができません。蛙の子は蛙。さらに、生まれた場所や赴任先も宿命の一つと考えれば、彼らがあの温泉街に囚われていることも宿命なのです。


しかし、この映画ではそんな宿命に囚われないキャラクターが一人だけ登場しました。月夜の星です。彼女のバックボーンは最後まで明かされず、進むも退くも自由なキャラクターでした。そんな彼女が現れたことで、鷹巣とペンギンの二人にも変化が生まれるというのが、この映画の最大のストーリーでした。


鷹巣は彫師という職業によるものなのか、背中ばかりを見ています。風俗嬢の背中を確かめ、ペンギンとは対照的に、ストリッパーと正面から向き合うこともありません。さらに、夜でもサングラスをつけている姿は、日の光が眩しいという理由だけでなく、自らの目で正面から他人と向き合うことを忌避しているようにも映ります。自宅での月夜の星とのシーンでも、背中に注目は向いていましたしね。


だけれど、月夜の星が「ちゃんと私を見て」(意訳)といった次のシーンでは、一瞬ですけどサングラスを外しているんですよ。劇中を通してずっとつけていたサングラスを。ここに私は、鷹巣の宿命めいた呪縛のようなものが、束の間ですが解かれたように感じました。初めて他人に心を許したというか。そんな変化が見えて、思わず注目してしまいました。




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さらに、変化はペンギンにも訪れます。終盤で、ペンギンは月夜の星と一緒にお風呂に入ろうと言うんですね。ペンギンは冷水の風呂にしか入れないのに、歩み寄ったということですよ。これだけでも良いんですが、さらにグッと来たのが苦手とする夏の太陽のもとに、自分から歩き出していったことです。


月夜の星がなかなか自分のところに帰ってこない故の行動だったのですが、それまでのペンギンからは考えられないほどの変化を見せていて、窪田さんの息も切れ切れの演技もあり、思わず引き込まれてしまいました。鷹巣と月夜の星、ペンギン、それぞれの様子が交互に映される演出は、否応なしに映画がクライマックスに突入していることを感じさせ、しっかりとストーリーを盛り上げることができていたと思います。


また、順番は前後しますが、ヤクザの組長が人生思い通りにならないことを先輩である鷹巣に吐露するシーンがあります。いくら金があっても人生は辛いと。で、それに対する鷹巣の返答が「たとえ泥船に乗っていてもどう漕ぐか」「お前の時間はお前のものだ」(意訳)というもので。まあこれは父親からの受け売りであったんですが、これがこの映画のテーマを表しているのかなと私は感じました。


宿命づけられた泥船のような人生の中でも、どう過ごすかは自分次第。自分に宿命が課せられていて、時代や周囲から取り残されていることを受け入れて、その上でどう生きるのか。それまでののらりくらりとした映画の雰囲気とは合わない強烈にポジティブなメッセージでしたが、この映画に主題があるとしたらこれかなと。たとえ、太陽に気に入られず、月を見て過ごすしかないキャラクターたちを一気に肯定するかのようで、清々しささえ感じました(唐突感は否めませんでしたけど)。宿命を受け入れたところから新しい物語が始まるんですよね。


と、着地自体は綺麗だったものの、個人的には二つのストーリーがあまり関わらずに同時進行していくこの映画の構造自体にはあまり乗れませんでした。終わると錯覚してしまうシーンもいくつかありました(これは観ていた私の問題だけれど)。でも、永瀬さんを始めとして主演の三人の演技は見ごたえがありましたし、観て良かったなとは思いました。パルセイロも映りこんでいましたしね。



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以上で感想は終了となります。映画『ファンシー』、バイオレンスも少なくなく、ラブシーンもありますが、そこまで空想的ではないので、気構えることなく見ることができると思います。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


学校 (OHTA COMICS)
山本 直樹
太田出版
2006-03-21



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こんにちは。これです。GWも後半戦。皆さんいかがお過ごしでしょうか。


私はというと、今日も映画を観に行っていました。今回観た映画は『名探偵ピカチュウ』。原作のゲームは未プレイですが、ポケモンで育った私としては観ないわけにはいきません。12時の回に行ったところ、劇場内は親子連れや大人で満席でした。あの、『バースデー・ワンダーランド』もこれくらい入ってほしいんですけど...。なんでみんな『バースデー・ワンダーランド』観ないの...?面白いのに…


話を戻しましょう。『名探偵ピカチュウ』はとても面白い映画でした。ポケモンで育った人間にはたまらないシーンが盛りだくさんで油断すると泣いてしまう、そんな映画です。では、それも含めて感想を始めたいと思います。前半ネタバレなし、後半ネタバレありです。拙い文章ですが、よろしくお願いします。





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―目次―

・実写化されたポケモンに感動!
・吹替版について
・『ミュウツーの逆襲』とシンオウ神話
・カラカラからみるティムの進化





―あらすじ―

かつてポケモンのことが大好きな少年だったティム(ジャスティス・スミス)は、ポケモンに関わる事件の捜査へ向かったきり、家に戻らなかった父親・ハリーとポケモンを、遠ざけるようになってしまった。それから年月が経ち、大人になったティムのもとにある日、ハリーと同僚だったというヨシダ警部補(渡辺謙)から電話がかかってくる。「お父さんが事故で亡くなった―」。複雑な思いを胸に残したまま、ティムは人間とポケモンが共存する街・ライムシティへと向かう。荷物を整理するため、ハリーの部屋へと向かったティムが出会ったのは、自分にしか聞こえない人間の言葉を話す、名探偵ピカチュウ(ライアン・レイノルズ)だった。かつてハリーの相棒だったという名探偵ピカチュウは、事故の衝撃で記憶を失っていたが、一つだけ確信をもっていることがあった……。「ハリーはまだ生きている」。ハリーは何故、姿を消したのか? ライムシティで起こる事件の謎とは? ふたりの新コンビが今、大事件に立ち向かう!

(映画『名探偵ピカチュウ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。













・実写化されたポケモンに感動!



『名探偵ピカチュウ』は最初のシーンを経た後、世界観の説明に入ります。ピジョンやピジョットが飛び、バッフロンが駆けずり回る。ここで、ポケモンと現実世界が高次元で融合していることにいきなり感動し、一気に映画の世界に引きずり込まれました。


その後、ティムはその友達にけしかけられ、カラカラの捕獲に挑みます。これはゲーム内のプレイヤー誰しもが経験する初めてのゲットです。さらに、近年ではポケモンGOが登場し、ポケモンの捕獲という経験をより身近に感じられるようになっています。ポケモンをプレイした経験がある人なら誰しもが懐かしさを覚えることでしょう。ちなみに、ここで登場したカラカラがこの映画において重要な意味を持っていたのですが、それについては後述します。


そして、ティムは父親の訃報を聞き、ライムシティの警察署へ向かいます。ライムシティは巨大企業の社長ハワード・クリフォードが作り上げた人とポケモンが共生する街。そこにはトレーナーも、バトルも、モンスターボールもありません。駅から降りて街に踏み出した瞬間、目の前に広がったのはポケモンと人が一緒に暮らす世界です。ウォーグルが配達をし、カイリキーが4本の腕を使って交通整理。エニガメが消火活動に協力し(アニポケ準拠や)、ヤンチャムがベンチでじゃれ合っています。


これの何に感動したかって、私が子供の頃に空想した世界そのものなんですよ。本当に小さい子供の頃はポケモンが現実世界にもいるはずだと思ってました。まあ当然ポケモンはいなくて、傷ついて大人になったんですけど、ライムシティの光景は、そんな私の子供心を呼び覚ましてくれるものでした。かつて夢見た世界がスクリーンの中にある。傷が癒されて、子供の頃の思い出が再生されていくようで、涙が出そうでした。もうこれだけでこの映画への評価は、好意的になりました。


さらに、ポケモンがリアルなんですよね。最先端の、詳細はよく分からないCG技術を用いて、毛並みの一本一本に至るまで、現実的な質感を纏っていました。ピカチュウはもちろん、ブルーやエイパム、ルンパッパなど一匹一匹へのこだわりが凄くて。ファンタジーじゃなくて現実にいたらこんな感じなんだろうなというのが、完全に再現されていました。それに、セリフの中にポケモンが自然に溶け込んでいるのにも感動しましたね。渡辺謙さんがピカチュウって言ってるよ!みたいな。


この映画に出てきたポケモンの中で、個人的なお気に入りは巨大○○○○○ですね。ゲッコウガから逃げきった後の、あのスケールのデカさ。大地が上から迫って来て、地面が割れ、ボロボロとこぼれ落ちる。興奮しました。他にも歌を歌って眠らせるプリンや、スタジアムで活躍するドゴーム、道路の真ん中で堂々と寝ているカビゴン、やたら強いメタモンなど、お気に入りのシーンを上げればキリがありません。子供時代をポケモンと一緒に過ごした人なら確実に刺さるであろうシーンの連続です。ポケモンに思い入れのある私にとって『名探偵ピカチュウ』は最高の娯楽でした。




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・吹替版について


『名探偵ピカチュウ』は字幕版も用意されていますが、今回私が観たのは吹替版でした。上映会数も字幕版が2回なのに対し、吹替版は4回。実情の分からない吹替版の方が推されていました。さらに、ピカチュウ役は、私が観た時には伏せられていてドキドキの鑑賞でしたが、結論から言うと、吹替版はとてもよかったです。


まず、なんといってもピカチュウですよ。今回、ピカチュウの声を当てたのは西島秀俊さんですが、これが抜群にハマっていました。個人的には『ペンギン・ハイウェイ』以来なのですが、この時の落ち着いた役とは違い、フランクに演じていたのが印象的です。時に頼もしく、時に情けなく、時にもの悲しく、バリエーション豊かな声色で、おっさん可愛いという新たなピカチュウ増を築き上げていました。主人公のティムとの掛け合いもとにかく軽妙で、短い文をテンポよく積み上げるという洋画的なテイストを醸し出していましたね。とても楽しかったです。


その主人公のティムに声を当てたのは竹内涼真さん。ところどころ気になるところはありましたが、全体的には心を閉ざしているティムの孤独感や、ピカチュウとの交流を経て相手に立ち向かう勇気が生まれる様子を上手く表現できていたと思います。また、ヒロインのルーシーの吹替を担当した飯豊まりえさんの使命感に燃え、力強さを感じる演技もよかったですね。


そして、アニメを見ていた人間として最高だったのが、林原めぐみさん、三木眞一郎さん、犬山イヌコさん、うえだゆうじさんなど、お馴染みの声優陣が参加していたことです。最後にエンドロールを見たときには興奮しました。あと、この映画にはミュウツーが登場するんですが、そのミュウツーが女性の声なんですよ。途中まで。それがとても新鮮でよかったですね。


あ、安心してください。ピカチュウの鳴き声はちゃんと大谷育江さんですよ。エンドロールにローマ字でIKUE OTANIと表示されているのを見たので間違いないです。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






・『ミュウツーの逆襲』とシンオウ神話


『名探偵ピカチュウ』を語る上で欠かせない映画と言えば、これでしょう。


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そう、『ミュウツーの逆襲』です。この映画はとある研究施設でのシーンから始まります。『ミュウツーの逆襲』っぽいなーとおもったら、なんと次の瞬間、培養液に浸っているミュウツーが映っているではありませんか。そして、研究施設を壊して逃走する。完全な『ミュウツーの逆襲』の踏襲です。


映画の舞台は「ミュウツーが生み出されてから20年後」と明言されていますし、これは『ミュウツーの逆襲』が1998年公開だということを強く意識しています。(最初観た時は10年前と勘違いしていました。字幕版を観た方によると20年前が正解だそうです。申し訳ありませんでした)また、『ミュウツーの逆襲』と同じく、ミュウツーにティムとピカチュウが立ち向かう展開もあります。多くの面で『ミュウツーの逆襲』をなぞっている『名探偵ピカチュウ』ですが、まあさすがにそのままというわけにはいかず、変更点を加えてはいますけどね。




さて。片づけをするために、父親が住んでいた部屋を訪れるティム。そこで出会ったのは人語を喋るピカチュウでした。しかし、ピカチュウの言葉はティムにしか聞こえていない様子です。


父親の部屋にあった紫のガスを吸って狂暴になったエイパムから逃げ回る二人。ちなみに、このガスの名前は「R」。ロケット団ですね。Ride On the City, Knock out Evil Tusks.これ分かる人、何人ぐらいいるんでしょうか。


それはともかく。ピカチュウはティムの父親が生きているといいます。ルーシーと共に足取りを追うなかで辿り着いたのが、ハワード・クリフォードとその息子が経営する巨大企業でした。ハワードは研究施設での出来事を二人に見せます。そして、研究施設に向かうティムとピカチュウ、ルーシーとコダック。遺伝子操作されたポケモンに襲われながらも(ここも『ミュウツーの逆襲』っぽい)、徐々に真相に近づいていきます。ホログラム便利すぎない?という懸念はありますけど。




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ここからが『ミュウツーの逆襲』と分岐していくところなんですが、『名探偵ピカチュウ』は『ミュウツーの逆襲』と違って、人間主導でミュウツーが動かされるという特徴があります。ハワードは人間の進化を追及していて、その答えがポケモンに人を吸収させるというものでした。そして、ミュウツーはその力を持っていた(拡大解釈もいいところですが、それは置いておきましょう)。ハワードの意識を移されたミュウツーによって、人がポケモンに吸収されていきます。ポケモンしかいなくなった世界はホラーでしたね。


さて、このハワードのアプローチで重要な点があります。それは、過去への回帰ということです。実はハワードは進化を追い求めるあまり、進化に逆行してしまうという皮肉的な状況に陥っていました。


これを見ていく上で、紹介したいのがシンオウ神話です。ご存じないほとんどの方に向けて説明しますと、初代の赤・緑の発売から10年経って発売されたのがダイヤモンド・パール。北海道をモデルとしたシンオウ地方を舞台にした作品です。そして、シンオウ地方にはミオとしょかんという施設があり、このミオとしょかんの三回にはシンオウ神話のコーナーがありました。


シンオウ神話の中にこんな一節があります。


はじめに あったのは
こんとんの うねり だけだった
すべてが まざりあい
ちゅうしんに タマゴが あらわれた
こぼれおちた タマゴより
さいしょの ものが うまれでた



この「さいしょのもの」とは、そうぞうポケモン・アルセウスのことです。ポケモンの世界ではポケモンが先に存在していて、人間は後から生まれたということがシンオウ神話で明らかになりました。ハワードは人間をいなくすることで、太古の昔へと回帰していたのです。


また、ミオとしょかんにはこんな本もあります。



もりのなかで くらす
ポケモンが いた
もりのなかで ポケモンは かわをぬぎ
ひとにもどっては ねむり
また ポケモンの かわをまとい
むらに やってくるのだった



ここからは、かつて人とポケモンが同一であったということが読み取れると思います。『名探偵ピカチュウ』のハワードのアプローチは、まさしく人とポケモンを同一の存在に戻す行為です。でも、それは過去へ逆行する行為で、未来へ進んでいません。いわばハワードの進化は間違った進化とも言えそうです。


そして、この間違った進化に立ち向かったのがティムとピカチュウのコンビです。この二人のベクトルは父親が死んだという過去ではなく、生きている父親を見つけるという未来に向いていました。未来に向かうということは、間違った進化と対比して、正しい進化とも言うことができると思います。間違った進化に正しい進化は勝利し、物語はハッピーエンドを迎えました。とても希望のある終わり方でしたね。気持ちがよかったです。


では、次の項では、この映画でなされたティムの進化について述べていきたいと思います。




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・カラカラからみるティムの進化


さて、ティムを語る上で欠かせないポケモンがいます。それは相棒のピカチュウではなく、ティムが最初に捕獲しようとしたカラカラです。


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カラカラは、赤・緑のポケモン図鑑ではこう説明されています。


しにわかれた ははおやの ほねを あたまに かぶっている。
さびしいとき おおごえで なくという。



これはティムの境遇と意図的に重ね合わせているものと思われます。ティムもまた母親を亡くしていましたほねとは母親を失った悲しみだと私は考えています。ここでティムの矢印は過去に向いています。父親をも亡くしたとあってはより一層です。ただ、本能に従うカラカラとは違ってティムは大声で泣くことはしなかった。それが余計に悲しいです。


さらに、カラカラはモンスターボールに入らず、ティムに反撃しました。これはティムが自分で自分を受け入れることができておらず、日ごろから自分を責めていたことの表れと思うのは私だけでしょうか。


また、青版のポケモン図鑑ではカラカラは、

あたまに ほねの ヘルメットを かぶって いるので 
ほんとうの かおを みたものは いない。



と説明されています。この「ほんとうの かおを みたものは いない」は、ティムが心を閉ざしている状態だということを表しているのではないでしょうか。ティム=カラカラという図式がより明確化されていきます。


ただ、ティムはピカチュウと行動を共にするうちに、少しずつ心を開いていきます。映画が始まる前には立ち向かえなかった巨大企業にも、一人で乗り込んで行けるまでになりました。そして、ハワードの企みを阻止することに成功します。


では、ここで時代は進みますが、ムーン版のカラカラの説明を引いてみましょう。


あたまに かぶった ずがいこつは しんだ ははおや。
しの かなしみを のりこえたとき しんかすると いう。



映画はティムの父親も戻ってきて、未来に向かうハッピーエンドで幕を閉じます。先程のティム=カラカラという図式を適用するならば、ティムもまた母親の死の悲しみを乗り越え進化したとなるのではないでしょうか。それは父親と一緒に生きていくことを決めたことも関係していて、電車の切符を捨てたところからも、祖母に母親の面影を見るのを止め、家族をやり直そうというティムの前向きな姿勢が見て取れますね。映画序盤とは真逆です。


『名探偵ピカチュウ』は、ポケモンと人間の共生や人間の進化という大スケールの物語に見えて、その実ティムの成長、進化の物語だった。これが私がこの映画の一番好きなポイントです。ちょっと難しいところはありますけど、GWにファミリーで見るのにはうってつけの映画ですね。もちろんかつてポケモントレーナーだった大人も懐かしくなりますし、万人に勧められる映画です。ぜひとも映画館でご覧ください。


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以上で感想は終了となります。『名探偵ピカチュウ』。少年の成長を描いた王道の作品なので、たとえポケモンをプレイしていなくても大丈夫です。最後にはサプライズもありますし、機会があれば観てみてはいかがでしょうか。オススメです。


お読みいただきありがとうございました。




参考:

映画『名探偵ピカチュウ』公式サイト

感想『名探偵ピカチュウ』 実写版ポケモンによるまさかの『ミュウツーの逆襲』再演に驚嘆!(ジゴワットレポート)

カラカラ - ポケモンWiki

ミオとしょかん - ポケモンWiki



おしまい





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こんばんは。これです。


今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『プリズン・サークル』。刑務所を舞台にしたドキュメンタリー映画です。今まで、薬物依存症を題材とした小説通り魔事件を描いた小説を書いてきた私としては、この映画の鑑賞はいわばマスト。映画館が営業再開したこのタイミングで観に行ってきました。


そして、観たところ想像以上に一本の映画として面白いドキュメンタリーとなっていました。少し長いですが、映画館で観て良かったと感じます。


それでは感想を始めます。何卒よろしくお願いします。





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―あらすじ―

「島根あさひ社会復帰促進センター」は、官民協働の新しい刑務所。警備や職業訓練などを民間が担い、ドアの施錠や食事の搬送は自動化され、ICタグとCCTVカメラが受刑者を監視する。しかし、その真の新しさは、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入している点にある。なぜ自分は今ここにいるのか、いかにして償うのか? 彼らが向き合うのは、犯した罪だけではない。幼い頃に経験した貧困、いじめ、虐待、差別などの記憶。痛み、悲しみ、恥辱や怒りといった感情。そして、それらを表現する言葉を獲得していく…。


(映画『プリズン・サークル』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。













『プリズン・サークル』は日本で初めて、刑務所内にカメラを入れたドキュメンタリー映画です。しかし、描かれるのは淡々とした刑務作業や、一人で罪を悔いる受刑者の姿ではありません。TC(セラピューティック・コミュニティ)というアプローチを通して、参加者全員で少しずつ回復に向かっていく過程が描かれています。一人ではなく集団でというのがこの映画の大きなポイントとなっているように感じました。


舞台となるのは島根あさひ社会復帰促進センター。2008年開設の新しい施設です。刑務所でなく社会復帰促進センターと言っていることからも、罰を与えるだけではなく、再犯防止のためのアプローチをするというスタンスの違いが現れていますね。


この島根あさひ、意外だったのが、私たちが思い浮かべるような檻だらけの刑務所とは雰囲気が全然違うことです。廊下こそ何もなくシンプルですが、独房のドアは研究室のように茶色に塗られ、吹き抜けとなったフロアは大学のキャンパスのように開放的な感じさえしました。食事の搬送が自動化されているのには驚きましたね。それでも、髪型は基本丸刈りだったり、所作を厳しく教え込まれるところなどは刑務所然としていて、刑務官の厳しい口調に背筋を正されます。


そして、ここからTCへの密着が始まります。受刑者の顔はぼかされ、名前は仮名。事件の全容も明かさないなどプライバシーに最大限配慮した造り。映画全体を通して印象的だったのが、この映画ってとにかく分かりやすく作られているんですよね。


ちゃんとどういうプログラムをしているのか説明してくれますし、多くの発言にはテロップがつけられます。テレビのドキュメンタリーみたいで、ここも少し意外でした。また、顔がぼかされ分からないという特性上、発言者もちゃんと文字で教えてくれますし、普段知ることのできない世界を分かりやすく伝えてくれました。とんちんかんな私でも理解できて、とてもありがたかったです。


それに効果的だったのが、随所に挿入されたサンドアート。粒子が織りなすアニメーションは幻想的かつシビアで、画面に映し出されるたびに、思わず見入ってしまいました。登場人物の過去を語る演出に用いられ、多くが辛い出来事なんですけど、実写に負けないくらいのリアリティがありましたね。最初から引き込まれ、最後の演出には感動しましたし、この映画の大きなオリジナリティになっていると感じました。このサンドアートのおかげで『プリズン・サークル』はちゃんとした一本の映画になったと言っても過言ではありません。アニメーション監督の若見ありささんらに拍手です。




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※ここからの内容は映画のネタバレを多少含みます。ご注意ください。





この映画では4人の登場人物が軸となって展開していきます。詐欺で逮捕された拓也。窃盗癖のある真人。傷害致死を犯した。強盗傷人で刑に服する健太郎。彼ら4人を含めたTCのメンバーは週三回のプログラムを受けています。円形に並べられた椅子に座る参加者たち。話すのは罪の意識についてもありますが、それよりも自分と向き合うことに重点が置かれているように感じました。


これはなぜかというと、彼らが罪を犯したのはそれまでの人生の結果でしかないからなんですね。ある日突然思いついて罪を犯したわけではなく、徐々に積み重ねられてきて、ある地点を越えて表出したというか。犯罪は氷山の目に見える一角でしかないんですね。そこだけを直しても、海の下に大きな氷山がある限り、また同じことを繰り返してしまう。根本的な解決にはならないんです。


そして、その沈んだ氷山は、今まで自分が歩んできた人生そのものだから、変えるには自分を見つめ直すしかないんです。それにはまず過去を振り返ること。ダルクの12ステップのその4、「自分自身の棚卸をした」を思い起こさせます。この12ステップも薬物依存症を犯罪ではなく、病気としてとらえたものなんですけど、罪を犯したからといって罰を与えるのではなく、一種の病気と考えて回復を目指すアプローチは共通しているんだなと感じました。


劇中で、4人が自分の子供時代のことを語っていましたけど、いずれも共通していたのは孤独だったということです。放置されたり、虐待されたり、いじめられたり。出てくるのは現実逃避したくなるような振り返りたくない過去ばかりです。真人が発表するシーンで親との関係が途切れていたのも、そのことを象徴しているかのようです。安心して人に自らを委ねられないんです。













もっとも代表的だったのが、拓也の書いた「嘘つきの少年」ですよね。その少年は嘘しかつけないから誰からも信用されない。少年が嘘をつくようになったのは、正直に話す権利と一人で生きていけることを引き換えにしたから。一人で生きていると、生きている実感がない。まさに拓也、4人、ひいては多くの参加者を表しているようで、切ないサンドアートの演出とともに、胸が痛くなりました。


これ個人的には凄く分かるんですよね。私は家族もいますし、仕事もしてますけど、孤独感はずっとありますから。友達もいないし、話し相手も全然いない。そんな自分が大嫌い。いてもいなくても同じ。誰にも目を向けられないんだったら、犯罪起こして注目されようかとか分からないでもないですから。私が犯罪者になってないのって、運が良いだけなんだなって思います。まあ犯罪を起こして人に迷惑をかけるくらいだったら、私はすぐに自殺しますけどね。鏡の前では「死ね」としか言わないし、包丁で自分の体を刺すところはよく想像する。


それはさておき、一人で独房の中で悶々と考えていても何も解決しません。この映画で重要なのは、自分についての話を聞いてくれる人がいるところなんですよね。聞きっぱなしで否定もされない。罪を犯したという同じ境遇にいる人の存在がどれだけありがたいことか。自分の傷や短所を正直に告白できる場があること、それを受け入れてくれる人がいることは、正直観ていて羨ましく感じました


だって、現実では傷や短所なんて人に言えないですよ。絶対そこから付け込まれますから。さらに傷つけられるのは目に見えています。だから私は人に心なんて開きたくないですし、そもそも私みたいなゴミに時間を割いてもらうこと自体が申し訳ない。それにあんなに自分の痛みを言語化できないです。私にはないものを、TCの参加者は持っていて、そのことが羨ましくて。途中までは私も何か犯罪を起こして、TCに参加しようかなと思ったぐらいです。




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ただ、この映画は後半になればなるほど、プログラムが進んでいくほど辛さを増していくんですよね。特に辛かったのが健太郎のロールプレイングのシーン。実際の事件の加害者と被害者になりきって会話を交わすというシーンなんですけど、健太郎が自分の事件の加害者、つまり本人を演じるんですよ。


そこで被害者の叔父らから質問を投げかけられて。強盗するまで相談できなかったという視野狭窄には共感するところもありましたし、婚約者の女性が中絶をしたり、叔母が疑心暗鬼になって寝れなくなったりと影響が多方面に及んでるんですよね。一対一じゃなくて。健太郎の目には涙が浮かんでいましたが、その涙さえ「何の涙ですか?」と問われる。新聞のベタ記事や、一瞬で終わるテレビニュースにこんな複雑な背景があるんだと、改めて思い知らされます。自分の想像力の無さが恥ずかしくなりました。


また、これと同じくらい辛かったのが、翔の2つの椅子のシーンですね。翔の事件は他の3人と違って人が死んでいるんですよね。で、翔の中では良い死に方をしたいという気持ちと、遺族に申し訳ないという気持ちが葛藤していて。2つの椅子というのはその葛藤を分けて、もう一人の自分と対話するという方法なんですけど、これが観ていて辛いなんてもんじゃない。おぞましさすら感じてしまいます。


良い死に方がしたいというのは綺麗事ではと、もう一人の自分を責める翔。どこかで踏ん切りをつけないといけないと、もう一人の自分に反論する翔。見ている人がいる分、このやり取りのキツさが増します。私も毎日、変われない自分に死ね死ね言ってるんですけど、可視化されるとこんなにも辛いことをしているんだなと身につまされました。翔の表情も追い詰められていて、自分と向き合うことの大変さを感じます。こんな大変なら、参加したくないなと思ってしまいます。そこまでしないと変われないと分かっていながら。駄目な人間ですね。












このように、TCの自分と向き合うプログラムは基本的にしんどいことばかりなのですが、TC経験者の再犯率は未経験者の半分と成果も上げているんですよね。それは、自分と向き合うことによって自己変革が促されたということもありますが、それ以上に大きいのはTC参加者が「つながり」を得たからなのではないかと思います。


この映画では二回、出所者のその後の様子が紹介されました。定期的に集まってバーベキューや、雑談の場が設けられています。バーベキューは朗らかに、雑談はお菓子もあり和やかに行われますが、会話から察するに現実はそこまで甘くはない様子。なかなか仕事には就けず、再び捕まってしまう出所者も少なくありません。


でも、再び集まる場所があるんですよね。元TC参加者というつながりがあり、安心して身を委ねることができる場所があるんですよ。元TC参加者の一人が「TCの内容はあまり覚えていない」という旨のことを語っていましたけど、もしかしたらTCの最大の効能はプログラムではなく、人と人とのつながりを醸成することにあるかもしれないですね。この映画に登場した出所者の多くが笑顔でしたし、やっぱり人は人との関わりの中でこそ癒されるのだなと感じました。


終わり方も未来を予期させるものでしたし、一本の映画として『プリズン・サークル』の満足度は高いです。良い面ばかり描かれていたり、少しストーリーがありすぎるかなという感じもしましたが、私はこの映画好きですね。TCの重要性がよく分かりました。


衝撃的だったのが、日本の受刑者は4万人、そのうちTCに参加できるのは40人しかいないという最後のテロップ。それに、島根あさひは男性刑務所ですし、女性はTCのプログラムを受けることが、製作時点ではできていない。もっと日本の刑務所にTCが広まったらいいのにと思わずにはいられませんでした。欧米ではTCは1960年代から行われているということで、日本はだいぶ遅れていますが、それでもちょっとずつTCが広まって、再犯率の低い社会になるといいなと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『プリズン・サークル』。私たちと同じ人間である受刑者が、どのように回復していくのかを知ることができるいいドキュメンタリーだと思います。全国の映画館でご覧いただくのは難しいかもしれませんが、映画配信サイト「仮説の映画館」でも見ることができますので、時間がありましたら、ぜひ観てみてください。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 







こんにちは。これです。


いよいよ39府県で緊急事態宣言が解除されますね。映画館も徐々に営業を再開しており、良い兆しは見えてきていますが、まだまだ気は抜けません。私が入った劇場も座れる椅子は20%ほどしかありませんでしたし、ウィズコロナの新しい生活様式に慣れるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。引き続き、マスクなどの予防をしっかりとしていきたいと思います。


さて、そんな最中、私は一か月ぶりに営業再開した映画館に、映画を観に行っていました。今回観た映画は『もみの家』。不登校の女子高生が、自立支援施設で生活していくという、日陰者である私のパーソナリティ的にマストな映画です。好きな女優さんである南沙良さんが主演ですしね。


そして観たところ、想像と大きく違う印象を抱いた映画でした。まさかこんなことになるとは思ってもいなかったです。でも、灯りがついた後は映画館で観れてよかったと思いました。見逃さないで良かったです。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・正直怖かった
・田舎はあんなに良いところじゃないよ
・嫌な展開を極力オミットしている
・振り切っていて逆に好き





―あらすじ―

心に不安を抱えた若者を受け入れる〔もみの家〕に、16歳の彩花がやってきた。不登校になって半年、心配する母親に促され俯きながらやってきた彩花を、もみの家を主宰する泰利は笑顔で招き入れる。
「うちの生活の基本は、早寝早起きと農作業。ご心配もあるかと思いますが、まずは腹を括ってじっくり見守って頂ければと」
娘を心配しながらも、母親は東京に戻っていく。

彩花のもみの家での生活が始まった。
朝。寮生たちはそれぞれが担当している当番をこなした後、食卓につく。
寝不足でごはんが喉を通らない彩花に泰利は自分たちで作った野菜を勧め、泰利の妻・恵もきゅうりのぬか漬けの乗った皿を差し出すが、匂いが苦手だと言って手をつけない。

昼。畑での作業中、お調子者の伴昭がふざけて彩花を泥の中に突き飛ばす。伴昭が謝り、他の寮生も声をかけるが泥だらけのままその場を無言であとにする彩花。
その姿を見かけたハナエは驚き、声をかけた。
「つらかったね。偉かったねぇ」
彩花は、堰を切ったように声をあげ泣き始める。

慣れない環境に戸惑いながらも、もみの家での生活に次第に慣れてゆく彩花は、周囲に暮らす人々との出会いや豊かな自然、日々過ごす穏やかな時間の中で少しずつ自分と向き合い始める――。

(映画『もみの家』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。












・正直怖かった



白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき


『もみの家』を見ている途中、私の頭の中には、記憶の彼方に埋もれたこの狂歌がずっと浮かんでいました。正直に言います。怖かったです。あんな優しい人、世の中にいないですよ。日常生活を営んでいるはずなのにリアリティがなく、席を立ちたいとさえ思いました。こんな怖い映画だとは予想外でした。作り手が意図したのとは、全く違う感想を抱いてしまいました。本当にすいません。


この映画は105分という限られた時間の中で、一年という長い時間を描いています。なので、とにかく序盤はテンポ重視。もったいぶることもなく、本田彩花が半年以上学校に通えていないことを示し、すぐに舞台となるもみの家へ。とにかく早く主題に入ろうという素晴らしいスピード感です。


今作の主人公である本田彩花を演じたのは南沙良さん。『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』で名演を見せて以降、活躍を続けていますが、今回の役も実にピッタリ。目線や表情で陰の空気を作り出すのが上手いんですよね。それによって心を開いた後の演技が、なんてことないものなのにより輝いて見えたり。いつの間にか、拒絶していた私を映画に引き込んでくれました。降る雪を見つめる横顔が特に良
かったですね。今後も作品を見ていきたい女優さんだと改めて感じました。




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・田舎はあんなに良いところじゃないよ


もみの家は、普通の家に心に不安を抱えた若者が集う、いわゆる自立支援施設です。入居者の誰もが仲良く、初めて来た彩花にも優しく接します。でも、考えてみると、突然親元を離れて、既に出来上がっている集団に放り込まれる。このシチュエーションってけっこう恐怖だと思うんです。少なくとも、私だったら嫌ですね。彩花も帰りたいと一度はこぼしていましたし。


でも、新入りの彩花を入居者たちは拒絶せず、受容するんですよね。それも涙が出るほどの優しさで。自分たちも心に傷を負っているからか、決して否定しません。まぁ、ふざけている人もいましたけど、それはご愛嬌でしょう。ただ、こうもすんなり受容されると、何か裏があるんじゃないかと却って気味が悪いです。


悪意なんてものは全くなく、誰もが完全な善意の塊。でも、その一面しかなかったら、それは人間じゃなくて、人形に近いものでしょう。「ここにいて良いんだよ」と、逆に押し付けられているようで、居心地の悪さのようなものを感じてしまいました。普段優しくされたい、認められたいと思っているのに、いざ優しくされると「なんか違う」と思ってしまう。私は何とも面倒くさい人間です。


もみの家の生活は「早寝早起き、仕事は農業」。自分で作った作物をいただく、東京では為しえないプリミティブな生活です。田んぼを耕すのも、田植えをするのも手作業。機械使えばいいじゃんと思わずにはいられないのですが、そこは近代化にかぶれた人間のエゴでしょう。田舎で土と、作物と接することに意味がある。実際、汗をかいたなら、私だって愛着は湧いてくるでしょうし、悪くないと思うかもしれません。なんら間違ったことは言ってません。


ただ、ちょっと田舎を美化しすぎているように感じてしまったんですよね。田舎には温かい人のつながりがあって(おばあちゃんとの交流みたいな)、都会はそれが希薄だと言わんばかり。富山で実際に一年に渡り撮影したそうですが、ここまで良い面しか描かないのは、却って失礼な気もします


確かに四季折々の自然は綺麗でしたし、山からの眺望はご当地映画あるあるとはいえ、夕日が田んぼに跳ね返って幻想的でした。でも、田舎は理想郷じゃないでしょう。村八分とかありますし。おばあちゃんが亡くなって三日経って発見されたという少し厳しいシーンも織り交ぜていましたが、それは都会でもありますし。清らかすぎて、窮屈に感じてしまいました。捻くれてますね。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・嫌な展開を極力オミットしている


そして、さらに怖いのが、この至れり尽くせりのお城のような空間に、彩花はわりとすぐに順応するところです。入居者と少し対話しただけで、心を開いて、笑顔を見せる。極めて失礼ですが、本当に不登校なの?と邪推してしまうほどです。そりゃ彩花本人にとっては、大きな出来事なんでしょうけど、ちょっと描写不足かなという感じはしました。いつの間に取り込まれてしまっていることに、半ば恐怖を感じてしまいます。


思えば、この映画って嫌な展開を極力オミットしていたように感じるんですよ。もみの家を卒業していった淳平という男性や、萌絵という女性だって、挫折して戻ってくるんだろうなって思っていたけれど、卒業してそのままですからね。キャラが立っている人からいなくなるのはどうなんだろうと少し思いましたけど、自立支援施設の役割を十分すぎるほど果たしていますね。


嫌な展開というのはおばあちゃんが亡くなるくらいで、それも彩花の成長のためには必要なシーンでしたし、本当に優しい世界でした。正直、狂っているほどに。優しい世界というのは私の好みですし、現実も優しい世界であってほしいなと思うのですが、ここまで徹底されると逆に恐ろしいです。ある意味今年最高のサイコホラーだとすら感じてしまいました。


でも、映画が進むにつれて、私もこの優しい世界に慣れてしまったんですよね。それは南さんの演技力や坂本監督の手腕もあるんでしょうけど、やっぱり優しくされたいんだなって。おばあちゃんが亡くなったときには、そうなると思っていたとはいえ、悲しかったですし、出産のシーンは本当にハラハラしました。


たぶん、ぬるいお湯みたいなこの映画の温度に、冷たい水にいた私は、最初は熱っと感じていたんですけど、だんだん気持ちよくなっていったのだと思います。気づけば私も取り込まれてしまっていて、スクリーンが明るくなったときに、我に返ってまた怖くなりましたね。



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・振り切っていて逆に好き


さて、この映画で描かれていることって、世間一般で見れば100%正しいんですよ。否定するのではなく、受容することが福祉の現場で必要とされていることも理解できますし、地域の人々との触れ合いが人間関係が希薄になっている現代に必要とされているのも間違いないでしょう。命は循環している。お母さん産んでくれてありがとう。そして、また学校へ通い出す。ぐうの音も出ないほどの正しさです。


ただ、その正しさに苦しんでいる人もいるんですよね。不登校の子供には、学校に行けという言葉は真綿で首を絞められているように感じるでしょうし、水が清らかすぎると却って魚は棲めないものなんですよ。私も仕事がないときがありましたし、地域のサポートステーションにお世話になった時期もあります。職員の方は、私を受容してくれましたし、そのことに嬉しさを感じたのも事実です。ただ、それも行き過ぎると恐ろしいんだなって。過量の薬は毒になるんだなって感じてしまいました。


と、ここまであまり良いことを書いていませんが、それでも私はこの映画好きですよ。ここまで振り切っていると、怖さを通り越して逆に好感を持ってしまいます。何事も中途半端は良くないですからね。途中で思った「あっ、こういう映画なんだ。このまま突き進んでくれたらいいな」というのをブレずにやってくれましたし、ホラーとして好きです。完全に意図されたのとは違う見方なんでしょうけど、現時点で2020年上半期ベスト10に入ります。


でも、こんなことを思ってしまう私は、きっとあまり良い心根をしていないのでしょう。優しい世界に溶け込んで、ラストシーンに爽やかな感動を覚える人の方が、よっぽど素直で良い人間だと思います。現実の人間はこんな優しいものじゃない。そんなことを思いこんでいる自分が今は怖いです。もっと人を信じられたらいいんでしょうけどね。なかなか難しいです。


それと最後に一言。坊主の人どこ行った?



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以上で感想は終了となります。映画『もみの家』、私のは大分捻くれた感想ですが、素直な優しさが詰まった映画ですので、見る人が見れば感動すると思います。こんな状況下で、安易に勧めづらいのですが、よろしければ映画館でご覧ください。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい


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こんにちは。これです。外出自粛が叫ばれたGWももう間もなく終わってしまいますね。私は特に何もせずのんべんだらりと過ごしてしまいました。気持ちは焦るばかりで、あまり楽しくはなかったです。来年は気兼ねなく遊べるGWになっていたらいいですね。


さて、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』。5月1日に配信されたばかりのNetflixオリジナル作品です。少し時間はかかってしまいましたが、見たところ想像以上の良作でした。清々しい気持ちでいっぱいです。


では、そのいい気持ちのまま感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、何卒よろしくお願いします。




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―あらすじ―


内向的で頭脳明せきな女子と心優しき筋肉バカ男子。そんな2人が同じ女の子に恋をして、3人の友情と恋心は複雑に絡み合う―。

(Netflixより引用)





映画はこちらからご覧ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










近年になって急速なインターネットの発達は、私たちの言葉を見えにくくしました。気に入った言葉があればSNSでシェア。自分は口を閉ざし、「そうそうそれが言いたかったんだよ」と自らを納得させる方も少なくないのではないでしょうか。コピー&ペーストも容易です。偉人の名言を引用して、学があるように見せる。そうしているうちに、ますます自分の言葉は失われていきます。


私も自分の言葉がないと日々悩んでいますから。頭が悪くなっていって自分からは何も生み出せないようになってしまうんですよね。でも、この『ハーフ・オブ・イット』という映画は、そんな現代人に「自分の言葉で話そうよ」と呼び掛けているように私には感じられました。


この映画の主人公エリー・チュウは丸眼鏡の中国生まれの女の子。いかにも冴えない感じで好感が持てます。彼女は成績優秀で、他の生徒の課題を代筆することで収入を得ていました。そんなある日、彼女は面識もない男の子、ポールから代筆を頼まれます。その内容とはなんとラブレターの代筆。一度は断るエリーでしたが、生活のためにポールの依頼を受け入れます。


ここからポールの意中の相手、アスターを振り向かせるために、二人の奮闘が始まります。映画を見ながら手紙を書くエリー。文通はまあまあ順調で、アスターも自分の悩みを打ち明けるほど心を許している様子。ただ、その言葉はポールの言葉でもないし、もっと言えばエリーの言葉ですらないんですよね。二人とも他人に頼っている。自分の言葉がないキャラクターなんです。ここは頭が悪くて、言葉が出てこない私もかなり共感しましたね。


ある日、ポールは手紙からメールに切り替えようと、アスターにメッセージを送ります。これをエリーは妹が送ったものと弁解。スミスという別のアカウントを作ってそっちで話そうといいます。アスターはこれをOKしますが、訪れたファストフード店でポールはほとんど何も話せず。エリーもスミスだと自分を偽って、アスターとのやり取りを繰り返します。三人の関係はますます拗れていきます。


ただ、この辺り見ていて不快感は全くないんですよね。むしろアスターを攻略しようと作戦を練る様子はポップで楽しいものでしたし、二度目のファストフード店のシーンはどこかすれ違いコントのような可笑しさがありました。音楽も明るかったですし、一連のシーンでしっかりとエンタメ的な要素は確保できていた印象です。卓球のシーンがお気に入り。




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しかし、誤解が解けてアスターとポールが結ばれてハッピーエンド、なんて簡単な結末で終わるわけもなく。この映画で重要な要素となっていたのはエリーがアスターに想いを寄せていたということ。つまり、エリーはレズビアンだったのです。近年、LGBTQの社会的認知度が高まっていく中で、LGBTQの人々を扱う映画や物語が増えていますが、この映画もそういった要素を持っていました。性的なシーンはありませんでしたけど、苦悩や葛藤は少ないシーンでも見ることができます。


この映画には幾度となく、教会が登場します。エリーも礼拝の時間にパイプオルガンを弾いています。ということはキリスト教がベースにあるのは間違いないでしょう。ご存じの通り、キリスト教では同性愛は伝統的に罪とされています。近年は見直しが進んでいるようですが、エリーは自らの性的嗜好を言い出せずにいます。ただでさえ、中国人だからって軽く馬鹿にされていましたし、これ以上差別を受けたくはないと思ったのでしょう。本当の自分を隠していました。


それでも、この映画は基本的には「偽ることは罪」というスタンスを取っていて、罪には罰が与えられます。だって、エリーとポールは本当のことを告白しないといけない懺悔室で、偽りのラブレターを書いていましたからね。この辺りもキリストの逆鱗に触れたのかもしれません。エリーがレズビアンだと言い出せなかったのは自分のせいではないのに。周りのせいなのに。


何とも理不尽ですが、この映画のルールに則れば、エリーは罰を受けなければいけません。ポールにキスを迫られるところをアスターに見られたり、最後までアスターと結ばれることはなかったり。そもそもエリー自身が冒頭で「望みが叶う話じゃない」と予告していますからね。それでも温泉のシーンで同じところを向いていたり、最後も希望を持たせる終わり方をしていたりと救いは持たせていますが、その後はどうなるかなんて誰にも分かりませんしね。










けれども、この映画のルールは裏返せば「正直は美徳」ということになるんですよね。それは自分の言葉で話すということ。それは、エリーが自分の曲を歌って拍手喝采を受けるシーンや、エリーの父がポールに向かって中国語で話すシーンなど随所に現れていて、それが顕著だったのが、終盤の教会でのシーンでしょう。


ここではまず、クラスの人気者が他者の言葉を引用して、アスターに告白するんですね。で、アスターはこれを受け入れるんですが、エリーがちょっと待った、と。ここでエリーがレズビアンであり、スミスであることがアスターにバレるのですが、ここで重要なのはエリーが自分の言葉で喋ったことなんですよね。自分の言葉で愛について語ったことなんですよね。だから、その後ポールが「愛の形は一つじゃない」って援護してくれたわけですし。


この映画って、LGBTQというモチーフを扱っているので、「愛」がテーマの映画なんですよね。いきなり出てくる言葉が、プラトンの「愛とは完全性に対する欲望と追求である」ですからね。これを説明するには、古代ギリシャ人の昔話を始めなければなりません。


この映画はまず、紙のアニメーションで幕を開けます。古代ギリシャ人が言うには、人間はもともと四つの手足と二つの頭を持っていて完璧な存在でした。神様がそれを恐れて、二つに割った。一緒だった片割れを探して、元の一つに戻ることはこれ以上ない喜びだそうです。完全性に対する欲望と追求。プラトンが愛と呼んだのはそれです。一見すると難しい哲学的な概念ですが、可愛く見せてくれるので、ポップな入りになっていました。




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このプラトンの言葉、実はエリーは冒頭で一回否定しているんですよね。でも、これは心の声に過ぎなくて。思っていても言葉に出さなければ思っていないのと一緒です。しかし、この教会のシーンでは声に出して否定しているんですよ。プラトンの言葉も、誰かが言った愛に対する綺麗事も。そして、こう言うわけですよ。自分の言葉で。


愛は厄介でおぞましくて利己的


この映画では何回か偉人の名言が紹介されました。それらと比べると、このエリーの言葉は不格好なものでしょう。でも、どんなに不格好でも自分で考えて、自分から発した言葉に価値があるのです。それは誰に否定されることはありません。この言葉が画面に映ったときに私は痺れましたね。なんてカッコいい演出なんだろうと。


そして、自分が考えたことには言葉ならず、行動も価値があるんですよね。この映画のラストはエリーとポールの別れのシーンなんですけども、エリーは大学に進学するために地元の町を離れるんですよね。電車に乗って別れを告げるエリー。でも、ポールはその電車を走って追いかけます。何ともクサい演出ですし、実際エリーも陳腐だと唾棄していました。でも、どれだけありふれた行動だろうと、自分で考えて取った行動にはそれだけで価値があるんですよね。そのことがこれ以上なく表れていて、私の心は温かくなり、良い気持ちで映画を見終えることができました。


私は、この映画を見て自分の言葉の大切さに改めて気づかされました。これからもできる限り自分の言葉でブログを続けていきたいと改めて思いましたね。そういう意味でも『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』は、私に大きな気づきをくれました。映画自体も面白いですし、良作だと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』。決してハッピーエンドではありませんが、観終わった後に清々しい気持ちになれるおすすめの一作です。GWはおわってしまいましたが、お時間のある時に見てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


Netflix
Netflix, Inc
2020-05-02




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