Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2020年07月



こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想です。


今回観た映画は『劇場』。行定勲監督がメガホンを取った山崎賢人さんと松岡茉優さんのダブル主演作です。当初は4月公開予定でしたが、コロナ禍で公開延期。しかし、7月という案外早いタイミングで公開されることに。ただ、公開規模はかなり縮小し、私の地元のシネコンでも上映は取りやめとなってしまっていました。


それでも、なんとそういった方々への救済措置として、Amazon Prime Videoでも公開日とともに同時配信という日本映画でも類を見ない状態に。一番近くで上映している映画館が松本にある私にとっては、ありがたいことこの上ないです。本当は映画館で観たかったのですが、今回は配信での鑑賞となりました。


そして、観たところ、私みたいなワナビーには刺さる映画となっていましたね。配信という形にしてくださったことを心から感謝したいくらいの良作でした。


それでは感想を始めます。拙い文章ですが何卒よろしくお願いします。




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―あらすじ―

高校からの友人と立ち上げた劇団「おろか」で脚本家兼演出家を担う永田(山﨑)。
しかし、前衛的な作風は上演ごとに酷評され、客足も伸びず、劇団員も永田を見放してしまう。
解散状態の劇団という現実と、演劇に対する理想のはざまで悩む永田は、言いようのない孤独を感じていた。
そんなある日、永田は街で、自分と同じスニーカーを履いている沙希(松岡)を見かけ声をかける。
自分でも驚くほどの積極性で初めて見知らぬ人に声をかける永田。
突然の出来事に沙希は戸惑うが、様子がおかしい永田が放っておけなく一緒に喫茶店に入る。
女優になる夢を抱き上京し、服飾の学校に通っている学生・沙希と永田の恋はこうして始まった。

お金のない永田は沙希の部屋に転がり込み、ふたりは一緒に住み始める。
沙希は自分の夢を重ねるように永田を応援し続け、永田もまた自分を理解し支えてくれる彼女を大切に思いつつも、理想と現実と間を埋めるようにますます演劇に没頭していき―。

夢を叶えることが、君を幸せにすることだと思ってた―

(映画『劇場』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください。











『劇場』は予告編や宣伝では、"恋愛映画"と銘打たれていました。主演に山崎賢人さんと松岡茉優さんという今を時めく人気俳優の二人を据えており、予告編でも沙希が永田を受け入れるシーンや、自転車での二人乗りのシーン、「一番会いたい人に会いに行く、こんな当たり前のことがなんでできなかったんだろうね」という決め台詞など、少し不穏な空気はあるものの、概ね恋愛映画としてアピールしています。


しかし、これはとんでもないミスリードでした。確かにこの映画の着地点は恋愛映画となっていますが、そこに至るまでの過程は、むしろ何者でもない永田があがく姿に焦点が当てられています。純文学的なモノローグが、才能がない人間が夢を追うことは緩やかな地獄であることを浮かび上がらせていて、じりじりと忍び寄ってくる苦しみみたいなものを私は感じました。


もう最初の「いつまで持つだろうか」というモノローグからグサグサ刺さってくるんですよね。趣味で誰にも読まれない小説紛いを書いている私の身からすれば。全く評価されないどころか、酷評ばかり。みんな失敗しているならいいですけど、成功している人もいるのが劣等感に苛まれる。そんな中でモチベーションを保つことは簡単じゃないですよ。映画はいきなり山崎さんの目線のアップから始まるんですけど、世の中を睨むような目にいきなり引き込まれました


この映画で主人公である永田を演じた山崎賢人さんは、世間が持つ爽やかなイメージとは一変して無精髭を生やしていて、ぱっと見ランチパックのCMの人とは同一人物とは思えない風貌。夢を追っていると言えば聞こえはいいですが、実際は沙希の家に転がり込むヒモ。夢の実現には程遠く、どんどんと追い詰められていく永田の憔悴を山崎さんは過不足なく表現。沙希に受容されて、ごまかすように生活を続けていく背徳感みたいなものが、時にオブラートに包まれながら、時に爆発。関西弁が残る口調も効果的で、『キングダム』など話題作への出演が続くのには、確かな理由があるのだなと思わされました。


永田は友人と劇団「おろか」を主宰していますが、評判は散々。劇団員との仲も良くなく、映画が始まってからずっと追い詰められています。そんなある日、渋谷で同じ靴を履いた沙希と出会います。この沙希を演じたのが松岡茉優さん。シリアスな役柄を演じることもありますが、今回の沙希は明るくて、無邪気で、純真で、無垢。


猫なで声っぽい声で永田を引っ張っていく沙希には、松岡さんの可愛らしさがこれでもかと発揮されています。優しい口調は、孤独を感じている永田を引きずり込むには十分なほどで、天使を通り越して悪魔的。終盤にエセ関西弁を使うところとか、可愛さがエグかったですね。かと思えば、終盤にはシリアスで怖い一面も見せる。その落差の大きさが演技力を如実に表していて、思わず息を呑みました。





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喫茶店で少し話した後、軽くデートみたいなこともして、永田は沙希の部屋に行くようになります。お互いの好きな音楽に影響されるという正しく恋愛映画みたいな描写も経つつ、永田は自身が書いた演劇の主演女優に沙希をキャスティングします。ここの松岡さんの舞台上の演技が生き生きとしていて良かったですね。沙希を主演に据えた演劇は成功を収めますが、その後、永田が自身の演劇に沙希を起用することはありませんでした。沙希に頼るのが情けないと感じていたのかもしれません。その直後の演劇は、わざとやってるのかってくらいつまらなかったですし、沙希を起用し続けていたらまた違った未来があったのかもと、この時点でさえ思わずにはいられません。


そして、ここから夢を追うことの苦しさが波のように押し寄せてきます。「おろか」は定期的に公演が打てるようになりましたが、そのせいで日雇いのバイトは入れられなくなり、永田は貧乏になって沙希の部屋に上がり込む。夕方にようやく起き出し、言い訳みたいに散歩をするけど、演劇のことはほとんど何も浮かばない永田。才能がない人間が夢を追う姿が可視化されると、ただただ辛いだけなんだなと思わされます。


でも、沙希はそんな永田のことを徹底的に甘やかすんですよね。「ここが一番安全な場所だよ」とか言って。変われない永田を叱咤することもなく、その明るさで受容する。そして、永田もお面を被ってふざけるシーンに代表されるように「沙希がずっと笑ってくれれば、それで良かった」みたいなことをモノローグで言ってしまいますし。一見幸せそうに見えて、底には嫌味みたいなものがずっと流れており、心がねじれていくような感覚を味わいました。二人でゲームをやる姿は虚無以外の何物でもありませんでしたね。


ただ、やっかいなのが永田のちっぽけなプライド。掃いて捨てるような微かなプライドですが、そのプライドが邪魔をして、永田はだんだん沙希にイラつくようになってしまいます。「彼女の姿を見ていると、劣等感が刺激され、苦しみが増すことがあった」という永田の吐露は、思わずそうだよなと頷いてしまうものでした。




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現実から目を背けるように、演劇に打ち込む永田の姿は事情を知らなければ、求道者みたいに格好よくも見えるのでしょうが、彼の心情を知ってしまったからには哀れにしか見えませんでした。沙希が男友達からもらったバイクを壊すの、本当にダメ人間って感じだったんですけど、心は痛かったですね。こういったワナビーが現実にもたくさんいるんだろうなって、思いを馳せてしまいました。


そんな背を向け続ける二人にも、現実は容赦なく襲い掛かってきます。沙希は専門学校にも行かず、昼間からゲームをするようになり、永田も演劇が上手くいっている様子はありません。沙希が専門を辞めて?朝から夜まで働くようになると、永田は完全なヒモになり、酒を飲んで苛立ちをごまかすようになります。夜通しゲームをやるシーンはどんどん堕落していくようで、キツかったですね。


そんな中、永田は一緒に劇団を旗揚げした友人に誘われ、「まだ死んでないよ」という劇団の演劇を観に行きます(ここで登場する評論家たちに注目)。そこで永田は涙を流すほどの感動を覚えますが、作・演出の小峰ダイが同い年だという現実がのしかかってきます。天才とつけられたえげつない差。さらに、屈辱的なことに元劇団員から演劇の感想を書く仕事を回される。プレイヤーと傍観者の間には、埋めがたい差が横たわっていて、永田にしてみれば、それは自らの負けを認めるようなものだったのかもしれません。


それでも、永田は仕事を受け、なんとか自分で生活ができるようになり、沙希の部屋から離れます。しかし、たまにどうしようもなく会いたくなり、酒を入れてから沙希の部屋へと舞い戻るというクズ男ムーブを発揮。一方、沙希も居酒屋でのバイトもあり、酒に溺れるようになります。最初あんなに明るかった沙希がやさぐれていくのは、松岡さんの演技力もあり、もう見ていられません。勝手に合鍵を出して、部屋に入った永田に沙希が告げた「私、お人形さんじゃないよ」という台詞は二人の関係がこじれにこじれまくったことを如実に表しているように感じました。




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とまあここまでの展開を見れば、持たざる者の苦悩がメインに描かれています。この挫折の物語のどこが恋愛映画なんだと、私は感じていました。しかし、ラスト30分でこの映画はコペルニクス的転回を見せて、恋愛映画へと着地していきます


その最たるものが、予告編にもあった自転車を二人乗りするシーンでしょう。恋愛映画でありがちなシーンですが、この映画がオリジナリティを持っているところは、一方が全く喋らないこと。永田が一人で喋っていて、沙希は全く喋らないんです。何も喋らない沙希は最初は怒っているのかなと感じ怖かったのですが、永田の話を聞いているうちにだんだんと物腰柔らかになっていくんですよね。これを表情と仕草だけで表した松岡さんは凄いなって。無言の芝居でもこれだけ伝えられるんだと圧倒されてしまいました。桜が咲く道をそれまでの時間を清算するかのように、走っていくのは薄暗いとはいえ、画的にも綺麗でしたしね。


そして、ラストの展開ですよ。正直、グッときました。二人が一緒に過ごした数年間は、夢を目指したものの、何も変わらず、何も叶わず、間違っていた時間だったのかもしれません。地元の友だちは結婚して家庭を築いているという焦りも沙希にはありました。たらればを言えばキリがないですが、青森にいたままだったらまた違う人生があったかもしれない。でも、二人は最後にその時間は過ちではないと肯定するんですよね。舞台に出さないことで、永田が沙希の未来を奪ったのかもしれないし、沙希が甘やかしたせいで、永田は堕落していったのかもしれない。でも、二人で過ごした時間は間違いじゃなかったと肯定するんですよ。これを"恋愛"映画といわず何といいますか。


そして、これは現実にも多くいるであろうワナビーを救うことにも繋がっていると私は思うんですよね。作っても作っても報わらない日々。いつまで持つだろうかという不安。振り返ってみれば、自分は何も誇れるものなど残してきてはいないし、このまま苦しみが続くなら、いっそのこと辞めた方が良いのかもしれない。この映画は「続けようぜ」と励ますようなことはしないんですけど、「君が選んだ道は、過ごした時間は間違いじゃない」とは言ってくれていると思います。夢をあきらめた人、つまりほとんどの人間に、響くようなそんな映画だと感じました。




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以上で感想は終了となります。映画『劇場』。山崎賢人さんと松岡茉優さんの演技のアンサンブルが楽しめるだけでなく、かつて夢を持っていた方々の琴線に触れるような、そんな良い映画になっていると感じました。上映している映画館は少ないですが、配信でも観られるので、興味のある方はご覧になってはいかがでしょうか。


リンク↓
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08BJDP37F/ref=atv_hm_hom_3_c_8syuGY_RZFFG8_1_1



お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


劇場
井口理(King Gnu)
2020-06-25



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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想です。


今回観た映画は『マルモイ ことばあつめ』。『タクシー運転手 約束は海を越えて』の脚本家オム・ユナが初めてメガホンを取った韓国映画です。実は初めてその存在を知ったときから、ちょっと気になってはいたんですよね。『タクシー運転手』がすごく良かったので。


なので、小さくない期待を抱いて観に行ったのですが、想像をはるかに上回る大傑作でした。今年公開された韓国映画というくくりでは『パラサイト 半地下の家族』や『スウィング・キッズ』等を超えて、一番好きです。おそらく年間ベスト10にも食い込んでくるんじゃないかというくらい、胸に残る映画でした。


それでは感想を始めます。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―あらすじ―

1940年代・京城(日本統治時代の韓国・ソウルの呼称)― 
盗みなどで生計をたてていたお調子者のパンス(ユ・へジン)は、ある日、息子の授業料を払うためにジョンファン(ユン・ゲサン)のバッグを盗む。
ジョンファンは親日派の父親を持つ裕福な家庭の息子でしたが、彼は父に秘密で、失われていく朝鮮語(韓国語)を守るために朝鮮語の辞書を作ろうと各地の方言などあらゆることばを集めていました。
日本統治下の朝鮮半島では、自分たちの言語から日本語を話すことへ、名前すらも日本式となっていく時代だったのです。
その一方で、パンスはそもそも学校に通ったことがなく、母国語である朝鮮語の読み方や書き方すら知らない。
パンスは盗んだバッグをめぐってジョンファンと出会い、そしてジョンファンの辞書作りを通して、自分の話す母国の言葉の大切さを知り・・・・。

(映画『マルモイ ことばあつめ』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。





この映画は、1933年の満洲から幕を開けます。バッグを手にし、軍人から逃げる男。軍人が話すのは日本語です。皆さんも知っての通り、当時日本は満州という中国の一部を統治下に置いていました。銃に撃たれて斜面を転げ落ちる男。残されたバッグには、ハングル文字が書かれた紙が入っていました。




時は進み、七年後。1940年のソウルの街並みが映し出されます。この頃のソウルは日本の統治下にあり京城と呼称されていました。日本は朝鮮語を禁止して、日本語を話すようにするなど、皇国臣民化を推し進めています。街の看板にところどころ日本語が混ざっているのが静かな衝撃を与えてきます。

この映画は、そんな中で奪われていく朝鮮語の辞書を作ろうとする人々の奮闘の記録です。辞書づくりの映画といえば、日本でも数年前に『舟を編む』という映画がありましたが、比べるのもおこがましいほど、辞書作りに対する覚悟は段違いでした。命を投げうつと言っても過言ではない覚悟です。


となると、この映画は重たい話のように思われるかもしれません。確かに後半は息を呑むほどのヘビーな展開が続いていきますが、前半は想定外なほどエンターテインメントをしていました。その理由はなんといっても主人公であるキム・パンスのキャラクターにあると思います。


キム・パンスはスリ集団を率いていたりと、どうしようもない部分もありますが、それ以上に口が達者でどこか憎めない部分がありました。ジョークで場の空気や映画のトーンすら明るくしていましたし、二人の子どものことを想う父親という人間味溢れる一面もあります。彼を演じたユ・ヘジンのどこか軽く、物事を深刻に捉えない雰囲気や、にじみ出る情けなさなどは、パンスのキャラクターにバッチリ当てはまっていました。いい具合に愛嬌もあるので、こういった役が似合いますね。




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パンスは劇場でのわずかな給料を基に、貧しい暮らしをしています。スリも日常茶飯事。ある日、息子ドクジンの学費が払えないという事態に陥ってしまいます。そこで、金持ちを見定めてスリを働こうとするのですが、そこで狙われるのが朝鮮語学会代表のリュ・ジョンファンです。スーツを着て、どこか『舟を編む』の松田龍平さんに似た雰囲気のあるジョンファン。演じたユン・ゲサンは真面目な性格ながら、心の奥では使命に燃えるジョンファンをこれ以上ないほど的確な演技で表現していました。


そして、この一連のスリのシーンがですね、連係プレーの連続でとにかく面白いわけですよ。アニキって呼ばれてシラを切るパンスもおかしいですし、二人一緒に警察に追われることになるんですけど、パンスの鈍足っぷりには思わず笑ってしまいました。でも、このスリの流れが後々効いてくるから話作りが上手いです。


パンスたちのスリは上手くいかず、バッグはジョンファンの元に戻ります。同じころ、パンスは劇場の仕事をクビになってしまいます。このままでは生活ができないと、伝手を頼って職場を求めるパンス。辿り着いた先は、街中の本屋。そこでは、秘密裏に朝鮮語の辞書を編纂していて、ジョンファンが代表を勤めていました。二人はここで再会をします。口八丁で同僚に認められていくパンスですが、ジョンファンはパンスが働くことを認めようとしません。それは性格的に水と油ということもありますが、なによりパンスは文字が読めなかったのです。


日本統治下での朝鮮語の辞書作りの想像を絶する苦労については、また後述しますが、この映画を私がお勧めするポイントの一つが、最初は分かり合えない二人が、辞書作りを通じて分かり合っていき、無二の相棒になるというバディものとしての完成度が群を抜いているところです。

















パンスは学校にも通っておらず、文字も読めなくて、言語の価値も全く分からない人間です。地下に収蔵されたたくさんの原稿を見たときも、「金なら分かるが、言葉を集めて何になる?」と語っていました。しかし、働くうえで最初は無理やりでしたが文字を覚えていくうちに、言語を獲得する喜びを知っていき、小説を読んで泣くまでになります。言葉の重要性が分かり、ジョンファンもパンスに対する見方を徐々に改めていきます。


しかし、ある日職場から印刷代が消失。パンスはその前歴から疑いをかけられてしまいます。しかし、犯人はパンスではありませんでした。ジョンファンはパンスの家にまで出向き、謝罪します。自らが辞書を作るようになったきっかけや、かつて朝鮮語を教えていた父親の思い出などを語るジョンファン。ここで良いのがパンスのことを同志だと認めていることです。


スタートは最悪だったのに、パンスが文字を習得して変わっていったのと同時に、ジョンファンも少しずつ元の明るい性格を取り戻す。バディものの王道ですよ。このときの同志という言葉を聞いて、軽く笑うパンスがまた良いんですよね。嬉しさと恥ずかしさが同居している感じで。


ジョンファンが帰った後、外は雨が降り出します。職場はぼろくて雨漏りがしていますが、これをパンスがトタンの屋根をつけることで何とかしようとするのが心憎い。「俺がいなきゃダメだな」みたいな照れ隠しまでしちゃって。こういうのに弱いんですよね。私は。その後も一度は離れ離れになりますが、また結託して最後は命を預けられる間柄にまで関係が深化しているのはもう最高としか言いようがありません。凸凹コンビの七転八倒をぜひ楽しみに見ていただきたいなと思います。




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さて、1910年の韓国併合から1945年に終戦するまで、日本が韓国を統治下に置いていたのは周知の事実ですよね。教科書にもしっかりと載っています。しかし、教科書では触れられたとしてもせいぜい二、三行のみ。実際に統治下に置かれていた韓国がどうだったのかは資料集でもあまり詳述されていません。この映画はそんな時代の韓国の様子を十全に見せつけてきます。


街にはぽつぽつと日本語の看板。創氏改名で日本名を名乗ることを強制されたり(今でも在日朝鮮人の方々には日本名を名乗る人がいますね)、学校では皇国臣民になるべく、小学校から日本語教育がなされています。朝鮮総督府の認可を受けられなければ、自由な出版をすることもできません。韓国ではなく日本という「お国」のために戦うことを余儀なくされ、映画の終盤には実際に出征式が開かれてもいました。


中でも苛烈を極めたのが、言語に対する政策です。日本国民だという自覚を植え付けさせるために、朝鮮語は禁止され、人々は日本語をしゃべることを余儀なくされます。劇場では、日本語で戦争を正当化するプロパガンダ映画が上映され、朝鮮語の新聞も廃刊に。バスの中で、ハングルの歌を歌うパンスが日本人に物理的に叩かれるシーンは胸が痛みます。


そんな洗脳ともいえる教育の影響は小さい子供に如実で、パンスの娘・スンヒがハングルよりも平仮名を習っていたり、果てには朝鮮語を全く喋れない子供さえ生まれます。物理的にも目を覆いたくなるような凄惨な光景が繰り広げられていましたが、文化的にも侵略とも言っていい数々の暴挙に、当時の日本はここまで惨たらしいことをしていたのかと、驚きました。


映画を観ている途中、ずっと胸の中でごめんなさい...ごめんなさい...と唱えていたくらいです。感動的なシーンでも、でもこの人たち、日本人のせいでこうなってるんだよな...というのが頭をよぎり、私は泣くことができませんでした。泣く資格すらないと思えたのです。


だから、朝鮮語の辞書を作ることは当時としては重大な背信行為。当然警察も厳しく取り締まります。朝鮮語学会はこれをなんとか潜り抜けていましたが、ついには警察に原稿が見つかって、全没収されるのには、さすがに堪えましたね。十年間の結晶が...。その後にわずかに芽生えた希望すら、摘み取りに来るのですから本当に徹底しています。


辞書を出させないためには、人を撃つことも厭わないですからね。殴る蹴るなどの暴行も加えていますし、刑務所でのシーンは鬼畜の所業かと。劇的な誇張が入っている気もしないではないですが、実際の事件でも人が死んでいるみたいですし...。今までの映画よりも当事者に近い分、心がずきずき痛みました。













でも、そんな辛い情勢とは対照的に、文字を覚えていくパンスの無邪気さが心に刺さるんですよね...。学ぶ喜びに目覚めたパンスが、街中のハングル文字を「読める、読めるぞ」的なテンションではしゃいでいくシーンは文句なしの名シーンで。楽しいシーンで泣かせられるっていうのは、本当に凄いと思います。悲しみで泣かせるよりも数十倍難しいですからね。


そして、朝鮮語を覚えていくに連れて、自分が属する韓国という共同体に、韓国人であるということに誇りを持っていく流れが最高です。心まではどんな抑圧も及ばない。初めて誇りを手に入れて、二人の子どもが自然に日本語を話すことに違和感を覚えて、朝鮮語を守らなきゃと立ち上がる。政治家や活動家じゃなくて、一般市民が反旗を翻すというのが、胸を打ちます。私たちと変わらない名前のない人々だからこそ、感じるものがあります。


そして、その熱が周囲に伝播していくのも、また熱い展開。ジョンファンたち朝鮮語学会が作る辞書は、韓国中の方言を収録した辞書だから、彼らだけではできないんですよね。地方の教師に頼むも、抑圧の影響で断られて。でも、パンスの呼びかけやあるアイデアもあり、画面に登場するしないにかかわらず、何十人、何百人、いや何千人もの人々が決起するのには、思わずテンションが上がってしまいました。「1人の10歩よりも10人の1歩」という言葉を体現していて、人間の力強い意地を垣間見ました。




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この映画を観ると、言語は魂であり、誇りであり、存在事由なんだなと思い知らされます。ネイティブアメリカンの言語は16世紀にスペインに侵略されてから、話者がめっきり減ってしまいました。一説では世界におよそ7000ある言語のうち、2500語が絶滅の危機に瀕していると言われています。言語はその人種が存在した証で、絶滅するということは、彼らの存在が世界から消えてしまったことと同義。石板に残る楔形文字はともかく、文字を持たないアイヌ語などの言語は、話者がいなくなったらもう復活させることはできません。


朝鮮語学会たちの戦いは言葉だけでなく、誇りを、この世界に存在したという事実を守るための戦いのように私には思えました。韓国語は抑圧から唯一回復された言語だといいます。エンドロールに流れるハングル文字はいつもだったら、ただ呆然と眺めているだけですが、彼らの戦いの成果なんだと思うと、胸が熱くなるような感動を覚えました。2時間15分と上映時間はやや長めですが、最初から最後まで、興味深く観られる大傑作だと思います。


コロナ禍でいろいろ厳しいとは思いますが、教科書では語られない歴史を知るため、自らの言語の対殺差を再認識するため、エンターテインメントとして楽しむため、どんな理由でもいいので、鑑賞することを強くお勧めします。



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以上で感想は終了となります。『マルモイ ことばあつめ』、上映館数はあまり多くないですが、心奪われる大傑作なので、興味のある方はもちろん、この感想を呼んで初めて映画の存在を知ったという方も、ぜひ観に行ってください。よろしくお願いいたします。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


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こんにちは。これです。ちょっと聞いてくださいよ。今日も映画を観に行ったんですけど、なんとコロナ禍で吹き飛んだ映画前広告が復活していたんですよ。見飽きていた結婚式場のCMがこんなに嬉しく感じるなんて。映画館にまたお金が入り始めて心底良かったなってなりました。


さて、今回観た映画は『私がモテてどうすんだ』。ぢゅん子さん原作の少女漫画の映画化です。私が積極的に見に行かないジャンルでしたが、コロナ禍で新作映画に飢えていたこともあり、ビビりながらも観てきました。未読ですけど、原作はもう完結してるんですね。あの終わり方だと、まだ連載中なのかなって感じましたけど。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―あらすじ―

自分の恋よりもイケメン同士が恋する妄想に夢中な花依(富田望生)は、大好きなアニメキャラが死んだショックで1週間も寝込んでしまったら…なんと激ヤセして、超絶美少女(山口乃々華)に!そんな花依を好きになってしまう同じ学校のイケメンたち――六見先輩(吉野北人)、五十嵐くん(神尾楓珠)、七島くん(伊藤あさひ)、四ノ宮くん(奥野壮)。恋愛興味ナシなのにモテまくる花依だが、ついつい彼らをBL目線で見て妄想してしまい…。「イケメン同士のカップリングが好きなのに、私がモテてどうすんだ~!」悩む花依が出す、想定外の答えとは?!

(映画『私がモテてどうすんだ』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。









※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。










数ある映画の中でも私が最も苦手としているジャンル。それは恋愛スイーツ映画です。私のような交際相手いない歴=年齢な人間にとっては、最も縁遠いジャンル。さらにそこにコメディまで乗っかると、未開の奥地を進むような恐怖があります。それでも食わず嫌いは良くないと、決死の覚悟で観に行きました。そして、観たところ、この手のコメディ寄り実写映画特有の演出に面喰らいつつ、それでも思っていたよりは悪くなかったです。面白いか面白くないかで言えば、面白かったですしね。




この映画の特徴は何といってもテンポの速さ。わずか90分足らずの尺の中に、4人分の胸キュンシーンはもちろんのこと、BL要素や主人公の少女の成長(してたかどうかは疑問だけど)も詰め込まなければならないため、一つ一つの展開は自ずと速くなります。


映画はまず、主人公の芹沼花依が妄想をするシーンからスタート。BL大好きのいわゆる腐女子と自ら観客に向けて語り掛けます。さらに、この映画で花依に惚れる六見遊馬五十嵐祐輔七島希四ノ宮隼人の属性をサラッと紹介。テロップを出して、観客に名前を把握させます(頭の悪い私は見分けられるようになるまでに30分くらいかかってしまった)。ここは演出で見せてほしかったところですが、そんな悠長なことはしてられないと巻きに巻きます。


さらに、息もつかせず花依がシオンというキャラクターに恋をしていることを提示。部屋は引くほどシオンのグッズで埋め尽くされています(講談社つながりで『進撃の巨人』のキャラクターもけっこういた)。しかし、そのシオンはあっという間に死亡。ショックで一週間寝込んだ花依はなんと超絶美少女になってしまいました。


そして、流れるように映画はオープニングへ。オープニング中に六見以外の3人が花依に惚れるところもハート溢れる演出で素早く処理。ここまでわずか10分足らずと、思わず感心してしまうほどのテンポ感です。ダンスもさすが本職の山口乃々華さんを起用したとあってキレが良く、もしかしてこの映画けっこう面白いのかな?と期待を抱きましたね。




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ただ、オープニング明けの展開はかなりきつかったです。花依は4人とデートをすることになりますが、4人ともイケメンということで、登場シーンで周りからワーキャー言われるんですよね。というかオープニングでは痩せた花依に周囲が色めき立っていましたし、こういうあからさまな演出はあんまり好みじゃないです。わざとらしい気がして。


5人は池袋へ。道の途中にはアニメイトがあって、限定グッズに花依の心は揺らぎます。ここの演出が個人的にはもう心折られるかってぐらいきつくて。ニコニコ動画よろしく、画面に字幕がバーッと出るんですよ。花依の思考を表す演出でしたけど、いかんせんちょっと古いかなと...。その後のゲーム風の選択肢が出てくるのも合わせて、表面的な演出をぶち込まれて目眩がしてきます。(何とか耐えましたけど)


というか、この映画ところどころ古い箇所があるんですよね。この後、かなり早めのフェイクエンドロールがあるんですけど(俳優さんを売り出そうっていう圧力?)、そこで流れる曲がまさかの「Get Wild」。何だこの選曲。イロモネアを思い出して笑っちゃうじゃないか。


あと、細かいところですけど気になったのが、花依が『GIANT KILLING』を全巻揃えているっぽいところなんですよね。サッカー漫画の。そこはもっと最近話題の漫画とかあるでしょと思ってしまいました。まさかジャイキリをBL的に楽しんでいるというのか…?












話をストーリーに戻しましょう。限定グッズ(アニメキャラの抱き枕)を優先し、デートをブッチしてしまう花依。しかし、4人は花依の家に上がり込んできます。二次元で埋め尽くされた花依の部屋。机の上にはシオンを偲ぶ仏壇が。4人は若干引きますが、六見を筆頭に何とか理解を示そうとします。ここ、薄々この映画のテーマって「見かけではなく中身」というありふれたものなのかなと感じました。


そのわりには、ここからの展開がルッキズムに縛られているのが個人的には嫌でしたね。痩せた花依に目を付けたのが演劇部の面々。部長のヒョロくん坂下を筆頭に、舞台のヒロインをやってほしいと頼み込みます。前置きも何もなく唐突でしたがこれ、花依が太ったままなら絶対声かけられてないですよね。圧倒的なヒロインが必要というのも、それは外見だけの話で。結局主人公は美人じゃないとダメなのかと思ってしまいます。


ただ、演劇部は地区予選を突破しないと廃部になるというとってつけた設定もあり、花依は必死に稽古に励みます。ただ、あまりに頑張りすぎて発熱。一週間自宅待機をして、その間に差し入れを食べまくったら、あっという間にリバウンド。元の体型に戻ってしまいます。


ここで疑問だったのが、七島や四ノ宮は花依をスリムに戻そうとすること。七島に至っては、「性格の良いぽっちゃりより、性格の良い美人が好きだ」とか、「痩せたいと思うのが女心のはず」とか外見至上主義に基づいたセリフを連発。そういう役割だとしても、ちょっとこれは看過できないなと思ってしまいます。坂下に「豚が豚になるだけだ」とか意図的にでも言わせますかね。まあ、そのカウンターとして、「外見がどうであろうと関係ない」というスタンスの六見の存在意義があるんでしょうけど。




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さて、太ってしまった花依は、4人のBLを餌になんとか痩せることに成功します。ここからは、4人が順次花依に告白をしていくターンなのですが、まあこのあたり唐突過ぎて深みが全然感じられなかったです。4人それぞれと花依の個別シーンみたいなものは、90分という尺に収めるためにかなり少なく、それゆえに積み重ねがありません。


見に来ている女性に「こういうのが好きなんだろ」というのを押し付けているというか...。そもそも花依が太っていたら告白したのか?という疑問も拭えず...。見せ場のシーンのはずなのに、ここビデオで見てたら早送りするだろうなぁとか思いながら見てしまいました。すみません。


でも、やっぱり90分という尺で4人との関係を丁寧にやるのは、少し無理があると思います。2人ないし、3人に減らせたらもっと一人当たりの尺取れたのになとはどうしても思ってしまいました。好きな人には申し訳ないですけど、四ノ宮いる?と観た後には考え込んでしまいましたし...。


この映画はストーリーよりも、胸キュンシーンを詰め込むことに注力していて、これはメインである女性層を考えれば悪い判断ではないのかもしれません。実際、私の後ろに座っていた二人のお姉さま方は色めき立っていましたし。










しかし、流石に4人同時に付き合うわけにもいかず、花依は屋上で一人を選ぶのですが、このシーンはツッコミどころ満載でしたね。なんですか、あの結界は。しれっと4人が移動して当たり前のように花依を中心とした四角形を作っていますけど、なにか魔物でも呼び出すんですか?それに、あの展開だと、それまでの〇〇〇まるっといらなくない?となります。この映画きっての爆笑ポイントなので、『邦キチ!映子さん』で取り上げられたら面白そうだなとか考えてしまいました。


そして、これはネタバレになるんですけど、花依は六見を選びます。理由は六見が花依の中身を一番見ていたから。花依のオタク趣味に一番最初に理解を示したのも、外見で判断しなかったのも六見ですからね。ここは「外見よりも中身が大事」というこの映画のテーマに一見沿っているように見えます。


ただ、やっぱり疑問は拭えないんですよね...。一番大きかったのは花依がスリムな状態のまま終わることです。これもネタバレになりますけど、最終的に花依は現実の恋愛よりも妄想を取るんですよね。軽蔑されるオタク趣味を受け入れることができて、外野から見守るのが私のベストポジションと結論付けています。『レディ・プレイヤー1』とは真逆ですね。


この映画の終わり方って花依が自分を肯定できたっていう終わり方なんですけど、正直、痩せて可愛くなったからチヤホヤされて、それで自信がついただけなんじゃないの?って思ってしまいました。4人との恋の決着はつかず、これからもアタックし続けるよという顛末なのですが、これもお前ら花依が太った状態で同じこと言えるんか?というのは疑問ですし...。


最後の王子様の隣には王子様がいても良いというのは、けっこう新しい着地点で、そこは新鮮に感じたんですけど、それを外野から見守る花依という着地点にするのであれば、痩せたままの状態で終わるというのはちょっと説得力に欠けるというか...。ルッキズムから脱出しようという意気は見せてますけど、中途半端に終わってしまったかなという印象があります。




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あれ...?ここまで面白いとか言っておきながら、全然褒めていませんね...。いや、でも光る部分は確かにあったんですよ。テンポの良さに快感を感じたのは確かですし、俳優さんたちもちゃんと求められているものを提供していたと思いますし(神尾楓珠さんと富田望生さんが特に良かった)。


それにオープニングのダンスシーンは山口さんはE-girls、富田さんは『チアダン』の経験があるので、板についていて、いい意味で鳥肌が立つほど素晴らしかったです。でも、オープニングとエンディング、それと謎の雨の中のシーンでしか踊っていなかったので、このキャストなら尺を長くしても、もうちょっとダンスシーンを多くしても良かったのかなとさえ感じます。というか私が観たい。


あとは気になる箇所は多かったんですけど(坂口涼太郎さんは『ちはやふる』のヒョロくんのイメージがつきすぎて色々大変だろうなぁとか、ざわちんさん関連大体スベってたなぁとか)、どれもあっけらかんとしたもので。ツッコミを入れながらも楽しめました。傑作!とまではいかないまでも、クソミソに貶されるほど悪くないのかなとは思います。


でも、最後に一つ。エンドロール後のNGシーンは不要だと思います。映画の余韻を削いでしまいますし、一気に虚構を剥がされると冷める人もいるでしょうし。まあ若手俳優さんたちを楽しむ映画なので、受け入れられる人も多いですし、その方たちにとってはサービスになってましたけど...。こういうのは映像特典で見たい人が見るのが一番だなと感じました。



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以上で感想は終了となります。映画『私がモテてどうすんだ』、きつめの演出もありますけど、そこまで悪い映画ではないですし、確かに面白い部分もあります。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。

おしまい 







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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『MOTHER/マザー』。日本を代表する女優である長澤まさみさんの主演作です。意気揚々と観に行きましたが、なかなかどうしてよろしくない映画でしたね……。最初に行っちゃうと個人的にはあまり好きじゃないかなと......。


それでは感想を始めたいと思います。けっこうな酷評なので、それが嫌な方はどうか読まないことをお勧めします。いつにも増して書き殴っただけの拙い文章なので、そちらにもご注意ください。




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―目次―

・俳優さんたちの演技がほとんど唯一の長所
・ブレないキャラクターに人間味を感じられなかった
・悲惨な目に合わせれば、堕落していけばリアリティが出るなんて大間違い





―あらすじ―

シングルマザーの秋子(長澤まさみ)は、息子・周平(郡司翔)を連れて、実家を訪れていた。その日暮らしの生活に困り、両親に金を借りに来たのだ。これまでも散々家族からの借金をくり返してきた秋子は、愛想を尽かされ追い返されてしまう。金策のあてが外れ、昼間からゲームセンターで飲んだくれていた秋子は、そこでホストの遼(阿部サダヲ)と出会う。二人は意気投合し、遼は、秋子のアパートに入り浸るようになる。遼が来てから、秋子は生活保護費を使い切ってしまうばかりか、一人残した幼い周平を学校にも通わせず、遼と出かけたまま何週間もアパートを空ける始末だった。
周平が残された部屋の電気もガスも止められた頃、遊ぶ金がなくなった秋子と遼が帰ってきた。二人は、以前から秋子に気があった市役所職員の宇治田(皆川猿時)を脅して金を手に入れようとする。だが、遼が誤って宇治田を刺し、一家はラブホテルを転々とする逃亡生活を余儀なくされることに……。

そんな中、秋子が妊娠した。だが父親が自分だと認めない遼は、「堕さない」と言い張る秋子と周平を残して去っていく。ラブホテルの従業員・赤川(仲野太賀)と関係と持ち、敷地内に居候をつづける秋子は、周平を実家へ向かわせ金を無心するが、母の雅子(木野花)から今度は絶縁を言い渡されてしまうのだった。
5年後、16歳になった周平(奥平大兼)のそばには、妹の冬華(浅田芭路)がいた。秋子は定職にも就かずパチンコばかり。一方、周平は学校に行くこともなく、冬華の面倒をみていた。住む家もなくなった三人に児童相談所の亜矢(夏帆)が救いの手を差し伸べ、簡易宿泊所での新しい生活がはじまった。亜矢から学ぶことの楽しさを教えられた周平は、自分の世界が少しずつ開いていくのを感じていた……。

母と息子は後戻りのできない道へ踏み出そうとしていた———。

(映画『MOTHER/マザー』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください












・俳優さんたちの演技がほとんど唯一の長所


この映画を観終わった後、私に湧いてきたのは怒りにも似た感情でした。はっきり言って、深刻そうに見せかけているけど全然浅いなと思ったんです。認めない認めてたまるかとさえ思いました。今年観た映画の中でもちょっとワーストの方に位置する映画かもしれないです。


それでもこの映画にも良いところはあって。それは俳優さんたちの演技です。ここはメインに日本有数のキャストを揃えていて、文句などありません。今年公開される邦画の中でも間違いなく上位に位置するでしょう。


まずは何といっても主演の長澤まさみさんですよ。出る映画出る映画でヒットを飛ばす日本一のヒットメーカーですが、それは確かな実力に基づいたものだとこの映画で証明。全く弁解の余地のない毒親を演じていますが、口調の使い分けや虚無を表す瞳で十二分すぎるほど表現。静かに脅す口ぶりからは底知れない怖さが滲み出ていて、立ち姿にですら畏怖を感じてしまいます。


もうすぐ公開される『コンフィデンスマンJP』とは(多分観ないけど予告編を見る限りでは)正反対の演技をしていて、演じられる役の幅広さに感服する思いです。(やたらと太ももを出してましたけど、あれは大森監督のフェチですか?)


また、周平を演じた奥平大兼さんは、この映画が初出演と言うことで、擦れていない雰囲気が良きでした。母親である秋子から虐げられて、自らの意志を出せなくなった周平をおずおずとした佇まいで表現。台詞の一言一言に、苦渋が満ち溢れていました。良い意味で秋子の分身、操り人形であることが窺える演技でしたね。


さらに、遼を演じた阿部サダヲさんはもう安定の演技ですよ。あれだけブチギレた後にヘラヘラできる俳優さんは他にいないのではないでしょうか。時折見せる刺すような口調がこちらをもドキリとさせます。一分の隙もないクズ男を清々しいほどに全うしていました。


他にも皆川猿時さん(使い捨てられっぷりに泣ける)、仲野大賀さん(こんな濃い顔だっけって思った)、木野花さん(叫ぶおばあちゃんはさすがにハマる)など魅力的な俳優さんたちが大勢出演していましたが、個人的に好きだったのは亜矢を演じた夏帆さんですね。


予告編で見たときから良いと思ったんですよ。あのおいてけぼりの表情。今までどちらかというと自然的なイメージがあったんですが、この映画では不自然なぐらい人工的で、この変わり身はどういったことだろうと思ってしまいます。ラストシーンも(シーン自体は)ずば抜けて良かったですし、なんか最近私の中で夏帆さんがブームになっている気がします。観ていて「夏帆論書きたいな」と思ってしまったぐらいです。それくらい良いです。




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※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











・ブレないキャラクターに人間味を感じられなかった


とここまで俳優さんたちを褒めちぎってきたのですが、お気づきでしょうか。「全く弁解の余地がない」「秋子の分身、操り人形」「一分の隙もない」「不自然なほど人工的」と、キャラクターを一つの型にあてはめる表現が用いられていることに。そうなんです。この映画が一番ハマらなかった個人的な要因はキャラクターにあるんです。


秋子は、自分の気の向くままに暮らす女性。仕事をする気も一切なく、パチンコに明け暮れ、苦しくなったら臆面もなく金をせびる同情の余地のないキャラクターです。周平は秋子の呪縛から逃れられず、言いなりになるしかない。遼は借金を踏み倒すクズ男だし、亜矢は曇りのない心で周平と冬華を助けようとする存在。それは別に良いんです。でも、問題だなと思ったのがキャラクターが一面的に見えてしまったことです。


本来、人間ってもっと複雑な存在だと思うんですよね。良い面と悪い面の両面があると思うんです。でも、この映画はキャラクターの片面しか強調しておらず、どこか人形のような印象があります。観ていて失礼ながら「大森監督、『セーブ・ザ・キャットの法則』ってご存じ?」と思ってしまいました。


この『セーブ・ザ・キャットの法則』というのは、ハリウッドの有名な脚本術の本です。まぁ実を言うと私も読んだことはないのですが、なんとなく理解はしていて。不良が猫を助けるとキュンとなるっていうアレだと思ってるんですけど、要するに両面を描けっていうことなんですよね。良い面と悪い面の。この映画ってキャラクターの一面しか描いてなくて、『この女、聖母か、怪物か』みたいなキャッチコピーがありますけど、映画を観る限り、話の上では秋子の聖母感はゼロですよ。


それに、キャラクターがあまり悩んだり迷ったりしないことも少し問題かなって。全くブレないから、次にどんな展開が来るかなんとなく分かってしまうんですね。「このキャラクターならこうするだろう」というのが百発百中で当たってしまうんです。勘の鈍い私ですら、橋の上のシーンになった瞬間に「これは祖父母を殺す流れだな」と気づいてしまいましたし、最後の周平の告白も「お母さんがどうのこうの言うんだろうな」と思ったら、これも当たり。


要するに、話に意外性がないんです。よくキャラクター作りの上ではブレないことが強調されますけど、あまりにブレないとかえって遠く感じてしまうんだなと。実際の人間はもっとブレるし、悩むし、迷う。実話ベースと言っておきながら、キャラクターに人間味が薄いのは大きな問題だなと思いました。もしキャラクターに深みみたいなものが感じられたのなら、それは100%俳優さんの功績であって、もうちょっと脚本でキャラクターの人間味を見せてほしかったなと思ってしまいます。


でも、これらはきっと意図的なものでしょう。そうしてあえて遠く離れたキャラクターにすることで、彼ら彼女らがそれほど追い詰められていた、視野狭窄に陥っていたということを表現したかったのかもしれませんし、実際その試みは成功しています。ただ、あまりにフィクションを感じてしまったので、この演出は個人的には認めたくはないですけどね。



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・悲惨な目に合わせれば、堕落していけばリアリティが出るなんて大間違い


それにお話にも少し問題ありだと思います。順を追ってみていきましょう。秋子と周平は親子二人暮らし。ですが、秋子は自堕落な生活をしており、両親に金をせびるも拒否されます。ゲームセンターで遼と出会ってからは、周平を置いて二人で名古屋に出て行ってしまいます。この周平が一人でゲームをするシーンは嫌でも『誰も知らない』を思い出させますね。観ていて一番キッツイなと思いましたし、この感じで行ってくれれば期待できると思ったんですけどね......。


秋子と遼と周平は事情があり、どこかの海辺の町へ越します。ただ、その事情がさほど深刻ではなかったことを知ると、秋子と遼はケロッと元の町へとんぼ返り。ラブホテルで暮らす日々を送ります。ここのラブホテルのオーナーを秋子が誑かすシーンは、まさに魔性の女という感じで良きでした。ただ、問題はここからです。この後に挿入されたシーンが致命的でした。


ここで、周平は父親と会うんです。この父親が取り付く島もない状態だったらまだ良かったのですが、周平のことは今でも大事に思っているし、秋子にも養育費と称してお金を入れています。抱きかかえるほど周平のことを愛していますし、いやもう父親の方行った方が絶対良いじゃんというのは誰の目にも明らかです。それでも周平は秋子を選ぶ。それは共依存と称された精神的な呪縛のせいでしょうが、この父親と暮らせばいいじゃんというのはずっと映画中ついて回るんですね。


う何が起こっても、父親の元へ行けば万事解決じゃんと思ってしまうんです。子供に金をせびらせても、ラブホテルの屋上のテントで夜を明かしても、学校に行けなくても、住処を転々としても、なんで父親の方行かないのとしか思えないんですよね。この逃げ道を作ってしまったのは大失敗だなと思います。あんな中途半端に父親を出すなら、いっそのこと出さない方が良かったのに。


それに、この映画を観ていて「悲惨な目に合わせれば、堕落していけばリアリティが出るだろう」という思惑を感じてしまったのもダメでした。はっきり言ってそれは大間違いですからね。脚本上の怠慢、思考停止とさえ言えると思います。もしそういう展開にするなら、逃げ道はしっかり潰しておかないとダメです。不幸の押し付け、マッチレース、地獄めぐりは主人公がどうしようもない状況にないと、疑問ばかりが浮かんでしまうというのをこの映画を観て思い知らされました。


というかその描写自体も……という。これは完全に個人的な問題なのですが、映画っていうのはやっぱりいつ観るかというのが大きいと思うんですよ。私の場合はこの前日に『娘は戦場で生まれた』というシリア内戦のドキュメンタリー映画を観てしまってましたからね。もう爆撃は普通に映るわ、壊滅した都市が何度もインサートされるわ。銃痕、欠損、血まみれの連続ですからね。言葉を失ってしまうほどキツかった。


もちろん比べたらダメなのは分かっていますが、『娘は戦場で生まれた』と比べてしまうと、この映画がやってることはどうしてもフィクション、ひどい言い方をすればおままごとにしか映らないというか......。間違いなく今の私が観る映画ではなかったですね。せめて順番が逆だったらよかったかもしれないです。まあそれでもこの映画にはあまり良い評価は下せませんけど......。




あと引っ掛かったのが、周平による祖父母の殺害が物語の山場になっていることです。まぁストーリー的には良いとしても、ここで言いたいのは「なんで宣伝や予告編で殺害したって言っちゃったの?」ということです。え、どうして最大の山場をバラしたんですか?殺害するって分かってたら緊迫感も何もあったもんじゃないんですけど......。


いや、そっちの方が引きがあってお客さんを呼べるのは分かりますよ。でも、長澤まさみさんらの名前である程度お客さんは呼べそうな気はするんですけどね。予告編見ないで観たかったなとどうしても思ってしまいました。私だったら「親子の行く末は……?」みたいな煽りにするところです。現場の苦労も知らず生意気言ってすいません。でも、宣伝や予告編が映画の鑑賞体験に全くプラスに働かないのは由々しき事態だと思います。もっとどうにかできなかったんでしょうか……。




というわけでまとめると、『MOTHER/マザー』は、お話があまり良くないのを俳優さんたちの演技でどうにかしちゃっている映画だと私は感じました。もちろんそれで良い映画もあるんですが、この映画はそういうタイプの映画じゃないと思います。正直、全然ハマりませんでした。あぁ切ない。



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以上で感想は終了となります。映画『MOTHER/マザー』、お話はあまりお勧めできないのですが、俳優さんのファンの方には観て、損のない映画になっていると思います。ハマる人も絶対にいると思うので、興味のある方は映画館でご覧になってはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい






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