Subhuman

ものすごく薄くて、ありえないほど浅いブログ。 Twitter → @Ritalin_203

2020年08月



こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『青くて痛くて脆い』。『君の膵臓をたべたい』の住野よるさん原作の映画です。キャストが好きな人しか出ていないので、元々8月に公開される映画の中でもかなり注目していました。珍しく原作も読んでの鑑賞です。嘘の正体を知るのは気が引けましたが、それ以上に興味が勝ってしまったので。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

人付き合いが苦手で、常に人と距離をとろうとする大学生・田端楓と
空気の読めない発言ばかりで周囲から浮きまくっている秋好寿乃。
ひとりぼっち同士の2人は磁石のように惹かれ合い秘密結社サークル【モアイ】を作る。
モアイは「世界を変える」という大それた目標を掲げボランティアやフリースクールなどの慈善活動をしていた。
周りからは理想論と馬鹿にされながらも、モアイは楓と秋好にとっての“大切な居場所”となっていた。
しかし、秋好は“この世界”から、いなくなってしまった…。
秋好の存在亡き後、モアイは社会人とのコネ作りや企業への媚売りを目的とした意識高い系の就活サークルに成り下がってしまう。
変わり果てた世界。
取り残されてしまった楓の怒り、憎しみ、すべての歪んだ感情が暴走していく……。
アイツらをぶっ潰す。秋好を奪ったモアイをぶっ壊す。どんな手を使ってでも……。
楓は、秋好が叶えたかった夢を取り戻すために親友や後輩と手を組み【モアイ奪還計画】を企む。
青春最後の革命が、いま始まる―。

(映画『青くて痛くて脆い』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。










『青くて痛くて脆い』、一本の映画としてはまとまっていたと思います。前向きなメッセージを分かりやすく伝えてきていて、爽やかな主題歌も相まって観終わった後、前向きな気持ちで映画館を後にできること間違いなしです。正直、私は原作を読んだときに、「個人的には住野よるさんはあまり得意じゃないかなぁ」と思っていたのですが、「この住野よるさんなら得意だ」と映画を観て感じました。





この映画はパラパラ漫画から始まります。初見では「どこかの配給会社のロゴかな?」と思いましたが、普通に映画が始まったので驚きました。最初のモノローグも原作と全く一緒です。


田端楓は人に不用意に近づかず、人の意見を否定しないことをテーマにしている大学一年生。目立たず事を荒立てずの、地味で平穏なキャンパスライフを送ろうとしていました。この田端を演じたのは吉沢亮さん。一年生のときの大人しい感じから、四年生の腐りかけた感じはまるで別人のようです。舞台挨拶でもあった通り、何かを訴えかけてくる目力が印象的でしたね。流石の演技でした。


目立たないキャンパスライフを送りたいという田端の目論見は、開始2分で打ち砕かれます。授業中に手を挙げて、大っぴらに理想論を語る一人の女性がいたからです。彼女の名前は秋好寿乃。世界から戦争をなくすことが本当にできると思っている、自信過剰で愚かで鈍い人間です(田端談)。彼女に間に合わせに使われたことで、田端が描いていた理想は早くも粉微塵になります。


この秋好を演じたのは杉咲花さん。理想を高らかに語る笑顔と声が良かったですよね。特に声が少しアニメチックだったのが、この映画ではプラスに働いていて。こんなやつ現実にはいない感を印象づけていました。そこからの真顔のギャップも良くて。吉沢さんと二人での講堂のシーンは息が詰まりそうな緊迫感がありましたね。「気持ち悪っ」を二回言ってくれたのも最高でした(原作では実は一回だけなんだぜ)。


行く先々の講義で理想を語り、悪目立ちした秋好は早くも大学で浮いてしまい、どのサークルにも入れてもらえません。「自分でサークルを作れば?」と提案してしまう田端。その提案に秋好はまんまと乗っかり、二人は「なりたい自分になって、世界を変える」秘密結社モアイを結成します。空から横断ほどを見上げるカメラワークが印象的でした。




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それから三年。就職も決まった田端は、数少ない友達である菫介と居酒屋で呑んでいます。そこにやってきた、やたらと騒ぎ立てる集団。彼ら彼女らは三年の時を経て、意識高い系就活サークルに成り下がったモアイでした。モアイを目の敵にする菫介。この菫介を演じたのは、私の好きな岡山天音さん(『王様になれ』の主演やってくれたから)。今回もいい感じに意識が低く、主人公と馴れ合う友人キャラで力を発揮していました。


そして、変わり果てたモアイに嫌気が差していた田端はモアイを潰すことを宣言します。一緒にモアイを作った秋好は「死んだんだ」とも。このあたり原作では少しずつ変わったモアイの存在をちらつかせつつ、60ページくらいかけていたので、スピーディだなと妙な感心をしてしまいました。


モアイ攻略の糸口を見つけるため、モアイ主催の就活イベントに潜入する菫介&報告を待つ田端(モアイの上の人間には顔が割れているかもしれないので)。水先案内人でモアイの幽霊部員であるポンちゃんと一緒に潜入します。このポンちゃんを演じたのは松本穂香さんです。今までいくつかの映画で拝見してきましたが、あまり喋らない役柄が多かったので、今回のあけすけに喋るポンちゃんは新鮮に感じました。これがまた絶妙に緩くて良くて。住野よるさんが絶賛したのも分かります。


就活イベントに潜入して、バレそうになりながらも田端と菫介は参加企業のリストをゲット。原作ではこの後ちょっと回想を挟んで、即バーベキューになるのですが、映画はここからが長かった











※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。












映画では秋好と田端がフリースクールに行く回想が入ります。そこには学校に馴染めない瑞希がいました。彼女を演じた森七菜さんがベースを弾くところ(あんまガチじゃないけど)が観られるのは映画版ならではの長所ですね。先生に連れ戻されそうになって、嫌々逃げ出したり、嗚咽を漏らしたりするのも良かった。ここで「このままでいいのか」という先生のセリフが、あからさまに田端に重ねられていて、この映画のテーマを浮き彫りにしていっていましたね。


さて、回想も終わりバーベキューのシーンです。田端と菫介はテン(モアイの幹部ね。演じた清水尋也さんのSっ気よ)が遊び人だという噂を聞きつけ、そのスキャンダルをネタにモアイを内側から崩そうとしていました。まあその企みは上手くはいかないんですが、ここでこの映画の肝である「大きな嘘」が発覚します。


秋好は生きていて、未だにモアイの代表を勤めていたのです


田端が言った秋好が死んだというのは、かつての理想に生きていた秋好は死んだという意味だったのです。田端は今の腐ったモアイを潰して、もう一度かつてのちゃんとしたモアイを取り戻そうとしていました。


そのために田端が取った方法と言うのがSNSでの炎上。モアイが企業に学生の情報を横流ししていたことを知った田端は、捨てアカでその事実をSNSに流します。フォロワーの数も知れている捨てアカで投稿したからって、あんなにいきなり火がつくかというツッコミは置いといて(暇な人間は大勢いる)、ネットニュースにまで取り上げられてモアイは炎上。炎を実際にバックに映す演出はちょっとどうかとは思いましたが、田端の目論見通りモアイは窮地に追い込まれます。




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と、ここからの展開は映画を観てほしいのですが、私はこの映画の大きなテーマとしては「なりたい自分になる」というものがあるように感じられました。それは瑞希が高卒認定試験を受けることや、パラパラ漫画、そして田端の存在しないIFの記憶に表れています。


私は本当は田端は人と関わりたかったのだと思います。田端のテーマは自分も相手も傷つけないようにするためでした。しかし、そのテーマを遵守するあまり、言いたいことを言えずに、結果的には自分も相手も傷ついてしまっています。「なりたい自分になる」ためには傷つく痛みも必要。ラストシーンの原作通りのあの最後のセリフは、田端がそれを受け入れた何よりの証拠だと私は思います。


なりたい自分になるために、一歩踏み出した田端の姿にきっと多くの人が勇気づけられることでしょう。自分を否定せず、なりたい自分になっていいんだという気づき。それを私はこの映画から受け取りました。観終わった後には実に清々しい気持ちになりましたね。


半分は。





















さて、この映画を観て私が感じたもう半分は驚きでした。というのもこの映画は原作とは全く異なっているからです。細かな相違点だけではありません。もはやベクトルが真逆になっているとも言っていいほどの変化でした。脚本を書いた方と同じ小説を読んだとは思えないほどです。


小説と映画の相違点は、それこそ枚挙に暇がありませんが、大きなポイントとしては以下の3つが挙げられると思います。


①秋好の生存をばらすタイミング
②フリースクールの描写の追加
③川原さん関連の描写の激減



まずは①からです。映画ではバーベキューのシーンで秋好の生存が明らかになっていますが、原作では違います。モアイのリーダーは小説の中ではしばらくはヒロというあだ名で呼ばれていて、その正体が秋好であると明らかになるのは、菫介が降りるシーンとなっています。随分早くばらすんだな、このまま興味惹き続けられるのかなと感じましたが、案の定それは上手くいっていないように感じました。映画から見る人への配慮なのでしょうが、もう少し引っ張れたんじゃないかとも感じてしまいます。


続いて②です。フリースクールや瑞希の描写は映画オリジナルのもので、原作では実は一文字もありません。別に小説をそのまま映画化しろと言っているわけではなく、改変も受け入れようとはしたのですが、わりと時間を使っているのに、このシーンでは話が一ミリも進まないんですよね。「このままでいいのか」という問いが示されはしますけど、それくらいですし。森七菜さんや光石研さんは良かったんですけど、もう少し短くても良かったんじゃないかなとは思いました。


そして、私が最大の問題だと感じているのが③です。このフリースクールの描写の増加のあおりを食らう形で、川原さんの出番が激減。いてもいなくてもいい存在になっていて、ここが個人的には一番しっくりこないポイントでした。というのも、『青くて痛くて脆い』において、川原さんはけっこうなキーパーソンなんですよ。




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それを語る前に、まずは川原さんの設定を確認しなければなりません。川原さんは田端と同じドラッグストアでバイトをしている大学一年生。モアイのわりと熱心な方の部員であり、ヤンキー女子大生(田端談)。小説では、主にモアイの内情を田端に知らせるという役割を担っています。映画では省かれましたけど、小説では、ドラッグストアでの描写もわりと多いです。この微妙な距離感好きだったんだけどな......。


いわばパイプ役の川原さんですが、彼女自身もなかなか刺さる言葉や芯を食ったセリフを連発。「距離感」「自分に酔える人間」「安全圏で笑える人間なんてゴミ」「空っぽ」などなど。特に終盤、田端と秋好が同じ「空っぽ」だと漏らしたのは痺れました。秋好と田端の共通性をこれ以上なく言い当てた言葉で、田端の行動にも大きな影響を与えていたので、映画にないのは少し勿体ない気もしました。


それに、川原さんの最大のポイントがモアイに居場所を見つけた人間であるということ。この事実が田端に自分の奪ったものを鋭利な痛さとともに突き付け、掻きむしるような恥と後悔をもたらしているわけですが、映画ではいかんせんこれが弱い。川原さんの立ち位置は瑞希に移管されていますが、瑞希はそんなに話に絡んでくるわけではないので......。


ラストの田端の衝動もちょっと薄くて、川原さん関連を大きくカットした弊害を感じます。川原さんのシーン、原作では映画の10倍くらいありますからね。夜送るシーン以外も入れてほしかったです。











この感想の最初に「私は住野よるさんが得意ではない」と書きました。それは住野さんが過剰なほどのモノローグと鋭いセリフで痛覚を刺激してくる作家さんだからです。私は住野さんの作品は『青くて痛くて脆い』と『よるのばけもの』くらいしか読んでいませんが、その2作を読んだ印象で言えば、住野さんは私たちを傷つけない作家さんだと感じています。その代わりに、元々あった癒えていない傷口に塩を塗りこんでくるような読み味があって。そっちの方が余計痛いなって感じてしまっています。


映画も私たちを傷つけることはありません。ただ、傷口には絆創膏を貼ってくれます。優しく処置をしてくれて、痛みを引かせる方へと向かわせます。それは、まるで痛みなんてなくてもいいというように。この映画には痛みがかなり減じられてしまっていて、そこには私の得意じゃない住野さんはいませんでした。何が「キミスイ」をぶっ壊すですか。この住野さんなら私は大いに得意ですよ。とても寂しく切ないことですけど。


この映画には痛みが原作ほど感じられず、「なりたい自分になる」といういわば自己啓発ムービーとなっていると私は感じました。まるでモアイがPRのために作った作中作のようです。まあ「なりたい自分になっていい」というのは優しいようでその実、無責任で、争いの原因を作る残酷さも持っているのですが。そう考えると、原作とはまた違った悪意と残酷さが透けて見えます。もしかしたら、優しい笑顔の裏の顔みたいなことがこの映画の狙いだったのかもしれないですね。




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以上で感想は終了となります。映画『青くて痛くて脆い』。原作を読んだ人と読んでいない人では、良くも悪くも印象が大きく異なる映画だと思います。個人的にはこれほどの改変は今まで観たことがなかったのでびっくりしました。ただ、全然悪い映画ではないので、興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


青くて痛くて脆い (角川文庫)
住野 よる
KADOKAWA
2020-06-12



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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『のぼる小寺さん』。最初はその存在を知らなかったのですが、『聲の形』や『若おかみは小学生!』の吉田玲子さんが脚本を担当されていると知り、俄然見なくちゃという気に。公開から1か月以上経ちましたが、ようやく長野でも公開されたので観に行ってきました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




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―あらすじ―

――彼女がなぜのぼるのか、僕には“まだ”わからない。
教室。ひとりぼっちの近藤は、暇つぶしに携帯をいじっている。

体育館。
卓球部の近藤が隣をみると、小寺さんが上を目指している。
近藤は小寺さんから目を離せなかった。

放課後。
教室に小寺さん、近藤、四条、ありかが残される。
「進路調査票、白紙なのお前らだけだぞ」担任の国領が紙を広げる。
不登校気味の梨乃が遅れてやってくる。
「お前、めちゃくちゃ遅いよ!」あきれる国領。

クライミング部の隣で練習する卓球部の近藤、クライミング部の四条、ネイルが趣味で不登校気味の梨乃、
密かに小寺さんを写真に収めるありか。
小寺さんに出会った彼らの日常が、少しずつ変わりはじめる――

(映画『のぼる小寺さん』公式サイトより引用)






映画情報は公式サイトをご覧ください







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。








『のぼる小寺さん』、良い青春映画でした。観終わった後にじっくり咀嚼できて、小さな勇気をもらえるような良作でした。個人的に今まで観てきた青春映画とは少し印象が違ったんですけど、それも含めて良かったですね。




この映画は終盤のシーンを先に見せるところから始まります。「小寺さんはどうして登るんだろう」というナレーションとともに、クライミング部の小寺さんが大会に出場しているシーンが描かれます。何かを言いたげな近藤、というところでタイトルが映し出され、物語は始まっていきます。


近藤は、休み時間に誰とも喋らず、スマートフォンを見て、騒いでいる人間を馬鹿にしているような、実にありがちな高校一年生です。卓球部の練習にも身が入らず、クライミングに勤しむ小寺さんを眺めてばかりいます。この近藤を演じた伊藤健太郎さんは、微妙な表情や視線の変化で、何をがんばったらいいのか分からない等身大の学生像を見事に表現していました。やっぱり若いながら、安定感がありますね。


さて、とある日、近藤と小寺さんは教室に残されます。とはいったものの二人だけではなく、同じクライミング部の四条や、カメラを持っているありかも同じく残されています。この四人は進路調査票を白紙で提出したことで、先生からやり直しを命じられていました。「とりあえず書けば、三年間どっかで考えながら過ごすことになる」という先生。


すごくベタな始まり方ですが、高校生は将来の選択を否応なしに迫られる時期ですからね。15歳の若者に一生なんて決められるわけないのに。不満足そうに進路調査票を受け取る4人と、遅れてやって来た梨乃。この5人がメインとなってこの映画は展開していきます。


この映画は近藤、四条、梨乃、ありかの4人が小寺さんを見て"とりあえず"がんばれるものを見つけるというストーリーなのですが、ポイントとなるのは小寺さんを理想的な人物として、特別扱いしていないことなんですよね。小寺さんはクライミング一直線すぎて、進路調査票にも「クライマー」と書いてしまうキャラクター。ですが、周囲からは不思議ちゃんと呼ばれ、授業では顔面にバレーボールがぶつかって鼻血を出してしまいます。


この映画では、画面に名前が出て、それぞれのキャラクターの性格や置かれた環境を描くという演出があるのですが、それでさえ小寺さんは5人中4番目でしたし。小寺さんも他の4人と同じラインに立っているというこの映画のスタンスは好きです。演じた工藤遥さんも、基本的には自然体なんですけど、天性の引力みたいなものがあって、気づいたら見入ってしまっていました。クライミングもモーニング娘。で培った運動能力を生かして、しっかり自分で挑んでいましたし、好印象です。他の映画でも見たいなと感じました。




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黒い画面に白い文字で名前が出るこの映画の演出。一番最初に名前が登場したのは近藤です。ここは先ほど説明した通りなので割愛するとして(やる気のない卓球が見どころ)、二番目に登場したのはありかでした。このありかは丸眼鏡を掛けていて、その見た目から友達もおらず孤立しているのかなと思いきや、普通に友達はいる様子。


ありかはカメラを構えていますが、ただ趣味で撮っているだけで、どこにも出せていません。彼女を演じたのは小野花梨さんは、風貌からして言いたいことが言えない雰囲気をすごく醸し出していて、誰かに声をかけるときのぎこちなさが良かったです。


次に名前が出たのは梨乃。しかし、梨乃は不登校気味で、学校外の知り合いとバーべーキューをしたりして、遊んでいます。それでも、小寺さんと話すことで、徐々に学校にも顔を出すようになるんですよね。小寺さんにネイルを施すシーンは、この映画でも数少ないキラキラしたシーンでした。彼女を演じたのは、吉川愛さん。こういった少し派手目な役柄にぴったりの華と、その裏にのぞかせる影を併せ持っていて、嫌味ったらしくなく観ることができました。


そして、小寺さんの名前が画面に映されたのち、最後に登場したのが四条です。はじめはおどおどしていた彼ですが、小寺さんのアドバイスで髪を切ってからは少し積極的に変わっていく四条。彼を演じたのは鈴木仁さんです。『4月の君、スピカ。』や『小さな恋のうた』で何度かお見かけしたことはあったのですが、この映画でもその存在感は目を引きます。


最初のもっさりした印象があったのですが、後半は穏やかなイケメンに。それでも、根っこの部分は変わらないというバランス感覚が見事で、この映画で個人的に一番好きなキャラクターでした。鈴木仁さん自体もこの年代の俳優さんの中では一二を争うくらい好きですね。秋公開の『ジオラマボーイ・パノラマガール』も楽しみです(長野で公開されるかどうかは怪しいけど)。









前述したように、この映画は小寺さんを見ていた4人がそれぞれ小さな一歩を踏み出すストーリーです。小寺さんを含めた5人はさまざまに関わっていきますが、この映画の特徴として静かであるということが挙げられると思います。よくある青春映画だったら、もっと直接的なセリフやムード音楽を流したりして盛り上げそうなところを、この映画は自然な会話と俳優さんを生かす抑え目な演出で見せているんですよね。直接的なセリフなんて「僕も登らなきゃって思うんだ」ぐらいのものでしたし。


この映画って分かりやすさと分かりにくさの合間、微妙なラインをついていたと思うんですよ。私はバカなので分かりやすい方が好みなんですが、いい意味で分かりにくいのもいいかなって感じました。エモーショナルな場面が少なく、淡々と進んでいくんですけど、これはこれで好みだったりします。


でも、描写不足には決してなっていなくて。小寺さんと近藤の会話中に流れる蝉の声とか、近藤と伊藤の屋上での会話での焦点のあっていない景色とか。セリフだけでなく、画面の色々な角度から訴えかけてきていて、映画ならではの魅力を感じました。近藤が卓球に熱心に取り組んでいく過程も説得力がありましたし、だらだらやっていた仲間との決別を示す試合後のシーンには痺れます。


そして、小寺さんに触発されて、梨乃やありか、四条も小さな一歩を踏み出すんですよね。梨乃とありかが初めて喋るシーンは確かな感動がありましたし、小寺さんを好きだった四条がその恋心にケリをつけて、別の女子の告白を受け入れたのも好きでした。


特に梨乃の描写が個人的には好きで。劇中での梨乃は学校には来るんですけど、授業を受けるシーンはないんですね。そのまだ授業に入っていく勇気は出ないけど、小さな一歩ぐらいなら踏み出せるというこの塩梅はすごく良かったと思います。無理して押し付けない感じで。




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この映画で「これ以上できないくらい挑戦していれば、必ず『ガンバ!』って言ってくれる」といったようなセリフがありました。確かに小寺さんは最大限挑戦していて、大会のシーンは私も思わず手に汗握って、登場人物と同じように「ガンバ!」と言いたくなったのですが、私は他の4人にも同じくらい「ガンバ!」って言いたくなったんですよね。彼ら彼女らは小寺さんほど一生懸命じゃない。でも、自分の道を見つけようと、水面下でもがいている姿に私は「ガンバ!」と応援したくなりました


そして、この映画の最大のポイントだと私が感じているのが、4人の見つけた道が、人生を捧げる道だとは限らないということです。繰り返しになりますが、そもそも15歳か16歳かそこらの若者に、自分の人生を決めさせるのは酷なことだと私は思います。だって、高校を卒業してから分かることの方がずっと多いから。近藤も、ありかも、梨乃も目指した道でプロになれるかどうかは分かりませんし、なれない可能性の方がずっと高いと思います。


でも、そんな先が見えない中でも"とりあえず"がんばることに価値がある。この映画では、小寺さん以外の4人の進路調査票は放っておかれたままです。何になれるかは分からないし、夢は変わるかもしれないけれど、"とりあえず"がんばって自分の決めた道を進む。今を生きる。だれもが夢を見定めているわけじゃない高校一年生の態度としては、とても現実的なものだと私は感じました。


この映画は小寺さんを見る4人というストーリーで展開していきました。しかし、4人が"とりあえず"の道を見つけるにつれて、小寺さんを見なくなっていくんですよね。がんばっている小寺さんを羨む必要は薄くなっているんです。


それを如実に示しているのが、ラストシーンでしょう。小寺さんと近藤が背中合わせになるという絵面だけでキュンとなるシーンなのですが、ここで近藤は小寺さんを見ていないんですよね。"とりあえず"卓球に打ち込むという自分の道(仮)を見つけて、まっすぐその道を見ている。もう小寺さんという道標に頼る必要がなくなったんです。蝉の声が消えているのも、近藤が一生懸命になれるものを見つけたことを表していて、オレンジの光とともにグッとくる終わり方でした。良作ですね。




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以上で感想は終了となります。映画『のぼる小寺さん』、淡々としたムードながら、がんばっている、もしくはがんばろうとしているキャラクターたちを応援したくなる映画でした。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。お勧めです。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想です。


今回観た映画は『』。かの中島みゆきさんの同名曲を映画化した一作です。今回は8月12日の先行上映で観てきました。あまり大きくないスクリーンでしたけど、お客さんがいっぱいで期待値の高さを感じましたね。


それでは感想を始めたいと思います。拙い文章ですが何卒よろしくお願いします。




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―あらすじ―

平成元年生まれの高橋漣と園田葵。
北海道で育った二人は13歳の時に出会い、初めての恋をする。
そんなある日、葵が突然姿を消した。
養父からの虐待に耐えかねて、町から逃げ出したのだった。
真相を知った漣は、必死の思いで葵を探し出し、駆け落ちを決行する。
しかし幼い二人の逃避行は行く当てもなく、すぐに警察に保護されてしまう。
その後、葵は、母親に連れられて北海道から移ることになった。
漣は葵を見送ることすらできないまま、二人は遠く引き離された…。
それから8年後。
地元のチーズ工房で働いていた漣は、友人の結婚式に訪れた東京で、葵との再会を果たす。
北海道で生きていくことを決意した漣と、世界中を飛び回って自分を試したい葵。
もうすでに二人は、それぞれ別の人生を歩み始めていたのだった。
そして10年後、平成最後の年となる2019年。
運命は、もう一度だけ、二人をめぐり逢わせようとしていた…

(映画『糸』公式サイトより引用)




映画情報は公式サイトをご覧ください










※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。







映画『糸』。基本的には上手くまとまっていましたし、悪くない映画だったと思います。ラスト付近で漣と葵のストーリーが交差する展開はシンプルに感動しましたし、全体を通して見ても大きな破綻はしていません。ですが、個人的には上手くまとまりすぎていて、予定調和にも感じてしまいました。


この映画は北海道・美瑛。漣と葵が13歳のころから始まります。漣はサッカー少年で、友達と花火大会に出かけます。自転車で転倒してしまいますが、葵からばんそうこうを渡される。二人はこうして出会いました。そこからは漣のサッカーの試合に葵が弁当を持って行ったり、漣が葵に告白してみたり。そして、ある日漣は葵が父親から虐待を受けていることを知り、二人で一緒に逃げようとします。


ここで、どこかのロッジに二人が泊まるシーンがあるのですが、ここおっさんが通りがかってロッジの明かりがついているのを不審に思いながらも見逃すというシーンがあるんですよね。まあその後で通報したことによって二人が見つかったのかもしれないですけど、ここちょっとご都合主義を感じてしまったんですよね。この映画って漣と葵以外のキャラクターがどうも舞台装置的に見えてしまう部分があったんですが、思い返せばこの時から怪しいなという感じはありました。


二人は警察に見つかり引きはがされます。ここでかかるのがなんと表題曲である「糸」。この演出にはびっくらこきましたね。もう切り札切っちゃうんだって。早い段階で観客を引きつけたいという工夫ですかね。映画の最後の決めるところで流すとばかり思っていたから、かなり意外でした。




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それから時は流れ、7年後の平成20年。漣の友だちの竹原が結婚することになります。そのために美瑛のチーズ工場で働く漣は上京。この辺りはうすら寒い馴れ初めのビデオを見せられ、成田凌さん演じる竹原の軽薄なキャラクターもあってなかなかにキツかったのですが、ここで漣と葵は再会を果たします。


少し話す二人ですが、なかなか会話はかみ合いません。ここの菅田将暉さんの空回っている感じと、小松菜奈さんの秘密を抱えている感じは両者良かったですね。しかし、葵は年上の男・水島と一緒に式場を去ってしまう。ようやく意中の相手と会えたのに引きはがされる。二人は涙を流します。


ですが、この映画はウェットな演出が目立っていて、こういった泣かせにかかろうという姿勢が、個人的にはあまりハマりませんでした。涙を流す以外の表現ももうちょっと見せてほしかったかなと思います。特に香関連はちょっとやりすぎている感じさえしましたね。


この香というのは、漣が働くチーズ工房の先輩で、徐々に漣と仲を深めていくというキャラクターです。ただ、この香関連は車いすに乗っている予告編を見たときから少し嫌な予感がしていたんですよね。まさか令和になったこのご時世に難病ものやる気じゃないだろうなって。


でも、観てみたところその悪い予感が的中。榮倉奈々さん演じる香は妊娠しますが、検査で腫瘍が見つかってしまいます。しかし、香は産むと宣言。実際に娘の結を産みますが、その次のシーンでは病床に臥せっているんですよね。そして、漣といくつかの(ありがちで)感動的なやり取りを交わした後、亡くなってしまいます。正直、この一連のシーンは感動じゃなくて、引きました


ここで両親がえんえん泣くのがちょっと演出が過ぎるなって思いました。分かりやすすぎる感じがしたんです。まあ「泣いている人がいたら抱きしめてあげなさい」という香の教えを見せるという意味のあるシーンなのですが、それにしてもいかにもすぎて、もう少しどうにかならなかったのかという感じはします。











でも、無理やり良いように解釈すれば、この映画には平成史を振り返るというコンセプトもあります(表層的なものですが)。平成のエンタメで顕著だったのが、携帯小説などにも見られた難病ものブーム。映画も『世界の中心で、愛をさけぶ』から始まり、雨後の筍のように難病もの映画が作られました。榮倉奈々さんは『余命一ヶ月の花嫁』で一躍有名になりましたし、瀬々敬久監督も『8年越しの花嫁』を監督しています(ちなみにプロデューサーも同じ方)。だから、平成の映画を振り返るうえで難病要素は欠かせないと思って挿入されたのかもしれません。それでも私は食傷気味でしたけどね。


というか、そもそも論をしてしまえば、この平成史を振り返るというコンセプト自体がどうなんだろうという気はします。9.11やリーマンショック、オバマ大統領就任、地デジカなど平成の諸要素を取り上げていましたが、どれも表面をなぞっただけで大きく取り上げられることはありません。何年か後に見てこういうこともあったんだと実感するように、記録する目的もあったのかもしれませんが、それにしては東日本大震災の扱い方が気になります


劇中でも、東日本大震災が起こります。津波による被害を映すニュース映像(これも画面は見せる必要あったのか疑問だけれど、記録として残すと考えれば何とか)を見る登場人物。竹原の二人目の妻(一人目とは一年で離婚している)の利子は、震災の影響で性格が変わってしまったところが描写されていますが、これが物語に影響を与えることはないんですよね。


いや、そのあとの「ファイト!」は胸に来ましたよ。でも、東日本大震災を単なる演出の一つとして使うのは、どうなんだろうかとも感じてしまったんですよね。イマイチ扱い方が中途半端というか......。どうしても必要じゃないというか......。単なる記録以上の意味はあったんだろうかと疑問に感じてしまいました。


というか、年号って日本独自のものですし、年号が変わったからって生活は何も変わりませんでしたよね。役所で書類を記入するときに少し気を遣うようになったぐらいで。人の人生を無理やり年号で区切るっていうのが、ちょっと不気味に感じたりもしました。もう最後、改元の瞬間に花火上げさせたかっただけなんじゃないかとさえ思ってしまいます。




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あと、漣がチーズ作りにあんなに執着する理由も描かれていませんでしたし、二人が美瑛で再会したシーンで都合よくサッカーボールがあったことも謎なんですけど、この辺にしておいて、葵サイドの話に行きたいと思います。この葵サイドは漣サイド以上に問題がたくさん。ですが、それは葵以外のキャラクターが舞台装置としてしか機能していなかったということに集約されると思います。


葵は年齢を偽って、キャバクラで働いていました。そのキャバクラの社長である水島に気に入られて、一緒に暮らすようになり、大学まで行かせてもらっています。ですが、水島はリーマンショックによる不況から沖縄に逃げます。浜辺で水島が釣りをしているところを見つける葵。そんな浅瀬で魚釣れへんやろというツッコミは置いといて、なぜか民謡を踊った水島は、次のシーンではお金を置いて葵の元から去ってしまいます。ここ本当に唐突だったんですよね。ちゃんとした理由もなく。葵を一人にしたいという作劇上の都合が透けて見えてしまいました。


一人残された葵は、友人の伝手を頼ってシンガポールへ。最初は地元のネイルサロンで働いていましたが、友人である玲子がトラブって辞めると、一緒に辞めて、日本人のネイリスト派遣事業を始めます。まあまあその事業は上手くいって、なんと7年も続いています。凄ぇ。ですが、ここでまたもトラブル。玲子が勝手に投資して、詐欺にあって、葵は借金を抱えてしまいます


玲子がそんなことしてる素振りなんて一切なく、こちらも唐突。葵を苦境に立たせるためだけの舞台装置と化してしまっています。一緒に事業をしていた冴島という男も、葵に飛行機のチケットを渡す以外の役割は果たしていませんでしたし、人間っぽさがあまり見えません。ここは観ていて引っ掛かるポイントでした。


何とか借金を返しますが、一人になってしまう葵。日本食の食堂でまっずいカツ丼を涙ながらに食べるという謎のシーンがあるのですが、ここでもまた「糸」が流れるんですよね。今度はスピーカーから流れているという違いはあるのですが、これで二回目。おそらくこの後決め場で、もう一度流れるであろうことを考えると三回です。さすがに流し過ぎではと思いました。ここの「糸」は節約しても良かったのではないかと感じてしまいました。だってこのシーン無くても物語は成立してしまうんですもの。


というか、この映画って想像以上に中島みゆきさんの曲が流れていたんですよね。中国語カバーの「時代」も有線で流れてきていましたし、「ファイト!」なんて二回カラオケで歌われます。一回目も二回目も「ファイト!」を歌う理由なんて、正直全くないのに。まるでこの世界の音楽は中島みゆきさんしかないかのよう。曲のパワーはありましたが、疑問が先に出てしまいそこまで感動することはできませんでした。













ウェットな演出と中島みゆきさんの乱用。とにかく泣かせてやろうという感動の押し売りがバリバリに伝わってきて、それが私は逆に嫌でしたね。だから泣いている葵に結が抱きつくシーンも良いシーンなんですけど、それまでの演出のせいで偽善にさえ感じてしまいました。その後はベタなすれ違いのつるべ打ちで、どうせ二人が再会しておしまいなんでしょと鼻白んでしまいました。


というか、昔の意中の相手に会おうとする漣という構図は、香との日々はなんだったのと少なからず感じてしまいましたし。それに「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを暖めうるかもしれない」という「糸」の歌詞からすれば、布は結のことを指しているかもしれません。となると、糸は漣と香で......って葵は?漣と葵の話じゃなかったの?と少し不思議に感じてしまいます。


でも、俳優さんは良かったんですよ。菅田将暉さんは、キャリアハイとまではいかなくても、諦めかけた漣の悲哀と哀愁、父親になった喜びと責任を上手くブレンドしていましたし、小松菜奈さんも個人的ベストアクトである『さよならくちびる』には及ばずとも、振り回される葵の切なさと空元気さ、そして受容されたときの柔らかさなど折々の表情を見せてくれました。他の俳優さんも与えられた役割を忠実に演じていて、大きな不満はありません。


だからこそ、演出をもう少し抑えめにしてほしかった。もっと感動の押し売り感がない方が私は好きなんですけど、後ろの席からすすり泣く声が聞こえていたので、これで良かったのかもしれません。素直に感動したい方にはお勧めできる作品になっていると感じました。




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以上で感想は終了になります。映画『糸』、私にはあまりハマらなかったのですが、悪い映画ではないと思います。話自体は上手くまとまっていますしね。興味のある方は観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 


映画「糸」オリジナル・サウンドトラック
オリジナル・サウンドトラック
SMM itaku (music)
2020-08-19







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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『弱虫ペダル』。累計発行部数1700万部の映画ですが、私にとってはこれが初体験。果たしてどうなるだろうかとおっかなびっくり観てきました。結論から言えば良かったとは思いますよ。少し惜しい気もしましたけど。


それでは感想を始めます。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―あらすじ―

千葉から秋葉原にママチャリで通う、運動が苦手で友達がいない高校生・小野田坂道(永瀬廉)。
念願のアニメ研究部に入ろうとしたが、休部を知りショックを受ける。
そんな時、坂道の自転車の走りを見た同級生の今泉俊輔(伊藤健太郎)からレースの勝負を申し込まれる。自転車で走る楽しさを初めて感じた坂道は、秋葉原で出会った同級生・鳴子章吉(坂東龍汰)に誘われて自転車競技部に入部する。マネージャーの寒咲幹(橋本環奈)や部長の金城真護(竜星涼)、巻島裕介(栁俊太郎)、田所迅(菅原健)ら尊敬できる先輩たちとの出会いによって、自転車選手としての思わぬ才能を発揮する坂道。そして迎えた県大会。レギュラーメンバーに選ばれた坂道は、初めて出来た「仲間」とともに、インターハイ出場を懸けたレースに挑む。

(映画『弱虫ペダル』公式サイトより引用)



映画情報は公式サイトをご覧ください












週刊少年チャンピオンで連載中の『弱虫ペダル』。タイトルは知っていましたが、漫画は基本ジャンプしか読まない私は、原作もアニメも未見の状態で映画館へと足を運びました。観る前は不安しかなかったのですが、ところが観てみてどっこい、想像以上の良作に仕上がっていました。ラストのレースは思わず胸が熱くなりましたし、原作は知りませんが実写化成功の部類に入るのではないでしょうか。


ただ、一方2時間の映画でできる限界も感じたんですよね。ロードレースはちゃんと俳優さんたちが漕いで、撮り方も工夫されていますし、盛り上げどころが複数あったのもよかったと思います。それでも、いかんせん描写不足なところが目立ち、惜しいという感じはしました。





※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。







この映画は春、入学するシーンから幕を開けます。主人公・小野田坂道はアニメ好きで、高校ではアニメ研究部に入ろうと意気揚々。しかし、アニメ研究部は休部になっていて、再開するには5人の入部者を集めなければなりません。しかし、それは友達がいない坂道にとってあまりに高すぎるハードルでした。


この映画で小野田坂道を演じたのは、アイドルグループKing&Princeの永瀬廉さん。普段ジャニーズ系にも疎い私にとっては、はじめましての方です。率直に申し上げますと、慣れていない感じはどうしても見受けられました。おどおどした口ぶりが同族嫌悪で少し嫌だったりもしました。でも、終盤につれて良くなっていたと思いますし、アニ研がなくなるシーンに代表されるように漫画チックな演技は、そうそう悪いものでもありません。でも、お風呂では眼鏡を外した方がいいのではと感じます。


坂道は40km先の秋葉原まで自転車で行ってしまうほどの健脚。20%の上り坂も立ち漕ぎなしで登ります。それに目を付けたのが、自転車競技部に入る気満々の今泉俊輔。坂道に勝負を仕掛けます。突き放してもついてくる坂道に驚く今泉。一人しか知らなかった坂道が、誰かと何かをするという楽しみを見つけるという筋書きは実に自然なものでした。


この映画で今泉を演じたのは、伊藤健太郎さん。『惡の華』などで何度かお見かけしたことある俳優さんだったのですが、今作でも抜群の安定感を披露。淡白なところがある今泉を、オーバーになりすぎることなく演じていました。熱くなりきれないからこそ、終盤の展開に意味がありますしね。ただ、伊藤さん自体は良かったんですけど、伊藤さんを見てキャーキャー言う女子たちは、ちょっと、いやかなり気になりました。ああいう安直な演出はそんなに好きじゃないです。


勝負は今泉の勝利。今泉は坂道を自転車競技部に誘っていますが、坂道はイマイチ踏ん切りがつきません。ある日、秋葉原で坂道が出会ったのが、コッテコテの関西弁を話す鳴子章吉。坂道の自転車を褒め、そのまま自転車競技部に勧誘します。この鳴子を演じたのは坂東龍汰さん。今までもいくつかの映画でお見かけしたことはありましたが、名前を意識して観たのはこれが初めてかもしれません。漫画チック、アニメチックに振り切った演技を披露。先輩との練習のシーンは流石にうるさいなと思いましたが、ここまで吹っ切れているのは個人的には嫌いじゃないです。




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鳴子に連れられて坂道は自転車競技部に入部。さっそく一年生の実力を測るレースに出ることになります。ここ本当に展開速かったですね。あと『ぐらんぶる』でアホほど脱いでいた竜星涼さんがちゃんとしていて、少しすかした部長になっているのは笑いました。それと、29歳の柳俊太郎さんに高校生の役はそろそろ厳しいのではと思います。


自転車でレースに出ようとする坂道ですが、流石にそれは部長がストップ。代わりに純正のロードバイクを貰って走り出します。遅れてスタートした坂道ですが、先にスタートした同級生を次々追い抜き、先頭を走る今泉と鳴子に追いつきます。そして、二人を抜いて真っ先に山頂を通過。そのあとすぐに倒れてしまうわけですが、え?坂道めちゃくちゃ才能型じゃん。努力型だと思ってたら才能型じゃん。脚力については説明があったからいいものの、ちょっと教えられたぐらいでいきなりダンシング出来ます?才能の塊ですよ。


で、この才能型主人公・小野田坂道の脇を努力型のキャラクター、今泉と鳴子で固めているんですよね。ああこれは人気出るわなと。無双と努力が実を結ぶ、両方のカタルシスを味わえますもん。鉄板ともいえる構図だと思います。


それからは合宿のシーンを経て、舞台はインターハイ千葉県予選へ。6人のエントリーメンバーに名を連ねた坂道は(ここレギュラーの誰かが怪我して、坂道が代わりに出る展開だと思ってた)、初めての公式戦に臨みます。とってつけたような強キャラ?不動(ここは原作を読んでないと分からないなぁ)も参戦し、レーススタート。


このレースは観ていて、頭は冷静でしたけど、胸は熱くなったんですよね。何が良いかって、坂道、今泉、鳴子の三人それぞれに見せ場が与えられていることなんですよね。鳴子が序盤チームを引っ張り、坂道が得意の上り坂で今泉を先導し、最後に今泉が決めるという。カメラワークも一点に集中しないで工夫されていましたし、熱さと勢いがあったと思います。一人で誰からも役割を与えられなかった坂道が、役割を得て奮闘するという描写もグッドです。(ライバルチームの行為は進路妨害とかで反則にならないの?とは思いましたけど)










終わり方も(締めのセリフ以外は)良かったですし、原作を見ていない一見さんでも十分に楽しめる映画になっていると感じました。ただ、最初に述べたように二時間の映画に収めるには少し描写不足かなと思うところもあります。それは言ってしまえばキャラクターの掘り下げ方なんですが。


この映画って坂道以外のキャラクターの掘り下げがあまりないんですよね。辛うじて今泉の過去がチラ見せされるぐらいで、その他のキャラクターに至ってはほとんど皆無。おそらく原作ではしっかり描写されているのでしょうが、2時間の映画に収めるためにカットしてしまったあまり、キャラクターにのめり込むことができず、最後のレースにも熱さがもう一つ足りない気がしました。


きっと、この映画のターゲットは既に原作やアニメで『弱虫ペダル』を履修している方なのでしょう。その方たちはキャラクターの背景を知っているから脳内補完して楽しめますし、漫画やアニメに寄せた俳優さんたちの演技を諸手を挙げて受け入れるでしょう。ただ、原作もアニメも見ていない私にはその背景知識がないんですよね。2時間の映画に収めるための取捨選択の結果としては理解できますが、この映画は原作を見ていなくても楽しいけど、原作を見ていれば超楽しいという映画になっていると感じました。(悪口のように書きましたけれど、全く悪いことではないです)




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先ほど、ラストのレースで頭は冷静だったと書きました。なんで私が冷静でいられたかというと、うっかり「良いんだけれど、『ちはやふる』には及ばないかなぁ」と思ってしまったためです。いや、二部作三部作と一本の映画を比べることができないのは分かっているんですよ。でも、自分の中で高校部活ものの物差しとして『ちはやふる』が確固たる存在になっているんだなとは感じました。



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では、何が『弱虫ペダル』には足りなかったのでしょうか。若宮詩暢のような強力なライバルキャラクターでしょうか。でも、聞き及ぶ限りでは『弱虫ペダル』にも強力なライバルキャラクターはいるようですし、そもそも映画で若宮詩暢が登場したのは『下の句』からで『上の句』には登場しませんでした。そうやって少し考えた結果、『弱虫ペダル』と『ちはやふる』で最も違うのは「広がり」だと私は感じました。


『弱虫ペダル』も『ちはやふる』も、競技に熱中する高校生、プレイヤーはしっかりと描けています。ですが、『ちはやふる』には支える人、サポーターという視点があるんですよね。『上の句』で最も象徴しているのが、千早たちの師匠である原田先生でしょう。まぁ原田先生も名人戦に挑戦するくらいのプレイヤーではあるんですが、それ以上に千早たちを支えるサポーターとしての役割を担っています。


『上の句』で、新に勝てないと思い悩む太一に贈った「青春全部かけてから言いなさい」という言葉はあまりにも有名です。この言葉は太一の心の灯火になったたいへん重要な言葉なのです。(というか『ちはやふる』は原作からして"支える人"の描写がめちゃくちゃ上手いから読んでください。「産みの苦しみを知りなさい」とか痺れますよ)


一方、『弱虫ペダル』にはこういったサポーターとしての視点が希薄です。例えばマネージャーの寒咲幹。彼女を演じた橋本環奈さん自体は悪くはなかったのですが、問題は寒咲がいなくても(映画上では)物語が成立してしまうという点なんですよね。だって彼女、何かしました?坂道に発破はかけましたけど、あれって分かりきってることじゃないですか。というか喋っている暇があったら早よ行けやとさえ思ってしまいましたし、彼女の父親にしてもロードバイクを坂道に与えるという役割しか果たしていないのが現状です。


それに、これは観終わってから疑問に思ったんですけど、なんで総北高校自転車競技部には顧問がいないんですか?インターハイ常連校に顧問がいないのっておかしくないですか?こういうところもサポーターの視点が希薄だなと思ってしまいます。プレイヤーだけで完結しているおかげで「広がり」が足りていないというのは、この映画だけで見れば決して悪いことではないのですが、高校部活もののマスターピースである『ちはやふる』と比べてしまうと、どうしても一枚落ちてしまう印象を受けてしまいました。




それと、最後にこれはどうしても言っておきたいのですが、この映画の締めのセリフが私は一番違和感を覚えました。「誰にだって輝ける場所はある」という言葉。とっても良い言葉なんですが、それを才能型主人公が言うかねぇと。それじゃ何も良いところのない凡人の私は立つ瀬がないですよ。思わず「ケッ」と思ってしまったので、ここはもうちょっと考えてほしかったなと正直思います。




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以上で感想は終了となります。映画『弱虫ペダル』。最後の方は『ちはやふる』との比較で、ちょっと悪く言ってしまいましたが、単品の映画としては良作であることは間違いありません。原作を知らない方でも楽しめるようになっているので、興味のある方はぜひ観てみてはいかがでしょうか。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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こんにちは。これです。今回のブログも映画の感想になります。


今回観た映画は『映画ドラえもん のび太の新恐竜』。毎年春休み恒例のドラえもん映画ですが、今年はコロナ禍の影響もあり、夏に延期に。観れなくてやきもきもしましたが、しかし、これが夏休みにぴったりの気持ちいい映画となっていたのだから驚きです。ドラえもん映画でも屈指の"夏"感がありました。


それでは、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。



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―あらすじ―

のび恐竜博きょうりゅうはく化石かせき発掘はっくつ体験たいけんつけた1つの化石かせき絶対ぜったい恐竜きょうりゅうのたまごだ! としんじたのびが、ドラえもんのひみつ道具どうぐ“タイムふろしき”で化石かせきもと状態じょうたいもどすと…まれたのは双子ふたご恐竜きょうりゅう! しかも、未発見みはっけん新種しんしゅだった。

のびてちょっとたよりないキューと、おてんばなミュー。個性こせいちがいに苦労くろうしながら、おやのように愛情あいじょうたっぷりにそだてるのびだったが、やがて2ひき現代げんだいきていくには限界げんかいがきてしまう。

キューとミューをもと時代じだいかえすことを決心けっしんしたのびは、ドラえもんや仲間なかまたちとともに6600万年まんねんまえへと出発しゅっぱつ! キューやミューの仲間なかま恐竜きょうりゅうたちをさがたびがはじまった。

ドラえもんのひみつ道具どうぐ恐竜きょうりゅうたちのちからりながら、恐竜きょうりゅう足跡あしあとってすすむのびたちが辿󠄀たどいたのはなぞしま恐竜きょうりゅう絶滅ぜつめつしたとされる白亜紀はくあきける、キューとミュー、そしてのびたちの運命うんめいとは──!?

(『映画ドラえもん のび太の新恐竜』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。












前作の『のび太の月面探査記』の後に流れた予告映像。そこには恐竜が映っていました。『のび太の恐竜』および『のび太の恐竜2006』が既にあるのに三本目は……と少し不安に思ったのですが、今作『のび太の新恐竜』は、そんな心配を吹き飛ばしてくれるような映画でした。今までの二作品とははっきりとした違いがあり、思うところがないわけではありませんが、多くの人が楽しめる良作であったと思います。


さて、結論から申し上げますと、『のび太の新恐竜』は主に3つの点で新しいドラえもん映画になっていると私は感じました。それは、


1.恐竜のCG作画
2.のび太たちが一見間違った行動を取ること
3.のび太が目に見える成長をする



という3点です。では、それをここから簡単に見ていきたいと思います。




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『のび太の新恐竜』。その導入はぶっちゃけて言えば、『のび太の恐竜』と大体同じです。博物館の恐竜博を訪れたのび太たち。レプリカのティラノサウルスにビビるのび太をスネ夫とジャイアンは笑います。化石を発掘するコーナーでもからかわれたのび太は、スネ夫たちに本物の恐竜を連れてくることを宣言します。もしできなかったら目でピーナッツを噛んでやるとも。のび太が恐竜の卵の化石を拾い、タイムふろしきで復元。生まれたのが双子の恐竜、キューとミューであることを除けば、ほとんど一緒と思われるかもしれません。


しかし、この映画では今までの二作と大きく異なっている部分があります。それは恐竜の描き方です。今回、恐竜はなんとCGで描かれています。特にオープニングは背景までCGで作り込まれ、まるで違う映画を観ているのではないかと驚いてしまうほど。未知の生き物であるという印象を与えてきて、迫力も大きく増しています。ここが今までとは大きく違う、というかドラえもん映画でも初めての試みではと思える部分で、これだけでも2020年に「恐竜」を描いた意味があったのではないかと。これは観なければ分かりませんね。


キューとミューを育てるのび太とドラえもん。『のび太の恐竜』の大きな魅力の一つとして、ピー助がかわいいということがありますが、今作のキューとミューも負けず劣らずのかわいさを発揮。好奇心旺盛で活発なミューは軽々と飛んだり、ひみつ道具の玉子を口に入れてしまったりとおてんばなかわいさを。少し臆病だけれど頑張り屋さんのキューは、慎重な姿勢と飛ぶために何度も練習を繰り返す健気なかわいさを。二匹を演じた釘宮理恵さんと遠藤綾さんの力もあって、観る者を惹きつけて放さないかわいさを振りまいていました。気に入らない人はそうそういないんじゃないかと思うほどです。お子さんも親御さんも楽しめますね。













※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。











育ったキューとミューは、のび太の部屋では飼うのが難しいほどの大きさになります。そこでドラえもんはひみつ道具のジオラマセット(正式な名前は失念)を出して、スモールライトでキューとミューを小さくし、そこで遊ばせます。ミューは簡単に飛べるようになる一方、キューは体が小さかったり、しっぽが短かったりして、なかなか飛べるようになりません。(ここで大事なところでキューが飛べるようになるんだなということは薄々分かってしまうのですが、しっかりとやってくれたので私は感動しました)


ここからが過去二作と違うところなんですが、この映画ってのび太の成長をも描いているんですよね。キューとミューの成長に被せる形で、のび太の学校生活が描かれていて。テストは3点、かけっこでは転倒とお決まりのダメっぷりを発揮していますが、その中でも何度も描かれたのが逆上がりができないということ。この映画はキューの飛翔とのび太の逆上がりを、両者が超えるべき壁として重ね合わせていて。キューと同時にのび太にもスポットライトが当たっているんですよね。ここまでのび太に光を当てるのって、全部のドラえもん映画を観ているわけじゃないんですけど、ありそうでなかったなと感じました。


さて、のび太はスネ夫たち三人にキューとミューを認めさせようとしますが、その過程でドラえもんのミスにより二匹の存在が近所にバレてしまいます。もう現代では二匹は暮らしていけないと、のび太は二匹を白亜紀に帰すことを決意。いつもの5人で白亜紀に向かいます。『のび太の恐竜』ならここで敵の妨害があったのですが今作ではなし。その代わり、のび太のせいで、5人はジュラ紀に着いてしまいます。


ジュラ紀で一悶着ありながらも、なんとか白亜紀に辿り着いた5人と二匹。キューとミューの仲間を探す旅に出かけます。CGの恐竜たちは迫力満点。プテラノドンの大群には懐かしさを覚え、タヌキと同化したドラえもんには笑わされます。


桃太郎印のきびだんごやキャンピングカプセルなどの『のび太の恐竜』に登場したひみつ道具は極力使わないという頑張りも覗かせつつ、5人は二匹と同じ種類の恐竜の足跡を辿って崖に到着します。ここで名前のない巨大翼竜に襲われ、飛べないキューは崖から落ち、助けようとしたのび太と一緒に海に落下してしまいます。


しかし、なんとか一命をとりとめたのび太とキューは謎の島に到着。そこではキューとミューの仲間の新恐竜たちが群れを作って暮らしていたのでした。すぐに馴染むミューとは対照的に、飛べないキューはなかなか仲間に入れてもらえません。爪でひっかかれるシーンは、こんな痛々しいシーンドラえもん映画で出すんだと思ってしまいましたね。




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話は変わるんですけど、この映画の予告には謎の猿や怪しそうに企む女性が登場しました。まあ明らかに敵と思わせているんですがこれはミスリード。実はこの二人はタイムパトロールだったんですよね(ネタバレ)。白亜紀末期に隕石が衝突して恐竜が絶滅する。その歴史を改変させないようにのび太たちを見張っていたんです。


『のび太の恐竜』にはじまり、けっこうな数のドラえもん映画は、止めるべき敵や悪役がのび太たちの前に立ちはだかりました。でも、『のび太の新恐竜』ではそういった悪役は登場しません。それどころか、のび太は絶滅する恐竜を救おうと、ある種の歴史改変さえ叫んでしまいます。いつもは止める側ののび太たちが、今回の映画では止められる側に回っているんです。正しくない、間違った行いをしようとしていると言ってもいいかもしれません。こういう間違った行いを堂々とするというのは、個人的にはなかなか新鮮でしたね。正しくないことしていいんだって。挑戦的とさえ思いました。


見ごたえのある隕石の落下や熱風のアニメーションが危機感を煽り、制限時間は一時間もありません。まあ言ってしまうと、丁寧に前振りしていた通り、窮地のところでキューは飛べるようになり、ピンチは救われるという展開が待っているんですが、ここで注目したいのが、のび太たちの行動ありきで歴史が作られていることなんですよね。


翼を広げて滑空する他の新恐竜に対し、キューは羽をはばたかせなければ飛ぶことはできません。でも、これが鳥類の先祖になっているんですよ。恐竜が鳥類に姿を変えて生き残っているという説は有名ですし、のび太たちがいなければ人類だって生まれていなかったかもしれないんです。少し変わった存在が、間違ったように思える行動が歴史を作る。帰ってきた後の電線に止まるスズメの描写が心憎いです。


予告編の「歴史は変えられないんだ!」というドラえもんのセリフが最高のフリになっていたことに、観終わった後気づきました。『のび太の恐竜』さえフリにしているようなこの解釈はけっこう新鮮で、正直観ている最中は受け止めきれなかったんですけど、今は好意的に捉えています。だってこれ以上ないくらい前向きなんですもの。









先ほど述べたように、この映画ではキューとのび太が似た存在として描かれています。周囲に馴染めず、能力も足りないストレンジャー。でも、キューが飛んだことに勇気づけられて、映画の最後ではのび太も逆上がりを成功させるんですよね。この逆上がりの出来ても何の役にも立たないところが最高で。踏み出す一歩は大きな一歩じゃなくてもいいんですよね。でも、一歩を踏み出したらその後の歴史も変わるわけで。入道雲が浮かぶエンディングは、図らずしも夏にぴったりの終わり方でした。


でも、初めて観たときはこの終わり方にも驚いたんですよね。「のび太、成長しちゃうんだ」って。そりゃ『のび太の恐竜』でも精神面での成長はありましたよ。でも、ここまで目に見える成長をするっていうのは年を取らないドラえもんのような作品では、あまり見られないじゃないですか。成長しないことが最大の特徴(もしくはしてもリセットされる)と言えると思います。


だから、主人公が未知の存在と出会って、なんだかんだありつつ、最後には成長するっていう単作夏休み映画のフォーマットを、ドラえもんでやるのってけっこう珍しいなって思ったんですよ。でも、ちゃんと感動しましたし、お子さんのみならず、大人の方にもエネルギーを与えていて、この新しい試みは成功していると感じました。ドラえもん映画の枠がまた一つ広がった瞬間を目にした幸福感が胸に残りましたし、私はこの映画好きです。




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以上、『のび太の新恐竜』の新しいポイントを主に3点に絞ってみてきました。どれをとっても「新」恐竜の看板に偽りなしの作品になっていると思いますし、今年のドラえもん映画もどなたでも楽しく観ることができます。コロナ禍で一席空けての鑑賞というのは、親子連れには不安な部分もあると思いますが、よろしければ映画館でご覧ください。


お読みいただきありがとうございました。


おしまい 





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