こんにちは。11月24日(日)東京流通センター第一展示場で開催される第二十九回文学フリマ東京にさんかさせていただくこれです。ただいま3冊入稿完了。もう1冊入稿しようと頑張り中です。いけるところまで行きたい。


でも、そんななかどうしても観たい映画があったので観に行ってきました。それは『殺さない彼と死なない彼女』。世紀末さんの4コマ漫画が原作のこの映画。予告の時点で惹かれるものを感じ、観た結果、大正解でした。泣きました。ありがとうございます...。ありがとうございます…。



では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですがよろしくお願いします。




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―目次―

・はじめに
・青春は死と背中合せ
・アイデンティティの崩壊と与えられる承認
・「未来の話をしようぜ」





―あらすじ―

何にも興味が持てず、退屈な高校生活を送っていた少年・小坂(間宮祥太朗)は、リストカット常習者で”死にたがり”の少女・鹿野(桜井日奈子)に出会う。それまで周囲から孤立していた二人は、《ハチの埋葬》をきっかけに同じ時間をともに過ごすようになる。不器用なやり取りを繰り返しながらも、自分を受け入れ、そばに寄り添ってくれるあたたかな存在――そんな相手との出会いは、互いの心の傷をいやし、二人は前を向いて歩み出していくのだが……。

(映画『殺さない彼と死なない彼女』公式サイトより引用)


映画情報は公式サイトをご覧ください。







※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・はじめに


映画を観ていてよく不満に思うことがあるんですよ。「こいつら(登場人物)生きていることに無自覚だな」って。自分が生きていることを、さも当たり前のように享受していて、いつか終わるなんてことは全く考えていない。有り体な言い方をすれば、死の匂いがしないんですよ。そういう暗い側面を持たない映画が俗に薄っぺらいと言われるのではないかなと。まぁこれは作品によりけりなんですけどね。でも、コメディならともかくシリアスな映画で死の匂いがしないと、私には全然響かないんですよね。


なぜかと言うと、私が毎日「もう死んだほうがいいな」と思っているからなんですよね。給料は安いし、交際経験はないし、そしてその責任は全て努力不足の私にある。自分が行動を起こさなければ何も変わらないと分かっているのに、何も行動を起こさない自分が嫌で嫌で。「このまま状況が変わらないのならもういつ死んでも同じだな」ぐらいに思っているんですよね。


でも、どうやら他人はそうではないらしくて。多くの人が他人と喋っていて、笑いあっている。彼ら彼女らは、自分のことを「死んだほうがいい」なんて思っていないように見えるんですよね。そして、それは一部の映画のキャラクターも同じ。正直、もっと悩めよ!って思うんですよね。夢だの理想だの愛だの恋だのそんな高次なことで悩むんじゃなくて、「自分は生きていていいのだろうか」というもっと根本的なことで悩めよ!!とどうしても思ってしまうんです。低次の悩みを抱えていない、死の匂いがしない人との会話にも、映画にも私が心動かされることはあまりありません。


しかし、『殺さない彼と死なない彼女』は違いますそこには常に死の匂いが漂っています。それは、彼ら彼女らが、自己の存在について悩みまくる時期である10代であることもそうですし、また彼ら彼女らにとって死というものが、他の学生よりも間近であることもそうでしょう。さらに、自然光がふんだんに取り込まれる画面は、どこか天に召されることを思い起こさせますし、ぼんやりとした映像は、まるで薄れゆく意識の中で見ているようです。これらが全編を通して、死の匂いをより醸し出しているように感じました。



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・青春は死と背中合せ


彼ら彼女らが過ごす10代は、大人から見れば「青春」と呼ばれるものでしょう。青春に関する有名な言葉として、このような言葉があります。


青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない(坂口安吾)


当たり前ですが、青春とは楽しいことばかりではありません。学校という狭い世界特有の人間関係。理想の自分になれない苦しみ。進路決定を急かされる圧迫感に、ハードな受験勉強。後になって「あの頃はよかった」などと思っていても、当時の自分はそのときの自分や周囲の状況をいいものだとはあまり思わないでしょう。それは陰キャでもリア充でも同じ。陰キャには陰キャの苦労が、リア充にはリア充の苦労が、そしてそのどちらでもない人にもまた違った苦労が、青春にはあると私は考えています。


そして、10代というのは、これも当然ですが、20代30代に比べると人生経験は少ないです。大人ならある問題に直面したとしても、今まで同じ問題を通ってきたと、過去の経験を思い出して対応できるかもしれません。いわば引き出しや選択肢を多く持っています。しかし、10代にはその開けるべき引き出しがまだ少ない。よって、自らが経験したことのない問題に直面したときに、参照すべき経験がないため、悩んでしまいます。


そこで浮上するのが「死」という選択肢です。赤ちゃんのときには、ただ思いのままに泣くことしかできなかったのに、やがて泣いてはいけない場面で泣いてしまえば叱られ、「泣かない」という選択肢ができます。このように、選択肢は経験によって増やされるものだとするならば、経験の少ない10代は選択肢が少なくて当たり前。しかし、「死」という選択肢は生まれたときから存在しており、全体においての割合は大きく、逼迫した存在となって彼ら彼女らの前に現れます。これが「青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない」という言葉に表れているのではないでしょうか。つまり、青春において「死にたい」という感情は何ら特別なものではない。そう私は考えます。


この映画の中で、「死にたい彼女」鹿野ななはリストカットをしていました。彼女の手首の傷を見て「メンヘラ」と片付けることは簡単です。しかし、「死にたい」という感情は、こと10代においては普遍的な感情のように私には思えます。月並みな表現ですが、「死にたい」という言葉の後には「だけど、生きたい」という言葉が隠されています


つまりは、彼女も生きたいんだと思います。あのリストカットは生きるための行為なのです。これはある本に書いてあったことなのですが、「リストカットをする人は、心に得体の知れない痛みを抱えている。痛みの形は分からない。でも、手首を切ると、流れる血を見て『ああ、ここが痛いんだ』と分かって安心する。心の痛みを体の痛みに置き換えている」らしいんですよね。要するに、リストカットは痛みを顕在化させることで、心の痛みに殺されないようにする行為ということです。この映画では、もう一人リストカットをしていましたが、その人もきっと得体の知れない痛みを抱えていたのではないでしょうか。


さらに、彼ら彼女らはかつて葬式を経験しています。しかも、同じ高校の生徒の葬式です。同年代の生徒が死んだということは、自分も死ぬんだという事実を彼ら彼女らに容赦なく突き付けたのではないでしょうか。ただでさえ「死と背中合せ」の時期に、彼ら彼女らはより死を身近に感じていた。そこからくる切迫感のようなものは、メインどころの6人はおろか、モブの生徒まで全員に感じました。あの高校全体に、校舎やら校庭やらに死の匂いが漂っていて、私はそこがたまらなく好きでしたね。




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・アイデンティティの崩壊と与えられる承認


例えば、自らを可愛いと信じて疑わない堀田きゃぴ子。彼女は世界中の誰からも愛されたいと思っています。そのために、誰に対しても思わせぶりな態度を取るので、少しイラつくところもありますが、ただ彼女には彼女なりの思いがある。自分を可愛いと思うことで「誰からも愛される自分」「可愛い自分」というアイデンティティを確立しようとしていたのでしょう。そうすることで自分を他ではない自分だと理解するために。堀田真由さんのぶりっ子演技にも説得力がありました。


例えば、叶わない恋をしていた大和撫子。11回好きと言っても、憧れの男子・宮定八千代は彼女になびくことはありません。しかし、彼女にとってはそれでいいのです。「叶わない恋をする自分」というアイデンティティを確立するためには。また、八千代も「好意を持ってくれる女子になびかない自分」というアイデンティティを保つためには、応じるわけにはいきません。現実ではなかなか聞けないような演劇調のセリフをガンガン繰り出す二人は自分に酔っているようでした。撫子役の箭内夢菜さんの夢見る乙女感も、八千代役のゆうたろうさんの触ったら壊れてしまいそうな儚さもたまりませんでした。


例えば、「死にたい彼女」鹿野なな。彼女もまた「死にたいと思っている自分」を演じていたようです。死ぬ気もないのに「死にたい死にたい」と言い続ける。リストカットの傷も長そでから容易に覗いていますし、周囲に「彼女は死にたいんだ」というイメージを抱かせていました。演じていたはずなのに、いつの間にか自分のアイデンティティ=「死にたい」になってしまって、もう戻れないところまで来ていてしまったように私には思えます。それを裏付けるかのような桜井日奈子さんの不機嫌な目線が良かったですね。イメージとは違うのでびっくりしました。


しかし、そんな彼ら彼女らのアイデンティティは、物語の中で崩されていきます。


例えば、きゃぴ子は付き合っていた大学生に「きゃぴ子は可愛いけど、可愛いだけだよ」という言葉とともに振られてしまいます。撫子と八千代も、まるで青春映画のような胸がうずくようなデートをした後、八千代が逆に撫子のことを「好きだ」と告白します。ここで3人のアイデンティティは崩壊。自己を保てなくなります。


しかし、彼ら彼女らにも差しのべられるものがありました。それは承認です。きゃぴ子の近くには、地味子と呼ばれる宮定澄子がいました。地味子はきゃぴ子に呆れながらも、なんだかんだ仲がいい様子。体育倉庫のシーンはよかったですよね。ラピュタ味があって。地味子を演じた恒松祐里さんは、気持ちを抑えている感じが良かったですし、報知映画賞の新人賞にもノミネートされていよいよブレイクでしょうか。


しかし、きゃぴ子は振られ「誰からも愛される自分」「可愛い自分」というアイデンティティは崩されていきます。それでも、地味子は「きゃぴ子は可愛い」ときゃぴ子のことを承認。きゃぴ子は励まされ、何とか自己を保つことができるようになります。


また、八千代には恋に関して苦い経験があり、誰かを好きになることはしないと考えていました。しかし、八千代は撫子に告白。これは撫子にとっては、「叶わない恋をする自分」、八千代にとっては、「好意を持ってくれる女子になびかない自分」というアイデンティティが崩壊しただけです。しかし、撫子は「未来の話をしたいわ」と、自らと八千代の二人のこれからを口にすることで、二人丸ごと承認します。


この「未来の話がしたい」というのが、この映画ではかなり重要でして。だって、彼ら彼女らは同校生の葬式というショッキングなイベントを体験しているんですよ。死が間近になっていて生きることに必死になっている。地味子、きゃぴ子、撫子、八千代の4人がやや芝居かかったセリフを使ってまで、アイデンティティの確立に躍起になっていたのも、「自分は死ぬ」という自覚があったからではないでしょうか。


自分は死んでいく。でも、一人で死んだら生きていた価値がない。自分の価値を認めてもらうには、他人に承認されることが一番です。でも、それは不特定多数でなくてもいい、誰か一人に承認されたら、誰か一人に存在を認めてもらえたら、自分が死んだ後も、自分との記憶はその人の中に残り続ける。それは自分が生きていたという証に他ならないでしょう。承認されるということは生きているということを認めてもらうこと。死の匂いがする高校に通う彼ら彼女らにとって、それは一種の救いだったのではないでしょうか。この点で、私は4人の誰をも身近に感じ、彼ら彼女らが承認されるシーンは思わず泣きだしそうになってしまいました。




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・「未来の話をしようぜ」


そして、この承認は鹿野ななにも与えられます。「死にたい」が口癖の彼女は、「殺す」が口癖の小坂れいに出会います。たとえ軽い気持ちでも、二人の言葉には無視できない重みがあり、死の匂いは濃厚です。しかし、二人の日々は「バニラとチョコのアイスどちらがいい」と聞かれたり、部屋でぷよぷよをしたりと、言葉とは裏腹に万事平穏。つつがなく過ぎていきます。小坂を演じた間宮祥太朗さんのぶっきらぼうな感じがグッときます。本当にかっこいい。男でも惚れる。


小坂の言う「殺す」。それは相手が生きていることが前提です。「殺す」というのは相手が生きていることを認め、それから「殺す」ということ。つまり、鹿野は小坂に「生きている」ことを承認され、「死にたい自分」というアイデンティティを否定されているのです。鹿野の自己は崩れそうなものでしたが、小坂がいてくれたおかげで何とか形を保て、それどころかより素、本来の自分になっていきました。


そして、その承認の最たるものが「未来の話をしようぜ」という小坂の言葉でしょう。その未来は、小坂と鹿野の二人がいなければ存在しえない未来です。今だけでなく、これからも生きていると認める言葉。「殺す」「死にたい」という未来のない最初の状態から、一転して未来を認めている。これからの生を認めている。その事実は、私に涙を流させるに足るものでした。


結局のところ、私は映画や小説、漫画などといったフィクションによって肯定されたいんだと思います。もう死のうか迷っているところに、「君は生きていていいんだ」と言われたいのだと思います。『殺さない彼と死なない彼女』の登場人物は、常に死の匂いを纏っていました。しかし、彼ら彼女らは、生きていることを承認され、「未来の話」をする。それは、私がフィクションに求めていることそのもので、自分の生も肯定されたようで気づいたら泣いてました。


「未来の話をしようぜ」


本当に最高です。


どうもありがとうございました。




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以上で感想は終了となります。『殺さない彼と死なない彼女』。傑作です。人生どこか上手くいっていないなと思っている人は、騙されたと思って観てみてください。強くオススメします。


おしまい 





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