こんにちは。これです。冬だというのにこちらは全然雪が降りません。これも地球温暖化の影響でしょうか。降っていると忌々しいものですが、いざ降らないとなると少し心配です。


それはさておき、今回のブログも映画の感想になります。今回観た映画は『リチャード・ジュエル』。巨匠クリント・イーストウッド監督の最新作です。「実話」と銘打たれたこの映画、反応も上々だったので、さっそく観に行ってきました。気になるところはあったものの、好きな映画でしたよ。


では、感想を始めたいと思います。拙い文章ですが、よろしくお願いします。




fha




―目次―

・メディアのイメージが固定化されすぎている気がする
・リチャードは私たちと変わらない「人間」だった





―あらすじ―

 1996年、警備員のリチャード・ジュエルは米アトランタのセンテニアル公園で不審なリュックを発見。その中身は、無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。
 事件を未然に防ぎ一時は英雄視された彼だが、現地の新聞社とテレビ局がリチャードを容疑者であるかのように書き立て、実名報道したことで状況は一変。さらに、FBIの徹底的な捜査、メディアによる連日の過熱報道により、リチャードの人格は全国民の目前でおとしめられていった。
 そこへ異を唱えるため弁護士のワトソンが立ち上がる。無実を信じ続けるワトソンだが、そこへ立ちはだかるのは、FBIとマスコミ、そしておよそ3億人の人口をかかえるアメリカ全国民だった――。

(映画『リチャード・ジュエル』公式サイトより引用)





映画情報は公式サイトをご覧ください。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。









・メディアのイメージが固定化されすぎている気がする


まず、この映画を観て私が感じたことは、メディアのイメージが固定化されすぎているということです。民衆に事実を伝えるという大義名分を盾にして、その裏では当事者のことなど考えずに、プライバシーのない過熱報道を繰り返す。去年、『フロントランナー』という映画を観たときも思いましたが、メディアが思慮のない悪者扱いされることが多すぎると思うんです。まるでマシーンのように、マイクを向けカメラのシャッターを切る。そこに記者の意思など介在していないかのようです。


それは、この映画でもそうでした。この映画では新聞社に勤めるキャシーがメディアの代表として登場します。キャシーは同僚に"殺し"の記事が一面になることを茶化すように謝り、いい"ネタ"はないかと探しています。事件が起こった際も現場に居合わせ、「犯人が興味深い人物ならいい」と発言。FBI捜査官から情報を聞き出し、リチャードが容疑者であるように書き立て、スクープをすっぱ抜いたことで部内から称賛を浴びています。二人の死人が出ている事件だというのに。


そこからは、FBIの決めつけによる捜査とメディアの過熱報道がジュエルたちを追い詰めます。どこに行くにもカメラがついて回り、容赦のないフラッシュと質問の嵐にリチャードたちの精神はやられ、母親は参ってしまいます。そこからの反撃は面白かったのですが、私はこの展開を正直ありがちと感じてしまったんですよね。現代のSNSで毎日繰り返される現象を見ているようで、食傷気味で。でも、何度も繰り返して描かなければならないほど、事態はマズくなっているのかもしれないです。




fhd




昨今は新聞やテレビなどのオールドメディアの力が弱まってきて、SNSなどの新興メディアが大きな力を持つようになりました。報道番組のクルーがバズったツイートに使用許可を求めてきて、ツイート主がそれを断るといった光景はよく目にします。でも、根本にあるものは変わっていなくて。それは民衆の興味関心なんですよね。


この映画で、テレビや新聞がなぜアトランタ爆破事件を取り上げたかというと、そこには民衆の興味があるからですよ。知りたいという需要があるからですよ。メディアは需要に対して供給をしていたにすぎず、押しかける記者たちからは民衆の好奇の目が透けて見えるようです。一貫して映画の中に民衆が描かれていなかったのが余計怖い。つまり、メディアは民衆の操り人形に過ぎなかったというわけですね。この映画では。そこが観ていて少し疑問だったんですけど、これも昨今のSNSの影響を考えるとしょうがないのかなって。


SNSで日常的に行われることと言えば、犯人捜し及びバッシングだと私は思います。事件の報道があったときには必要以上に犯人を責め立てる。あたかも私法に則った法執行人のように。そして、悪者のいない問題でも、自らの方に照らし合わせて犯人を捜しては叩く叩く。それは、この映画でメディアが行ったことと何ら変わりなく、むしろメディアという媒体を介さずにダイレクトに意見を述べることができるようになったおかげで、事態はより深刻化していると思います。SNSが好奇のもとに、人を叩く道具と化していると感じるのは私だけでしょうか。


そして、叩く対象は「興味深い人間」であれば、なおのこと良しです。『ジョーカー』の感想でも書きましたけど、「無敵の人」という言説があるじゃないですか。あれ、なんで「無敵の人」というかと言うと、同じ人間じゃないと思いたいからなんですよね。自分たちから切り離された、ある種動物のように「無敵の人」を定義することで、自分たちとは違う存在だという安心感を持って叩けるわけです。



fhc














・リチャードは私たちと同じ「人間」だった


では、この映画のリチャードはどうだったのでしょうか。リチャードは一応働いてはいますが、33になっても母親の元で暮らしています。「大人なら親元から自立すべきだ」という価値観に照らし合わせれば、リチャードは異常ということができるでしょう。ここで、リチャードは「パラサイトシングル」や「子供部屋おじさん」などと類型化され、そうでない「一般人」たちからは切り離されてしまいます。それは「無敵の人」となんら変わらない言説です。


しかし、リチャードは「一般人」と何ら変わりないことが、この映画では描かれます。「一般人」と変わりないように、リチャードも自らの正義を持っていました。法執行人になるという正義感は繰り返し語られ、それは危うさをも感じさせるものでした。実際に、以前勤務していた学校ではその正義が行き過ぎて、首になっていますしね。もし、SNSをやっていたら勢い余って叩きに参加しそうなくらい。


このリチャードを演じたのは、ポール・ウォルター・ハウザー。『アイ,トーニャ』や『ブラック・クランズマン』で、浅薄な考えを持つ憎まれ役なんだけど、どこか憎めないキャラクターを演じていましたが、主役になったこの映画では印象が一変。考え方こそマシになってはいましたが、正義のもと何をするかわからない怖さが全編に渡ってありました。それは虐げられてきた人間にしか出せない怖さで、一挙手一投足からその怖さを存分に感じられる熱演だったと思います。


リチャードはその容貌から「デブ」と呼ばれて、虐げられてきました。。その中でもただ一人、リチャードのことを「人間」として接したのが弁護士であるワトソンです。この映画の冒頭は中小企業庁でリチャードとワトソンが会話する場面なんですけど、そこでスニッカーズを通じて友情を深めていく二人の様子がとても好きでして。この映画は、不都合に立ち向かう男二人の友情ドラマとしても見ることができ、なかなかの熱さを感じましたね。ワトソンを演じたサム・ロックウェルも意志の強さを感じて良きでした。




fhb




第一発見者というだけで爆弾犯の嫌疑をかけられたリチャード。メディア(SNS)の往来はやむことはありません。でも、この映画ではリチャードがワトソンとともに、メディアや国民に対して反撃をするんですよね。リチャードの犯行は不可能だと劇中で証明がなされます。リチャードの母親は涙ながらに息子の無実を訴え、リチャードはFBI捜査官に証拠もないのに疑うことの不健全さを突きつけます。それは虐げられたものの反撃であって、犯人を異常者として特別視する「一般人」の観念をひっくり返すようで、痛快なものでもありました。最後は食い入るように映画を観ている私がいました。


つまりこの映画は、ある人を類型化し、特別視して、分断するSNSの性質に歯止めをかけたいのかもしれません。確かに、映画の中では事件は解決しました。しかし、現実のSNSでは人を変え、毎日のようにリンチの再生産が続いています。様々なメリットがあるSNSですが、こういった問題が繰り返される以上、これからも同じような物語は生まれることでしょう。20年以上前の話なのに、現代と変わらない普遍性を持った映画だと感じました。メディアのイメージの固定化も、SNSに関わる私たちの危険な現状を浮かび上がらせるためには必要だったのかもしれませんね。それがイーストウッド監督が伝えたかったことなのかなと思います。




fhf













以上で感想は終了となります。映画『リチャード・ジュエル』。現代のSNSにも通じるメディアの恐ろしさを感じさせるなかなかの社会派作品となっていました。それでも、あまり重くなく観ることができるので、観ようかどうか迷っている方には観ることをお勧めします。面白いですよ。


お読みいただきありがとうございました。

おしまい
 





☆よろしければフォロー&読者登録をお願いします☆