この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。

こちらのページは5月16日(日)、第三十二回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『これ作品集 午前四時三〇分のモノローグ』に収録の、『なれるよ』の試し読みサイトとなっております。

どこにでもいるような平凡な兄弟の話を書きました。今回は12p、およそ6500字分を無料公開いたします。

では、どうぞ。





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覚えていない。

失言で辞職した大臣。震度三の小さな地震。いじめられていた同級生の名前。

忘れていく。

テレビの中のテロリズム。かつて観た映画の主人公。三日前の晩御飯。

消えない。

あの凄惨な事件。白昼夢のような一瞬の出来事。奪われた未来。

ずっと。                                                              





 
 春の足音が近づく四月の朝。鳥のさえずりが、近くの高架を通過する電車に、かき消されている。暖かくなってきたとはいえ、朝晩は暖房がないとまだ寒い。大人しい日光を正面に受け、仲島洋一は照明もつけずに、キッチンに一人立っていた。

 卵を割って溶かし、玉子焼き機に垂らす。熱されたステンレスに触れた卵は、パチパチと泡を立て、黄色を薄めていく。洋一は実に慣れた様子でフライパンを振った。皿に盛られた玉子焼きからは、柔らかな湯気が立ち上る。キャベツを千切りにして、銀色のボウルに入れる。輪切りにしたキュウリに、半分に切ったミニトマト。それに薄く切ったハムを少し。ただ具材を切って乗せただけの簡易的なサラダが、洋一と同居人の朝の定番メニューだった。

 しばらくして、炊飯器が鳴った。少し混ぜて冷ました後に、艶が誇らしげな白米を茶碗によそう。洋一は同居人の分を自分よりも、少し多く盛った。冷蔵庫から納豆を取り出す。昨日、スーパーマーケットのセールでまとめ買いしたものだ。手に取ると、パックの底から、細やかな冷たさが伝わってきた。テーブルに置き、朝食の準備を終える。

 あとは、気持ちよく熟睡しているであろう同居人を起こすだけだ。

「祐二ー、起きろー。飯できたぞー」 

 洋一は、向かいのドアに話しかける。子供にボールを投げるように優しく。しかし、反応はない。仕方なくドアを開けると、部屋の中では仲島祐二が、布団の中ですやすやと寝息を立てていた。枕元の目覚まし時計は、十時に設定されている。布団の側には、空の缶ビールが横たわっていた。

 洋一が、白い布団に手をかけて勢いよく剥がす。外気に晒された祐二はすぐに目を開け、そして屈んだ。ミノムシのようだ。誰だって、熱を逃がしたくはない。特にまだ寒さが残る朝には。

「うーん……。うわっ。寒っ」

 それまで、右向きで寝ていた祐二は、一つ寝返りを打った。洋一の姿を視界に捉えたようで、目を何度も擦っている。ようやく起き出すと、パジャマの襟がまたよれていることに気づく。

「さっさと起きてこいよ。早くしないと飯冷めちまうぞ」

「はーい」

 洋一がリビングに向かって歩く後を、祐二が重たい足取りでついていく。祐二は席に座る前に、壁のスイッチを押して、照明を点けた。無理強いをしない光が、朝の盛り上がらない心にはありがたい。

 祐二は、椅子に座る前に言う前に、テレビのリモコンに手を伸ばし、赤い電源ボタンを押した。取られると期待された箸が、放っておかれたまま虚しい。

『おはようございます。時刻は八時になりました。『あさテレ』のお時間です。最近は寒さも和らいで、コートもいらないくらいの陽気。桜の木にも小さな蕾が見られます。お花見が楽しみですね。さて、今日のラインナップはこちらです。東京では……』

 明朗なアナウンサーの声が、二人の輪郭を浮かび上がらせる。目の前の朝食は、早くも冷め始めていた。洋一はテーブルに手をかけて、煉瓦色の椅子に座った。反対に、祐二は椅子に座る前に、テーブルの上を軽く見回して、「兄ちゃん、マヨネーズどこ?」と何の憂いもなく言う。洋一からすれば、その言葉はあまりにも投げやりで、思わず呆れてしまうものだった。

「冷蔵庫にあんだろ」

「えー、出すの面倒くさい。兄ちゃん最初から出してくれればよかったのに」

 同居人に兄としてのプライドを突きつけられ、祐二はしぶしぶといった様子で、冷蔵庫へと歩いていった。まだ買って日もない冷蔵庫は、二メートルというその高さ以上に圧迫感を与えてくる。冷蔵庫が開くと、オレンジ色の光が祐二を照らした。まだ眠いのに。こんなに眩しくなくてもいいのに。探しても目当てのボトルは見つからない。

「マヨネーズないよ」 

 豆腐に向かって、祐二は言う。冷蔵庫の管理は、いつも兄の洋一がしていた。 

「いやあるだろ。三段目の右の奥。ジャムの後ろにない?」

 管理人である洋一の言葉が、後方から投げられる。祐二がトーストを食べたいと言って買ってきたはいいものの、二回使っただけで飽きてしまった、イチゴとブルーベリーのジャム。その二つを除けると、楕円形のボトルが姿を現した。いつも使うのは分かっているのに、どうしてこんな面倒くさいところに隠しておくのだろう。だが、こいつがあるのとないとでは大違いだからあってよかった。黄色がかった白を手に取り、祐二は冷蔵室の扉を閉める。ジャムの二缶を戻しもせず。 

 そのまま先程よりも大きな歩幅で、テーブルに戻ると、祐二は赤いキャップを捻った。やがて、キャベツもトマトもキュウリも白に覆いつくされていく。マヨネーズは不思議だ。これさえかけておけば何でも美味しくなる。この世にこれ以上の調味料はないと、祐二は本気で信じていた。さらに、祐二は玉子焼きにも絞り口を向けるので、洋一は危惧を覚え、玉子焼きの皿をそっとどけた。

「おい、玉子焼きにかけるなら、小皿に自分の分をよそってそれからかけろよ。お前だけの玉子焼きじゃないんだぞ」

 まるで、年端もいかない子供に言うかのように洋一は注意をした。マヨネーズは確かに美味しいが、朝には少しくどすぎるだろう。そう目線で訴えかける。祐二は、今日は大人しくそのアドバイスに従ってくれるようで、キッチンから真っ白で底の浅い小皿を取り出した。玉子焼きを小皿に取り分け、出しすぎなくらいのマヨネーズをかける。最近、かける量がますます増えてきたようだ。

 極めつけに、祐二は納豆のパックを勢いよく開けて、そこにもマヨネーズをかけ始めた。茶色い粒々が、マヨネーズの黄色がかった白でコーティングされていき、光沢を放っていく様は、洋一には異様と呼べるものだった。毎回の光景だが、その度にゾッとした寒気を覚える。粘り気のあるものに粘り気のあるものをかけ合わせるなんて。弟とはいえ、自分とは違う人間だ。

「なぁ、お前マヨネーズ摂り過ぎじゃないか。今にブクブク太っちまうぞ。油を摂り過ぎると血管が詰まって危険だし、塩分も高いから、高血圧になるんじゃないか。健康のためにも、少しは控えたらどうだ」

 一応はそう注意するが、祐二はその度に、 

「いいのいいの。これカロリーハーフだから。塩分もカットされてるし、ちょっとぐらいかけすぎても大丈夫だよ。それにマヨネーズっていうのは、植物由来だからヘルシーだし、なにより食べたいものを食べないで、我慢する方が体に毒じゃん。というか兄ちゃんもマヨネーズかけなよ。納豆マヨネーズ美味しいよ。これを知らないの、人生半分くらい損してるわー」

 などと言って気にもかえさない。流石に閉口する。最近では気遣うのも無駄な気がして、まあ自己責任だしと放っておこうかと、洋一はひそかに思っているくらいだ。医療費はきっと親が出してくれるだろうし、一度痛い目を見なければ、祐二は分からないに違いない。そんな洋一の心配などどこ吹く風というように、幸せそうに納豆マヨネーズご飯を頬張る祐二。頬を落とす弟を見ながら、洋一は玉子焼きを口に運んだ。砂糖の甘さの中に、どこか酸っぱさが紛れ込んでいる気がした。


『さて、ここからは仕事に輝く人々を紹介する『シゴトビト』のコーナーです。本日のゲストは、俳優の神戸昴さんです。よろしくお願いします』

『よろしくお願いします』

 テレビではまだあどけなさの残る俳優が、出演する映画の見どころを語っている。男二人の女一人の、三角関係のストーリーらしい。いかにも少女漫画原作といった様子だ。十代向けのその映画は、自分たちに向けられていないことは、洋一には分かっていた。映画館で男二人は、きっと浮いてしまうであろうことも。それでも、祐二は無邪気に身を乗り出している。声に張りが戻ってきつつある。

「うっわ、この人最近ポカリのCMに出てる人じゃん。兄ちゃん知ってる?女の子に『一緒に飲もう』ってポカリ渡してる人だよ」

「CMは知ってるよ。名前は今日初めて知ったけど」

 祐二の調子に押されて、ぎこちない笑いが、洋一から漏れた。テレビの中の俳優から目を逸らすように、白米をかき込んだら、少しむせた。

「でも、この人CMでは茶髪だったんだよねー。黒にしたのかな。でも、やっぱかっこいいわ。なんだろう、もう骨格からして違うよね。神様が隅の隅まで注意して組み上げた感じ。生まれながらにして選ばれた人間みたいな?ずるいなあ」 

 そう羨む祐二だったが、その声色には嫉妬があまり含まれていないように、洋一には感じられた。弟には、昔から人と自分を比較するようなところがない。それは、自己を持っていて望ましいともいえる。だが、洋一からすれば、少しは他人を見て焦ってほしいというのは、偽らざる本音だった。

「そうだな。俺たちとは大違いだ。で、お前この映画観に行くの?」

「うーん、どうしようかな。やっぱ男だと少女漫画原作っていうのは、なかなかハードルが高いものがあるし。難しいよね。でも、ヒロインの女の子も、結構可愛いっぽいんだよね。等身大っていうの。クラスにいそうな範囲に収まってる。ぶっちゃけタイプ。まあ暇があったら、観に行くよ」

 祐二がはにかむころには、洋一は自分の食事を終えていた。空になった食器を、キッチンの流し台に持っていき、水に浸した。蛇口を捻ったら、勢いよく溢れ出た水が陶器の表面に跳ね返って、水を少し被ってしまった。水道水は、夏も冬も普遍的に冷たい。幸い、弟はテレビに夢中なようで助かったが、見られていたらまた茶化されるところだった。洋一はほっと息をつく。そうしている間にも、壁掛け時計は着々と進み、洋一の出勤を急かしている。


『では、神戸さんが『シゴトビト』として、やりがいを感じる瞬間というのはどのようなときでしょうか』

『来ましたね、その質問。いつも『あさテレ』見てますから来ると思ってましたよ。そうですね……。朝からこんな話していいか分からないんですけど、僕たちって、死んだら無くなってしまうじゃないですか。記憶もいつかは、薄れてしまいますし。でも、作品というのは、僕が死んだ後も残ってくれるんですよ。自分が生きた証を残せるというか。なので、カメラが回っているときでも、そうでないときでも、仕事をしているときは『ああ自分は今生きている証を残してるんだ。生きているんだ』って感じるんですよね。それがこの仕事のやりがいであり、幸せな部分でもありますね』


 七時四十五分。洋一が家を出る時間だ。革靴を履いて玄関に立つ。爪先の革が少しずつ剥がれてきていて、そろそろ買い替え時だろうか。挨拶をしようと振り向くと、祐二は神妙な面持ちでテレビを眺めていた。口が少し開いていて、微かに震えている。一口が小さくなっていた。

「じゃあ、行ってくるわ。洗い物頼むな。あと、洗濯もん取り込んどいて。隅のバケットに入れてくれればいいから」

 祐二はこちらを見ず、うん、とだけ言った。癪に障るというわけではない。しかし、いつもよりそっけない態度に、洋一は、他人行儀のような距離を感じた。それでも、帰ったらいつものように、テレビから顔をそらして、笑顔で迎えてくれるのだろう。信頼しているわけではないが、安心感があった。

 ドアを開けると、空は視界に収まりきらないほどの水色で、心地よい陽気が全身を包んだ。雨の心配はなさそうだが、もう十日も降っていないので、寂しい感じもする。最寄り駅に向かって歩き出すと、楽しそうに笑いあう大学生たちとすれ違った。まさにこの世を謳歌している。しかし、洋一にとっては名も知らない大学生の下卑た笑顔よりも、帰宅したときの祐二の穏やかな笑顔の方が、何倍も価値のあるものに感じられるのだった。


 テレビの中の俳優が、したり顔で人生論を語っているのを、祐二は片耳で聞いていた。年は下だけれど、顔はいくらか精悍だ。きっとたいへんな努力をしているのだろう。朝食を食べ終え、キッチンに食器を持っていった。水に浸すだけで洗いはしない。外から聞こえてくる大学生の笑い声が、窓を通り抜けて部屋に響く。かつては自分もあのように、楽しい大学生活を送っていたと祐二は思いを馳せる。一緒に徹夜で麻雀をしていた友達は、涼しい顔をして内定を獲得していた。もう連絡はさほど取っていなかった。

 リモコンを手に取って、再び赤いボタンを押す。物言わなくなったテレビ画面には、灰色のスウェットが映っていた。何も音がしない空間は、全てのものが鏡となって自分の姿を映し出す。祐二は、突き動かされるように、黒いカーボンのケースに入ったスマートフォンを持って、再び自分の部屋に戻っていった。

 誰もいなくなったリビングで、蛍光灯だけが瞬きを続けている。



     



 窓の外はすっかり明るくなってきたようだ。車の往来も増えてきている。だが、俺の下に日光が差し込むことはない。カーテンは閉め切っているし、そもそも俺の部屋は北向きだった。案内されたときに、他の部屋よりも家賃が二千円ほど安かったので、つい食いついてしまったが、実際、暮らしてみると、想像以上に気分が滅入る。日光を浴びないということが、人体にこれほどの悪影響を及ぼすなんて。まったく新たな発見だった。二本の足で立っていても、人間はやはり動物なのだ。

 起きてすぐに、歯を磨くよりも煙草を探す。床も机も物が散乱していて、フローリングが見える箇所の方が少ないくらいだ。雑誌が、丸められたティッシュが、転がっている。レジ袋が、検針票が、伏せっている。それでも、煙草とライターは机の一番上に置いてあったので、簡単に見つけられることができた。煙草に陰毛が一本かかっていて、自分のものながら汚いと、手で振り払う。陰毛はどこにでも現れる。まるで天井から降り注ぐかのように。イメージすると吐き気がした。

 ベランダに出て、煙草を口にくわえる。火をつけると、口元が潤い、やがて全身が蕩けるような煙で満たされていく。吐き出した煙は、まだ寒いことも相まって白い。起き抜けに吸う一本は、一日の中でも一番美味い一本だと、父親は言っていた。あのときの言葉の意味が今は分かる。この煙草は俺にとって、朝の日差しの代わりだ。胸がすくほど爽快で、これほど気持ちいものは無いと断言できる。見上げると空は雲一つない快晴で、憎たらしく感じるところだが、今はそんな気分にはならなかった。これも朝の一服がなせる業だろう。

 二本吸ったところで、煙草はもうなくなってしまった。まだ吸いたい気分だったので、外に買いに出かける。サンダルは季節外れだが、少しの外出なら問題ない。コンビニや煙草屋はダメだ。人と話す必要がある。しかも、そいつらは店員という仕事をしている。うっかり会ってしまうと、解れ始めたスウェットを着た俺が、惨めたらしく感じてしまう。その点、自動販売機はいい。金を入れれば、何も言わずに煙草を出してくれるからだ。ゴトンと煙草が落ちる音が、俺には祝福の鐘の音のように聞こえる。

 煙草を手にしながら、上機嫌でアパートに戻り、郵便受けを確認した。しばらく放っておかれている年金通知書や、再配達の申し込みに交じって、区から一通の郵便が届いていた。そろそろ来る頃だと思っていたそれを、俺は気まぐれに家に持ち帰った。無造作に封筒を破くと、書類には「雇用保険給付のお知らせ」と書いてあった。支給額は十万円。家賃に多くを取られてしまうが、寝て食べて起きているだけで、金が貰えるのだから楽なものだ。あと二ヶ月で切れると分かっていても、ハローワークに行く気にはなれなかった。貯金もまだ三十万円ほどある。今年中はこのままの生活を続けられそうだった。

 封筒を机に置き、適当に解凍した冷凍食品と、パックの白米で簡単な朝食を済ませる。皿を置くためのスペースを確保しようと、机の上の書類をどけると、床に落ちて、部屋はまた汚くなった。テレビはない。先月売り払ってしまったけれど、二万円にしかならなかった。静かな部屋は、今の俺にうってつけだ。そう強がることで、平静を保とうとしていたのは、既に自分でも深く理解していた。








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以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。



『これ作品集 午前四時三〇分のモノローグ』は『なれるよ』他3編を収録し、計312ページ。A5判で1000円というお買い得価格で頒布予定です。

また、他にも3冊を頒布予定ですので、もし気になったのであれば、エー17『胡麻ドレッシングは裏切らない』までお越しいただけると嬉しいです。

何卒よろしくお願いします。