この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。
こちらのページは5月16日(日)、第三十二回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『これ作品集 午前四時三〇分のモノローグ』収録の『あの広い屋上に花束を』の試し読みサイトとなっております。
一人の中学生の男の子の一年間のお話です。今回は12p、およそ6500字分を無料公開いたします。
では、どうぞ。
~~~~~~~~~~~~~~~~
今日、僕は飛び降りる。
世界は朝の空気をまとって、僕のことなんか知らない顔をして、また変わり映えのしない一日を始めている。鍵を回してドアを開ける。東からの太陽が眩しい。頬を撫でる風は、気持ちが悪いくらいに暖かくて、ひりひりする。辺りにはこの学校よりも大きな建物はない。遠くに見えるのは海岸線。波は穏やかに砂浜を濡らす。
ああ、僕は世界で一番高いところにいるのだ。手を伸ばせば、空の果てまで届いてしまいそうだ。
ふらふらとフェンスに近づいて、菱形の内部を見下ろす。黒の制服に紺の通学カバンをぶら下げた人形たち。石を持ち上げたらいる性質の悪い虫のように、うねうね歩いている。たまたま同じ年に近くの場所で生まれたからといって、どうして一つの場所に閉じ込められて、一緒の時間を過ごさなければならないのか、彼らは疑問には思わないのだろうか。
ちょうど真ん中あたりで女子の三人組が騒いでいる。どうやら昨日のドラマに出ていた俳優がかっこよかったという話をしているようだ。手を叩いて笑っている。悩みがなさそうでとても羨ましい。
その横では男子が一人で歩いている。耳につけたイヤホンが結界となって、彼に近づく者はいない。好きな音楽でも聴いているのだろうか。手に持っている音楽プレイヤーは、二世代前のものだ。僕は最新型を持っているから分かる。昨日、捨てたけれど。
僕は通りがかる人形たちを、何も言わずに眺めている。僕に気づく生徒は現れない。
上から見ても分かる長身の生徒が、校門に近づいてくるのを、僕は見つけた。ヘアーワックスで固められた髪型も、ここから見ると、とてもチンケなものに映る。
いた。アイツだ。僕がこれからすることなんて、アイツが僕にしてきたことに比べたら、ほんのちっぽけなものだ。この一年と少しが僕にとってどれだけ長かったのかをアイツは知らない。だから思い知らせるのだ。アイツが僕から奪ったもの、その大きさを。
小さな僕のささいな抵抗。
最後に残った選択肢。
*
あの日も今日みたいに、気持ちよく晴れた日だった。木々はピンクの花を、けたたましいほどに咲かせていて、散った花びらが、無個性な校庭に彩りを加える。白い猫が陽だまりで毛並みを整える。僕たちの入学式の日だった。
ピンと糊の張られた初々しい制服たちが、体育館に集められた。校長先生が何を話していたのかは覚えていない。覚えていることと言えば、ぼうぼうと音を立てるストーブが、小学校で使っていたものと同じであることに、親しみを持ったことぐらいだ。
廊下に張られたクラス分けの紙を、黒色たちを必死にかき分けて確認し、ドアを開けて教室に入る。初めて開ける中学校のドアは、心なしか重かったけれど、振り返れば、このときのドアが一番軽かったような気がする。
一瞬、僕に視線が集まった。教室には僕の知り合いはいなかった。二人いた小学校からの友達とは、別々のクラスになってしまったらしい。既にクラスには複数のグループができていた。言葉の知らない国に、一人で迷い込んでしまったような心細さを感じた。
席に座って、カバンを置く。喋る生徒たちを見ていると、自分が価値のないもののように思えてくるので、下を向いて過ごした。おしゃべりは壊れたラジオみたいに止まない。
先生が入ってきて一声かけると、教室は一気に静まり返った。初めて見る中学校の先生は、僕が想像していたよりもずっと若かった。スーツ姿はくたびれていなかったし、靴のかかとも擦り減ってはい。それは威厳がないとも言えるが、親しみやすいとも言え、僕には好ましかった。生徒が静まったのを確認すると、先生は「入学おめでとう」と言い、黒板に名前を書いた。「高橋」というごくありふれた名前を。
高橋先生がぎこちない挨拶をした後には、こういう場では必ずと言っていいほど起こる恐怖のイベントが始まった。自己紹介だ。僕は自己紹介にあまりいい思い出がない。一人の人間に集められる何十人もの視線。たった三十秒に満たない時間での振る舞いで、この先の学校生活が決められてしまう。三年間の中で一番重要な三十秒だ。そう考えると失敗はできない。
最初の生徒が大きな声で「イェーイ!」と叫んだ。そのままテレビでよく見る芸人の物真似をし、勢いだけで自己紹介を続けている。ウケなければ三年間を棒に振る可能性だってあるのに、大した度胸だ。
そして、彼はウケた。教室の中の緊張の糸が、彼の勢いというハサミで断ち切られたようた。先生も、僕の斜め前の生徒も笑っている。教室全体が和やかなムードに包まれる中で、僕だけが拳をぎゅっと握りしめていた。
和気あいあいとした雰囲気で続けられる自己紹介。だけれど、自分を良く見せることは誰も忘れていない。どれだけ自分を愛想よく見せられるか、ゲームをしているみたいだ。一人、また一人と立って、話しては座っていく。
自分の番が迫ってくるなかで、心臓が激しく脈打つのを僕は感じた。それは期待ではなく焦燥だった。ここが勝負どころだ。何か面白いことを言わなければ。失敗したらどうしよう。様々な思いが頭の中を駆け巡る。かりそめのクラスメイトが話していることなんて、まるで聞こえてこない。
目の前が滲んできて、そのことを悟られないように、僕はうつむく。震える。小刻みに。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
僕の前に座る前の生徒の自己紹介が終わった。拍手は形式的なもので、乾ききっている。拍手が止む。僕は組んだ手をもう一度ぎゅっと握り、立ち上がった。僕に視線が集まっている。それは疑念ではなく、確信だった。
「第一小学校から来ました××××です。よろしくお願いします」
口から出たのはそれだけだった。精一杯大きい声を出したつもりだったけれど、震えていた声はミシン糸のように、か細かった。皆入りたい部活とか、呼んでほしいあだ名などをアピールしていたけれど、僕にそんな余裕はなかった。どこからか、「え、それだけ?」という声が聞こえる。とびきり軽い笑い声も。
自分が失敗したと、一息で分かった。何の印象も残せていない。きっとこれから僕は、いるかいないか分からないような、あいまいな存在として一年を過ごすのだろう。他の人が誰もやりたがらない係を押し付けられるかもしれない。誰にも感謝されることなく、淡々と係の仕事をこなす姿は、想像しただけで嫌気が差す。
妄想は止まらない。修学旅行のグループ分けで、余り者になったらどうしよう。給食も一人で食べることになりそうだ。授業中に回ってくるメモも、僕は人から人に回すだけで、何か書くことを許されることはないだろう。
そう考えることができたのは、僕の後ろの生徒がなかなか立ち上がらないからだった。振り返ると、眼鏡を掛けたその子は、机の木目を見つめていた。唇が微かに揺れている。
「野本、おい野本」
中学一年生にはなかなか出せないであろう低い声が、教室に響く。僕を含めたいくつもの視線が彼に刺さるのを感じた。彼は慌てて立ち上がった。勢いで、椅子が後ろに倒れた。
「あ……あああああ……野本優弥です。だ、だだ第三小学校から来ました。よろしくお願いしま……」
声が震えていてみっともなかった。触れたらすぐに壊れてしまいそうな、脆い声だった。小さすぎて反対側の人には、聞こえてすらいなかったかもしれない。椅子を直して慌てて座る彼の姿に、あわれみを感じた生徒も多いだろう。
表情、声の大きさ、内容、どれをとってもまさしく失敗だった。野本君は目から溢れてくるものを、必死で堪えていた。ここで泣いてしまったら、もう取り返しがつかなくなることが、彼にも分かっていたのだろう。
彼を見て、僕が感じたのは安心だった。なんだ、僕よりみっともない子がいるじゃないか。僕の悪印象は、野本君の悪印象に上書きされた。これで、僕を気にとめる子はいないだろう。寂しい気もしたが、からかわれるよりはよっぽどマシだ。彼がいてよかったと、心の底から安堵した。
自己紹介は続く。さすがに二〇人を過ぎた頃には、ぼくはすっかり飽きてしまっていた。聞くふりをして、窓の外を眺める。窓から眺める木々の花々は、僕を嘲笑うみたいに、鮮明に咲いていた。底抜けの無神経さで。
結局、その日は僕に話しかけてくる子は、いなかった。もちろん野本君にも。校則で禁止されているスマートフォンを何人もが持ってきていて、楽しそうに画面を見せあっている。「何してるの?」なんて聞く勇気なんて、あんなつまらない自己紹介をした人間にあるはずもない。僕はあまりに腰抜けだ。
高橋先生の話が終わって、生徒たちが礼をすると、野本君は誰よりも早く教室を後にした。あまりの早さに、教室が一時騒然としたほどだ。彼は良からぬ形で注目を浴びてしまったのだ。少し待って、他の生徒に紛れながら帰っていればよかったものを。
事実、僕はそうした。一〇人ほど教室から出たところで、さりげなく帰る。存在を消したかった。靴をさっさと履き替えて、家路を急ぐ。
校舎からすぐ出たところに人だかりができていた。隙間から、白い猫が地面に寝転んでいるのが見えた。ここで、猫を見ていくのが、自然な反応だったと思ったけれど、僕は脇目も振らず真っすぐ歩き出した。猫が好きだと思われたくはなかった。
落とした肩に、薄いピンク色の欠片が優しく乗ってきたが、僕はそれを右手で振り払う。欠片は力なく地面に落ちていった。
ニュース番組が流れるテレビ。六時半を過ぎて、各地で始業式が行われたという、清涼剤のようなニュースが紹介されている。取材を受けていたのは、僕が去年まで通っていた小学校だった。見飽きた体育館で、見慣れない校長先生が話している。取材を受けた小学一年生の女の子は「これから学校が楽しみ?」という質問に「うん!」と、満面の笑みで答えていた。乳歯が光って、眩しい。
「ただいまー」
「お帰りなさい。お父さん、今日は早いじゃない」
「あれ、言ってなかったっけ。今日ノー残業デーだって。なんか働き方改革? で、急きょなったみたいだよ」
「そうなの。もう少ししたらご飯作り始めるから、ちょっと待っててね」
いつも夜中の十時くらいまで残業をしているお父さんが、珍しく早く帰ってきた。右手には、缶ビールとおつまみが入ったレジ袋をぶら下げている。灰色のジャージに着替えて、テレビを見る僕の横に座った。
「柿ピー少し食べるか?」
「うん、ちょうだい」
僕が両手を差し出すと、お父さんは、袋を振って中身を取り出した。ピーナッツがあまり入っていなかったので、少し文句を言ったら、お父さんは袋の中からピーナッツを三つつまんで、僕の手に置いてくれた。柿ピーは辛いというよりもしょっぱくて、心が少し柔らかくなるような気がした。
「で、どうだった。学校は。馴染めそうか」
「まあなんとかやっていけそうかな」
「自己紹介大変だったろ」
「名前と、どの学校から来たとしか言えなかった」
「そうか。まあお前はあまり喋るのが、得意じゃないからな。でも、他にいいところいっぱいあるから、クラスメイトもおいおいそれは分かってくれるはずだ。あまり頑張りすぎるなよ」
「分かった。できる範囲でやってみる。ところで、柿ピーもう少しちょうだい」
「しょうがないなあ」
お父さんからもらった柿ピーは、今度はピーナッツが多めだった。微笑むお父さんは、仕事が早く終わって上機嫌そうだ。僕は、それを猫のような目で見て、また視線をテレビに戻す。天気予報士が、今年の花粉は例年の三倍だと言っていた。
「でさ、小杉が『それは、僕のせいじゃありません』って言うの。『じゃあ、誰のせいなんだ』って聞いたら、『気のせいです』って」
「なにそれ、面白いね」
テーブルにはコロッケが山のように盛られている。僕の好きな食べ物ランキング第四位だ。食べてみると、ジャガイモがとても甘くてソースとよく合って美味しかった。
「で、お父さんどうなの、仕事のほうは」
「最近ようやく大きな案件が、一つ片付いたところだ。今は少しゆっくりできてるけど、また来月には重要な案件が二つあるからな。家に帰る時間も遅くなるかもしれない」
「じゃあ、束の間の休息ってことになるわね」
「そうだな。で、お母さんのほうはどうなんだ」
「私は決算も終わって、少し落ち着いてるかな。でも、異動で入ってきた子がなかなか強烈で。耳にピアス四個もつけてるの。それも両耳」
「じゃあ合わせて八つか。耳だけに小泉八雲の『耳なし芳一』みたいだよな」
「なに言ってんのー。全然違うわよー」
二人は笑いあう。僕の家の食卓は、いつも笑い声が絶えない。仲がいいのは結構だけれど、僕にはそれが少し不自然に映る。なにかをうまく演じているような気がするのだ。そう思ってしまうのは、僕には面白い話ができないからだろうか。ひょっとすると、二人をひがんでいるのかもしれない。
「××、コロッケ美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「ありがとう。今日から学校だったけど、大丈夫そう?」
「何とかやっていけると思う」
「そう、よかった。でも、辛いときは無理しないでいいからね。お母さんたちに相談してね」
「分かってるよ」
僕の口調はぶっきらぼうになったが、お母さんの口元は変わらずに緩んでいた。ふんわりとした声で、「デザートにプリンあるわよ。食べる?」と言う。プリンは七位だ。僕は「うん、食べる」と答えた。暖房が効いた暖かいダイニングで。
玄関から出るときに靴がなかなか履けなかった。革靴はまだ慣れず、大きめのブレザーの裾が邪魔だった。空は灰色を重く垂れ流していて、頭が重たい。雨の気配が近づいているというのに、いつも使っているチェックの柄の傘を、忘れてしまった。それでも、スマートフォンは持っていく。皆が持っているので、仲間外れにはなりたくない。
二日目の朝。何をためらうことがあるのだろう。僕に話しかける人間などいないというのに。ただ椅子に座って何となく授業を聞いていればいいだけなのに。足取りは思い。それでも足を前に運ぶ。こんなところで挫けてはいられない。
校門をくぐるころにはポツポツと雨が降り始めて、僕は走って校舎へと入った。
教室のドアは、前の生徒が入ったまま開いていた。何者をも受け入れるあけすけさがそこにはあったが、それがかえって僕には辛かった。
なんとか振り切って席に着く。案の定、誰も話しかけてこなかった。周囲をきょろきょろするしかやることがない。自分のペースを、僕は誰かに乱してほしかった。
後ろを振り向くと、開いたドアから野本君が入ってくるのが見えた。女子みたいなきめ細かい白い肌にはっとする。野本君が席に着くと、レーダーで察知したかのように、一人の生徒が近づいてきた。クラスで一番身長が低い彼よりも二回り大きくて、袖からは日焼けの境目がくっきりと見えている。黙っていても人を引き付ける雰囲気があるのに、自分から積極的に他の生徒に近づいていく。僕や野本君とは違って、クラスの中心になるべき人物。
振り返ると、池田君は昨日もいくつかできていたグループの、既に中心にいた。それも一番大きなグループだ。動くと自然にクラスメイト二人がついてくるのも、すでにクラスの中で、一定の地位を築いている証拠だろう。
自信に満ち溢れた薄い唇が、半笑いを浮かべている。
「野本君だったっけ?俺、池田。ねぇ、昨日のアレもう一回やってよ。あの自己紹介のヤツ。あれ、超ウケたんだよね。ほら『あ……あああああ、ああっあっあっあっノモトユウヤですぅ。だっだっだだだっ第一中学校から来ましたぁ。よろしくお願いしまぁぁぁすぅぅぅ』。ほら、やれよ」
池田君は野本君の昨日の失態を、面白おかしく誇張してやってみせた。勝手に付け加えられた大袈裟な手の動きに、取り巻きの二人がお腹を押さえて笑っている。
彼に対する悪意を隠そうともしていない。完全に下に見ているのだ。自分より弱い人間をバカにして、上に立とうとする。恥ずべき行為を何食わぬ顔でできるのが、人気者という人種なのか。
野本君が「それはちょっと……。ごめんね……」と半径五〇センチメートルくらいにしか届かないであろう小声で答えると、彼は舌打ちをして「なんだよ。ノリ悪りーな」とだけ言って、自分の席に戻っていった。
僕はそれを背中で感じていた。自分は関係ないですよと、周囲にアピールしたかったのかもしれない。無機質なチャイムが僕らを隔てる。取り巻きのうちの一人がこちらを見てブツブツ言っていた。
野本君がそれを気にしていたかどうかは、僕には分からない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。
『これ作品集 午前四時三〇分のモノローグ』は『あの広い屋上に花束を』他3編を収録し、計312ページ。A5判で1000円とお買い得価格で頒布します。
さらに、他にも3冊を頒布予定ですので、もし気になったのであれば、エー17『胡麻ドレッシングは裏切らない』までお越しいただけると嬉しいです。
何卒よろしくお願いします。
コメント