この度はご覧になってくださってありがとうございます。これと申します。
こちらのページは5月16日(日)、第三十一回文学フリマ東京@東京流通センター第一展示場にて頒布予定の『アディクト・イン・ザ・ダーク』の試し読みサイトとなっております。
日々を惰性的に過ごしていた冴えない男にとある転機が訪れるお話です。
今回は19p、およそ10000字分を無料公開いたします。
では、どうぞ。
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プロローグ、たった一人で夜にいる
迷っていた。何がしたいのか。自分には何があるのか。ずっと不安だった。目に見えない恐怖がのしかかり、押し潰されそうだった。
求めていた。不安から解放してくれる優しさを。心配のない世界に連れて行ってくれるヒーローを。何もかも忘れられて、新しく生まれ変わることのできる瞬間を。
だから、今日も俺はクスリに手を伸ばす。アルミホイルにクスリを開けて、下からライターで炙る。プラスチックのストローを通って、煙が俺の体を満たす。口の中が生暖かい。煙は細胞に浸透していき、意識に棘が生えた。脳のひだが、意志を持って動き出すかのようだ。
八時間の仕事を終えた体に、活力が蘇ってくる。疲労は彼方に吹き飛んでいく。思考はどろどろとした蛹だ。だが、クスリによって固められ、やがて蛹を抜け出し、蝶になり羽ばたいていく。俺は、空を自由に飛んでいる。くるりと宙返りをしてみせる。誰も称賛する者はいないから、自分で自分を褒め称えよう。俺は窓に映った自分に向けて、手を開いておどけてみせた。鏡の中の俺は、口を開けて笑っている。
解放は続く。ベッドに上り、ジャンプをした。布団は何も跳ね返さず、また受け入れることもしない。しかし、俺にはそれで十分だった。俺には手の届かない、一般的な幸福を掴めるという確信が湧いてくる。俺は飛び続けた。木製のベッドは、五五キログラムの妄動にも耐えられるくらい頑丈だった。
キッチンで鼻歌交じりに皿を洗う。水道水の冷たさも、俺の目を覚ますまでには至らない。踵でリズムを刻みながら、立つ泡にほだされていく。頭では一種のショーが開演していた。宙を舞う空中ブランコ。玉乗りに興じるクラウン。特等席に座る俺は、テント中に聞こえるような大きな拍手を送っている。腰を捻りながら皿を拭くと、湿った布巾の感触が、羊毛のように心地よかった。
することもなくなり、俺はベッドに入り、目を瞑った。だが、脳が興奮して眠ることはできないし、そもそも眠る気もなかった。俺はクスリがしたくて生きている。この高揚感を味わえるなら、本当に誰にでもできるつまらない仕事の日々も耐えられる。クスリは、まったく俺を解放してくれるパートナーで、人生の指針でもあった。
冴えた頭で俺は思う。明後日もまたクスリをやろうと。このまま眠って起きたら日付が飛んで、明後日にワープしていればいい。クスリを使っている時間だけが、俺が俺でいられるかけがえのない時間だった。他人が俺を慰めることはない。俺を慰めてくれるのはクスリと、それに伴う自慰行為だけだ。
そういえば、今日はまだ抜いていなかった。俺は起き上がり、枕元のティッシュ箱から、ティッシュペーパーを五枚抜き取る。ふと目をやると、灰色のジャージに、ありきたりな突起が芽生えていた。欲求が放たれる瞬間を、待望する俺がいた。
神様、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、
変えられるものは変えてゆく勇気を、
そして二つのものを見分ける賢さを。
一、くだらない存在
視界の端を景色が滑っていく。灰色の住宅街。空気は一か月前までの暑さを失っていて、手に当たる風が薄気味悪いくらい涼しい。ペダルを漕がなくても自転車は下り坂を進む。途中にある病院では紅葉が色づき、煉瓦の床をより赤く染めていた。心動かされることはない。どうせ掃いて捨てられるだけの存在だ。スニーカーが、ローファーが、革靴が葉を踏みつけていく。一枚の葉が擦られて、二つに割れている。
渡ろうとしたところで、踏切が鳴り、黄色と黒のバーが下りた。警告音が鳴っているのに電車はなかなか到着しない。待ちかねた俺は自転車から降りて、スマートフォンを手に取る。開いたSNSでは殺人未遂事件のニュースが、トレンドに上っていた。まるで毎朝浴びるシャワーのように、もう何も感じなくなってしまっている。一瞬恐怖するが、それだけだ。
俺に殺そうとまで執着を抱く人間なんているはずもない。俺は殺されない。喜ばしいことのはずなのに、胸の奥で何かが落ちる音がした。見上げた空には雲一つなく、気象予報士が言っていた「爽やかな秋晴れ」という言葉がそのまま当てはまっていた。
踏切が上がり、車や歩行者が動き出す。ペダルは漕ぎだしの一歩目が一番重い。それに精神的な負担ものしかかる。会社の人間が全員俺より給料が低かったならば、まだ仕事へのやる気も出るというのに。言葉に出せない絵空事を浮かべながら、俺は右足に力を入れる。自転車は鈍重に動き出した。
タイムカードを切って席に着く。机の上のクリアファイルには、今日も何も入っていない。ミスを指摘しても無駄、気に掛ける価値もないと思われているのだろうか。隣席の上野秀嗣(うえのひでつぐ)が「昨日の欠勤、ありがとうございました」と話しかけてくる。何がありがたいのかも分からず、ただ、プログラムされた愛想笑いを作って返す。脳裏には朝の踏切の音が流れている。
仕事はデータの入力。適当に入力して問題になると面倒なので、一応は正確に入力することを心掛ける。心掛けるふりをする。頭の中では、好きな曲をプレイリスト化してずっと流している。休憩もこまめに取る。
仕事はデータの入力。適当に入力して問題になると面倒なので、一応は正確に入力することを心掛ける。心掛けるふりをする。頭の中では、好きな曲をプレイリスト化してずっと流している。休憩もこまめに取る。
本音では、一人で仕事をしたいのだが、今以上にだらけるのは目に見えている。職場という場は侮れない。右隣にも左隣にも人がいる。人間は、「人の間」と書く。人と人との間でスーツを着ている俺は、辛うじて人間でいられている。
うだつの上がらない働きぶりのまま、一二時になった。一時間の昼休憩。昼食は奥の休憩スペースで取りたい人はそこで、自席で取りたい人は自席で取る決まりになっている。休憩スペースに来る面々は決まっていて、席も目に見えないテープで固定されていた。
俺は今日も休憩スペースに向かう。人類最大の発明である言語を介して、コミュニケーションを取るのが人間だ。人間でいたいという切実なプライドが、俺にはまだ残っていた。
椅子に座ったはいいが、自分から話しかけることはしない。何を話しかけていいか判然としない。俺が興味あるのはサッカーと映画ぐらいで、話をしても特に反応はなく、すぐに別の話に置き換えられてしまう。それに、他人の怒りのツボなんてどこにあるか知れたものではない。俺が発した一言が相手の逆鱗に触れ、次の瞬間には拳が飛んできている可能性だってあるのだ。
他人は、いつ噛みついてくるかも分からない野犬に似ている。
ただ、テーブルの住民はそんなことを気にも掛けない様子で、世間話に花を咲かせていた。他人への無意識の信頼に、羨ましくて反吐が出る。俺も話に入ろうとはする。しかし、その言葉は適切かということを考え続けているうちに、話題はあっという間にすり替わっている。
毎日、自分はどうしようもなく頭が悪いのだと思い知らされる。話している人たちは火花が伝播するように次々と言葉が浮かんでくるのだろう。健全な人間のあり方だ。俺とは違って。
俺は会話に参加できず、ただただスマートフォンでSNSを見ている。お前らうるせえんだよと心の中で毒づきながら。喋らない俺の方が優れている人間だと、二束三文の言い訳で自分を慰める。それでも、喋れないことを恥じる自分が勝つ。
人の話し声が嫌いで、心臓に負担がかかるから喋らないって、なんだそれ。今までの人生で苦労も我慢も努力もしたことがないから、お前は子供のままなんだよ。我慢する努力をしろ。社会性を培え。他人も自分も否定し、口にしている菓子パンの味だけが、唯一肯定できるものだった。
何も喋ることができず、俺は休憩スペースを後にする。自席に戻ってイヤフォンをつけて、机に突っ伏す。声が聞こえないためには、それなりのボリュームで音楽を流すしかなく、眠ることができない。曲が終わってから次の曲が流れるまでの、空白の時間に耳から脳を刺すようなノイズに何度も苛立つ。中途半端に眠い頭で、イヤフォンを外すとき、心の底から黙れと嘆願する。俺が我慢すればいいだけだから、口にすることはないが。
部屋に帰ると、床に散乱した服が俺を迎えた。縮んだジーンズに、チェックのシャツに、穴の開いた靴下。拾い集めることもなく、炬燵机に向かう。腰を下ろすと、斜めになったテレビに自分の顔が映って、「死ねばいいのに」と呟いた。
帰りに寄ったコンビニエンスストアの袋から、三五〇ミリリットルのビール缶と、柿の種を取り出す。テレビをつけて、自分の姿を消去し、代わりに昨日録画したバラエティ番組を再生する。落とし穴に落ちる芸人を見て、俺は声高に笑う。会社では表出しないような声と笑顔で、手を叩いて笑う。
ビールを体に流し込む。喉が冷たくなった後に、頭が温かくなってきて、安堵を得る。今日の失敗も、髪の毛の先から溶け出していくようだ。落下する柿の種を口で受け止めると、口の中は塩気と少しの辛味で埋め尽くされ、ビールがまた欲しくなる。ビールの刺すような苦みが、日に日に心地よくなっていくのを感じる。
バラエティ番組の大げさな演出に、俺はヤラセだと責める。誰にも届かないのに責め続ける。
番組が終わると、テレビのスイッチは勝手に切れ、また醜い自分の顔が現れた。俺はその肖像に向かって中指を立てる。親指を下にして、首の前で横断させたりもする。テレビの中の俺はキョトンとしていて、殴りたくなる。
逃げるようにテレビから顔を背け、スマートフォンでSNSを開く。フォローしている言語学者が、外交問題について鋭い私見を述べていた。俺はそれをシェアし、しばらくタイムラインを眺める。宙ぶらりんになった自己顕示欲たちが、タイムラインの海を渡っていた。
見上げると白熱灯が、ジーッという音を立てながら瞬いている。電球の中で羽虫が死んでいて、いくつか黒点が見受けられた。柔らかな意志を持った光に照らされると、自分の馬鹿らしさが浮き彫りになる。
毎日会社と部屋の往復。仕事ができるわけでもなく、同僚と良好な関係を築けているわけでもない。帰ってからすることといえば、酒を飲んでテレビを見て、SNSを眺め、コンビニ弁当を食べて、寝る前に自慰をするだけ。幼稚園児のままごとにも劣る生活。無用。無価値。無目的。無いものは有るけれど、有るものは無い。ああくだらない。ひっくり返るほどの低次元だ。俺は、安易に失望する。
コンビニで買った新発売の豚丼は、あまり美味しくなかった。弁当箱と箸を分別することなく、一緒に燃えるゴミの袋に入れる。目につかないように押し入れの中にしまい、ビールの最後の一口を飲み干す。今までは欠けたパーツを埋めてくれていたのに、最後の一口を飲み終えるとまた別のパーツが欠けてしまう。きっと明日も飲んで、生産性のない搾りかすみたいな日々を繰り返していくのだろう。
解放されたくて、俺は窓を開けてベランダに出る。空には灰色の雲がまき散らされていて、星も月も姿を見せない。下を見ると、枝だけになった枯れ木がしゃがれていた。この三階のベランダから飛び降りたら、どうなるだろうかと考える。上手くいって死ぬことができればいいが、失敗したら残るのは苦痛と後遺症だけだ。現状を変える勇気もなければ、死ぬ勇気もない。自分のあまりの臆病さに嫌気が差す。
結局傷つくのが嫌なだけなのだ。傷つくことを避けてきた結果が、この有様だというのに。
黒と灰色の境目が曖昧になった空を見上げる。理由もなく肯定してくれる星の光も月の光もなくて、自分はこの世に不要な存在だと思い知る。無愛想で、特別頭が冴えるわけでも、特殊な才能があるわけでもない俺を誰が必要とするのだろうか。今の俺は、ただの五五キログラムの肉塊だ。
暗澹とした夜は不適切な妄想を駆り立てる。このままでは本当に息絶えてしまう。生きるためには何か別のことを考えなければいけない。少し考えて、コンビニで弁当と一緒に卑猥な漫画雑誌を買ったことを思い出す。今夜はそれで一発抜こう。生きるために命の源泉を無駄にするなんて最低の皮肉だなと、俺は一人でにやつく。窓を閉めた途端に小雨が降りだしてきたのが、ベランダのコンクリートに小さな斑点が現れたことで分かった。
雨音を背に、俺は冷蔵庫の横にある棚へと向かい、二段目の引き出しを開けた。自慰では得られない、生きているという実感のために。
「弓木(ゆみき)君って、いつもコンビニのパンを食べてるよね。飽きないの?」
今まで話しかけられたことのない相手に、名前を呼びかけられたことに驚き、顔を上げた。横に立っていたのは、南渕(なぶち)先輩だった。六つ上で、短く切り揃えられた髪に、端正に整えられた眉毛が引き締まった印象を与える。
「そうですね。でも安いですし、おにぎりよりはパンの方が腹持ちもいい気がして、毎日食べてます」
声が上ずる。南渕先輩は仕事もでき、愛想もよく、同僚との会話も何の苦労もなしにこなせてしまう。竹を割ったような性格で、俺とは正反対のような人間だ。世の中に必要とされる人間とは、きっと南渕先輩のような人を指すのだろう。
「そっか、でもちゃんと栄養は取らないと駄目だよ。最近、弓木君調子良くなさそうに見えるけど」
南渕先輩がパイプ椅子を引いて座る。机の上に水玉のクロスに包まれた長方形の物体が置かれた。左手の薬指にはシルバーの指輪が、ぴったりと収まっている。
「そう見えます?」
「見えるよ。だって最近の弓木君って、いつも欠伸ばっかりしているでしょ。それに朝の挨拶もなんだか元気ないし。背筋も去年はそんなに曲がってなかったよね。ちゃんと夜眠れてる?」
「あの、最近は一時ぐらいに寝て、八時ぐらいに起きてるんですけど、四時とか五時くらいにはいったん目が覚めますね。寝つきもそんなに良くないかもしれないです」
「やっぱりね。もっと寝なきゃ。弓木君、丁寧に仕事するのはいいと思うけど、最近はペースがあからさまに落ちているから大丈夫かなと思って。体調管理も仕事のうちだから、そこだけは気をつけないとね」
ありきたりなアドバイスが嬉しかった。社内でも一二を争うほどに仕事のできる南渕先輩は、特に仕事ができるわけでもない俺のことなんてどうでもよく、むしろ目障りだろうと感じていた。しかし、それは違った。南渕先輩の「仕事ができる」には、周囲への気配りも含まれているのだと、改めて気づかされる。
南渕先輩は結ばれた水玉のクロスを解く。白い二層の弁当箱が現れた。蓋を開けると、弁当箱の中にはバランスよく食材が配置されていた。唐揚げ、ポテトサラダ、きんぴらごぼう、卵焼き。幸福な日常が思い浮かぶようだ。彩りが目に眩しい。
「南渕先輩、それって」
「ああ、これ。弓木君が思っている通り、ウチの奥さんの手作りだよ」
南渕先輩が弁当箱の二段目の蓋を開ける。胡麻塩が振りかけられたご飯の中央に、梅干しが載っていた。
「美味しそうですね」
「ありがとう。せっかくだから弓木君も一つ食べてみる? 卵焼きあげる」
そう言うと、南渕先輩は弁当箱の蓋に、淡い黄色の卵焼きを置いた。箸も爪楊枝もないので、親指と人差し指で、卵焼きを挟んで持ち上げる。口に入れると、包み込むようなほのかな甘さがあった。広い草原のような、しばらく味わったことのなかった感触だった。
昼食を摂っている途中、摂り終わった後も昼休憩が終わるまで、南渕先輩と二人で話した。休日の過ごし方だったり、南渕先輩が飼っているシーズーの話だったり、本当に他愛のない話をした。普段だったら三分も持たずに、席を離れたくなるのだけれど、南渕先輩の声はテノール歌手のように低く、簡単に離れることのできない魅力があった。
休憩が終わる五分前になって、南渕先輩が席に戻る。その後に続いて俺も席に戻った。ふわふわとした夢心地が、自席についてもまだ覚めずに、頭の中を漂流していた。
仕事が終わって会社の外に出てみると、雨が降っていた。雲は墨を溶かしたように灰色で、糸のような細い雨が次第に強さを増す。すぐに大雨になり、向かいの家のトタン屋根に打ち付けられる雨音がやかましい。にわかに風も吹き始めている。乗ってきた自転車の籠に雨合羽はなく、鞄に常備している折り畳みの傘では、横から打ち付ける雨を防ぐことはできないだろう。
途方に暮れて立ち尽くす。時間が経てば少しは雨も弱まるだろうと踵を返して社内に戻ろうとすると、南渕先輩が近づいてくるのが見えた。南渕先輩は車のキーチェンを人差し指に差して、軽快に回している。
「降ってるな。今日は午後の降水確率二〇パーセントだって言ってたのにな。それがこんな豪雨だよ。やっぱり天気予報は信じるもんじゃないな」
「南渕先輩は傘持ってきてますか」
「俺? 持ってきてないよ。俺って傘と日焼け止めは持たない主義だから」
南渕先輩が右手で顔を掻く。日焼けした手の下に、真新しい肌の手首が覗いた。
「弓木君は会社までどうやって来てるんだっけ」
「自転車ですね。片道一〇分くらいです」
「そっか。じゃあこの雨の中はきついね」
雨は止むことなくさらに勢いを増す。目の前が一瞬光り、十秒後に背後から雷鳴が聞こえた。南渕先輩は尻尾を踏まれた猫みたいに一瞬驚いた表情を見せる。そして、俺の方を見て笑う。俺も釣られて笑う。
「弓木君、家まで送っていってあげるよ」
「え、でも……」
「でも、じゃない。ほら、ついてきて」
そう言うと、南渕先輩は雨に向かって勢いよく走りだした。困惑する暇もなく、俺も南渕先輩の後を追うようにして走り出した。十月の雨は、体温を奪うのに十分な冷たさだ。それでも、それに抗うようにメタリックシルバーの南渕先輩の車へと向かって走った。
南渕先輩に部屋の住所を教えて、車は県道を走っていく。途中で国道にぶつかり、赤信号に止まる。スクランブル交差点を、我が物顔で行き交う人々。一人一人の顔が、わりによく見える。
「弓木君ってさ、いつも家に帰った後、何してんの?」
エンジンの音だけが響く車内。南渕先輩の唐突な質問が刺さる。
「そうですね……。コンビニでご飯買って食べたり、テレビ見たり動画見たりしてます」
「また、コンビニなんだ」
「また」という言葉が、責めるように聞こえる。また、コンビニ。また、テレビ。また、自慰。また、生きているか死んでいるかも分からない時間を過ごすだろう。このまま家に帰ったならば。
「これから家に来られる?」
南渕先輩のその言葉は突拍子もなく、全く予想していなかったので、俺はしどろもどろになった。歩行者信号は点滅を始めて、中年が駆け足で車の前を横切っていく。
「は、はい……。時間的には大丈夫だと思います」
口から出た言葉に南渕先輩は素早く反応した。振り向いて、ニコッと笑ってみせる。その笑顔は和やかだったけれど、既製品のようでもあった。冬に向かっている今の季節よりも温度のないその表情に、心臓が縮こまり血の気が引くような思いが、ほんの一瞬した。
車が左折する。俺の部屋に行くには右折しなければならないので、どうやら本当に南渕先輩の家に向かっているらしい。俺なんかよりもずっと価値のある家に向かって、車は雨の中を走っていく。コンソールに置かれたコーヒー缶の飲み口に、煙草の灰が付着していた。
二、さよなら空白地帯
オレンジ色の照明がテーブルを照らす。ダイニングはさっぱりしていて、余計なものがない。フラットな椅子に座る俺の前には、ペペロンチーノが置かれていた。南渕先輩の妻の小絵(さえ)さんは「急に言われても、簡単なものしか作れないよ」と言っていたが、その言葉通りのシンプルな夕食だった。
南渕先輩と小絵さんは、駅前にできたカフェの話題で談笑している。小絵さんの薬指に銀色の指輪が光る。小絵さんは背がスラリと伸びていて姿勢もよく、顔立ちも雑誌のモデルのように端麗だ。まさに完璧な美男美女といった組み合わせ。人間はやはり収まるところに収まるのだ。
「弓木さん、どうしたんですか。どうぞ召しあがってください」
呆然としているところに、視線に気づいた小絵さんが声をかけてきて、現実に引き戻される。「あっ、はい、いただきます」と言って口に運んだペペロンチーノは、絶妙な塩加減で、パスタも柔らかすぎず、鷹の爪の辛さがいいアクセントになっていた。すぐに二口目、三口目と食べ進める。
「とても美味しいです。レストランで出されていてもおかしくないくらいです」
「そうだろ。小絵ちゃんの作る料理はプロにも負けてないからな。俺はこれを毎日食えるんだぜ。どうだ。羨ましいだろ」
小絵さんは「ちょっと、トモくん言いすぎだってば」と、南渕先輩の肩を軽く叩いていた。満更でもない様子だ。俺は、そんな二人を見て「羨ましいです」とだけ返す。自分とは違う別世界の住人のように感じられて、嫉妬も敗北感も一切出てこなかった。
「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」
「はい、そうします」
小絵さんが洗い物を終え、「じゃあ私お風呂入ってくる」と言って、バスルームに向かっていったのは、二十一時を過ぎてのことだった。一人になった部屋で俺はスマホを見ながら、妄想を働かせる。小絵さんがシャワーを浴びるところや、湯船に浸かるところを想像すると、気分が高揚した。
「弓木君、今エロいこと考えてたでしょ」
気づいたら横に立っていた南渕先輩が茶化す。「そ、そんなことないですよ」と慌てて誤魔化すが、南渕先輩は笑って看過し、「まぁ小絵ちゃん可愛いからな」と咎める様子もなく流してくれた。
「そうだ、ちょっと来てくれない?」
緩まりかけた心が一気にまた引き締められ、警戒を取り戻す。何か良からぬことをされるのではないか。そう直感したが、断るに足る理由が見つからなかったので、言われた通りにソファから立ち上がり、南渕先輩についていった。
リビングから出て、玄関へ向かう廊下の途中、左側にあった部屋に、南渕先輩は入る。きちんと整頓されていたリビングとは違い、脱ぎ捨てられたジャージが床に転がっている。点けられた照明も部屋中に行き渡ることはない。
南渕先輩は、正面にある棚の一段目を開けて、細長いガラスケースを手に取った。筒状になっていて、銀色の蓋が目を引くそれは、俺が初めて見る物体だった。南渕先輩曰くアトマイザーといって、香水を入れるために使うらしい。俺には、縁のない代物である。
さらに、南渕先輩は同じ段からストローを二本取り出した。そのうち一本を俺に向けて、投げかける。慌ててキャッチすると、ストローはプラスチック製ではなく、しっかりとした質感を持ったガラスのストローだった。ひんやりと冷たい。
次に南渕先輩が開けた二段目の引き出しには、クリップやシールなどがごちゃ混ぜになっていた。その中から南渕先輩が取り出したのはライターだった。コンビニで買うような百円ライターだ。ポケットにしまう仕草を含めて、この日、俺は一番南渕先輩を身近に感じた。
最後に取り出されたのは、小さな閉じ口付きのポリ袋。中には真白の粉末が入っている。
「南渕先輩。それって……」
「ああこれ。憂さ晴らしだよ」
そう言うと、南渕先輩は粉末をアトマイザーに注いだ。粉末はきめ細かく、まるで白い砂浜のようだった。ポケットから百円ライターを取り出し、点火スイッチに親指が当たる。カチッという音とともに、オレンジの火が灯る。南渕先輩はそれをアトマイザーの下に持っていった。アトマイザーの底で粉末がじっと溶け始めていた。
南渕先輩はガラスのストローを口にくわえ、頬と喉を動かす。気化された煙は透明だったが、ストローの先端に集まっていくことが、俺には何となくだが分かった。ガラスのストローを高揚が上っていく度に、南渕先輩の顔面は喜色が強まっていく。誘拐犯が人質に銃を突きつけるような、実に不敵な笑みだった。
「南渕先輩、何やってるんですか」
「だから、憂さ晴らしだって。気晴らし、皴伸ばし、レクリエーション。エブリシンガナビーオーライだよ」
「なんで英語なんですか。それに、こんなことやってたらダメなんじゃ」
「じゃあ、弓木君は会社でストレス感じないの? この仕事上手くいかねぇなーとか、あいつうぜぇなーとか。これやれば、そんなこと忘れられるよ。フィールズライクヘブンだから、これ」
「でも、奥さんにバレたら……」
「大丈夫大丈夫。小絵もやってるから。あいつも風呂から上がった後、いつもやってるから。でも、今日は小絵に先んじて、弓木君にこうやって勧めてるわけじゃない。ね、やるよね?」
俺は、ガラスのストローを握り締める。いくら力を込めても割れないくらいには頑丈だ。
「で、でも……」
「やるよね? なぁ弓木?」
先程まで笑っていた南渕先輩の顔が急に強張り、眉間に皴が寄る。俺たちの距離はそれほど近くなかったが、南渕先輩が眼前にいるように感じられた。
「はい、やります」と伝える。南渕先輩は一転して上機嫌に戻り、机に向かっていて、また新しいアトマイザーとポリ袋を取り出した。アトマイザーは三つあり、一つには「サエ」と書かれた白いシールが貼られていた。
新たに粉末がアトマイザーに開けられる。南渕先輩が下からライターを当てると、粉末は再び泡立っていく。南渕先輩の真似をして、俺もガラスのストローを内容物に向けた。恍惚する南渕先輩の横で、俺は始めの方は息を止めて、煙を吸わないようにしていた。だが、頭の片隅から好奇心は広がりを見せていく。その快感を知りたいという欲求は、とめどなく溢れてくる。気づけば口を開けて、煙を吸い込んでしまっていた。
学生のときの薬物防止教育で聞いたことがある。薬物を使用すると脳がパッと晴れて、自分には何でもできると、万能感が湧いてくると。俺は吸うときに、明日の仕事のことも、やかましい同僚のことも忘れることを期待した。
だが、現実は期待を越えてはくれなかった。頭の奥が少しツンとする感覚はしたが、全く大したことはない。気分も少しは高揚したが、罪悪感の方がまだ勝っている。正直こんなものかという感じだ。何が、エブリシングガナビーオーライだ。
「どう、弓木君? 気持ちいい?」
そう聞いてくる南渕先輩の声は弾んでいる。軽妙な声色はシャボン玉のように脆い。だから、壊さないようにするためには、「はい、最高です」と言う他ない。
本意に反していたとしても、すぐに見透かされるようなぎこちない笑顔でも、しゃにむに演じるしかない。今の俺はちゃんと笑えているのだろうか。それでも、南渕先輩は満足気に頷いたので、何とかこの場はやり過ごせたらしかった。
「よかったら、これからもたまに家に遊びに来なよ。歓迎するからさ」
あやふやに頷く。何もなくなったアトマイザーの底が、一瞬照明を反射して光り、今日は浴びることができなかった日光を思い起こさせた。
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以上で試し読み分は終了となります。いかがでしたでしょうか。
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さらに、他にも3冊を頒布予定ですので、もし気になったのであれば、エー17『胡麻ドレッシングは裏切らない』までお越しいただけると嬉しいです。
何卒よろしくお願いします。
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