私が高橋久美子さんを最初に知ったのはチャットモンチーのベストアルバムを借りてからだ。私がチャットモンチーを知った2013年4月、高橋さんは既にチャットモンチーを脱退していた。橋本絵莉子さんの子供と同じように、私も高橋さんのいた、三人の頃のチャットモンチーを知らない。 それどころか、今よりもずっとずっと無知だった私はベストアルバムのライナーノーツの「高橋久美子が卒業した」という文字を見てもしばらくは、チャットモンチーは橋本絵莉子、福岡晃子、高橋久美子の3人で構成されたバンドだと、そうであると信じていたのだ。まったく恥ずかしい話である。



 それから時間が少し経ちチャットモンチーが二人組のバンドであると分かってきたことと時を同じくして、高橋さんが作家・作詞家として活動していることを私は知った。今どういったことをしているのだろうと気になったことはあったが、実際それまでだった。その頃の私は文章を読むことなど眼中になく、次から次へと現れ出るロックンロールバンドの数々に夢中になっていた。「ヒトノユメ」展にも行かず、エッセイが乗った雑誌も手に取ることはなく、「思いつつ、嘆きつつ、走りつつ、」という本が出ていたことなど知る由もなかった。「ヒトノユメ」展が私の地元である長野でも開催されていたことも「いっぴき」を読んで初めて知ったぐらいだ。あの頃知っていたら実家の帰省の際に行ったのに。長野と上田は高速道路を通れば30分もかからない。新幹線なら8分だ。そんな近いところで憧れの人による展覧会が開催されていたなんて。



 そんな作家としての高橋さんの顔を知らない私にとって、高橋さんの姿を見つけることができたのは高橋さんが作詞したチャットモンチーの曲の中だけだった。「ハナノユメ」「シャングリラ」「風吹けば恋」。どの歌詞もとても魅力的だった。カラオケ、練習室、ライブハウス。いたる所で高橋さんの歌詞は歌われていた。そのたびに私は「やっぱり高橋さんの書いた歌詞っていいなあ」と10歳くらい退行したかのような感想を抱いた。もちろん橋本さんと福岡さんのとても歌詞もよかったのだけれど、高橋さんの書く歌詞はなんというか身近な感じがしてそこがたまらなく好きだったんだと思う。







 いつものように安く音質がいいとは決して言えないイヤホンでチャットモンチーを聴いていた去年の11月24日。それは起こった。橋本さんと福岡さんの二人が「チャットモンチーを来年の7月で完結させる」と発表したのだ。ショックだった。「最近チャットアルバム出してないよなーそろそろ出てもいいよなー」と感じていた矢先の出来事。当時SNSでも大騒ぎになったのを覚えている。チェックマークのついた業界の人から名前も知らないアニメのキャラクターをアイコンにした人、自撮り写真の人や原色を背景にした楕円の卵たちが次々とチャットモンチーに対する思いを露わにしていた。そしてその中に高橋さんもいた。文言は覚えていないが「二人の決断を応援したい」的な感じだったと思う。私は高橋さんのアカウントをフォローした。3万7千何人目かのフォロワーだ。





 そしてフォローして幾日か経ったとき私は高橋さんが6月に本を出すことを知る。「いっぴき」というタイトルの力いっぱいにジャンプするムササビが表紙に書かれた本。福岡さんの帯コメントと橋本さんの解説が載った本。チャットモンチーがラストアルバムをリリースする6月に出版される(タイミングが出来すぎだ)本。「買うしかないな」と直感的に思った。ちょうど私が本を読み始めた頃というのもあり高橋さんがどんな文章を書いているのか俄然興味が出てきたからというのもある。まあともかくも私は「いっぴき」を買った。そして仕事終わりの空いた時間を利用して少しずつ読み進めていった。








 読んでみて、そこには難しい言葉など何一つなかった。日常的にありふれたような言葉でできた見事な文章が346ページに渡って綴られていた。地球の自転の理由とかパブロフの犬とかじゃなくて、本当に私たちが日頃発するような何気ない言葉たちが、前ならえをして長短さまざまな列を作っていた。
 

 前ならえというと、ピシッと一直線になった、低いところから高いところへグラデーションになっていく列を想像するかもしれないがそれとはまた少し違う。少し横にずれたやつ。前のやつより身長が低くて必死につま先立ちをしているやつ。やる気満々なやつがいればそうでないやつもいる。体育大学のような厳しい前ならえとは似ても似つかない、でこぼこの前ならえ。でも、そんなでこぼこがたまらなく愛おしい。みんながみんな違う「いっぴき」。きっと人はそれを「個性」と呼ぶのだろう。『いっぴき』は作家・高橋久美子さんの一面性ではない様々な個性が詰まった本だと言えるのかもしれないとそう思った。






 『いっぴき』の中で私が印象的に思ったのは、まず「自然」の描写が多いこと。緑になった桜の木。プランターの中の家庭菜園。愛媛の葡萄畑。そして3.11。他にも自然に対する描写は驚くほど多い。そして、高橋さんのきめ細やかな筆致がその時々の風景を浮かび上がらせる。行ったこともなければ見たこともない風景なのに(あ、緑になった桜の木はあるか)、それを私たちも元々知っていたんじゃないかと錯覚させるほどにリアルで爽やか。



 人間は自然から来ている。どれだけ科学が発達して「ドラえもん」に描かれる22世紀のような世界が実現したとしても、それだけは確かで、なんだかんだで人間には母なる自然を求める心がどこかにあるんじゃないかと思う。『いっぴき』に書かれている「自然」はそんな私たちの基本的欲求を少し満たしてくれる。だから読後感がこんなにも気持ちいいんじゃないかなあ。デトックスデトックス。








 また、『いっぴき』では高橋さんが、数えてないけど5分の1ぐらいは、どっかに旅している。フィレンツェやラトビアといった海外から新潟や南予といった国内まで実に色んな所に。観光名所を巡って名物料理を食べて、といういかにもな「旅行」もあるにはあるんだけれどそれは少数。むしろネットに頼らず、自分の目と耳と口を使って、その地域の人たちの「日常」に触れる、そんな「旅」が『いっぴき』には多く描かれている。


 その人の住む地域によって「日常」は姿を変える。日本ではご飯を食べるときにお箸を使うけれど、欧米ではナイフとフォーク、インドでは直接手を使って食べる。しきたりも信じる神様も全然、もう予想だにしないくらい違う。それらは何ら意識しないまま勝手に「日常」に変換され、その「日常」の集まりが「文化」を形作るんだと思う。つまり「文化」に触れるということは、そこに住む人々の「日常」に触れるということなのだ。


 『いっぴき』で高橋さんはこうした「違った日常」に触れに触れまくっている。クロアチアの家庭に泊まり、地元の人しか知らないような南予の酒蔵に行く。私たちがしたくても勇気が出ずにウジウジしてできないことを、高橋さんは平気(じゃないのかもしれないけど)でやってのける。その羨ましさたるや。本当にいい「旅」をしているなあ、って心の底から思う。でも不思議と妬みはない。それは文章から高橋さんが、大変なこともあるけれどそれも含めて、楽しそうにしている姿が伝わってくるから。「いいなあ。行ってみたいなあ」と思わせるとても優れた旅の日記。『いっぴき』にはそういう一面もあるのだ。





 『いっぴき』というタイトルは高橋さんがチャットモンチーも事務所も離れフリーになった自らに対してつけたものだ。『いっぴき』という言葉の響きからは、孤独という暗いイメージがどうしてもつきまとう。でも、読んでいくうちにその「いっぴき」のイメージがどんどんと覆されていく。それは、高橋さんが人とのつながりを大切にしているからだと私は感じた。



 人間というのは誰しもが「いっぴき」だ。他に変わりはいないという意味での「いっぴき」。いくらよく似た双子だろうと、それぞれ別の遺伝子を持っている。もしも「いっぴき」じゃなくなるときが来るとするならば、それはヒト用クローン技術が完成の目を見たときだろう。倫理観の問題で当分実現しそうにはないが。

 
 そしてやっぱり、人は一人で「いっぴき」で生きていくことは出来ない。一人で何でもできるスーパーマンなどフィクションの世界にしか存在しないのだ。私たちはスーパーマンではない。長所も短所もある「いっぴき」だ。現実はそんな「いっぴき」同士がジグソーパズルのように互いに足りない部分を埋め合って生きている。


 「一人になったはずなのに私は一人じゃなかった。私を必要としてくれる誰かが必ず待ってくれた。」
(お仕事)


 なんて暖かいんだろうか。人は完全なる「いっぴき」になることはやっぱり不可能だよなあ。うんうん。


 現代はSNSの隆盛で、現実での人と人との結びつきが希薄になっているとよく言われている。何年も前から隣に住んでいる人の名前を知らない時代だ。


 そんな時代だからこそ、現実での人と人とのつながりを大切にしている高橋さんの姿勢は深く胸に突き刺さる。私はこの本を「自分は友達がいない」だとか「自分には価値がない」と思っている人に読んでほしいと思う。この本を読んで人と人のつながりがたまらなく愛おしいということを感じてほしい。


 別に友達が多いから偉いわけでも何でもない。昨今のなんでもかんでも「絆」を求める風潮は私も正直どうかと思う。でも、たとえ使い古された言葉でも「あなたは一人じゃないよ」ということを知ってほしいのだ。「人に必要とされていない自分に価値がない」とは思わないでほしい。価値のない人なんていない。価値の種類が違うだけだ。あなたにも私にも生きる価値はある。きっと。『いっぴき』を読んで柄にもなくそんなことを考えたりした6月の夜だった。


 







 『いっぴき』のなかで、どの章も好きだけれど、特に私が好きな章がある。それが「バイバイフェチ」という章だ。
 

 高橋さんは人の別れ際を見るのが好きなのだという。バイバイは「人の生々しさの出る場所」であり、「それぞれの性格が見えるから面白い」、らしい。私はそんな感情を持って、人の別れ際を見たことがないのでビックリした。世の中にはいろんな人がいるもんだなあ。でも言われてみればそんな気もする。「元気でね。ありがとう。バイバイ」に込められた感情。それは10人いれば10通り、100人いれば100通りの感情がある。その感情を想像してみると...。確かにこれは面白い。他人の感情というのは自分の想像が及ばない領域だ。いわば広大な余白。その余白に思いのままに画を描いていく。自分の好きなようにできるのだ。これはなんて楽しいことなのだろう。「バイバイフェチ」はそんな新しい気づきを私にくれた。


 そして、「バイバイフェチ」にはバイバイは「バイバイとともにやってくる新しい自分」と向き合い、「たった一人の自分に戻って、大きく深呼吸をし、胸を張ってスッと歩き出す」ためのものだとある。私がまだチャットモンチーを知らなかったあの日、高橋さんはどんな顔をして、どんな言葉で、二人にバイバイを告げたのだろうか。たぶん笑顔だったんだろうなあ、最後の瞬間は、3人とも。そして来月、その二人はどんな顔をして、どんな言葉で私たちにバイバイを言ってくれるのだろうか。泣いてる姿は見たくないよなあ。やり切ったっていう達成感に満ち満ちた顔でいてほしいな。そんなことを思わずにはいられなかった。










 いろいろ、本当にいろいろなことを考えながら、今日、『いっぴき』を読み終わった。私は月面に立っているような感覚を味わった。つまりとても体が軽くなったと感じたのだ。体だけでなく心もそうだった。万能感。今ならスパイダーマンよりも身軽にビル街を闊歩できて、ハルクとの腕相撲にだって勝てる。そんな根拠のない自信が私の心を満たした。


どんな山だって、どんな傷だって、越えられる気がする。今、超無敵。


 私は本来後ろ向きな人間ではあるが、こんな前向きな気持ちになったのも、高橋さんの紡ぐ言葉のマジックのおかげだよなあ。私はこの世に2人とない「いっぴき」。でも「いっぴきじゃない」。胸を張って歩ける。前を見て歩ける。それがとても幸せなことなんだよなあ。こんな若輩者の私に生きる勇気を与えてくれて、ありがとうございます。『いっぴき』に出会えてよかった。










 そんなことを考えながら、読み進めていた終盤、「音楽2」の最終段落。


「人間は必ず前に進まなければいけないことになっている。歌詞でも何でも『新しい未来』とか『前に進もう』とか歌いがちだけれど、それだけが正解ではないのではないか。一瞬の燃えるような情熱を胸に秘めて生きていくだけでよしにしてくれないか。」


 バールのようなもの(実際には純然としたバールらしいが)で頭を殴られたような衝撃を感じた。あなたがそれを言うか、と。私に前を向かせてくれたあなたが。


 でも、これは高橋さんが36年生きてきてたどり着いた一つの答えなんだとも感じた。バンドでも作家でも前を向いて進み続けた、けど「いつも同じ場所にいた」高橋さんなりの。


 24歳の私は今はまだ前に進むのが絶対的な善だと考えている。「過去の中にこそ、新鮮な未来が見える瞬間があるのだ」という境地には至っていない。私にとって何もしていない過去は振り返りたくもないものだけれど、いつかそう思えるようになる日が来るのだろうか。干支をもう一周したときが楽しみである。その時、その瞬間もチャットモンチーを聴きながら、高橋さんの書いた文章や歌詞を読んでいたい。そう強く願った。
 



おしまい




いっぴき (ちくま文庫)
高橋 久美子
筑摩書房
2018-06-08